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宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3957]
■
■自分という船の操縦の仕方を知らない人たち■
by:
崩残
2008/06/21(Sat)10:03:58
<梅の間に砂手が新規投稿していますので、必ずお読みください。
【連動するネットワークの自覚法】
■ここらで、竹の間の多くの読者にとっても、
もっとも最下層の話題にしか見えていない、無差別殺人と、
宇宙の話がどう関連するか、話をしましょうかね。
ただし、私はどこどこの宇宙でこういうことがあったから、
秋葉原でどうこうしたといった、そういう何のタシにもならない
「対応学的解読ごっこ」は一切しません。
■そもそも、今回の秋葉原の事件については、
私は事の最初から、「これほど原因のはっきりしている事件は珍しい。
否、これほど分かりやすい原因の事件は、ほとんどないだろう」
という論調を一貫させてきた。
むろん、原因の震源地は犯人の「親」にある。
呆れることに、NHKで特集を組んでも、親が原因という言葉は
ただのひとつも聞かれなかった。
漠然と暗に「家庭も何かの原因」という誤魔化し方で、
その部分を意図的に避けてさえいたようである。
もっとも彼らには取材能力と専門知識がないのだから、
しかたないだろう。
■ところで、人間がこの世に生まれて
最初に出会う他人とは、
他ならぬ「自分自身」である。
自己というものは、主体ではなく、客体である。
ああした事件でも責任や原因の所在の「順序」を明確な図式にすれば、
本人自身
家庭の親
知人
会社などの順番となる。
確かに本人自身に最も大きな責任があるが、
二次的な原因が周辺にもある。
●さて、ここからが、竹の間話題です。
1人の人間が、日頃漠然と、「これが自分の世界だ」と思い込んでいるものに対して、
次のような区分をして、「自己地図」というものを描いたことのある人は
ほとんど存在しない。
私は10代の終わりから20代の後半まで、一貫して、
この「自己地図」というものを定期的にチェックしてきた。
その地図に書かれる項目は、次のようなものである。
1-自己
2-親
3-知人
4-地域社会(近所)
5-会社または労働環境
(私個人は、生まれて死ぬまで、一貫して、紙という平面上の文字や絵と
付き合う仕事だけをする運命にある)
6-近所以外の地域社会
(私個人の場合には、日本国内に限定すると、
「山岳信仰の拠点」と「桜」の咲く土地や「桜の字」のつく「領域」に、
やたらに縁が深い。)
7-日本社会
8-世界
9-太陽系
10-銀河系
11-小宇宙
12-究極性
私の「自己地図」の中には、こうした、幾層かの外部と認識されている
ものと自分との関係性が、
日々の生活そのものの中で、
どういう状態にあるのかを、常にメモをして図式化してきた。
●具体的に言うならば、
これらの項目に対して、年齢が変わるごとに、
その都度、自分と「それらとの関係を示す」
簡単なメモを、書いていたのである。
自分がよく遊びに行く土地、行動範囲のエリア、
付き合っている知人、
そして、それらの友人がどういう種類の人間で構成されているか、
親との関係はどうなっているのか、
その時の付き合っている恋人との関係はどうなっているか、
近所との関係はどうか、
会社ではどうか、もう少し広い範囲の社会全体との関係はどうか、
世界と自分の関係とはどうか、
と、そのように、これら12種類の「関係性」が、
一斉に連動しながら、どう自分の認識している世界を構成しているのか
それを私は常に、監視し続けてきた。
●つまり、分かりやすくいうと、
もしも私が、パイロットだとすると、
>これらは重要な「コックピットの計器」のようなものであったのである。
むろん、これらは全て私にとって重要なことであったので、
宇宙の問題や、自分の意識の問題と、日常の社会生活との間には、
なんらの区別もありはしなかった。
常に12のパラメータを監視しながら、
自分の世界というものの航行位置を確認していたのである。
■ここで、話はまた事件に話になるが、
私の認識によれば、
社会(加藤容疑者にとっては会社のエリアでのウェートが高かっただろう)
というものは、4番目に外周に属するものである。
実際には、多くの勝負は、3層の「知人」までで決定してしまう。
「自己と自己との関係」
「自己と親との関係」
「自己と友人や知人との関係」
このエリアでの「自分とそれらとの関係」に対して、
徹底的な自己管理がなされるならば、
社会に出たときに起きることは、
単に、その3層までの反映でしかない。
実際、社会との関係というものは、
親との関係がうまく処理された場合には、
その人にとって重要性を持つものは、知人との関係に移行する。
あなたは、自分の親の影響(親の金銭を使った行為)で、
誰かと知り合ったり、職場を見つけたり、
移転先を見つけたり、親の金で見つけた書籍に出会ったことよりも、
自分自身の足で、知人や情報や書籍を探し出した場合の方が、
自分にとって利することが多かったはずである。
(だから、私は、私ときちんと関わろうとする人間で、
