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[2574]
■
●互いに、感情を出しても 対等にあらず●
by:
ほ う ざん
2003/02/16(Sun)10:49:01
ppp03086.tyo.alpha.hdd.co.jp:218.228.48.86:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
■さんたさんの掲示板に書いたのですが、
あそこは、流れが早いので、誤字など直して、ここに保存しておきます。
{さんちゃんねる}
↓
http://bbs1.otd.co.jp/13571/bbs_plain
*********
●「相手を、無理やり、自分の理解できるレベルに「落として」から、
君は僕たちの仲間だ、と言うパターン」
これは幼児性、というよりも、大人社会でもよくあることで、
「うちは家計が苦しいのよ」というと、
苦しくなくても、「うちも苦しいのよ」と言わねばならない
オバタリアンの井戸端会議もそれである。
また、子供や、若者の中にある、
「マブダチ」と「ただの友達」の違いの妙につまらない線引きにも、
それが現れている。
●つまり、自分と、同罪とか、または同じレベルに
わざわざ落ちてくれた人とか、あるいは、
自分が理解できるレベルの事を表現してくれると、
相手を認めるという病気または(狭い認識)の一種。
●例としては、いろいろあるが、たとえば、
「さむさん」がずっと前に竹の間で、言っていた、最低人間の一人の
「駅で、缶に入ったシンナーを吸えと、薦めるやつ」。
ようするに、自分が中毒している価値観や物事や犯罪に
相手も手をつけさせて、同罪にしておいてから、癒着する。
これは、飲み会で、人に酒を無理に飲ませようとする
会社その他なども同じ。
また、今や、銭湯自体が少なくなったからなくなったが、
やたらに、体育界系ノリのやつは、「裸のつきあいをするんだ」
とかワケわかんねぇーことをいって、「銭湯」につれてゆくやつ。
●これが、たとえば、
「感情をさらけ出したら、相手を対等と認める」などという
前世紀的な、セラピーみたいな考えでも同じこと。
「しゃべり場」という例の、変てこな番組で、
おりしも、「嘘はいけないのか?」というのをやっていたが、
その中でも、いわゆるマブダチと、そうでない仲間の
線引きに、この「何でも相手に言える教」とか、
「感情を素直に表現する教」とか、
そういう、狂信的な基準が存在することは皆さんも分かるだろう。
●これは、カルト教団にも言えることで、
一部のカルト教団を除いては、普通の宗教教団は、
「犯罪」というところへまでは引きずり降ろさないが、
ある意味で、彼らの戒律や思想に従うかどうかを
相手を仲間と見なすかどうかの基準としていることは言うまでもない。
●で、問題なのは、こうした、人生観、
または「人間観に対する狂信」というのは、
カルトばかりでなく、脱カルトのカウンセラーも全く同じである。
ある超馬鹿な「脱カウンセラー」は、
脱会した元宗教信者に、やたらに、下品な下ネタを言いまくり、
そういうことを、脱カルトへのバランスと勘違いし、
また、いわゆる世間的な普通の事を出来るかどうか、
というのを、判定基準とするという愚行をしていた。
●また、「罵倒の手法」これは、
典型的な、ありきたりの「自己啓発セミナー」によくあり、
「自分の恥部を見せたらよし」とかいう「懺悔ごっこ」をしては、
一時的に高揚してしまい、
また、リバウンドして、落ち込むという事の繰り返し。
しかも、こういう古いセラピーは、
宗教団体への「入信前にタバコを吸っていた者」には、
脱会後、「タバコを吸ったら正常だ」みたいな基準があったり、
恋愛してたら、大丈夫だとか、
ようするに、ただ単純に、世俗的なことを出来たらマインドコントロールから
解けたかのような、前提でやっている馬鹿カウンセラーたちもいる。
●このように、
子供同士、若者同士、社員同士、信者同士、ゴシップババー同士、
脱会グループカウンセリングと、
何の種類の「小世界」でもそうなのであるが、
人は、「自分の理解や経験の射程に入るか入らないか」、
ということを、相手を区別する基準として使うものである。
●それはそれで、人が、自分の場や人との縁を見つけるための
羅針盤として機能するからいいのだが、
