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Title
「分割自我復元」
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[264]
■
★分割自我復元★その264■ ・ メ モ ・
by:
鈴木崩残
2013/09/28(Sat)09:24:40
・ メ モ ・
●アンケートに回答を戴きましたみなさん、ありがとうございました。
個別には、お礼のメールはしていませんが、現時点までに届いた分は、
すべて、このひとつ前の投稿に、少しずつ追加しながら、
ほぼ無編集で掲載させて戴きました。(7名)
●それぞれの方について、メールなどを通じて、自我復元の開始から
そのプロセスや私生活での出来事をある程度、個別に知っているだけに、
私としても、とても感慨深いものがありました。
●自我率の回復と、トラウマ掘り、どちらが重要であるかについては、
いうまでもなく、それは二輪ですので、片方だけではどうにもなりません。
もしトラウマ掘りだけで済むのであれば、世の中のカウンセリングは
とっくにその成果を出していなければなりませんが、
そのような回復事例は、ほとんどありません。
自我率だけ回復すればいいのでしたら、それは誰にとっても楽ですが、
約3年が、経過してみると、結局は、
自我率が低いときに無抵抗なままに食らった(あるいは抵抗しても力不足による)、
「傷」の回復のために、どうしても、トラウマを掘る必要がありました。
●トラウマ掘りが不完全なまま止まると、なぜ自我率の回復まで止まるのか、
これは私にとっても、不思議なことの一つでした。
別に、トラウマ問題が解決していようがいまいが、自我率だけは、
そのまま100%になっても良さそうであるのに、
ほとんどの場合に、上限が95%〜98%で止まっています。
判定をする私としては、トラウマが掘れていようがいまいが、私の感覚から見た、
その人のトラウマの有無や、理解力には関係なく判定をするわけですが、
どうしても判定結果も、同じく止まっています。
全然、トラウマ掘れていないじゃないか?という人が、
そのまま100%になった事例があっても良さそうなのに、それがないのです。
●こうなると、トラウマAC人格には、全自我を引き継ぐ資格がない、
という解釈も成り立ちますが、まだこのあたりも、不明確です。
いままでの事例を当掲示板や、復元ブログで見てきた人は分かるように、
98%までいっても、完全なトラウマAC人格が、
その人のほとんどを仕切っていることが多々ありました。
そのAC人格だけを見たら、まるで1/4自我以下です。
実際、その人の社会や私生活でも、幅を利かせているのは、そのACトラウマ人格ですから、
何事をやっても物事が、最初だけ良くても、あとがどんどん萎んでゆくのは当たり前です。
●残った膨大な量の自我は、使い手のいないまま保存されています。
それは、腐ることも減ることもありませんが、
現実や内面の問題解決には、何の役にも立ちません。
せいぜい役立つとしたらば身体機能や免疫の機能の一部が自動的に改善されるのみです。
●一方で、トラウマAC人格をクビにして、粉砕してしまった、
あるいは、粉砕のプロセスにある人は、見違えるように変りました。
むろん、それはトラウマAC問題の解消が進んだからということもありますが、
それは自我率がかなり高くてもまったく掘れない人がいます。
しかし、自我復元をしないとトラウマは決して掘れない。
この関係というものが、まだ私にも、はっきりとは分かりません。
●生まれつきの全自我が、トラウマやACになることはありませんので、
自我がトラウマやACの影響を受けるなどということは想定されていませんでした。
今では、トラウマやACの蔓延は地球では当たり前になっていますが、
逆に言えば、その方が、きわめて異常な事態であり、
自我をもしも設計した人が見たら、「なぜこんなことになっている?」と
いぶかしむと思います。
●もともと、自然の中で天然に育った果実と、
長くビニールハウスの中や、品種改良や、遺伝子操作をされて、味も薄められた果実、
後者の果実が、本来の味を回復してゆくプロセスなどというものが、
そもそも、前例がゼロであったために、
その自己修復のプロセスには、まだ謎の部分があります。
●しかし、とにかく、全自我に戻る人は今後も増えますし、
