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無明庵日記●猫の足跡-その601● 【地球法は試作できるか?】
by:
鈴木崩残
2013/08/16(Fri)14:14:48
地球の国際法の試案
憲法改正草案の比較表
↓
http://www.dan.co.jp/~dankogai/blog/constitution-jimin.html
■憲法改悪が懸念される、昨今のようですが、
私は、現在の日本国憲法の前文が、良い「文学的作品」または、
よく出来た「法令文」であるとも、「理想の教義」だとも思っていません。
その最大の理由は、「言葉の定義」が、各文化圏、宗教圏で異なるから、
それは共通理念に出来ません。
たとえば「平和とは何か?」これをまず、
何百もの哲学者や、人間工学、その他の専門家が、
10年以上かけて定義しないことには平和という理念の共有が、成立しません。
どういう状態を平和といい、どこまでは平和で、どこからはそうでないのか、
ある程度の具体的線引きが必要になります。
口論も平和を乱すというのか、暴力の程度はどうなのか、
殺人における情状酌量の、各国の裁判基準は本当に正しいのか、
平和の明確な定義をするだけで何世紀もかかるかもしれませんし、
実際、もう何世紀も、時間がかかっています。
●さて、この投稿には、私は、
地球が統一的な政府を作り上げた場合を想定して、
いくつかの基本指針を、まとまりはなくランダムに、
思いつきで、追加してゆこうと思います。
が、何よりも、まず、皆さんが関心のある「武力行使」について、
設定しておきます。
*********
■地球法第**条【武力の保存と安全管理】
地球上にある、いかなる国家も、
最大限の威力を持つ武力を装備することを、義務付ける。
ただし、その安全管理には万全を尽くし、それを保障すること。
この理由は、外宇宙からの威嚇や攻撃を受けた場合、
そこでもしも意志の疎通と交渉が全く不可能である状況で、
一方的に地球の人類が、捕食されたり、奴隷とされたり、
惑星環境を破壊または改造される事態を可能なかぎり阻止する為である。
もしもそれらの脅威に対して、前世紀の憲法のような平和を掲げるのであれば、
我々は、我々が何千、何万年の時をかけて作り上げたこの惑星の、
文化的資産と、資源を捨てて、無抵抗を厳守して、
他の惑星に移住する事を強いられるからである。
宇宙や知覚に対する認識そのものが異なり、意志の疎通が全く不可能である、
という局面とは、むろん最悪の事態であるが、
そのような事態は、いつなんどきでも想定できる。
実際、我々は地球上の他の生物とすら、意志の疎通が出来ていないのであるから。
よって、そのような最悪の事態に限っては、
地球上の全国家は、自らの保有する最高の技術を持って、
この惑星と、そこに住む人類を死守しようとし、
仮に敗北したとしても、誇りを持って他界すべきである。
そうでなければ、我々は、他の天体に移住しても、
かつて地球人類であったと名乗る資格すらも失うものとなろう。
むろん、この各国の武力は、
地球上でお互いの国家に対して、威嚇または実際に向けることは禁じるまでもない。
それを使用すれば、惑星自体が破壊されるからである。
その威力を弱めて使う各種の武器を、治安の為に使用する場合には、
別項に掲げる、厳密な条件を満たす事を絶対条件とする。
●SFじみた、憲法だと思う人が多いだろう。
ところが、よく考えて欲しいのは、
これと同じこと、
つまり、その「概念や定義」が、文化的に、または感覚的に、全く一致していなく、
現実的には、ほとんど意思の疎通が取れていないことが原因で、
この地上では、これほど多くの無益な殺戮が起きてきたということである。
植民地支配に没頭していた多くの白人(武田邦彦氏に言わせるとアーリア人らしい)は、
有色人種を、「そもそも、人間ではない」と見ていたのである。
こうした認識の誤差があるかぎりは、
現在の日本国憲法は、地球人同士ですら、当時は共有できておらず、
正確には、「未だに」共有などできないのである。
どう、それが外国語に翻訳されたとしても、
「共有できそうな気がしてしまう、和製の聖書」でしかないのである。
と、私は考えるので、この地球法を、
これからも少しずつ、この投稿に、加筆していってみたい。
●なお、これ以下の文で、
私が試作する地球憲法の底流に一環していることは、
>「衣食住と資源を、すべての個人が、無料で一生保障されること」を
大前提とする。
よく、21世紀の時代には、「2度と悲惨な戦争を起こしてはならない」
という言葉だけが、空虚に暴走をし続けたが、
そもそも、「悲惨な戦争」とは何であっただろうか?
