第三章 殺人について考える空間 殺人に善悪はない プロローグ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 殺人や殺戮とは、それを善悪の問題として 是非の白黒をつけるのではなく、 「自然現象」のひとつとして観察して、 考察すべきである。*********BY:方斬 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 結論から言えば、私は殺人や殺戮が「悪い」とは思わない。 しかし、また、それを「良い」とも思わない。 「良い」と言うつもりはないが、しかし、 殺人は悪いと「言い切る」のだけには私は抵抗がある。 私は殺人肯定派でもないし、殺人を趣味として好む性質でもないが、 「殺人を何の思慮もなく、ただ否定する事」だけは否定するつもりである。 つまり、殺人行為を、人間という生き物の自由意志の産物か、 はたまた、人間という動物としての属性(性)や本能の問題として扱うつもりである。 ・・・・・・・・・ そして、もしも殺人や殺戮の原因を、本能や属性の問題であると仮定した場合には、 そもそも、その是非を論じることは無意味になると思われる。 なぜならば、本能は我々が自らの意志で自分の中に作り上げた衝動ではないからだ。 殺人の問題に関しては、私はそれを単細胞的に良いとか悪いとかの問題で仕分けするの ではなく、人間は歴史の中で、それぞれのケースで、いろいろな理由によって、 数限り無く殺人と殺戮、すなわち「殺し」を行って来たという『事実』だけを認める事 に留め、それ以上の「理想論」などには到達しようと思ってはいない。 それに、そもそも殺人を悪として「断定する」事には、 もともと、いろいろな無理があるものだ。 たとえば、人が人を殺す事を「悪い」と言う一方では、 人が人間以外の生物を殺すことは悪いとは言われない。 むしろそれは、「生きるためには当たり前の事である」とか、 人間の保安上の問題として「しかたない」と言い捨てられる。 また、殺人は悪いのだと言う一方で、日常目にする多くの娯楽番組やサスペンスドラマ、 アクションシーン、そしてテレビゲームが、殺人という題材を好んで使っているかを見 ればよいだろう。 たとえフィクションとは言え、殺人はまぎれもなく、物語りを作り出す際に人間が好ん で使う素材なのである。 そして、そこではなんと悪人が善人に殺されて死ぬ事に観客は拍手を送るのである。 これだけを見ても、殺人それ自体を、実は誰も嫌悪はしておらず、 誰かが殺されるのは良く、誰かが殺されるのは悪いという差別があるのである。 ・・・・・・・・・ 経済競争や、スポーツや、テレビゲームも、もともと「ゲーム」というものは、 ゲーマーのサバイバル行為なのであるから、 それはどうしても「戦う」という状況設定を生み出してしまう。 そして殺人というものは、その闘争の果てにあるものである。 そこで、ゲームの世界ではなく現実の社会に場所を変えると、社会は、 戦うという「ゲーム自体」は許すが、殺人は「ルール違反」として扱っているようだ。 すなわち、我々は、我々の意識が進化した結果によってではなく、 「ルール違反だから」という理由で殺人を悪とする習慣に親しんでいるのである。 ところがこの平和社会のルールも、いったん国が戦争になれば、いきなり逆転して、 相手国の兵士を殺したり、投獄したりすることこそが優先されるという「ルール変更」 が起きるという矛盾をはらんでいる。 ・・・・・・・・・ なお、本論は私の個人的な「雑感」であって論文ではないので、 話題の展開は理路整然とはしていない。 ただ、ここでは、「頭ごなしに、殺人を悪とする事の矛盾」について、 思いついた順に書き連ねてみただけである。 ・・・・・・・・・ 子供たちから「どうして、殺人はいけないの?」と親が質問されたとき、 「そんな事は当たり前です」では答えにはなっていない。 そんな答え方をしたら、子供は納得しないどころか、反感を持つだろう。 子供たちは「だってテレビでやっているじゃない」と言うだろう。 しかし、それはテレビやビデオのせいですらないのだ。 なぜならば、ドラマ以前に原作というものがあるからだ。 殺人を小説の題材や一部として描くということは、 そもそも、あらゆる種類の冒険小説、探偵小説、恋愛小説において容認されており、 そして何よりも殺戮とは、歴史に刻まれた人類の足跡そのものであるからだ。 殺人という言葉の表面を見ると、殺される側の「苦」が常に反射的に連想される。 しかし殺人それ自体が悪い事なのか、そうではなく「苦しむ事」が悪いのかという、 こうした本質的な問題についても、人類は未だに何も解決してはいない。 その代表的な課題のひとつが、安楽死や、尊厳死や、自殺の自由である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ただし、「善悪基準とは結局は『生存に有利か不利か』のみで決定されている」という 哲学的エッセイを書いたEO(エオ)という日本人がいる。 彼の文書は『死心伝』というメニューに資料として掲載したのでご参照戴きたい。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆◆◆◆殺人と殺戮に関する哲学的雑感◆◆◆◆
はじめに さて、私が殺人を哲学的に考察してみたいと思ったきっかけは、いくつかある。 1/まず、ある青年がTVのトーク番組で「なぜ殺人はいけないのか」という素朴な 疑問を投げかけた事。そして、それに対する周囲の反応があまりにも幼稚なほど感情的 なものであり、論理性に全く欠けていたこと。 2/神戸の幼児殺害事件の動機が、大人社会によくある死活問題や「利害関係」による、 「駆け引き」の要素がなく、また少年犯罪にありがちな「ムカついたから」という衝動 的な殺人でもなく、また2人の被害者に対する個人的憎悪による殺人からでもない事。 すなわち、彼独自の人間観や世界観から、彼の知の欲望を満足させようとして殺人に至 った可能性が若干あり、 また自分の存在を社会的に消し去りたいという自滅的な意図から、殺人に及んだ可能性 もある。 また、彼は社会を恨んでいるという次元よりも、 もう少し広い範囲における人間存在それ自体への疑問の痕跡がうかがえる。 従って、私個人としては、少年Aを病的思考構造の殺人マニアであるという単純な枠の 中に分類して片付ける事には納得がいかなかった。そこで、あらためて、 殺人という人間の行為の原因を再度考察してみたくなったのである。 3/その昔『デッドゾーン』という名作の映画があった。SF・ホラーのカテゴリーで 今もレンタルビデオショップにあるはずであるから興味があれば、ぜひご覧戴きたい。 物語りは、ある事を機に、主人公にサイコメトリー能力が芽生える事から始まる。 すなわち他人の手に触れると、その人間の未来が見えるようになったのだった。 そんな彼が、ある時偶然に、近未来に大統領になるであろう男の手に触れた。 するとその瞬間、その男が核ミサイルの発射ボタンを押しているヴィジョンを見る事に なった。 そこで主人公は近い将来人類を破滅してしまう独裁者となる、その「一人の男を殺す」 ことで人類全体の未来を救うべきか、 それとも殺人とは「無条件に普遍的に悪」なのか??という問題で悩み抜く。 そして、彼は結局、選挙の演壇に立っているその男を狙撃する事を決意し、その実行へ と至る。結末は、ビデオを借りて見て戴きたい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆いくら文化的になっても 原型は弱肉強食の社会である 殺人や殺戮というとやっきになって、その行為を社会的に叩くというのは、ごく近代の 法治国家(ただし法治国家が知性的国家である事ではない)における話である。 江戸時代までは日本でも庶民が「殺せ殺せ」と叫ぶ中で、罪人の処刑が行われたわけで あるし、イスラム教圏では、現在も公開死刑は行われているようだ。 「鬼畜米英」を叫んでいた戦前の日本の話を現代で持ち出す事には、異議を唱える者も 多いとは思うが、私が戦前の常識や人類の戦争と殺人の長い経歴を持ち出す大きな理由 は、人間がはたして、たかだかこの半世紀の間に本質的な精神的成長をした結果として 「殺人は悪い」という認識に到達したかどうかは、かなり疑問であるからである。 わかりやすい例をあげてみよう。 「力によっては何も解決しない」と叫ぶヒューマニストがいるかもしれない。 しかしヒトラーを屈服させたのは、あきらかに連合軍の『武力制圧』であり、 また湾岸戦争を終結させたのも、武力制圧である。 そして、武力とはもともと「殺すぞ」という威圧であり、 それは国連が認めた『脅迫罪』であると言っても過言ではない。 脅迫というのは、一般人が行えば、その理由のいかんにかかわらず起訴される。 ところが、「従わないのならば、武力をもって攻め込むぞ」というまぎれもない脅迫は、 公然と容認されているのである。 そして、愛によって戦争が終結したためしはない。 また、愛によって、何がが解決した事もほとんどなく、 常に裁判という名の論争の『戦場』で、人類の多くの問題は解決をはかられてきたので ある。 だから、いかに文化的社会なる形に集団の生活形態が変化したところで、 少年Aが言うように、この世の中では弱肉強食の原則が、 今も形を変えてあらゆる社会の中で生きている。 そして常に、『武力的な勝者』たちが、 「正義が勝ったのだ。神は正義に味方したのだ」と、叫ぶのが世の常である。 『るろうに剣心』というアニメの中で主人公がこんな事を言う。 「勝者が、必ずしも正しいとは、限らないのでござるよ」 しかしながら、この言葉にも疑問の余地がある。なぜならば、 「何をもってして」『正しい』と言うのか???という疑問には、 人類は未だ完璧な答えを出していないからである。 つまり、「何が正しいのか??」という疑問に、完璧な答えが出ていないということは、 これは裏返せば、 「殺人は正しくない」と主張する根底すらも、 決して確実な根拠となる支柱をもっていない事を意味する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆間接殺人と合法的殺人 また、刃物や銃や核兵器で、直接に他人を殺傷しなくとも、 人類という悪知恵を持った猿の集団の中では、 『間接殺人』は日常茶飯事である。 1/経済的、あるいは精神的に相手を自殺に追い込むという方法もあり、 2/薬害問題のように、当然予測出来た死を、意図的に放置するという方法もあり、 3/また、逆に治療という名のもとに、老人を使った新薬の実験によって、 本来ならばもっと長生き出来たはずの老人が短命で死んでゆく。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さらには、言うまでもないことだが、 殺人は、次の3つのケースでは、先進国ですらも「例外」として扱われる。 1/裁判の結果によっては正当防衛という名の殺人は認められている。 これゆえに、「最も文明的な国である」と自負するアメリカでは、 未だに銃規制すらも成立していない。 「もしもやられそうになったら、殺していいよ。あとの事は裁判で決着をつけな」と、 国自体が国民に言っているわけである。 2/死刑という名の殺人は認められている。 