▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
▲竹の間へようこそ▲
掲示板
Title
島流しリンク
自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
性と死のホームページ
★
「竹の間自薦投稿集」
★
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[3912]
■
■乱用される「自我」と「エゴ」という明確な説明の無い言葉。
by:
崩残
2008/02/22(Fri)08:45:58
■世の中には、そもそも、自我とエゴの違いをきちんと分類していない人が
多すぎます。
そもそも、エゴというのは英語。
それは自我を直訳していることにはならない。
精神世界や宗教の世界でも、自我やエゴの定義そのものが
まったくいいかげんなままに、自我とかエゴを悪く言ったり、
または正当化したり、または逆に良く言ったりと、
これではほとんど、正気の沙汰ではないし、
何もそこには、共通概念がないままに、
ほとんど狂人同士が、話を進めていることになってしまう。
たとえば、エゴイスティックというときには、
自我と外界とさらには本人の屈折した性質とか混合されて
出力される、副産物の事を言っているに過ぎない。
しかし自我の本質的な病理は、
そうした表現された副産物の病理の中には、見出せない。
●そこで、自我というものは、
まず、特定の設計をされた生物の意識における「構造」ということで、それ自体は、
良いか悪いかは、この宇宙をどう観測するかという視点によって異なる。
●少なくとも、無明庵では「それは、かなり厄介なトラップである」と
確認できたが、
俗に言う世間では、自我は否定されることはない。
何しろ、心理学的に言えば、自我の確立が重要な問題であるのだから。
しかし、一方で、子供の自我がどう発達してゆくかというプロセスを見ると、
明らかに、それは他の生物にはそう多くは無い「異常事態」であることが分かる。
●自我が何であるかも明確化できていない人たちのいう
自我とかエゴとか自己中というたわごとを聞きたくもないので、ここに
絶版になった、無明庵の本の抜粋をしておきます。
前にもしたのですが、ちっとも理解できていないのですから、
こういう点でも、いくら明確な情報があっても、
人は、自分自身が、そのことに探求的になるまでは、
こうしたどんな言葉も、まったく豚に真珠になってしまうということでしょう。
********************************************************
★自我の発達のプロセス★
感性が、ごく繊細な人々に限られるが、
人は目を閉じて、広大な宇宙の広さと、無限の時間を想像するときに、
その中での自分のあまりの小ささと無価値さを実感することがある。
自分ばかりか、人類や地球や銀河や、その数億年の歴史さえも、
それが全体から見れば、あまりに微々たるものであると
痛感する事がある。
ところが、ひとたび目を開けば、そこにはいつものあなたの、
狭い狭い、小さな小さな「自分の世界」がある。
宇宙と比較したらあまりにも無価値なほど自分は小さい
と感じながらも、ひとたび肉体感覚を取り戻すと、
無価値でありながらも、完全には無ではない自分がいる。
宇宙から見れば馬鹿馬鹿しいほど微々たる大きさではあるが、
あなたという存在には、ある「面積」が存在することが感じられる。
あなたには、「ここまでは自分の世界だ」と思っている
『陣地』というものがある。
異国でたとえ何人の人間が死んでもあなたには全く関係はない。
ところが、あなたの飼い犬が死んだら、あるいは家族が死んだら、
それはあなたの世界にとっては大きな事件になる。
あなたに利害関係や愛着のあるもの、
すなわち、あなたの「意識の陣地の内部」で起きることには、
それが他人から見れば小さなことでも、
あなた本人は大きな動揺を感じる。
しかも、その事件の大きさというものは、
事件それ自体の大きさではなく、
その事件が、あなたとどれほど「かかわり」があるか
という事が基準となる。
すなわち、あなたの陣地の中心と、「その事件との距離」によって
心の衝撃は変化する。
試しに、あなたの世界というものを地図のように、
