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自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3595]
■
小林被告の 「ガッツポーズ」には、訳がある。
by:
崩残
2006/09/27(Wed)14:04:10
■前回が、被害者の立場で論を進めたものだが、
ここで、バランスを取るために、加害者の立場でこの、
「女児殺害事件」問題を扱ってみます。
ただし、先刻しておきますが、以下に述べることは、
そのことによって、小林被告に同情を集めるためでは断じてありません。
死刑判決については、私個人は、前述の投稿のように全く異論はありません。
私が異論があるのは、マスコミのあさはかな報道の仕方である。
また、本当に無能で無知な、コメンテーターやカウンセラーが
多いのだな、という実感から、これを書くのである。
■まず、第一の誤認は、小林被告の犯行を「ロリコンの性癖」があるから
治らないとする考え方である。
これは「完全な間違い」である。小林被告は、ロリコンではない。
彼は「典型的なAC」または、非虐待者である。
弁護士側も、「被告の人格形成について明らかにされない」事に
対して不満を述べていて、それが被告の「死刑を望む」という意志とは
無関係な「控訴手続き」に繋がっているのだろう。
しかし、もしも弁護士としてではなく、1人の人間として
小林被告にきちんと向き合えば、彼の主張にはある「道理」が
きちんと存在していることが分かるのである。
それを理解するならば、彼には、死刑こそが、
「彼自身も望む、最も相応しい最後」であると理解できるだろう。
小林被告は、こう言ったと伝えられている。
「これで、自分の名前は、宅間や宮崎とならんで有名になった」と。
しかし私に言わせれば、有名になるのは、彼の名前ではない。
正しくは、有名になるのは、彼の「症状」である。
すなわち、小林被告は、ある問題提起、ある種の集団的な叫びを
殺人を犯し、処刑されることで、
自分でも知らずに、まっとうしようとしてしまっているのである。
■むろん、彼にはその事に関しての英雄性など全くない。
また、その殺人の正当性も全く存在しない。
しかし、それが、「症例」の叫びであることは変わらないと私は見ている。
そして、むろん、私は、これを読む皆さんに、決して彼に同情など
してほしくはない。
ただ、「人間というものは、そういう精神構造を持つのだ」ということの
参考にしてもらいたいだけである。
■まず、小林被告にとっては、その犯行は何が何でも、
残虐非道なものでなくてはならなかったのである。
小林被告にとっては、その犯罪は、犯罪史上に残り、
批判され、死刑にしろと言われなければならなかったのである。
そういう結末になることで、彼は、むしろ「ほっと安堵し」
彼のある側面は、なんと「癒されている」のである。
この構造を理解することは、通常の人達には困難だろうが、
心理学などに、本当にきちんと携わっている者ならば、
小林被告が、「本当は、誰を殺したかったのか」が見えてくるだろう。
■この小林被告の犯行の動機は極めて単純であるが、
その表現が、屈折している。
記録をまだ詳しくは調べていないが、端的に言えば、彼が
父親から虐待を受けていた可能性は、100%であり、しかも、
かなり、それは変質的な虐待であった事だろう。
なぜ、小林被告が、幼女をターゲットにしたかは、それは
動機は、ロリコン趣味ではない。
彼と、被害者の少女、そして彼の父親には次のような奇妙な
彼の中での「投影図式」が存在するのである。
↓
>>かつての小林被告を
>>投影 小林被告の父親を自分に投影
↓ ↓
>被害者少女 ←←←← 小林被告
つまり、小林被告は、まず少女に自分の過去を重ね合わせ、
自分が、その時の自分に対する加害者である父親の位置に
「象徴的に」重ねることで、少女の中に、かつて虐待された自分を
作り出したのである。
では、かつて虐待された自分の投影であるならば、
なぜ、その少女をいたわることが出来なかったのかといえば、
その少女を虐待する自分の中に、彼は父親を重ねたからである。
つまり、彼の幼い頃の苦痛の小劇場が、何の罪もない少女を使って
再現されているのである。
ただし、今度は、親からやられたことを他者にするという
加害者の立場となって。