これには反論の余地はあるまい。またいくら仮に死刑が全面廃止されたところで、 治安上の基準だけで言えば良いことは何ひとつないし、留置所が混むだけだ。 私は個人的には、EO氏が『小さなブッダの大きなお世話』で述べていたように、 『公開死刑制度』の有効性を支援したいとすら思ってしまう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (EO著『小さなブッダの大きなお世話』36Pから42P参照。 また、『廃墟のブッダたち:外伝』の66Pから68Pでは、戦争に反対する資格は 人類にはないとの見解が示されているので、興味があれば参照のこと) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 3/戦争という名の殺人は認められている。 イスラム圏では神の名のもとの聖戦とすら言われる。もっともこれは、アイルランドを 見ればお解りのように、キリスト教圏同士ですらも全く同じことである。 それに愛を説くそのキリスト教徒たちが迫害したり、殺害したり、植民地化したりした 「彼らにとっての異端思想を持つ民族」そして「魔女に仕立て上げられた人々」や、 「先住民とその文化遺産」は、膨大な量になる事は言うまでもないことだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、ほんの半世紀前までは天皇陛下の為に命を投げ出し、敵を殺すを善しとしていた 日本国民も、『殺人の前科を持つ欧米』の文化思想の「おかげさま」で、 殺人や戦争は悪いのだと国民が「平均的に」思うようになった。 もっとも、単にそれだけではなく、もともと殺人事件は、 ある種の「動物本能としても嫌悪感」を伴うというのも大きな理由ではある。 というのも、殺人者に対する判決で、「社会不安を引き起こしたから」という言葉が 裁判所では「お題目」として、頻繁に言われるようだが、この場合の社会不安とは、 簡単に言ってしまえば、「もしも、犯人が捕まらなければ、 いずれ自分も被害にあうかもしれない」という恐怖感なのだろう。 このように、危険な動物の徘徊に対して持つ『恐怖感』から、 『犯人を隔離するか、処分してしまおう』とする意志は、動物としての本能からすれば、 当然と言えば当然の事だろう。 ようするに、「痛い目に会うのと、殺されるのは、まっぴら御免だ」という、 人類共通、あるいは全生物に共通の『本能』である。 (本能であるから、私はこれを『理性』とは呼ぶ気はない。)◆殺人を悪とする側の その言い分について さて、では試みに、動物的かつ文化的に「殺人を悪い」としている我々のその価値観を 今一度、冷静に分析してみようではないか。 1/もしも、あなたが自分の愛する者が殺されたら、 感情的に、その殺人者を嫌悪するのは実に簡単な事だ。 それには「なんの知性も必要ない」。 2/もしも、自分と利益関係にある者が誰かに殺されたら、 犯人を極悪人とそしるのは実に簡単だ。 これにも、「なんの知性も必要ない」。 3/そして、もしもTV報道で殺人者が捕まったのをあなたが見たら、 その者を悪人と言うのは、「なんの知性も必要ない」。 そして、ほとんどの人々やマスコミは、殺人行為が悪である理由として、 次の言葉を言う事だろう。 ・・・・・・・・・ 1/「法律だから、殺人が悪いのは、そんな事は当たり前だろう」 2/「もしも好き放題に人を殺したら、社会の秩序が保たれないだろう」 ・・・・・・・・・ 3/「何人も、他人の生きる権利を妨害してはならない」 4/「もしも自分が殺されるとしたらどうなのだ。殺される方が受ける苦痛というもの を、他人の身になって考えれば殺人は良くない」 5/「残された家族や知人の悲しみを考慮したら殺人は悪いことだ」 ・・・・・・・・・ 6/「法律以前の問題として、人間として殺人が良くないというのは良心の問題だ」 7/「命は大切なものだから、粗末にしてはいけない」 ・・・・・・・・・ これ以外にも、理由を思いついた方は、意見を寄せて戴きたいが、とりあえず、 この7つの一般論について考えてみよう。 あらかじめ結論から言えば、 実は、この7つの常識は、どれひとつとして、 「殺人は悪い」という絶対的基準には、なり得ないのだ。 1と2についての検証 1/「法律だから、殺人が悪いのは、そんな事は当たり前だろう」 2/「もしも好き放題に人を殺したら、社会の秩序が保たれないだろう」 法律というものは、その時代と国家、すなわち「時間と空間の位置」によって、 ころころと変わるものである。 法律とは、共存する集団が、自らの生命の維持にとって利益となるような、 {自分勝手な定め事を「多数決」によって決めただけのもの}である。 しかも、多数決で決めたというのも実際には正確ではない。 なぜならば、多数決すらも絶対的に優先されたためしもほとんどないからだ。 署名運動も無視され、選挙違反もあり、国民の声などどこにも届かない。 それに、さらには多数決が「正しい」という根拠もどこにもないからである。 多数決とは「普遍的に正しい」のではなく、 「多数の人間にとって同意できる方針である」という事に過ぎない。 この事に反論する前に、地動説が、いかなる扱いを受けたか思い出すがいい。 そして戦時中に戦争反対を唱えて投獄された非国民のレッテルを張られた人達の事を。 当時反戦を唱えた者は「社会の秩序を乱した者」として投獄されたのだから。 従って「法律や社会秩序をもってして殺人を悪とする」1と2の見解は完全に整合性に 欠けている。下品に言うと、この御意見に対しては「NOW GET OUT」。 (とっとと失せろ)なのである。 むろん、そうした法律が出来上がった歴史の背景には、文化、人間性、モラル、宗教観 などがあるのだろうが、それらについての疑問も、以下で展開してゆくことになろう。 3・4・5についての検証 3/「何人も、他人の生きる権利を妨害してはならない」 4/「もしも自分が殺されるとしたらどうなのだ。 殺される方が受ける苦痛というものを他人の身になって考えれば殺人は良くない」 5/「残された家族や知人の悲しみを考慮したら殺人は悪いことだ」 「権利」というものは、そもそも妨害されるものなのである。 いちいち権利などを叫ばねばならないという事自体が、 それが、もともと妨害される可能性のものである事を端的に表している。 というのも、当然の風習となっている物事には、人は権利など主張しないからだ。 すなわち「権利、権利」といちいち叫ぶこと自体が、その権利は危ういものであると言 っているようなものである。 同じように、「義務、義務」と叫ばれるものは、それは義務を怠る可能性が十分にある という事なのである。 だから、そもそも、「権利」だの「義務」というものの種類がやたらに増える社会ほど、 その社会は「病気なのだ」と思えば間違いない。 原住民の社会には、多少の掟こそあれ、「六法全書」などは存在しないのだから。 有史以前には、誰も生きる事を「権利」としてなどを叫んだりはしない。 そこには、単純な弱肉強食原理があり、死ねば悲しみ、生き残れば安心するという、 ただそれだけの事である。 いちいち、誰かや国家に権利を保証してもらったり、 果たすべき義務などを押し付けられてはいない。 すなわち、何もかもが、「自然」だったのである。 しかし、この自然を大きく歪めてしまったものは、共存や平和や愛という名の元に、 自然な物理的闘争を不自然に制圧した事や、自然死すべき命を延命した事、 そしてこうなってしまった最大の原因は、 人間が自然動物として生きるために、もともと従うべきではなかったような、 数々の『偽善的な宗教教義の感染』や『直感的本能による人口管理』能力の喪失、 そして下手に脳が発達した事からきた、食物の乱獲であろう。 こうした他民族との共存や、増え過ぎた仲間との共存問題に直面した人類は、 結局は「定め事」や、「罰則」によって秩序を作り出して解決しようとするのだが、 そのしわ寄せはすべて我々の無意識化に抑圧される。 だが、我々は、そもそも生まれたその時から、共存の知恵と同じぐらいに、 「闘争や殺戮の自然本能」を備えているものなのである。 ・・・・・・・・・ 人間が、身体的にあまりにも「弱い動物」として生まれた事と、 「暇を持て余した脳」によって発達した科学は、 やがて人類の生存領域を他の太陽系の惑星へと移動することは時間の問題であろう。 だが、この惑星で不幸だった人類が、どんな星の楽園へ行ったところで、 結局はその内面が不幸である事には変わりはないものなのである。 環境を変える事で人間の本質が変化したためしなど、ただの一度もないからだ。 ・・・・・・・・・ そしてまた、後でも詳しく述べるが、権利といっても、 人間は自分たちの生きる権利ばかりを主張する。 人間以外の生物の権利など何ひとつも認めてはいないのだ。 また、人間は「自分たち民族や自分たちの宗教の」生きる権利ばかり主張する。 時には、「自分の家族だけの」生きる権利を主張する。 最後には、「自分一人だけの」生きる権利を主張する。 すべての権利を平等に認めるなどという事は、もともと不可能なことなのだ。 もしもそれを行えば、その事自体が無秩序になってしまう。 だから、生きる権利とは、「そもそも妨害されて当然」なのである。 「ならば社会に殺人者が溢れるような状況をあなたは容認するのか??」という質問を、 もしも私が尋ねられたらば、その答えは明確に「YES」である。 本当に殺戮が不快であり、不幸と一人残らず実感するまでは、 「心底それが嫌になるまで」は、人類は殺人や殺戮を繰り返せばいいのである。 ・・・・・・・・・ このように言うと、ある種の者たち、ある世代の者たちは、 「日本は終戦の時には誰もが、もう戦争は嫌だと感じた事がある」と主張するだろう。 しかし、日本国民は決して「殺戮は、もうこりごりだ」と実感したのではない。 そうではなく彼らは『負け戦』にこりごりしたにすぎない。 もしも太平洋戦争に勝っていたら、「日本万歳!」と叫んでいたことだろう。 なにしろ、自分の国が全く攻められない時、つまり他のアジアの国に攻め込んでいる時 には、日本国民は自国の神聖さと天皇の栄誉を称えて歓喜していたのだから。 これで一体どこが「戦争や争いが嫌になった」と言えるのだろう??。 だから、日本国民は、終戦によって「戦争や殺戮にこりごりした」のではなく、 生まれて初めて本土を爆撃されたり、徴兵制度で愛する者と別れたりして、 その結果として自分たちに起きた「不自由な生活」にこりごりしたに過ぎない。 人は戦争や殺戮それ自体を嫌になったわけではなく、 戦争によって自分に起きる、「生活苦」や、 戦争による「悲惨な人間模様」が嫌であったにすぎない。 いわば、負けた時は「ギャンブルは二度とごめんだ」などと言うものの、 勝って儲かれば、またギャンブルをやる賭博屋のようなものだ。 ・・・・・・・・・◆殺戮や戦争を見かけ上の 感覚で判断する傾向について また殺戮の『その手段と、自分の目に映る現象』によってそれを「嫌」と感じるか、 「さして感じないか」という、かなり重要な問題がここにある。 我々は戦争の当事者ではなくとも、戦地からの報道などを通じたその悲惨な情景を見て、 その結果として戦争に「嫌悪」する事がある。つまり「目に見える情景が悲惨だから」 という理由である。