航空写真のように、図に描いて見るとよいだろう。
あなたが最も愛着を持っているものや、
あなたが最も大切に思っているもの、
あなたが、これだけは失うわけにはいかないと思ってるものを
中心の方に書いて、同心円状に、
あなたの「心理的な持ち物」を描いてごらんなさい。
あなたにとっては、実はあなたの世界は「均一な関心」や
自己同化があるのではない事を洞察するために、
円の中心から遠くのものは、より無関心なもので、
中心に近いものにはあなたの関心が強いという
図面を描いてごらんなさい。
そうすると、最終的に最もあなたにとっての大事件となるのは、
あなたの世界の陣地の砦そのものであるあなた自身の死だろう。
あなたの死より大きな大事件はあるまい。
こうして、あなたの「心の陣地の世界地図」を描いて見れば、
その中心の砦の主人は、外ならぬ「あなた」だ。
その周りに、あなたの理念や、持ち物や、家族などがあり、
さらに外周には文字どおり「どうでもいい周辺的」なものがあり、
一番外側には、あなたにとっては、
全くあってもなくてもいいようなものが取り巻いている。
このように、誰もが、自分の「心の世界の地図」を同心円状に描けば、
その中心はあなたの存在だ。
しかし、ここでさらに洞察してみると、
中心に気軽に『私』と文字を書いてみても、
一体「何をさして」私と言っているのかの問題が発生してくる。
★
さて、ここから、我々は、
今度は、顕微鏡で
「自我のミクロの世界」を解析しなければならない。
中心に簡単に「私」とあなたが書いたものは、実はまだ中心ではなく、
それ自体には何層もの同心円が樹木の年輪のように
内側に向かって存在するのである。
さて、ここで自我の発達のプロセスを考えて見よう。
実は、いわゆる「自我」というものが形成される
9つの扉(段階)というものがある。
_____________________________________________________
★自我の発達の第1のプロセスは、
「肉体的な自己感覚」である★
生まれたての子供には明確な肉体的自己感覚はない。
しかし、それはすぐに、肉体的自己感覚を持つようになる。
まずそれは、『空腹』を自分の中に感じることから始まる。
あるいは、おむつの中にした排便からくる不快感の自覚から始まる。
定期的に空腹がやってくるのを子供は感じる。
そして、それは何か『自分の内部』で起きてると感じる。
そして、空腹を感じて泣くと、母親が母乳をくれる。
すると、外から空腹をいやしてくれるものがやってくるのを感じる。
そして、満腹感がまた内部に発生する。
そうこうするうちに、子供の中には、
『内側と外側の区別』が発生し始める。
この時点では、赤ん坊はまだ「心理的な自我」などは持っていない。
赤ん坊をいくら言葉でけなしたところで、
その子供の自尊心が傷つくわけでもない。
第1の段階で、赤ん坊にとっての最大の自己感覚は
『空腹』に関するものだ。
そして、それが反復して経験されるうちに、
まず最初の自分の世界として定着する。
赤ん坊は、自分の内部の空腹感と同化する。
それが彼の世界のすべてだ。
また同時に母親の匂いや体温を反復して記憶することで、
彼の最初の外なる世界とは、
母親の体温や匂いの世界となる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、やがて目が開くようになってから次にやってくるのは、
親の顔の表情によって『自分が生存するのに有利な状態か不利か』を
判断し始める。
人間の場合には、他の哺乳類と異なって、
足で立って歩くのには時間がかかるために、
親の保護下にある期間が長い。
そこで、赤ん坊にとっての最初の「サバイバル」は、
親から食物をもらうための基本的な人間関係(策略)の方法を
学ぶことになる。
その人間関係の基本は、
親の表情やスキンシップの感覚を読み取ることから始まる。
この第1の自己同化、
すなわち肉体的自己同化は動物たちにもむろん起きていることだ。
彼らも空腹を感じることで内面を感じ、
自分の親がどれかを認識して外面を感じ、
かくして、『内側と外側の区別』が形成される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★ ところが、第2の自己同化以後は
