第一章『雑話編』 ◆自殺系と殺人系のホームページは 犯罪をあおってなどいない◆ 「いや、現実に、インターネットで犯罪が発生しているではないか」と、単細胞的に 反論するのは、どこの誰にでも簡単な事である。 しかし、「あなた」に尋ねるが、インターネット上に、自殺の方法が書いてあったり、 殺人マニュアルが書いてあったり、爆弾や、果ては核兵器の作り方までもが書いてあっ たとして、では、あなたは、早速そうしたものを作ったり、実行するだろうか?。 また仮に、カルト教団が殺人を肯定していたとして、 あなたはその日から、殺人者になったり、そこの信者になったりするだろうか?。 自殺と同じように、殺人もまた本人に「理由や動機」や「決意や覚悟」や「発作」とい う要素が揃って初めて行われるものだ。 もしも「危険と称する」情報のせいで事件が起きたと言うのであれば、 それは次のような事に適応されるべきだ。 たとえば、ある間違ったCMその他の情報により、何千、何万もの人間が、 ある医薬品または医療技術、そして産業用薬品を使用して薬害に陥った。 つまり、あたかもヒット曲のレコードや書籍の販売数量のように、人々や企業が、 それによって一気に感化させられ、行為に及んだ場合、 これは「社会問題」にされてもいいだろう。 しかし、自殺・殺人、特に殺戮に関しては、 「直接的にそれを大量にあおった情報」というものは現在はないはずだ。 (もしもそれがあるとしたら日本では戦時中の軍国主義の時代や、まだ国内で内乱の あった戦国時代だろう。) 1億2千万もの人口がいれば、情報を見て爆弾を作る者は100人ぐらいは出る。 そのうち、それを実際に使ってしまう者も、1人ぐらいは出る。 しかし、自殺や殺人に関しては、少なくとも日本においては、 それらは「本人を取り巻く個人的な状況」というものが直接の原因であって、 その「方法についての情報」に根本原因があるわけではない。 そんな事よりも、数千人の人間が、医者や国家から言われて、「正しいと信じた薬」や 「食品」や「産業素材」の被害に陥るほうが、遥かに国民的な問題だ。 そのような点では、むしろインターネット上で現在存在する最優先の問題はカルトでも なく、自殺や殺人肯定のページでもなく、『毒物売買』と『麻薬売買』の領域だ。 麻薬(向精神薬を含む)に関しては、その情報と流通が影響してしまう人数が万単位の はずだ。麻薬使用に関しては「特別な個人的状況」も必要なく、「単なる好奇心」から 行うものが多く、そこには自殺や殺人のような『個人的な決意』は必要ないからだ。 実際問題としても、調査によれば、学生、主婦、社会人、あらゆる層に第2の酒という 軽い感覚で蔓延しているようだ。また毒劇物の場合には、うっかり受水槽にでも交ぜ られたらその被害は多大なものになる。 これに比べると、殺人マニュアルの本は(ありえない事だが)、仮に100歩譲って 「飛ぶように売れた」としても、それが行為にまで及ぶ率は極めて少ない。 しかし、情報が直接に行為に及ぶという点では麻薬・薬物売買の方が問題がある。 そのあたり、警視庁も国内の治安の問題を本当に云々したいのならば、 規制の「優先順位」をしっかりと考えて戴きたいものである。 かく言う私は、幼いころから『今日も元気だタバコがうまい』というキャッチフレーズ を聞いて育ち「タバコとは健康のバロメーターになるものなんだ」と疑うことなく堅く 信じ続け、現在では、重度のニコチン中毒者となっている次第である。・・・・・・。 ********* ところで、かつて『完全自殺マニュアル』が発売された時、著者がひっぱり出されて バッシングされたケースもあったが、あの本が直接に自殺率を引き上げた「統計的根 拠」は全くない。 いや、むしろ自殺というそれまで未知だった領域に対する「ある程度の節度」を読者に 教えたと言う点では評価すら出来る。 