そのためには、どうしても、いじられてしまい、歪められた味の原因は、
その原因を取り除く必要があることは間違いありません。
●たぶん、もともと、「自我」(これは元来の全自我のこと)には、
それが目指していた意識体験の実験課題というものがあったのだろうと
私は推測しています。
それ自体にも、私は全面的には賛成できませんでしたが、
ただし、地球型の自我には、宇宙での希少価値とメリットがあるのは確かでした。
●その元々、自我が想定していた効能が、よそ者の干渉や侵入によって、
彼らの手抜き作業のために、希釈自我などという、
とんでもないものを生み出したために、
トラウマACの弊害というものは、その自我の希釈・分割「以後」に、
長い時間をかけて、病理として定着してしまったものと思われます。
******************
●以前に、「新子(あたらし)」さんの復元報告は、
勝手な誤解、曲解、模倣を無自覚にする人がいそうなので、
公開しないことを決めていましたが、
公開しても、「支障のない、ほんの一部のみ」今回は、掲載します。
・略・
5/29
ひどく怯える自分。ひどく不安を感じる自分。
それを見ているもう一人の自分がいる。
そのもう一人の自分は、とても落ち着いていて
か弱い自分を見てこう言っている。
「その不安は本物か?」と。
今ここにある不安なのか。
それとも自分の記憶の合成によって作られた
架空の不安に怯えているだけなのではないか?と。
自分の気持ちを客体として切り離して見ている自分がいる。
こいつは一体何だ? 私が望む不動の自分なのか。
訪れてもいない仮想の未来に怯えている私は一体何だ?
不毛である。
今ここにないものに怯えてどうする。
私の思考が、現実が、そんなものに汚染されていいわけないじゃないか。
今を生きるとはそういうことじゃないんだろ。
目の前の現実と思考のバランスがまるで取れていない。
考えている、妄想している。そんな自分を見ている自分。
今私はこういう状態であるという記録。
・略・
6/10
身体の変化(発汗について)
二日前に久しぶりに車で遠出をした。
私用でそこへいくのは約5年ぶりだった。
道を覚えていたはずなのだが、5年も経てば記憶も曖昧になる。
そして案の定、全く知らない道を走ってしまうハメに。
車にはナビが付いておらず、記憶となんとなくの方向感覚で走っている。
私は特にこういう状況になると、結構焦るのである。
ちゃんと目的地に着けるだろうか、とか
今現在の場所はどこなのか、とか
知らない道から、知らない道へ走って最終的に迷子にならないか
とか考えると不安になり焦り始める。
するといつの間にか、手には汗ビッショリかいて
拭っても拭っても汗が出る。 のだが・・・
それが全くなくなった。
これは自分でもかなり驚いている。
焦りの時の発汗なんて意識して抑えられるものではない。
これも復元による変化なのか?と運転中に考えた。
心の中は焦りはあるものの、どこか落ち着いている自分もいる。
これは一体何なのかと不思議に思う。
・略・
6/25
強烈な自己感覚が発生したのが昨晩だった。
それは初対面の人と会った時に「自分がここにいる」という
あまりにも当たり前だが、今まで感じたことのないほど自分を感じた。
目の前に人がいる。それを見ている自分。
相手を見て、自分を感じて、自分の存在感がここにあるという
あまりにもリアルで新鮮な感覚に驚く。
前回の自我判定の前に感じた新しい自分とは
また少しだけ違うものを自分に感じた。
これは錯覚ではないと。
自己暗示や本や人に影響されて出てくる感覚とは全く違う変化だ。
私は昔から自己存在をどう感じていた?
いつもいつも自分が不確定でぼんやりしていた。
それがいつも不安で不快だった。
けど今は違う。
いてもいいか?
当たり前だろ!そんなの。しっかりここにいろ!
自分の存在を感じた後、ようやく自分を認められた。
これが、とにかく嬉しかった。
周囲から変化とは見られないだろう。
けれど、これは自分の中において大きな変化だ。
私が欲しかったのは、こういうことなんだ。
自分の存在感。生きているという感覚と主体性。
これを今取り戻しているんだと分かる。
だから嬉しい。
この感覚は妙な落ち着きを伴って現れたのが印象的だった。
人と話す時にも落ち着いている。自分の中が少しばかり静かになった。
この落ち着きが、もしかしたら自分の主導権を握ったという証なのかもしれない。
現実感覚と自己感覚が出てきたというか、明確になった?
