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無明庵日記●猫の足跡-その602● 【私も、欲しい、と言えないAC】
by:
鈴木崩残
2013/08/17(Sat)16:17:43
理解が困難な八つ当たり
●今回は、少し変った話題を書きます。
世の中には、自分が不幸だったから、相手も不幸になれ、とか、
または、特定の「層」の特定の立場や境遇の人をターゲットにして、
その人たちは、皆不幸になればいい、ということを思う場合があるようです。
私にはかなり理解しがたい、精神構造なのですが、
それが、よいとか、悪いということをどけて、
なぜ、そう考えるに至るのか、あるいは、なぜそういう感情になるのか、
または、それは単純化すると、どういう感情なのかを探ってみます。
●世の中には、「他の人は貰っているのに、どうして自分は貰えないのか」
という形の、不満や嫉妬があり、これは、日常的によく存在します。
たとえば、男性が2人の女性を相手にしていて、
片方の女性には、心遣いをするが、もう片方にあまりしないと、
ないがしろにされたと思う女性は、
「なんで、あの女にするように、優しくしないのだ!」といきり立ちます。
これは、男女間でなくても、学校の教師のひいきに対してや、
あるいは家庭内で、親が兄弟間差別をした場合に生じるもので、
めずらしいことは何もありません。
「こっちにも、よこせよ。不公平じゃないか」がその言い分です。
●ところが、世の中には、
「こっちにもよこせ」ではなく、
「自分が味わった苦しみや不満や怒りを、お前らも味わえ」という形の、
極めて奇妙な思考があります。
ただし、これには二種類あります。
ひとつは、それが正当に私にも見えるもの、
もうひとつは、まったく正当に見えないものです。
まず、正当に見えるものから説明します。
■
【相手も自分と同じように不幸になれ、という思考が理解できるケース】
オウムの松本サリン事件の被害者の人たち、とりわけ、河野さんなどは、
本来であれば、実行犯も、協力した者も、知っていた者も、麻原も、
すべて同じように、死ぬまで、動けない状態になれと、呪っても
当然のことです。
それを河野氏は、なんら偽善的でもなく、その稀有な寛大さで、
けっしてそうした呪いの言葉を吐きませんでした。
私に言わせれば、世間を呪った、小心者で、大嘘つきの麻原を崇拝する暇があったら、
よほど仏教「的」な実践をしている河野氏を拝んだら
どうなんだとすら思います。
●さて、これとは事例が違い、1999年の「光市母子殺害事件」の、
被害者の遺族である本村洋氏の場合、どれだけ犯人を呪っても、
その恨みには、正当性がある。
犯人に同じ目にあって欲しいと願ったとしても当然である。
前述の地下鉄サリン事件の何千という被害者もまた、
その症状により、程度は違っているだろうが、
とくに、大きな後遺症を負った人たちは、麻原も、信者らも、
自分と同じように不幸になれと、呪う正当な理由がある。
その他、いろいろな殺害事件、傷害事件において、
確かに、その被害者が加害者に、「同じように不幸になれ」と
呪ったとして、なんら違和感のない事例は沢山ある。
たとえば、殺意を持ってして、相手を突き飛ばしたり、刃物で切りつけた結果、
その被害者が、半身不随になったり、視力を失ったりしたら、
「まったく同じ目に遭え」と被害者が思うのは当然のことである。
と、ここまでは、私の理解には、何も問題はないだろうし、
おそらくは、皆さんの理解にも何も問題はあるまい。
しかし、次が私には理解が困難になってくる。
■
【相手も自分と同じように不幸になれ、という思考が理解困難なケース】
●前述のものは、直接の被害者が、直接の加害者に対して持つ
怒りと、怨恨であるのだが、
たとえば、2人兄弟で、そのどちらかが優遇され、
そのどちらかが、優遇されなかった場合に、
「あいつも、私と同じように不幸になれ」と思うとしたら、
それは、どういう精神構造だろうかということである。
●また、たとえば、こんなことは、まさか、ないと思うが、
福島県民が、理不尽に被曝したわけだが、その県民の中で、
「東京に電力を送ってやっていたんだから、東京の奴らも被曝して不幸になれ」
などと呪う者は、まさかいるまい。
●また、自分は黒人で、白人から不当な扱いを受けた。
あいつら白人も、足に鎖をつけられて、差別されればいいんだ、
と考える黒人に、少なくとも、私は会ったことがないし、
また、日本に原爆落としやがったアメリカにも、原爆を落としてやりたい、
と心底言っている日本人も見たことがない。
●ここで、私が疑問に思い、違和感を持ったのは、
「自分と 同じように 不幸になれ」という言葉自体が、
そもそも、矛盾を持っているということである。
たとえば、その人と同じように不幸を感じるためには、
環境が同じように準備されるばかりではなく、
その人の感性や才能や、優越感や劣等感や、体力や容姿も、
全く同じにしなければ、
たとえ同じ劣悪さと思える環境を与えても、相手は、
その人と同じように苦しむという保証はないからである。
強いて、分かりやすくすると、
ペンチで、一枚一枚、爪をはがして、その傷口に塩や唐辛子を塗る、
というのであれば、どんな誰が、それをされるかに関係なく、
一様に、その拷問を受けた者は苦しむだろう。
●しかし、たとえばの話だが、
悪魔と契約して、自分が呪うその相手(単体または集団)にも、
同じような差別と、貧困と、毒親と、兄弟間差別の待つ来世を与えたとします。
ところが、人によっては、その環境を逆に力にして、克服してしまい、
幸福にすらなってしまう。
こうなったら、「自分と同じように不幸になれ」と呪いをかけた者は、
よけいに、敗北感を噛みしめて、惨めになることでしょう。
●であるので、問題なのは、
相手にも不幸であれと願う場合には、
そうなる「前提の条件」、まず準備として、
「自分と、何が、同じでないとならないのか?」ということ、
この部分が極めて曖昧であり、
次に、結果として相手が悶絶する傷みや苦しみは、
具体的に、どうデザインされているのか?
