プロローグ「詩句」
絶対暗黒の闇
以下の法の言葉から、あなたの中にいかなる価値観も生まれてはならない。
当然の事として、いかなる組織的な価値観も生まれてはならない。
悟りは、個人たったひとりを、
その個人が抜けられなくなった狂気から助け出すための最後の道である。
だから、それは正しい道なのでもなく、
すごいものでもなく、役に立つのでもなく、それで世界がどうなるのでもない。
それはたったひとり、あなたが楽になればいいのだ。
まったく、それは個人、ただひとりのためのものだ。
・・・・・・・・・
悟りの体験そのものへの執着や
世間と悟りの関係云々、
悟りの未来への意義、価値についての云々、
悟りと迷いの区別云々、
こうした本質的には『再発する迷い』の部類に入るようなあらゆる同一化を
絶対の闇を観想する事によって切り落とせ。
わたしは非常にエゴイスティックに聞こえる言い方をあえてする。
『私ただ一人が、楽ならばいい』
世間も世界も配慮することなく、私ただ一人が楽であればいい。
これが悟りの本当の姿だ。
なぜならば、
ただ自分一人が楽であり続ける事だけが、本当に誰かの役に立てる。
それは全く役立とうとしないが故の助けとなる。
なぜならば、「誰かの役に立つ、助ける」などという思いそのものが、
そもそも迷いだからだ。それは全く、余計な思考なのだ。
同様に、TAOや禅やブッダが世界に役に立つなどというのも
まったくもってして、幻想だ。
この幻想に、陥った人達を見るがいい。
組織宗教ばかりか、瞑想センター、禅寺、なにもかもすべてだ。
彼らは「悟ることがいい」「助けることがいい」「役にたつことがいい」
になってしまった。「あるがままがいい」「無心がいい」と・・。
しかし、本当の悟りには
『いいもの』などというものは、全く何もありはしない。
そんなことをしたら必ず分別の思考が『悪いもの』を生み出すからだ。
だから、無知だけが救いになる。
無頓着だ。無慈悲、無明、無名、無価値、無力が私の光明の原則だ。
あなたが『2度生まれ』すべき、その子宮は、
ただひとつ・・
完全な無だ。
完全な無意味の闇。
絶対的な不毛の世界だ。
それが故に、もしも闇をあなたの対面する家となせば、
誰も、どんな体系もどんな価値観も
あなたの意識に、余計な上塗りをすることは不可能となる。
何を塗られても、闇の前では『無』だ。
あなたに付加された、あらゆるものが、しばらくすれば剥がれ落ちてゆく。
それは最終的には悟りさえも飲み込んで無にするものだ。
だから、あなたの導師は生涯ただ一人、
何もない闇だけだ。
この闇に親しみなさい。
本当の導師はこの闇だけだ。
いつの時代の、どこの宇宙でも
『導師グルの導師グル』はいつでもそうだったのだから。
誰かや何かを導師とせず、
闇なら万人の導師だ。
あらゆる次元、動物、植物も含めて、万物のグルだ。
だから、形式的な寺としては死んでしまったにもかかわらず
『禅の法脈だけ』は、現代にまで生き延びた。
それはすべて瞑想者、座禅者が対面し続けた無の闇のおかげだ。
悟るたびに、つまり一瞥するたびに、酔いは冷まされ、
繰り返し繰り返し闇にほうり込まれて、その無意味を深めるべきだ。
そうやって、本当に悟りは悟りであり続ける。
そうしなければ、いつの日か、悟りでさえも『宗教』になってしまう。
論理になってしまう。技術になってしまう。道になってしまう。
『なんでもないもの』を何かにしてはいけない。
『なんでもないもの』は『なんでもないもののまま』だ。
本当は何があなたを楽にするのか?。
本当はどこが、一番楽なのか???。
それは闇である。
世界、宇宙、価値、
そんな一切が一掃されたほうが、
清々するのだ。
本当のあなたの住み家は
完全な『闇』だ。完全な無だ。完全な死だ。
何度も私は門下たちに語ってきた。
ただ『いる』という悟りの、その次のステップはもう最後だ。
ただ『いる存在性』までは語れる。方法もある。道もある。
世間とのかかわりもある。
それはただの無垢な存在だけだ。
人畜無害で時に奇抜な生の散歩だ。
だが、そのあとはただ『いない』という次元だ。
これは、もはや次元ですらない。
闇、闇、闇、闇・・・・・。
悟りもない。まったくの無。
絶対の無。
ただの無。
論理不要、
瞑想不要、
悟り不要、
全部まとめてお払い箱だ。
あなたも、
存在も、
宇宙そのものが、
お払い箱だ。
絶対無限の、無限無
無
無
無
無
∞
最低の人間とは、すなわち、最高の人間である 。
廃墟のブッダたち
他人から馬鹿にされるのは大いに結構な事だ。
だが、他人を馬鹿にするような者にだけはならないことだ。
他人から誉められるのも、大いに結構な事だ。
だが、他人を誉めるような者にだけはならないことだ。
この世界に、他人を誉めたり馬鹿にする者以上の愚か者は存在しない。
ここで言う他人とは、実際の他人ばかりでなく、
他者すべて、現象すべてである。
それゆえにイデオロギー、導師、TAOに至るまで、一切のものを
あなたは馬鹿にすることはおろか、誉めてさえもならない。
次に、他人から馬鹿にされたり、
誉められたりすることは結構だと言ったものの、真実の在り方としては、
あなたは全く他人からよくも悪くも評価されない
論外者となるのが、最も道に適っている。
なぜならば、あなたが他人から称賛された場合は
あなたは他人の思考の中に誤解を作り出してしまった事を意味する。
次にあなたが他人から罵倒、軽蔑、嫌悪される時にも
あなたは他人の思考の中に誤解を作り出してしまった事を意味する。
ただし、あなたが真実の在り方であれば、
あなたは他人の中に、いかなる理解も誤解も生み出さないだろう。
だが、あなたが、全く人畜無害に静かに生きてゆく中で
それでもなお他人たちから勝手に生まれる誤解については放っておくがいい。
その時だけ、あなたは道を体現した者となる。
あなたは他人に、静寂と、安心と沈黙だけをもたらすからだ。
その時には、あなたは他人に決して理解をもたらさない。
他人を巧みに理解などさせる者とは、つまるところ、
他人を一歩も変容させずに彼らの「共感という娯楽の一部」になるだけだ。
だから、あなたは教師にはなり得ないし、なってはならない。
また、その時には、あなたは他人に誤解をも、もたらさない。
他人から誤解される者は、つまるところ、
これまた他人を一歩も変容させずに
彼らの「闘争という娯楽の一部」になるだけだ。
だから、あなたは戦士にもなりえないし、なってはならない。
あなたは真実を体現した時、いにしえの者のように
天にも地にもただ一人の、偉大なる何でもない存在となるが、
同時に、あなたは、あなたの周りの者たちが
それぞれにそのようになるための振る舞いを無心のままなすだろう。
それぞれが何でもない存在になるとき、
誰も何者でもなく、ただ存在する者はそれぞれが次のように宣言するだろう。
『これのみ、偉大なり』
そして、他人を見るときにはこう言うだろう
『汝、また、これなり』
『これ』とはあなたではない。
『これ』とは創造主でもないし宇宙意識でもない。
『これ』とは全体でも、部分でもない。
『これ』とは、まったく、なんでもない、ただの存在性だ。
『これ』とは別名を意識と呼ぶこともある。
だが、それは意識的ということではない。
何かに対して意識的なのではないし
自己想起の努力による産物でもない。
それは何かを見ているのでも、意識しているのでもない。
『それ』は存在性そのものだ。
ただし、それはあなたの感覚や存在感の意識ではない。
存在そのものだ。
あなたの存在意識すら感じない、ただの存在性だ。
だからと言ってそこに全体意識や宇宙意識が在るのではない。
あなたでもなく、宇宙でもなく、全くなんでもない
ただの存在性だけがある。
あまりにも当たり前
あまりにも単純、
あまりにも簡単、
あまりにも明確かつ不明なものだ。
そのあまりの原点ゆえに、
『それ』の実体は
当たり前さが、あまりにも度を越したものであるために、
理解と誤解を完全に越えたものである。
即ち、あなたが、理解したり誤解したりする以前に
それはすでにあなたにおいて、存在するものだ。
『それ』は想像を絶して難解なのではない。
あなたが想像そのものを絶する事が必要なのだ。
それは想像を絶してこそ、体験されるが、
もはや理解されるような内容は何もそこにはない。
それはただ、体験される。
ただ、体験され続ける。
『ただ』である。
すなわち、論理化、確認、自覚、理解、
比較、検証、評価、批判は一切不可能だ。
なぜならば『それ』は
そうした比較検討の思考があなたによって開始される前の
それら以前のあなたのことだからだ。
万象や思考を生み出している元の意識について
生み出された側の万象から歩み寄る事は不可能だ。
実際、そこには歩み寄るなどという距離さえも存在し得ない。
だから、あなたの意識が、
ただの一歩も動かなければ、『それ』は実現される。
目は目を見ることは出来ない。
目は目で『在る』だけだ。
いわんや、見られた方の映像がどうして目を見ることが出来るというのか?。
従って、生み出された側にいるあなたの思考が
生み出した元の意識を認識したり、
理解しようとしたところで、そんな事は絶対的に不可能だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『これ』または『それ』または意識への回帰は、
あなたの無為の深まりに比例するのであって、
あなたの探求や好奇心によるのではない。
まず、誰よりも無能でありなさい。
誰よりも無知でありなさい。
誰よりも無力でありなさい。
誰よりも無慈悲でありなさい。
誰よりも無礼でありなさい。
誰よりも無気力でありなさい。
誰よりも無頓着でありなさい。
誰よりも無執着でありなさい。
誰よりも、あたかも
存在していないかのように、虚ろでありなさい。
こうして誰よりも、その存在状態において、
最低を目指しなさい。
あまりにも最低であるということは、
それ以下の最低が存在しない根底にあなたを連れて行く。
世の中で、最も最低と呼ばれることは、
死ぬ事だ。
あるいは死んだような生だ。
しかし悪事を働く犯罪者は最低ではない。
なぜならば、彼らは他人にとって最悪でも、
彼ら本人にとっては最良の事をしているからだ。
しかし本当の最も最低の人間とは、
他人にも自分にも、何もなさない死人のような存在だ。
それゆえに、そうした者だけが、
あらゆる状況の瞬間の中で、ただの存在として留まる。
むろん、自分の死に際しても、そして世界の死に際してもである。
その者は世界と宇宙のすべての外側の闇を故郷とする無名の非人となる。
『これ』にいる者には、導師は存在しない。
『それ』にいる者には、弟子も存在しない。
意識体で在る者は、ただいる。
ときおり、その者が知り合うのは、
旅なき道、すなわち『我家』で知り合う
少数の知り合い、もしくは友だけである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼らは幸福ではない。
なぜならば、彼らは不幸ではないからだ。
彼らは悟ってもいない。
