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[248]
■
★分割自我復元★その248 ■ 『断片・破片』 ■
by:
鈴木崩残
2013/07/22(Mon)04:03:15
断片と破片
●私の癖としては、なるべく汎用性のある記事、
分かりやすい説明を心がけるのが常ですが、
今回は、思いついた印象の「断片」や思索の「破片」を書き連ねるので、
誰にとっても一様に役立つもの、ではありません。
これは、「ある種」の「独り事」となります。
毒親と毒神
■トラウマ掘りというものを舐めてはいけない。
トラウマ掘りと聞くと、
「弱かった自分が、毒親または有害な親」
あるいは「自分に不快感を与えた親」に、まんまとハメられたとしたらば、
そんな馬鹿で弱い自分のことを思い出したくない、
などという理由から、目を避ける者もいるだろう。
だが、ある意味では、
子供にとっての「最初の神」は親なのだ。
ここでの「神」の定義とは、自分の命、死活問題に関わる主権を
握っている者という意味である。
もとより、人間が考え出した神などというものは、
すべからく「決定権と支配力を持ち」「威圧的であったり」
「教育的であったり」「何でも知っていて頼れて」「時に優しく」
と、あることないことを投影している事は間違いない。
だが、子供が、その後の人生で、宗教やら、文化人ぶるのに使う、
さまざまな知識や、思想や、生き方と称する虚構を武装するのは、
おおむね10歳を過ぎたころであり、
それまでは、それが毒親であろうが、なかろうが、
紛れも無く、親は子供にとっては、生育の初歩的な段階で「神」の位置にいる、
ということは間違いないのである。
となれば、その後にその親が、毒親や有害親であることが、
あなたが成人して、さらに、今頃になって判明したとしても、
当時のあなたは、少なくとも3歳、あるいは5歳、7歳ごろまでは、
間違いなく、その神の前では「無力」だったのである。
その無力さ自体には何も悪いことはない。
否、むしろ、良いことであると私は断定できる。
なぜならば、「力」とは、全て、生存欲に毒されすぎた単細胞な精神状態が、
単純な弱肉強食の世界しか、自分の生きるルールに出来ずに、
それにしがみつく、「幻想」に過ぎないからである。
■記憶があろがなかろうが、人間が、幼少期に親に何を感じたか?
その親に、どういう感情を向け、
その感情を解決するために何をしたか、
それをした結果、どのような成果または不毛感や失望感が残ったか?
このことは、人間の各自の「一生」の行動パターンを決定するといっても
過言ではない。(もしも自我を復元してそれを分析できないのであれば)
■自らの親という、宇宙の中で見たら、存在してもしなくても良いような
そうした親であっても、そこにある不条理で理不尽で、つじつまの合わない、
なおかつ不愉快な出来事、感情、それによる二次的な自分の行動、
これらを、直視しようとする試みは、
まったくそのまま「人が宇宙とどう向き合うか」ということと、
相似形になっていることに、多くの人は、全く気づいていない。
多くの人というより、無明庵読者では、誰一人も分かっていない。
「宇宙」と「意識と知覚」を問題にしてきた無明庵が、
なぜ、「幼少期のトラウマ」を掘ることを、推奨や勧告どころが、
命令や強要すらするのか?