目の前にある現実を見ている自分がここにいる。
これから先、自分がどう変化するのか、楽しみに思う自分もここにいる。
7/5
目が覚め、それが朝なのか昼なのか確認した後、私にある問が発生した。
私は何をして生きているのか、
というこの生の根本的な存在理由の問いの答えが・・・
いや、確認したものが脳裏に浮かんだ。
自我復元をしている者というのが、その問の答えらしかった。
自分が何者でもない、素の状態から導き出した
私という個体が、一体何と同化しているのか、という答えが
自我復元をしている者だった。
これが****という者をやっている、何かが「見た」ものだった。
目が覚め、物凄い早さで現実に直結した。
その間にはなにがあるのか。
その前の素の状態が無明庵でいう最も大切な意識体なのだろうかと、ふと考えた。
私は****という名前で自我復元をやっている存在なのだと
その「何か」は確認をして、この世界に返ってきた。
その確認作業がなければどうなっていたのか。
ちょっと不思議な経験なのだが、
私は毎日毎日この作業をずっと繰り返してきたはずなのだが
それをちゃんと見て感じることは、今まで殆どなかった。
もっと正確に書くと、
私はほんの一瞬だけ、自分が何者なのか分からなかったのだ。
時間にして1秒ぐらい。それに焦りを感じたのだろう。
目が覚め、辺りが明るいことを確認したはいいが、ここがどこで
私が何者なのかということが、ほんの少しだけ記憶がトンでいたのだ。
そこで慌てて自分を確認する作業を行った。
だから時間にして2、3秒ぐらいだったかもしれない。
・略・
7/9
生まれ変わらなければ(インナーチャイルドの問題)
私はこれまで何度自分を殺してきただろうか。
それすら分からない。
強くあらねばならない。
だから弱い自分を全否定し殺し、強い自分を創ろうとしてきた。
弱い奴は死ね。弱い自分はいらない。自分の居場所を確保するために。
「強く在ろうとした私は更に弱くなった」と前回の報告書にも書いた。
弱い自分を見たくないんだ。だから切り捨てた。もういらないと。
素直で、か弱く、思いやりのあるあの子を捨てて・・・
だってその子はもう見たくないんだ。その子から逃げた。
あの子は弱かった。優しい子だった。
けれどその子のままでは、この過酷な現実を生きていけなかった。
だから私はあの子を捨てて、新しい自分を創り出した。
張子の虎だ。ハリボテと言ってもいい虚像である。
もう弱い自分はいらない。強い自分を創るのだ、
と言って、偽物の仮面を被って生きてきた。
あの子は、ずっと一人で立ち止まったまま、下を向いて待っている。
ずっと一人だった。
家の前で下ばかり見て、何も言わず待っている。
もう一人の自分。あの頃のままの自分。
捨てちゃダメだったんだ。ごめんよ。
家庭は居心地の悪いところだった。
振り返らないようにして、大事な自分と、
その頃の私を大事にしてくれた祖母をも大切に出来ない、
もっと弱い自分を創ってしまった。
だからだろうか。 私の幼い頃の話を親戚にされた時、
とめどなく涙が溢れたことがあった。
みんな幼い頃の私を大切にしてくれたのだ。
それを私は捨てた。
絶対捨てちゃいけないものを、捨ててしまった後悔を私自身が感じたために、
涙が止まらなかった。
15年ぐらい前の話だっただろうか。
あの頃、自我復元があって、インナーチャイルドの話があれば、
その時分かったはずだ。 私はその大粒の涙をどう活かすこともできなかった。
あの頃の記憶を、、、本当の自分を、弱かった自分を見たくない。
けれど見てしまったら涙が止まらない。
私が全自我生まれだったら捨てなかったとか、
この環境だったから捨てざるをえなかったとか。
そんなこと今更言っても仕方ないんだ。
私はあの頃、本当は家族が大好きだった。
父も母も祖母も妹も好きだった。
それが今では、
自分の家庭は一生作らないと豪語するまでに変わってしまった。
家族のことを好きだった私を、私は捨てたんだ。
私は捨てたあの子から、ずっと逃げてきたんだ。
あの子は何をして欲しがっている?