それは、必ず「衣食住と資源の不足」によって引き起こされてきたのである。
ならば、その根本原因をまず駆除すれば、
少なくとも、餓えや寒さから来る悲劇的な戦争は起きないものとなる。
●その後、人々が、一生食べていけるので、皆、怠け者になるのではないか、
などという心配は無用である。
人々は、必ず心身に余裕があれば、
創造行為に勤しむという「性質」を持つからである。
●この法の制定の目的は、
「衣食住と資源の不足から、それを奪い合うという最も原始的な闘争の因子」を排除し、
恐怖や不安からではなく、各自の想像力と創造性によって、
文明と文化を創ることを、その「最低限の理想と目的」とする。
それでも人生に退屈して、ノイローゼになるのであれば、
その者は、自殺すればよいだけだ。
_____________
■地球法第**条【人口管理の大原則】
地球上に争いなく生存するための第一の条件は、過去の過ちを反省し、
まずは、人口の管理から行うこと。
これは、各国で、自給自足、または貿易によって、確保出来る、
食や資源の保存量と生産予測を厳密に算出すること。
そして、誰もが一生の間、無料で、各国で定められた量と質の食事、
燃料、資源、教育、医療、その他の福祉を、保障され、
それを維持できる範囲になるように、その人口を定めなければならない。
■地球法第**条【地球内での領土を巡る紛争の全面禁止】
地球上の全ての国境線は、2150年現在のまま固定し、
今後、いかなる国境線や領土を巡る紛争も、その一切を禁ずる。
ただし、各国家が有する政治的主義については、他国はいかなる干渉も
してはならない。
それが独裁主義であれ、民主主義であれ、他国の主義を、
異国が、威嚇や洗脳を持って変えようとする全ての行為を禁ずる。
(洗脳と威嚇の定義は、別項に掲げる)
■地球法第**条【国家間での移動の自由】
この国境紛争が皆無の状態において、地球上の全人類は、
いつ何時であっても、他国への旅行と移住の自由を保障される。
すなわち、人々は、自らが理想とする国を自由に選択することが出来、
またそれを変更することも出来る。
ただし、各国によって、許容最大人口が、3年毎に告示されなければならない。
どの国の政治と経済と環境を選ぶかは、地球上のすべての人々の自由であるので、
各国家とも、競って、自らの国を、
それぞれ異なる価値観によって誇れる国にすべし。
【重要事項】
「理念を共有できるか否か」の最大の要因は、その理念の背景となる
「経験を共有できるがどうか」である。
すなわち、たとえば、人と人とか、散々に傷つけあったその
同じ経験を持つ者同士が、「傷つけるのはやめよう」との認識に至ったのであれば、
それは理想理念を共有できる。
しかし、片方でも、その背景となる経験をしてないのであれば、
その時には、その背景となる経験を「させる」という段階から、
憲法を制定しなければならなくなるのである。
すなわち「暴力がよくない事を教えるために、まず暴力で傷みを教え込む」
といった行為まで必要にならざるを得ないのである。
このように、理念とは、そもそも「共通の背景となる経験」を、
ある程度共有できた者という「狭い世界」でしか、成立しない。
その点で、現在の日本国憲法の前文は、話にならないほど不備がある。
第二次世界大戦の戦争経験者には、さまざまな立場での経験者がいるが、
では、その戦争経験者の人たちは、どれだけ現状の憲法を、
「もっともだ、これは正しく、崇高だ」と、心から、嘘なく日々尊重をし、
その結果として、それを自らの生活姿勢や仕事場で活かし、
どれだけ心地よき平和な家庭や家族を、「現実に」築けているだろうか?
