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宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3892]
■
●何が違っていたのか?
by:
猫然
2008/01/15(Tue)11:08:56
回想録
●実際のところは、砂手が最初に私のところへやってきたとき、
それは、駆け込み同然だった。
むろん「恋愛感情」で駆け込みをしたのではない。
私に対する好意、又は関心はあっただろうが、
特に、瞑想や哲学や、精神世界に関心があったわけではない。
むしろそうした世界には世間の人なみの知識しかなかった。
精神的に落ち着いていたかというと、まるでそれは逆であり、
こういう言い方が許されるならば、
今、ここを読んでいる、どんな最低の読者よりも、
全くの最低の状態にあったと言える。
ただ、唯一、それほどまでの状態になっていた彼女を、
私の家に同居することを許した理由は、いくつかある。
もしも他人が見ていたら、どうして早く追い出さないのかと
思ったことだろう。
なにしろ、私自身がごく希にその可能性を思慮することもあった。
●しかし、それでも私が彼女を叩き出さなかった最大の理由は、
他の人たちには私が絶対に見たことのない明確な3つの特徴があった。
■第一に、最初のころ、私にはその理由が、全く分からなかったが、
明らかに、「巨大な苦しみ」を背負っていた。
■第二に、完璧なほど彼女は彼女自身に対して正直であったこと。
自分に対して嘘は決して言わないという、珍しいタイプであった。
■第三に、彼女の自我というものは、360度、その全てが、
まるで、過敏な神経細胞の塊のようであった。
具体的に言うならば、いかなる会話を入り口にしても、
すべて最後は、怒りの爆発となり、最後は常にまるで絵に描いたように、
自殺未遂の直前まで行く。そのくり返しは1000回以上続いた。
昨日だったか砂手と、あのころは一体どれぐらい、
口ゲンカをしていたかと回想をしてみると、
おそらく彼女が、自殺する、しないだとかいう結末になる確率は、
3日に一度のペースであった。
ケンカそのものは、ほぼ毎日のことであった。
しかも彼女は神経細胞の塊であるから、一端それが始れば、
平均8時間は続くのである。
(少なくて5時間、多ければぶっ続けで10時間)
今だからこそ言えるが、
「怒り続けるギネス記録」というものがあったらば、
間違いなく、彼女は世界一になっただろう。
脳波計をつけて測定しても、
それは本気で怒ったまま8時間は途絶えることがなかった事だろう。
それ自体が、私には仰天ものであった。
どんな人間でも、継続的にテンションが一切落ちることもなく、
怒り続けることなどは、2時間が限界である。
人間の感情には、限界、あるいは波というものがある。
それは必ずどこかで減衰する。
しかし彼女は、疲れ果てて眠り込む直前まで、
怒り続けるのだった。
今ならいえるが、それ自体、誰にもなかった才能だといえる。
(今だから言えるのであり、現場は地獄絵だったが)
●もっとも、このことについては、砂手自身が、
「虚無の微笑」でも書いているように、
それまで感情的な人間であったかというと、
全くの真逆の人間であり、少なくとも20歳までは、
彼女は、周囲からは浮いてしまうほど、
女性らしからぬ、冷静沈着な人間として周囲に認識されていた。
むろん、それは、何かの感情を制圧していたわけでもない。
それらは常にきちんと表現していたので、
実際に、感情的になることがなかったのである。
●それが、彼女の20歳頃に経験した、大きな闇の体験を境にして、
一気に感情という側面の経験が開始され、
それまでの20年間の知性主体の人生とは逆転したのであった。
その経験が、かなり進行した段階で、
私のところにやってきたのであった。
言うなれば、彼女が、本気で全開にした感情や思考をぶつけられる人間が、
唯一、私であったということなのである。
もしも、相手が私以外の人間であったら、
彼女は確実に、逆上した相手に殺されているか、
あるいは彼女が、相手を殺していたことだろう。