ここも曖昧であることがほとんどである。
■たとえば、「相手に対して、自分と同じように苦しみながら死ね」
と願っているのか、
それとも、なんと「不当」なことに、「自分よりも苦しみながら死ね」と
言っているのかも曖昧である。
また、苦しみながら死ねというときに、その苦しみの時間的な期間は、
10年なのか、30年なのか、
また、もしも脳波形で、「痛みを数値化」できたとすれば、
毎日、どれほどの痛みを継続的に経験すれば、呪った方は気が済むのか?
こうしたことも曖昧である。
●人は自分が経験もしたことのない不幸はイメージできず、
また、イメージできる不幸も、自分のちっぽけな経験のものでしかない。
仮にそのイメージを拡大しようとすれば、
本や映画から、妄想の素材を拾ってきて寄せ集めるしかない。
たとえば、肝心の自分すらも経験したことのない、
「火あぶり」のシーンを思って、呪う相手に「苦しみながら焼け死ね」
と願うようなものである。
●このような理由から、まず、
「自分と同じように不幸になれ」というこの言葉自体が、
願い事として、条件を揃えておらず、
仮にイメージが出来ていても、きわめて曖昧である。
たとえば、「ジャップは全員死ね」という場合も、
遺伝的に日本人であると認定される者だけを言うのか、
それとも、欧米人で、日本国籍を取得した人も含まれるのかも曖昧である。
その「くくり」に、例外はないのか?である。
●こうしたことから、私は、
「***は、自分と 同じように(またはそれ以上に) 苦しめ」
という思考パターンが、ほとほと理解できない。
普通は、
「自分のような苦しみだけは、他人は味わうことがないようにと願う」
ものである。
しかし、そこは、冒頭に書いたような、直接の犯罪被害者であれば、
「相手も同じように苦しめ」は、正当な主張として成立する。
●では、呪う相手が、毒親だったらどうか?
実は、これも難しい。
なぜならば、既に書いたように、あなたと同じように苦しむためには、
あなたと同じ敏感な感性や、才能や、容姿や、体力や、
個性もそっくり、その毒親がまずコピーしないと、
「あなたと同じ苦しみ」にはならないからである。
あなたの毒親が、ぼーっとしたゾンビだったらば、
あなたが受けたのと同じ虐待や恫喝を与えても、
あなたよりも被害感覚が少ないかもしれないのである。
一方で、差別されて、優遇された方の兄弟姉妹に、
「自分のように不幸になれ」と願う。
これは、いくらなんでも、「誤爆」であると私は思う。
●そういうわけで、
「私にも貰う権利があるのではないか」というのは、
不公平感を訴えるのに、ある程度正当性があるのだが、
「相手も自分と同じように、貰えないようになれ」、というのは、
はたして、それで、不公平感は、静まるのだろうかと、疑問に思う。
これは、
「教師が私のことには、不注意で、
そのせいで、私が、海で溺れそうになったんだから、
クラス全員、溺れろ」、と同じではあるまいか。
不注意だった、その教師1人を、水攻めにすれば済むことであるからだ。
●別の事例としては、
2人の生徒が騒いでいて、片方が、教師に、しこたま、しかられて、
もうひとりは、お咎めなし。
この場合、差別された側の生徒の恨みのベクトルは、
1/ひとつは、差別した教師に向かい、
2/残るひとつは、しかられなかった生徒に向う。
で、この場合、差別された側の生徒は、
この事件が起きた「あとに」どういう結末になれば、気が済むだろうか。
ひとつは、
「教師が、平等にすべきだったと改心して、
もう1人の生徒も、改めて罰した」という場合なのか?
それとも、当の差別した、その教師自身が、
別のところで同じような差別を受けることで、気が済むのか?
ここも微妙である。
この場合、「教師」の部分を、自分の「親」に入れ替えると、
分かりやすい人もかなり多いだろう。
●そして、さらに見えてくるのは、
たとえば、「親から、もらえなかった側」は、そこで、
「私も同じものが欲しい」と言えばいいのに、
それをACの場合は、
「私が言ったら、怒られる」
「私がせがんだら、迷惑になる」
「私が頼んでも、どうせ、無視して、ないがしろにする」
といった、条件反射から、「欲しい」と言えなくなった場合、
この場合に、望んでも、得られないという「深刻な絶望感」から、
それが、極端に歪んで、「反転」してしまい、
「あいつも、貰えなくなればいいんだ」になるケースは十分に
ありそうである。
***************************
■そこで、
自我復元をされて、自我判定をしたことのある人に限りですが、
次の質問をしてみたいのです。
あなたは、
1/「相手も、自分と同じように、不幸になれ」と思ったことはありますか?
2/その場合、具体的に、どう不幸になればいいと思いましたか?
3/その他、どうして、そういう思考になったのか、
(無理をして、分かったふりをせず)、
ご自分で理解できている範囲で、解説をしてみてください。
感想用のメールまで、お願いします。
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