血肉が飛び散り、家族が悲しみ、女子供の死体が転がっている。 犠牲者が泣き叫び、不具になって人々が歩いている。 このように、『戦争それ自体への反感』ではなく、 戦争のもたらした「結果の現象を目にする事」からくる嫌悪感というものがある。 つまり、あなたの目に映る「その形にかかわらず」戦争や殺戮そのものが嫌であるのか、 それとも「嫌悪を感じる感覚が嫌であるのか」の問題は『微妙』なところである。 ・・・・・・・・・ 一番分かりやすいたとえは、あなたがゴキブリを殺す時である。 彼らを自分の手でひねりつぶすのには嫌悪感があるだろう。 (つまり「気持ち悪い」という理由)。 また女性の中には、ゴキブリを叩いて殺すと、そのつぶれた死体の後始末が嫌だという 者がよくいる。(これまた「気持ち悪い」という理由)。 ところが、 ホイホイや、コンバットや、スプレーで殺すのは別になんとも思わないわけだ。 すなわち、殺戮を「直接に自分が執行しない場合」や、その「死体を見ないで済む」と いう事になると、「全く同じ殺戮行為」であるにもかかわらず、 嫌悪感や罪悪感はまるで減少してしまうわけである。 これが近代戦、あるいは未来戦で予測される大きな特徴なのである。 自分はボタンを押すだけであり、攻撃された土地の映像など目にする事もなれば、 なおさら戦争や殺戮には、嫌悪感も罪悪感も感じない事になるだろう。 ・・・・・・・・・ 考えてみれば、国連と言うのは実に変なところである。 というのも、彼らはなんと、『武器の種類』を区別するからだ。 地雷がいけないとか、化学兵器がいけないとか決めごとをするからだ。 なんであれ、人を殺すことには変わりはないのに、 足が吹っ飛んで半殺しになったりするのは残酷で「非人道的」と言うわけである。 すると、人体に与えるダメージが残酷な兵器は駄目で、痛みもなく一気に死ねるような いわば『人道的兵器』ならば「まぁーそこそこ良い」という事らしいのである。 ここにもまた、人間が「感覚的な根拠」から殺戮や戦争を論じる特徴があるのだ。 さらには、被害者がいかなる苦痛を感じる暇もなく、死体が一瞬で消えてしまい、また、 確実に死ぬために不具者が生まれることもないような『完全な殺戮兵器』が登場すれば、 殺人についての是非問題は、 おそらく今よりも、『より純粋な哲学題材』となることだろう。 ・・・・・・・・・・ つまり私が、ここで何を問題にしているかというと、何を論じる時にでも人は、 『戦争とは何か?、殺戮とは何か?、その根本原因は何か?、人間とはなんだろう?、 自殺とはなんだろう?』という、哲学的課題を論じようとはせずに、 常に『現象の見え方と、自分の感じ方に大きく左右されてしまう』という事である。 そういった意味で、冒頭で私が疑問を感じた事、つまり、 戦争や殺戮自体が問題なのか??、 それともそれによって自分たちの感じる『苦』が問題にされているのか??という事へ の答えは、まさしく『苦こそが問題なのである』と言えるだろう。 逆に言えば、多数決により、『自分たちの苦を軽減するため』ならば、 戦争や殺戮や死刑は「時には行われてもよい」という事になっている。 だから自分たちの苦を回避する目的での殺戮や戦争はいつまでも行われるのである。 故にこれからも未来永劫にわたり、戦争も殺戮も依然として続いてゆくことだろう。 何せ、今日も明日も、人間は隣人との「口論という戦争」すらやめられないのだから。 ・・・・・・・・・ 誰もが、「誰かに言われたから」、とか、「宗教が禁じているから」、という理由で、 殺人を悪だと教育によって「覚えただけ」であったり、あるいは、 その目に映る悲惨な現象への嫌悪感をもってして戦争に反対しているにすぎないのでは、 誰も「心底から殺人を悪と認識していない」わけである。 それに、それを単純に「悪」として定義するのは非常に困難だと私は感じている。 ・・・・・・・・・ さて、本論に戻ろう。 殺人とは関係なく、むしろ「自殺論」の一部となる余談ではあるが、 「人に生きる権利」があるとするならば同じく「死ぬ権利」というものもあるはずだ。 世の中には、「自分を殺してくれ」と他人に懇願するような場合もある。 その代表的なものは、安楽死、尊厳死であり、 非合法のものでは、自殺幇助の行為などである。 ここでも問題になるのは、「権利」という言い分である。 はたして、『権利』というものは、生きることだけには認められて、 死ぬことには認められないのだろうか?。 「人の自由意志のひとつである死ぬ権利を妨害するのはいいのか??」。 それとも、死ぬ自由意志だけは断固として「人権」とは認められないと言うのか?。 もしもそう言うとしたら、「何」をもってして言うのか?。 ・・・・・・・・・ さて、本論に戻り、4の見解についての疑問は、 「肉体的にも、精神的にも苦痛のない殺人はどうなるのか?」、 という素朴な問題である。例えば睡眠中に薬物で殺した場合などである。 5についての疑問は、 「身寄りも全くなく、誰もその人の死を問題にもしないという、天涯孤独の被害者」も 多く存在するという事実である。 この場合には、「残された者」も存在しなければ、「悲しむ者」も存在しない。 せいぜい、それがニュースで報じられた時でも、あなたは、「孤独」というその言葉の 響きから、習慣的で個人的な連想をして、若干の哀れさを感じるのみであるが、 本音としては、他人の死も、他人の殺人も「自分には関係ない事」に過ぎまい。 ・・・・・・・・・ 6と7についての検証 6/「法律以前の問題として、人間として殺人が良くないというのは良心の問題だ」 7/「命は大切なものだから、粗末にしてはいけない」 まず7の「命は大切だから」という主張への疑問は数限りなく存在する。 というのも、我々は『命』と言う言葉を口にする場合には、常に、 「人間の命」と「人間以外の生物の命」の間に あきらかな『価格差』を投影しているからだ。◆殺戮なしには自然界の秩序は存在しない ところで、本論では、問題の本質に迫るために、 「殺人」と「殺戮」には、ある程度の仕分けをしてある。 というのも、社会は殺人は否定するが、殺戮を否定する事は出来ないからだ。 殺人とは、文字通り「人が人を殺すこと」である。 しかし、『殺戮』と言う言葉の中では、 我々が動物や他の生命の命を奪う範囲までがその範囲に含まれるからだ。 また、完璧な菜食主義というものが成立しないために、 殺戮の恩恵によって生きていない人間は、ただの一人も存在しないからだ。 飲料水や、衣類などの素材に対して行う熱消毒の段階で、すでに我々は無数の微生物を 殺しているのであるからだ。 だから、「私は魚のダシも取らないし、肉も一切食わないから私は野蛮な殺戮には関係 はない」という主張は成り立たない。 また、本人が肉や動物を直接には食さないとしても、 あなたは、自分のバックや靴やベルトや、あなたの子供のランドセルが、 蛇や、ワニや、鹿や、牛の革で出来ていないか、今一度よく見た方がよいだろう。 さらには、あなたが飲む薬、特に西洋医学の世界で作られるほとんどの薬が、 どれだけ多くのネズミたちを使った実験によって支えられてきたかを考えるとよい。 また、そもそも「完璧に独立した菜食主義」などは存在しないのである。 植物の生育には、無数の微生物、動物、鳥類、昆虫の生死や生存競争がかかわっている からである。植物とは、生物たちの食物連鎖の殺戮の結果として積み重ねられた、 まさに『死骸の大地』の中に生えているものなのだから。 ・・・・・・・・・ また、動物とは何かという定義を広範囲な意味での『可動性動物』としたとしても、 微速度撮影をすれば分かるように、 植物は明らかに狭い範囲では「生きて動いている」のだ。 このように、一体、あなたが食する食物のどの範囲までを、自然界や人為的な殺戮行為 に全く関係しない食物であるかを定義することは不可能であり、 はっきり言えば、そんなものは存在し得ないのである。 あなたにとっては「普遍的な意味で命が大切」なのではなく、 自分の生命の利害関係にかかる対象や、愛着を持った対象の命だけが問題になるわけだ。 ハツカネズミをペットとして買う人間もいれば、 単なる実験動物としてしかない見ない人間もいる。 インフルエンザの感染源とされた食用の鶏が、何百万羽と殺される。 それらは、もともとは人間が勝手に自分の「食用として」繁殖させたものだ。 全く同じことは、あらゆる種類の、家畜産業、魚介類の養殖産業、そして細菌培養にま で適応される。人間は勝手に人間の都合で生物を繁殖させたり殺したりするのである。 これで一体どこに「命は大切だ」という資格が人間にあるのだろうか??。 しかも、人間は肉眼では形や動きが見えない「微生物」に対しては、 たとえその存在を知識として知っていても、文字通り「虫けら以下」の扱いをする。 そして、ゴキブリや、(人間にとっての)害虫の事は、まさに「虫けら」として扱う。 これでも、「命は大切だ」と言うのだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 結局は、「何何の命は大切であり」、「何何の命は大した問題ではない」というのがあ なたや人類の心の本音であり、なんと時には、 「これは殺してしまうべき命だ」と人間が勝手に決めた生物が無数にあるのだ。 だから、私はもう2度と、人間から、 「命は大切だ」と言う偽善的な言葉などは聞きたくもない。 「大切な命もあれば、大切でない命もある」、「だからあの命は殺してもいい」という 扱いをしている、それが人間の実態なのである。 ・・・・・・・・・◆人間における存在価値の採点 そして、このことは、結局は同じ「人間同士」についても言えるのである。 もともと平等というものは存在してはいない。 社会とは、もともと「それぞれの基準で」人間に点数をつけるものなのだ。 学校は学校の基準で、会社はそれぞれの会社の基準で人間を採点をする。 そして、それらの点数は、その組織や社会にとって「どのような利用価値があるか」を 基準にしてつけられる。 だから人間は、「命の尊厳」とやらを口にする一方では、 同じその口で、嫌悪する隣人に対して、そして特に犯罪者に対しては、 「あんなやつは、生きている資格がない」 「あんな人間は、死んだ方がよい(または殺したほうがいよい)」 「あいつは人間失格だ。」などと言う。 ところで、この「人間失格」という言葉は、なんと中立であるべきニュースキャスター が口にする事すらもあり、コメンテーターもトーク番組で口にするのである。 しかし、「あいつは人間失格だ」と言うのは、 「あいつは人間ではなく類人猿以下だ」と言い切るのと同じことである。 人権団体に言わせれば、これは人権侵害用語とすら言えよう。 (ただし、私は人権主義者ではない) そして麻薬中毒患者などは、もしもキャンペーンのフレーズ通りに解釈すれば、 彼らは「人間をやめた」と見なされるのだろうか?。 もしも、本当にそうであるならば、 「犯罪者は人間として扱わない」という制度でも作るべきだろう。 そして、もしもそれが出来ないならば、こうした罵倒用語は少なくとも公共の放送では 禁止でもしたほうがいいだろう。 だから、結局のところ、人間同士の間には、 明らかに差別、区別、価格差、つまるところ『命の価格』が存在するのだ。◆人間の価格