または、相手が心的疲労の末路に、自殺をしていたことだろう。
それは私には断言できる。
その作業は、おおよそ、すべての地獄を見たてきただけではなく、
地獄そのものの魑魅魍魎を、逆に自分の口で食い殺してきた、私にしか、
対応することが不可能な性質のものだった。
●読者の皆さんには、
3日に一度、平均8時間の無休息の言い合いが続き、最後は、
ロープで首をくくるところまで行くといった、
そういう状態は想像すら出来まい。
もっとも、そんな中でも、私は掲示板の原稿を書き、
CDを作り、本を書き、読者の相談に乗り、時には他の掲示板まで
書き込みをしていた、その上さらに、
日常生活において起きる問題や訴訟やトラブルも全部やっていたのだから、
キチガイじみた「不老不死」ともいえる「不滅の神経」を持っていたのは、
むろし、この私だったのかもしれない。
今、同じことをやれと言われたら、二度と出来ないだろう。
キチガイという言葉で思い出したが、
■砂手のもうひとつの特徴は、
決してキチガイではなかったことだった。
いわゆる精神疾患を持っている形跡はゼロだった。
知性も、まとも、身体もまとも。
ただ唯一、感情だけが、まるでそれ自体が彼女の意志とは別の生き物
のように、暴走し続けたのである。
●おそらく、鎮静剤や拘束衣という「武器」を持っていなかったら、
プロの医師でさえも、100%逃げ出した事だろう。
そういったことが、東京という町の、小さな一室で続いていたのである。
私とて、ため息が出ることもしばしばあった。
もしかすると、彼女に殺されることもありえると思った。
いかなる状況になったとしても、
私は彼女を決して、楽にはさせないし、また死んで逃げることなど
許さなかったので、
私が彼女を殺す可能性はゼロだったのだが、ただし、
彼女自身が、発作的に自殺という事故を引き起す可能性は、
常にその水位は上下していた。
私が読み取った彼女の性質からして、
彼女は自分の問題を自分で解決するまでは、
絶対に、自分(彼女)を殺せないという基本的なベースは見えていたが、
ただ、人間というのは、発作的な事故というものはあるので、
時には、私は家中の刃物と風邪薬をすべて隠したこともあった。
■私のところで、ごく当たり前のことであるが、
抗うつ剤などの精神薬、およぴアルコールは絶対に禁止禁止であり、
また彼女自身も、そうしたものを一切拒絶する体質だったことも、
重要なファクターであった。
通常の人間や家族が周囲にいたら、
必ず、薬物治療にぶち込まれ、
結果として、今の彼女のような、完全なほどの変化はなかっただろう。
■痛みの神経がマックスでなければ、
悟りなど決して起きないのであるから。
だから、私は鈍感な人間が大嫌いである。
読者だろうが、そうでなかろうが、精神世界であろうがなかろうが、
鈍感すぎる人間、それだけは、私はお断りである。
一方で、かつての砂手ときたら、それとはまるで真逆に、
鈍感さのかけらもない、まるで「痛感神経の塊」のような人間であった。
■むろん、ここまでは、一般的な「ヤバイ状態の人間」でも、
希には、起き得る「絶望的な状態」ではあるが、
既に前述したように、いくつかの、(私が認識しているところの)
キチガイではない性質がそのほとんどであったことに加えて、
彼女の苦が何であるのかに、アタリをつけるまで、
そう長く時間はかからなかった。
それでも数ヶ月か一年はかかったように記憶しているが。
●最初の扉が見え、そして、彼女が抱えた苦痛が、
「尋常なものではない」「普通の人間が抱える性質のものではない」
そう気づいたのは、私が、あまりにも彼女が不条理に苦しみ、
起きることの全てに対して怒りをぶつける彼女を見ていて、
これほどまでに、全面的に怒りになっている人間など見たことはなく、
(正直言うと、私にとっては、非常に迷惑で、
その狂気に付き合わされるのは、しんどかったのだが)
ただ、それがあまりにも異常なほど徹底していたために、
私は彼女に対して、ひとつのことを明確に、断言した。
「そんなに、何から何まで苦しんでいるが、
苦しむ人間というのは、その反対側にあるものを知らなくて、
どうして苦しめる?