これが極端に、中毒的な自己主張となったとき、
つまり、単細胞的に、その価値基準になんでも押し込んでしまう。
状況や相手が、その自分の理解範囲の枠に収まらない場合には、
そこで、違いを認めて、
相手を理解不能、または理解拒否とすればいいのだが、
「理解しない相手、自分の理解まで降りてこない者は気に食わない」と、
こうなると、もはや、半狂乱の猿状態(黒間氏言うところの猿状態)。
●で、なぜそうなってしまうかというと、
ひとつには、まず人生の「経験不足」というものがある。
そればかりではなく、また、交遊関係の狭さもある。
(単に人数いてもしょうがない。用は、自分とは、かなり違うタイプの
人や、組織に、深くかかわってみた経験ということ)
●「外交性」というのは、社交の「人数」ではなく、
また、単なる、相手とのかかわりの「深さ」が深ければいいのではなく、
「種類の多さ」が鍵なのである。
この多彩なものが、自分の人生の中に多彩にディスプレイされたとき、
人は、「どこでも通じる、誰にでも通じる、というそんな万能の鍵、
万能な方便、万能な安定方法はない」と分かるものである。
ただし、理屈では分からなくとも、
それこそ、鳥が飛び方を覚えるように、
いろいろな種類の風、高度、天候の中を飛べば飛ぶへほどに
感覚として、それらの調停方法を覚えるようになる。
この調停というのは、コントロールというのではなく、
「作品の構成能力や、バランス感覚」である。
だから、そういうものが欠落して、
やたらに、一本化した、価値観、たとえば、
なんでも、まずは「はっきりと感情を表現することだ教」、などに
陥ってしまった場合には、最もいいのが、
何かの「作品」を作るという行為。
音楽でも、絵画でも、粘土でもいいが、ただし絶対に、
「潜在意識を、はき出すセラピー」としてではなくて、
まさに真剣なるアート、「作品」に向き合ってそれを作り上げる中で、
自分の認識の限界を知る作業とするのである。
■とはいえ、感情を吐き出すプロセスは、
なくてもいい、というところまでの極論は私はしないが、
すくなくとも、この「感情どうのこうの」という段階は、
それこそ、数字で言うなら、
「4」つまり□という家の呪縛から、抜け出そうとする子供が、
それこそペンタグラムの{5}☆のように、手足を広げようとして、
必至に、4(家)からの独立に「あがいている」という初歩的段階。
●このあがきが、4からの脱出や、4からの反動ではなく、
洗練されたひとつの5(☆)になると、
まず、その人は、外見やスタイルが美しくなるのが特徴。
幼児性は、残したものの、いろいろな表現がスマートになってきて、
オーラなども、文字通り、☆形みたいに、手足がすっきりと伸びてくる。
しかし、この段階は、あくまでも「5」であり、
これは、まだ「巣立つ前の状態」。
巣の中で、翼をバタバタしている「ヒナ」である。
●これが空に飛び立つには、
6の手法を獲得しなければならなず、
6というのは、タロットの6でいうなら、
他者との関わりの始まりであり、
その多くは「恋人としての異性」に代表されるが、
その本質は、異性を通じての
「自分の無意識との結合」のことであるのは言うまでもない。
実際には、自己の中での、左と右の翼の結合を意味している。
●で、これが順調に消化されたあとにやってくるのが、
その翼をコントロールして、その戦車に乗った自分としての7。
とても下世話な話題かもしれないが、
格闘技でも、口論でも、なんでもそうだが、
ケンカに強くなる、最もてっとり早い方法は、
恋愛問題を「消化」することである。
ここでも、ゲロはダメ。消化である。
ケンカに強くなるというのは、力の量の問題ではなく、
その調停の仕方、戦法、
つまり「兵力ではなく、戦略。」を学ぶことであるが、
異性関係での葛藤と経験の豊富さが、
それには、最もいい題材ということ。
●異性関係というのは、子供じみた5が、やっと他者を認識した
6(ヘキサグラム)の段階だが、これが場数が踏まれると、
それ自体を「大地」として、または道具として使いこなし始める。
つまり、▲と▼が組み合わさったヘキサグラムの真中に
自分を置いた状態。
全くの余談だが、イスラエルの国旗というのも、
あれは、真中に何かのシンボルや、簡単な図形、
たとえば、中心に▲などを入れれば、
あれほどまでに揉めることもないのかもしれない。
なにしろ、ヘキサグラムの中心が何もないものだから、
