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[3914]
■
醜い、ご利益主義と、偶像崇拝。
by:
崩残
2008/03/01(Sat)15:24:45
■前回は、多数で集団化することが元々の個人的な探究という
宗教の根本を冒涜するということを書いたが、
そもそも、何かの物理的な利益が宗教によって加速したり、
それによって経済や、さらには健康が維持されるということからして、
それらは、無明庵では、ご存知のとおり、すべて
「ご利益目的」の醜いただの悪魔との「取引」である、
という視点で語ってきた。
たとえば、もっとも一般的で過去から多くある宗教の釣り餌が、
病人や病弱な人間に対して回復や健康を保証するという
宗教詐欺である。
しかし、そもそも病気というものは、重要なサインを出しているのであって
緊急に治療の必要なものでないかぎりは、
ある程度、そこから個人的に学習する課題があると見なしてよい。
そこに割り込んできて、「病気治します教」がやってくるのが
世の常である。
■そもそも宗教をどう定義するかにもよるが、
少なくとも、無明庵では、それは、
>「個人による個人のための個人の意識の探究」
であると絶対的な定義がされている。
終始それは、最初から最後まで「個人的」なものである。
■宗教が、個人的なものに留まらずに、
政治、経済、商業にまでその汚染を広げてしまう最大の原因は、
それが、実社会と「利害関係」を持つような、
物質的なかかわり、平たくいえば、金とのかかわりを持ってしまうことにある。
■一方で、金と直接に関わらない場合には、
それらは、世間に複数ある新興宗教のように、
金ではなくて、健康の保証や「不幸を避ける」と称する保証をするように
見せかける詐欺を行うわけである。
害悪から言えば、前者が最も俗悪であり、
後者は、それを信じた本人が悪いという違いはある。
■そもそも、人類のうちの、一部のもの、
または多勢が「つるむ」という場合には、
そこには一定の規則、ないしは、原因が常にある。
人間が個性や、この地球では、全くの個人であれるという、この
地球において獲得できる、権利の「最大の宝」を捨ててまで、
集団化する最大の理由のひとつは、
「恨み」である。
■これは、ずっと以前にも書いたことだが、
たとえば、会社で社長に対して文句のある社員は、
つるみやすい。
人間は、何かに対する価値観の共感によって集団化するよりも、
何かを共通の敵にすることによって団結してしまうという愚行を
常に繰り返しやすい。
そもそも、何かへの敵視や、敵意の共有からではなく、
自然に組織化する場合には、
そうした組織というのは、そもそも個人の自由度が高いために、
可塑的なものであり、継続しない傾向を持つ。
また長く継続したとしても、非常に少人数であるか、
または、常に人員が入れ替わることで代謝しているものである。
■それを考えると、たとえば、
日本人に侵害されたと主張するアジア民族や、
欧米であればユダヤ民族、その他、もっと多彩な人達がいるだろうが、
被害者意識を持った者たちが、集団化するときが、
もっとも醜い社会を作り出すことになる。
美しいものや、すぐれたものへの共感によってではなく、
「敵視したものを通じて結束してしまう」ということは、
そもそも、その組織が、「恨みのかたまりである」ということなのだから。
■だから、これの構図と同じような形で組織が拡大した宗教組織
というものは、多くあるだろう。
たとえば、オウム信者は、そのほとんどが、意識の水面下では、
ごく一部を除いては、松本教祖とほとんど同じ、
社会への恨み、社会への敵視や、そこからオチこぼれたことを
その根底に持っている傾向が、見られる。
また、親子関係に問題のある者が圧倒的に多いことだろう。
■別の組織を見れば、日本人に対する憎悪を磁石として
結束しているようなところもあるだろう。
しかし、恨みや敵視から集まった人間の集団が、
一体、どうして、宗教的でなどありえるだろうか?