なぜならば、彼らは迷っていないからだ。
たったひとつの彼らの特徴は
落ち着いている事だけだ。
彼らは優雅だ。彼らはすべてが遅い。
彼らは緩んでいる。ゆったりとしている。弱々しく、かよわい。
およそ生に関する限り、彼らは生きていないかのようだ。
だが、一旦彼らが語り、動き、為す時には、
生死などというたわごとを、
根底から無視した境地から動くが故に、
彼らの肉体に損傷を与えるか殺す以外に、その動きを止める手だてはない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いにしえの導師は弟子が質問した場合にこう言って質問を止めさせるだろう。
「私はお前を引き上げるためにいるのであって、
お前が私を引き下げるためにいるのではない」
だが、新たなる導師はこう言うだろう
『存分に私を引き降ろすがいい。ただし、
私はお前よりも遥かに低い地獄に落ちることが出来るという事を忘れるな。
その時は、お前は自分の質問によって、私と共に、奈落に落ちるのだ。』
故に、最低こそが、無敵の頂点である。
頂点は必ず崩れる。
だが、底辺は崩れることがない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『それ』の真実を実現した彼らは
全く恐れを知らない。
だが、恐れを知らないほど強いのではない。
単に恐れを知らないほど無知なのである。
決して彼らは強いのではない。
それ以上の弱さなど在り得ないほど無力であるが故に、
一切の力に対する所有を放棄しており、
それゆえに、彼らはいかなる状況でも、ただ『いる』存在性である。
彼らには自信などは全くない。瞑想や禅の熟練者でもない。力もない。
まったく何もないからこそ、彼らは平然としている。
ほんのかけらでも、力や自信を持てば、あるいは持とうとすれば、
それは必ず他人のそれとの比較や競争の元となるからだ。
彼らは何も他人と比べない。
比べることをしない者に、競う相手などいるはずもない。
だから、彼らは落ち着いて、ただいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その彼らとは、すなわち、あなたのことだ。
あなたの本性、あなたの中心、あなたの本源
あなたのわが家、あなたの意識、あなたの虚空
あなたの無垢、あなたの無、あなたの闇
あなたの死、あなたなどいない、ただ者
人ですらなく、ただのそれ、ただのこれ、ただいること
存在性、存在そのもの、
ただ在る、ただ消える、ただ、あなたが
我家にたどり着いて『Ah・・』と声をもらす
その、直前のそこ。
そこに一切の苦悩はない。そこに一切の苦楽はない。
そこに一切の何物もない。そこにたどり着いた時、あなたが、やるとしたら、
たった二つだ。子供、あるいは老人のように、にっこり微笑するか笑うかだ。
そして、それは、今、ここで、
今、あなたのそこでしか、起こりようがない。
一秒後でも駄目だ。一秒前でも駄目だ。
たった今、そこで起きるのだ。
ほら、何をしている、今だ。ほら、またあなたは逃した。
一体いつまで逃し続けるのか?。
あなたが追うからそういう事になる。
あなたが待つからそういうことになる。
あなたが見ようとするからそういう事になる。
あなたが感じようとするからそういうことになる。
あなたがなろうとするからそういう事になる。
あなたがやろうとするからそういう事になる。
では、どうしたらいいのか?とあなたは私に問うが、
何故、そう問うのかね?。
答えを言ったら、あなたはその答えを使って、
またもや、あなたが為そうとするだろう。
だから、私は答えを与えない。
ただ、あなたが、問いと探求を一切やめるのを待つだけだ。
その、やめるということすら、やってはならない。
それはただ止むのだ。
「両手をたたけば音が出る。なら、片手ならどうだ」と
問いをしかけた禅者が日本にいた。
彼は西洋人が「ピンと来た」ときに
指で何をするか知らなかったようだ。
だが、もっと優れた和尚がいた。
彼は「では指一本なら、どうやって鳴らすか?。その音はどんな音だ?」
と無言で問いを出していた。
彼は生涯、何を聞かれても、ただ指を一本立てるだけだったと言う。
それは、かつて、いにしえの者が
生まれたばかりの時に天を指さした、その印のそれだ。
あなたに、その誕生が訪れる事を、我々は、望むことなく、祈願することなく、
ただ、深く祈るだけである。
あなたの、内なる、
あるいは、外なる
内でも外でも、どこでもない、
何物でもない
『それ』に向かって、
我々は深く礼拝する。
・・・・1993 3/23・・・・・EO
死への格言
生きていてよかっただの、
生まれて来てよかっただのと、思わせる幸せなどには、
ロクなものはない。
それゆえに、
「もうこの場で死んでもいい」と思わせる幸福のみを求めよ。
なぜならば、
生への感謝は執着のみを生むが、
死への受容は執着からの離脱を生むからである。
希望に満ちた人生は、絶望に満ちた人生よりもはるかに始末が悪い。
なぜならば、絶望は、本当の謙虚や愛を生むが、
希望は闘争と憎しみと傲慢しか生み出さないからだ。
死は説き明かされるべきものではなく、
直に立ち会うべき現象である。
ある時、私は感じた。
死にゆく本人にとっても死は悲しくない。
死そのものは、苦しみでもない。
悲しみも苦しみも、本当はそこには存在しない。
そこにただひとつあるとしたら、心の死だけである。
死の間際、
人はこの世界で最も美しいものに出会ってゆく。
それは本当の謙虚、愛、解放、自由である。
もしもそこに何かへの執着さえなければ、それは苦でも悲しみでもなく、
この世の最も美しい、高尚な瞬間、または永遠である。
心残りが本当に真実、何もなく消えて
死ぬことのできる人間の経験する死だけが本当の幸福の極限だと私は切実に思う。
もしも隣人や本人の死が悲しいとしたら、
それはそこに執着がある場合だけである。
もしも安らぎの中で思い残しのないまま死へ落ちてゆくならば、そして、
何よりも、それが身体だけでなく、
心そのものに起きるならば、そこにだけ人の『すべて』がある。
私達は、この死の・・・この死ぬ瞬間の為だけに生まれて来たに違いない。
死ほど大きく、死ほど美しく、死ほどのありのままの真実は、他にはなにもない。
我々は自分の『部分』が失われることにはさほど抵抗はないかもしれない。
だが、『自分そのもの』が失われることは、そう楽観的な問題ではない。
多くの人は、自分の持論を捨てることすら出来ず、
それが世界の口論のすべての原因である。そんな者が自分そのものを失う瞬間に、
そんなに軽率に他人事のように死を論じたり笑えるわけはない。
いつだったか、友人にこんな事を私は言った。
「人が、もしも生きている間に、この死の瀬戸際を4回経験できていたら、
この世界はまるっきり違ったものになっていた」・・・と。
そんな世の中では、誰も、きっと座禅や瞑想などしなかった。
自分の死、あるいは自分そのものが含まれている最も親しい隣人の死ほど
本当の座禅であるものはないからだ。
そして、もしもそうだったら、人類は座禅などはしなかっただろうが、
そのかわり、日だまりで、あるいは雨の日に、彼らの部屋で、
本当にくつろいだ時を過ごすことを楽しんだことだろう。
・・・・・・・・・
死の時には、何も残らないことの真実、何ももって行けないことの真実、
何もかもが無意味になることの真実、何もかもが夢のごとく終わるという真実、
自分そのものが消えるという事実、
それが本当の禅の始まりであり、終わりであったはずだ。
無常だの無だの、それを切実に実感できるものは、自分の死であり、
あるいは自分そのものがかかっている他人の死、
あるいは自分そのものがかかっている『何かの死』以外にはないだろう。
*********
私はどうして無駄な徒労にも思えるこんな説法などを他人にしているのか。
私は、人々に幸福の絶頂の中で死んでいって欲しいだけなのだ。
なぜならば、そんなにも美しい瞬間はどこにもないからだ。
そして、その絶頂の幸福とは、全くの静けさの安堵、そのもののことである。
私にとっては、あの日以来、生など、色あせてしまった。
この世のすべては、たわごと、あるいは戯れになってしまった。
自分の死という、あんな大きな、そして美しい現象を経験したら、
人は、たとえ世間や宗教や禅寺がなんと言おうが、
その人達は絶対の確信をもって、こう言うだろう。
『人は、死の瞬間のためにだけ生まれて来る』と・・・。
本当の禅師とは、死んだはずなのに、本人も無関心なままに
生を引きずってしまって歩く死体の旅人である。
彼は自ら生きるのではなく、生きてしまっている。
生は影のようにして彼についてまわるのみである。
一方、人々は、死が影のようにその生について回っている。
我々とそうでない人々の違いは、ただ、それだけの違いにすぎない。
私は禅だの法だのTAOという言葉ではなく、
事の最初から、『道、死、安堵、くつろぎ、静寂の幸福』という言葉で
語るべきだったのかもしれない。
死の法悦
『道』とは次のようなものであり、それは断じて人道主義などではない。
『道』は経済をつぶしてでも、人を生き残らせようとする。さらには、
『道』は人類をつぶしてでも、地球を生き残らせようとする。
しかるに、「外道」とは、
地球をつぶして、使い捨てにしてでも人類を生き残らせようとし、さらには、
人をつぶしてでも、経済を生き残らせようとする。
一体、何がこれほどの愚かさを招いたのだろう。
端的に言えば、人類が幸福と呼ばれるものがなんであるかを、
完全に見失ったということである。
幸福を定義するのは哲学者や宗教家や導師ではなく、あなた一人だ。
だが、幸福というものの『決定的に普遍的な定義』をここでしておけば、
人々には、ほんの若干の指針ともなると思われるので、それをここに記する。
あなたが、『もうここで死んでもいい』と思わせる歓喜の中に消え去ること。
それが幸福の正体である。しかしそれは
「生きるのが面倒だから死にたい」という自我の望みの一部などではない。
あまりの幸福と歓喜に、生死が無意味になるほどの喜びや安心の中に
あなた本人が消え去ってしまうこと、それが幸福の正体である。したがって、
幸福とは、あなたが手にするものではなく、幸福の側があなたを手にするのである。
一方、俗世間の酒場や料理店などで、こんな言葉が叫ばれる。
「ああ、うまい。生きていてよかったなぁー」
この「ああ、生きていてよかった」という声と、
『ああ、もう死んでもいい』という微笑との違い、、
その天地ほどの決定的な質と次元の違いについて、しっかりと対面するとよい。
死んでも本望だという言葉が出るのは、貴方が幸福の中にいる時にしかあり得ない。
一方、あなたの口から「生きていてよかった」という言葉が出るとしたら、
あなたは絶望的な不幸の中にいるということである。
この言葉があなたにとって、どんなに逆説的に聞こえようがこれは真実である。
そこで『すべてが消滅してもいい』、と心底思うことだけが、
あなたが不幸ではない証拠である。