それは、それが、人間と神という概念との関係と相似形だからである。
■精神世界の中で、宗教も含めて、
誰も、神や創造主のことを、悪くは言わない。
いろいろな幻想と希望的観測をそこにあてはめてみては、
「一番、偉そうで、頼りになりそうで、かつ、自分を不愉快にしない
理想の親」を妄想しているのが、宗教という世界である。
仮に、宗教を廃して、共産主義や資本主義や、
あるいは禅、あるいはまた無神論、唯物主義といったものに
自らの生きる指針を頼ろうとしても、
それもまた、「一番良さそうで、整合性を感じられる神」の捏造にずきない。
■単純に言ってしまえば、神とは、
ふだんは、「自分のやることに、いちいち戒律による縛りや、
あれやこれやの口出しをしないでくれ」
と言いたくなるような存在でありながら、
ヤクザでさえも、いよいよ困ったことになったり、
デリカシーのあるヤクザが、まかり間違って自殺などしたくなると、
「私の道を教えてください」「どうか、お助けください」などと、
頼ったりしたがるものということになる。
いわば、多くの人間は、神を、究極の「便利屋」だと思っているらしい。
■ところが、おそらくは、無明庵のみが唯一、
その神に対して、それを「人類ばかりか生命全体にとっての毒親である」
ということを論じた。
生物や人間が、不幸を感じる知覚情報に翻弄されたのは、
責任者が不明な事故によるものではなく、
人間を含む生物に、多大な悪影響を与えたのは、
「神または神々による、悪意や失態の結果である」と断定した。
つまり、少なくとも、
「親として最低限の役目を、自分たちの親は、果たしてくれているに違いない、
という過去の幻想を、完全に打ち砕いたのである。
■そうは言っても、「創造主」、あるいは「親」といっても、
我々は、単一の親から生まれたわけではない。
いろいろなプロセスと管理を経て現在の生存形態を持っている。
その過程で、毒親として振舞った親(神々)もいれば、
それほどでもなかった親(神々)もいる。
自我を分割した親は、明らかに犯罪者だが、
意識を分断した親は、微妙な犯罪者である。
元を辿れば、宇宙が新しい試みをしたり、
またその回路に通電をしてしまった段階で、犯罪行為に似た状況が
生まれたのであるが、とりあえず、その話はここではしないでおく。
■いずれにしても、皆さんがやっている、
「トラウマ掘り」というものは、自分の親が毒親だったことを、
分析する行為にしか見えていないだろうが、
それは、「相似形」として、宇宙全体に蔓延する毒親に対する抵抗力を、
小さなサンプルの中で会得したり学習していると考えても間違いではない。
それだけに、「トラウマ」も「無力だった自分」も、
決して馬鹿にしてはならない。
もしもそれをしたら、
「無能」+「その無能さに、頭の狂った基準で抵抗をした無能さ」
という二次的な副産物をも作り出してしまうからである。
無駄な道楽としての知識
●無明庵の昔からの読者の方は、よくご存知のように、
私は、読書家が大嫌いである。嫌いというより、愚かだと思っている。
この場合の読書家とは、精神世界も、一般教養も含めて、
全く実用性のない知識ばかりを得る結果となるような本を読み漁ってきた者のことである。
これらの人たちに共通することは、子供時代のその初期から、
たいそうに「つまらない生活」を経験しており、
その、不毛さの穴埋めに、読書をしてきていることが大半であり、
純粋な好奇心や、目的を明確にした読書をした形跡は、ゼロであった。
■つまり、実生活、親や家族との関係が、あまりにも苦痛だったり、
本人の感性が、トラウマなどの影響で、つまらないものに成り下がっている場合、
たいていの場合には、こうした人間は、読書家になる。
言うまでもなく、それは現実逃避の一種である。
しかも、たちの悪いことに、これらの人たちは、
生きる指針を、いとも簡単に他人から得たと思い込むので、
「疑問」に対して免疫がない。
つまり、いざ、本当に自分で考えたのかを問われると、
思考停止してしまうのである。
「そんなことは、今まで、考えてもみなかった」と。
■私は、そういうタイプの読書家や、文化人きどりを、何人も見てきた。
また、精神世界の本ばかり、あれこれと知っているだけの者たちも見てきた。
それを見るたびに、さぞかし「悲しい幼少期から現実逃避したかったのだろう」
としか思わなかった。
■そもそも、「知識」というものは、人生の経験の初期段階では必要がない。
子供は、たとえば、小学校の2年か3年ぐらいまでは、
はっきり言って、せいぜい絵本ぐらい以外には、
全く何も見たり読んだりする必要すらないと私は「極論」している。
■子供時代に、親子関係や、友達との関係が、楽しいものであれば、