あれは、永久に終わらない「結合への葛藤」としての6でしかない。
だから、男女関係が「最悪のもつれ方」をした「象徴」が
あの地域紛争なのかもしれない。
いっぽう、日本は、「●」。実に単純で、禅的でいいね。
日の丸は、政治的には異論はあるだろうが、
国旗のデザインとしては、いいもんだよ。
しかも丸が、100分の1だけ、中心から内側に寄っているんだっけな。
●話は戻り、4という家庭に呪縛されたままだったり、
5という「子供っぽい主観」の中で、自立といきがっていたり、
また、6になっても、ぬくぬくと6の世界にずっといて、
男女関係の切れないしがらみの中で苦しみから抜けられない人も
世の中には、多いが、そこから抜け出して、7という戦車に乗るには、
とりあえず、6という他者(自分の無意識)との
付き合い方の関係性を卒業すべし。
そして、7は、関係性に自分が翻弄されて「使われる」のではなく、
関係性を「使う側」になることで、
ここでは、社会的にも、ひとつの戦術を手にいれるのである。
●象徴的にいえば、
7の段階では、7つの音(ピアノなら白鍵のオクターブ)を手にいれたこと
になるので、情感や感情に振りまわされるのではなく、
「情感を、音楽として操れるようになる」。
●ところが、この7にも、当然ながら限界があり、
やがて、8を必要とし、9へと移行するのであるが、
それは、今回は話題にしません。
(読んでいる人は、消化不良を起こしますから)
●で、もう一度、「5」と「6」の移行の事について言えば、
最初に言った、「自分の領域に相手を引き降ろしてやって理解する」
または、相手が感情を明確にしたら、相手を対等と認めるといった状態は、
たとえば、セックスで言うならば、
ちょっと「すかしたOL」を、くどいて、抱いた男が、
「そら、お前もしょせんは、快楽を欲しがるメス豚じゃねぇーか」
といって、その男の低い世界に、相手を降ろして仲間意識を
持つという、品のない、やり方に似ていなくもない。
女性なら逆に、「まじめそうな男」をナンパして、抱かせてみて、
「あなたも、しょせんは、男じゃない」と言うような、ありがちな世界です。
むろん、相手がそのように「獣みたいに、落ちてみたい」と思って
いる場合には、そこでは利害関係は一致しますが、
そこに利害関係が一致しない場合には、それは、単なる、
「仲間欲しさの寂しい気持ち」から出た、
相手の「引き込み」にすぎません。
●逆のたとえとして、もしも、
抱かれた女性が、
「今まで、経験できなかったから、誤解していたけど、
あー、なんてセックスというのは心と体にとって、
素晴らしいものだったの」
と、歓びに満ちて、幸福感に包まれるとしたら、その場合にも、
その男性は、相手の女性を「引きいれた」事には違いはないのだが、
あきらかに、そこには、「引き降ろす」とは、「質の差」がある。
その女性は、男性の方へ「引き上げられた」のである。
●もっとも、これは「自分の次元領域に相手を誘う」という事においては
同じなのであり、どちらの次元が高いか低いかと
簡単には定義できません。
たとえば、こうしたことは、
宗教の勧誘などにおいても起きているわけであり、
世間を「外道」と見なして、自分たちのやっていることが
高い次元のことだから、相手を引き上げてあげるんだ、
とか、しまいには、
「救済活動をしているんだ」とまで、狂って暴走するわけです。
●だから、どっちの次元領域に引き込むかによって、
そこに「水位の動きが生ずる」というだけで、
必ずしも、どっちがいいというわけではない。
私は、趣味としてはどちらも好きですから、
獣のようなセックスも、たまには、しますし、
タントラの仏像のような静かで深いセックスもします。
どちらかというと、やはり、
相手のセックスの趣味に合わせてあげるよりは、
相手の女性に、
「たくさんセックスしたけど、
こんなセックスは生まれて初めてだわ」と歓ばれる方が
「個人的」には好きです。単に好みとして。
●これらは、どっちもどっちの「良さと欠点」とを持っているのですが、
ただ、少なくとも、世の中には、
「互いの違い」という場合には、
上下の差別ではなくて、「経験の種類の違い」というものはある。
武道で言うなら、技を1つしか知らない者と、
技を8つ知っている者とでは、違いは歴然と出てしまう。
●同じように、人生の経験を
数字にあてはめるならば、
5という一人ぼっちの法皇は、恋人の6よりは、ひとつ経験が少ないし、