なぜならば、生きていてよかった、という場合には、
よかったと思わせる「実につまらぬ外部的な何か」が必ずそこにはある。
だが、死んでもいいと思う時には、あなたの内部には爆発しそうなほどの高まりがある。
不幸な人間、あるいは社会が不幸に満ちて来ると、人類が自然な快楽を通り越して
セックスに異常なほど支配される要因は多かれ少なかれここにある。
エネルギーの高まりと、その爆発の中に消滅したいという願望が、
あまりにもひどく低質ではあるが幸福や悟りと似ていなくもないからである。
生きていてよかったとあなたが思う時には、外部の楽しい刺激があり、
生きていればこそ、それを感じ取れたのだという意味で、
あなたは結局は、{自分が存在していた事}に感謝しているのだ。
ところが、もうここで死んでもいい、という場合には、
あなたは、{自分が存在しないことの歓喜}に感謝している。
すなわち、これ故に、精神的にであれ、肉体的にであれ、死というものが常に
目前になければ歓喜だの絶対幸福はあり得ないと言い続ける理由である。
『あなた−あなた=ゼロ』。これがTAOと禅と仏教の唯一の数式である。
あなたが消滅して本望だという『寂静の法悦』の中に消え去ることが道である。
それは端的に言えば、やれ悟りだの、道だの、法だの、やれ真実だのではなく、
あなたただ一人の為の『絶対幸福』のことである。
沈黙の微笑
真実の法の言葉の目的というものは、
その言葉によって、あなたの言葉を殺すことにある。
だから、法の言葉は、本当に理解されたとたんに、あなたから理解を奪う。
すなわち、法の言葉とは、すべてへの「否」をあなたに生み出すことにあり、
あなたの中に「心地よい世界」を作るのが目的ではない。
法はあなたの蓄積したものを消し去るためであって、
あなたの世界を助長するためではない。故に、
真実の法の言葉に対しては、賛否など、断じてあり得ないのである。
賛否そのものをするあなたが殺されるからである。
すなわち、いかにして、言葉によって、言葉を殺し、
聞き手が呆然と自失するような沈黙を生み出すかが、
老子、荘子の努力のすべてであった。
TAOでは、無というものの説明が重要なのではなく、
重点はあなたそのものが、無そのもので在ることにある。
同じく、なになに、というものを問題にしてはならない。
その何々が、禅であれ、タントラであれ、老荘であれ、仏法であれ、
それらについてのなにものも論外であり、
それらそのものだけが道となる。
いささか、難解な言葉であろうが、これは道の最大の真実である。
語られるものは道ではなく、語る者が道であり、
語りはその足音である。
古人のたどった道をいくら追従しても、決してあなたは道とならない。
故に、いかなるすぐれた導師のたどった道であれ、
その模倣や、それらが生んだ戒律、風習の繰り返しはすべて無駄である。
古人は道を歩くのではなく、道と共に居るからである。
故に、あなたもまた、道を歩いているのではない。
常にあなたが道そのものなのだ。
だから、『歩かれるようなものは道ではない』。
これが、老子の言う、TAOの最初の一句、
「語られるものは、道にあらず」の真意である。
たとえば、あなたは導師の後ろ、10センチにぴったりとくっついて、
山や谷を歩いたとする。導師はひょいひょい川や崖を渡るだろうが、
あなたはそのたびに転ぶに違いない。たとえ10センチ後に追従してもだ。
いやいや、あなたは導師におんぶをされて、運ばれたとしても、
それでも、あなたは、おんぶされてもなお、頭を岩にぶっつけて、
あちこち怪我をするだろう。
導師とあなたの距離はどんなにその距離が近くても助けにならない。
だから、導師が沈黙して、それをまねて弟子も沈黙したからといって
だからといって、あなたが沈黙を分かち合ったり実現したことにはならない。
一方、あなたが本当に道を体現したら、
あなたは導師のはるか後方を歩こうが、あるいは導師の前方を歩こうが、
あなたは全く導師のように、無難に旅を続けるだろう。
したがって、古人が言うような方便、
すなわち、導師の臨在に弟子が沈黙をもってして触れることなども、
結局なんの役にも立ちはしない。
あなたが、あなたそのものの臨在と共に在る以外に道などない。
あらゆる、認識そのものが、障害なのだ。
だから、問題は無を「見る事」ではない。
闇や無を見るのでなく、あなたが闇と無になるべきだ。
また、その無から誕生する、あなたの中心や本性も、それを自覚することと、
それになってしまうことは、まるで違うことだ。
なることと見ることは全く違うのだ。
というのも、もしも『それ』になったら、『それ』を見ることは不可能だ。
そして認識は不可能のままでよいのだ。
だから、それは『絶え間無い未知』と呼ばれる。
知られるようなものは『それ』ではない。
それは常に知られざるものだ。
なのに、それは実現され続けるものだ。
あなたが、一歩も未来を見ず、一秒すら、過去を振り返らなかったら、
あなたは、自分を僧侶だとか、雲水だの、サニヤシンだとか、
精神世界や宇宙の探求をしているなどと言えるだろうか?。
それらはすべて、たとえ道を求める者であれ、それらはすべて幻想だ。
あなたが、存在そのものと共に在れば、
あなたは、自分が人間であるとすら、思えまい。
それなのに、あなたが、あなたを修行僧だと言ったりサニヤシンと呼んだり、
どのような事をしてきた、どのようなことをこれからするつもりだ、
などとどうして言えるであろうか?。
本当に道を体現したら、何もあなたは、あなたについて、言えない。
言うのは、常に、『それ』があなたから、切り放された時である。
ブッダたち、ことに導師というのは、『それ』に在りつつ、
『それ』を語ることの出来る、おしゃべりたちのことだ。
一方、世俗や世俗的僧侶や学者ときたら、どれほど高尚な話題や深遠な論理、
何について論議していようが、軽薄と間違いしか引き起こせない。
しかしブッダときたら、説法しても、下世話な話をしようが、
人を生かそうが殺そうが、その行為、言動に全く何ひとつ、
間違いを犯すことが不可能となる。
世間がそれを外側から、なんと言うかは論外である。
それでも、彼らは、間違いたくても、間違うことすら出来ない。
嘘を言っても、何もかも真実になってしまう。
だが、それは嘘が本当になってしまうということではない。
嘘が嘘のままで、真実なのだ。
彼らは『必要な嘘』を語るのである。
一方、人々は、「不必要な真実」ばかりを語るのである。
さて、そのように、真実をもしも、離れて見ていたら
まだ、在ることそのものには、なっていない。
何かについて、語る、論じるなどというのは、
見ているからそうすることが出来るのであり、
もしも全面的になっていたら、あなたにはそういう事は出来ない。
では、いかにして、この不条理で未知であり続けるTAOの実現が
あなたに起きるのだろうか?。
それは、あなたの世界というものが、痕跡を残さず破壊されることにある。
どんなに破壊しても、破壊したりないということはない。
それは物理的な破壊ではない。家族や世界や物や、
それらそのものや、それらとの関係を破壊するのではない。
それらの知覚世界を破壊し、内面的関係性を破壊するのだ。
何かが知覚されている限り、アートマンの実現は決してあり得ない。
だから、真実の自己を知るなどというのは、もってのほかである。
一般に、世俗では理解は尊重される。
だが、あなたが一歩も振り返らない時、あなたは何を理解できるというのだ。
理解とは、あなたの過去の記憶が、あなたの頭の中で整理がついて、
単に、情報がまとまったという事を意味する。
そして、推測、推論とは、それを未来に投影するという「賭博」にすぎない。
たが、TAOにあっては理解や予測などない。
過去が論外だからだ。だから、常に、TAOは無知を尊重する。
道というのは、未来や過去に振れ続けるあなたの意識を、
この一瞬に、どうやって停止させるかに、その極意がかかっている。
ところが、一瞬という呼び名でさえも、
あなたは、そこに時間の距離や観念を生み出してしまうだろう。
だから、認識や言葉の消滅、
それどころか知覚の消滅だけが、それを『実現』する。
そして、それは、世界の消滅だ。
だからと言って、あなたが、ヨギのように五感を封じて何かに集中したり、
無意識になっても、それは実現されない。
それを実現した人々は、決して閉じているのではない。
彼らはただ意識の中心にいて、そこから見ている。
見ているというよりも、見えていて、知覚は「入って来る」とも言える。
あるいは見てしまう。あるいは時には無視してしまう。
彼らの知覚には意志が関与しない。
そもそも人の最初の能動的な行為である知覚対象の選択にすら、
彼らの意志が関与しないので、それ故に、行為にも意志が関与しない。
これを無為自然と言う。
それは断じて自己想起などではない。
だから絶え間無い覚醒などという
不可能な欲望を執行しようとしたグルジェフの一派は、
とうとう大悟を逃してしまったのである。
人々は、無についてなど論じたり、探求してはならない。
そうではなく、無そのものになるがいい。
そうすれば、あなたはどんな禅問答にも答えられまい。
そうなった時だけ、あなたはどんな禅問答でも遊べる。
これがリーラ(戯れ)というものだ。
それは知的な質疑応答ではない。
どっちがその問答そのものを無意味にする言葉を発するか、
あるいは問答を無きものとする行為をするかのゲームなのだ。
だが、そんなゲームすら、馬鹿馬鹿しくなったら、
あなたはもっと深く『それ』そのものになっているだろう。
禅の風流さなどというのは、ブッダたちの道楽に過ぎない。
あまりにも、迷いが見るに見かねるような場合に、
ちょっと世俗をからかうだけである。これもまた、慈悲のひとつかもしれない。
正月に竹に骸骨を刺して、町を練り歩くなどという小僧もそのひとりだ。
だから、
あなたに出来ることは、ゆるんで、くつろいで、静かに、虚無を友として、ただ、
あなたの頭上に意識のすみかを立てることだけだ。
その中で、あなたはここ数千年にもわたって、求道者たちが迷った、
『基本的な迷いを落とす』ことになる。
それは、あらゆるあなたの探求の根底にある、根本である、
『探求の叫び』が黙ることになる。
つまり、あなたから次の言葉を落としなさい。
『どうしたら?、どうやって?、と方法を求めて動く心。
どうして?、という理由を求めて動く心。
どうなるのか?、という結果や未来を求めて動く心。
どれがそれか?、どれだどれだ?、という何かを見据えようとして動く心。
どうしたのだ?、という確認、自覚を取り戻そうとして動く心。』
こういう事を繰り返すから、
人々の瞑想も座禅も文字どおり『どうどう巡り』をしているのだ。
また、もしもこれらがあなたから、落ちたら、
それはもうあなたは何も探求していないということになる。
だから、自分を雲水とか、サニヤシンとは言えまい。
探求が落ちたら、問いも落ち、理解もない。
ただ、それは『体験される』。
だが、それは「あなた」が体験するのではない。
