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★分割自我復元★その271■「迷惑かけてありがとう」 ■
by:
鈴木崩残
2013/10/14(Mon)03:42:00
めいわくかけて ありがとう
今日は、少し毛色の違う話をします。
「他人に、迷惑をかけないようにしなさい」、
この言葉もまた、行き過ぎると、
子供にとって、強迫観念になったり、あるいは、
そもそも、何が迷惑になるのかならないのかの定義も困難な場合があります。
それは「悪いことはしないようにしなさい」と同じぐらいに、
「具体性」が全くありません。
確かに社会的に見れば、常識的に考えても他人の迷惑になることはあります。
また、法的に「処罰される悪」と見なされているものも多くあります。
しかし、もっと日常的な生活の場面では、
そもそも、迷惑かどうかを決定するのは、相手の主観であって、
あなたではありません。
その場の空気にそぐわない、KYな冗談などは、
言っている人が迷惑の自覚はなくとも、周囲が迷惑と思っていたり、
あるいは、同じ物事(たとえば何かの騒音)でも、
それを迷惑と感じる人と感じない人、
そして「感じる度合い」に個人差があります。
さて、今回は、そういう「迷惑」の話ではなくて、全く別の話です。
*********
「迷惑かけて ありがとう」
これはコメディアンのタコ八郎さんの言葉として有名です。
有名といっても、
私自身も、タコさんをテレビでそれほど見たわけではありません。
今20代の人は、ほとんど知らないと思います。
この投稿の末尾に、リンクをしておきますので、概要はそれをご覧ください。
>「めいわくかけて ありがとう」
このタコさんの言葉に対して、さまざまな解釈があるようですが、
私の感じたことは、現存するどの解釈とも違います。
「人間はお互いに迷惑をかけ合って生きているのだという、
そのありのままのことを、タコさんは言っている」
などというのは、とんだご都合主義の解釈であると私は思っています。
ご都合主義というよりも、
そういう人たちには、タコ八郎という人そのものを見ることよりも、
自分の頭の中の妄想と、期待していることを投影しているようにしか見えません。
タコ八郎という人が言った、
「めいわくかけて ありがとう」とは、
「迷惑かけてもいいじゃない。だって人間なんだもの」という意味なのでは、
断じてありません。
*********
ひとつ、ここで、言語的にこの言葉を見てみることにします。
『めいわく かけて ありがとう』
これは三つの語からできています。
しかし、もしも最初にこれをあなたが、誰かから聞いたら、
?えっ?となります。
タコ八郎さんだから、お馬鹿ジョークか、
または意味深な言葉として聞くということになっていますが、
普通の人が言ったらば、
『誰が何を言っているのか意味不明』となります。
この文節の中では、一体、「誰」が迷惑をかけているという意味なのか?
迷惑をかけているのは、タコさん自身だとタコさんは言っているのか、
しかも、迷惑をかける側に立っても、
迷惑をかけられる側に立っても、
通常はあり得ない『ありがとう』で締めくくられている。
●こうなると、お馬鹿キャラのタコさんなのだから、という理由や、
聞いた人自身が、無理に意味を通そうとするために、
「何か言葉が抜けているに違いない」としてしまい、
ここに、言葉を加えてしまう人がほとんどである。
たとえば、
『私が あなたに 迷惑を かけたのを あなたが許してくれて ありがとう』
または、
『あなたが 私に 迷惑を かけてくれたことで 私も学びました ありがとう』
などである。
タコ八郎さんは、
ただ、
『迷惑 かけて ありがとう』と言っているのに、
あなたは、
誰が迷惑をかけた主体で、誰が迷惑をかけられた人なのかを
はっきりしないと混乱するのが嫌なのです。
そして、「ありがとう」と書いてあるから、
何かの感謝を、タコさんが表していると思い込んでしまう。
そこから、
本人が、感謝をしているのだから、
その「迷惑」とは、きっと、そんなに悪い意味の迷惑ではないのだろう、
などと、どんどん余計な解釈を加えてしまうのである。
その末路が、以下のような記事である。
もっとも私は、この記事を書いている人を批判するつもりはありません。
普通の人の頭では、こう考えてしまうのも、いたしかたないと思うからです。
↓
http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/05/post_203.html
また、「迷惑を かけさせてくれて ありがとう」に解釈をして捻じ曲げて
しまうケースもあります。
↓
http://d.hatena.ne.jp/kobe-yama/20120503/
●しかし、このタコさんの言葉は「深読み」をしてはならないのです。
深読みをしてはならない言葉のひとつに、「禅語」がありますが、
その意味でも、この「迷惑かけて ありがとう」は、
