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●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1342]
■
■禅書道日記−その81 「作品」としての無無心の書
by:
鈴木崩残
2009/12/20(Sun)13:22:50
おたよりと「無無心の書」について
●お便り●
一昨日、書が届きました。
久し振りにドキドキしながら開封しました
・・・すごい存在感・・・。というのが第一印象でした。
DVDの解説(?)を聴いたせいかもしれませんが、
書の文字の動きや流れのひとつひとつが、
自分の存在の動きや流れに静かに働きかけているような気がします。
(当然なのかもしれませんが、)私に対して協力的な感じがして、
頼りになる仲間ができたようなうれしさ、心強さがあります。
なんだか、ずーと以前から飾ってあったような馴染み良さがあります。
そこで、質問があるのですが、
・この書は、しまってあっても効力は同じなのでしょうか。
●効果というのが、何を意味するのかにもよりますが、
この「禅書」の場合には、飾ったほうがいいと思います。
無意識に働きかける可能性があるのは、「無無心の書」のほうですから。
ただ、この投稿に追加して掲示板にも書くと思いますが、
これまでのここ数ヶ月の報告や状況を分析したところ、
無無心の書は、「あらかじめ効果をその人が意識していると、
危険性がほとんどなくなる」傾向があるようです。
逆に言うと、何かの増幅効果を気にせず、
アートとして楽みたい人には、気軽に見られる可能性が出てきました。
・無の落款と崩のとでは、無の落款の書の方が効力が良いのでしょうか。
●「より勢いがある、何かを放っている完成品である」という意味では、
無の落款のものを私はお勧めします。
崩の落款のものは、正式な意味では、私の完成作品でなくて、
その人に合う書をつくろうと奮闘している、その途中で生まれた
「習作」だと思ってください。
ただ、「崩」の落款の書は、
注文された人が、私が気にいった作品よりも、
書体の雰囲気として、「習作のものの方が好きである」という場合も
たまにありますので、予備に入れてあります。
また、崩の落款のものは、無の落款のものよりも、
より「気軽に」貼ったり見て、楽しんでください。
無の落款のものよりは、私個人の感覚では、少し劣るのですが、
しかし、同封したぐらいですから、
決してボツの烙印を押したものではありません。
それなりに、私も気にいっているものです。
ちょっとだけ、ある部分が、惜しかった、しかし、
とても捨てる気にはなれなかった作品というのが、「崩」落款の書です。
ただ、それは「力を放っているかどうか?」という意味において、
無の落款のものよりも、少しおとなしい書であるかもしれません。
・梅の間の書き込みに、クリアファイルなどにしまえば
効果が押さえられる、というようにありましたが、
むき出しで飾らないと効力が押さえられてしまうのでしょうか。
●むき出しというのは、別に紙の表面を空気にさらすという意味ではなく、
額やファイルに入れての、ビニール越しやガラス越しでもかまいません。
問題は、それが「受け手の視界に入るかどうか」です。
むろん、精神的な何かのフィードバックを期待される場合には、
見やすいところに飾るほうが良いです。(ファイルにしまっておくよりは)
また、皆さんが、少し気分を変えたいときには、
ファイルしてあった別の書に「交換」できる、という点でも、
私は複数枚を差し上げることにしています。
これが、いわゆる書家の作品ですと、一点ぽっきりで、
交換する楽しみもなく、うん万円とか取られてしまいますから。
_____________________
■ 最近の書 ■
(どちらも通常のカウンセリング的な要素を含む禅書ではなく、
商業的なデザイン書に似たものです)
★アメリカのナイフ投げ名人の方に謹呈させて戴いた書。
「創造」「笑顔」「刀剣」(希望文字は、「創造」と「笑い」でしたが、
私のほうの判断で、「笑」を、「笑顔」に変えました。)
「極」「創」・・・技を極めた人なのでよかろうと思って勝手に追加。
★こちらは今年、本当に、大変にお世話になった、ある方へ。
毅然とするの「毅」「自然」「凛」
同じく「毅」と、「然」の一文字
______________________
【無心・無無心の書】
■さて、無心の書や、無無心の書について、少し進展がありました。
今年2009年の7月から開始した企画でしたが、
後半で、何人かの方から「無心の書・無無心の書」のご注文を
受けました。
第14巻に収録の内容に同意を戴いた上で、動機はさまざまでしたが、
基本的に、アートとして私の作品を楽しんでいただけた方ばかりのようで
私は、ほっと安心しました。
■さて、問題なのは「増幅効果」の有無ですが、
不思議なことに、無無心の書についてのエピソードを掲示板で公開して、
告知して以降、現在までに、急激な変化や激動、変動の知らせもなく、
また、外から見ていてそのような状況も観察されませんでした。
この点については、以前にも話しましたとおり、
以前には、あまりにもそうした増幅が目立ちました。
ところが、最近そうした事例がないことを、
ここ数日、不思議に思っていたのですが、
一点、私が見落としていた事実がありました。
●それは、この企画の以前に私が無心や無無心の書を渡した人達は、
