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自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[2403]
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●人権が安いついでに、命も値下げする。
by:
ほ う ざん
2002/11/04(Mon)07:24:02
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●これは行政がやる横暴ではなく、
私がやる「横暴(笑)」です。
ただし、たぶん、やれば一生の仕事になる。
◆第一に、まず「尊厳死」の具体化。
法整備は、黙っていても、国の側で、
ある程度なされるのは目に見えている。
なにしろ、はっきり言って、
新薬の医療実験のモルモットとなる高齢者以外は
社会から「いらない。邪魔」だといわれているようなものだろう。
むろん、これは、それぞれの家族関係とか、その老人の人柄や、
職業や、地域によっても、老人に対する「敬意」は、かなり違うので、
これは、「最悪の扱いを受けた場合」の話の事である。
◆ところがこの最悪の見方をされてしまう高齢者が
都心部では、歯止めがかからないほど増加してゆく。
年金制度もままならない以上、
いわゆる「もう死ぬしかない」という状態になってゆく人達が
増えて行く。
しかも、行政側だって、老人を大切にするだの、
シルバーなんとかと嘘ばっかり言って、結局は、
老人の預金や年金目当てじゃないか?
「利害関係から、大切にする」というだけの話で、
経済力のない高齢者の事は、ただ、邪魔扱いするだけ。
●さらに悪どいのは、
高齢者が何もわからないと思って、
勝手に通帳や印鑑を借りて、金を引き出したり、
そればかりか、借金を抱えさせるような契約をしておいて、
その子供や孫を、その保証人に仕立て上げるというやり口も多い。
こんな扱いされたら、私が老人だったら、
「ようするに、死ねって言ってるんだろう?」と言って死にますわ。
●で、さて、私はというと、
別に社会がこうなったから、
つまり、社会的な(経済が生き残るための)必要性から
尊厳死を持ち出しているのではなく、
ずっと以前から、20歳を過ぎたら、選挙権と同じように
「自殺権」という人が死を選択する権利を認めるべきである
という事は一貫して、言ってきた。
絶版になった「自殺の自由化」という本で、そのことは
書き尽くした。
ネットでも、↓で、その「全文」が読めます。
http://www.mumyouan.com/d/js-i.html
あれは、かなりの「極論」を乱用しての執筆でしたが、
でも、究極的には、論理的には、あれでいいと思う。
●で、尊厳死というのは、いくつかの書類上の条件を満たす必要が
ありますが、ようするに、延命措置の拒否です。
ただし、これは前にも言いましたが、
遺書に書いてもダメ。遺書は死んだ後に開封されるので。
そこで「緊急伝言書」のようなものを必要とする。
●現在、日本ではまだ尊厳死の公式的な事例は
ないはず。(実質的にはあるだろうが)
しかしこれはもう時間の問題で、
本人が生の意味を放棄している事に対しては、
周りがとやかく言うことではなく、
また、周囲が介護にあたっての精神的疲労を考えれば、
「命とは、そもそも、なんぞや」の疑問は当然のものとなる。
●平たく言えば「こうまでして生きている必要なんかない」
否、「こうまでして生きているのは死ぬより苦痛だ」ということで、
問題は、生きているか死んでいるかではなく、
苦痛かそうでないかの問題である。
●「死んだら終わりだ。生きていればこそ、なんとかなる」という、
なんの救いにもならない「うわ言」を保持するよりも、
死んで楽になることが「正」という事は、
既に(宗教信者でないかぎりは)誰もが理解をしていることである。
実際、年間3万人を越える自殺者の存在がそれを物語る。
●世の中には、死んで終わりにしなければならないこともある。
実際、もともと、死は生と全く等質であるからだ。
死を想定していない生などは宇宙のどこにも存在せず、
また、生を想定していない死もない(唯一「解脱という現象を除いては」)
●ただ、その自殺を選択する権利が人間本人にあるかないかで、
宗教は、あいかわらず馬鹿な論議を空転させているのだが、
そのような権利は、確実に「ある」のである。
その事は、私も「自殺について考える空間」のホームページでも
散々書いたし、そもそも、自殺と他殺と自然死などの
定義や区分すらも難しいのである。
●たとえば、明らかに本人が自殺に向かうとわかっている、
時間をかけた生きかたによる
自殺というのも世の中にはあるからだ。
何も首をだらりと吊ったり、飛び降りるというイベントばかりが
自殺ではないのである=つまり緩慢な自殺である。
●ということで、
「なぜ生きているか?」ではなく、
自分は、「なぜ死なないのか?」という
自問を繰り返すことも必要である。
●それで、話は戻り、
まずは、医学的な次元での医療拒否だけには
こぎつけたいし、そのために死を静かに迎える心の準備としての
終末を過ごすための施設を作ってみたい。
●これが日本国内で出来るまでには、おそらく10年から20年。
で、問題なのは、次。
その年齢層や、許可範囲を無制限としてしまう社会。
つまり、いくつだろうが、何が理由だろうが、自殺OKで、
誰も背中を押すこともしないし、
止めることもしない社会である。
●とはいえ、現実には、すでに、誰も貴方の死など止めないのだし、
公共の施設を汚さないかぎりおいては、
すでに、人は自由に死ねるのである。
どう周囲が止めても死ぬ人は死ぬし、
それは、誰かが止めたから、良かったと言えない場合も多い。
また、どう、本人が、もう死にたいと、周囲にわめきちらしていても、
死ねない者は、いつまでも死ねないのである。
ということで、この死ぬ自由は、既に与えられているので、
あとは、本人の踏ん切りの問題のみ。
●で、このことは、
生についても全く同じ事が言えることで、
「自分の生きている理由を他人や家族や社会に押しつけるもんじゃない」。
「自分が死ねない理由も、他人や社会に押しつけるもんじゃない」。
生きるのだって、ようは本人の踏ん切りの問題。
だから、
生きる自由があるのに、
死ぬ自由がないなんてのは、明らかに間違い。
●まー、都会だとなかなか難しいが、
自殺しても死体の上がらない海もあるわけだし、
樹海で死ぬのが迷惑だ、と言うなら、
ようは、「死にやすい場所」ってのがないだけの話。
●あとは、
そばにいた他人がそれを見て見ぬふりしたり、
手伝ったりすると、自殺幇助になっちまうので、
「死ぬなら、一人で、誰にも知られず、発見されず・・・」
●「苦しまずに死ぬ方法」なら、
やはり何かで首を締めるのが一番いい。
以前に他人に首(頚動脈)締められたことがあるのでわかる。
あれは、はっきり言って、苦しむより前に、
やや気持ちよく、気が遠くなるので。
●ただ、問題は、自分の死体を、きれいさっぱり
誰の世話にもならずに、この世から消し去りたいというのが
自殺願望者には結構な「難題」なのである。
ということで、本当なら
行政が「安楽死申請書」を出すと、
「ほいさっ」と、筋弛緩剤でも打って、
「ほほほいっ」と死体は献体とか火葬に回す、というのが、
理想なんだが、そういう時代は、やはり、22世紀以降だろうな
↓
【22世紀の自殺権】クリックしてしばらく待つとその文の頭になります。
http://www.mumyouan.com/d/js-95.html#22C
◆ということで、
自殺権が認められるまでの時代には私は生きていないだろうから、
せめて、重病人の尊厳死の認められる時代ぐらいは見たいね。
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