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スクープ!「十牛図」に 狂牛病 感染の疑い
by:
bv
2003/08/13(Wed)09:24:22
saturn.lunarpages.com:64.235.234.50:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; Windows 98):::::
狂牛病と言いましても、牛が狂う方の
「マッド・カウ・ディズィーズ」のことではなく、
人間が狂う方の狂牛病です。
禅には、「十牛図」なる「お伽噺」が伝承され、
色々な解釈があったりして、諸説が入り乱れている、と、
そう思っていたのですが、WEBサーチで調べてみたところ、
大抵のページでは、十牛図の「牛」は「真の自己」「本来の自分」を
表しておるのだ、とか、「牛」は「仏性」の象徴である、とか、
「牛」は「空性」のことだ、とか、その様な解釈が
大変多いようなのです。
その結果として、たとえば、第3図の見牛は「見性、悟り」のことだ、
とか、私から見ると、なんとも珍妙な解釈がとても多い。
また、十牛図は「自分探しの旅」なのだ、とか、
「自己確立の過程」だとか、「自己実現」を表したものなのだ、とか、
そんな解釈も見られます。
で、その様な見方をしてるのは、白人(というかユダヤ人ですが)が
こじつけにこじつけを重ねて「学問」であるかのように思いこんでる
「心理学」等ににかぶれた人間だけだろう、と、思っていたら、
一応有名らしい禅師とか、禅の普及をしてるところの老師とか、
そういう連中までも、同じ様なことを言ってるみたいです。
まあ、アメリカの馬鹿な心理学者により、
エニアグラムが「九つの性格分析」にこじつけられた事例
と似た様に、
どこかに、「牛=真の自己」などと言い出した禅僧でも居て、
それが、弟子やら「禅かぶれの白人」やらに伝わって鵜呑みにされ、
今日に至ったのではないか?と、思って少し調べてみましたが、
あまりはっきりとした出所は、わかりませんでした。
もしかすると、既に中国大陸に於いて、その様な解釈が蔓延してて、
それが日本に輸入されてそのまま続いているだけなのかもしれませんが、
禅で、「本来の自分」とか「真の自己」などというものを重視する傾向は、
関西の一部の禅師に良く見られるので、その系統の誰かが
言い始めた事なのかもしれません。
そもそも、「禅とは真の自己に出会うことです」などという言い草は、
「出会う(対象化)」とか「認識」「真偽判断」などの
「限定を前提とした」見方から出ているものであるし、
「自己」や「自分」に、何らかの絶対的な真実性があるかの様に
錯覚している事から来る見方なのでしょう。
「自分」に「真の」とか「本来の」とか「ハイアー」「高次の」とか、
もっともらしい「良さそうな」形容詞を付けたところで、
「自他」に「分かれた」ものが、「絶対的」になるわけではないのです。
この現象は、「理屈ではないんです」などと言う禅僧が
やたらと滅茶苦茶な屁理屈ばかり言ったりするのと同じで、
たとえ、神秘体験「的」な事を多少経験したとしても、
徹底的に「自分なり」の「理詰めの検証」を行わないと、
ご本人は「理屈が終わった」つもりでいながら、いつまでも
「矛盾バリバリの屁理屈の山」が残ってしまうのでしょう。
で、十牛図に話を戻すと、一体、「牛」は何を表しているのか?