■しかも、無明庵ですらも、そのあやうい傾向はある。
むろん無明庵は、全く組織でもなく、組織化することもゼロのところであるが、
ただし、そこに集まりやすい読者の傾向というものがあった。
無明庵の読者の多くは、
「既存する、スピリュアリズム、精神世界のたわごとや宗教の言い分」
それがどれだけ伝統があろうが、権威があろうが、あるいは人気が
あろうが、
「それは、変だ」「あれは、おかしい」という
何十年も、当たり前に信じられてきたことに、疑問符を投げたということ。
■それによって、それまで接してきた宗教体系に、
不満をもっていた人達が、無明庵のほとんどの読者に共通することである。
この共通項だけは、確かなことである。
つまり、少なくとも、それまでのグルや宗教や、仏教を
「胡散臭い」「のうがきだけで、結果を出していない」
「精神世界には、気持ち悪いやつが多い」
そう感じて、反感を持っていた人達に対して、
安堵できる「場」を、書籍や掲示板で提示してきたという面がある。
■したがって、無明庵の読者の多くに共通することは、
既存の宗教やも近代の宗教になど、とっくに嫌気がさしているか、
または、疑問視しているということである。
・・・ただし、ここで話は戻るが、
それは、たとえば、悟りとか、宇宙の実相に対する、
「共通の探究心」によって、それによって読者が集まったとは
言えない点にある。
■実際、私はこの10年間で、ごくごく少数の指折り数えるぐらいの
人数の人以外に、精神的な探究を共有していた読者を見たことがない。
おそらくは、実際に会った人間ばかりではなくメールをいれれば、
その数は数千人になるだろう。
また、それは梅の間の砂手の過去の投稿や竹の間を見れば分かるように、
多くの者は、到達点にある悟りや宇宙の問題ではなくて、
それまでの社会や、あるいは宗教に適応できないか、
または、そうしたことへの「不満」、それを無明庵の書籍の中にある
批判的な部分に重ねてしまったという人が、かなりの数、
見受けられるのである。
■純粋な批判、酷評というものは、そもそも、不満の中から
生まれるものではない。
それが論理的な酷評であるほどに、
それは、不満や不平から出てくるものではなく、
むしろ、全く逆に、全くの満足の中にあって、この世界を見たときに、
「いたたまれずに」、観察した結果を率直に述べること、
これが、無明庵の批判の根底に常にあるものである。
だから、そこには感情的な表現はあっても、感情そのものがない。
何かを恨んだり、憎んだり、軽蔑して指摘しているのではなく、
観察した結果を報告しているまでのことなのだから。
■しかし、そこには、それを読む、読者の立場になれば、
下手をすると、それは単に既存の精神世界への反感を共有する
という曲がった解釈または状態にもなりかねないものを
無明庵は持っていた。
むろん、こちらには、そんな醜態の責任は全くないが。
したがって、最近は、純粋な批判精神から出てくる話題を
私は、書きたくなくなっている。
そうではなく、悟りの問題について、
ただ、その美しすぎる展開、その不思議さ、その複雑さだけを
現在、砂手とともに「悟りからの道」という仮題の書に、
その草稿を書き記している。
■そうすれば、無明庵には、今後、
家族や、社会への不満や、敵対心といった無自覚な動機から
集まるような人間は、いなくなってくれるからである。
だから、批判的な美味しさのある刺激物を、ほとんど与えずに、
ただ、悟りの複層構造と、そこを通過するときに起きる
いろいろな変化についての記録だけを、
これから100年後の人達のために、残そうとして現在それは書かれている。
現在、まだ130頁ほどにしかなっていない。
●さて、話はここで「下世話な話」に戻るが、
物理的にだけではなく、
精神的にすらも、何か見返りを、要求どころか、期待すらした段階で、
それは、「ご利益宗教になる」ということは、
さんざんに、既刊の書籍でも書いてきたとおりである。
そもそも、精神世界と呼べるもの以外の、
医療、占い、単なる思想、文化といったものが、実際には