捨てた私を許してくれるか?
もう一度やり直せるのか?
無垢で自由奔放で無邪気で何者からも抑圧されていない、
優しかったあの子とバトンタッチできるだろうか。
家族が好きだった。子供が好きだった。面倒見が良かった。
あの頃の自分。
・略・
その日の夜に、真っ暗な部屋の中で一人、目を瞑り
幼かったあの頃の私と再開した。
家の軒下で一人でずっと待っていた。
背も小さくて、しゃがまないと目線が合わない。
ごめん、ずっと待ってたんだね。
このバトン受け取ってくれるかな。
そう言ってあの子にバトンを渡し、そしてこう言った。
「おかえり」
7/10
劇的な変化。
昨晩あの子とバトンタッチした翌日。
まず朝の目覚めが違った。
身体が軽く、いつもよりも早く目が覚め
疲れが取れて気怠さを感じなかった。
日々の体調の変化もあるかもしれないが、いつもと違っていた。
その大きな変化を感じたのは、その後だった。
朝一番で父と会話した時のことだった。
妹の具合が良くないという知らせを聞いた。
私はそれを一切逃げずに、冷静に聞いて
それをちゃんと現実の問題として捉え続けた。
これは当たり前のことなのだが、
これまでの私には絶対に無理だったことのひとつである。
家族という最も身近な足元の問題から、逃げ続けていたのを、
私自身が分かっていた。
けど見たくない、関わりたくない、向き合いたくない、
という拒絶反応を見せていた。
しかし昨晩、もう一人のあの子を私の中に取り込んで変わった。
逃げるとか、逃げたいとか、見たくないとか
もう、そんなこと言う者がいなくなったのだ。
現実から逃げるという選択肢がなくなるというのは
こういうことなのかと思った。
それは解決すべき問題なのだと。
私自身の直接の問題ではないが関係性はある。
そしてその問題を根本的に解決するには
どうしたらいいか、ということに関心が集中する。
その集中と思考する時間が、以前に比べて飛躍的に伸びたことに驚いた。
何が最善の方法なのか。私に出来ることは何か。
これまで私が拒み、出来なかったことが
今なら出来るんじゃないかと、考えている事自体驚きなのだ。
ふと思った。
昨日バトンタッチした「あの子」は私よりも強い子だと。
この子と一緒に、
いや、この子がこれからの私を形作って行くのだと思った。
自我復元を始めてから感じた、最も大きな変化。
それをいま感じている。
そして今、すごく落ち着いている。
・略・
7/17
「私の将来の心配よりも、私の心配をしてくれ。
未だ訪れぬ架空の未来を心配するより、
今ここにいる私の心配をしてくれ」
あの頃、私が言いたかったのは、これだけである。
その時の私の心の痛み。
私を傷つけるすべての世界から離れ、一人きりになりたかった。
それをさせなかった両親。人の心の傷というのも。
心というものを全く無視した教育方針が私を作り上げた。
弱っている者を見てもなんとも思わないのだろ。
私が憎かったからあんな仕打ちをしたのか。
どうして私を憎む。どうして私はこの二人を憎む。
言うことを聞けという親。それに反抗する私。
子供の人生設計をするのが親の役目だろうか。
人生とは個人個人が、それぞれに作り上げていくものだと思う。
子供が歩むサポートをするのが親のつとめではないのか。
その親が想い描く子供の理想像を身勝手に子供に当てはめてみたり