ただし、これだけだと、親にされたことを、自分よりも弱い幼女に対して
行っているだけに見えるが、ここで「やや複雑」なのは、
小林被告は、そうやって、自分の中に父親を重ねることで、
「その父親を、罰しようとしている」という「心理作用」なのである。
自分を苦しめた者を、自分の中にトレースし、取り込み、
同じ犯行をすることで、自分が罰せられ、死刑にされる。
そのことで、彼が本当に死刑にしようとしているのは、
彼の父親の象徴なのである。
自分が父親と同じ虐待を演じる、いけにえとなり、
そのことによって、自分を通じて、父親を死刑にして罰したかったのである。
だから、彼が批判され、罵倒され、死刑を言い渡され、
そして死刑になることは、彼にとっては、そうなることによって、
自分の中で、父親を殺すことの喜びであり、
「父親を罰する行為」であるのである。
だからこそ、彼は、喜んでいるのである。ガッツポーズをとっているのである。
◆死刑判決を喜ぶ彼は、虚勢を張っているわけでもなく、
単なる、ふてぶてしさでもない。
彼にとっては、そうやって、極悪非道の父親を、自分の中において、
極悪非道なものとして「デフォルメして再現」し、
その再現の際の被害者に、ちょうど自分がかつてそうであった時のように、
「全く抵抗できない」弱者をその再現のドラマの被害者にしてしまったのである。
彼は、もしかしたら、場合によっては、幼女ではなく、男の子を殺したかもしれない。
問題は、幼女であることではない。
父親に無抵抗だったかつての自分と同じく「無抵抗な子供」なら
誰でもよかったのである。
ただ、私の感覚では、小林被告は、虐待されていた「当時の自分に」
ごくごく一部でも「何かが似ている相手」を選んでいた可能性はある。
したがって、彼が決して選ばない対象の子供もいるわけである。
また、彼が受けた虐待の中には、男児に対するような
性的な虐待も含まれていた可能性もある。たとえば、性器虐待などである。
性器を蹴るとか、痛めつけるというもの。
◆さらに言えば、それを携帯で画像を親に送るという異常行動の原因も、
もしかしたら、彼をいじめたり、虐待した人間も、そのように、
「彼を虐待している事実を、他者に面白半分で、公言していた可能性」
「彼を、多数の前に、さらし者にしていた可能性」もあるが、
ここの部分は、情報がないので、推測の域を出ない。
そうした卑劣ないじめが、彼の「父親」からのものであったのか、
学生時代の他の「生徒」からのものであったのかは分からない。
■そういうわけで、基本的には、
彼は自分でも知らずに、無自覚のうちに、
「自分を虐待した父親を、自分を通じて表現された父親」という形で
表面化させ、一方で、「少女には当時の弱者である自分」を重ね、
そうやって、社会的にも処罰されることを望み、公然と殺人を犯すことで、
「自分の中の、父親を葬り去ろうとした」のである。
こういう「精神構造」は、世の中を見ると、
いくつかの「弱者殺害の動機」として内在している事が多い。
宅間被告と、宮崎被告については、多少の個体差があるが、
「おおまかな路線」では、似ている部分がある。
人間というものは、弱者を殺害したり虐待するときは、
かならず、そこに、過去の自分を被害者に重ねるという傾向がある。
そして、なんと、自分が、「(自分に対しての)かつての加害者」を演じることで、
かつての加害者に対する復讐を果たすという、奇妙に屈折した行動を
取るのである。
小林被告が、「壊れた」のは、そんな暴行を行う父親から
唯一、自分を守ってくれていた母親が他界したことからであったという
記述があったが、ここにも、非常に整合性がある。
だが、こうした、「すり替え復讐劇」の傾向は、
下手をすると、多くの人たちの中にも無自覚のうちに内在しているのである。
急増傾向にある、「完全な弱者への虐待や殺意」というものが増える
原因は、「自分勝手な性的欲望の満足のため」、というものだけではなく、
「自分勝手な親への復讐劇」というものが多く含まれるのである。
近年、弱者への虐待や殺人が増えるということは、
その本当の原因の多くは、親との関係、つまリ親の側にもあるのである。
小林被告は、もしも子供がいたら、間違いなく自分の子供に
同じことをしたことだろう。それがいなかったために、
それは他者の子供、弱者へと向かったのである。
こうした犯罪者が、かならず、決定的に自分よりも弱い弱者を
被害者に選ぶのは、単に「卑劣」というには留まらない、