あなたは体験の中にいるのだ。包まれるだけだ。
その時は、虚無と万物の区別なく、未知なるものが、
虚無それ自体と万物すべてに向かって、
にっこり、微笑することだろう。
これらの私によって書かれた言葉を
古人や導師のまねであり、また、単なる言葉の詩的な遊びだと言うならば、
私は、ちょっとだけ、苦笑してしまうことだろう。
だから、その苦笑が、これらの言葉を生み出したのであり、
『微笑』は決して言葉を生み出さない。
言葉をもってして表現するには、
それはあまりにも、静寂で、
美しすぎるのだから。
ひたすらに 身は死に果てて 生き残る
ものを仏と 名はつけにけり
無難和尚
1993 4/20 EO
虚空の種子
何のためでもなく、何に対してでもなく、すなわち、他人に対してではなく、
また宇宙や自然に対してではなく、また自己に対してでもなく、ただ、
無知、無能、無力に向かって、命がけで精神の命を捨て去るがいい。
必要なのは、空虚に、からっぽにされ続けることだけだ。
他人や他物を憎み返してはならない。
また、自ら他人を、あるいは他物を憎んでもならない。
だが、他人から憎まれることは大いによしとせよ。
だが自分から憎むべきものは何もない。
だが、他人からは憎まれることをよしとせよ。
なぜならば、自然は決して人を憎まないからだ。
だが、同時に自然は人から『憎まれまい』とはしていない。
故に世の多くの人々が他人への思いやりと偽って、その実は自分が
他人から憎まれまいとする動機によってなされるべき物事をなさないのならば、
それは無為自然の道(TAO)ではない。
あるがままに『いる』ことによって、もしも己にただ沈黙があるならば、
他人からどう失礼と思われようがそのままにしていなさい。
ただ『いる』ことによって、自然な適切な言動があるならば、いかに憎まれようが、
他人を愚弄しているように解釈されようが、そのように為しなさい。
ただし、それは憎しみから言うものであってはならない。
また、それは相手の事を思う気持ちからであってもならない。
そこにはなんの動機も理由も意図も存在してはならない。
良き反応を求めてはならないし、同時に悪い反応を避けようとしてもならない。
ただ起きるままに漂い、
己を殺し続けなさい。たとえ石が投げられようが、殺されようが、憎まれようが、
もともと『あなた』などは存在していないのだからかまうことはない。
自然は相手が人間や生物だからといって決して雨風を弱めたりしない。
だが自然は生き物を愛してもいなく、憎んでもいない。そこには分別はなにもない。
自然は別け隔てせず、ただ『在る』。
自然が人を呪ったことは一度もない。
また、人から呪われまいとその力を弱めたことも一度もない。それがTAOだ。
あるとき私は夢を見た。
夢の中で私は犬になったような気がした。次には私は草木になったような気が
した。そして次に夢の中で人になったような気がした。
だが、どれになっても自分が、犬である、草木である、人であるという思いは
どこにもなかった。夢の中で私は何物でもなかった。
草木は自分を草木だとは思っていない。だから私も自分を人だと思わなかった。
そこにいたのは、犬でもなく草木でもなく、人でもなく、ただ、何かが『いた』。
それはただの存在だけだった。
そこには個別のものはなかった。どれも全部同じであり、またどれでもなかった。
これは何、あれは何と名づける人がいなければ、世界には何もないまま、
ただ存在だけがあるのである。
これらの教えは決して思考されるべきものではなく、
他の物と比較、分析されるものではない。
これらはその中に『在って』知られるべきものである。
だが、さらに厳密に言うなら、知られる必要さえもない。知るためではなく、
ただ存在して『いる』ためにただ存在して『いる』ことだけが必要である。
見ること、知ることはその中で起きるかもしれない。
だが、それらを留めてはならない。それらを抱えて生きてはならない。
草木が夏の自らの繁栄を留めて、秋に枯れることを拒んだりすれば、
この世は草木と鳥と虫に満ちて滅びてしまうだろう。
だが自然は生死を別け隔てしない。
TAOの中に『在って』は、法は体験されるだろう。
だが、何物もとどめようとしてはならない。
書物に書き記すことはよろしいかもしれない。
だが、『己の内なる空間』には何も書き記してはならない。
とすれば、書き記されたものを自らの物と思ったり主張する必要はどこにもなく、
TAOのうちにあって語られること、書き記される書物の著者は常に無名なままである。
書き記すことがそれを書き記したのであって、
書き記した者など、どこにも存在しない。
認識や知識や分別や業績や記憶は方便として使われる分にはよろしい。
だが、それらにしがみついてはならない。
そして、しがみつかないということにしがみついてもならない。
あなたが本当にしがみつくべき唯一のものは、
今のあなたが最も恐れるかもしれないものだ。
それは誰でもない、無知、無名、無力な『ただの意識』だからだ。
だからこそ、何もわからなくなってゆけば行くほど、あなたは成長する。
だが、それは形あるものから形無きものへの成長であることに留意せよ。
そうしなければ人々は何事かを作り出し、生産することを成長と思い込むからだ。
しかし、TAOにあってあなたが成長させるのは純粋な『死に方』だ。
TAOに在りては、何も分別してはならない。
だが、それは分別しまいという分別を思ってそうするのではない。
もともと分別のない『意識』に留まることにより、
おのずと分別の消失するTAOに住まうがいい。
だから無分別、無執着の悟りの境地に対してさえもどこまでも、
無分別で無為であれ。
TAOは草木のようなものだ。
TAOは望まない。悩まない。そして何も求めない。
決してまた自分のその在り方についても悩まない。
悟りの修行などしない。
TAOはただ死ぬまでただいるだけだ。
それは草木と同じぐらい無為なものだ。
世の人々は、天気についてこういう。
『今日はよい天気』『今日は悪い天気だ』。
あるとき、
空はあまりにも長い年月、地上の人々に指さされて、
毎日毎日『よい』とか『わるい』と言われ続けたので、
とうとう空は自分が『いいやつ』なのか『悪いやつ』なのかに悩んで、
ずっと曇ってしまったという。さらに人々がそれを見て『天気が狂っている』とか
『異常気象』だと言い続けたので、
空はとうとう自殺をして真っ暗になってしまったという。
植物を育てる者は心するがいい。
草木は光のみを愛することはない。
草木は天候を別け隔てしない。
人々が晴れた日になると鉢植を光の下に置くのを、私は見てきた。
ならば、なぜ曇りや雨の日にもそうしないのか?。
曇り空や雨を決して草木は嫌っていない。
むしろ、曇り日には曇り日にしかない柔らかい別の力が空から注がれ、
また雷雨の時には草木はこの上もなく高揚するものである。
ひとが人の目に映る光のよしあしの分別をするのに全く関係無く
植物たちは人とは異なる光を見て、受け入れている。
草木はすべての天気と仲がよい。人だけが愚かにも天候を別け隔てする。
また、自然の成育にはすべてが関係しあっている。
だから花を育てる者はまず土や虫や地中のミミズを愛するべきである。
ひとつの花を愛そうとするならば、あなたは土を愛し根に気を配り、
地中の生物に敬意を持ち、また、晴れ、曇り、風、も雨も、
何もかもに敬意を払うべきだ。
自然からあなたたちが『おのれの好み』で選んで
何かだけを切り取ることは決して出来ない。
同じことがあらゆることに言えよう。
人々は『おのれの好むものや自分の身内に対するただの愛着』や
『依存や義務的なかかわり』を愛と呼んでいるにすぎない。
したがっておのれの好まぬものを憎むものである。
すべては『おのれ』とその好みを中心としている。
己の好みは『単に好み』なのであって『善悪や正否』ではあり得ようがない。
にもかかわらず己に心地よきを正しきと誤り、
自分に不快をあしきものと取り違えているようだ。
物事の正否は人の心地や好みとは関係が無い。それがTAOの基本だ。
自然は生と死を隔てない。人々のみがそれを隔てて生にのみ偏る。
また、苦しみにある者は逆に死の願望へ偏る。どちらも道にあらずである。
沈黙、静寂、無言、自閉、孤独、不快、不安、昏睡、衰弱、停滞、不活発、
これらの中にあっては、これらの中でのみ育つものが多くある。
人々が明るさや活気に価値の重さを置いてこだわる限り、
決して道(TAO)は学べない。
蓮は泥の中で育つがごとく、不快や不安の暗黒の中でのみ育つものがある。
それを育てるにはそれを避けようとせず、その中に『いる』しかあるまい。
それに負けることだ。それに任せることだ。
その中で、己なるものが全滅したときに初めてTAOの種子が割れる。
決して、断じて、それは善良な心ではない。
それは、ただの無心だ。
人々は他人や世界の役に立とうとするのは1000年早すぎる。
否、それ以前にまず他人や世界に対して
最低でも『無害である』ことを学ぶのに1000年をかけるがよい。
内面における沈黙と内面における無為が基本になければ、
あなたが何をなして、どう生きても、何もかもが間違いだ。
古来より言われる悟りを「すべての人々が開いたら世界はどうなるのか」と
人々は、ときおり私に問う。ならば私は言おう。
『この、今の世界は滅びる。』
というよりも用がなくなるであろう。
すなわちこの世とは悟りの種子が割れるための地中であって、
地中で開花する花などおるまい。地中は花の咲く場所ではない。
子宮は子供を生み出す場所であって、子供が生きる場所ではない。
故にこの世はブッダたちを生み出す場所であって
ここはブッダたちの暮らす場所ではない。
ここは「暮らす場所ではない」のだ。
ここは『生まれる場所』だ。
故に世間のことには構わぬこと。
世間の在り方はそのままにしなさい。
世間を変えようとか他人を変えようとか、
他人を教えようとしてはならない。
あなたがまずあなたが誰であるかを知り得なかったら、
誰の助けにもなるまい。
まずあなたの種子が割れることだ。
その種子を割るのは、
無分別、
無価値、
無意味、
無知、
無能、
無力、
無名、
無為、
そして
無心しかない。
・
・
・
・
・
1992 5/24 無名
手ぶらで生きる
あなたが一本の草を見て、そこに仏性を見られないのは、
仏性を知る事が出来るのは導師の行為や言葉を通じてしかないように
あなたが錯覚をし続けるせいだ。
だから、あなたたちは導師たちの言葉の残された本と言う音楽を読み、
あるいは彼らが生きていれば、彼らのそばへゆこうとする。
だが、仏性そのものは、音楽(説法すること)が本業ではない。
糸という素材が楽器のためでなく、他のありとあらゆる用途に、
音楽以外のいろいろな場所で使用されるように。だとするならば、
この宇宙を最もその根底、かつ普遍的な領域で満たし、偏在する意識や仏性ならば、
あなたは、一体、どこでそれを見逃せるというのだ??。
そこらじゅう、いたるところが、『それ』ではないか?。
どうして、書物や講話を通じて、あなたが静寂になれるというのだ?