では、その価格とは、何を基準にしてつけられるだろうか??。 そこで、哲学に特有の極論を、つまり極端な例を上げてみよう。 ここに、世話をする親近者も全く存在せず、 治癒の可能性のないアルツハイマーを患い、しかも入院費もない。 さて、社会は、どのような価格をその人間につけるのだろうか?? 結局は、治療薬の被験者としての価値しか残らないのだ。そして、 介護師の働き口を提供し、介護するという自尊心(つまりは奉仕活動という自己満足心) を提供する事に貢献するのみである。 それとも、あなたは彼らの臓器に移植のために値段をつけるのだろうか。 一方では、極度の鬱で、自殺をしたいと言い張る人々がいる。 いかなる治療も、いっこうに効力なく、全くの無気力状態の者たち。 薬物中毒であれば、原因が薬物であるかぎりは、更生は可能性があるだろう。 しかし、鬱というものは、性質が異なる。 しかも、それは心理分析ですら未だ解決困難な病である。 プロザックなどの抗鬱剤がいくら効果があったとしても、 それすら効かない者は必ず発生する。 いわば、「完全な怠惰や衰弱」の中で、 「生きる気力を喪失して生きている者」がいたら、 あなたは、一体、彼らの存在価格として何点をつけるのだろうか?。 おそらく人道的な「心情」から、点数をあげるかもしれないだろうが、 それは、彼らに「直る可能性」をいくらかでも期待している場合に限られるであろう。 しかし社会にとって完全に無用と見なされるであろう、不治の人々がたくさんいるのだ。 いくら、『生命の尊厳』や『平等』などと言うものを、 他人からの借り物の価値観と社会の掛け声を真似て、あなたがその口で言ったところで、 『他人の利害と関係性を持たず、ただ生きている』という者には、 あなたは存在価値の価格をつけられまい。 あるいは、ここでもまた、あなたは彼らの臓器に価格をつけるのだろうか??。 そして、日常で何げなく、あなたが誰かを軽く軽蔑する時にも、 「自分は彼よりは存在価格が高い」とあなたは内心思っているのである。 このように、いつだって、人間は、あらゆるものに『価値の値札』をつけるものなのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆殺人の動機となるもの さて、そこで殺人という行為の根本問題を考えてみたい。 殺人とは、(仮に加害者の立場に立てばの話だが)自分にとって、相手の価格がゼロで ある場合には成立しないものである。 なぜならば、相手が価格ゼロだったら、それは自分には関係がないからだ。 そうではなく、相手の存在が自分にとって「赤字をもたらすもの」である場合に、 人は、殺人をするのである。 相手の存在が、自分を困らせる場合に、人は殺人をする。 相手の存在が、自分を心理的に苦しめる場合にも、人間は殺人をする。 とにかく、肉体的にであれ、心理的にであれ、 相手の存在が、自分の精神や肉体に苦をもたらすと『主観的に判断した時』、 人は殺人、あるいは暴力を行う。 若者がよく言う「ムカついたから、殺した」というのは、実に短絡的ではあるが、 もしも相手が自分を楽しませてくれたら、相手を殺すまい。 つまり「ムカつく」というのはあきらかに不快の一種である。 不快とは、そのまま不快の対象からの刺激が続けば、自分の安定した思考・神経・知覚 の一部またはその全体が、否定される(無にされる)に至ると思えるがごとく、 歪むこと、圧迫されること、揺さぶられることから起きるのである。 「不快とは、レベルの低い苦」であり、嫌悪や逃避のきっかけとなる。 「恐怖とは、レベルの高い苦」であり、防衛または攻撃的殺戮へのきっかけとなる。 ・・・・・・・・・ そして、不快の定義は個人的なものと動物的なものに分類される。 個人的なもの、というのは、たとえば、クモが好きな者は殺さないが、 クモなど見るのも嫌いな者は、叩き殺すという具合だ。 これは、そのままそっくり人間同士に当てはめても同じことである。 誰かにとっては殺してやりたいような人間も、 別の誰かにとっては、全くそんな事はない。これが主観的な不快の例である。 人間にとっての多くの殺人は、この主観的不快感によって起きるものだろう。 一方、動物的なものというのは、肉体が脅威にさらされた場合の、 防衛本能からくるものであるが、人間の場合には、直接に危害を加えられなくとも、 間接的に肉体に害が及ぶと思い込んでいる不快感や恐怖というものがある。 この代表的な例は、会社でよく耳にする「クビにするぞ」という脅迫文句である。 クビ=貧困=飢餓=死という単純な連想が聞き手の頭にあれば、 「クビ=食えなくなる」と結論され、 結果的にこれが、「動物としての生存を脅かされている」と判断されるのである。 同じ事は「自分の秘密を暴露されれば、社会的責任を問われて、社会から脱落して云々、 その結果は=貧困」というありがちな思考公式にも言える。 こうした事が原因で、 動物の世界ならば、ごく単純な脅迫、攻撃、防衛、戦闘で維持されている食物連鎖や、 弱肉強食の原理が、人間社会では、「理性」と呼ばれる『高性能の妄想回路』によって、 形を変えただけで、やはり同じ弱肉強食構造を形成しているだけの事なのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、そうなると、殺人の動機の「多く」は、 生存を脅かされる、あるいはその可能性が推測されるから殺すという事になる。 金銭トラブル、社会的地位、犯罪行為の発覚を恐れての殺人などは、 結果として食えなくなるという『本能的恐怖』が主原因となる。 一方で、嫉妬、口論、言語によるいじめと言った、心理的次元でも、やはりそこには、 次元こそ異なるが、基本的には『心の死活問題』が横たわっているのである。◆思考や記憶という身体 たとえば、相手が誰であれ、手足も指一本も使わず、言葉だけによって、 ほぼ100%、他人を怒らせる事が可能な方法の「原則」をご存じだろうか??。 それは相手の『存在それ自体を、否定する結論を導き出す事』を言いまくる事である。 まず、手初めに、相手の思想、心情、意見をことこどく否定、批判してみればよい。 つまり相手のアイデンティティーをことごとく無価値だと言う。(価格ゼロの提示) さらに、無価値どころか、社会的に迷惑だと言う(マイナス価格の提示)。 そうやって、相手の容姿(肉体)を非難し、心(思考)を非難し、存在それ自体を非難 されたとき、(もしも自分で自分の存在の値段をつけている者であれば)、 その者は、必ずあなたに対して、嫌悪・怒り・無視などによる「逃避行動」に出るか、 言葉による防衛や、言葉や暴力による「攻撃」のいずれかの行動を取るに違いない。 これが意味する事は、心とは、まるで物体や肉体のように、 文字通り、「心が傷付き」、時には「心は死ぬ事もある」ということなのだ。 すなわち、一人の人間の感情や記憶や習慣的な思考とは、耐性や自己保存機能を持った 「身体」なのである。 これ故に、他者から見ていたら、馬鹿げた口論も殺人に発展するわけであり、 他人から見ていたらささいな心配事も、膨れ上がって殺人や自殺に発展するのである。 すべて、それらは、肉体と精神の「生存欲」を基盤にして生まれるものである。 ・・・・・・・・・ 多くの殺人は、結局は生存欲から生まれてくる。 中には、実質的な害が自分におよぶ可能性が全くないのに相手を殺したり、 論理的にかなりの屈折をしている殺人者も多いものだが、 それでも基本的には、犯罪史を見ると、 自分が心か肉体のどちらかの極度の死活問題に追い込まれたときに、人間は殺人を行う ケースが最も多いようだ。 しかも、動物と異なり、人間に限れば、自分を追い込んだ対象に対しては、 「逆恨み」や、「八つ当たり」といった、 誠に「不条理な形」をとる事も、しばしばなのである。 (注・・・ただし神戸の連続殺害事件のA少年は、奇妙な事に「生存欲」ではなく、 『死滅欲』をその動機の基盤にしているように私個人は感じる。) ・・・・・・・・・ いずれにせよ、「殺人は悪い」といくら口や世論が言っても、 それが一度として起きなかった日は、人類史上ただの一日もないのである。 だから、我々はそれを「特異な他人事」としてではなく、 「自分がいつでも殺人者になる可能性がある事」と、その場合の「理由」について、 よく洞察してみるとよいだろう。 自殺と同じように、殺人もまた、一定の条件が揃ったときには、 「誰がその行為に及んでも全く不思議ではないもの」だからだ。 法治国家では、無法地帯に比べれば確かに殺人の「件数」は少なくなるかもしれないが、 それは、心の中の殺人の「衝動それ自体」が少ないわけでは決してない。 それどろこか逆に、殺人衝動のストックを膨大に蓄積する可能性があるものだ。 だから「社会悪」や「宗教的悪」というレッテルによる規制や罰則が多く存在する社会 や時代になるほど、精神の歪みはより大きくなってゆくのである。 老子が言ったように、 そもそも、「世の人々が正しいことが何であるかなどを知らなければ、 そこには間違いもなかった」のである。 間違いとは、正しさを知ることから始まるのである。 生命とは、善悪の思考で明確に分別できるほど単純な現象ではないのである。 したがって「殺人をしないのは{良心}の問題だ」という6の主張もまた怪しいものだ。 「良心」という言葉の裏には、愛や洞察ではなく、 常に人類という種の保存をしようとする本能が見え隠れし、 また村八分への恐れから他人の目を気にする心が存在しする。 社会的安全確保という人間社会の都合による基準が見え隠れし、 同一民族は殺すのはよくないが、敵の民族は殺してもよいという大義名分が見え隠れし、 一人が死ぬことで、大勢が助かる場合には、一人を殺してもよいという論理がある。 あなたが「良心」という単語を辞書でひいたところで、そこには、全く無意味な説明を 見るだけだろう。国語辞典によれは、良心とは、 「道徳的自覚」と「善悪判断によって自己命令する能力」と定義されている。 なんと、道徳も、善悪も、 人類史上いまだかつて明確に定義されてもいないというのにである。 「良心」なるものを持たされた人類を、 『できそこないの病気の博物館だ』と哀れむ少年の物語りに、もしも御興味があれば、 マークトウェイン著の『不思議な少年』を読まれる事をお勧めする。 良心であれ、法律であれ、宗教であれ、なんであれ、 国家権力や武力によって、直接または間接的に、 「言うとおりにしないと殺したり、おまえの自由を奪うぞ」と言っているような『脅迫』 によって安定しているような秩序は、必ず苦を生み出すものである。 1998 1/1 無明庵::方斬 記少年犯罪の背景 鈴木方斬:記 1998年2月現在、 いわゆるムカついて「キレる」という暴力や殺人事件が急増している。 社会通念や専門家はそれに対して、各自の経験と知識内でいろいろな見解を述べる。 戦後の「大量消費社会と環境破壊のツケが回って来た」と言う者もいる。 「ミネラルやカルシュウムの不足、さらには日本人の体質に合わなかった肉食が約100年 も続いた弊害だ」という者もいる。 「食品添加物や汚染物質による環境ホルモンの影響だ」と言う者もいる。 沸いて来る推測のどれもこれも、それぞれに「一理ありそう」でもあるが、 あらゆる問題が複合的に作用しているようであるが故に、 決定的な原因も解決法も見当たらないのが現状だ。 中学生、小学生の事件が取り沙汰されるが、その原因を彼らの自我が狭くて堅いせいだ と、彼らに責任を押し付ける事は、ほぼ不可能である。 