▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
竹の間 : 記録室
▲竹の間へようこそ▲ 家主=黒間玄元:bv
掲示板
島流しリンク
松と梅の間の番外論議の部屋でしたが
今は「お笑い道場」になってます。
楽しいジョークやギャグ、粋なアスキーアート、
諧謔味のある書き込みをどうぞ。
島流しリンクは近々改装致します。
家主は当サイトの開設&管理者もやっております。
「性と死のホームページ」
http://www.mumyouan.com/index.html
★ 投稿記録室です。ここでは新しい投稿が下になっています。★
[2028]
■
●また、余所の掲示板に書いたものの転載です●
by:
ほ う ざん
2002/02/27(Wed)13:25
tokyo-tc061-p58.alpha-net.ne.jp:210.229.71.58:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
雑 感
● そ の 1●
世の中には、「差別」ということに変に敏感で、
「差別それ自体」に敏感な人もいれば、
中には、差別という「言葉」に敏感な人もいますね。
●で、観察してみると、
「差別だ」と他人に言う人に限って、
その人の方が、よっぽど差別的だったり、
差別したと批判した相手と、同じ穴のむじなだったりします。
本当に、差別的でないような人が、
他人の事を「お前は差別している」とののしっているのを
私は一度も見たことはありません。
◆で、この「差別」に敏感な原因は、とても簡単で、
「人間は差別するものである」という、
当たり前の事を理解しようとしないからです。
人は差別をしてはならない、という戒律があるわけでも、
ヒューマニズムがあるのでもありません。
むしろ、
「まず、人は差別するものである」、
という前提を受け入れてないのが問題なのでしょう。
●で、もしも、
「人は差別するのが当然のものである」、
という前提を受け入れるとしたら、
それは、その人の中にも差別が「自覚的に」ある場合、
つまり、「意識化した差別があるとき」だけです。
自分の中に、無自覚な差別を持つような人ほど、
「差別だ差別だ」と騒ぐのです。
●で、もしも「意識化した差別」がちゃんとあるときには、
「自分も人を差別するのだから、
他人も差別をするのだろう」、
と、相手の差別行為自体に、一定の理解を示します。
●そうなると、差別されたから悪いとか、「不快だ」、と言うのではなく、
その差別の根拠は、その人それぞれにあるものであり、
「その差別の理由は、どういう根拠なのか」に知的関心が向きます。
こうした姿勢でしか、
いろいろな差別問題の解決とか、「調停」は出来ません。
◆また、こうした姿勢が、差別という「言葉」や、
実際の差別行為に、極端には「過敏」にならずに、いられる方法です。
差別意識というのは、人としては、当たり前の事なのですから。
変な民主主義とか、変な「平等」という概念から
一度離れることです。
一昔前にも、「平等教育」のネガな面も指摘されて、
「適度な競争も、やはり必要だ」というのも、
教育現場の現在の認識でしょうしね。
● そ の 2 ●
◆「◎◎さんは、ありのままの私を受け入れてくれた」
とか、
「誰か、ありのままの自分を受け入れて欲しい」という言葉も、
これもまた、
「言葉だけ」がわりと世間では、暴走しています。
◆ありのままのあなた(これは一般的にすべての人の事をさします)
を好きになってくれるとか、
「受け入れてくれるもの」、
そんな「もの=外部の対象」は、幻想上の神様?か、
さもなくば、「自然界全体」だけです。
◆人の中にそれを期待するのは愚かですし、
あなたのペットですら、
無条件に、ありのままの飼い主を受け入れたりしません。
◆たとえ、覚者だって、ありのままのあなたなど、好きになりません。
まー、覚者には、そもそも、好き嫌いがないでしょうし。
◆自然界は、確かに人を差別なく、受け入れてもいますが、
一方では、これまた差別なく、自然災害に合わせたりもします。
ですから、何の努力もしないで、
ありのままの自分を受け入れてくれる人や仲間がいる、
そんなものは、幻想もいいところ。
◆ただし、「ある部分」たとえば、精神的なある特定の苦痛や依存症、
そうした、ある特定の部分に関しては、
あなたをありのままに受けとめてくれる誰かはいるでしょう。
同じ痛みを共有してるい者とかですね。
ただし、痛みを共有しているから、治療が出来るという問題では
ありませんけど。
医者がガンになって、ガンの痛みを経験していなければ、
ガンの治療が出来ないわけではないのと同じです。
◆人の社会の中では、
愛される者は、自然に、特定の人からは愛される。
ただそれだけの事。
◆もしも何か自分が相手に対して行っても、
もしも、それが相手に心地よくなければ、
いくら、相手の事を思っていても、愛されることはない。
◆ということで、
「ありのままの、このままの自分を愛してくれる他者」なるものを
もしも万一にも幻想としてみる人がいたとしたら、
それは、絶対に叶わないでしょうね。
「部分的なあなたのある部分」をありのままに受けとめては
くれるでしょう。
でも、「人に対して」望むことが許されるのは、「そこまで」です。
◆あなたの「すべて」を受け入れてくれるのは、
「自然」というか、人格のない何かだけです。
それは、ちょうど、
あたかも、今も、あなたを包んでいる「その部屋の空気」のようなもの。
「いつでも、最初からそこに在るもの」だけでしょうね。
◆で、いつもどんな人をも包み込んでいるような、
ある意味で、普遍的な「受容体」「受容場」が感じられない場合には、
特定の誰かに愛してもらうために、
人は、いろいろと試行錯誤して、無理をしたりしながら、
愛されるための努力が必要になります。
◆自然の愛が感じられない、
自然の愛が、理解できない、
すでに、自然からは受容されている、という事が
どうしてもわからない、・・・・・・
そういうときには、
不自然な愛のために、愛される者に「なろうとする」しかないのです。
でも、それはそれで、人間学習として、いいテーマだと思います。
◆
★
[2029]
■
◆もひとつ、転載です◆
by:
ほ う ざん
2002/02/27(Wed)13:40
この投稿は、年内に書籍化される予定です。
★
■ 掲示板
■ 全館目次(過去ログ他)
- BlackVoid BBS CGI 2002.05.22 -