自殺の自由化
(サンプルテキスト)




監修・執筆:鈴木方斬(すずきほうざん)

空間開設者:黒間玄元(くろまのりゆき)
ハンドルネーム:bv


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第二章 自殺について考える空間




◎ 自殺観のまとめ ◎  BY:鈴木方斬(HP監修者) 結論から言えば、他人の自殺を止める「普遍的で正当な理由」などは何もない。 また現に、自分と特別な利害関係のない赤の他人の自殺などは誰も止めはしない。 そして、そもそも自殺を止める権利など誰にもない。 また極論のように思われがちだが、 「気軽な自殺」のための環境設定をする事、すなわち「自殺所」の建設も、 決して反社会的な行為や社会崩壊を導くとは言えない。 くどくどと言うまでもないことだが、既に実際問題として、現在の社会でも、 本人が本気で自殺をしようと思えば、それは実に簡単な事である。 遺書を書くなり、うまく行方不明になるなりして、 周囲に迷惑をかけない自殺も意志と準備さえすれば簡単に出来るのであるから、 すでに誰もが「自由な自殺」の権利を持っていると言える。 だから、自分が自殺が出来ないことを社会のせいにする事もまた矛盾である。 本気で自殺を望む人間は、別に誰かが自殺しろなどと言わなくとも自殺するし、 また、逆に誰がどう止めても自殺する。 また、自分の自殺について、他人から、いちいち何かを言われたくなければ、 周囲に自殺の意志など一切ほのめかさずに、黙って人知れず自殺すればいいのである。 ・・・・・・・・・ このような中においては、私が感じた唯一の、ささやかな不快感と言えるものは、 人々が「誰かが自殺した」という話を聞くと、なんの思慮もなく、反射的かつ感情的に それを、「悪いこと」のように思い、顔をしかめたり、心にもなく「同情」をしたり、 あるいは「軽蔑」をする事ぐらいである。 ・・・・・・・・・ さて、ここで試しに、あなたにイメージして欲しいことがある。 万人の自殺の為に設備を各都道府県が設置しており、 いつでも誰でも、年齢性別、そして自殺の理由のいかんにかかわらず、 「自由に自殺を出来る設備」が国中にあったとしよう。 遺体も、本人の意志で献体や移植に利用されたり、あるいは自然葬などに出来るという その状況を、どうか頭にはっきりと描いて戴きたい。 はたして、この社会状況を「病的」であると考えるか、 それとも「健全な社会」であると考えるべきかを、その両方の側面から検討し、 時には現実に即して、また時には現実から飛躍した理想論で哲学をして戴きたい。 ・・・・・・・・・ 手軽に自殺が出来る環境が整う事=イコール=自殺の増加=イコール=種の保存の危機、 などと単純な事を考える者も少数はいるかもしれない。 しかし、たとえば、明日から「自殺所」という設備があなたの町に出来たからといって、 あなたは、すぐさま自殺をしに行くだろうか?。理由が揃わなければ行くまい。 つまり、自殺施設があろうがなかろうが、 自殺をする者は今でもするし、しないものは、どんな施設があっても自殺しない。 どう現実的に考えても、たとえ「自殺所」なるものが出来たところで、 たいした社会混乱は何も起きないのである。 せいぜい、その賛否、是非についての論争が宗教家や社会学者の間で、 半年ほど続くだけの事である。 自殺の手続きや手段、そして後始末が簡単で機械的になる事は、 文字通り今よりは自殺が「気軽なもの」になるために、 自殺件数が「若干増える」という事は予測されるだろう。 しかし人間には、もともと生存欲が「最優先プログラム」として植え込まれているので あるから、たとえいくら自由に死ねるようになったからといって、 自殺者が(少々増加はしても)『莫大に増大する』という事は、 現実問題としては考えられない。 また、社会的「秩序」という点では、自殺を自由に意志して死ぬ者は勝手に死に、 生きたい者は勝手に生きるのであるから、それはまさに人類が、 「何か事あるごとに口にしてきた人権」や「自由」そのものの実現でもあると言えるし、 自殺による人口削減は個人の自由意志による理想的な『自然淘汰』ですらある。 自殺が「気軽なもの」になるとき、 人は「誰かの命令で生きたり」、「いやいやながらも誰かの為に生きている」わけでは なくなるのであり、自分の生の意味を、もはや誰にも責任転換は出来ないのである。 生きていることの意味を他人や社会や時には自然や神のせいにしたり、 死んではいけない事の理由に、他人や社会や自然や神を持ち出すこともなくなる。 生も死もまさに自由に選択すればいいのである。 したがって、気軽に自殺できるという状況下には、ひとつの利点がある。 誰もが常に「自分が何のためにこれから先の人生を生きるのか?」、 「生きる意味はあるのか?」「死ぬほうが楽ではないか?」といった問題が、 現在よりも、よりくっきりと毎日のあなたの生活の中で頻繁に浮上することになり、 これが、現代人に足りないと言われる「自主的思考力」の実現にも貢献するのである。