その親が叶えることのできなかった夢の代行者に仕立て上げてみたり
子供の意思とは無関係な世間体のために、いい学校に行かせたかったり
自分が立派な親であることをアピールするために子供を利用したり
そんな歪んだ願望の下で子育てをすると、その歪みはダイレクトに子供に伝わる。
○○さんところはどうだとか、△△に勤めればオレも鼻が高いとか
とにかく見栄っ張りで世間体が大事。
未来を大事にして今を殺す。
このやり方が私はどうしても許せなかった。
今の俺を見てくれ。こんなに傷ついてる。休ませてくれ。
いくらそう言っても、その声は親には届かなかった。
私よりも出席日数と成績を大事にしたバカ親。
休ませてくれ、という私に
「休んでどうするん?」「休んでどうにかなるん?」
なんという心無い言葉だろうか。
私は深く傷つき失望した。
この親には一体何が見えているんだろう。
目の前の現実など、どうでもよくて、
ありもしない未来を勝手に不安視していた。
・略・
これまで私は自分と向き合い考えてきた。
私の弱点、欠点。 ここおかしいだろ?というもの。
その最重要の弱点は家族と向き合えない自分。
本当の自分を家族の前でさらけ出せない弱い自分。
それが分かっていた。というか最近気づかされた。
今現在それを行動として実践しているのだ。
とても重要なことを今やっている。
これまで私は、子供は嫌いだ。
絶対に自分で家庭を持つことはない。
いや、持つことは許されないと思っていた。
なぜなら代理復讐の場を作りかねない自分がそこにいたからだ。
それは自分の子供ではなく、妹の子供なんだが
昔ほどイライラしなくなった。一緒にいても割と平気でいられる。
歪む前の自分はきっとこうだった。それがいま、ようやくわかる。
こうすべきだ、こうあるべきだ、
そう言っていた私自身は本当に正しいのか。
正しいという基準が、そもそも歪んでやしなかっただろうか。
自分の正しさの証明はどこにある?
私はなぜそれを求めるのだろうか。
求める動機が、あまりにも過去に自分が認められなかったという、
反動から来ているのではないか。
認められようが認められまいが
私はありのまま等身大の自分がここに居るだけではダメなのか?と
最近思うようになったのだ。
過大評価も過小評価もせず、いまの自分を見てみようじゃないか。
自分はこうなんだ、こうあるべきなんだ、というコジつけはもういい。
コジつけでもなく、妄想で出来上がった自分でもなく、特別な存在でもない、
特別であることを求める以前の私。
その私は、すげー暢気なのだ。 すげー暢気な私は、
コンプレックスからくる理想を求めるわけでもなく、
トラウマの反動からくる私の理想像でもない。
その暢気具合がとてもいい。
作られた偽人格では、もう限界なのだと。
何も発展しない、成長しない、
そんなものは全部嘘っぱちなんだから、
捨てて当然なんだ。
成れない何かに成ろうとする私こそが嘘くさい。
嘘くさい私が何かに成ったところで、
果たしてそれは本物と呼べるだろうか。
どうしてそのままで居られなかったのか。
弱さ故、強さを求めて弱い自分を捨てたが
作り物のハリボテじゃあ、本物にはなれない。
本物になりたい本物への憧れは、
私が、弱い奴だと言って切り捨ててしまった「あの子」が
その種だったと、実は薄々気付いていたんじゃないのか?
