自殺の自由化
(サンプルテキスト)




監修・執筆:鈴木方斬(すずきほうざん)

空間開設者:黒間玄元(くろまのりゆき)
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自殺の自由化 はじめに(昨今の自殺報道) 『自殺』の『自由』化・・・。 私はこのタイトルに人間社会とその歴史に対する精一杯の『皮肉』を込めたつもりだ。 というのも、人間が何か事あるごとに好んで口に出すのが『自由』という言葉であり、 時には『自由のため』と称する行為や組織のせいで多くの人達が苦しんできたからだ。 そして、これとは全く正反対に『自殺』という言葉や表題は、人々から最も嫌われて 敬遠されてきた。一部の心理学者やセラピストを例外にすれば、自殺の問題の本質は、 まるで「臭いものに蓋をする」かのように扱われてきた。 しかしこのサイトは、その「臭い蓋」をあけ、 さらに容器それ自体の底をも「ぶち抜こう」とする。 今までに、『自由のために自殺をした者』は多くいる。 だが『自殺のための自由』を真っ向から取り上げた者は非常に少ない。 それが私がここで執筆した理由の一つでもある。 さて、当方では1997年7月から1999年2月にかけて、インターネット上で、 『自殺』と『殺人』に関する問題提示や哲学的な論点の投稿の募集を行った。 親ページでは、メインタイトルは『性と死のホームページ』となっており、全部で4つ の項目があるが、ここではそのうちの1項目のみを扱う事になる。 ********* ひと昔前までは『自殺』と聞くと、一般的には「複雑な事情があったのだろう」と思う 反面で、どことなく自殺者を社会からの脱落者のように見ていたものだ。 しかし、1999年現在の、この不況、倒産、家族崩壊、いじめなどによる自殺報道の 洪水の中では、多くの人の自殺に対する感覚は、明らかに変わってきている。 つまり、「自殺したい人は、他人に迷惑さえかけなければ、好きにすればいい」という のが、本当のところの感想なのである。 もっとも、これは自分に全く関係ない者の自殺報道に対する感覚であり、自分の身内や 恋人や、金銭上の利害関係のある者が自殺したとなれば、多少、感覚は違ってくる。 1998年の暮れから1999年にかけては、著名人の自殺や変わった自殺が多かった。 映画監督の飛び降り、政治家の首吊り、中小企業の社長3人の同時自殺、音楽家の自殺 (これは事故とも言われる)、いじめによる首吊り、野球のスカウターの飛び降り、 そして青酸宅配事件による自殺。その他の無理心中など多数。 これに、無名の一般人を含めれば、年間約24000人以上が自殺をしているのが日本の 「現状」なのだ。 こうした現状に対して一部の新聞記者などは、自殺を一方的に否定的に扱い、 また、民放の報道機関やNHKの特集番組も、こと自殺に関しては、常にその論点が 『一線を越えないように』しながら自殺に否定的な見解を述べてきた。 つまり「自殺は悪いことである」という前提で取材を開始し、「自殺をやめさせる方 法」の曖昧な提言に終始するという、全く進歩のないお決まりのパターンである。 そして『一線を越えないように』というその『一線』とは、次の論点だ。 1/「人はなぜ自殺するか??」 2/「なぜ我々は、自殺をしないで生きていられるのか??」 社会の自殺の多くは、生活苦や、将来への悲観、責任感、犯罪後の投獄への恐怖、 いじめの苦、その他多様の心理的・肉体的な『苦』に追い詰められて行われる。 私は便宜上、これを『世俗的自殺』と呼んでいる。 一方で、私が『超俗的自殺』呼ぶものがある。それは純粋に哲学的な理由からの自殺だ。 それがつまり『我々がなぜ生きているのか?』の『理由』への探求の結果の自殺である。 テレビや雑誌に出てくる、無知性で、何も深く考えないコメンテーターたちは、 いつでも口を揃えて「生きている事の意味を見い出せる対象を見つけられないから、 自殺をするんでしょう」などと言っている。 