本など読んでいる暇はなく、毎日、毎日、そうした経験をすることで
手一杯である。
私自身、結局のところは、学校でしかたなく読ませられたりしたものを除けば、
読書なるものを、自主的にしたのは、中学一年になったときからである。
はっきり言って、小学校のときには、毎日が友達との遊びや、
自分のしたい遊びの連続だけで、読書など一切必要がなかった。
■そして、読書というものは、私にとっては、道楽ではない。
そこに書かれた物語や思想を「楽しむ」などという姿勢は、私には一切なかった。
本や情報というものは、1の情報を得たらば、10の疑問を私に生ずるものであり、
本は、私にとっては「考えるための題材」以外の何ものでもなかった。
■考えるための題材以外には、
何かをやるときに、どうしても「無知」では出来ないものがある。
スポーツや、何かの作業である。
そうしたときだけ、私は本を買ったり、借りて読んだが、
それ以外の本は、すべて、
「ひとつでも読んだらば、10の疑問と思惟」を私の中に生じた。
■一方で、世間の読書家なるものは、一般教養も、精神世界も含めて、
知識があれば、何か出来たり、わかると思い込んでおり、
しかも、彼らはなんと「面白がって本を読んでいる」。
私には、それは、とうてい信じがたいことだった。
なんと、本に感銘をうけたり、本を娯楽として、「暇つぶし」として、
あるいは、自分がわくわくするために読んでいるのである。
あげくに、そんな借り物の、他人の経験や知識を、読んだだけで、
自分も分かったと思い込む始末。
だが、その人たちが、まともな「創造性」や「独創性」を発揮したのを
私は、ただの一度も見たことがない。
■「やること」「やりたいこと」が最初に決定しており、
それに必要な、「猿でもわかるマック」を買うか、
さもなければ、「考える機会」をくれる本、それ以外には、
私にとって価値あるものなかった。
「生きるヒントになる本」など、反吐が出るし、クソ食らえであるし、
「生きる疑問を生ずる本」の方が、私にははるかに意味があった。
ただし、それは、「自分の中」に生きる疑問を生ずるものであって、
それは、今日の無明庵の書籍のような親切な本である必要はない。
一般的な、宗教書や、精神世界や、社会常識の中にある、
安直な肯定性や、神への妄信の中に、
「何故そうなのか?」を考えさせる題材は、山ほどあったからである。
■それ故に、私は、下記の記事の冒頭の前振りには、
非常に不快感を感じ、実に軽薄な記事であると思った。
↓
http://d.hatena.ne.jp/hukugensensya/20130710
■もしも、ここに書かれたような精神世界の主張を、
この人が、全身全霊で、本気で信じ、そして失望したならば、
あの長たらしく、皮肉またはお笑い、と本人が思っているところの、
面白みの全くない駄文にも、それなりの価値が出てくる。
もしも、宗教や精神世界を、本当に心底信じ、心酔し、
命がけでそれに依存し、頼り、そして疑問を持ち、そして考え、
宗教の言うように生きてみて、自分の希望をそこに託し、
そして失望し、考えに考え抜いて、それを「否定」するに至ったのであれば、
その「嫌味」には「重み」というものがあり、
私は、そのような人の「結論」は評価する。
しかし、前述の記事のように、
そもそも、妄信すらしていない、信じてみてもいない。
自分の精神という資産を、そこに投じてもいない。
単なる、ごく一般的な、
「誰が見て分かるような、精神世界の愚かさ」を列挙しただけで、
しかも、「精神世界の主張を否定する部分」のほとんどは、
無明庵サイトか、あるいはどこかの言葉の受け売りである。
自ら自身が、精神世界を渡り歩き、僧侶や宗教家や、霊能者と、
現実生活の中で、激しい論戦や、戦いや、腕比べをしてきたわけでもない。
■このように、本や、ネットの文章を読んでは、何かに感化されるたびに、
簡単にそれを理解したと思い込む、典型的な「悪い読書家」である。
それは、考えるための読書ではなく、
張りぼての知識を武装するための「道楽」または「現実逃避」でしかない。
■それでも、私が、彼女のポテンシャルを、ある程度高く評価しているのは、
「才能ある投手は、その最初は、必ずノーコン」だからである。
剛速球を投げる投手は、そのほとんどが、
最初はコントロールは、めちゃくちゃで、
四球も、死球も、連発するものだ。
プロの投手としては、使い物になるものではない。
だが、「速球」を投げられる投手は、なかなかいない。
そうした投手の卵というが、
ピッチングコーチさえつけば、スバ抜けたピッチャーになるものである。
一方で、そうした速球が投げられない投手の卵の場合には、
その投手に独特の才能を見つけ出し、コーチは変化球を教える。
自殺とはそもそも何か?