つまり、そこまで、私すら見たことがないほど、
具体的な原因もなく、苦しみ、自分に対して怒っているということは、
あなた、確実に、
完全に苦しまない状態の経験があっただろう?
それがなかったら、こんなのはおかしい、こんなはずではない、
という君のその怒りが、そこまで爆発的になることは断じて、あり得ない」
●その一言から、それ以後、すべては、ひとつの目的に向かった。
むろん彼女はそれを知るよしもなかった。
その「ほぼ完成された意識」をかつて経験していた、
あるいは幼少期にもその経験の中にあったという自覚は
むろん彼女にはあった。
ただ、そんな過去の思い出よりも、現在台風のように吹き荒れている
彼女自身の感情の苦のほうが、彼女にとっては大問題だったのである。
●しかし、この日から、私は、もしかすると、
この先どのようなことがあっても、大丈夫だと思った。
何に対して大丈夫かといえば、
それは、
第一に彼女は、狂うことが出来ない。
第二に、彼女は、最後まで自分を誤魔化すことが出来ない。
第三に、彼女は自殺は出来ない。
このことだけは私の目から見て、明白になった。
なぜならば、その「かけら」を知っている者は、
そこにたどり着くまでは、絶対に苦痛から逃げないからであり、
死んですらも、諦めないからである。
●むろん、希望がそこにあったわけではない。
何しろ、それは今から、4年あるいは5年も前の話である。
生活の中では、依然として3日に一度の8時間ぶっ通し、口論バトルは
続いていた。
むしろ、彼女は、その何もかもが、ほとんど絶望的だった。
ただ、いえることは、その絶望は、絶望に向かって
真っ直ぐに進んでいた。
彼女が、一体どこにたどり着くかは、この私にすら分からなかった。
●とにかく、それは人間の持つ自我として、最低最悪の状態に、
落下して行ったと言える。
彼女の苦の状態には、ほんの小さな改善すら、
ただのひとつも起きたことはなかった。
人間が経験できるおおよそ限界の苦痛にむかって、
ただ、真っ逆さまであった。
●都内に、私には親しい知人もいるし、近所との付き合いもあったが、
よもやまさか、我が家で、そのような「錬金術」が進行しているとは
誰一人気づかなかったことだろう。
端から見れば、単なるわがままな娘か、キレやすい娘がひとり、
私のところに転がり込んでいたとしか見えなかっただろう。
実際に、正直なところ、
当事者の私すらも、ときおり、
ほんとうに、ただそれだけのことなのではないか?
と思ったこともあった。
今にして思えば、最後の一年か半年だったか、
その期間を除いては、私は一切、何一つ、彼女が何かに変化することなど
期待はしなかったことが良かったのである。
私は、彼女に対して、彼女がどうにかなることになると、
「期待ゼロ」だったと断言できる。
もしも僅かでも、期待があったら、それは失敗しただろう。
そこに全く期待がなかったからこそ、
私は、手を緩めることなく、彼女を自我の無間の地獄に叩き落すことが出来た。
むろん、それはサディステッィクに叩き落しているのではない。
実際のところ、私は彼女をあれこれと罵倒したわけでもなく、
常に、現在の彼女の状態の「事実」を言い続けただけである。
それは、「事実」なのであるから、別に怒らせるつもりで言うわけではない。
だいいち、私としては、彼女が怒り始めでもしたら、
一番迷惑するのは、この私なのだから、
怒らせようとしているはずもない。
ただ、私の中ある絶対的な性質のひとつが、
相手に嘘の褒め言葉や、嘘のけなし言葉を言うことが出来ず、
事実しか言えないというこの性質であり、
それゆえに、それこそが、彼女の自我を自殺に追い込んでいったといえる。
むろん、それは、彼女の中にある別の意識が、
私の言っていることを、明確に理解していたからである。
●私は彼女の負の部分も、たったひとつの救いの可能性の部分も、
その両方を、拡大して代弁していたのだった。