たとえ、その静寂に達した導師の言葉や書物にさえ、それは不可能だ。
それを読むあなたの思考が静寂でいられないからだ。
この明白な事実があるにもかかわらず、それでも探求者たちが、
次から次へと本を読むのだとしたら、もはや、彼らやあなたたちには、
静寂を求める意志などないと見なされる。
どうして静寂を好きなものに本など読めるというのだ?。
導師の言葉さえも、極論すればあなたの静寂を破ってしまうのに。
法話は音楽ではあっても、仏性そのものではない。
そして、もしも糸そのものを見付けたければ、
それはありとあらゆる存在に張り巡らされているものだ。
あなたが、それを見ないことなど、不可能なのだ。
ただ、あなたは、見ていない知らない、と、ただ言い張っているだけなのだ。
水の中にいて、水など知らないと言っている魚とあなたは話をした事があるかな?。
どうみたって、そんな魚は狂っているとあなたは思うだろう。
だがこれと全く同じ事をあなたたちは、何千年も導師から言われ続けてきたのではないか。
水の中にいて、水を知らない、見たい、見えないなどという魚は、
確かに狂っている。あなたはそんな魚に出会ったら、笑うしかあるまい。
だから、私もあなたたちを見て、笑うだけだ。
だが、少し慈悲があると、違うことに興味を持つようになる。
つまり、なぜ、その魚たちがそう言い張り、そう思うことになってしまったのかを
観察しようとする。その誤解と無知の由来について関心を持つ。
かくして、静かな一本の弦は、音楽を奏で始める。
こうして、導師の説法が開始される。
そして、その説法は、あなたを理解させるためのものではない。
それはただ、あなたの誤解を解くためのものだ。
あなたは、あなたの自覚、無自覚にかかわらず、
光明と意識と虚無の中に住んでいるのに、それを見たいなどというから、
我々は繰り返し言うことになる。つまり、それは
『見るものじゃない。在るものだ。知る必要もない。
そこにもう『いる』ではないか?。問う必要もない。
あなたは答えの中に住んでいるのだ。
瞑想して念仏を唱えて、あるいは本など読んで、何を知ろう、
何を体験しようというのだ?。
あなたはもう、今もこれからも、かつても、どこでも『それ』ではないか。』
ところが、そんな事を言われても全く言葉がナンセンスで分からないと、
あなたたちは言う。そんなに普遍的なものなら、この世界は、すでに、
もっとましなものになっているはずだ、もっと苦痛がないはずだと言う。
全くその通りだ。もともとこの世界は実によくまとまっており、
何ひとつ間違いなどないのだ。だが、たったひとつの間違いがある。
それは、水の中にいて、水を知ろうとか知りたいとか、体験したいとか、
見たいなどという、あなたの問いそのものが大間違いなのだ。
その間違った問いから始めたら、どんな探求も科学も文明も、
ナンセンスなものになってしまう。
私達はあなたたちに、いつも言う。
『もうすでに、光明、悟り、ニルヴァーナ、サマディーなど
実現されっぱなしだ。あなたはその中に、今まさに住んでいるのだ』
あなたたちはこれをナンセンスだと言う。
我々はそれに対して言う。それをナンセンスだと言う、あなたがナンセンスなだけだと言う。
かくして自然界には、水のことを問い、哲学し、水について瞑想したり、
水と一体になろうなどとする魚など一匹もいない。
もともと、
あなたは生まれながらに、人間などという生物ではない。
あなたは生まれながらに、男女のいずれでもない。
あなたは生まれながらに、若くも老いてもいない。
あなたは生まれながらに、賢くもなく、愚かでもない。
あなたは生まれながらに、何ももっておらず、何も持たないのでもない。
あなたは生まれながらに、何も知らず、また無知であるわけでもない。
あなたは生まれながらに、弱くも強くもない。
あなたは生まれながらに、肉体でも精神でもなく、魂でもない。
あなたは生まれながらに、迷ってもなく、悟ってもいない。
あなたは生まれながらに、ただ、何物でもない。
あなたは生まれながらに、ただ存在し、ただ死ぬ。
あなたは生まれながらに、全くの一人であり、まったくの全体であり、
またそのいずれでもない。
そして、あなたは生まれながらにこうしたことをすでに、知っており、
したがって、生まれながらに、こんな言葉を聞いたり、探求する必要などどこにもありはしない。
あなたは、もう、付け足すべきではない。
30才か40才までに、頑張って人間性やら愛やら、信仰やら、進歩だの
仏性などという粗大ゴミを溜たのならば残る20年で、一切それらを落としなさい。
ただ在りなさい。ただいなさい。ただ在り続けなさい。それが本当の死だ。
だから、瞬間瞬間で死に続けなさい。
楽に生き、楽に死ぬ
悟った者たちは古来より、あるいは未来永劫に渡って、覚者と呼ばれ、
時には生の道を尋ねられ、時には石を投げられる。S
時には笑われ、時には泣かれ、時には無視され、
時には狂っていると呼ばれる。だが悟りなど、なんのことはない。
人々にとっての、考え得る限りの最低のバッドトリップ(悪夢)が
私達にとって、最高にハイ(恍惚)であるにすぎない。
人々の最低の悪夢が、私達の至上の住み家であるにすぎない。
さて、この世の中、この宇宙で、最低極まりない事というのを
あなたは知っているだろうか?。
それが悟りであり、それはあなたの死における歓喜だ。
だが、その前にこう言っておくべきだろう。
「誰もがすでに悟っている」。
ときおりあなたを訪れる、悪夢のようなフラッシュバックが『それ』だからだ。
あなたはもともと悟りに酔っ払ってこの世の中に生まれ落ちた。
だから、あなたはそれを知っている。それに中毒している。
あなたはもともと、『悟り漬け』のまま生まれて来たのだ。
だから、どんなに社会という病院が
あなたを正常という狂気にしようとしたところで
あなたは常に悟りに戻ってしまうだろう。
だが、人々が悟りに戻ることを、社会は狂気と呼ぶ。
それでも、あなたは知っているはずである。
日常で、絶え間無くあなたには悟りのフラッシュバックが起きる。
あなたにはそれが恐ろしく、我々には心地よい。
あなたたちと我々を隔てているものは、実のところ、こう言ってはなんだが、
死というものに対する単なる、好みの違いだけかもしれない。
悟りとは『楽』なことだ。それ以外のまったく何物でもない。
ただし、『徹底した楽』であるという点で、
それはほとんど狂っているか、もしくは馬鹿と呼ばれることもある。
だが、楽である中から出て来る言動、観察、洞察、行為以外のものに、
何ひとつ美しいものなどない。
人々は生の苦悩に住み、ブッダは死の安楽に住む。
だが、正確に言うならば、生死のどちらにも、我々は住まない。
生も死も外側の出来事だからだ。
我々は住み家に住むのである。住み家は時には我家とも呼ばれ、
人々に安心をもたらす住居であることから
悟りや光明やニルヴァーナの比喩に使われる。
時にはそれは万象を超越した、存在そのものとも呼ばれる。
だが、古来より、そういう言い方をしたために、
それは『生に属するのだ』という誤解が生まれた。
それは、あまりに何もないので、死や無や闇とも呼ばれた。
しかし、それもまた誤解を生んだ。
だが実はそこは生でも死でもなく、その区別が生み出される以前の世界だ。
人は生も死もあるのが世界だと言う。
そう口先で言いつつも、死ぬことに脅え、生の側に加担する。
あるいは面倒で苦しい生きることに脅えて暮らし、そして死に、そして生まれる。
生死のごったまぜの混乱が人々であり、
生死超越の本性が我々の住み家である。
我々は生死の中に住んでいるのではなく、
生死の果て、または生死の以前に住んでいる。
そこには既に生死そのものがない。
生死がないと我々が言えば、あなたたちは
「それでもそうして生きているではないか?」と反論する。
だが問題は、あなたの肉体や精神体が生きているか、死んでいるか
などという問題ではなく、生死などというものは、その「実際の現象」ではなく、
あなたが生きていると「思うか」、死んでいると「思うか」の問題だ。
もしも『どちらも思わなかったら』、
あなたはただの存在だ。
一本の草が生きているときに、彼らは自分が生きているとは、決して思わない。
また、その草が枯れた時、彼らは自分が死んだとも思わない。
ゆえに草のような生死への区別なき無心こそが生死を超越した意識の手本となる。
「でも実際問題としては」などと、あなたが言い続けるならば、
ではあなたの肉体が腐敗したり焼かれるときに何が一体死んでゆくというのか?。
肉体を構成する物質も、単に煙になったり、虫に食われて、形を変えるにすぎず
また、精神を構成する物質も、単に「次元の異なる煙りになったり次元の異なる
虫に食われて」形を変えるに過ぎない。
では、一体何が死んだというのだろう?。
実は何も死んではいない。ただ形を変えただけだ。
死ぬとか生きるという問題の超越だと我々が言うたびに、あなたが
「自分の肉体があることを根拠にして」我々に反論するならば、こう言わねばなるまい。
ならば、死ぬとその肉体の何が死ぬというのだね?。
何も死んではいない。ただ元素の配列が変わっただけだ。
我々にとっても、あなたたちにとっても生死とはその実際の現象の問題ではなく、
それを言っている者の側にしか存在しない。
死が実際にあなたから奪うものはたったひとつしかない。
肉体など借物なのだから、それは自然に返すのが当たり前である。
心や情報や知識、経験なども、そんなものすら同じく自然に返すのが当然だ。
だから、死があなたから奪うのは、実は、たったひとつだ。
それは「あなた」というまとまった感覚。すなわち自我だ。
だからこそ、狂人たちは、本当の死に、生きたままで直面する。
そしてブッダたちもまたそれに直面した。
宇宙の中では、不幸で絶望的なことに、物質的な何かが死ぬことなど不可能なのである。
ただ、形を変えてゆくだけだ。死んでなどいない。
ならば、我々は一体、一生の間、何を死と呼んで脅えているのだろうか?。
それはいつだって、「あなた」の死だけだ。
まとまった、統一のとれた、「あなた」などという感覚が死ぬだけだ。
弱々しく、ただの経験と感情と不安と快楽信号の寄せ集めにすぎないもの、
そして生きては他人に迷惑をかけ、おせっかいをし、余計なことばかり言っては、
余計な行動をする実につまらない、「あなた」とかいうものが死ぬだけだ。
地球人が自己同一化、あるいはアイデンティティーと呼ぶこの現象は、
個人が社会で「生きるための自我の独立のため」と称して強制的に教育される。
だが、もともと個性や見解、経験をも含めて自分のものであるものなど何ひとつ
ないというのに、それを我物だなどと言えば、それ自体が事実とは間違った事を
言っているのだから、苦悩が生まれて当然となる。
ところが人々は、物質や肉体はともかくとしても、
心や、思考、経験、発想、個性、知識、能力は個人のものだなどと言う。
だが、それらは単に、『個人という場所に発生』した、というだけで、
完全なる個人のものではない。
ちょうど、一本の草が小川のそばに生えたからと言って、
その草が小川のものではないのと同じように、
個性などというものは、たまたま「あなたという場所」に生えた現象にすぎない。
だから、それを「あなたのもの」とは言えまい。
ところが、その草はあなたが育てたのだと、あなたは言い張る。
すなわち、あなたはあなたの個性をあなたが操作し、コントロールし自分の人生は