■自殺をしたくなる場合の動機は、
1/「自分は、生きている価値がない」
2/「自分が、生きていると、誰かにとって、迷惑になる」
3/「自分自身が、もうこれ以上、自分に惨めさを感じたくない」
たいていは、このあたりが、自殺の理由として本人が自己申告するのである。
そして、多くの場合には「自分一人」を殺すに至る。
■自殺というものを見ると、そこに見えてくるひとつの側面は、
「何を殺すか」という問題である。
「誰を殺すか」と言い換えることも出来る。
もっと正確に言えば、「どの範囲を殺すか」という事である。
たとえば、前述した1から3の理由で、人が自殺したり、自殺を試みる場合には、
「独り」で自殺するはすだが、
稀に、無理心中や、巻き添え自殺などがある。
■たとえば、このままでは、一家の全部が不幸になるだろう、
と誰かが結論した場合には、
全員を殺そうと思って殺すこともあれば、
子供だけを残して、親が自殺することもあれば、
逆に、親を残すために、子供が自殺する場合もあろう。
いずれにしても、
「自殺」と言う言葉の、「自」の部分は、注目するに値する。
なぜならば、それは「自分の世界の一部であると思い込んでいるもの」
つまりは、自らの「自我」の射程範囲、自我の一部となっているもの、
思考の一部となっているものを、人は「自分そのもの」のように
思い込むことがあるからである。
それ故に、
「自分と同じ、不幸で無能で、惨めな人間たちが周囲にいる」と、
自分の、「無価値さ」を、妄想によって他者にまで投影した者は、
その「無価値さ」を他人にまで投影して、無差別殺人による自殺をする、
というケースもあるのは、誰もが知るところである。
■つまり、
「この自分だけは、無価値だ」と思った者は、独りで自殺し、
「この家族の何人かは、無価値だ」と思った者は、家族も惨殺し、
「この集落は無価値だ」と思った者は、その村を滅ぼし、
「この人類は無価値だ」と思った者は、核のボタンを押す。
■自殺の最大の理由は、カミュが言ったように、
「自分は、無価値だ」
「自分は、生きるに値しない」
「この世界は、無価値だ」
「この世界は、生きるに値しない」
「この世界に、私は追い越されてしまったので、私は無価値だ」
などが自殺の主な動機となる。
これは、厳密に言えば、「自殺」「他殺」を問わず、
「殺す」という行為の動機となるものといっても良い。
すなわち人は、
その人間の妄想であれ、その人間の思惟の結果の判断であれ、
「価値がない」と断定したものを「殺したがる」習性を持っている。
■こここそが、動物との差である。
人間以外の地球上の生物は、主に「捕食」するためにしか、他の生物を殺さない。
しかし人類だけは、「自分の無価値さ」を「相手にまで投影したり」
あるいは、「自分は、価値があり、相手は価値がない」と考えて、
「殺す」ということをするのである。
つまり、殺す動機が、捕食のためではなく、
何かに「生きる価値がないから」、
自分を殺して自殺するか、相手を他殺する、ということになる。
■もっと言えば、
多くの場合には、「心身ともに、苦しいから、自殺する」と言うが、
もしも、「苦」に「価値がある」と本人が思い込んでいたら、
その「苦」は、本人を自殺をさせない。
むしろ、それは生きる燃料にすらなってしまう。
たとえば、スポーツで何かを鍛える場合には、
明らかに身体は「苦」を訴えているが、それが未来に「価値ある体力」
になると思うからこそ、その苦労に、価値を見出している。
価値を見出している限りは、苦だけでは、人は自殺はしない。
その典型的なレアケースが、マゾである。
彼らにとっては、擬似的なものものであれ、
その苦痛には「価値がある」と思っているのだから。
故に、地球の人類の精神構造の場合には、
「苦しいから自殺する」のではなく、
「価値がない」と思うことが、自殺の最大のスイッチである。
よって、裕福三昧している毎日の生活でも、
それ以外の私生活で、何らかの理由で、
「生きている価値が、自分にはない」と判断した者は、
その豪邸の中で、首を吊る。
人が自殺するかどうかは、「苦の有無」それ自体ではない。
動物たちにも「さまざまな苦」はあるが、彼らは自殺しない。
人間は、その「苦」を「価値がある」と思い込めば、