「非虐待者の精神構造」が大きく関係するケースも多いということなのである。
そして、そのために、被害者に選ばれるターゲットは、加害者が
「虐待されていた当時の加害者に」、
ごく一部でも「何かの要素が重なっている、似ている」と、
「加害者が勝手に思い込んだ子供」がなってしまう可能性が高い。
これがもしも犯罪捜査であれば、こうした性質も犯人にはある、
ということでプロファイリングをしないと、
時には犯人を取り逃がしてしまうこともあるだろう。
■小林被告の弁護士は、更正の可能性はないとしたことに不服であるようだが、
その一点については、私も同意する。
宮崎被告は、他に全く何もない地方の田んぼの中の印刷工場という
異常に閉鎖的な環境で屈折していったことや、引きこもっていた事や、
彼の祖父の死が関係する事など以外には、細かい事情が分からないので、
判断できないし、宅間被告については、私はあまり調べていない。
だが、伝えられてくる今回の小林被告に関してだけは、
この「すり替え復讐劇」の路線が濃厚であると見ている。
と、同時に、更正ということがどういうことを意味するかは別としても、
反省をしたり、謝罪するということとは別問題で、
彼が、自分がなぜそのような殺人をしたかを、
「彼自身が理解するチャンス」というのは、残されているのである。
それがもしも彼に理解できるのであれば、
少なくもと、彼は自分がどうして死んでゆくのか、その理由を
自分で知ることが出来るのである。
私が彼の弁護士、いや、弁護士ではなくて、カウンセラーの立場であれば、
私は、8割の確率で、彼を「落とせる」でしょうね。
この場合の落とせるというのは、
やったことの「自覚を生む事ぐらい」は出来るだろうということです。
なぜ今、そこにいるに至ったかという原因の自覚です。
謝罪とか反省というのは、そこから自然に副産物的に出てくるであろう
問題であって、本質的な問題ではありません。
彼は、それほど複雑な心理状態でもなく、理解不可能な者でもなく、
精神鑑定も必要ないほど正常だからです。
あの犯行は、世間的には、不条理で異常に見え、性的満足のため犯行と
といことで片付けられがちですが、
今回説明したような投影の図式によって、
「彼の主観の中」では、矛盾のない「整合性」と
「達成感」を持っているのである。
◆ただし、むろん、それで減刑する必要もなく、死刑でいいのであるが、
ただ、マスコミというのは、
「親に問題の責任の半分がある」という事実を、伏せたい傾向が見られる。
半分は、むろん、その本人の責任である。
しかし、原因の半分は、隠されているところにある。
世間、特にマスコミは、
何かの犯罪を、常に、「異常性」というレッテル張りで片付けて、
そこに蓋をしようとする。
そんなマスコミの連中は、きっと自分の妻子にも、
おおかれ、少なかれ、同じようなことを、
言葉の暴力などでやっているのかもしれない。
自分も実は、無自覚的な加害者であるという、無意識的な引け目、
そして、「親は、悪者にしてはならない」という、
この妙に古典的な社会的風潮、
こういったものは、こういう事件が起きる本当の理由の半分を、
隠蔽してしまうのである。
◆「また、異常者の犯行か、死刑にしてしまえ」。と世間は言う。
死刑には私も同感だが、ただし、
「また異常者か」で済ませていては、
「もう二度とこのような事件を起こさないようにせねば」という
何度も繰り返される、「そらぞらしい、口先だけのお題目」が、
現実的に達成されることはありえないのである。
現実的に考えるならば、問題の根の「ほとんど」は、
家族間問題にあるのだから。
◆この子供とか成人の犯罪の裏に、必ず家庭問題、親子関係の中に、
「虐待やAC」の問題がからんでいることが圧倒的に多いこと。
このことは、周期的に、クローズアップされることがあるが、
周期的に、それは、その問題を「わざと見ないようにする時期」と、
積極的に見ようとする時期が、「交互に繰り返される」ようである。
一昔前は、子供に問題があれば、それは必ず親に問題がある
という前提で、カウンセラーは、問題を見極めようとしたものであるが、
最近は、また逆に、親の方の原因は、野放しといった状態なのである。
■
「良い子、悪い子、普通の子」ならぬ、
「良い親」 「悪い親」 「普通の親」
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