なぜならば、それまではガス自殺や、放火や、電車への飛び込みなど、ずいぶんと 「はた迷惑な自殺」もよくあったものだ。 その原因は、当時、まだ多くの人々が自殺の実際の方法には意外にも知識がなく、 その結果、いきあたりばったりの思いつきの方法で自殺をしていたのかもしれない。 ところが、「臭い蓋」をあけて自殺の多彩な方法と、それぞれの利点と欠点があれだけ 親切に解説されてみると、見た目はともかく、医学的にも首吊りが一番楽であるという 事が教育(?)された。あの本のおかげなのかは知らないが、現在では、極端に迷惑な 方法の自殺は、むしろ減っているとすら推測できるのである。 ただし自殺方法の分類と、その順位についての最近の統計が手元にないので、 断言は出来ないが。カルト法とは、なんぞや?? それよりも、私が最も気にいらなかったのは、よくワイドショーなどで、 「カルト法」の設定を提唱している一部のコメンテーターだ。 だいたい、そもそも、カルトの厳密な『定義』とは何なのだ??? 私に言わせれば、存在しているかいないかが、科学的にも天文学的にも 確認できていない神様や仏を信じて、神社や仏閣で手を合わせることの、 一体どこが「カルトでない」と言えるのか?? 霊感商法ならば、ぼったくられて騙されても、まだしも『壷』や『仏像』や『水晶球』 や『掛け軸』ぐらいはもらえるのに、神社の神様相手では、物的な報酬も契約書も何も ない。ただの紙のおみくじと、お祓いだけだ。 すなわち、歴史と伝統ある、ありとあらゆる宗教も、しょせんは『伝統的カルト』であ るにすぎまい。伝統的宗教とカルト宗派の、その「分類線そのもの」に、多くの疑問点 があるのだ。 キリスト教徒が「中絶をする医師を殺せ」と掲載した有名な事件でも、問題なのはその 「キリスト教の教義そのもの」なのか、それとも一部の者の「宗教解釈」にあるのか? という根本問題も、ちゃんと論議されてはいない。 ところで日本にもイスラム教を信じる外人がいるが、「聖戦」というものを信じる彼ら は、カルトに入ってしまい、規制されるのだろうか? それに、戦前の日本などは、子供から大人まで完全な天皇崇拝カルト集団だったのだ。 ・・・・・・・・・ また、「感情的に」カルトに分類されてしまうもので、誰にも危害を与えないカルト? もある。たとえば死体写真を見る趣味は、「単なる趣味」である。 人間たちは動物の死体、たとえばネズミやゴキブリの死体を何とも思わないし、単なる ゴミのようにそれらを見るのに、人間の死体となると特別な感情を持つことそれ自体が、 「自然界という大きな環」の中では、全くのカルト的発想であると私は強く感じる。 さらには、極端な一例として、もしもどこかに悪魔崇拝の団体があったとしよう。 すると、悪魔崇拝というのは、カルトに分類されるのだろうか? ウルトラマンや多くのアニメを見れば分かるように、ヒーローがいたら、味のある脇役 である「悪役」にも必ず多くのファンがいるものだ。なぜ、神というヒーローの脇役で ある悪魔を信じているという事だけで、それがカルトにされるのだろうか? 悪魔崇拝というと、幼児を殺したり、動物や人間を生け贄にするというまるで18世紀 さながらのイメージがあるようだ。しかし、そんな事をせずに、ただ単に悪魔の性格や 風貌が好きで、「慎ましく悪魔を崇拝している信者」だって沢山いるのだ。 たとえば、著名な作家のマーク・トウェインの『不思議な少年』を読んだ方々は、 悪魔という神話に対するイメージは全く変わってしまった事だろう。 ・・・・・・・・・ こうした、それぞれの国や個人の『思想的な趣味』にすぎない問題を、 カルト法などで規制しようとする事自体、発想が実に貧弱だ。 問題の本質は、思想や情報がどのようなものであるかではなく、 その思想が「犯罪に発展する可能性があるかどうか」で、 カルト法の適応基準とするつもりなのだろう。 