たとえそれが自らに虐待的な行為となっていても、自殺することはない。
むしろ、その苦を、わざわざ、増大するようなことすらしかねない。
だから、人間は、その「自分の感じる苦」に、
「この苦には、価値がない」
「この不毛と思える苦を、感じる自分は、無価値だ」と思えば自殺する。
■ところが、この「価値観」という代物は、実に厄介である。
実際、地球上の人類は、
「たいした価値観」とは思えないものであって、
それによって、種としては、何十万年も、生き続けてきてたのである。
これは、
人を自殺させないための、特別な大した価値観が必要なわけではない、
という良い実例である。
一方で、人を自殺させないために機能する価値観が、大したものではない、
ということになれば、
人を自殺させる「無価値感」も、
それに比例して、大した価値観に根ざすものではない、
ということになるのである。
つまり、もしもどこかの誰か、
たとえば、親、親類、近所の人、学校、教師、導師、宗教、そして本などが、
あなたに、「価値観」の基準を植え付けたとしたらば、
あなたが自殺をする場合には、
その、それまで価値あると思っていたものの価値観が有効ではなくなり、
自分を「無価値」だと思えば自殺(存在否定)をし、
他者を「無価値」だと思えば他殺(存在否定)をするわけである。
「価値観」と「トラウマ」の関係
■ようするに、
「他人」である「毒親の価値観」を押し付けられたことによって、
「自分は生きている価値がない」という「自己否定」が、トラウマ人格となり、
この人格は、主に、おどおどと、生きることになる。
■一方で、特別な加害者が存在しないか、
もしくは加害者また「悪影響」をした者に悪意がなくとも、
「状況・環境」によって、
「自分は生きている価値がない」という「自己否定」がACを形成する。
この人格も、初期のころに、おどおど、と生きるが、
もしも、その後、このAC人格が、
「自分の生きる価値」と「誤認」するものによって、
AC人格の上に、「別の価値観」を「上書き」ではなく「上塗り」した場合には、
このAC人格は、最初に「自分には生きる価値がない」と感じて不安になった、
その時の人格を「自己否定」することになる。
■この場合には、自己否定と「摩り替わった方の人格」は、
過去に、何事もなかったかのように、
「自分を無価値と感じた当時の自分」を抑圧し、
新しく仕入れた知識や、価値感に依存して、
「自分には、生きる価値がある」と思い込めるような言動を繰り返して、
ひたすら「虚勢」を張り、
その内心では、いつなんどき、
「自分が、いつまた無価値な存在に戻ってしまうかもしれない」
という不安に、怯え続けることになる。
■さらには、他者からも、自分からも、
「こんな状態の自分には、生きる価値がない」と思うような
環境には「いなかった」、という、ただ「それだけ」ならば、
それは大変に幸運で、無害な良い環境にいた事になるが、
それとは真逆に、誰かからの「肯定の言葉」によって、
「あなたには、生きている価値がある」
(宗教や精神世界や、あるいは、個人からの押し付け)
「あなたは、他の他所の子供よりも、
(この親である私にとって)生きる価値がある」
「あなたは、他の兄弟姉妹よりも(この親である私の都合にとって)
生きる価値がある」
とされたのが、完全無自覚の無敵の精神病である「調教被害者」である。
■「褒める教育」なるもので、子供を伸ばそうとする親がいるが、
子供には、
「自分は生きている価値がない」「自分は生きていない方がいい」という、
「自己否定感覚」を絶対に生じさせない、ただそれだけで十分であり、
「自己肯定感覚」を親や他者に求めたり、
そうして得られる「自己肯定感覚」に味をしめて、
それを再現しようする子供にしてしまう、ということをしてはならない。
■なぜならば、本当の、本物の、「真性の肯定」とは、
それが、どんなに、今の自分からは、
存在しないほうがいいほど「無価値」に思える自分の姿であっても、
それが「存在すること」、その事実自体だけは、
決して、「否定」したり「押し殺したり」せずに、
まずは、それを明確に、そこに在らしめることだからである。
それに対して、「価値がある」とか「無価値だ」は、
最初から、頭ごなしに、しなくていいのである。