私は、人々が、心から矛盾なく納得はできないような理念を掲げるよりも、
熟考された「行動指針」を練り上げる方が、賢明であると考えている。
むろん、その行動指針が作られた背景を、共有できればの話だが。
■地球法第**条【偶像と集団的信仰の全面廃止】
この目的は、人々が、自らの内に信じたもの以外のものに、断固として
自らを依存させないためである。
よって、動物を含めて、いかなる神話的偶像を作ることも禁止し、
また、宗教的思想を共有するいかなる組織的な存在も許さない。
個において何を信じるかは自由である。それを公開するのも自由である。
それに共感するのも自由である。
ただし物的、または電子的な組織化の一切を禁ずる。
これは、21世紀までの出版という形式での思想の自由を模せばよいだろう。
宗教思想、とりわけ選民思想という幻想が、
かつて地球での紛争を大きく後押ししたという人類共通の反省から、
この法は制定された。
(宗教の定義と、集団化の定義は、別項に設ける)
■地球法第**条【自死の選択の自由】
いかなる国家の国民も、その年齢や性別や立場に関わらず、自らの意志により、
国際的に定めた所定の安楽死法によって、自殺を選択する自由を有する。
戦争と「性」
●といっても、テーマは慰安婦のことではない。
テーマは、キリスト教のことに絞る。
すなわち、この地球で最も多くの戦争と殺戮を繰り返した宗教についてである。
その前に、私は、人々から賞賛される日本国憲法の前文を読むと、
それは、まるで、泥沼状態の険悪な夫婦が、現実逃避をするために、
「夫婦円満とは、いかにあるべきか」という崇高と称する理念を、
必死になって捏造したものを見るのと同じ、嫌悪感がある。
つまり、「それを語るに最も相応しくない者」の手によって書かれたということである。
●そこで、ひとつの例として、
かつて、有色人種の土地を植民地支配した者たちの持っていた
「モラル」なるものについて語っておこう。
キリスト教がいかに欧米人の精神を歪ませたかという事例としてである。
キリスト教(の曲解)においては、
彼らが「野蛮な種族だ」とレッテルを貼った民族の女性は「人間ではない」
という定義になる。
よって、姦淫しても全くお咎めなしである。
同じことを同種にすれば、キリスト教では罪になるのに、
野蛮人は人ではないから、罪に当たらないという正当化である。
この正当化をもって、彼らは自国では出来ないことや妻に対する不満を、
その野蛮人を強姦することで満足させたのである。
たいした「憲法制定者らの過去の歴史と宗教」である。
●次は、少し「ライトな話題」だが、
ちまたで「バイブ」と呼ばれているものが発明された経緯がイカしている。
キリスト教では女性が、クリトリスで感じることは、ふしだらである、
として、禁じているようである。
したがって、ペニスの挿入で感じるのはいいが、クリストリスは刺激してはならないと。
このキリスト教の抑圧のせいで、オーガズムを感じられず、
それによって、ストレスを爆発的に溜めてしまった女性の治療のために、
医師(助産婦)が、患者のクリトリスを手で、刺激して心の病を治療する、
ということが行われたらしい。
しかし、あまりにも、その「手淫」がハードな職務となり、
手が過労となってしまい、困り果てた婦人科医によって、
「バイブレーター」が発明されたという話である。
●つまり、これほどまでに欧米人の、キリスト教圏の男女の性は、
キリスト教によって、歪んでいたということである。
また、欧米諸国に行われる、子供へのせっかんの背景となっているものも、
キリスト教的世界観に拠るところが多いようだ。
たとえば、
「子供の全ての本性は、罪の種子であり、それ故にそれは、
神に対する憎悪以外の何者でもない」といった、教えがある。
(宗教改革のリーダーのジョンカルビンの教えらしい)
その他、彼らが自分の子供を、虐待じみたせっかんをするときの、
「正当化として引用に使われている聖書の文言」は以下の通り。
>>「愚かなことが、子供の心の中につながれている。
>> 懲らしめの鞭は、これを遠く追い出す」
>>「子を懲らしめる事を、さし控えてはならない。
>> 鞭で彼を打っても、死ぬことはない」
>>「もし鞭で彼を打つならば、その命を陰府から救う事が出来る」
>>(旧約聖書 蔵言より)
こんな思想統制や、子供への躾の正当化など、日本にはあり得ない。
●だからこそ、欧米人が、古い時代の日本を訪れたとき、
欧米のように、鞭で尻を叩かれてせっかんされる子供もおらず、
子供たちが大らかだったことに驚いたようである。
そして、日本には、江戸四十八手の体位、その他の性文化があり、
宗教で「禁じられている体位」などありはしない。
●こうした「性に対する、宗教による抑圧」というものが、
どれほど、人間の精神をゆがめるものであるのかは、
いまさら、語る必要もあるまい。
そんなふうに、人の欲望の基礎となる「性観念が歪みまくった人種」によって作られた
理念やら、理想など、私には、むしずが走るものでしかない。
桜の間や、自我復元ブログで垣間見る「機能不全家族」での、
親から子供への、暴力、恫喝、調教、いじめを見るにつけ、
そもそも、歪んだ人間ほど、
その自らの不満を、机上の空論の「理念」に盛り込もうとするものだ。
つまり、「理想・理念」とは、ずばり「その者の不満」を語っている。
それが良いか悪いかの論議となると、
「不満がなければ、人は成長もしないだろう」と、いったことが、
まことしやかに、言われるのだが、
私は何度もいってきたはずだ。
幸せとは、積み重ねや、経験の上に成立するものではない。
幸福とは、努力して得るものではない。
幸福とは、勝ち取るものではない。
幸福それ自体からしか、幸福は生まれない。
不幸から生まれるのは、
どんなものであれ、不幸だけである。
*********
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