7という戦車は、6の恋人よりもひとつ経験が多い、
●つまり「手持ちの駒」が多い、「線をひける座標が多い」
ということで、そういう意味での「差」というものが、
そこに出てくるのは当然である。
それは、相手の人格を対等に認めるとか認めないとか
やれ、差別だとか、優越感だとか、感情の恥部を見せれば対等とか、
そういう単細胞な論理で整理される問題ではない。
空手6段の師範は、別に何の優越感などなくとも6段なのであり、
それは、2段とは、実力と場数の踏み方が違う。
世の中は、平等だとか、神の遍在性と口先で言っても
どうしても「同じ平面」には持ってこられないものがあるのである。
●しかし、それが、わからないのが、
5という数字にいる人たち、
つまり、巣立つ前のヒナとしての、子供なのである。
ここ数年、差別は悪いだの、平等だのという言葉が一人歩きしているから
私も言うのであるが、
人としての「何かの平等性」を認めるという事とは、別に、
「上下関係のようなもの」は、明確に存在する。
それは、指揮命令系とか、権力の上下関係ではない。
それは、この世界の縦横という平面に加えた「高さ」
なのであるから、「3次元を構成する」上で、
なくてはならない「座標軸」なのである。
●誰もが「ある基本部分においては」等しい、
というのは、口では簡単で、知ったような事は言えても、
そのある基本部分というのが分かるためには、
「上下左右の旅」をしてみて、
ただ縦横の、自分にとって馴染みのある平面上をうろついているだけではなく、
明らかに、区分された「差別のある世界」で、
人の下になったり、人の上になったりもしなければ、
文字通り、「縦横無尽な遊び場」を手にいれることは出来ない。
で、その縦横無尽の空間を手にいれたときだけ、
はじめて、その「マトリックス」つまり、基本的な構成要素(母体)が
つかめてくるのである。
■その母体の視点から見れば、
確かに、人にも生き物にも、物体にも差はないが、
母体に差がないことを体験として知っている者ほどに、
もう一度、その差を、自分の好みで作り出したり、
他人や社会が作ってしまった、精神的な差別の中すらも、
達観して、歩くことが出来るようになるのである。
●だから、さんたさんの掲示板でも、
さんたさんは、「違う種類の経験」からものを言っているのを、
まるで上から「見下げて」ものを言っていること」
と混同してしまう事が多いようですが、
せめて、このふたつの区別ぐらいは、出来ないとね。
「上から言う」ということは、当たり前の話であって、
それは、「座標の問題」として当然、どこの世界にでもある。
職人の世界だって、バイトの世界だって、どこでも同じこと。
ただし、それを「見下げている」と感じるのであれば、
それは全くナンセンスな「被害妄想なり」、ということです。
世間では、人を見下げるということをする人は多いだろうが、
少なくとも、さんたさんが、人を見下げた態度は、
私は、あそこで、ただの1度も見たことはない。
たとえ、「お前は馬鹿だ」といおうが。
しかし、他の人の「馬鹿」は、やはり、違うよ。
そういう人たちは、自分が見下げられることを嫌がるくせに、
生活の別の場では、知らずのうちに、他人を見下げている。
そういう人が、かなり多い。(根拠のない私見ですが)
◆◆◆
「数字」についての追加。
もしも自分の限界を感じて、
何かの変化を欲しいと思う人は、
わざと、「制限」=不自由を選んで、
その檻の中で、自分を試してみるといいのです。
この立方体の「檻」こそが、
数字でいう、自覚的な「8」の世界です。
8というシステムの制限を、わざと自分に背負わせる、
つまり不自由をあえて選ぶというチャレンジです。
タロットでは、ウェイト版では、8のカードは、
エネルギーとしての7である獣(かつての戦車)が、
女の人にやさしく、なだめられている。
クローリーのカードでは、これは11に相当し、
これまた、獣の欲望とその満足を、
獣にまたがった女性(8)が統制している。
これは、野生の7の力に「調教という制限」を加えることで、
よりいっそう「7」の力を、さらに引き出すという効果のことである。
これが8の世界です。
(注/ここでの数字は、あくまでもタロットのもので、
十牛図の定義ではありません。)
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