宗教と呼ばれているものであることは「悟りなき悟り」で、
明確に分類したとおりである。
つまり、「悟りなき悟り」で言ったように、
精神世界と呼ぶに値するものは、
「哲学による不断の自問と思索」
「瞑想による意識探究」
「異星間の文化コミュニケーションによる、知性への"ショック"療法」
これら以外にはないと書いたとおりである。
■一方で、地球上にはびこったもうひとつのガンは
「偶像崇拝」である。
これは、現在草稿を書いている「悟りからの道」のごく一部でも
砂手との対話の中で、砂手が語っていることなのだが、
「そもそも、神や仏をイメージした、ただそれだけのことで、
それは偶像崇拝になる」ということを人々は、気づいていない。
偶像崇拝の本当の定義とは、
それは物理的な偶像を作る事だけ意味するだけではない。
頭の中に、神や仏を妄想したりイメージした段階で、
それは、もう偶像なのだから。
あとは、それを絵に書いたり、彫刻にするかしないかだけの話であり、
その段階で、偶像は、すでにネガフィルムや設計図として
定着してしまうのである。
これゆえに、イエスやブッダが、もしも、
「偶像崇拝をしてはならない」と言ったとしたら、
それが真に意味することとは、
「神仏を思い描いてはならない。たとえ頭の中でさえも。
また、悟りをイメージしたり、想像したり、
悟った人のイメージや、悟った人の記憶の姿をも作ってならない。」
そのことを彼らは言っていたのである。
なぜならば、それらの行為や心理的行為は、
すべて、悟りからは、かけ離れた妄想だからである。
そのイメージが美しかろうが、醜かろうが、どちらも間違いである。
だから、偶像崇拝を禁じるということは、
一切、何も、悟りや神仏という妄想を、
自分の脳裏に観じてすらならないということだ。
そんなものを一切、観想することなどなく、
ほとんどの悟った人達は、その意識にきちんと到達してきたのだから。
むろん、そうしたイメージこそが障害なのであるのは明白すぎる
ことであるのは言うまでもないことだ。
_________________________________________________________________
■最後に、別の天体、あるいは次元、宇宙の民族の人達も、
精神的な基盤のようなものは確かに、あったりなかったりする。
それこそ、下は「ヴォゴン人」なみの無知性から、
上も、いろいろといる。
ただし、そもそも、彼らにとって、もしも共通認識されている
精神世界や精神性のようなものがあるという場合には、
それらは、この地球で、言っているような、「妄想」と想像の産物ではない。
それらは、実体験として、明白な日常でないかぎりは、
共通認識や、共通の意識とは呼ばれない。
つまり、たとえば、地球では、キリスト教徒がどれほど群れているか
知らないが、
彼らは、たったの、ただの2人の人間すらも、
現実には、何一つもその神を共有など出来ていない。
一方で、異星の者たちが、共有しているという場合には、
それは、大気や水を共有ているというぐらいに、
明々白々な共通の知覚物を、日常として共有している
ということを意味する。
従って、たとえば、ある星の住人に、
宇宙の意識とは何か?と質問すれば、その答えは、95%一致する。
●つまり、地球上では、神仏とか意識とか宇宙とか、
それらは、ほとんど全くといっていいほど、
単なる集団妄想産物であり、しかも、個人や国ごとに異なっているのに
対して、
外宇宙の民族や文化の中では、
最低限でも、それは、惑星や太陽系という単位では、
全く普通に日常的な意識として「一致した認識」をしているのである。
●ただし、その共通認識は、太陽系や惑星単位で共通しているだけであるので、
とうぜん、それは、
異なる銀河系や、惑星や、異なる太陽系とは、
宇宙意識に対する認識の誤差が生じていることは言うまでもない。
その誤差は、実際に、過去に、
規模は大小あるものの、
宇宙戦争すら、何度も、引き起こしてきたのだから。
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