自分で作ったり、変更したのだと言い張る。
だが、あなたの中の何がそうさせたのか?。
そうさせた、動機はあなたのものか?。例えば、
あなたの生きようとする意志はあなたのものかね?。いやいや、違う。
それは生物学的なものだ。あなた独自のものじゃない。
次にあなたの感覚的、あるいは知的な好みというが、
それらは単に育った環境の中で生まれたにすぎない。
そして一旦育ったその好みに合うようにあなたは他人や知識や物事を選別して、
あなたの好みのものだけを寄せ集めたにすぎない。
そのあなたの趣味の寄せ集めをあなたは個性などと呼んでいるだけだ。
では、その寄せ集めをした基準は何か?。それはあなたの好みだ。
だが、その好みの原因は何かね?。
それは単なる環境からの初歩的な教育だけだ。
あなたの個人のものでなどであるわけがない。
従って日ごろ、絶えずあなたたちが、
「自分の、自分は、自分が、自分で、自分だけ、自分なら、自分こそ、自分を」
などと、めくじら立てているその「自分」などというものの実体は何かね?。
すべて、殆ど、ただの『偶発的な、環境のなりゆき』だ。
あなたの肉体の生まれた位置が、たまたま経験させた、ただの環境情報だ。
しかしこういう偶然論を持ち出すと、へ理屈として人々は、運命や宿命や使命や進化、
因縁やあげくに前世を持ち出しては、個人の経験や個性には、
「それなりの必然性がある」と言い張る。
ならばその必然性、すなわち運命を決定する要因、基準は何か?。
すなわち、どうすれば、どういう環境が訪れるというのだろう?。
また、一体どういう環境が理想的進化と言えるのか?。
理想とは何を基準に良いとか、悪いと言うつもりか?。
それが生命の危険がなく安心できて、なお楽しみがある環境だなどとあなたたちが
言うつもりならば、ブッダたちは、宇宙をくまなく見渡した上で、こう言う。
「究極の楽しみ、そんなものは存在しない。無駄で不毛な幻想はやめなさい。
次に、究極の安心。
これならば存在する。
したがって、楽しみは存在しないが、安心ならば存在する。
究極の安心とは、それは楽しみが一切ないことだ。」
楽しみが一切なければ、苦しみも一切あり得ない。
これらは単なる、ふたつの同じものの裏表だ。
苦しみの経験基盤から楽しみが生まれ、楽しみの記憶が苦しみを生む。
なぜならば、どこからどこまでが苦しみで
どこからが楽しみだとあなたは仕切るつもりだろう?。
物事や感覚をあなたが「仕切る」から区別が出来る。
区別とは常に『仕切り』だ。
だが、仕切る『境目はどうなっている』?。
しかも、その苦楽の仕切りは人によって異なるものだ。
その境目を作り出しているものは何かね?。
実際にはその境目とは、肉体や感覚の『許容限度』だ。
度を越したものは常に苦しみになる。例えば、笑うのも度を越せば、苦しい。
食べるのも度を越せば、苦しい。暖かいのも涼しいのも度を越せば、暑かったり、
寒くなって苦しい。運動もセックスも度を越せば苦しい。このように、
実際のところ、楽しみとは、軽度な苦痛であり、極度の楽しみを苦痛と言う。
適当な弱い刺激を楽しいと言い、強すぎる刺激を苦痛だと呼んでいるだけだ。
だから、苦楽とは、刺激の強度にすぎない。
そして、それはあなたの生態学的な許容限度を基準にして仕切られるだけだ。
さて次に、たとえば、性欲と食欲を見るならば、
ここでもまた、苦楽は同じものの裏表であることが解るだろう。
性欲も食欲もどちらも「飢える」ことからだ。
ところが、食欲は空腹、すなわち足りなくて、満たそうとする動きであり、
性欲は、溜まって吐き出そうとする動きだ。
性欲と食欲の欲望は実際には、全く反対のものだ。
ひとつは不足を補い、ひとつは過剰のエネルギーを排泄する。
それゆえに、生殖器というものは、排泄器官の近くに設置された。
一般的な便の排泄は、用済みで不要だから排泄するのに対して、
性の場合は消化されて不要というのではなく、過剰という意味で不要なので排泄される。
性欲とは過剰なエネルギーによる苦しみから生まれるものだと断定できる。
まずそれは余っている。そして外に出たがる。
あなたはこの時点では、苦しいわけだ。
さて、それが満たされるとあなたは安心する。
基本的には、我慢した排泄物を出した時と、あまり違わない感覚の『安堵』を
あなたはセックスで得る。出て行くときの安心だ。それが排泄の場合と異なる事と言えば、
意図的にその排泄を遅らせて、エネルギーの排泄を「じらす」ことだ。
つまり「じらす」のが前戯というものだ。
そしてじらしにじらして、一気に爆発させるという点では、
セックスを、通俗的な言い方で『火遊び』と呼んでもよかろう。
あるいは、それは圧縮と放出の原理に基づく『水でっぽう』のようなものだから、
水遊びとも呼ばれる。
端的に言えば、心理的な合体願望を除外してしまうと、セックスとは
数時間かけて行う『くしゃみ』である。
次に食欲もまた、それがひっくりかえっただけだ。
まず内部が空腹になる。つまり「気圧が低くなり」、
外のものを吸い込む準備がととのう。だから食欲とは吸引ゲームだ。
だが、これら全体の原理をよく、見るがいい。
それはまず不満の設定から始まり、
次にその不満を刺激し、それを満足するという『繰り返し』だ。
あいも変わらずこの繰り返しだ。
人間やことに動物のこうしたいわゆる性、食、すなわち生と呼ばれる現象は、
苦楽などと呼ばれる精神活動をもふくめて、実に単純な原理である。
それはある一定基準を越えたり、不足すると感覚が苦しいと言い始め、
その元の基準に近付くと安心して満たされるのだ。
個人の基準を原点として極度に不足あるいは極度に過剰が苦しみの原因だ。
適度が安心の原因だ。
ところが、生命学的な、あるいは宇宙における原則として、
この過不足を助長することが宇宙を活動させるために、
より楽しむためには、より苦しまねばならず、
より楽しめば、より苦しむということが起きる。
また、常にこの二つを往復することが「一般的には」生命活動と呼ばれる。
初歩的な人類、すなわち人類の99パーセントは楽しみばかりを求めて、結局
それが苦しみという基盤を必要とする事を無視して矛盾に直面しては苦悩する。
次に初歩的な人間は、どちらも往復するのが活動の楽しみだと割り切って生きるが、
最終的に彼らが受け入れられないものが残る。
それは、その苦楽の活動そのものの停止だ。
こうなると、彼らは今度は『活動と非活性』の折り合いがつかない。
それゆえに、善悪や、苦楽を楽観的に共に受け入れる者たちも
最終的に拒否してしまうものが残る。
それは、生命感の全くない、退屈感や倦怠感や虚無感だ。すなわち死臭だ。
このように、万物の物事をまず苦楽に分けてしまえば、
不足や過剰が対になっている事や、
不満や満足が対になっていることに気が付かず、一方のみを求めて、
もしもその求める希望が強ければ強いほど、最後には絶望して自殺する。
次に苦楽を共に認めても、活動と死を別け隔てすれば、『精神活動の死』を
恐れるあまりに、もしも精神の活性化を求める希望が強ければ強いほど
最後には絶望して自殺する。
絶望とは生を諦めることだが、実際には完全にあきらめているのではなく、
満たされなかった失望感が押し寄せて来る「思考から」逃げようとしている。
そういう場合はあなたは社会や失望感から逃げたいのではない。
あなたはその「感覚や思考から」逃げたいのだ。
何かが満たされないとき、あるいは失望した時、あなたたちはすぐに死にたがる。
内心では死にたがっている人間を私は大勢見てきた。
また、日ごろは生命や人生を楽しむのだと言いつつ、
何かささいな事があるたびに「死ねば楽だ」と不平を言う者たちを見て来た。
このように人類など実に簡単に弱々しくなる。そして、
どういうわけか人間が、苦楽、あるいは退屈や虚無感などで失望し、
不満に苦悩する時には、
ポジティブな思考などというものは、全く効力などない。
虚無感や死臭、退屈や倦怠というものは、すべて死の感覚に由来するからだ。
これらに対してだけは、
あなたは絶対にポジティブな思い込みで復帰するのは不可能だ。
なぜならば、もしもポジティブという言語の意味が『肯定的』であるならば、
あなたは死に対して理屈をつけるにせよ、なんにせよ、
とにかく死を受け入れなければならないからだ。
口先で死を肯定するのと実際に受け入れるのは全く別のことだ。
こうして死にポジティブになったとしたら、あなたはとにかく精神や肉体が
死ぬことを許すことになる。ポジティブとはそういう意味のはずだからだ。
それが「次の新しい生命へのプロセスだ」などと馬鹿な理屈を言うあなたたちに
私は言うだろう。
『ならば、そのポジティブなプロセスをなぜ怖がるのかね?・・
ならば退屈も倦怠も、不毛も、死も、息苦しいような無気力、解らないこと、
知らないこと、無感覚で、なにもない、永遠に続くかのような、虚無や闇や、
なすべきこともない、見るものもない、なにもない、全くの無の中に、
なぜ落ち着いていられないのかね?。
死とは、まさにそういうものだからだ。』
「肯定的」と口先だけで言い続けたあなたたちは、
永久の無だけは、受け入れないと見える。
ならば、それがあなたを一生と言わず、未来永劫にあなたたちを恐れさせ、
恐怖させ、無から逃げ回らせて活動中毒になる事は必至である。
あなたは絶対に宇宙のどこであれ、くつろぐ事は出来ない。
猿は苦楽から楽だけを食べようとする馬鹿である。
人間は生死から生だけを食べようとする馬鹿である。
だが、ブッダはそもそも何も食べようとしない乞食である。
彼らは過不足や不満や満足や、生死の往復する世界を住み家としない。
彼らは、つまりブッダたちは
思考世界を散歩ぐらいはしても、思考の中には『住まない』。
次に、彼らは感覚世界、すなわち、見たり聞いたり、
あるいは自分の存在を感じとるという、そんな基本的な存在感覚の世界すら、
散歩はしても、そこには『住まない』。
ブッダはまず物事をふたつに分けない。
故に、分けないのだから、どちらか一方を選ぼうにも、
そのどちらかという仕切りがない。
次に選ぶことそのものをしないので、彼は何も持たない。
彼は何事からも逃げない。
というのも、逃げるというのは生きのびようとする事に由来するからだ。
だが死を受け入れている彼らが何から逃げる必要があるのか?。
もしもあるとしたらブッダは全面的に生、すなわち宇宙の存在そのものから逃げている。
彼は存在を拒否している。宇宙存在そのものを深く否定し尽くしている。
完全に存在を見切っている。
ならば、彼らはどうして生きているのだろう?。
それは「死のうとすらしていない」からだ。
従って彼らブッダについて、描写も定義も、説明も分類も不要だ。
静寂のみがそれを語り続ける。
この世界には悟った者は少数いる。
だが彼らは決して「悟っている」とは言わない。
そのかわり彼らはこう言うだろう・・・『迷っていない』。
悟りとは迷いの不在であるのであり、悟りがあるわけではない。
安心とは不安の不在であるのであり、安心があるのではない。
ただ何事も、どこまでも深く不在であることにより、
あなたたちは、死と仲良くなり、ただ在るだけの存在性を家としてそこに住む。
住むという字を見てごらんなさい。
人に主ぬしという字だ。
人の中に主が居る。あるいは主として人が留まる。主と人が一緒にいる。
安心とは楽があるのではない。苦がないだけだ。
