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[3906]
■
■「正しい苦しみ方」
by:
崩残
2008/02/12(Tue)18:56:39
●猫然という名前に飽きた。
だから松の間と統一して、崩残に戻します。
●最近更新をあまりしないのは、言うまでもなく、
他人の問題も、ここの文化にも、関心がないからです。
本当に、こうなるまでには、50年近くもかかったのですから、
人間生活というのは面倒な生活です。
●砂手に本を書かせている。
表題は(まだ未定の仮題であるが)「正しい苦しみ方」というもので、
この表題だけで、頭と性格の悪い読者の70%を切り落とせるので
効率がいい。
人間というものは、お粗末なことに、
楽しそうだったり、
好奇心をそそる表題にしか飛びつかないということを利用して、
なるべく人が手に取らないタイトルにした。
精神世界の人ですら手にとらないようなものが良い。
●早い話が、「虚無の微笑」の発行のときと同じように
少ない人数にしか読ませたくない本ですから、
今回は、虚無の微笑よりも、もっと印刷部数を減らします。
●決して表に出ることはない、砂手と私の会話というものが
収録されているわけですが、砂手に再三に渡って私が注意を
しているのは、「読み手の為を考えるな」ということです。
他者の状況、その人の自我がどういう状況にあるか、
そういったことは、
既に無明庵の今までの本で、
「度を過ぎるほど親切に」書かれてきたわけですし、
竹の間でもそうです。
そういう時期はもう完全に終わったのですから、
誰かの理解を促したり、
好奇心だけの要求になど応じるものを書く必要はない。
●では、誰を想定して記録するかということを
砂手と検討した結果、
それはこれから何十年、100年近く未来の「特定の人達」を想定して
ということになりました。
ですから、この時代にあーだこうだと悟りとかそういう問題を
知ったかぶりをして、他人の言葉を恥じることもなく引用するような人達は全く無視して、
その100年後に通用する話し方でしか書いていません。
●まだ数十ページですが、ページ数も決して多くしないで、
何も親切な解説も抜きで、ただばら撒いて、必要な人以外は
それを転売するか捨てさせるという方法を取ります。
●話は変わりますが、
そんなに悟りたいとか言っている人間がいるのであれば、
まず第一にやらねばならないことがある。
それは俗に言われるところの守護霊を殺すことである。
私は20歳になったときに、それまでいた、
そういう、余計な(世話にもなったがその)存在には、出て行ってもらった。
方法など何もない。
単に「お前は必要ないから、出て行ってくれ」といえばいいだけである。
●そもそも、守護霊などというものが仮にいたとしたら、
それは、それ自体が「それ自身の課題を抱えている」ということを
明確に意味している。
つまり誰もあなたの為に守護しているわけではなくて、
彼ら自身にやるべきことがあって、あなたに寄り添っているのであるから。
●霊的な意味でも、まず1人っきりにならねば、
悟りという道の入り口にすら入れないという意味では、
まず絶縁宣言をすることである。
ただ、そのために、今まで保護されていたものが全て失われることもあるが、
その程度で、ビビったり、凹むような「そんな程度の自我」なのであったら、
とてもではないが、その後を進むことなど出来はしない。
よって、本気で、悟りたいなら、まず守護霊を追い出せ。
「誰1人として、私を守護するな」と声に出して本気で言えばいいだけのこと。
そして、その後は、不幸という不幸をすべて
自己責任において、背負う覚悟をすることである。
そういうことも決意できない人間に悟りなど口にする資格はない。
●次に死人禅の行法。
これは本当に、少なくとも自我が消えるという決着がつくその日までは、
そこには上達だの、一時の安心などあると思うな。
ほっとするとか、気持いいとか、無心になるとか、
死人禅の行法でそんなことを感じるようでは、
「全く行法は機能していない」と、何度も釘を刺したとおりである。
それが本当に機能して、順調に行っている場合には、
あなたの不幸感覚は、確実に日々増大する。
砂手が私のとこへ来てから、行法をただの一日も欠かさなかったが、
6年間、それが彼女に何かの安心をもたらしたことなど一度もない。
その実体といえば、それは、
2190段の下り階段を、地獄まで降りてゆくという作業だったのだから。
しかも、そのプロセスでは、
つかの間ですらも、安心感などは、一度たりとも起きないのである。
だからこそ、
死人禅の行法は、「真っ直ぐに悟りに向かう」のである。
そのプロセスで、日常の生活においてすらも、
本当に重要な自分の問題以外は浮上しないという意味においては
問題そのものの「優先順位が整理される」という副産物的な効果はあるが、
ただし、それは重要な問題だけが残るというだけに、
それに伴う苦痛は、それまでの何倍にもなるだろう。
●そもそも、この行法の目的は、
今の自我のあるあなたには絶対に到達不可能な「落差」を最初に
そこに、最初に設定してしまうという点にある。
つまり死人禅の行法というものは、
それを始めたその日から、
最後の地点までに存在するその「ギャップ」が、
あなたの内部に形成される事を利用している。
よって、誤差が巨大にある状態を自分で埋めてゆかねばならないが、
その工程で起きることといえば、
それは、「たたみ込むように」次々とやってくる
「悪夢のような状況」以外の何ものでもない。
行法をやって、安心感などを感じる人間などは、
まるで行法をやっていないことに等しい。
また、行法をやって、何も変化しない人間は「鈍重すぎる」といえる。
死人禅の行法をやり続けて、
悪夢のような苦痛が、日々「拡大してその拡大が止まない」、
そうであれば、それは確実に、それが正しく機能しているという
最大の証拠となる。
この言葉を否定する者がいるとしたら、
その者は、悟りと自我の間にある「綿密な関係の普遍的法則」について、
全く何ひとつ知らない者であると、断言できる。
地球では、脱自我のプロセスとして、
この方法が、過去に変更されたことも、
違う方法になったことも、
楽な方法や、重くない方法の可能性が試されたことも、
ただの一度もない。
なぜならば、地球で人間に生まれるという契約には、
そもそもそこには、「ある大原則」があるからである。
●
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