しかし、そうであるのなら、それは『思想規制の土俵』で行うべきではなく、 『実際に起きた犯罪や組織に対して』行えばいいものだ。 犯罪が「起きる可能性」などを考慮したら、あらゆる新興宗教のカルトから、 由緒ある伝統的宗教という名のカルト、 政治カルト、経済カルト、企業理念というカルト、 教育カルト、愛と平和のカルト、子育てカルト、 動物愛護カルト、ボランティアカルト、エコロジーカルト、 そして報道やマスコミというカルト集団や、 警視庁というカルト組織など、何から何まで、それらは、 いつでも犯罪に発展する可能性を秘めているという事になるのだ。 ・・・・・・・・・ 私にとっての『カルトの定義』とは、 民主主義的な多数決によって決めるような問題ではない。 私の定義では、もしも人が何かを「疑う事もなく信じたら」、 その事自体がカルトなのだ。 従って、異端思想ばかりでなく、常識や良識も立派なカルトであり、 愛が大切だと言うことも、経済的に生き残るべきだという企業理念も、 すでに十分に「ご立派なカルト」である。 言い換えれば、「みんな自殺すべきだ」と叫んでもカルトになるが、 「自殺は絶対にしてはいけない」と叫んでも、これもまたカルトであるのだ。 また、果たして「殺人を肯定する思想」が一律にカルトになるのか?。 そんな事を言ったら、国内での殺人を口で否定しながら、 実際には他国民族の殺人を行ったイラク攻撃などは、 アメリカの「危険なカルト思想」になってしまう。 だから、極論すれば、「殺人を肯定した思想」がカルトであるのでもないのだ。 また「殺人を実際に行ったら」カルトになるのでもない。 殺人を行ったら、カルトになるのではなく、 それを実行した者は、法治国家の内部では「犯罪者」となる。ただそれだけの事だ。 結論=カルト思想問題の論議と、治安の問題とは全く『別の問題』だ。インターネット規制への私見 薬物や劇物の大半は、もともとは人を殺すために作られたものではない。 化学兵器を別にすれば、ほとんどは、もともとは医薬品や試薬、精神科の薬、 あるいは狩猟用の毒物や、除虫薬や工業用薬品の類いだ。 しかし、こうした本来は殺人目的でないものを、殺人や自殺や犯罪に転用して使える ものなどは、薬物以外にも腐るほど世の中に氾濫している。 一連のインターネットや伝言ダイヤルの「周辺で」起きた犯罪や自殺の問題に関しては、 物的な規制による解決法などは絶対に存在しない。 バタフライナイフが問題を起こしたからといって、もともとは立派な道具であるナイフ それ自体を規制するのがナンセンスであるがごとく、これだけ多様な「物それ自体」を どう規制しても、必ず裏道からは流出する。 だから現実問題としても、それには限界がある事など警察も100も承知のはずだ。 もしも自殺や殺人の「手段の道具」にのみ着目して、その手段となり得るすべてのもの を規制したら『極論』を持ち出せば、雑貨屋や登山用品店では首吊りに使われる可能性 のあるロープを売ることも出来ないということになり、電気屋は電気コードも売れなく なってしまう。 また首吊りよりも、もっと楽に自殺をしたい人間は市販の「炭燃料」の、 「携帯用バーベキューセット」(たかだか1300円程度)や、昨今の健康ブーム、 エコロジーブームで氾濫している『備長炭』を、締め切った部屋や風呂場で焚けば、 簡単に一酸化炭素中毒になってしまう。 そうなったらデパートでは炭製品すらも売れなくなってしまう事になる。 ・・・・・・・・・ また殺人について言えば、実際の目的と違う使い方をする事で、危険な武器になり得る ものなどは、日常のいたる所にある。前述した、雑貨屋のロープすらも、首にかければ 立派な武器になるのであるから。 