だが、そう言っている者たち(評論家や、カウンセラーや、教師や、坊主)自身が、 果たして生きている『意味』や『理由』を明確に見い出しているのかに関しては、 断固「否だ」と私は断言する。 なぜならば、彼らの言うところの「生きている意味」とは、厳密には意味などではなく、 「生きている理由について考える事を忘れさせてくれる感覚的楽しみ」の事だからだ。 彼らが見い出したのは、『生きている意味』や『存在している理由』などではなく、 単なる「生きた実感が持てる個人的な対象物や行為=すなわち『趣味』」なのである。 あるいは、「少なくとも、しばらくは死のうとは思わなくなる」ための、 何か没頭していられる『趣味』や『個人的な目的』を見つけたという事にすぎない。 ********* むろん、ここで注意しておくが、「皆さんに生の意味を教えよう」などと叫んでいる、 あらゆるすべての宗教や瞑想体系もまた、単なる『個人的な信仰の趣味』なのであって、 それは生の意味を「本当に考えること」ではない。 いや、むしろ逆に「生の意味を考える事から逃げるため」に、過去の誰かやどこかの誰 かが唱えた生の意味や教義に、あなたが「下駄を預けて便乗した」という事にすぎない。 だが、これらの行為や姿勢は断じて、 生の『意味』や存在していることの『理由』を見い出したことにはならない。 しかし、こうした本質的な問題は、スキャンダルを追いかけて朝刊や夕刊や週刊誌で 商売をしている類いのマスコミが立ち入れるような問題ではない。 なぜならば、これは報道や治安の領域の問題ではなく哲学の課題だからだ。 しかし、もしもこの論議を始めたら、それはやがては、我々人間ばかりでなく、 この宇宙の全生物、全物質の存在している理由を問わねば納まらない問題となる。 *********

哲学とは『疑うこと』から始まる しかし本書を熟読される方は哲学というものが単なる知的遊戯などでは ありえないことを十分に理解できるだろう。もともと哲学とは政治・経済・文化・ 産業・宗教などの根底を支える大地だったからである。 ただし、それが宗教とは異なる点は『思考の自由』がそこにあることだ。 宗教とは信じることで成立するが、哲学とは『疑うこと』から始まる。 また宗教は必ず政治や経済の一部に組み込まれてしまうという宿命を持っている。 なぜならば宗教とは『幸福』という名の「心理的部品」を、不幸を自覚している ものたちの市場へと売り込もうとするセールスだからだ。 一方、本当の哲学は決して幸福などを売ろうとはしない。 哲学が売ろうとするのは、個々の『精神の自由』であって、 時にはそれは厭世思想や、虚無主義を売ることにすらなる。 いわゆる昨今「単なる流行」で、「自分探し」などというものを、 哲学と混同して大きな勘違いをしている者が実に多いようだ。しかし、 『哲学とは、断じて幸福を追求する事を前提にしていない』のだ。 哲学が追求するのは、『構造的事実と論証』である。 哲学は、あらゆる前提への疑いから始まる。したがってそこでは、 我々人間が「幸福になろうとする前提」などは、まっさきに疑惑の対象となる。 1:すなわち、我々がそもそも幸福になどなろうとするのはなぜか? それはいろいろな不幸を感じるからだろう。 2:ではなぜ我々は不幸を感じるような脳が肥大した、 類人猿の一種として生まれてきたのか?? 3:そして、そもそも軽はずみに言っている、 幸福や不幸の「定義」は一体何か??・・・と。 そしてこうした思索の連続が、結果として『不毛な結論』になろうが、 明日を生きる気力と希望を喪失する『絶望的な不幸な結果』になろうが、 それでも哲学者たちはあくまでも、これらの問題を追求するのである。 こうした点から、哲学は最も「実用性」のない分野であると思われがちだ。 だが、考えてみるとよい。 世界の根拠、宇宙の存在の目的、そしてその中で人間の生がどのような位置にあるのか といった、一見すると、実生活とは何の関係もないと思われるこれらの問題に 取り組むことは、実は、「最も実用的な課題」でもあるのである。 なぜならば、我々や我々以外の生物をも含む、その生死の根底の謎さえ解かれれば、 我々が生きたり死んだりする中でのいかなるストレスや迷いもなくなるからである。 