私に言わせれば、禅語であり、それ自体が公案です。
>『めいわく かけて ありがとう』
これに、何も解釈を加えずに、
意味が分からなくとも、
幾度も、この言葉を唱えるなり、読むなりしてみることです。
そこで気づく人もいるはずです。
この言葉には、加えるべき語句も、解釈すべき意味もない、と。
*********
このタコさんの言葉の、最も素晴らしいところは、
通常は、結びつかないはずの、
「迷惑」と「ありがとう」を組み合わせている点「ではありません」。
ここはひとつのトラップ、あるいはタコさんの単なる「戯れ」です。
もっとも重要なのは、「めいわく かけて ありがとう」の言葉には、
「主語がない」という点なのです。
迷惑をかけている主体が誰なのか不明のままであり、
そのうえさらに、
ありがとう、と言っている主体が誰なのか不明のままである。
普通に考えれば、迷惑をかけた側が主体であったらば、
「ありがとう」はあり得ない。
迷惑をかけられた側が主体でも、「ありがとう」はあり得ない。
だから、ここで多くの人たちは、
「迷惑をかけられても、感謝している、
そういう謙虚な人が何処かにいるという意味か?」、
などとまで、かんぐってしまうのである。
または、自分が迷惑をかけておきながら、
それを許してくれた人たちが沢山いたから、感謝しているに違いない、
などと、強引な解釈をしてしまい、
あげくの果てに、
「所詮、人間は、迷惑かけあって、生きているもんさ」などの劣化品に
貶めてしまうのである。
しかし、この言葉は、
『迷惑 を かけた ボク に 優しかった人たち に ありがとう』
でもなければ、
『迷惑 を かけてくれて ボクも 成長したので ありがとう』
でもなければ、
『迷惑 を かけさせてくれて ありがとう』
でもない。
まったくそんなことではない。
そしてまた、人は、迷惑をかけて生きているのだ、とか言ってしまい、
迷惑を、人の世の「サガ」として「全肯定」または「自己正当化」しているのでもない。
*********
よくこの文言を、まっすぐに観ること、
よくこの文言を、まっすぐに聴くこと、
よくこの文言を、まっすぐに唱えること、
めいわく かけて ありがとう
そうすれば、何かがあなたの意識に生じるはずです。
この言葉は、
「主語」を持っていないのです。
迷惑をかけている と思っている主体もなく、
迷惑をかけられている と思っている主体もなく、
ありがとう と言っている主体もなく、
ありがとう と言われている主体もない。
徹底して、主体、主語がない、という点で、
これは、タコ八郎という人の「在り方」と存在そのものを現しており、
タコさんは、何か意味を、そこに含ませたかったのではありません。
別に、何か伝えたかったのでもありません。
タコさんという存在の背景にあった、そのものが、
ぽっと、そこに「出てきただけ」です。
*********
もしも、あなたが、どこかの小さな子供が、
『めいわく かけて ありがとう』
と叫んで走っているのを聴いたらば、
「あの子は、言葉をまだ知らないのだ」と思うに違いない。
あるいは、「あの子供は馬鹿で、言葉の使い方を知らないんだ」
と思うに違いない。
「文になっていないじゃないか。意味不明だ」と一笑することでしょう。
言ったのが、タコ八郎だから、
「不条理なことをわざと言って」「ウケを狙っているのだろう」
と思っていた人が、大半のはずである。
死ぬ前に、最後に残した言葉だからとか、
あるいは、タコ八郎の座右の銘だからといって、
やたらに祀り上げて、
「あの言葉は、実は、意味深だ」とかやっているだけです。
そんな先入観がなかったら、
そして子供がそれを言ったのだとしたら、あなたは、きっと、
「学習障害でもある子供に違いない」と思っただろう。
でも、私の見解は、違う。
タコ八郎は、
『めいわく かけて ありがとう』 と言うことによって、
「迷惑」の主体を無化し、
「かける」主体も無化し、
「ありがとう」を言う主体も無化しているのである。
つまり、そこに、「人はいない」。
人もなく、タコもなく、海もない、のである。
名詞 動詞 感謝の意
この「事象」の三つを、ただ並べただけの、
『迷惑 かけて ありがとう』。
これは、私の耳には、
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
にタブるものがある。
あるいは、
「裏をみせ 表をみせて 散るもみじ」
の香りと同じものを感じる。
これらの俳句にもまた、主体はない。
感謝も含めて、すべての行為も、
物事には、すべからく、「主人公はいない」、
それが、タコ八郎が、言葉で残したのではなく、
その存在自体が残した「実存性」であった。
*********
タコさんは、ある時は、ボクサーだったかもしれない。
ただの、飲んだくれ、だったかもしれない。
ただの、キワモノのコメディアンだったかもしれない。
しかし、ただ者ではない、こんな一言を、メモ書きに残している。
バカでも自然から学ぶことができる。
宇宙に対して質問したい。
君はだれだ?