自然界の動物たちには存在しないものが増えてくる★
たとえば第2の自己同化は、
「人間にだけ固有の2つのもの」によって持ち込まれる。
ひとつめ、それは『名前』だ。
あなたは毎回反復して、●●ちゃんと呼ばれるので
やがて、その名前が自分を指すことだと認識し始める。
そして、もうひとつの人工的要素は『鏡』の存在だ。
子供は、鏡を見ることで、初めて自分の姿を認識する。
そして、この名前と鏡の自己像の二つが反復されて記憶される事で、
以後、あなたの世界という陣地は、他の動物には決してあり得ないほどに
次第に複雑化して屈折してゆく。
余談だが、これは自然の動物を人間的なノイローゼに
わざと落ち込ませようとする事も可能だということでもある。
自然の動物はノイローゼになったりしない。
ところが、人間に飼われている動物にはたびたびそれが発生する。
一般的には、人間の住居での共存が動物にとっては、
不自由で劣悪な環境のせいだと言われている。
だが私の推測によれば、人間が動物に名前をつけて呼び続け、
鏡を見させ続けることで動物に自我の第2プロセスを発達させる事が
可能だと思われる。
自然界で動物が自分の姿を認識することなどは
水面に移る自分を見る時以外には少ないものだ。
また、自然界では、誰も他の生物に名前などつけはしない。
やってくる動物が自分たちの敵か味方かを仲間たちに知らせる合図
というものはあるだろうが、お互いを名前で呼ぶなどいう事はない。
しかし、人間の世界固有の
この「名前」と「鏡」が持ち込まれることで
動物にも余計な自己同化の題材が増えることになる。
その結果として、人間に固有の心理的ストレスに類似するものが
彼ら動物に発生してもなんら不思議ではないのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、
★第3の自己同化、つまりあなたの世界の陣地の拡大は、
肉体の『運動感覚』によって発生する★
赤ん坊の時には、あなたは空腹や親を知覚する事による内部と外部の
分離によって、自己感覚を発達させた。
しかし、立って歩くようになるころからは、
あなたは肉体運動による自己感覚を発達し始めるのである。
あなたは、ただ単に自分を取り巻く世界を
感じとっているだけではなく、
その空間を立って歩き、パパやママという言葉を発声し、
自分の意志で体を動かし始める。
子供は一日中、覚えたての言葉をしゃべり続け、歩きまわり、
とにかくなんでもかんでも動き続ける。
むろんこれは鳥が飛ぼうとするのと同じように、
『肉体の操縦方法』の学習プロセスである。
ところがその学習プロセスの中で
子供は「自分の力」という自我を発達させる。
だから、幼い子供の行動を見てみるがいい。
彼らは、しょっちゅう物を移動させたり、
物を投げたり、壊したりし続ける。
「自分にも何かが出来るんだ」という感覚を発達させはじめてゆく。
何かを壊したり、投げれば、親がすっとんでくる。
そうして、自分だって他人を動かせるのだという事を覚えはじめる。
そして彼らの行動は常に「破壊と力の拡張」に関するものだ。
彼らは、大声で泣いて親を困らせてみたり
小さな動物を殺してみたり物を壊してみる。
彼らは、肉体の操縦方法を会得するプロセスで、
同時に運動や発声による「自分の力」を感じ始めるのである。
そして、これらもまた何度も反復する事によって自我として定着する。
そして、この段階では、あちこちで転んで肉体が痛い目にあいながら、
前の第1プロセスでの肉体による自己感覚をも強めてゆくのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★第4の、あなたの世界の陣地の拡張は、
あなたの肉体感覚や運動感覚から、
さらに外側にそれが拡張した『所有』である★
あなたは、おもちゃを誰かが取り上げたら、
「駄目だ、それは僕のだ」と言う。
あなたは、お人形を取り上げられたら「それは、あたしのよ」と言う。
あなたは、「自分の」パパだ、「自分の」ママだと言い始める。
大人が自分の所有権を主張するのは、
それを得るための金銭的な支払いなどがあったためだろう。
しかし何も全く支払いをしていない小さな子供が、
親から与えられた玩具の所有権を主張するとはどうしてなのだろう?
お気に入りの玩具を取り上げると、子供は何が困るのだろう?