「子供は、未熟だから」と大人は言うが、 厳密な意味での未熟さというものは、本来無害なものだ。 だから、「未熟」である事が事件の原因ではない。むしろ、 彼らに無作為に情報や物質を与え「半端に成熟させた」社会にこそ原因がある。 ●●●●●●●●● たとえば、戦前には、「子供のご機嫌を取る娯楽」など、今ほどには存在しなかった。 あると言えば、「駄菓子屋」が唯一の店舗であり、 子供は、限れた少ない玩具で自主的に遊びを作り出していた。 「娯楽施設」と言われるものは、主に大人のものであり、 飲む、打つ、買う(つまり、ドラッグ、賭博、売春など)、あるいは、 映画や劇場は、基本的には「大人のための施設」だった。 つまり昔の日本(極端に言えば明治維新以前)には、 「子供のための遊び」「子供向けの何か」などというものを生産する体制にはなかった。 子供のための遊びが産業として急激に登場したのは、まさに戦後である。 その始まりは、「子供向け」のマンガとゲーム機器だ。 昔の子供の遊びというものは、その道具からルールまで、主に「彼らが作ったもの」で あった。明治維新以前の子供のゲームは、子供自身が作っていたのだ。 また、昔の子供は、お金など持っていなかった。 だから、店先では子供などは「このクソガキ」と言われた。 しかし、今は大人が子供を商売の相手、すなわち消費者と見なす。 かつての「ガキ」は、今では金を落として行く「大切なお客様」なのである。 だが、企業が、子供を市場とした段階からすべては狂い出す。 もともと娯楽施設というのは、社会生活に少々疲れた大人の「ガス抜き」であればいい ものをなんら、自活もしていない子供が、ただ親や企業から、 「勉強をして、言う事を聞く良い子になる事」とひきかえに、玩具を与えられる。 しかも、それはあまりにも与え過ぎだ。 試しに、ペットや野生の動物に大量の餌をやってみればいい。 なんでも、与え過ぎれば、どんどんと、ずうずうしくなるに決まっている。 やがては、もらえるのが、「当然」のような顔と態度になってゆくのだ。 ●●●●●●●●● しかし、現代の子供達は一体何を見て育ったのか??。 そして一体、彼らは何を「脳の食物」として摂取して育ってきたのか??。 言うまでもなく、彼らは、親や社会や教師を見て育ち、 そして、彼らの与えた「餌」、すなわち物質や観念を食って育ったのだ。 子供というのは、親を映す鏡である面がある。 親というのは社会を映す鏡でもある。 社会というものは人間を映す鏡である。 そして人間は宇宙の原理を映す鏡でもある。 彼らを「消費者という動物」として扱う企業は、 子供たちに無数のゲームやおもちゃという「娯楽用具」を与えて来た。 そして、社会は「人権や自由という理屈」をも彼らに与えて来た。 しかも、半世紀前と違うところは、膨大な量のテレビや雑誌、 マンガやビデオやコンピューターによる情報が、さらにそれに付加されている事だ。 しかし情報が増えれば、かならず「選択肢が増える」。 あなたがデパートへいけば、どれを買うかで目移りするだろう。 物事の選択肢が増えるという事は、自由で多彩、多角的という側面を持つが、それは、 何かを「実際に経験する以前に」、多彩な情報で「迷ってしまう」という弊害をも作り 出すものだ。 現場で経験的に迷うのは人間の学習になるが、 経験する前から、あれこれと推測する為の情報や、 物事の「前例」に関する情報があると、 あなたには経験もしていないうちから「物事の先読みをする」という悪癖が起きる。 ところが、結局これらは、「情報を制する事をしないと生き残れないぞ」と騒ぎたてた 大人社会が生み出した結果でもあるのだ。 金融を動かしている株取引などは、まさに情報と先読みが勝負を決めるのだから。 また科学の分野では確かにデータは役に立つ。データこそが役に立つ。 しかし、データが役に立つのは、科学者の科学的姿勢、探求心、創造意志や研究の目的 意識がある場合にのみ限られるのだ。 また、実際に、科学者の多くは雑多な知識や情報などには全くかかわらない。 彼らは、いわゆる良い意味での「専門バカ」である。 一方、庶民や子供達は科学者ではないし、特定の研究分野を持っているわけではない。 そんな「方向性もないところ」へデータばかりを詰め込んだところで、 それは情報のウィンドウショッピング、情報の読み捨て、使い捨てになってしまう。 だから、科学あるいはあらゆる種類の『専門分野』では情報は多角的であってもよいだ ろう。だが単なる「スナック菓子の代用品」のような情報は頭のゴミにしかならない。 そんなゴミ情報(たとえば世間話)を交換することを、 人間同士のコミニケーションなどと呼んだところで、そこからは、やはり 「ゴミ」のような人間関係しか生まれはしないのである。 ・・・・・・・・・ ●●●●●●●●● さて、少年たちが「キレる、ムカツク、殺す」には、いろいろな原因があるだろう。 したがって、ここで私も、そうした複合的な原因の「一つ」と思わしき事だけを述べる に留めたい。 ・・・・・・・・・『明確な敵』の不在と『共通の敵』の不在
現代の少年、あるいは大人にとって、もっとも欠落しているものの一つに、 『明確な敵』あるいは『共通の敵』というものがある。 実は、『共通の敵』というのが、人間関係や地域社会を時には飛躍的に改善し、 統一してきた事があるという事実を洞察するとよい。 戦争中、日本は欧米を国民の『共通の敵』にまわすことで、統一を持っていた。 戦後、日本は貧困という『共通の敵』を持つことで庶民が団結してきた。 学生運動のころ、国家権力が彼らの『共通の敵』となっていた。 一昔前の日本では農村にとっては、よそ者が『共通の敵』になっていた。 一昔前の暴走族たちは敵対するグループが仲間にとっての『共通の敵』になっていた。 宗教組織では、対立する異教徒、または無信仰な人々が『共通の敵』とみなされる。 自主的な思索もなく「徒党を組むこと」が良い事ではない、のは言うまでもないが、 必ずしもそれが悪いとも言えない面がある。 というのも、何かの『共通の明確な敵』が存在する時には、 奇妙なことに人間は、それによって他者との共感を感じることが多いからだ。 あなたに、もしも親しい友人がいるならばだが・・・その友人との会話の中には、 必ず『共通に嫌うものの話題』があるはずだ。 人間は、お互いに、同じ好きなものを通じて共感することもあるが、 それと全く同じぐらいに『お互いに同じ嫌いなもの』を通じて共感することが多い。 大人社会でも「悪口」「陰口」というのが、ひとつのグループの統一性を形成する要因 のひとつだ。 私は、会社に勤めていたころ、比較的転々と転職をしたが、そのつど、まずその会社に 入って真っ先に観察したのは、 社員の各自が何を、あるいは誰を嫌っているかという点だ。 その結果分かったことは、何かの共通の趣味の話題を通じて平和的に溶け込むよりも、 相手が嫌っている人物(たいていの場合は、上司や社長であるが)の事を、ののしる事 によって共感関係を作ってしまうことが最もたやすいという事だった。 奇妙な事に、会社内部で、相当に険悪な仲の人間同士でも、 あるひとつの『共通の敵』というものがそこに入ると、 いとも簡単に関係が改善されることが多いものだ。 同じことは、家庭でも言える。親子が共通に嫌うものがあれば、 その家庭はある程度統一がとれるし、何よりもコミニケーションが少なくとも成立する。 子供が、「学校のセンコーが気に食わねぇー」と言った時、 親もまた「オレもそうだったぜ」と言えば、多少の共感が発生する。 子供が「こんな勉強なんか、やっても無駄だから、学校へ行きたくない」と言ったら、 父親が「俺だって、こんな会社なんかいきたくないぜ。 だって生活必需品を作っているわけでもなし、無駄なエネルギーを使ってゴミを作って、 それで商売しているんだからな」と言えば、そこになんらかの共感は発生するだろう。 しかも、「悪口や不平」というものは、偽善的な説教なんぞよりも、 通常は、『本音』で話すものだ。 ただし、もしも悪口と不平すらも、 あなたが「他人や子供の顔色を見ながら言う」のであれば、 そんな事はやめたほうがよい。 「何を」話すか、「何を」共感するかという対象に関係なく、 常に「本音」でなければそれは効力を持たないからだ。 ●●●●●●●●● さて、では現代の子供達に『共通の敵』は存在するだろうか?? 戦後社会の大人たちは貧困を『共通の敵』として戦い、 とにかく発展して裕福になる事を「共通の味方(口実)」にしてきた。 ところが、今では下手な発展イコール環境破壊であり、その環境破壊や、食用の家畜に 遺伝子操作をしている大人が子供に言う「生命の尊厳」などには何の説得力もない。 また、勉強して大学へ行ったところで、そうやってやっと入った企業も倒産する。 こうした現代における『共通の敵』とはなんだろう?? この問題を考える時には、見逃してはならない問題がある。 それは我々は、価値観の多様化を提唱してきたが、もしも価値観が多様化すれば、 とうぜん、それによって『敵も多様化する』という事だ。 そうなると子供達の間に、あるいは人類には、 『共通の敵』というものが存在しずらくなる。 もしも学校の生徒全員にとって、教師というものが『共通の敵』であり、 その教師と面と向かって子供たちが戦うのであれば、 そこでは子供の中に『共通の敵』があり、ある程度の統一が取れる。 だが、現代の子供は、教師を敵と見なす価値すらもそこには認めず、単に無視する。 というのも、もともと、我々の意識に何かが「敵」として現出するためには、 そもそも敵として見なすだけの存在の重さがなければならない。 敵としてみなす事自体、相手の存在感をまず認める事だからだ。 親子や教師と生徒が面と向かって争うならばまだいいが、もはや子供達は、 親教師には、闘争の意味すらも見い出せないほどシラケている。 だが、これは当然のことであり、それは子供の責任ではない。 ●●●●●●●●● 自殺が比較的肯定されるようになったこの時代、 あるいは精神世界の情報が行き渡った現代では、肉体の生存だけに価値を置くことには かなりの無理がある。人生、長生きすればいいというものではないし、 太く短く、強烈に生きて死ぬ方を好む者が多いはずだ。 『共通の敵』を持つという点では、オウム真理教や、数々の新興宗教あるいはキリスト 教などの伝統的宗教は、ある程度の統一性を彼らの内部に持っている点では、 現代の社会とは多少異なるものだ。 むろん、その論理の「是非」は別問題としても、 冒頭で述べたように、彼らには同じ『共通の敵』というものが存在する。 彼らの敵とは、「国家権力」、あるいは「社会通念」や人間の「煩悩」、 そして「悪魔」や「世紀末思想」などだ。 『共通の敵』を持つ集団組織は、個人としては愚かであるが、 一方では内部の統一性を得ることが出来るというメリットがある。 多様な価値観の集団は、個人としては賢明であるが、 一方では、統一性が取れなくなる。 だから宗教組織であれ、政治組織であれ、社会であれ、統一性の為には、 『共通の敵』が必要とされているのかもしれない。 ●●●●●●●●● 個人が突然に、ささいな事で、ムカツク、キレる。 これらは『明確な敵』という、はけ口が存在しない事、すなわち、 他人と共有できる『明確な敵』が存在しない事も原因の一つなのだろう。 もはや、彼らの『共通の敵』があるとすれば、それは「社会そのもの」なのだろうか。 