「人」は?「円」は?草木などは何を表しているのか?などの、
素朴な疑問を持つのが普通かと思ったら、さにあらず、
サーチなどで出てくる十牛図についてのほとんどのページでは、
「牛は本来の自分を表します」とか、全く自分なりの考証もなく、
「受け売り」「垂れ流し」の記述に終始するのものばかりでした。
また、「決めつけ」や「こじつけ」をするにしても、
どうして「そう言えるのか」という、
「もっともらしい(ウソの)理由」すら全くなくて、
単に「こうなのです」と書いて、それで終わらせている場合が
ほとんどでしたので、これは、もう脳味噌がスポンジ状になっていて、
「狂牛病」と呼ぶにふさわしい状態だな、と思ったのでした。
そういう私も、数年前に一時期十牛図に興味を持った事があり、
その頃はネットもあんまり普及してなかったし、
禅師の書いた本には、馬鹿なことばっか書いてあるものが多くて
読む気がしなかったので、参考資料はほとんどなしで、
自分であれこれ考えたりしていました。
図などは、OSHOの本に付いてるのを見ましたが、
OSHOの解説は、往々にして、ホラも多いし、
あんまり当てにしないことにしているので、
当時は「牛=真の自己」などという解釈があるのは、
全く知りませんでした。
ただ、その後、「数字の一」というか、「一という概念」が
全くわからなくなってしまったので、結果的に「数学」とか
その他の「数」に絡んだことに興味を失い、十牛図や
タロットとか、そういうものに対する興味も失せてしまったので、
つい最近まで、ほとんど忘れてましたが、
ちょっと気になった事があったので、調べてみたところ、
冒頭にも述べたように、私から見ると「なんじゃこれは?」という
解釈ばかりが多いので、更に調べて、この文章を書く気になったわけです。
以前、私が十牛図について考えていた時に思ったことは、
一般的には、直列的(シリアル)に、一段階づつ進んで行くかの様に
解釈なされるのが普通なのかもしれないが、
「一瞬一瞬に於ける意識状態の高速の変化」という点を踏まえるなら、
人間は、十牛図の各図を一瞬一瞬全て包括している、とか、
割と並列的に各図に象徴される状態が存在する、とか、
2図の割合が高い人でも、1図や他の図の要素もあったりする、
などという見方の方が、単純な「階梯型進歩」よりも
現状に即しているのではないか?ということです。
特に「表層意識の分裂性」が著しい現代に於いては、
「人=表層意識」とこじつけるのであれば、
表層意識に、牛を見つけた部分と、探してる部分と、
忘れてしまった部分などなどが、「同時的」に存在すると考えた方が良く、
ちょっと見性っぽい体験をした禅師などが、アホな事ばっか言っちゃうのも、
「表層意識の(腹的な)一部」は、7図や8図をかすめても、
「屁理屈頭の部分」がまだまだ「牛」を探し出す旅にすら出ていないからだ、と、
そんな風に思えば、大変わかりやすいでしょう。
また、特に白人などに多い「十牛図は自己確立の旅である」と言うような
アホらしい解釈については、もう、「問題外」である、と私は思います。
そもそも、十牛図がスタートする地点で、「人」がはっきりと存在し、
そして、「牛」との「分離」を明確に意識しているわけですが、
「自己、自我」がはっきりしていない様だと、よーするに
「意識がはっきりしていない」というのと同じであり、
自分が居るかどうか、はっきり意識されてなければ、
「牛が居ない」事を明確に意識することもないので、
それは「第一図以前の話」だと言って良いでしょう。
つまり、「自分探し」だの「自己確立」だのと、
「自分を捜す必要」があったり、「自分があやふや」な人達は、
まだ、第一図に「人」として姿を表す前の状態だと私は思いますけどねえ。
逆に言うと、努力しなくても、嫌でも「自己」や「存在」が
厳然としてしまう時、人は、「何かと分離している」事を知るし、
また、「分離」という苦痛を解決する為に、
牛を探さずには居られなくなるのだと思います。
で、牛ってなんなのか?と言うと、臭い言い方をするなら
「タオ」などと見ても良いのかもしれませんが、
「個体的」な現れ方をしてる意識のうちで、
「表層」から分け隔てられている部分、といった感じで捉えると、
「真の自己である」とか、「ハイアーセルフのことです」などと
捉えた場合に起こりがちな、「牛信仰」「牛依存」にもなり難いし、
第3図の「見牛」で、「真の自己」を見たのだから、これが「見性」です、とか、
酷いと「悟り」です、などとアホなことを言い出すこともないでしょうし、
その他のお伽話の「話の辻褄」も合いやすいのではないかと思います。
そもそも、釈迦が「悟った」というのを第3図と一緒にしたら、
その後で牧牛したりなんだりと「全然かたがついていない」ので
無理があるでしょうし、師家として力量を誇大広告したいが為に、
ちょっと意識状態が変わっただけの人に「あなたは見性しました」とか、
「それが小悟です」みたいな、罪作りなお墨付きを出しちゃうのと同じで、
「見性」だの「悟り」を、あまりにも「安売りしてる」と言って良いでしょう。
良くあるんですよねえ。そういう「自分は素晴らしい指導者なのだ」とか
思ってしまってる禅師とか、グルもどきに指導を受け、「あなたは悟った」だの、