それゆえに、どちらの声も彼女にとっては真実であり続けたので、
その「二つのギャップ」は、いっそう、彼女を苦しめたと言える。
今だからいえるが、
何もかもが、正しい道を進んでいた。
しかしその道は、まさにイバラの道そのものだった。
一歩歩くごとに、体中に新しい傷が出来て、その膿が出ているうちに、
次の傷が出来る。
彼女の心理状態とは、全くそのような絵そのものだったことだろう。
●私は彼女がどう変わるかなどということには、何も期待はしなかったが、
「虚無の微笑」には書いたように、
大変化が起きる、少なくとも半年前には、
「これは、確実に、自我の核が、力尽きてきた」と認識した。
5年ももの歳月をかけてやってきたことが、ようやく、
私の計算どおり、あるいは計算したわけではないが、
少なくとも、私の知っているあるプロセスにそって、
正確に機能していたことがわかった。
私にも、何が起きるかは分からなかった。
ただ、私はそのときにすべきこと、言うべきと感じたことを
彼女に言い続けたのみである。
それがどれだけ残酷な言葉であろうが。
●自我を完全に燃焼させきった、その後にやってくる、
出口が本当に全く見えない「意識の荒野」には独特の香りがある。
それは私、あるいは私と同じ人間には、かぎわけることが出来る。
ただの怠惰な苦痛や、ただのうつや、ただのだらしない虚無感ではない、
「本物の虚無感」、「これが最後になるだろうという虚無感」
そうしたものは、正確に私には認識できる。
それを何度も、再認識するために、
私はそれでも、彼女を叱咤し続けた。
最も大事な局面であり、
彼女の何百年かそれ以上の意識の旅の中で、
もっとも重要なことが起きようとしているそのときに、
私が、その彼女自身の、唯一ともいえる、最大級のチャンスに、
私が手を緩めるような理由は一切存在しなかった。
●その最後の数週間、彼女の苦しみは依然としてそこにあり、
むしろ、それは拡大すらしていたのだが、
感情がそれに油を注ぐことはなくなっていた。
人間の一生分(いや、それ以上の桁の)の怒りの感情が、
とうとうその5年間、休みなく燃え続けることによって、
完全に「尽きた」のである。
そこに残っていたのは、感情のほとんどない、
極度に、純化された、絶望だけだった。
それは、やがて、私の知っている「無望」という状態に移行した。
●そして、彼女の自我が、決断して、
自分でその自我の首を切り落とした日から、
彼女の中に最初に私が発見した、その小さな意識のかけらが、
何百、何千年という意識の経験、人間の経験を経て、
ようやく、芽を出した。
その変化は、私が、人が悟るときに発する「独特の爆風」を感じるほどの
ものではなかったが、
確実に、彼女の内外の空気は一変した。
●最初、それは極端に無害なものだった。
そして彼女から報告を聞いて、それがすぐに、
小悟の状態に完全に移行したことが確認できた。
ついでに、いくつかの質問をしたのだが、
その小悟は確実なものだった。
ただ、私は小悟の中にある、普通の人では決して
何度転生しても、経験することの決して出来ない喜びや安心を
知っていると同時に、
そこにある微妙で厄介な限界をも知っていたので、
決して、手放しには喜べなかった。
むしろ、そこからが、本当に何かが始るという
スタートラインだったということは、砂手も「虚無の微笑」に
書いていたと思う。
●砂手が小悟してからの2年(正確には1年と9ヶ月ぐらいだが)
その期間こそが、最も「操縦技術」を必要とした期間だった。
その時の相手は、もはや人間の自我ではない。
小悟から先に行くには、その最大の障害物として相手にしなければならないのは、
人間の世界のシロモノではない。
小悟の中にいた砂手を見ていたときには、
果たしてこの一生で、それが出来るかどうか、
これも、またまた、私には明確な確信はなかった。
ただ、私に検出される、小悟してもなお、
私から見れば、気にいらないことを言い続ければいいということと、
そこを突破するための、今までの人間が普通に持っているものとは別の
次元の「自己観察力」を、彼女に要求することが必要となった。
●私はやるべきことはやったとはいえ、
結果として、かなりの予想外で、第二の変化は早く起きた。
今回の変化は大きかった。
ある意味では、小悟のときよりも、その変化は大きい。
自我がなくなるときの、衝撃的な激変に比べると、
なくなるものが、かなり「微細なもの」であるのだが、
それが結果として起す意識の次元のジャンプは、
小悟の瞬間よりも遥かに幅が広い。
●今、彼女は、
「こんなに幸福だと、もうすぐ死ぬのではないか」と漏らすような、
そうした幸福の中で毎日を過ごしている。
実際、私が先に死ぬか、彼女が先に死ぬかは分からないが、
どっちが先に、死ぬにしても、
思い残すことは、ほとんど何もないだろう。
まったくもってして、
彼女は、よくやった。
ひとつの、あまりにも困難だった、ミッションが、
ようやく、完了したといえる。
彼女は、大悟などしようと思えば、いつでも出来る。
今は、せっかくのその美しすぎる旅を、
存分に楽しむようにと私は言っている。
なぜならば、それを味わいつくしたときに、
はじめて、それは、ごく自然に、落ちるのだから。
幸福に満ちている以外に何もないという、
その状態は、それを感じ取れるうちにしか経験することは出来ない。
それも、いずれは、消えるのだが、
しかし、今あるものを何ひとつ、軽視してはならない。
ちょうどそれは、砂手が苦しみの中にいてさえも、
決して、その苦しみと怒りを、
何ひとつ誤魔化さず、軽視せずに、見詰め続けたように。
____________________________________________________________
■もしかすと、砂手が数日内に、
最近、メモしたものを梅の間にアップするかもしれないが、
その会話の中で、私はこう語っている。
「悟ったと称する古今東西の人達の、
その結果の状態に対して、憧れ、羨望を向け、
あげくには、言葉を読んだだけで、
知ったかぶりをして、その世界を汚す。
そして、この世界で、最も美しい、ひとつひとつの可能性だった
花たちに対して 、
下劣な「品評会」を開始する、動物以下の愚か者ども。
しかし、それほどまでに、何か自分の知らない次元に住むものに
憧れるのであれば、
そして愚かな模倣に「自己陶酔」する暇があるのであれば、
どうして、彼らがそうなった原因を模倣しようとしないのか?
どうして、原因がどこにあるのか、それを探り、
自己責任において、自分に対してその挑戦を開始しないのか?
結果ではなく、問題は、原因が何であるかであり、
その「原因」となった、不毛の荒地を歩く覚悟も出来ない人間に、
法だの、悟りだの、仏法だの、宇宙など、
そして人間1人の、苦についてすらも、
何ひとつも語る資格などない。」
その人間たちが、この世界で最も繊細で、美しいものに対して、
どれだけ、愚かなことをしているのか、分からないのであれば、
死んでから、嫌というほど、
自分のしてたきたことを、突きつけられるとよいだろう。
むろん、この愚か者の中の、その大半は、
いわゆる一般の人達ではなく、
逆に宗教や、宗教団体や、カルトに傾倒しては、
安っぽい、ごたまぜ教義や、
産業革命以後は、何の役にも立たないような、
千年も前のカビの生えた経典や教えや、宗教の御伽噺を振りかざし、
そして近代では、全く何ひとつも理解もしていない、
クリシュナムルティーや和尚を、くだらない「おしゃべり」の
「自我武装」の盾にまで「貶め」、最低の汚し方をしていることも知らずに、
その花たちを、踏みにじって、
真実を、汚し続けた人間たちのことである。
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