おそらく、現代の子供は、たとえある日突然に、 異星人が突然に地球人を食用として食いにきても、 その宇宙人すらも、彼らの『共通の敵』とはならないだろう。 なぜならば、そもそも地球人類の存亡という問題すら、 彼らには「どうでもいい事」だからだ。 また、異星人がかならずしも、敵とは思えないような情報も多く彼らは吸収している。 ならば、現代の子供、そして大人、すべての人々が、共感し、 たとえ過疎的であれ、方向性や統一性を生み出せる『敵』とは何だろう。 おそらく、それは、『人間存在への疑問』『生きる事の虚無感』、 そして『思考というものへの嫌悪感』だろう。 ☆●すべては学歴を評価した 大人社会と企業の責任である● 極論すれば、子供達や中学生には何も非はない。彼らに自主的な価値観や才能や意欲を 持たせないようにしてしまったのは、大人社会だからだ。 最近の、いわゆる【キレる】子供達の根本原因は、日本特有の「学歴社会」の、しかも その「残留物」による弊害の一点に絞られる。 そもそも社会や企業が、高学歴などを評価しない社会であったのならば、親たちも自分 の子供に必要以上の勉強など押し付けたりはしなかったのだから。 その昔、子供とは「子供の社会の縄張りの中」で『遊ぶ』ものだったのだ。約20年前 は、子供に勉強など強いれば、「教育ママ」と呼ばれ、また子供も「ガリ勉」と言われ、 周囲からはむしろ白い目で見られた時代があった。という事を思い出して戴きたいもの である。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ところで、今、ナイフなどで問題行動を起こしている子供たちの「その親の学生時代」 とは、一体どんな時代だっただろうか?。 おそらく、彼らは「楽しい学生時代」というものを経験した最後の世代のはずなのだ。 仮に25歳で子供を持ったとして、現在中学生の子供をかかえる親は、現在40歳前後 だろう。ちなみに私は1998年2月現在39歳である。 こんなエピソードがある。 私は中学生のころからナイフマニアだった。あるとき、放課後、廊下で友人にジャック ナイフを向けて「恐喝ゴッコ」をしていた。 まぁー、言うなれば洋画のシーンのマネである。そこへ通りかかって、私たちを見た一 人の教師は私にこう言った。 「おおっ、かっこいいナイフじゃないか。・・でも手を切らないように気をつけろよ」。 私「はい」。これで終わりである。 職員室に連れて行かれるわけでもなく説教をくらうわけでもなく、ただ「使い方の注意」 をされただけである。 言うまでもなく、これは約23年前の話である。そして、当時はそういう時代だったの である。 ナイフを持っているからといって、生徒がそれで事件を起こすなどとは教師も思っても いなかった。誰かが単なる遊びや趣味でナイフを持っているからといっても、誰もそん な事を特別な目では見なかった。 私の両親すらも、私がナイフを集めて持っていても、「ケガをしないように注意した」 のみであり、刃物を取り上げるなどという事は全くなかった。ナイフを持っていること と犯罪や暴力は結び付いてなどいなかった時代だったのだ。 ・・・・・・・・・ また、当時は、子供同士の間でさえも、ケンカで刃物を使えばどういう事になるかは分 かっていたために、私たちの時代のケンカは、素手でやるのが礼儀であり、それがルー ルだった。 むろん、それは恐らくは、文化を通じて伝えられた日本特有の「武士道精神」から受け 継がれたものではあろうが、それにしても、そのルールは誰が決めたのでもない。それ が子供にとっての「かっこいいケンカ」「当たり前のケンカ」であった。 また、素手で勝ったからこそ、仲間の中でも力を認められたのであり、凶器というのは、 そもそも反則であり、卑怯だと見なされた。凶器を使えば、それこそ仲間外れにされた のだ。 しかし私たちの世代の少し後から、暴走族が角材やチェーンで武装するようになった。 そして、今では警棒、金属バット、催涙スプレー、スタンガン、ナイフである。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆ さて、ではそのころから学校や社会では、何が変わっていったのだろうか??。私が高 校生の時には、自分の「進路」について考えた事などなかった。私が進路を考えたのは、 短大の半ばあたりでやっと現実的に考えたものだった。 高校生の時でも、学生は自分の将来の進路などというものを考えたのは、せいぜい高校 2年の終わりごろからだった。では、それまでは何をしていたか??。言うまでもなく、 我々は、ひたすら「遊んでいた」のである。 私は幸いに「受験戦争」などというものを経験しなかった。私のすぐあとの世代から、 それは始まった。 私が小学生の時、塾へ行っている者など、わずかだった。私立中学を受ける者が、ほん の少数だけ行っていただけだ。 そして、中学、高校でも、そもそも勉強ばかりをする者などは、「ガリ勉」と呼ばれて、 馬鹿にされていたのである。 子供時代とは、そもそも『遊ぶもの』だったのだから。 つまり、受験戦争など、ほとんど知らない私たちの世代は、よい高校から良い大学、そ して良い企業、良い収入、良い老後、という価値観などは、全く頭にはなかった。 確かに、既に学歴社会の色彩は始まりかけていたが、それとても、多くの中小企業自体 が、別に学歴を問うわけではなかったから、大手はともかく、小さな企業では、学歴や 経験不問の求人広告が多かった。 だから何をやっても「いちおうは食っていけそうな時代」だったのである。 今の子供のように、小学生のころから将来の進路に基づいた行動をしなければならない 理由は何もなかった。 自分の就職や進路などは、高校を卒業する間際あたりで考えればよかったのである。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ここで非常に重要な事は、大人社会と子供社会の間には、20歳の前後あたりに「縄 張り」のようなものがあったという事だ。 20歳までは、とりあえず子供たちの社会であった。自分のやりたい事は、とりあえず 20歳過ぎたら好きにやろう。 それまでは我慢するなり、遊んでいよう・・・と。 そのように、20歳あたりを境界線とした「暗黙の縄張り」が、大人と子供の間に明確 に存在していたのだ。 ところが、この境界線を破ったのは、大人たちだったのだ。縄張りを破ったのは断じて 子供ではない。「大人が破った」のだ。 すなわち大手企業への就職=高収入となり、高収入=平均的幸福の条件となり、何もか もが、そのための学歴、そのための学習、そして、そのための内申書という構造が生ま れた。内申書は教師や親が子供たちを脅迫する材料となったのだ。 私は幸いにも、中学高校が続いている(当時は3流の)私立校へ入った。だから、内申 書が進学に影響するなどというストレスもなかった。 しかし公立の中学では「内申書」という「脅迫要素」があり、それが子供へのストレス となる。親が求める「いい子」とは「内申書」にまずい事をかかれない子供ということ なのだ。さらに既に述べたように、自分の進路などは昔は大学生ですらまだ決まってい なかった。 しかも、さらになんと愚かな事に、内申書に良く書かれるためのマニュアルまであり、 熟では内申書への対策法、教師への接し方(むろん、良い点数になるための詐欺行為) まで教えるところさえある。 ボランティア活動なども内申書の為にやるという子供もいるわけである。 これで、もしも大人がそうしたマニュアルに従った子供を評価したら、一体どうなると 思っているのだ?。「大人なんか騙すの簡単だ」と子供は思うだろう。 これでは子供に『詐欺』や『偽善』を教えているのは教師や親や熟ではないか?。 我々の子供のころなどは「子供は正直でいなさい」が唯一の戒律だったとさえ言える。 たとえば学力重視が必ずしもいいわけではないが、学力だけしか重視しない事も、仮に もしもそれはそれで徹底すれば子供も「勉強さえやっておけばいいんだろう」となり、 そのかわり授業中の態度は悪くても問題にしないといった「ガス抜き」も成立していた。 評価基準がひとつだけという事はむろん問題もあるが、今では評価基準が2つもあり、 これでは子供たちには、内申書と成績の両方のストレスが溜まってしまう。 そもそも、私たちの時代には「大学へ行く」という場合には2つの意味を持っていた。 1:ひとつは、自分の就職や興味に直接かかわるような専門分野の大学へ行くこと。 2:そしてもうひとつは、進路の事など後回しで、「遊びに行くところ」「新しい出会 いの場」としての大学である。 大学へ行ってしまえば、あとは自由。親からもとやかく言われない。そのせいで、「入 るまでは大変で、入ったら遊ぶ」という日本の大学生と、欧米の「実力主義の大学」と が比較されて、随分と批判を受けたこともあったものだ。 しかし、それもいつの間にか忘れ去られ、中身のない、ただの教育制度と古い価値観だ けが現在まで継続しているのである。親や大人たちが、社会や企業の価値観を小学生の 領域にまで侵入させたのである。 ここのところを棚に上げて、ストレスから非行や暴力に走る子供を、「良識がない」と か、「当たり前の事が分からない子供だ」と、責めるような者は、そもそも根本問題を すり替えている。 子供社会と大人社会の『縄張り』を破ったのは、まぎれもなく大人なのだ。前文書の 『少年犯罪の背景』でも述べたように、子供をターゲットとした玩具を生産して子供社 会へはいり込んで儲けようとしたのも、大人たちではないか。 だが本来、「子供の社会」と「大人の社会」は、別々の異なる価値観、異なる世界観、 異なる感性で分離している事が健全で当たり前なのである。 しかし、どうして小学生たちが「将来の進路を年頭に入れた学習」などを、親から強要 されなければならないのだ??。これらは全部、戦後の消費社会を生きて来た親や社会 が押し付けたことではないか??。 しかもバブル以後、もうすでにとっくに、学歴などが通用する雇用体制ではないのにも かかわらず、「ただの成り行き」で、いまだに同じことを繰り返しているのだ。 親は、子供をまるで自分たちの「老後の保険」とでも見なしているのだろうか??。 親が子供に「勉強しろ」というのは、老後に自分が動けなくなった時の面倒を子供に見 てもらおうとする計算があるのだろうか??。 だから、現在の教育現場のあらゆる歪みの責任は間違いなく、大人社会、大人の企業の 価値観、そして大人が子供に与えた情報(ドラマやアニメ)にある。 ・・・・・・・・・ そもそも、20年前には、大人社会の「裏側」を扱ったドラマなどはなかったのだ。 ドロドロになった人間関係や、大人の使う策略や偽善や虚偽をドラマにしたものなど、 そんなに多くはなかった。映画ではあっただろうが、お茶の間のテレビの中には、その ようなものは、ほとんど存在しなかった。当時、「子供が見る番組」として存在してい たのは、お笑い番組と、歌番組、アニメやクイズ番組などである。 しかし、今の子供達は、報道番組やトレンディードラマを通じて、人間の不正、不倫、 暴力、汚職、犯罪といった大人社会のすべてを見ているのである。これで、暴力の方法 や恐喝方法や、嘘のつき方や、社会の裏側を「覚えるな」という方がどうかしている。 ・・・・・・・・・ そして、結局は、おそらく、このままいけば、子供の暴走のみならず、大人社会全体の ストレスの解決法として、人類は、必ず脳内麻薬である「プロザック」や「ピセタム」 を飲ませるという安易な方法に走ることだう。 その時、人類は「取り返しのつかない事」をしてしまった事に気がつくだろう。▲では、どうしたらいいのか??▲ ●答え= 寺子屋へ戻れ!● まず親たちは、あなたの子供の勉強内容、つまり中学や高校の教科書を見てほしい。 子供にとやかく言う、そのあなた本人は、いったい現在の中学の何年までの学力レベル だろうか??。 そもそも、親が子供に教える事も出来ないような内容の学問が、どうして必要なのだろ うか??。私が小学生の時、その教育レベルというものは、親が教えることが出来たも のだ。だから、親子の間で勉強に関しての話が成立した。学校で分からなかったことは、 家で兄弟や親に聞けば分かったものだ。 だが、今では「子供と親」の間に、あまりにも学力レベルの違いがありすぎる。しかし、 かつて学校で習った内容で、いまだにあなたに役に立っている知識はどれほどだろうか。 全くではないにしても、おそらく、ほとんどありはしない。 そもそも、義務教育のレベルがなぜ、こんなにも「無意味に」高くならねばならないの か??。なぜ、こんなにも多くの教科がなければならないのか??。人間が生活して行 くのに必要な基礎教育は、極論すれば、この現在でも、やはり「読み書きソロバン」な のである。 現代ならば、これに、英語とパソコンの基礎が加わるだけで義務教育など十分である。 あとは、おなじみの、美術・音楽・体育といった、いわば点数のつけられない教科であ る。また、農作業や簡単な工業実習や、調理などの授業もあってもいいだろう。 そして、そもそも高校からは、多くの学校を「職業訓練」を中心とした専門学校にすべ きである。また、学術研究に進みたい者には、そのような学校を用意し、そこへ行けば いい。 専門学校以外の、現在の多くの大学と社会の間には無駄な溝がある。つまり、大学へ 行ったところで、社会の実践の中では何の役にも立たないような大学があまりにも多す ぎるという事である。それなのに、ただ大学を出たからというだけのレッテルをもらう 為に行く大学などには、全くなんの意味もありはしない。 すなわち、「大学へ入るための勉強」などは、そもそも全く無意味なのだ。だから、 まず義務教育である中学3年までの教育内容を、可能な限りレベルを落とし、本当に必 要な学習や素材だけに絞るべきである。 ほぼ全員が、同じ程度の学力に至るようにして、落ちこぼれなどというものが存在しな いようにすべきである。 ただし、飛び級は小学生の時から全面的に認めるようにすべきだろう。 また、極論すれば、中学生の3年あたりでは、個々の生徒が関心を持たない教科は、 やらなくてよいようにすべきである。 とにかく義務教育までは、いくつかの「サンプルとしての教科や実習」をばらいまいて おき、あとは、子供が自分で学びたい方向を決めればよい。 むろん、中学を卒業したらすぐに何か技術をつけて就職しろという事ではない。中学以 後、約4年ほどは、あれこれと専門学校を転々としてみればいいのである。 かつての日本では、学問は自ら「学びたくて行ったもの」だ。そもそも、学問とは、 いやいやながらやるものではないのである。 1998 2/11 鈴木方斬さて、話が教育論に脱線してしまったので、ここでもう一度「殺人」の本質について まとめるために、EOという神秘家の言葉を以下に記しておきたい。 結論・『殺戮は悪と言えるか否か?』EO この結論の主旨は殺人や殺戮を「肯定」するのが目的ではなく、 殺人や殺戮が少なくとも「悪と言える根拠がない」事を論じるのが目的である。 すなわち、殺人や殺戮を善とも悪とも、どちらにも断定しない位置から、 これらの問題を扱うことになる。 ・・・・・・・・・ 一般に殺戮や殺人は、悪と定義される。しかし、その根拠については、 いかに曖昧であるかを論じる事で、人間の洞察のなさを露見するのが目的であり、 殺人を肯定するのが本論の目的ではない。 むしろ、殺戮や殺人の衝動を人間の当たり前の属性として冷静に眺めてみて、 深く考えもせずに殺戮という行為を、ただ感覚的・観念的に「悪」として定義して取り 扱った事が、結果として人間社会に引き起した『自己矛盾』を洞察してみようというわ けである。我々が殺人をしない理由
殺人に関して、いかなる処罰もないという自由の中で、人類が殺人をしなかったら、 その時には、人間の精神性には何かの価値があると我々は認めてもよかろう。 だが、もしも投獄や死刑という処罰による脅迫がなければ、殺人は、何十倍にもなるこ とだろう。すなわち、人間が殺人をしない主な理由は、宗教上のものでも、精神性や愛 によるものでもなく、投獄や死刑の罰則によって自分が苦痛を受けるのが怖いという、 ただそれだけの理由である。 誰も殺人を悪とも思わないし、とがめもしない世界で、(たとえば戦場で)なおかつ、 殺人を行わない、いかなる理由が貴方にあるか??。 そこでは、殺人は悪どころか、その量によっては勲章と年金まで戴けるのである。死刑の形態の矛盾について
アメリカでは被害者の遺族の前で死刑が執行されるらしいが、 日本ではそのような事はない。 しかし、現代社会で暴力と殺人がいとも軽く行われる原因のひとつは、 死刑を人の目から隠すことが大きな原因のひとつであると推測される。 しかし、死刑とは、もともとは「さらし者」にすることによって、 庶民に『警告』を与えるのが、その本来の純粋な目的であった。 江戸時代までは罪人は「腐るまでさらし首」にしていた。あるいは首切り場には、 大勢の見物人もいた(子供だってそれを見ていたことだろう)。 また、外国でも拷問と死刑は、常に公衆の面前で行われてこそ「警告としての意味」が あった。それが本来の死刑のあるべき姿だった。 ところが、死や死体というものを病院や警察や屈折したモラルが、 それらを我々の目から見えなくした。 現代では死体や死刑は醜いもので、まるで、汚物であるかのように扱われるのである。 しかし死刑を執行するならば、本来の「さらし者」の形に戻さねば、 いかなる殺人犯罪の抑止効果もあるまい。 すなわち、ガスではなく、首切りでも首吊りでも、飢えた鮫や猛禽類に食わせるのでも よいから死刑は「より残酷な方法」で執行され、 しかもそれは、「公開」されるべきである。 それができないのならば、 もはや死刑が脅威として実感できる脅迫効果もなくなった現代では死刑などは必要ない。 死刑とは、本来は本人を処罰する事以上に、庶民への「警告効果」こそが、その目的の ひとつだったからだ。被害者の命の『重さ』が異なる事実と、 罪の『重さ』が量られる奇妙な基準
非常に奇妙なこと、あるいは当然のことなのだろうが、 殺人とその罪悪感には、かなり段階的なコントラストが存在する。 1)死体の損壊の状態の程度によって残虐かそうでないかの感覚的決めつけがある。 たとえばバラバラ死体は凶悪に見えて、薬物投与は残虐に見えない。 2)バラバラにしたり埋めたりして、遺体処理の手が込んでいるほど殺意と事後処理が 「冷静に継続している」とみなされ、より残虐な行為または犯罪者であると見なす傾向 がある。 一方、毒物をコップに入れただけの殺人の場合には、同じ結果であるのに、 なぜか、この感覚的な見方は変わるのである。 むろん、被害者が死に際して受ける苦痛の程度が考慮されているのだろうが。 3)被害者の社会的位置づけで、残虐か、そうでないかの感覚的決めつけが存在する。 たとえば、刺殺された被害者が酒びたりのホームレスだった場合と、 暖かい家庭に生まれた幼児だった場合には、ここにもなぜか比較が存在する。 さらには、被害者が有名な芸能人や政治家だった場合には、その死、または犯罪は、 マスコミにとっての大切な「ビジネス」となるのだ。 したがって、「命は公平ではなく」被害者の社会的有用性、経済的影響範囲によって、 あきらかに、そこには「値段」がつけられているのである。 さらに欧米では、有色人種と白人では、社会的な価格が違うというわけだ。 したがって、被害者が有色人種であった場合も、その価格には変化が起きる。同一種の殺戮が悪である根拠などはない
この社会では、どういうわけか、異なる種の間の食物連鎖は容認される。 ところが「共食い」は自然界でもあまりないので「不自然」であると、 なんの根拠もなく見なす前提がある。 ここから殺人(人間同士の殺戮)は悪とする決めつけが生まれている。 だが、動物同士は自然によって繁殖や脅威となる勢力が完璧に制限されているから、 同一種で食い合う必要は、めったにないとしても、それは人間には全く当てはまらない。 人の繁殖をうまく抑制して殺せるのは、微生物を除けば、 人間同士だけであるからだ。 我々個人は、その生涯に膨大な資源を浪費して、他の生物を食って生きるが、我々人間 にそんな資格や、価値があるのかすら、はなはだ疑問である。殺戮における罪悪感のコントラスト
殺人の罪悪感というものには実はコントラストがあるという事実を洞察してみるとよい。 あなたが手を汚さない殺戮にはあなたは罪悪感を感じない。 あなたが尊厳を感じていない害虫のことは、まさに虫けらのように殺すのだ。 200年ほど前は、他人を殺すということは、一頭の牛かイノシシを刃物で殺すのと同 じわけであるから、手間も体力もかかるものであった。 おまけに相手に目の前で「命ごい」でもされれば、あなたは、殺した後に、嫌な後味が 残るだろう。 だが近代戦では、あなたはボタンを1回押せば、何百という人間の血も肉の破片も、 子供の悲鳴も誰の悲しむ声も聞くことなく、はるか上空の戦闘機から殺戮を行える。 そのとき、あなたの罪悪感は単に「下界は、たぶん悲惨だろうという推測」の中にのみ あり、まるで実感などする事はない。 また、あなたが大統領やら何かそういった命令者の立場にいて、 殺戮を現場で「執行する立場」にいない場合には、 あなたの罪悪感は大幅に軽減されるか、ほとんどの場合は{皆無}である。 すなわち、 1)殺戮の手段と死体の状態、 2)殺戮の時に執行者本人に知覚されているもの、 3)殺戮する相手に感じる生命の尊厳の「程度」、 これらによって、あなたや社会の罪悪感は変化するという事実がある。 だからこそ、あなたは、自分に見えない生物の死や殺戮をなんとも思わない。 自分に見えるごく狭いもの、見えたもの、自分が共感出来るもの、 知り合いの死しか、あなたには痛切には死を感じない。 このようなわけで、自然との共存だ、やれ生命は大切だといったところで、 我々人間が『生命として認識している範囲』には、極度な限界があるわけである。 では、将来もしも植物や鉱物にも意識があり、また苦があることが立証され、さらに、 彼ら植物や鉱物が人間とコミュニケートできて、『殺さないでくれ』とコンピューター を通じてメッセージをいってきたら、あなたはなんと言うつもりなのだ?。 きっとあなたは、こういうだろう 『生きて行くには、しょうがない摂理なのだ。おまえら植物だって、 土の養分を殺して生きているじゃないか』・・・ ・・・・・・・・・・ かくして、もしも本当に、命があらゆるところに実感として認識されたとき、人々は、 生命に愛を持つのではなく、むしろ、そんなことを言っていたら、 空気も吸えず、生きて行けないということに結論がいきつく。 したがって本当に幅のある知覚力を持つ意識体や知性体は、むしろ宇宙では生命の尊厳 などをいちいち感じない。そしてまた、人間や自分だけを大切にすることもない。 あらゆるものが共存し、生死などは、毎日のとうぜんの現象であるかぎり何かが生きる ために、何かが死ぬのは、あたりまえであり、その死ぬ側に、いつ自分が位置しても、 それは公平だということだ。生命そのものが絶え間無い殺戮と死によって成立する