「もう直ぐだ。頑張れ」だの「見性です」だの言われて、その気になっちゃって、
家庭や職場で説教始めたりして、「???」とかって思われるオッサン、
「悟りを目指してまっしぐら」みたいな本書いちゃうオバサン、
「なんとかが確立しました」と喜んじゃう気の弱いお兄さん。
まあ、それは悲劇なのか喜劇なのか?と問われたら、
私は絶対に「喜劇だ」、と主張したいですが、
中には妄想が進んで悲劇的な状況になる例もあるわけで、
やっぱり、罪作りだなあ、と思うのです。
「自己」や「自分」に拘り続ける、一部のアホな禅師は、放っておいて、
「牛」のオカルト的な解釈をするなら、牛は古代における「神性」の
象徴であり、もう少し言うなら、エジプトのスフィンクスに見られる様に、
「力強さ」や「あがらいがたい前進力」の様な一面を「特に」表していた、
という説があります。
(スフィンクスは、ライオンの頭と処女の胸と牛の胴体と鷲の羽を持ち、
それぞれが「神性」、あるいは、大人として望ましい性質の一面を
象徴している、などの話は、グルジェフの本とかにも出てくるし、
エジプトのタロットの図柄などにも、見られたりする。)
で、「自己」がはっきりしてると、それと同様に
「自己以外」もはっきりしてるように思えたりするわけですが、
その「自己」と、「自己を取り巻く自己以外」に、何というか、
一種の「意志性」を感じたりする場合があります。
それは、人生の要所要所で顔を出す、とても大きな潮流のような、
普段の生活では、そんなに口出しはしないかもしれないけれど、
何かの際には、「あがらい難い」様な「静かな力強さ」でもって、
ある方向へ押し進んでいく。
そんな印象を抱いたりするわけですが、これが、ある意味では、
「牛」のイメージと、大変ピッタリくるものがあります。
で、そういう「大きな力」みたいなものを感じたりした時、
一神教やそれに類似したものに洗脳されてると、それが「神」なのだ、とか、
「神の意志なのだ」ってな風に解釈して喜んだり、「他力本願」的に
依存して「お祈り」してしまうのでしょうし、
「自己」にこだわる人なら「真の自己に出会った」となっちゃうのでしょうが、
十牛図的に行くと、それは、単に「人」よりは「大きい」かもしれないけれど、
観察、調査して、手懐けて、仲良くなってしまう対象、ということになるかも。
実際問題として、表層意識が初期的に「大きな流れ」とか、
「存在の意志」などと解釈してしまうものには、
単なる「感情の気まぐれ」だったりして、
思考に重心を起きがちな表層意識よりは、人間行動を振り回す力が大きいけれど、
必ずしも「良い」わけでもないし、「賢い」とも呼べないような、
そういうものの場合も多いのです。
人間の行動は、グルジェフの馬車の喩えの様に、
感情という馬が、鹿みたいに臆病な表層意識に制「御」されて、
馬鹿みたいなことをやっちゃう、という動きを見せたりするわけですが、
子供の時から、あるいは、もっともっと前から、無意識的な抑圧の元に
置かれた感情は、数々の不満や歪みを抱えており、
たとえ、それが「表層意識」よりもパワフルだからといって、
手放しにして「依存」し、何でも「感情のまま」にすればよいわけではないでしょう。
私は、十牛図の「牛」は、必ずしも「馬車の喩え」の「馬」と
一致しているとは、思いませんが、幾つかの点では、
よく対応しているのかもしれません。
そして、御者の手綱さばきや鞭の振り方が上手くなり、
馬との共同作業に慣れると、馬の気性も素直になったりして、
家に帰りやすくなる、などと見ることも出来るでしょう。
ま、詳しいこじつけ解釈やら、作者の意図の復元の試みとかは、
本当に興味を持った人が行えば良いことでしょうし、
エオの本には、十牛図で済まずに15牛図とかもあって、
現在は「地図は沢山あるけど、使う人があんまり居ない」という
状況なのかもしれません。
私の個人的な見方では、十牛図に於ける第8図は、
ちょっと特別なのであって、その「空っぽ」の「円」は、
図版の作成者にも依るけど、全ての図を囲み、規定し、且つ、
貫いているのだ、と、そんな風に言えるだろうと思います。
そして、一つの図から次の図に移行するには、
第8図で初めて「明示的」に描かれている「空っぽ」の状態を、
はっきりと意識しないまでも通過する必要があり、
それ故に、第3図あたりで、牛の尻尾を見ただけでも、
なんとなく「無」を体験しただの、「見性した」だのと、
勘違いをしやすいのでしょう。
それに、禅師だ老師だと呼ばれる人々にしても、
総体的に見ると、(特に理屈面における)牧牛が
きちんとなされて居ない人がほとんどなので、
何か喋り出すと愚かなのが丸見えの法話をぶちかまして、
得意になってしまったりする。
おまけに、そういうのを盲目的に鵜呑みにして、
その受け売りをやってしまう人も沢山居るし、
やはり、日本の禅は、狂牛病に感染しているのだと言っても
決して言い過ぎではないと思います。
座禅をする方々も、アホ老師のありがたくない法話だの
説教を鵜呑みにせず、問いつめるなり、叩き合うなりして、
禅師のスカスカになった脳味噌に血液でも送り、
理屈ではない「つもり」で屁理屈ばっか言うようなエセ老師には、