ダグラス・アダムスのSF小説『銀河ヒッチハイクガイド』には、 こんな場面がある。 ある時、銀河の科学者たちは「ディープソート」なる、 巨大なコンピューターを作り上げた。 そして彼らはそのコンピューターに次の難題を解かせようとした。 「生命と万物と宇宙についての『答え』を出せ」と。 そうすれば、もう明日からは、朝起きて、「何で、俺たちは生きているんだ」とか、 「なんで、こんな事をしてまで生命を維持しなければならないんだ」とかそんな事で 二度と迷わなくてすむから、というのがその動機だった。 そして、気の遠くなるような計算の果てに、 コンピューターはとうとう、その答えを弾き出したのだった。 ところが、その答えは、なんと、「たったの2文字」だった。 そして人類には、その『答えの意味』が全く理解できなかったのだ。 それはなぜだったか?。実は人間たちは、そもそも自分たちの発したはずの、 『質問そのものの意味』を明確に理解していなかったからであった。

2種類の自殺 ところで、『世俗的自殺』と『超俗的自殺』についてもう少し述べよう。 私自身の経験から言えば、世の中には2種類の自殺者がいる。 ひとつは、単なる怠惰や無気力性のもの。 もうひとつは、『思考力や感性の過剰発達』によるものだ。 知性や感性が過剰に発達すると、生の実感を伴う感覚が通常の感覚とは違ってくる。 つまり生の実感がよほどの快感レベルに達しないと、生きた心地がしないのだ。 特に、物事を深く考える事が日常的であったり、 感性が極度に繊細であったり、または、長く精神集中をしている事が当たり前の生活を 続けると、通常の5感の世界の刺激では、生きていても物足りなくなるのである。 しかしこの場合には、外的刺激にもやがては致命的な中毒症状が起きる。 ちょうど味覚の感覚が中毒やグルメ指向を起こすように、外的な刺激も、 さらにより強いものを求めるようになる。しかしその分、本人はこの現実世界の、 平凡なつまらない感覚には全く適応ができなくなるのである。 この現象の一例として、ベトナム戦争の中で絶え間無い緊張を経験したアメリカ兵が 帰国してから、そのあまりの刺激の無い毎日のせいで鬱状態になった症状などがある。 つまり、自殺には、おおざっぱに分ければ2種類あるという事だ。 ひとつは、社会から「落ちこぼれたための自殺」。 もうひとつは、社会や一般の生命経験を「越えていってしまったための自殺」だ。 しかし、これはある現象と非常によく似ている。 それは人が『宗教』へと傾倒するプロセスだ。 人が宗教や瞑想体系その他に傾倒する場合にも、病気を直したいだの、 人間関係がうまくいかないだの、他人から賛同されたいだの、超能力が欲しいだの、 いわば普通の事もまともに出来ないことが原因で宗教へ行く場合がある。 これらは言うなれば、「落ちこぼれ型信者」「世俗的信者」だ。 しかし、欲目で見て約1%ぐらいは、普通の事を全て満足させた上で、 さらに精神的な次元で満足がいかないという事で宗教に走る場合がある。 ところが、この『精神的な豊かさの探求』には、とてつもなく大きな危険が伴うのだ。 *********

『豊かな心』を探せば自殺は増える 戦後の物質的な豊かさの追求が、人々の心に影を落とし、その事を自殺が増えた理由の 一つにしたがる者は、石を投げたら当たるほどそこらじゅうにいる。 しかし、私に言わせれば、「心を豊かにしようとする試み」の方が、 遥かに自殺率を引き上げることになるものだ。 なぜならば、物質の豊かさには、そこそこの限界点や具体的な形というものがある。 しかし、精神の豊かさやその可能性は、その限界点が桁違いに遠い。 つまり精神を進化させようとする試みは、 物質とは「飢えのレベル」や目標とする地点が違ってきてしまう。 報道番組の軽率なコメンテーターたちは、自殺の問題に関して、 いつでも、「これからは心の豊かさを求める時代ですね」などと、 強引に番組の最後を締めくくるものだ。だが、 心の豊かさを求めるという探求ぐらい生物の精神にとって危険なものはないのだ。 