総論の結論 自殺志願者の背中を、押す事もなく、 引き留めることもない理想的社会。 このような点から、結局このホームページで行われたことと言えば、 自殺を「悪い」とする「歪んだ一般認識」に対する、ささやかな反論であった。 しかし、現実問題としては、自分と利害関係のない他人の自殺などは、 誰も関心がないのである。まさに今も既に自殺は自由な人権なのである。 ********* こうした「自殺所」の必要性に対する意見や提案が、 自殺者の「背中を押す」ような事をしているとは私は思わないし、そのつもりもない。 「背中を押すつもりはないが、止めるつもりもない」と言うわけである。 無理に自殺を推進したり、自殺を手伝う事をすれば当然問題が生まれるだろう。 しかし、「無理にひき止める」のもまた確実に問題が生まれてくるのである。 一般には自殺を止める傾向の意見ばかりが多すぎる。 だから、自殺志願者に対しては、押すこともなく、止めることもない社会になり、 なおかつ「自殺所が出来ればよいのだが」と飛躍した願いを持ちつつ、 このホームページを設定したわけである。 しかし「自殺所があればいいのに」という願いが、決して飛躍した願いでないことは、 行き場のない老人たちや、不治や重病の病人たち、あるいは人生を燃え尽きた人々が 「早く楽に死にたい」と、口癖のようにつぶやく「実際の現場」にいれば、 誰もが深く感じる事になるのである。 まだ『死期が来ない』と言うだけの理由で、 「そんな事を言っていないで生きるのよ。元気を出して!」などと、 彼らの尻を叩きながら彼らを生かそうとする者がいるが、 一体彼らは、誰様のつもりなのであろうか??。 本来自然に来るべき人の死期を来ないよにしてしまい、 医学や延命してしまう事自体からして、 はたして「自然」または「正しい運命」と言えるのだろうか??。 ・・・・・・・・・ 余談だが、私に言わせれば、 「自殺容認は社会秩序の崩壊」だの、「自殺容認は人類の存続の危機」というわかった ような大義名分を振りかざして、自殺というものに、めくじらを立てる者たちは、 「環境ホルモン」によると言われている男の『精子激減問題』や、『生殖機能の退化』 の問題、あるいは『環境問題』にでも没頭していたほうがよいと思われる。 なにしろ自殺による人口減少とは、最も『自然』かつ有効な、 『環境問題の解決法』のひとつである言えるからだ。 数々の産業廃棄物問題も、人口さえ少しでも減れば、多少の時間稼ぎが出来るのである。 科学による処理能力が環境問題に追いつくという「不毛で非現実的な理想」をボケーと 待つよりも、まず環境問題の根源である『消費者の人口』が大きく減ってから、 その間に、ゆっくりと廃棄物の処理法や、エネルギー問題や、食料問題を考えればいい のではあるまいか。 しかし、それも嫌であると言うならば法的に『産児制限』でもするほうが、 よほど自然環境と生態系の保全に役立つのではあるまいか。

自殺願望の底辺に横たわる 『生への疑問』 ところでEO氏は、ある自殺願望が強かった知人への個人的な手紙の中で、 次のように語っていた。 ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎ 「我々が毎日の生計を立てることに、ただただ追われているという、 この現実の無気力な生活の中で ほんのかすかに抱く、漠然とした『生への疑問』、 そして真夜中の、孤独の静寂の中で感じる『漠然とした空しさ』。 これら、ごく当たり前の不安から、ほんの、たったの2、3歩のところに、 『全宇宙の問題』が横たわっているものなのだよ。 だから、存在の根底疑問に向かう事は、 なんら哲学的な疑問でもなく、異常な問題でもない。 それは、いつでも我々の『すぐ横』にいるのだ。 それは遠い宇宙の果てにあるわけではない。 究極の問いへの発端となる引き金は、神学や経典の中ではなく、 まさに日常の中にこそ見い出される。 ニーチェが言ったように、『重大問題は常に路上にある』のである。 ただ、それがあまりにも我々の近くに毎日毎日存在しており、 そして自己の内部の底流に常にあるために、 あなたたちは、意識的にであれ、無意識的にであれ、 必死にこの自明で正当な疑問から目を避けようと動き回り、 時にはこの疑問に符合するような、その場しのぎの価値観で自己満足しようとしている。 あるいは人々は、単なる肉体と感情の習慣として、 しかたなく毎日を惰性で生きているといった具合なのである。 しかし、そこから、次の2、3歩を踏み出す人達も、実は沢山存在している。 ただ、彼らのほとんどは、ある種の犯罪者として留置されたか、 あるいは精神病院に今もいるだろう。 彼らは決して寺や宗教組織になどいない。 だからこそ、それはある意味で、もっとも『本質的で純粋な出家に似た道』、 すなわち『社会からのドロップアウト』の道をたどったのである。 