(あとで、「熟考の結論」として否定するのは構わないが)
■しかし、それを、もしも明確に、そこに在らしめずに、
性急に「無価値だ」「ない方がいい」として、否定したり、押し殺せば
(殺す事は不可能で、せいぜい、押し込むことが出来るのみ)、
それは、単に、地表から、見つけにくい地下に潜伏するだけなのである。
それならば、まだしも、トラウマも、ACも、調教の事実も、
それがどんなに無様なものでも、
目に見え、意識できる、地表に散乱していたほうがマシである。
見えるところに置いてあるならば、監視することも出来る。
■しかし、見えないところに押し込んでしまったらば、
管理も、監視も、コントロールも出来なくなり、
いざ、それが、自分にとって不要になって、
「もう捨てても良い」となったときにさえ、
その捨てるべきゴミが、まだ自分の中にあるのに、
その肝心のゴミが、見つからなくなってしまうのである。
そうやって、それが自分の内部で腐敗して、
その人に接する他人が、無視できないほどの腐敗臭を放ったり、
自分ですらも無視できないような「異臭」を放つまでは、
その人は、
「トラウマ・AC人格が、これぞ自分の価値だと、しがみついた価値観」
という「香水」を、自分の中にある腐ったゴミに「上塗り」して、
ひたすら、「その悪臭を誤魔化す」だけに、人生の大半の労力と時間が
費やされることになる。
その他
人間は、自己肯定感覚にも「中毒」をする。
人間は、自己否定感覚にも「中毒」をする。
だが、「原主体」には、自己肯定感覚もなく、自己否定感覚もない。
それは、ただ「安心するか」または「不安になる」かだけで、
その、安心と不安を感じている主体たる、
「自分の存在」まで、無価値だと「否定するに至ってはいない」
あるいは、それを感じている、
「自分の存在」まで、価値があると「肯定すらもしていない」
*********
そういう意味では、
「原主体」が持つ真の性質は、「自己肯定感覚」ではありません。
マディアさんは、そこをくれぐれも注意してください。
毒親に否定されて出来た「自己否定」と「無価値な自分」も幻影ですが、
あまり過度に、叔母さんからの「肯定感」を評価しない方がいいです。
むろん、叔母さんは「肯定した」のではなく、
ただ、「あるがままのマディアさん」が存在することを「許した」のだと、
思いますが。
必要以上に、その時代の、
「自分」を美化することには注意してください。
■その時代のおばさんには、何も問題はなく、素晴らしい人だったとしても、
「その時代のマディアさん」自身は、既に、毒親の影響下にあったからです。
おばさんが、貴女を守ってくれたことに感謝しつつ、
本当に、おばさんに恩返しをするためには、
「おばさんに守られなくても、大丈夫だったであろう原主体」を、
今、この時期に掘り出すことです。
叔母さんも、それを何よりも喜ぶに違いありません。
マディアさんの中で、素晴らしかった叔母さんの記憶として残るよりも、
マディアさんが「叔母さんのおかげで私は自分を保てた」という
その執着から開放されることを、叔母さんは望むはずです。
●現在までのところ、
桜の間で紹介した、多くのトラウマの事例の人は、
決意さえ決めて、本気で掘れば、掘り出すのに、それほどの
困難さを持つ人はいません。
戦車さんも、明確に、「家庭内で、繰り返し、不愉快」になり、
そのトラウマから、
「無力で役立たずの、無価値な、子供の自分は、生きていない方がいい」という、
「自己否定」のAC人格を形成したのですから、
比較的、分かりやすく、むしろ、ベタな事例です。
■戦車さんに特に顕著な、他の人にない固有の問題があるとしたら、
トラウマ人格が、その反動で、トラウマ・AC人格に化けて、
そこでひねり出してしまった「自己肯定感」に禁断症状を持っていることです。
しかし、悲しいかな、「戦車」は、常に大量のガソリンを必要とし、
砲弾を打つ機会もなく、穴におちて、キャタピラが機能不能となりかねません。
●だから、今後からは、私は「戦車」というブログの著者名よりも、
「自転車」または「三輪車」のほうが、より無理のない主体を
引き出すと考えている。
いや、三輪車は、機能性に欠けるから却下しよう。
「戦車」というネーミングそれ自体が、障害のある人格からの産物ゆえに、