ダメ親の影響下にあった者には、
その者が、親からもらった物や、親のお金で買ったものの使用を禁止し、
また、親の影響で動いた形跡のある運命によって経験したことを、
ことこどく、すべて捨てさせる。
むろん、きちんと捨てないで、親の金で買ったものを、
コソコソとまだ使っているような者もいるのだが。)
■私は、友人とか知人を大切にしろとかいう臭い一般論を
一切言うつもりはないが、
「それらと自分との関係性がどうなっているか」をよく観察しろという意味で、
第一に、大切なのは自分と自分の関係、
第二に、自分と親との関係、
第三に、自分と知人との関係、
これらの対象そのものではなくて、「それらとの関係性」を
常に図式化し、
自分で「それらの対象が占める意味や位置」
を自分で「定義」して自覚すること。
それが「自己管理」ということである。
■そうした場合に、子供の育成過程では、
第二の領域が、どれほど大きな影響力を持っているかは
容易に理解できるはずである。
私に言わせれば「良き教育法」など、ありはしない。
問題は、子供が、自分と自分の親との間に、
明確な距離感を持てるように、「過干渉」を親が避けるだけでも、
相当に、マトモな子供になると思っている。
>■子供にとって良い影響をしよう、などと考える事は全くの害悪であり、
>子供にとって、自分が「悪影響だけは、しないように」十全に注意する、
>それが、親がやるべき「最低限の義務」である。
>子供にとって何が親として良い行為かではなくて、
>何が悪い行為になるか(何が「毒になる親」)に対する防止マニュアルが、
>この世界には、ほとんど普及していない。(概念としては心理学の領域にあるのだが)
そこには、子供への何かの教育法があるのではなくて、
「距離の取り方」だけが必要なのである。
ただし、距離を取るということは、容易に誤解されてしまうことだろう。
それは、親が自分の子供を無視するということではない。
なぜならば、無視とは、それ自体が
既に、不純な動機を持った子供に対する「過干渉」「過剰意識」になるからである。
しかし単なる放任主義でもなく、わがままをさせることでもない。
教育というものは「距離の取り方」にあると断言しても過言ではない。
そこでは、「何を教えるか」が重要なのではなく、
「その都度、距離をどう、縮めたり、遠くに引いたりするか」
そのことによって、動物としての子供は、
自立心と安心感を同時に養うのである。
野生の動物、特に哺乳類の世界をよく見るといい。
親は、子供に、最低限の世話はする。
しかし、時間とともに、親が子供を自立させるために、
絶妙な「距離」を作ってゆくプロセスが観察されるはずである。
■最近(ずっと太古からいたのだが)、
世の中には、よく、KY(空気読めないやつ)というのがいるが、
私に言わせれば、
コミュニケーションの最大の鍵は、「距離の取り方」にある。
>肝心の、至近距離まで、接近しなければならないときに接近できず、
>逆に、距離を取らねばならなときに、相手に近寄りすぎてしまう。
この相手(外部との)間合いの取り方が、
実は、コミュニケーション能力の全ての基本だといってもよい。
そして、子供の自主性が自然に育つ上では、
何かの知識や、しつけを子供にしなければならないのではなくて、
「過干渉」はまず、何よりも第一の大間違いとなる。
過干渉をするぐらいならば、孤児院で育った方がよっぽどマシである。
しかし、孤児ではなくて、そこに親がいるときに重要なことは、
親自身が、子供との間に、
常に一定の距離を保って、「その距離の伸縮」が、自然で自在であること、
(無関心とか、子供のことが分からないから、ご都合主義でそうするではなく)
ようは、親自体が、少なくとも片方の親だけでも、
マトモな1人の人間でなければ、
子供など産んだり育てたりするなということである。
そうでない親は、
子供を「自己満足の道具」「自己不満の捌け口」として利用するだけになる。
今回の加藤容疑者で最も問題となっていたのは、
その部分の「親自身の機能不全の病理」なのであるから。
■砂手が、梅の間に非常に重要なことを書いている。
それは、
>自尊心とは、依存の対象を持たない。
ということだ。
私の母は、子供の自尊心を傷つけることは、決して一言たりとも言わなかった。
むろん、それは私を叱らなかったり、しつけなかったということでは
全くない。むろん、甘やかしたという事でも全くない。
私の母は、子供に言っても良い範囲の注意や愚痴と、
子供の自尊心を削ぐような結果となる「決して言ってはならないこと」を、
ごく自然に、明確に知っていたのである。
私が、生まれたその時から、
私の母は、私のことを、1人の独立した別の人間として見ていたのである。
そうしろと誰かに言われたり、何かで読んだからそうしたのではなく、
それは母方の、家系全体を通じて、
母の家系に、ずっと昔から「ごく自然に」備わっていた
「家風」のようであった。
今、こうして思い出してみても、
私は生まれるときに、
実に、自分の目的に適合した「着陸地」を正しく見つけて、
今回の誕生の手続きの契約が、出来たと言える。
■
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