すべて、「増幅効果」について全く知らなかったことでした。
なにしろ、私自身がその奇遇な現象に気づくのに数年かかりましたから。
つまり、増幅現象が起きた人々のすべてが、その事について、
全く知らなかった人達ばかりでした。
■一方で、今回書いた無心の書も、無無心の書も、
書くときの私の精神状態は全く以前と変わらないにも関わらず、
「増幅現象」が著しく少ない(ほとんど皆無)なのは、
それを事前に注文者の方が知っている、という違いに気づきました。
つまり、事前に書にそうした現象があることを、
知っているか知らないか、という差は、私の書の場合には、
非常に大きいようです。
事前に知っていようが、いまいがに関係なく作用する現象も
世の中にはありますが、こと私の書に関しては、それらとは違うようです。
■増幅効果があるかもしれない、
という警戒意識を持った今回の梅の間の人達と、
それに「全く無防備であった、企画を開始する以前の人達」とでは、
かなり異なる結果になると思います。
とても変なたとえですが、たとえば、
「この路地を進むとこれから100メートルは、
ヤクザや麻薬の売人や異常者がうようよういますよ」
とか、
「日本人を狙った置き引きや、ひったくりが、この先の道には、
うようよ、いますよ」
と、こうしたことを知っていて、
異国の路地裏を歩くのと、それを知らないで歩くのでは、
警戒の仕方も、その結末も全く違ってきます。
●もう少し穏やかな「たとえ」を使えば、
「この先、急カーブ多し。事故多し、注意」と道路標識にあって
道が蛇行している道を車で走るドライバーと、
まったく警告なしで、そこを走るのとでは、
危険性が全く違うというのと同じです。
■こういう問題では、常に、事前に状況を知っているか知らないかでは、
歴然と結果の違いに出ます。
それと同じことが、無心や、無無心の書に現れているとしか
私には思えません。
つまり、もしもそうであれば、私が当初、望んだように、
効能どうのこうのとか、増幅がどうのこうのではなくて、
シンプルに私個人の「アート」として楽しんでいただける可能性が
かなり出てきたという事です。
私としても、何か受け手本人の素養に対して増幅効果があるということで、
この企画を本格的に始める前までは、長く自分の中で封印してきたのですが、
「増幅効果について知ってさえいれば、対処不能な問題は起きない」
という可能性が(現時点では)かなりあります。
●そうしたわけですから、私の無無心の書によるとしか考えられないような、
私が目にしてきた人々の中の変化は、
書の効果に対して全く無警戒で、「何も知らなかった人達」だけに
限定されていた、という事実があったわけです。
実際、思い出すと、変化を起こした人達の中で、
あらかじめそういう効果の可能性を知っていた人は一人もいません。
●ですから、もしこのまま、問題があったという報告がなければ、
今後、無心の書と無無心の書は、
「梅の間」をよく読んで、事情を知ってさえいれば、
注文される方も、アートとして楽しめる、
または、純粋に「作品」として扱える、という事になりつつあります。
●私としても、変に自虐的な人が、
激変したり、自滅的に自爆する効果を期待したり、
または、自分を試してみるんだ、といった、
そういう変にオカルト的な動機からではなくて、
ごく単純に、私の無無心の書を、作品として好んでくれる人にのみ、
私も書きたいからです。
●さて、一方で、現在、主に行っている「禅書」では、
簡単に言いますと、私は服の「仕立て屋さん」と同じです。
本名だけを頼りにして、
その人の体型や、顔立ちや、肌色、そして何よりもその人の雰囲気に
必要でマッチすると思う服を、可能な限りデザインするわけです。
それはあくまでも、相手の方に似合う服を仕立てるのと同じです。
また、その服装は、普段着としてカジュアルに着られるべきものです。
●一方で、
「無心の書」や「無無心の書」となると、
もーう、それは私が、「パリコレ」やっていると思ってください。
パリコレ・モード満開の、
「東京 どーも 学園」のノリになるとでも考えてください。
そのモードになったら、
遠慮なく、カジュアル性など私は無視しますし、
予測外に(良い意味での)トンデモな書になることもしばしばです。
また、「無心の書」の場合には、
以前にも画像をお見せしましたが「夢想」という文字のように、
予測外に、おとなしく、全く普通の字になることもあります。
●ですから、ぶっ飛んだパリコレみたいなデザインが出てきてしまうかもしれませんよ、、、
というのが、無無心の書です。
つまり、「こんなもの着て、街中を歩けるか!」
ってなものに、なりかねない事もあるわけです。
(必ずしもそうなるわけではないですが)
●一方で、いつもの「禅書」は、スーパーにでも着ていけるし、
ある時にはデートにも着ていけるドレスやスーツという意味で、
その人にぴったりの「普段着」を縫おうとしているわけですね。
もし書の製作が難しい展開になってくると、どちらが、しんどいかというと、
御存知のように、「普段着」のデザインです。
●ただし、先日、はじめて、無無心の書で、
ちょっとだけ、つまづきました。
理由は分からないのですが、どうしても、いくら書いても、
自然に湧いてくるように書けないという文字が、出てきたことがありました。
その文字は今回はパスしました。
まー、そういうこともあるもんなんですね。
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