人々は知っていることと知ることの中に生きる。
それゆえに絶えず無知というものが心の裏で彼らを脅えさせている。
だが、『我々は何も知らないから楽である』。
人々は出来ることと、出来るようになることの中に生きる。
それゆえに、絶えず無力というものが心の奥で彼らを怖がらせている。
だが、『我々は何も出来ないから楽である』。
人々は楽しいことと楽しむようになることの中に生きる。
それゆえに、絶えず倦怠と退屈というものが心の隅で彼らを待っている。
だが、『我々は何も楽しまないからこそ楽である』。
我々は楽に生き、楽に死ぬ。
核の瞑想
あなたの中の無位真人、本来面目、真我、本性、仏性、究極の主体、
それは、インドでは古来より中心の観察者と呼ばれる。
だが、中心ということについて、今一度よく考えてみるがいい。
それが本当に真中心ならば、
『それ』は『それ』以外のものならばあらゆるものを知覚できるだろうが
『それ自体』は決して知覚できないということになる。
なぜならば、もしも真中心などと言うものが知覚されたら、
それを知覚しているものが
さらに中心にいるということになってしまうからだ。
それ故に、知覚されたものはすべて『それ』ではないことになろう。
だから、座禅をしようが、瞑想をしようが
あらゆる体験や感覚は断じて『それ』ではない。
今ここで知覚されている、ありのままの事実の感覚すら『それ』ではない。
さらには、いま、ここの自己の存在感の自覚すらも『それ』ではない。
『それ』は絶対に知覚不可能の未知のままに
『それ』自身を決して振り返る事もなく、ただ在るだけである。
内側も、外側も、それそのものすら、見向きもせずに、ただいる『これ』
ただ、これ、ただこのもの、これそのもの、これ。
故に本来面目の真中心とは、見るものではなく、それは発見するものではなく、
理解するものではない。それは、目的もなく、探求せず、功徳なく、
ただ在ること、居ること、そのものだ。
このように、本性とは、決して見ることも出来ず、
知ることも、感じ取ることも出来ないことが、絶対に確実だと言うのに、
何を探求しようとなどするのだろうか?。
坐禅や瞑想をして一体何を見付けようなどとするつもりか?。
何を仏性やアートマンなどと騒いで努力をするつもりなのか?。
何を体験などするつもりなのか?。
これほどまでに、
全くもってして不可能な事をやろうとする必要がどこにあるのか?。
光源が自らを照らし出すことなど、出来るはずがあるまい。
だから、本性に帰るために、出来ることなど何もない。
ただひとつ出来ることは、内面奥深くに渡ってただ何もしようとせず、
何も見ようとすらせず、ただ、そこに、ただ居ることだけだ。
もしも『それ』を体現したければ、
姿勢にかまわずゆったりと座して、
目を閉じて汝の周囲を絶対無の闇のごとくに観想したのち、
次に汝の身体の中と脳のすべてを闇に溶かして消すがよい。
ついで目を開き、空漠とした視線のまま、
茶碗を頭に乗せて意識を可能なかぎりの長き時間、頭頂に留めるべし。
かくのごとき、瞑想後に、乞食のごとく無欲に、静かに歩くがいい。
そのとき、目は開いていても何も見ようとせずに、無為に漂わせよ。
決して物を極端に凝視することなく、空漠とした、まなざしで歩くがよい。
努めてまばたきは、ゆっくりとさせ、視線の動きも努めてゆっくりとせよ。
かくして『それ』は『体現』されるが
『それ』を見たり『それ』を知ることは不可能なままに、
『それ』は『それ』で在り『それ』である。
そのように『それ』はそのままそこに『それ』で在り続ける。
故に、
外にも内にも
何も見る事なく
在れ
在れ
在れ
ただ在れ。
静寂と無為、
無目的と、
無探求の闇の深みに脱落し・・
完全なる、
沈黙そのものと共に在れ。
・・・・・・・
暗黒宇宙の無法地帯
古来より、インドでは、法は、次のように、たとえられてきた。
思考の迷いは雲、そして、悟りは青空である、と。
思考の切れ間に青空はある。
そして、それはいつでも、最初からそこにあったのだと。
この青空で『在る』ことは悟りと言われる。
通俗的な禅は、ここで終息する。
・・・・・・・・・
次に、いや、雲も青空も同じだ。そんな分別はない。
雲は雲、空は空。そのままでいい。
という悟りと迷いの分別を捨てるという別の分別、
または分別を超えた、悟りを得る者がいる。
それは空と雲を区別しないという悟り、つまり、
悟りも迷いもない、とする悟りである。
しかし、覚えておきなさい。
悟りも迷いもない、とする悟りが、禅では最後の大悟であるとするならば、
『超悟』というものが、宇宙には存在する。
それは、悟りと迷いがないという『悟り』があるのではなく、
本当に悟りそのものも、迷いそのものも、
どちらも消え失せてしまう境涯だ。
それは事実は境涯ですらない。
境涯も存在できない、ただの無だ。
すなわち、やれ雲だ、青空だと言うが、
その向う側には深淵の暗闇の宇宙が
あなたを殺すのを、無言で待っているということだ。
禅や、悟りなど、そんなものは、
大宇宙の前では、塵にも劣るクズである。
では、一体塵にも劣るクズではない法とは何であるのか?。
我々はどうして生まれて来たのか?。
なんのために?。
どうすればいいのか?。
どうして存在しているのか?。
その答えが欲しければ、空の向こう、すなわち
悟りすらもない無明の闇へ向かうがいい。
その決定的な宇宙の現実の前で、
禅は二度と説法など出来なくなるだろう。
実は、塵にも劣るクズでない法など、何もないのだ。
すべては塵だ。
そして無。
それが、最高の法であり、
法が本来から持つ、
その真実の
残酷さの極限であるのだ。
1993 10/19::EO
ただゆったりと座る
くつろぐときには、
ただ無心に座り、あるいは、横たわり、
ただ何のためにでもなく、
何を知るためでも
何を悟るためにでもなく、
無心にくつろぎなさい。
起きて動くときにも、ただ無心に行い、
片付けるべきことをなすのみ。
何をするべきかが重要なのではない。
何を見るべきかが重要なのではない。
何を知り、悟るべきかが重要なのではない。
静かに座り、また静かに動き、なんであれ、ただ、ひたすら
どちらにも無心で在ることが大切なこと。
寺も僧侶も導師も経典も必要ない。
座禅は悟るためではない。
座禅は苦悩や迷いを解決するためのものではない。
ただ、何のためにでもなく、
無心にくつろぐだけだ。
悟りの結果として、無心となるのではない。
無心に居るだけで、既にそれが悟りと知り、
にっこりと、ほほ笑むだけである。
ならば、修行とは一体何であったのか?
それは、ただ無心にくつろぎ、落ち着き、無心に生き、無心に死ぬだけ。
ただ、それだけでよかった、
ただそれだけが貴いのだったと知るまで、
不必要な、ただならぬことを追い求めて、
それがどれほど不必要だったかを知るまで
不必要な事をし尽くすことが
修行のすべてである。
悟りを開きたければ、
まず無為や無心の静けさと無心の行為を『好きに』なるがよい。
好きこそものの上手なれ、である。
無心を、まず『好き』にならずに
どうして無心にくつろげよう。
それを、『まず好き』にならずにどうして無心と仲良くなれよう。
修行、求道、座禅、動禅、みなことごとく、それがつらく、
迷って、苦悩するようなものであったら、
どうして無心と仲良くなれようか?。
もの思わず、座り、動き、
求めず、期待せず、構えず、
ただひたすらに迷いも悟りなども忘れて、
無知、無力の無心に身も心も任せるがいい。
その結果、悟るのか、その結果どうなるのか、
その結果いかなる力や知恵が見付かるのだろうかと
思いめぐらし、無心になれないならば、
あなたはもっと遠く、
宇宙の果てまで迷うべきだ。
徹底的に、とことん、迷うことが必要だ。
それがあってこそ、初めてあなたは
我家のよさを知るからだ。
ただ、無心にくつろぎ、無心に動く。
仏性とはただ、それだけである。
ただそれだけでよかった、
それだけが最も貴いのだと悟るまでの長い旅、
それが迷いである。
1992年 7月20日 無名庵
EO流の信心銘
頭頂とうちょうにいれば、すべては明瞭で隠されたものとてない。
眉間が、ほんのわずかな区別でもすれば、天と地は無限に別れる。
善し悪しの葛藤が心の病だ。
頭頂は大いなる虚空のように完全だ。
思考のもつれの中にも無思考の中にも住んではいけない。
何を求めるでもなく、頭頂に留まるがいい。
迷いと雑念の実在を否定すれば、そのものの事実を見逃す事になる。
心の静けさを主張すれば、そのものの事実を見逃すことになる。
それに取り合えば、取り合うほどに、真理から遠くへ離れる。
真理について、語り、かつ考えることをやめるがいい。
頭頂はそれに「ついて」は何も言わずに『それ』であり続けている。
あらゆる相補性は頭頂の一如から生まれるが、
その一如にも、囚われすぎてはいけない。
その囚われをも、さらに中和するために闇がある。
光への思いは、対象が変化(へんげ)して対象が消えることはない。
しかし、闇においては、思いの対象である闇すらも最後には消えるために、
思いの主体が消えるのである。
悟りへの囚われさえも、脇道だ。
この頭頂の、ただひとつの住み家にいたいなら、
感覚と想念の世界を嫌ってもならない。
頭頂の眼が眠らねば、一切の夢は自ずから止む。
静けさの中ですら、心がたえず動くのを見て、
あわただしさの中でも、静かなるものは静止しているのを思え。
そうすれば一切は止まることなく流れ、記憶する者もいない。
ただちに実在と調和するためには、
疑いが起これば『ただ頭頂に留意』するがいい。
この留意の中で、何ひとつ分離されるものもなく、また排除されるものもない。
時と所は問題ではない。存在と非在に境界はない。
頭頂留意と闇の脱落も、また同じである。
識別することなく、融解し去れ。
そうすれば、昨日もなく、明日もなく、今日もない。
あなたは誰でもない
私は本当は誰なのか?・・・私は、誰でもない存在だ。
私は本当は何なのか?・・・私は何者でもない存在だ。
なのに、社会や親は私に言う。「人間らしくありなさい」・・・などと。
しかし、これは嘘にすぎない。私は人間らしくする必要などはない。
また宗教や精神世界は私に言う。
「あなたは本当は超人になれる。
あなたは本当は高度な次元からやってきた。
あなたは本当はアートマンだ。
あなたは本当は生まれ変わる魂だ。
あなたは本当は生まれながらに仏なのだ」・・・と。
しかし、これらは全部嘘だ。私は誰でもないし、何者でもない。
だから、私は何かになる必要もないし、何かである必要もない。
私は誰でもないし、何者でもない。
私は男でもないし女でもないので、
男らしくなったり女らしくなる必要はない。
私は人間ではないのだから、人間らしくなろうとする必要もない。
私は神聖な何かではないのだから、
神聖な魂や進化する生き物である必要もない。
私は究極の観察者、あるいは悟りやサマーディですらないのだから、
私は自分を観照したり、分析したり、動作に注意深くしたり、悟ったり、
サマーディを目指す必要など、どこにもない。
*********
この世に生まれると、何かになることが始まる。
何かにならねばならない生活が始まる。
何かのために何かをやらねばならない生活が始まる。
しかし、私は何でもない存在なのだから、何になる必要もなく、
何かの為に何かをする必要もない。
もしも、一切何もしないと人はどうなるか?