■たこ八郎 資料の一部
http://pliocena.com/ticket/tako8/tako.html
http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/20060123
http://inublo.jp/blog/culqzmbcmc/147912/
_____________________________
追記・ここ十年で激減した生キャラ
●今回、とりあげた「たこ八郎」さんですが、
同じ「部類」に属するタレントは、何人かいました。
たとえば、ジミー大西、猫ひろし、大屋政子、ガッツ石松、具志堅などである。
少々、おつむの弱そうな、あるいは、純朴なスポーツ選手が、
のちにバラエティーに出ると「この部類」になることが多い。
「この部類」とは「いじられキャラ」である。
●おそらくは現場のディレクターやスタッフも、
この人たちには、「台本覚えてください」とは言わず、
「**さん。段取りだけ、間違わないように、それだけ、お願いします」、
という程度の事しか言わないだろう。
あとは、何がどうなるかは、本人任せである。
●キワモノ・タレントに分類されることもある、この人たちは、
そもそも「芸人」ではない。
芸を磨いて、芸を売っているのではなく、
そのキャラクターそのものが、商品として扱われているのである。
ただし、この人たちの、ある種の「芝居のできない純朴さ」は、
「いじられキャラ」なのであって、決して、「いじめられキャラ」ではない。
●そこを理解できない馬鹿視聴者が、
お笑い番組で見せるタコさんの姿が、ろれつが回らなくて、
頭がおかしいか、アル中のように見えたらしく、
そう感じた人から、TV局に苦情の電話があったそうだ。
>>「知的障害を持った者をTVでさらし者にするとは何たることだ!」
しかし、そのことを聞いた、たこ八郎が、
TVで長編の詩を暗誦してみせたところ、苦情はピタリと止んだ。
●タコ八郎は、コメディアンを目指していたのであるから、
すべてが天然であるわけはなく、芸としての計算をしていた面もある。
だが、それでもタコさんの「生キャラ」こそが、画面の中で炸裂したことは、
タコさんの私生活の断片的な記述からもうかがえるだろう。
こうした、「生キャラ」を「いじる」という番組構成は、
この約10年で、本当に減少した。
おそらく放送倫理がどうとか、人権がどうのこうのと言い出した、
どこかの馬鹿者たちが、番組製作に規制をかけたせいだろう。
だが、昭和、そして西暦2000年ごろまでは、テレビの中で、
一見すると「放送事故を起こしそうな危ないキャラ」
一見すると、「少し、頭が弱く見えるキャラ」、
というものをも受け入れるだけの「幅」が放送業界にあったことも事実である。
「なんでもありの時代だった」とまでは言いませんが、
今よりは「なんでもあり度」は、まだ生き残っていた時代でした。
実際、あの、岡本太郎氏でさえも、テレビの中では、
そのキャラを「いじられ」ていたのである。
「ご本業ではないでしょうから、芝居はしなくてよいです。
ただ、出演をして、そのままのあなたでいてください」
そんなふうに声のかかった「生キャラ」を評価された人たちは、
次第に、テレビからは、消えていったのである。
タコさんは、肩書きは芸人とはいえ、
紛れもなく、その1人だったのだろう。
注意が必要なのは、ここで私が言う「生キャラ」とは、
「天然ボケ」とは違うという点です。
天然ボケの中には、トラウマ持ち、AC持ちが圧倒的に多いものです。
私の言う「生キャラ」は、少し次元が違います。
「知識と頭脳とのバランス」が取れており、全くACなどの傾向を持たず、
「良好なご両親の元に生まれた」という点では、
さかなくん、がそれに該当します。
・参考・
天然ボケは意図せずに笑いをとる人物のことを指すお笑い用語。
笑わせようと狙ってボケるのではなく、本人にとって普通の行動が笑いを誘う。
天然ボケという呼び方の名付け親は萩本欽一。
ジミー大西を指して「天然」と言ったことが由来となっている。
当時、明石家さんまの運転手をしていたジミー大西が萩本欽一司会のテレビ番組に出演し、
初めてジミー大西の奇異な行動を見た欽ちゃんは彼を「天才」だと思った。
欽ちゃんはジミー大西のボケは計算しつくされていてまさに「天才」だと思ったのだ。
しかし楽屋で2人きりで話した結果、計算などはしておらず自然にボケていることから
「天才じゃなくて天然だったね・・・」と言った。これが天然ボケの由来となり広まっていった。
お笑いだけでなく一般的に少し面白い行動を取る人を天然ボケと言うこともある。
天然ボケの定義はあいまいだが、天然ボケの人は自覚がなく天然ボケと言われれることを嫌がる傾向があり、
逆に自らを天然ボケという人物は天然ボケではないと言われることが多い。
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