それにくらべれば、大寺院の僧侶やら宗教家なんぞは、俗人とどこも変わりはしない」 ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎ この問題に関しては、例えばEO氏が『反逆の宇宙』(無明庵発行)の283Pから290P で述べているように、ごく一般的な社会人であっても、失業や老後の大量の暇な時間な どの『人生のインターバル時期』には、この根本疑問の渦の中に、 いとも容易に落ち込む可能性があるものである。 具体的な例をあげれば、 現在、日本では失業率が既に3%を越え、出生率の低下や高齢化社会によって、 今後ますます社会の「経済活動」から「落ちこぼれる」という事が加速されるだろう。 さて、リストラや倒産にあい、呆然とするサラリーマンが、ここにいたとしよう。 彼には、特に借金もなく、また扶養すべき家族もいないとしよう。 だが、彼の心にはこんな疑問が起きても不思議ではない。 「一体、私は今まで何のために生きてきたのか?。 そしてこれから何の為に生きるのだろう?」 多くの者は、とにかく生計を立てて、生きる「方法」を探す事を、何よりも優先するか もしれない。しかし、今日のように、終身雇用制度も崩壊し、かといって、 「本当の意味での純粋な実力社会」にも、いまだなり得ていない社会である。 つまり嘘や不正によって、のうのうと儲けられるという矛盾した社会なのだ。 こうした既製の価値観が崩壊している社会では、 「そもそも、そうやって何かの人生の目標を自分で立ててまで、 どうして生き続けなければならないのか??」 という疑問も、人々の表層意識の噴火口で、爆発寸前に来ていることだろう。 それは、裏返せば、 「自分一人など死んで何も問題はない、誰も問題にしない」 という事実認識となり、 さらには、ある種の「心優しい妄想」を持つ人達は、 「自分たった一人がただ食って排泄し、日々の生活を何年と繰り返すだけで、 それによって膨大な迷惑が自然界にかかるのだ」という現実を直視し、 さらに、その『迷惑の度合い』を具体的に数値で算出でもすれば、 「私のような無能な人間は、むしろ生きていない方が自然のためにもよい」 という結論に至ることもあるだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ また、毎日いじめに会う子供にとっては、 「数年先に大学や社会へ行けば、いじめから解放される」などという、 そんな未来が重要なのではなく、現に、毎日毎日学校へ行って、いじめに会い、 毎日毎日、密度の高い『苦』を味わう事が問題なのである。 それでも「そんな事は、あと3年我慢しなさい」と親たちは言うつもりなのだろうか?。 だいたい現代の日本では、言われた通りに、必死に我慢して、有名大学へ行って、 そしてなんとかして入ったその企業が、いとも簡単に倒産するのである。 日本社会でここ何十年も通用してきた「勉強すれば、あんたの未来は安泰する」という、 『お題目』が説得力を持つような時代ではないのである。 第一、多くの子供たちは、そんな事を言っていた当の自分の親が、あっけなくリストラ にあって、路頭に迷い、ローンに追われるのを見れば、「受験と就職の為に勉強する事」 の無意味さを、まざまざと親の中に見るのであるから。 こうなると、親が子供に言えること、 または社会常識というものが個人に対して言える事とは、 「勝手に、それぞれが好きな事をして人生を送ればいいのさ」 「その中で、気をつけるのは、せいぜい周りに迷惑はかけない事だな」 ・・・と、たったこれだけの、実に幼稚な人生観しか残ってはいないのだ。 なんと400万年もかかって、 たったこれだけの人生観とは、一体人間とは何だったのだろうか?? しかし、人間という生き物の中には、 「好きなことがどこにも見い出せない者」がいる。 「自分の存在自体が迷惑だと悲観する(事実を直視している)者」がいる。 すると、やる気がないことや、生きる気がないことを社会は責め、 そういった人達に、「明るくしろ、元気を出せ、生きろ」と言うものだが、 社会、あるいは人類そのものの実態とは、 我々が、懸命に快活に生きようと思うようになったり、 社会や愛や宗教と称する何かに貢献しようと思ったり、 そうした活力や希望が、生きている我々全員にくまなく常に普遍的に見い出されるよう な場所では決してない事は言うまでもない。 しかも、その原因は社会システムのせいというよりも、 そうした社会システムを作り出す『人間それ自体の精神構造』に端を発していることは、 EOイズムに馴染みのある方にとっては、言うまでもない。 だから、地球上では、いつの世の中でも、 「住みやすい世界を作ろう」と言いながら、 発展したのは、怠け者になれるための科学だけであり、 また、いつの時代にも「こういう事は2度と起こしてはならない」と言いながら、 何度も同じことを引き起こし、 いつの時代にでも「根本解決」と称して理想論が語られたものの、 根本的な問題が解決した事はほとんどない。 