あの子はそんなに強くもないが弱くもなかった。
それを弱いと見限ったのは私だろ。
そんなに強弱で見ないほうがいい。
もう、ここで「私だろ」と言ったことに違和感がある。
もうそれは私じゃないよ。
・中略・
8/20
今の歪んだ人格となった原因が必ずある。
それは主に恐怖によって萎縮させられた経験が基盤になっている。
人の顔色を見る、話をつい合わせてしまう、
望まぬ方へ話が進んでいるのに止められない。事勿れ主義。
問題を作り出してしまうのを嫌う。
恐怖で萎縮してしまう、
そんな弱い自分を否定するように強がってみせる。
それは恐怖とそれを感じる弱い自分という、土台があって
それを隠すための強がりなのだ。
相手を否定することに慣れていない。
嫌なものを嫌だと言えない。
ここが大問題の原点で、その後に怒りが爆発する。
一番最初に、言葉というツールで否定し嫌だと言わないと
その後は、嫌なことを無理にやっているという現実と自分が残る。
かなり蓄積した後で怒りの解放。
強い相手に言えないから、弱い者に怒りが向いてしまうという捻れが起きる。
学校で嫌なことがあると、家庭でその怒りをぶちまけてしまう悪癖があった。
怒りは直接、怒りを発生させた現場で、全て発散させるべきだったんだ。
思いついたのは「現場主義」という言葉。
問題がそこで発生しているのだから、その場から逃げて
持ち帰ると何も解決しないじゃないか。
そして逃げることに慣れてしまった。
逃げちゃダメだ、という言葉がある。
けれど逃げずに、その現場でちゃんと問題に向き合い対応できるのが、
全自我ではないのか。
希釈自我だからという逃げの口実に使いたくないが
現実をしっかり見ていられるだけの資質が、そもそもなかったのだ。
だから途中で思考停止してしまう。逃げてしまう。うんざりだ。
だから怒りや不満、イライラが蓄積して後々爆発するんだ。
現場で起きる物事を見る、私のストレートな感情。
それを誤魔化すというのは自分への背信行為。
やってはならなかったことだったんだ。
・略・
自分の力だけでは解決できそうにない問題を抱えると不安になる。
もしもまた同じことが起きたらどうしよう、という思考。
今夜が来るのが怖い。
これは記憶が残留して思考に入ってくるから起きる。
思考が妄想を掻き立て、在らぬ未来に不安を感じる。
心に引っかかって抜けない不安。
ここから逃げてはいけない。
逃げても何の解決にもならない。
自分の力だけでは、どうにもできない事態があって
それを全部私が背負い込む必要はない。
しかし、そのことで不安を感じている主体がここに居るのだという
この現実から目を背けることは、もう止めにしたいんだ。
その不安は紛れもない本物なのだ。
そこにいくら偽の言葉を重ねても無駄なのだ。
この不安を真正面から受け止められるだけの、主体性が必要なのだ。
その不安は誰のものでもない、私が発生させたもので、私の管理下にある。
だからそれを、他人にどうにかして欲しいとか、
気休めの言葉で誤魔化したりでは私自身が成長しないのである。
だからこの弱い心をどうにかしたいんだ。
不安にならないために何をどうすればいいのか。
昨日は、仕事場では、私が持てるすべてを出した。
ミスがないように注意を払いすべきことは全てやった。
後悔がないように、私に否が発生しないように。
なのに何が問題なのか。
この不安をしっかり受け入れるだけの私でなければならない。
だから昨晩の寝る前に、呼びかけの時に「あの子」と対面し会話したのだ。
突然あの子の方から話しかけてきた。
「いつまで、それにしがみついているの?」と。
私はその時の自分の心境を全てあの子に話した。
「このままじゃダメなんだ。
もうこの私じゃ限界なんだ。だからお願い、手を貸して欲しい。
いや、キミが新しい私になって欲しい」
しばらくあの子と会話した後で、私は手を差し出して
あの子の手を取って優しく抱きしめた。
あの子は私が作り出したものではないように思える。
完全に1個の人格を持って話しかけてくる。
私はあの子の前に跪いて頭を下げた。
あの子がちゃんと乗れるように自我を整えないといけない。
人格の乗り物。
不安で心細いという本音。
だから一緒にいて欲しいと、あの子に告げた。
すると、ふっと気持ちが楽になった。
何が不安なのか、という肝心な不安の中身を見なければならない。
不安というからには、遭遇したくない状況というのがあるはずなのだ。
意識がボーっとして現実を把握できないのでは話にならない。
せっかく自我復元をして、自我も意識も増えているのだから、使わないのは勿体無い。
意識をしっかり覚醒させて現実を見ないと、口から出てくる言葉は酷いものだ。
何が問題で原因は何であるか。
原因があるから結果がある。
そこに問題が生じれば原因を見つけなければならない。
8/24
精神的な大きな変化。
私の中で最も必要だったものを