最も危険度の高いものの一例としてはパーティーで使う泡のスプレーだ。服についても 簡単に落ちる泡の糸が2メートル近くも直進して飛ぶ「パーティースプレー」は皆さん もご存じだろう。あれ自体は、実に、たわいもないオモチャだ。 しかし、もしもあれにライターで着火したら、その場で極めて高い性能の「火炎放射器」 になってしまうのである。実際に外国では、誕生日のケーキのロウソクに向かって、 子供があのスプレーを誤射してしまい、真向かいにいた子供が火だるまになってしまっ た事故もある。 もしも私が銀行強盗をされる銀行員の側の立場だったら、 ナイフなどで脅されるより、あのスプレーのほうが、よっぽど怖いと思う。 パーティーでの悪ふざけ以外には、なんの役にも立たないのだから、 あれこそ発売禁止にしたほうがよい製品だ。 ・・・・・・・・・ さて、今後も通信手段の発達と、その自由度によって、事件はいくらでも起き続けるだ ろう。しかし、個人情報の無断掲載などから生じた「ストーカー行為の被害者」や 「理不尽な事件」を例外にすれば、こうした事件や事故は次の格言によって集約される。 つまり「自業自得」「類は友を呼ぶ」である。 突然の発砲や、全く理不尽に薬物で殺される被害者は別としても、素性も認識できない 相手の言いなりになった結果、被害に会うとしたら、それは、半分は被害者の落ち度 である。伝言ダイヤルや、インターネットで安易に交際を開始するということは、 もしも「最悪に解釈すれば」だが、それは犯罪多発地帯の裏路地に、無防備の「丸腰」 で踏み込むのと同じ事であるからだ。 *********ただしインターネットには 致命的な『病理』がある 致命的な病理。それはインターネットをやっていると『人生つまらなくなる』という 事だ。なぜか??。それは便利さと娯楽とは、必ず反比例するからだ。 これまで人間が発達させてきたものは「より便利に」という事に尽きるだろう。 わざわざプロセスをどんどん面倒するのはゲームのルールぐらいのものである。 一般には「簡単で便利」はすべての「商品」や「科学」の目指すことだ。 だが、それを手にした時、人間は快楽を発生させる基盤を失うのである。 苦労の中には全くムダな苦労も多くある。しかし『有益な苦労』というものもある。 ただし、この『有益な苦労』とは、それが商業的に有益かどうかではなく、 あなた個人の人生の『楽しみに貢献するか否か』という点での有益性の事である。 そして、この『有益な苦労』を支えるものは、実は適度な「不便さ」なのだ。 たとえば何かを探して買おうとしても、それがどこにも売ってなければ自分で作る。 すると、そこには作る楽しみと、作った満足感が発生する。 また書籍との出会いというものも面白いもので、足を運んだ方が思いがけずに、良い本 に出会ったりするものだ。一方で、便利な通販などで買うと、立ち読みが出来ないので、 内容をある程度知っていなければ、かえって無駄が多い。また書店へ足を運ぶプロセス の中にも、その途中や帰路でいろいろな出来事がある。 しかし、おうおうにして、人間は、 自分が出来る限り『動かないままで』欲しいものを手にしようとして、 通信手段や情報の入手手段、交通手段、物流手段を発達させた。 そして、これは世間でもよく言われることだが、インターネットの場合の最も大きな 『リスク』とは、それがあまりにも実体験を伴わないという点だ。 モラルの事が言われるが、人間のモラルそのものは、さほど低下しているわけではない。 そうではなく、このサイトの『殺人について考える空間』の章で述べるように、 離れた所から核兵器のボタンを押して人を何万人と殺すのと、自分の手の力でたった 一人の相手を殺すのでは、その体験が全く異なってしまうという事が問題なのだ。 つまり、スイッチの操作だけでは、誰も罪悪感など持ちようがないのである。 