また、それならば『自然界法則』や、『動植物の行為』が『常に正しい指針になるか?』 と言えば、それもまた『かなり怪しいものである』と言えよう。 例えば、リスの中にはメスが別のオスと『不倫』をする性質の種もあり、 ウミガメの中には、なんと性交渉の真っ最中のペアに割り込んで、人間まがいの凶悪な 暴行で、『メスの横取り』をするものもいるし、食物の『略奪』や『横取り』、そして さして縄張り争いをする意味もないような実につまらぬ闘争で殺し合う動物もいる。 また特に人間に飼われた動物は、もはや人間の性質に汚染されるし、 自然に存在する生き物でも、下手に思慮のない動物愛護団体などの思い入れが介入した 種の場合も、その調和は狂ってゆく。 ところが、そうした人間の精神構造や動物の本能構造のソフトウエアとハードウエアは、 そもそも、『人間が造ったわけではない』のだ。 ・・・・・・・・・ さて、たとえば、住む家もなく、職もなく、寒い冬の路上で一人の男は、 「私はいったい、これからのために、働いて、そして、 これから死ぬまでの時間をなぜ生きねばならないのだろう?。 それは、本当に必要なのか?、それとも不要なことではあるまいか?」 と、考えるわけであり、同時に彼は、路上の片隅にうずくまりながら、 町を通り行く人々を見ても思うだろう。 いや、カラスや雀や雑草といった自然を見てさえもその疑問は大きくなるだろう。 そのあげくに 「この私、いや人間そのもの、そして人類そのもの、 自然も地球も宇宙も、一体、本当に必要なのだろうか?」と、 彼がその考えをつき進めることは、実に簡単なことである。 ・・・・・・・・・ これゆえに、EO師が著書『廃墟のブッダたち(まんだらけ出版部発行)』の中で、 はっきりと言い切ったように、 『いとも簡単に、自由に自分の死を選択でき、 しかも自殺が社会的にも、簡単に実行可能な環境こそが、 一人の人間の中に、本当の知性による根本疑問を浮上させる』 と言えるのである。 こうしたEOの極論とも言える論理は、そこには完璧に整合性があり、かつ、それは、 「異常な疑問」でもなく、「次元の高い疑問」でもないと私は認識している。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このように、自殺の問題、そして自殺の動機は、表面的には具体的な世俗的な原因があ っても、よくよくつきつめれば、結局は『自分や世界の生死の問題にいきつく』のであ る。 『自分は、どうして自殺しないのか?』という問いと、 『何のために生きなければならないのか?』という問いは、 切り離すことは困難であり、あらゆる自殺や殺人は、どこかその底流に、 常にこの問題が存在していると考えている。 たとえば、自殺の是非についてはホームページの掲示板に参加されたほとんどの方々は 誰も自殺を「否」とは本心から言う根拠は持ち得なかったわけであるし、 むしろ多くの人たちは『自殺は個人の自由』として認める傾向が強いようである。 死にたいという意志を「人権」として認めるべきだとの意見もEO師の著作には多い。 また、現在の社会の価値観や制度の中では、門前払いの意見かもしれないが、 『自殺の為の専用施設を作るべきだ』との、具体案すらもメールで寄せられた。 今は、こうした自殺容認の意見に対して嫌悪を持つ人々や世論やマスコミさえも、 このまま、無意味で無駄な、 「経済維持」というただそれだけのための「生産と消費の悪循環」が延々と続き、 リストラが続き、環境破壊が進行し、老人が増え、そして若者の生の無意味さと虚無感 が増えれば、あと数年もすれば、誰もが、 『自分がまさにその自殺を考えざるを得ない状況』になる可能性が大きいのである。 宗教信仰や世紀末思想やカルト教団などとは全く無縁な般人の中にも今現在、 『死という、終わりへのあこがれ』の衝動が浸透しつつある。 だから、その自殺現象の現状調査と、読者の思考を刺激するために掲載した、 「開設のきっかけとなった文書」=(ある青年が自殺を決意した理由)に関しては、 その論法も、問題提起も、十分に世俗的であり、十分に世間的であり、 完全に一般人の『一般認識』の範囲を論議の対象としているものと思われる。 決して、一哲学者の『飛躍した極論の人類観』として、 片付けることは出来ないのである。 1997  12/27  無明庵  鈴木方斬 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なお、このテキストの、 (ある青年が自殺を決意した理由)を 御参照ください。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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この空間は 1997/08/15 に生まれました。