手に入れつつあるという実感がして正直嬉しい。
・略・
・・・そうしたことに、ちゃんと対応できるようになったのは
原主体と接近してからだった。
このまま弱い自分じゃダメなんだ。
そう実体験を持って思い知らされると
それまでの人格を捨てて、
原主体に代わってもらうしか成長の方法はないのだと
そういう現実を突きつけられるのだ。
そして何より、この原主体から感じ取れるのは
強弱ではないと言われているけれど
私は「あの子」を決して「ヤワ」ではないと肌で感じている。
タフでしっかり者で、そして私にはない「頼りがいがある」というか
自信とでもいうか、ずっとずっと私が欲しかったものを
あの子は最初から持っている。
それに気づき始めている。だから嬉しい。
あの子とこれから成長していくんだって思える。
これまで私が、ああなりたいとか、こういう職に就けたらとかの空想の未来ではなく、
あの子が求めるものを見つけてあげないといけないんだって。
多分それを見つけたら、
本心からそれに全てを注ぎ込める気がしている。
あの子は決して打算では動かないと思う。
やりたいからやる。
それが本心で、それに対して他人がどう思うかなんて考えて、
やりたいことを我慢するような子じゃない。
きっと今の私よりも更に素直だ。
・中略・
他者を見ていると、
新しいことにチャレンジするというのはいいが、それで失敗して
何も学ばないのでは意味がない。
小手先ばかりの変化では、何も好転しない。
原因を突き止めなくてはならないのに、その原因の追求すらいい加減。
そして間違った判断で失敗する。
*********
>■5-そちらは、何を人生において、最も重要視していますか?
>他者や本に書かれていることではなく、
>御自身の中から実感として確実に、出てくるものだけを書いてください。
自分の最期の時に悔いを残さないような生き方をしたいと思っています。
その為の自我復元であり、生き直しも含めて、それまで私が抱えていた
「何のための生だったのか」というものに答えを出しておきたい。
無目的な生というのが、耐えられなかった。
自分の生きることの価値や意味を、ずっと模索してきましたが、途中で挫折。
しかし自我復元に出会い再び息を吹き返しました。
>■6-ご自身の何かに問題があり、それを解決したいと思っていますか?
>その場合、何を解決したいのか具体的に書いてください。
私の心、精神はまだまだ脆く弱い。しかし弱いと認めた上で、
昔のように弱い自分を切り捨てたり、覆い隠したりするのではなく
真の意味で強くなりたい。
強く振る舞うのでもなく、虚勢を張るのでもなく
ありのままの自分でいられるように望みます
>14-自我復元をしようと思った、最大の理由は何ですか??
私は廃墟のブッダシリーズを読んで
残りの人生は自分の好きなことだけやって生きようと結論付けました。
せめて悔いや思い残しの無いようにと思い、
女性と付き合い、一時は結婚の約束までしていました。
(結局、結婚には至らず別れましたが)
自分の興味の向くものには、積極的に手を出して
自分のやりたい趣味に人生を置こうと考えてました。
**もその一環です。
自分のやりたいことだけやっている。
人生が充実しているはず。なのに何かが違う気がする。
このまま死んで、一切悔いが残らないか?
このままで人生を完全燃焼させることが出来るか?
好きなことをやっているはずなのに、なぜこんな疑問が出てくるのか。
何かが引っかかっている。
それは結局、自分を誤魔化して生きているという
居心地の悪さから来ているものだったと思う。
自己欺瞞、自分の心を欺いて生きている、という不快感。
再び無明庵を訪れたのは、この時期でした。
私が自我復元を知った時には、すでに1年以上が経過していました。
桜の間にはもう数多くの記事があり、それを読んで自問自答しました。
「このままでいいのか? 本当にこのままでいいのか?」と。
それは、何もしなければ何も変わらない、という危機感でした。
このままでいいわけがない。
自分の生きる意味を、生まれたそのワケを、自分の本来の目的を
それらが全て分からず終いでいいわけがない。
私はそれをずっと求めてきたんじゃないのか?
もしかしたら、自我復元によって、長年の疑問に答えが出るかもしれない。
やらなければ何も変わらない、という現実を突きつけられている。
そこから逃げたくはなかった。
これがラストチャンスだという思いで自我復元を始めました。
******************
●最後に、私の経験から、
「原主体」とはどういうものかを定義しておきます。
原主体は、
ただの一度も、
「原主体以外」の意向に沿う言動をした事がない。
________________________________
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