実は、この時、子供にとっての最大の心の痛みとは、
「いつも見慣れた物が目前から消えること」、
すなわち、一種の「死への最初の出会い」なのである。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・
★ そして第5の自我の発達プロセスは、善悪のイメージだ★
「よい子だ、悪い子だ」という親の言葉がそのキーワードになる。
そして、(親や教師が言うところの)良い子は称賛され、
ものを与えられ、親や教師から関心を持たれるが、
(親や先生が言うところの)悪い子は、無視され、軽蔑される、
ということを子供は覚える。
しかし軽蔑や無視それ自体には、なんら悪いことはないものだ。
いかに、誰かから悪い子と呼ばれても、
そこにもしも実害が何もなければ子供は悪い子と呼ばれることを
恐れたりはしない。
にもかかわらず、それが子供にとって重大なキーワードになるのは、
ここで子供にとって問題なのは、無視や軽蔑は、
あとあとで自分の生存に不利になり、
良い子と呼ばれて物を与えられたり、
誰かが助けてくれると生存に有利になると覚えるからである。
子供にとっての良い子、悪い子とは本能的にもそれが実は
大きな死活問題にかかわっていることを彼らは感じているのである。
余談だが、もしも、周囲が子供に言う「良い子、悪い子」の区別が
子供に影響するとするならば、
子供の「反抗期というものはなんであるか?」
の問題が出てくるだろう。
なぜならば、良い子と呼ばれることが生存に確実に有利であるならば、
どの家庭の子供もひたすら良い子と呼ばれるように行動するであろう。
にもかかわらず、いわゆる反抗期が存在する原因はいくつか存在する。
第1の原因は、まず親や教師の言う「良い、悪い」が、
絶対的基準ではないばかりか、
だんだんと大きな矛盾が見えてくることにある。
たとえば、親の言う通りに、友達とケンカをしないでいたら、
結局は相手にこっぴどく殴られて痛い目にあったりすれば、
親の言う良い子になっていても、
{それは自分が生き延びるのに頼りにならない方針だ}と、
子供は失望するのである。
また第2の原因は、自我の「第2の発達のプロセス」に関係している。
親のスキンシップが充分でなかった場合には、その「飢え」から、
親の注意を引こうとして、第3のプロセスである「力」それも特に
暴力を通じて、自分への注意を向けさせようとする。
これは特に男の子(成人でも)に起きることだ。
これがさらに退化した自己表現の場合には、
自我の第1の発達プロセスで使った「泣く」という行為を通じて
親の関心を受けようと策略する。
これは女の子(成人でも)に起きることだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★ さて、自我の第6の拡張プロセスは、
教育されたり自分で獲得した善悪基準、
すなわち「生きて行くのに有利な基準」を、
自分の内側にだけしまっておけばいいものを、
なんと、それを「他人に押し付ける」のである★
すなわち、子供は、
「自分は死活問題を解決できるのだ」という自負を持ち始める。
第5のプロセスまでは、
子供が基本的な自己確立をするまでのものだったが、
第6のプロセスからは、自己の動く範囲の「縄張りの拡張」が始まる。
これは前述した「第4のプロセス」に酷似している。
第4のプロセスでは「物に対する所有」だった。
しかし第6のプロセスでは、それは「他人に対する所有欲」、
あるいは「他人に対する影響力への欲望」に起因するものとなる。
自分が生存に有利にするためには
自分が接する範囲の物事との無駄な闘争を避ける必要があり、
その為には、人は事前にそれらを自分の支配下におこうとする。
それは、単純な暴力によって支配しようとする場合もあれば、
論理によって支配する場合もある。
しかし、いずれにせよエネルギーを浪費せずに自分の行動範囲での生存を
有利にするためには、自分の縄張りの内側の対立物を無くそうという
欲望が働くのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして第6のプロセスにおいて、現状の自分の力や知力では、
自分の行動範囲の他人や状況がうまく制御出来ないと思い知ったときから、
子供は次の第7の自我の発達に入る。
★第7の自我、それは、
「自分は自分を変えられるのだ」という自我である★
自分が、何か『今とは別のもの』になれば、
生存に有利な状況を生み出せると考え始めるのである。
これが自己改善意志や、目的意識、達成欲、
自己変革あるいは修業という『妄想』の登場である。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・
そしてさらに、第8のプロセスは、もっと奇妙な屈折をし始める。
★ 第8の自我は、
「自分は何かのために自分を犠牲にする事が出来る」
という自我である★。
第7のプロセスまでは、表面的には自己拡張に主眼があったものが、
第8の段階では、「部分的な自己消去をする」という快楽を覚え始める。
ただし犠牲になるのは、あくまでも「自分」であり、
中心は犠牲行為そのものではなく、
そういう犠牲的な行為をした「自分は、どうだ凄いだろう」
という自己主張にある。
「自分だって、与えることぐらい出来るんだぞ」という形の