そこいらの宗教団体や導師や寺やセラピーに属したり、 おもしろそうな宗教書を趣味で読み耽るなどの愚かな事をせずに、 もしもたった一人で、「本気」になってそれを開始したならば、それは、 1/幸福・不幸の定義のし直しに始まり、 2/何が本当に正しいか、正しくないかの定義にあけくれ、 3/すべての宗教を、その根底から知性の裁判にかけ、 4/宇宙の発生や、宇宙の機構そのものへの思惟を生み、 5/そもそも今目に見えている世界は、本当に存在しているのか?と疑い、 6/宇宙と万物の創造者など、本当にいるのか?などの問いにまで発展し、 やがてそれは、ごく平凡な一人の人間を、 7/「一人のシッダールタ」へと変容させてしまうテーマなのだ。 ********* 試みに、ある青年を自殺の決意にまで追い詰めた『問い』のプロセスと同じものを、 ここで読者にしてみよう。(*なお、この青年の遺言の詳細は本書に収録した) ****************** 『私は、本当は、生の中で一体何を求めているのだろうか?』 それに対する答えがもしも出た場合は、私には次の問いが出てくる。 『なぜ、私はそれを求めるのか?。 それを求める事が、なぜ必要なのか?』 そして、ここで、私は逆の方向から考える。 『もしも、私がそれを求めなかったら、どうなるだろうか?』 その答えは、『つまらなくなり、生きてゆく気がしない』 ・・・・・・・・・ では、結局のところ、私を含むすべての生き物の活動とは、 「空腹という不幸」が生まれる事をまずその根底のルールにしており、 それを回避しようとして、生き物はつき動かされてゆく。 人が幸福を追求するその動機も、たったひとつしかない。 それは「なんらかの不幸や不足を感じている」という事だ。 そうでなければ、幸福など求める理由がないからだ。 しかし、では、そもそもなぜ我々は不幸を感じるのか?。 それは、ずっとじっとしたままで動かないと、空腹による苦を感じたり、 心理的に落ち着かない状態に定期的になるように「何者かに設計された」からだ。 すなわち、宇宙の万物を動かし続けるために、生物たちが不幸と幸福を延々と繰り返し、 ぐるぐると『常に動き続けるような設計』を誰かがしたのだ。 では、なぜ、我々生物はそのような設計をされたのか?。 それは、もしも宇宙がその「動き」を止めたら、万物が消失するからである。 ならば、問うが、そもそも、この宇宙とは、なくてはいけないものなのか? 答え・・・「最初から存在などしなくても、誰も困らない」。 これは、たとえば、ひとつの企業が、「本当に我が社は社会に必要なのか」という、 その根底の存在意義を問うことも全くせず、ただ単なる惰性と、倒産しないために、 必死に生き延びようとするのと全く同じ動機である。 宇宙もまた、明確な理由や目的によって存在しているのではなく、 ただ、自分が消えまいとして生き延びようとしているだけである。 そして、そのための「使い捨て燃料」が我々・・・すなわち全生物である。 宇宙は生まれた時から絶対の虚無という闇を敵視し、 自分が無に消え去る事を恐怖している。 それ故に、全生物は、常に飢えて苦しみ悶え、幸福を求めてはウロウロと動き続け、 その結果として、宇宙の存続に貢献する燃料・肥料・活動を生み出す役目を背負って、 永久に生き続ける事になっている。 すなわち、我々は「幸福になるため」に生きているのではなく、 ただ「生き続けるため」だけに、 『幸福という名の自殺防止薬』を探させられているにすぎないのだ。 こんな宇宙には、私は2度と存在したくない・・・・。 ****************** さて、それではいよいよ現代人の『自殺や殺人』に対する意見についてある程度の深さ まで『掘り下げた』内容の文書や、ユーザーからの投稿を以下に紹介してゆく事になる。 1999  3/21  無明庵/鈴木方斬
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この空間は 1997/08/15 に生まれました。