私は変えるのが良いと思うわけです。
ただし「自動車」というのは「自動」という意味が気にいらない。
「馬車」は馬が可愛そうだ。
そういう点では、
武装しないが、ガソリンに依存もしないで機能し、小回りのきく「自転車」が、
本格的に自我復元をするには、いいネーミングである。
また、それは、自ら「自転」する「車輪」という意味にもなるので、
やはり、
「自転車」
が良いであろう。
●そして、一方で、
本当の意味での困難さが出てくるのは、「根路理」さんからでした。
幼少期には、親から、目立たない「意地悪」をされ続け、
自分にではなく、兄弟姉妹に向けられる、
親の間接的な「恫喝」「嫌味」を通じて、
本人が知らないうちに親に「部分的に肯定」され「調教」されたからです。
だから、いざ自分の中を見ると、空虚で空っぽだったのです。
●その次に、さらに困難さが増すのは、「おめめ」さんです。
それは「間接的な恫喝」でもなく、
むしろ「貴女は、良い子よ、美人ね」と、「親の都合による肯定によって」
「調教」されたために、それは本人の「自己肯定」ですらありません。
「自己肯定」もなく「自己否定」もなく、「他人が肯定しただけ」です。
だから、自分の中を見ると、同じく、空虚で、空っぽなのです。
■このACの問題については、梅の間の次の投稿にも詳細を書きました。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?U1845
●そして当庵で、最大級の困難さを持つのは、Abyさんです。
なぜならば、Abyさん以外の全ての人たちは、
「気づきさえすれば」解決します。
しかしAbyさんは、他の人たちよりも、はるかに、
「無自覚であったこと自体」や
「虚飾をまとい続けた自己」に対して「意識的」であり、
誰よりも、繊細に「違和感」を掘り出しているプロセスにいますが、
すべての掘り出したトラウマを、明確に意識化したとしても、
解決できない問題が残るからです。
(他の人たちは、明確に意識化した時点で解決します)
●かつて、古い時代には、Abyさんは自我を持っていましたが、
別の宇宙で、ロボットのような機能を持つ存在としてAbyさんは契約しました。
しかし、運悪く(運良く?)無明庵に出会うことで、マーヴィンになりました。
すなわち、「自我」を思い出したが故の、「うつ病のロボット」です。
だから、私はAbyさんを、マーヴィンから、
原型自我を装備した、もともとの故障のない「人間」に戻す、
お手伝いをさせて戴くかもしれません。
●
■唐突ですが、替え歌です。
赤いゲロ 吐いてた 女の子
異星人に つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭から 「船」に乗って
異星人に つれられて 行っちゃった
今では 赤い目に なっちゃって
異星人のお国に いるんだろ
赤いゲロ 見るたび 考える
異星人に逢うたび 考える
●ところで、・・・・・
私の母の「教育」いや、「子育て」なるものは、
皆さんには、とうてい、信じられないと思います。
母の、口癖はこうでした。
「勉強なんて、しなくていい」
(ただし、「そのかわりに、手に職をつけろ」などとも言わない)
「休みたい時は、学校を休めばいい。ただし、落第にだけは、ならないように」
「何をやってもいい。ただし、警察のお世話だけにはならないように」
「自分の好きなことで、生きてゆきなさい」
「嫌なことは、無理をしてまでしないでいい」
「生活は、最低限、住むところがあって、食べていければ、それでいい」
「あんたが、いいなら、それでいい」
●ようするに、私に課せられた義務は、おっそろしく敷居が低かったのです。
犯罪だけしなければいい。落第にならなければいい。と。
●一方で、私の母は、大学は家政科を出たので、洋裁とか和裁もしていた。
父親が十分な生活費を家に入れなかったせいで、
中学から大学までの期間は、私は新しい服も、なかなか買えず、
母が繕ったり、仕立て直した服を着ることが多かった。
しかし、それは、子供の私にとっては、自慢ですらあった。
というのも、それらの服はそれを見た大人からも
「この服、良く出来ているわね」と言われて、嬉しかったのである。
おまけに美形だった母を、私は誇りに思っていた。
●では、そんな私が、マザコンになったかというと全くそんなことはなく、
母と私は、ほとんど母子家庭のような時期を何十年も過ごしたが、
親子というよりは、「友達」のように、毎日のように会話をした。
むろん小難しい話題で論争したり、ささいな事で口論もしたが、
お笑い番組で、2人して腹を抱えてたこともよくあった。
●まだ私が幼い頃、病気の時には、
過保護ではなく、適度に手厚く看病されたが、
そのときの母親の、子供の撫でかた、
そして、子供を寝かしつけるために、軽く私の胸を叩いたそのリズムは、
私が、人形を可愛がるときの仕草に繋がっていった。
●そんな母親には、とても面白い「悪趣味」があった。
それは、テレビガイドの番組欄に、「バツ印」をつけるのであった。
たぶん、他界する直前までやっていたと思う。
ふつーは、自分が見たい番組に、丸をするものだが、
母は「嫌いな番組に、そこらじゅうにバツを書く」のだった。
何が気に入らないのか知らないが、
番組に、母親なりの呪いでもかけていたのだろうか?
「お笑い番組」には、○がついていたが、
歌謡番組とかスポーツ番組には、×がついていた。
「矢追系」のUFOレポート番組には、最初は○印だったが、
のちに、×印になったのを覚えている。
年寄りにも、「あの番組の質の低下」が実感されたようである。
●言い忘れましたが、下手に勉強なんかしていると、
「そんなものやめて、紅茶入れたから、飲みなさい」と、言い放つ母であった。
●そして、ある時、私の机を勝手に掃除して、
私の秘蔵のズリネタの写真を発見した母は、
「まぁ、なんてきれいな写真なんだろうと思った。
ああいうヌード写真ならば、いいわね。」
と、言ったのであった。
また、その母が、段ボール箱一杯分の兄の
「プレイボーイ」と「平凡パンチ」を発見した時には、私に、
「あの子はムッツリスケベのタイプだからねー。」と、
兄の性質を端的に把握していました。
●そんな兄が、学校から持ってきた「父兄へのアンケート」の中に、
「自分の子供をどんな子供に育てたいか。」
という質問があったらしい。
母は、そこに「善悪の分別のつく人間」と書き込んだらしいが、
後になって、「なんてい、い加減なことを書いちゃったんだろう。
そもそも善悪なんて、簡単には判断できないのにね。」
と、自己反省していました。
■その母が、60歳を過ぎたころから、
「こんな、おじいさんとなら、今からでも、一緒になりたいわ」と言っていたのが、
春風亭柳昇さんでした。
たっぷり、20分、昭和の時代らしい、創作落語を、お楽しみください。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=JrlTe5AkOw8
■最後に母について簡単にまとめると、
暴力なし、
恫喝なし、
イライラしているところ見たことない。
皮肉も嫌味も言わず、
意地悪もしない。
ああしろ、こうしろと、言わない。
また、逆に、自主性を強要することも無い。
かといって、育児放棄をしたわけでもない。
人生についての理想像を子供に押し付けることもなく、
「あなたが考えたように、やってみなさい。」としか言われなかった。
唯一、絶対にしてはならないと、母から言われたことは、
「お金の貸し借り」であった。
今にして思えば、これはユダヤ金融システムへの拒否そのものである。
恐るべし母。
●母が、毎日欠かさなかった口癖は、
「死ぬときは、誰にも迷惑をかけずに、ポックリ死にたいわ。」であった。
その言葉通り、全くそれまで病気もせず、病院にもかからず、
ポックリ逝きました。
「湿った暗いお墓なんかに入りたくない。」という母の希望通り、
私は母の遺骨を粉にして、日当たりの良い里山の自然の中に還しました。
■松の間にも、もう少しだけ、
母がぶっ飛んでいた事例のエピソードを書きました。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?M1152
■私の母の「戦前から戦後」経験の話です。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?U1846
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