これまた自我にすぎない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして第9のプロセスで、とうとう自我の発達はその頂点にいく。
それは
★ 「自分は自分の意志で自殺できるのだ」という
自我の最後の主張である★
第8の自我は「部分的な死」を容認出来るのだという形の自己主張だ。
ところが、第9の自我は、
「自分は自分を完全に亡き者に消し去る事が出来るのだ」という
「全面的な自己否定」という「自己主張」なのである。
しかし、これがまだ自我である事に変わりはないのは当然のことである。
なぜならば、自殺を意志している本人はまさしく「自分」であるからだ。
第8のプロセスにおいても、
そこには犠牲を「する自己」が依然として存在し、
この第9においても、自殺を「する自己」が依然として存在する。
●●●●●●●●●
以上が、人間の子供の「自我の発達プロセス」の
大まかなアウトラインである。
この9つの層が、
最初にあなたが自分の「心の世界地図」の中心に書いた
「私」の内側に存在しているのである。
そして、このプロセスは初期的な自我の発達に制限されているほど
生物としては健全であり、
第2プロセス以後の、特に人間にだけ固有の自己感覚は、
一種の病的状態であり、
第8や第9に至っては、その屈折状態は極限に達する。
したがって、最も発達した自我や知性は、
必ず最後には自殺を意志する事になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★
さて自我の発達に必要不可欠な要素のもうひとつには
「反復」される経験というものがある。
今まで述べて来た9つのプロセスもすべて反復される事で定着し、
自我が結晶化する。
実のところ、人間は繰り返し反復されないものには、
自己同一化が出来ないという原則がある。
自我とは経験の「反復」の中から生まれるからだ。
たとえば、こんな話をしてみよう。
我々が誰かや自分を認識する場合にも、
もしも毎日自分の顔が変わってしまうとしたら、
我々の自己同化は非常に困難なものになる。
すなわち、自己同化の為には、
「同じ現象が何度か反復される」必要があるのである。
そして、それは記憶される必要がある。
あなたが新しい仕事場でデスクを与えられても、
最初の数日は、あなたはそのデスクを自分のデスクだとは
感じないことだろう。
いつ配置換えされてもあなたは何も感じない。
入社して、たったの数日では、
まだあなたはそのデスクに愛着を持っていないからだ。
ところが、それが何カ月と経過するうちに、
そのデスクはやがて「あなたのデスク」と認識されてくる。
またどこかのアパートにあなたが引っ越したとしても
最初の数日はあなたは自分の部屋とは認識しない。
それが生活が定着して時間が経過し、同じことが反復されるうちに、
やがてあなたは、そこが「自分の」生活の場となり
「自分の部屋だ」と感じ始める。
●●●
ここで「自我の9つの発達プロセス」をもう一度まとめると、
次のようになる。
>■第1に、空腹や親の認識の反復による『内外の区別』による自己感覚。
>■第2に、『名前』の反復と『鏡の映像』の観察の反復による自己感覚。
>■第3に、主に筋力と発声を使った『運動機能』の反復学習による自己感覚。
>■第4に、近辺の物への『所有』による自己感覚の拡張。
>■第5に、『生存競争に有利な条件』の学習の反復による自己感覚。
>■第6に、自分の生存範囲への『支配力の駆使』の反復による自己感覚の拡張。
>■第7に、自分自身へ変化を与えられるという『自己支配力』の反復による自己感覚。
>■第8に、自分は自分の一部ぐらい『犠牲』に出来るという事の反復による自己感覚。
>■第9に、『自分を殺す意志』を反復して持つことが出来る事による自己感覚。
そして、このいずれの場合にも、{反復}という事が鍵になっている。
「自我は経験の反復によって結晶化する」。
いいかえればそれが反復されるような経験でなければ自己同化は出来ない。
毎回常に変化し続けるものには、人間は自己同化は出来ないからだ。
〜以上が書籍からの引用です〜
● このように、、われわれがこの世、またはこの人間社会に生まれると、
「自我」という枠、自分という孤立して限定された感覚を持つに至る
「外部要因」である。
ごく小さな子供、幼稚園あたりの子供には、自他の区別はあまりない。
極端に虐待でも受けないかぎりは、
たいていの幼い子供は、誰とでも友達になってしまう。
しかし、自我の発達により、「自他の区別」が発生する年齢から、
子供は、自分という枠が、「周囲とは違う」という、
その枠の「境界線」を意識し始める。
自我とは「自分を中心とした 枠 の意識」である。
それは、あらゆる社会的、生物学的原因によって「発達するように」
出来ているのである。そして、
それを「自然な発達」としてみる視点もあれば、
それを「不自然な事」としてみる視点もある。
●
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(3912 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
竹の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -