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[3904]
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■正岡子規
by:
崩残
2008/02/05(Tue)18:56:10
彼のことは、無明庵の本のどこかにも登場したように記憶している。
彼の言葉にこんものがある。
「悟りといふ事は如何なる場合にも、
平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた
(正岡子規『病牀六尺』より)
死の床で病臥しながら、歌を作り続けた正岡子規であったらしいが、
この句は、容易に誤解されやすい。
いわゆる「馬鹿者」は、これを
「悟りとは生きる力」だと勘違いをしてしまう。
肉体が死ぬときに平然としていても別にそれは悟りではないのは明白なことである。
でなければ、日本の自殺者が3万人も超えることはない。
肉体の死というものが、門をくぐることさえひるむようなものであれば、
その3万人は、大した勇気を持っていたことになってしまうが、
実際には、肉体の死を決意して決行することは、それほど困難ではない。
●逆に、本当に困難であるのは、酒や睡眠薬など飲まずに、
明晰な意識を持ったまま死ぬことであったり、
または、それ以上に、3万人どころか、日本でたったの3人すらも
決行できないこと。
それが、肉体は死なずに、自我だけが死ぬということである。
●さて、正岡子規の言葉は、ともすれば、
悟りというものが、生きる上で「何でも大丈夫」になるといった
誤解を充分に生んでしまう。
これ自体が、竹の間でよく私が言うところの、
既に「生は良い」という完全な、無知性の洗脳状態にある多くの人達が
陥る観念の罠である。
●実際には、悟りというものは、平然としているのではなくて、
さまざまなものに一秒単位で対応をし続けてるものであって、
ある意味で、自我が存在した生活よりも遥かに、
休む暇が一分すらないといえる。
ただしそこには自我による苦が全くないという点だけが異なっている。
正岡子規が悟りの状態に近かったことをうかがわせる言葉について
無明庵の本に書いてあったのは、
死ぬ間際にありながら、彼が、
「楽しくて楽しくてしかたない」といった言葉であったように記憶している。
●そもそも、どのような状態にあっても平然としていられるのは
自我ではない。
自我があるうちは、どう人間の希望や夢や、
あるいは宗教的な妄想をバネにしたところで、
平然としているフリぐらいがせいぜい出来る猿芝居なのである。
●実際には、自我が死んでしまったあとになってから、
つまり既に何かが完全に死んでいる状態であるからこそ、
生の苦を感じなくなるなる、あるいは逆に、楽しくてしかたない
という状態になるのであって、
死に対して生が拮抗している状態にあるわけではない。
逆に、死んでいるからこそ、生が死と対比されずに
そのまま感じられているのである。
これをそのまま死に当てはめれば、
悟った人間は、死もまた、ただの死として受け止めるということだ。
●楽しくてしょうがないという言葉は、最近は、
砂手から毎日のように聴かされる言葉のひとつである。
こんな幸福になることを自分は望んだのか?
いや、それは望んだこと、予測よりも遥かにそれ以上の出来事だ
というのが彼女の口癖になっている。
●小悟から中悟への移行の中にどれだけの次元の差があるか
ということを、おそらくは、近年で唯一書き記せるのが、
彼女だろう。
ただし悟りの毎日の変化し続ける経験は、
ほとんど記憶に残らなくなるのが常であので、
記録をしておくように私は時々言う。
●小悟から中悟への移行の瞬間の出来事を彼女は
実に彼女らしい言葉、
それまで誰も表現として使ったことのない表現でこう記した。
「小悟では自我が完全に消え去った静けさがあった。
しかし、中悟への変化の方が決定的に違っていた。
あまりにも大きなその変化の印象は、小悟の方があった。
それに比べると、中悟への変化は、印象はおだやかだが、
その変化は劇的なものと言える。
それは、まるで、
メビウスの輪の、ねじれている部分を、
ゆっくりと移動してゆくような感覚。
そうして、外側と内側が、ひっくり返ってゆく。」
●もしも、それが小さな書物になる日が来るとしたら、
砂手の書くことは、前著の「虚無の微笑」の時とは、
まるで違ったものになるだろう。
「何もかもが、不思議でたまらない」
それも砂手が最近、口癖のように言う言葉であった。
人が迷いから突然に大悟する場合には、
この「中悟の土地の風景」を見ることはあまりないか、
もしくは、非常に速く過ぎるので、その光景の美しさに気がつかない。
そういう意味では、むしろ、
小悟から、その入り口に入った人達の方が、
悟りの甘美というものを、突然に大悟した人達よりも、
ゆっくりと、贅沢に味わってゆくのかもしれないと、私は思った。
ただし、それは中悟に移行した場合の話であって、
世の中には、あるいは過去2500年の間には、
小悟の位置で、停止した人達が、沢山いる。
彼らの語る言葉の中の、
ある特定の「キーワード」を判別できるようになると、
それが小悟に過ぎなかったのか、
それ以上の位置にジャンプしたのかは、実に容易に判別がつく。
それは、普通は決して区別できない。
悟った人の残した言葉は、悟っていない人から見れば、
どれもこれも、
(実に、「不幸なこと」に)、聴き飽きたようなものとしか感じられず、
似たようなものに見えてしまうことだろう。
しかし「決定的」と言える違いが そこにはある。
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