喝を入れてやると良いでしょう。
ま、「坊主にそんな親切にしてやる義理はない」とおっしゃらずに、
せっかく素晴らしい一休さんのトンチ漫画を生んだような
日本の禅の為ですから、少しくらいサービスしてあげても良いでしょう。
南無なむー
方山氏作 : 「狂十牛病」解毒用十牛図
http://www.mumyouan.com/k/?M632#==十牛図 「by:自動書記CG」
狂牛病に感染してる十牛図のページ:
(順不同敬称略。 一部、未感染のページあり。)
リンクの上の文章は、私のコメント、又は、本文からの抜粋、
又は、その両方などです。
【注意】:特に興味が無い限り、以下のリンクは読む必要はありません。
また、読んでしまって狂牛病状態が感染しても治療は出来ません。
このリンクは、十分批判精神があって、
何故か興味を持ってしまった人などの為に付け加えることにしたのであって、
一般人にとっては、つまらないだけで、頭のゴミが増えるだけかもしれないので、
どちらかというと、行かない方が良いです。
郁丸十牛図 イラストが可愛いので説明はどうでも良い。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/9498/10gyuzu.htm
笑えました。 迷わないで、自分探しをしよう、とのことです・
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tyosyo/new_page_35.htm
小鈴靴 本来の自分
http://www.h3.dion.ne.jp/~zazen/hatto/usi03.htm
牛の声を聞いてはっと悟る、見牛=見性、だそうです
http://www2s.biglobe.ne.jp/~taise/index_059.htm
いきなり牛を失っている所から始まる、という不思議
http://www.kansaigaidai.ac.jp/teachers/mukoyama/juugyuu.html
私は牛を自分自身の本来の心(自己)と考える
http://www.st.rim.or.jp/~success/usi_ye.html
人間が生れながらにしてもっている仏性(本心)を牛に象徴し
参考書:上田閑照、柳田聖山 十牛図 筑摩書房 1982年(1992ちくま学芸文庫)
http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon17.html
以上、私は何のために生き、どの様に死を受け入れ、乗り越えるのかの、一つの試みとして自我と自己について考えてみました。しかし考え、調べるうちに迷路に迷い込み、行くべき道が見当たらないままに、矢折れ力つきました。
http://www.warp.or.jp/ent/zakkan_old19.htm
ハイリスク・ハイリターン (ちなみに、これはオウムなんかも好む言い方です)
http://www.mec-net.com/short-story/advanced-103.htm
topos トポス シュタイナー、本来の自己、真の自己
http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/note/S-note2.html
風疹会
http://www.fuushinkai.com/ushi/ushi_10.phtml
牛すなわち仏法 経営ちょっといい話
http://www.web-ami.com/note400/tnote.cgi?book=keiei&page=1
我々の真の自己を牛に譬 えて、その牛を求め、捕まえ、馴らし、遂に
求める自 分と牛とが全く一つとなり・・・脳味噌が腐っていく様です。
http://homepage3.nifty.com/sanbo-zen/cow.html
『十牛図・自己発見への旅』. ・・・自己に拘るなら、
せめて「自己忘却の旅」とか言えば、バーナデット・ロバーツの真似になるのに。
http://www.shunjusha.co.jp/book/13/13260.html
十牛図を知ったのは随分前のことになります。
河合準雄がNHKの市民大学で紹介していました。 ・・・道理で。
http://wwwdoi.elec.nara-k.ac.jp/html/hiranoya/cow/cow.html
河合という人物については、「心のノート」についての
投稿も参照あれ。
http://www.mumyouan.com/k/?T2826#==「心のノート」 (文部科学省作成:道徳補助教材)と「個の確立」について
他にも沢山ありますが、どれもこれも
受け売りと垂れ流しが多いので、これ以上見る気になりませんでした。
しかし、心理学者、特にユング系の人間の禅とかについての文章は、
的外れというか、受け売りというか、酷いのが多いみたいですね。
そういえば、チベットの死者の書(バルド・ソドル)にくっついていた
ユング自身による解説も、「思いこみ」と「こじつけ」が激しくて酷いものでした。
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