私は別に、進んで犯罪をしろとは言わないが、私はある人から人生の鉄則を学んだ。 それは『人生における最大の楽しみとは、危ない橋を渡ることである』と。 この危ない橋とは、別に犯罪の事ではない。あらゆる領域で、 自分にとって危険であったり、冒険的である領域を歩け、という事だ。 この原則にのっとれば、仮に犯罪をするとしても、それは自分自身も危険であればこそ その犯罪には「犯罪道」という『外道』が成立する。ところがスイッチひとつで不法な 物が入手できたりするのでは、違法行為それ自体と向き合う楽しみすらも失ってしまう。 もしもそこに恐怖感や罪悪感がなかったら、それは人生の娯楽にはなり得ない。 「危ない、危険、痛い、ほんとうにやばい」。これこそが面白いのである。 インターネットのような、まるで安全で無責任な所から発言したり、何の気合も思慮も ない会話をする暇があったら、5感を総動員した『対話』を生身の人間とするか、 もしくは、紙を使った文通でもした方が良い。 ただし世の中の多くの者たちは実際に会うと外見で人を判断する。それよりも何よりも、 口はきけても、人の話をきけない者があまりにも多いので手紙の方がよい場合がある。 ・・・・・・・・ さて、私とって、インターネットに対して、一番危機感を感じるのは、 ディスプレイに向かってスイッチを押しているだけでは、やがて、何ひとつも実感とい うものが出来ない精神病が増えることだ。 便利さと引き換えに、何一つも恐怖もない、ということは、 逆に言えば、何ひとつも生きた実感のある楽しみを味わえないという事になる。 つまり、人生楽しみたければ、「ワクワクする事」ではなく、 自分が『ヒヤヒヤするような事』をしろという事だ。 だから、どうせ、犯罪をやるならば、罪悪感も恐怖感も、失敗の可能性も十分にある ような一種『命懸け』のものであり、しかも、その背景にも、ある程度の自分の哲学や ポリシーがあるならば、あなたは覚悟して犯罪をする事になり、とうぜんその結果にも、 多大な後悔か・・・さもなくば逆に大きな『満足感』が伴うはずだ。 それらはあなたの『経験』というものにちゃんと消化される。 だから、格闘シミュレーションのゲームを2時間する暇があったら、 実際の格闘技の道場へ行って、殴ったり蹴られたほうが遥かにいい。 ・・・・・・・・・ 「不便であり、手間がかかる事」は、スピードを求められる分野では敬遠されるが、 娯楽の世界では、逆にこの不便さと手間こそが、人生の楽しみ方の基本だ。 Eメールは、単にスイッチで送る。 しかし手紙は、プリントアウトし、宛て名を書き、相手に応じて切手を選び、封筒や 葉書を選ぶ楽しみがある。また、到着までの時間差というものが自分と相手にとっても、 物事を落ち着いて深く思慮するための時間になる。 スイッチひとつでは実現できないプロセスにはいろいろな楽しみの要素がある。 そして、デジタル技術が果たした一番の功績は「スピード処理」だが、 それが作り出した最大の功罪は、「スロー処理」であるが故に生まれてくる、 さまざまな『障害物の中にある創造の楽しみ』を奪った事だ。 余談だが、私は音楽の世界がデジタル技術を大きく取り込んだ1990年ごろから、 音楽を全く聴かなくなった。作る側の技術面では、シンセサイザーやエフェクターが デジタルになったころから、あまりにも手軽に編集が出来るために、気の抜けたような 曲が増え始めたからだ。 そしてもうひとつは記録媒体がデジタル信号になった事により、音質がクリアーである その反面、音が身体の奥にまで響かなくなった事が原因だ。 そしてデジタル信号は、どこか半物質的だ。確かに物質の領域のものではあるが、 それは物体の領域のものではない。つまり『物質と物体』は違う。 『物質と物体の違い』とは、例えば、アニメ好きの人達にこう言えば分かるだろう。 