もしも、そうすると、「人は死ぬ」と言われてきた。
だんだんと、やがては衰弱し、脳がバカになり、死ぬと言われて来た。
もしも一切何もしないと人は「生きている価値をなくす」と言われて来た。
「生まれて来た意味もなくす」と言われてきた。
しかし私は元々誰でもないのだから、生きている価値を失うことなどない。
なぜならば、失うような価値そのものすらも、私の生命にはないのだから。
私は、元々何ものでもないのだから、生まれて来た意味を失うこともない。
なぜならば、失うような意味そのものも、私の生命にはないのだから。
あなたたち人間はこう言う。
「我々は生きているんだ。我々は特別な生物だ。
我々は何かになってゆくんだ。我々は死んではいけない」と。
しかし、いま私は疑っている。私は本当に今ここに生きているのだろうか?
もしも生きていると言うならば、ここにいるのは、一体なんだろうか?
肉体だろうか? 精神だろうか? 本性だろうか?
はたして本当にそうなのだろうか?
そして、人間はそんなに特別な生き物なのだろうか?
しかも、一体、何と比べて特別なのだと言うのだろうか?
そして、本当に私は何かになっているのだろうか?
実は何ひとつも変わっていないのではないだろうか?
そして、私は死んではいけないのだろうか?
実は、私は生きていないかもしれないのだから?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私を、生きていると思わせる原因がいくつかある。
ひとつ、それは私の肉体の感覚だ。
肉体の感覚があるから私は自分と外側を隔てる。
もうひとつ、それは私の思考だ。私は記憶をもっている。
しかし、それはすべて私が集めた記憶だ。だから、記憶は私の持物であり、
その持物が私が自分と他者を区別する原因になる。
人は「記憶を失ったら、自分ではなくなる」と言う。
しかし、もともと誰でもないのに、記憶を失って自分を失ったところで、
なにひとつも、私に困ることなどない。
もしも困るとしたら、それは私の『自分』という思いが困るだけである。
記憶を失うことは、人間にとって機能喪失になるので、
生きてゆくのに不便になるということはあるだろう。
だが不便になるだけで、私は死ぬわけではない。
さて、もうひとつ、それは肉体以外の感覚だ。
肉体や思考以外にも、私には、感情と呼ばれるもの、
あるいはインスピレーションや霊的感性と呼ばれるものがある。だから、
私は時には自分を「肉体や思考以上の何か」だと思いかねない事もある。
こうした、感覚があるために、私は自分が「ここにいる」と思う。
しかし、何かの感覚があるからいる、ということにはならないのを、
私は知っている。錯覚、幻覚、夢、いずれも、感覚はあるが、
それらは、私がそこに実在していることの証明とはならないからだ。
私がいる感覚があるから、私がここに実在しているのではなく、
私にいろいろな感覚があるから、
私はここに私が実在していると『思うことが出来る』のみである。
確実な実在はない。確実な私はない。確実な世界も宇宙ない。
そうした感覚を生み出している肉体や物質があるから感覚があるのだ、
などと言ってみても、もしも肉体や物質と「知覚されている」もの全部が
『夢』だったとしても、どこも不思議ではないからだ。
いろいろな『感覚の総体』の中に「私の世界も私の宇宙もある」。
「生物が生きて行くのに必要だから感覚があるのだ」と学者は言うだろう。
しかし機能をするためだけならば、感覚や精神活動は特に必要ないという事
を鉱物や機械は我々に示している。
生きているというのはあなたの思い込みだから、
あなたの生きているという感覚は「生きて行くために必要なのではなく」
生きていると、あなたが『思い込むために』のみ必要だったのである。
そして、あなたが『生きている、存在している』と思い込むことから
実に無数のものが生まれる。
あなたは、生きていることを「当たり前」のことに思うようになる。
あなたは、生きようとすることを「当たり前」のことに思うようになる。
あなたは、動くことや、生きるための何かをやることを、
まるで、「当然のことのように」思うことになる。
そうすると、あなたは生きていないことを「異常」に思うようになり、
生きようとしないことを「異常」に思うようになり、
生きるための何かをやらなかったり、自分がただじっとしていたりすること
を「異常に思う」ようになるのだ。
だがこれらはすべてあなたが、生きていること、生きるための活動と興奮、
そして生きている実感をまるで「当たり前の前提」として、
「思い込んでいるために」起きてしまうことだ。
さらにあなたは単に生きているのではなく、
「自分が」生きていると思っている。
そこで生きているのは、
「自分の肉体であり自分の記憶であり自分の感覚である」と思っている。
そしてさらにはそれらを常に「生きている状態」にあらしめようとする。
だからあなたは生きている実感がなくなったり、
生きているという感覚がなくなったり、
その生きている事の主人公であるあなたに異変が起きると、
あなたは不幸や不安を感じることになるのだ。
そして、その異変とは常に、「いつものあなたではない状態」の事を言う。
あなたは生きている事を『当たり前の前提』としたために、
死ぬことや死ぬようなことになる徴候や病気を異常な事に思うのである。
しかも、あなたには、いつもの自分があるので、
いつもの自分でいられないことが起きると不安になる。
あなたは、いつもの自分を持っている。
しかし、時には変化したいとも思い、いつもの自分を少し捨てたり、
変えてみては、少しずつ違う自分になる。
しかし、常に状況に慣れてゆくことで、やがてはその慣れてゆく自分が、
「いつもの自分」になる。
そして、多くの場合には、いつもの自分を守るのがあなたの目的になる。
逆に「変化が好きだ」という私がいても、その時は、常に「変化する自分」
こそがいつもの自分だと思うので、
そういう時の私は「変化がない自分」を恐れては不安になってしまう。
どんな形であれ、あなたはいつもの自分、普通の自分でなくなることを恐れ
そして変化を恐れたりする。
こうしてみれば、結局のところ「快楽と不快」によって起きる『感情』だけ
があなたの『判断基準』にすぎないのである。
すなわち、知的判断というものは最後の最後まで人間にはあり得ないのだ。
どんなにある判断を知的判断だと言っても、常に人間はその判断の結果が
「快楽になるため」の判断をするからだ。すなわち、人の知性は、常に快楽
のための奴隷にすぎない。知性という部下の方針を決定しているのは、知性
ではなく、人の感情的判断であり、そしてそれらの基準は、常に人の快感と
不快の経験から来るものである。
実際には、知性が人間を支配した試しは、人類史上ただの一度もないのだ。
知性そのものが、そもそもどうやって快楽を発生し、さまざまな飢えの苦痛
や不足感を軽減するかという目的の為の『快楽の道具』にすぎないからだ。
だから人間は「知性的」などという言葉に騙されてはいけない。
すなわち、断じて、快楽が知性よりも下位にあるということはあり得ない。
知性が快楽よりも上位にあるということはあり得ない。
つまり知性は決して純粋に知性的発達をするのではないということだ。
知性は常にそれが作動する「動機」を持っている。そして常にその動機とは
あなたが苦痛(=大きすぎる変化)を軽減し、
一方で快楽(=軽い変化)を増やそうとすることの為にのみにある。
知性は純粋に知性的に発展するのものではなく、
必ず常に目的と魂胆があるのだ。そしてどんな目的も魂胆もそれはあなたが
ちょっとした変化としての快楽を増して、一方では大きな変化としての苦痛
を避けようとする事に由来する。
さて、なぜあなたが大きな変化を恐れるかという原因は、
大きな変化はあなたの死や消滅に切迫してくるように見えるからである。
なぜ小さな変化は受け入れるかという原因は、
あなたは心身共にじっとしていられる生物ではないからだ。
さて、もしも、仮にあなたが生きている、と仮定すると、
あなたには、2つだけ、やらねばならないことが起きる。
ひとつ、それは、どんな微細であっても『動き続けること』である。
もうひとつ、
それは動き過ぎて壊れることのないように『動きを抑制すること』である。
これが宇宙に生きている生物すべての基本である。
それは永久に終わることは出来ない。生き物は決して止まってはならない。
また、生き物は、決して動き過ぎてもいけない。
私と万物は宇宙という檻の中のペットのようなものだ。
生存するために、最低限のことには、動かねばならない。
まったく動かねば、あなたには「死」がやってくる。
しかし、動き過ぎればすぐに「故障」が待っている。
あなたが、もしも平均的な幸福、あるいは、ささやかな安心、
そして、適度な変化による快楽や娯楽が欲しければ、
あなたは、今のままの生活や思考活動で十分に事足りるだろう。
*********
しかし、生まれて以来、ずーっと何かが違う、
何かが足りない、決定的な満足や安心や、落ち着きやあるいは逆に決定的な
恍惚とした快楽がない、という不満があるとしたらいま一度、
あなたは「人間性」という学校そのものを『停学』してみる必要がある。
そして一度は、あなたは宇宙や存在や神や高次元という檻から
『脱走』してみる必要がある。
すなわち、あなたはすべて一切を『離れてみる』必要がある。
『絶対無』の中にあなたの身を投げてみる必要がある。
人生を棒に振ってみる必要がある。
なにもかも、どうでもよくなってしまう必要がある。
それも、心底から、一切の例外なく、何もかもがどうでもよくなり、
清々してしまう必要がある。
いずれにせよ、あなたが、時に、もう全部うんざりだ何もかもをやめたい
何もかもから自由になりたい、存在も自分も嫌いだ、
「生存そのもの」が嫌いだ、
存在というものを『休息したい』と思った時には
『いま、ここ』へと、戻ってくるのだ。
今ここには、生死はなく、今ここには、私もあなたもいない。
今ここには、快も不快もない。
今ここには、どんな神も宗教も世間常識もない。
今ここでは、あなたは、どんなものになる必要もない。
今ここでは、あなたは、どんなこともする必要はない。
今ここでは、あなたは、何で在る必要もない。
今ここでは、あなたには、座禅や瞑想的状態すらも必要ない。
今ここでは、あなたが存在しているという思いすらも必要ない。
今ここでは、あなたが死んでいるという思いすらも必要ない。
今ここでは、あなたの記憶も必要ないし、感覚も必要ない。
今ここでは、あなたは生きるために奮闘する必要もない。
今ここでは、退屈しないために自分を奮い立たせる必要などもない。
このように、まったく、何ひとつも必要なしの状態に在り続けること・・・
否・・まったく必要なしの状態をあなたが作るのではなく、
すでに、まったく何ひとつも必要なく、
何者でもないあなたと共に時間を止めて『寄り添うこと』、
それが瞑想であり、座禅、サマーディである。
それは、人間が生まれて以来、ずーっと、
自分でも知らずに憧れて来たところの・・・
男でもなく、女でもないあなたであり、人間ではないあなたであり、
そして生死でもないあなたであり、
生まれ変わる魂でもないあなたであり、
あなたは生まれることもなく、死ぬこともなく、
あなたは何ひとつも探すこともなく、何も見付ける必要もなく、
あなたには悟ることもなく、迷うこともない。
あなたには、在ることもなく、無いこともなく、
あなたは沈黙し続けるものであり、微笑し続けるものである。
それは、絶対の非認識、絶対の無知、絶対の無名、
絶対の無人、無神にして、
絶対の無佛であり、絶対の無法、絶対の無僧なる、
存在の故郷にして、意識の我が家、
・・・根源と終焉の出会うところ・・・
EO
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