パソコンのディスプレイに浮かぶ魔法陣を使って魔術を行う者がいたとする。 それは確かにパソコンの中の電気信号が生み出した物質的な映像だ。 しかし、一方で、荒れた地面をならし、植物の染料や宝石の粉を使って自分で魔法陣を 描き、香を焚き、何日も前から身体を調整し、呪文を唱える者がいたとする。 さて、どちらの魔法陣に質の良い魔力が宿るか? つまりパソコンには、いろいろな事が出来るその機能の「一部に」映像のディスプレイ がある。一方で、ある物体それ自体が、完結したひとつだけの目的を持つものがある。 楽器のたとえで言うならば、シンセザイザーは、ほとんど、どんな音でも出す。 しかし、生のギターという物体は、ただ、それだけの機能の中に完結している。 こうした『物体』の、そのエネルギーには、独特の密度の高さがある。 一方で、「物質」あるいは磁気信号は、あまりにも可塑的だ。 「物質」と『物体』の違いとは、つまり、その固体のアウトラインの明確さと安定性の 違いだ。「物質」は可塑的で用途が多様。『物体』は安定していて、用途が限られる。 紙に書かれた文字や、印刷された文字は、0.5秒で消すことは出来ない。 それを消すためには、燃やすなり、消しゴムを使うなり、破るなりの行為が必要になる。 それは固有の物体として存在している。しかし、デジタル信号の記録は、 スイッチひとつ、あるいは、たった一つの磁石で破損してしまう。もしも自殺がいけないとしたら・・・ さて話を自殺の話題に戻そう。 まず、皆さんに、自殺の『反対語』とは何か?について考えて戴きたい。 自殺と全くの『対極にある行為』とは一体何か? 自殺の反対語、「そんなものは他殺に決まっている」と思うのは間違いである。 自殺とは、「自分で自分の命を断つ」。ならばその全く反対の行為とは、 「他人が他人の命を救うこと」・・・・すなわち医療、医学の事だ。 医療と自殺は全く正反対に見える。だが、ここには明確な共通点がある。 それは「生命操作」をしているという共通点である。 自殺も医療も、どちらも正常な自然界では、『全く不自然』な行為だという点だ。 自然界に人間のような動機で自殺をする生物はいない。しかし、同様に、自然界には 人間のような動機で他の生物に医療行為を行う生物も存在しない。 鳥がカバの歯カスを取っていても、それは鳥の餌になるからであって、 別にその鳥がカバの専属の歯科医であるはずもないのだから。 自殺を、自然が与えた命を「勝手に」殺す事だからよくない、というのであれば、 一切の医療行為とは、自然が与えた病気(休息命令)を「勝手に」変更しているという 矛盾に陥るのだ。 一部の賢明な医師たちは、現在地球上にある多くの病気が、医療が原因で発生している 病気であると感じている。つまり、内科であれ精神科であれ、これだけ多様な薬や療法 があっても、それは一つの病気を対処療法的に押さえるだけで、それによって別の病状 を発生させてしまう。 抗生物質を与えれば与えるほど、ウィルスはどんどんと毎年強くなり、 抗生物質の効き目がない『多剤耐性菌』としてモデルチェンジを続ける事になる。 仮にもしも、自殺は「勝手な生命操作をしているから悪い」というのであれば、 『医療行為、延命行為も、勝手な生命操作だから悪い』。そういう事になるのだ。 しかし、この善悪の基準を、仮に「生きることはよく、死ぬことは悪い」とか、 「助ける事は良くて、殺すことは悪い」などと単純に定義しようとすると、 ここにも、実に多く矛盾が生じてしまうのである。 そうした善悪の常識の矛盾を明るみに出すこともこのサイトの目的のひとつである。 それでは次の章で、自殺について皆さんから寄せられたメールを紹介する http://www.mumyouan.com/d/js-i.html = 目次に戻る
この空間は 1997/08/15 に生まれました。