実際には、死によって支えられていない生は何ひとつ存在しない。 あなたの肉体の中では、無数のものが毎日、毎分、毎秒、死ぬ。 ある有機体がその有機的な機能できないまでに分解するということは、その有機体の死 である。我々はいつも、人間の死、それも自分の死ばかりを問題にする。 だから、遠方の戦争の死体など見ても、それはただの映画にすぎない。 死体の写真などいくら見ても、それはただの「死体のアート」にすぎない。 しかし、死というものの厳密な定義が「有機構造体の分解」であるとするならば、 何かが死んでいない瞬間など、この世界のどこにも存在しないのだ。 あなたが飲む水のために消毒されたダムの源水からは、無数の微生物が死ぬ。 農薬を使えば、微生物や虫という動物が死ぬ。 あなたの肉体の内部でさえも、白血球は、無数の有機体を殺している。 人間たちは、死がいけないとか、命が大切だという場合に、常に、 人間勝手な範囲、つまり人間勝手な規模とスケールで物事を語る悪癖がある。 だが、命とは、まさに死と殺戮そのものに支えられているのだ。結 論
1)人類の発生以来、人類には、ただの一日も、殺人のなかった日はない。 殺人または暴力は、悪ではなく人類の属性である。(ただし善とも言っていない) 2)罰が皆無の無法状態では、間違いなく殺人は急増する結果となる。 したがって精神性ではなく処罰への恐怖だけが殺人を抑止し得るものである。 3)ただしその処罰は、公衆の面前で執行されねば、全く処罰の意味がない。 4)同じ殺戮という結果であるにもかかわらず被害者の命には、価格がある。 同じ人間であるにもかかわらず、雑草のような命から、大事件になる命まで 『社会的な』段階があるのだ。 5)同じ行為であるのになぜか加害者の罪にも価格がある。 したがって裁判などがあるのだが、殺人は本来ならば、正当防衛すらも認めず無条件に 加害者を死刑とする方が、場合によっては物事の整理がしやすく、抑止効果があるとも 思われる。 6)殺人の罪や処罰は、あくまでもその時代の国家または組織の政治的状況下における 「変動的な法」が基準であり、その基準は、断じて精神性や普遍性ではない。雑 感
すくなくとも、生存するための日常生活だけに関しては、 何万年にも渡って我々は一切の哲学も宗教もモラルも必要とせずに成立させてきた。 つまり、宗教や哲学やモラルは、本来は人間の「生活必需品」ではない。 少なくとも、生存するためだけならば、弱肉強食のほうが自然であり、 知能と体力が強い種の人類が生き延びてゆくのが、生物学的にもメリットがある。 やれ、「共存だ、愛だ、協力だ、平和だ」など口ではいうが、それらは単に、多数決で 「生存する手段としての妥協と調停」のことを言っているにすぎない。 平和も協力も愛も、すべて生き延びるために必要になったものであって、 それ以外の目的はあり得ない。 やれ高い意識の発達だなんだというものへの修行もまた、つまるところは、 自分が苦しみたくないからである。しかしなぜ苦しみから逃げようとするのだろうか?。 それは、結局は、苦しみとは長期的に見れば「自分の死」に至るからである。 このように「生きるため」という論理に還元されるようなものは、すべて同じ 『生存教』という宗教にすぎない。 しかし、もしも、生存することは正しいという論理が成立してしまうならば、 1)我々が生存するために、殺戮している食物の生きる権利はどうなるのか?。 2)もしも生存は正しいとしたら、別に生きたいとも思っていない植物人間につけられた 電極や人工呼吸器にも意味があるのだろうか?。 3)もしも生存が正しいとしても、それは誰の生存のことを言っているのか?。 嫌悪する民族同士がいたら、そのときは、どっちの生存が優先されるのか?。 4)また、すべての人間が平和共存したとしても、それによってもし人口過剰で危機が くるとしたら、生存や延命行為や出産制限をどうすべきなのか?。 命は大切です、など言う『矛盾した論理』があるかぎり世俗も宗教も、 すべては『生存』を最優先の目的とし、そして生存を最優先するために、結局は、 その『生存そのものの目的とは何かという疑問を問うこと』をしない。 「生きるのは正しい」というこの『妄想』は誰が聞いてもあたりさわりなく賛同される ために、自分で物事を全く考えようとしない者がたびたび持論の「最後の切札」として 持ち出すことが多いものだ。『でも、とにかく、生きるんだ』と。しかし、・・・ 『では、結局は、一体何のための生命なのだ??』と哲学者は言うのである。 EO『エコロジーに異論あり』人命の価値や地球の価格などは それぞれの生物の視点で変わってしまう。 したがって普遍的な平和共存などは不可能である。 ■■■■■■■■■
ところで、環境問題というようなものが、人間にのしかかっているようである。 だが、こうした事は、それを見る意識や思考の「視点」の変化によって、 その問題意識は全く変わってしまうものである。 環境問題というのは「このままだと、ゆくゆくは地球上の多くの生物が死滅するかもし れない」危険性を根拠にして叫ばれる。 だが、注意すべき事は、これを叫んだ時点で我々人間は、もう既に、 「人間本意」の考え方、あるいは自分たちと利害関係があったり、 自分たちが見た目で愛着を持つような動物のことばかりを念頭に入れた「生物本意」の 考え方に毒されているという事だ。 というのも温暖化あるいは低温かは、もしかすると、 次世代の地球に生息する特定の植物や、昆虫や、ウィルスたちにとっては、 むしろ逆に繁殖に「非常に好ましい環境」となるかもしれないのだから。 また極端に言えば、化学物質の汚染で、仮に地上からすべての生物が消えたとしても 「鉱物」や「宝石」としてのこの惑星それ自体は、何ら問題もなく、 地球はこれからも存在してゆくのである。 またハッブル望遠鏡で遠い銀河群を見れば分かるように、地球に類似する環境の惑星な どは、まさに腐るほどあり、宇宙ではいくらでも生物などは発生している。 別の銀河に対しては、いまのところすべてが単なる「推測」なので、 「地球の命を大切にしよう」などと言っている。 だが、いずれ、もしも実際に別の惑星で生息している無数の種類の生物を自分たちの目 で見たら、地球人は自分たちの惑星環境や生き物に対して、今ほどには固執をしなくな るのは必至であろう。 自分の住むところが「ここしかない」とか「人類に類似する知的生命体は自分たちしか いない」などと妄想すれば自分たちの惑星や人間と言う種に固執するものだ。 だが住む惑星などどこにでもあり、いくらでも知的生物が無数に存在するという 「全宇宙」という視点からすれば、人間と言う生物の危機などは、ほとんど誰も問題に などしていないという現実も充分にありえるわけである。 ・・・・・・・・・ たとえば、あなたがうっかり蟻たちの巣穴を壊してしまったとしよう。 蟻たちの社会にとっては、それはとんだ災難であり大きな環境問題である。 だが、あなたは言うだろう、 「いや、すまなかった。でも地面は広いのだから、 またいくらでも巣を掘ればいいじゃないかね。」 蟻たちのその怒りや悲しみと、あなたの「大した事じゃない」という気持ちの その二つには、余りのも大きな認識の違いがある。 しかし、ミクロの次元というものはさらに果てしないものだ。 たとえば、あなたの内臓から切除されたガン細胞にとっては、 その切除という事件は、まさにガン細胞たちにとっては、自分たちの住む宇宙そのもの が崩壊させられるほどの危機感と不幸だったのかもしれないのだ。 このように、常に、いろいろな問題で騒いだり叫んだりするのは、 あくまでも被害をこうむる者たちの「認識範囲(知覚領域)」を前提にしている。 こうなると、一体誰が不幸で誰が幸福かとか、誰が被害者で誰が加害者かという問題も 確定が出来なくなる。それほど多種に存在している、生物の、 「一体どの生物の利害関係が優先されるべきなのか」などと言う事には、 全く基準はないわけである。 宇宙では地球ばかりでなく、どこの宇宙であれ、固体や集合としていきる生物には、 自分の固体を優先して大切にし、自分たちの家族や「群れ」を優先して大切にし、 自分たちの「種」を優先して大切にしようとする本能だけが存在する。 そしてこの「自分の一部であると実感する範囲」は、決して知識では実感とはならない。 というのも、いくらあなたが顕微鏡を覗いたところで、微生物に対して翌日から愛情を 持つわけではなく、いくらあなたが望遠鏡で星を見たところで、翌日から銀河系規模の 視点で地球を見るわけではないのだから。 「グローバルな視点のため」などと言って、エコロジーやら天文学やら、何の知識をど う頭に詰め込んだところで、いっこうに人間や生物は、 「自分の心身の死活問題に直結するような範囲の問題」に対してだけ、日々集中し続け ているのが現実である。むろん、それは本能であるから変更のしようがない。 こうなれば、当然の事として、異なる生き物の間では、 闘争は絶対に避けられないものとなるのである。 従って(極論すれば)闘争というもの、殺戮というものが完全に回避される可能性は たったの一つしか存在しない。 それは宇宙の全生物が、自分の身体や自分の種や自分の惑星に対して、 「何一つも愛着を持たない」という意識状態である。 なぜならば、何かに愛着を持てば、かならずそれを守ろうとする。 何かを守ろうとすれば、かならず闘争か、もしくは「無理な共生」に陥ってしまう。 そして無理な共生は必ずその犠牲となる生物を発生させてしまう。 だが宇宙ではただの一度として、 ここの生物が「自分」又は「自分たち」の生存を第一に優先するようにプログラムさ れなかった事はない したがって、闘争や殺し合いや捕食行為は、「生きるため」という正当化によって、 それぞれの生物間で、これからも「永久に続いていく」のである。 だから、環境問題を叫んだところで、それは一体誰のための環境の事を言っているのか を考えてみるとよい。 こうした思索は、結局は、知的あるいは物理的に強い物が生き残るという「弱肉強食」 が正しいという論理に落ち着くのだろうが、 さりとて、生とは「生き残ったから幸福だ」というような単純な問題でもあるまい。 1998 3/4 方斬 記『全宇宙における生物の生と死』 BY:方斬 何事であれ、何が「正しいか」という事の定義は困難である。 第一に「正しい事があるはずだ」という前提に、まず疑問の余地がある。 何かが正しいとか正しくないかは、「誰かが苦痛かそうでないか」とか、 「誰かの生存に有利か不利か」という事で計る事も多々あるが、 明確に善悪が定義できない場合が実に多くある。 ところで、人間の脳活動をも含めた自然法則には一切の誤動作はない。 というのも人間が自分の脳や身体に対してある特定の使い方をしてしまい、 その結果として我々が大きな苦痛を受けてしまったという場合にも、 結局は、どこにも「誤動作」などは存在していないからである。 そこには単なる「原因と結果」があるのみであり、 要は、それらの刺激の知覚信号を「経験する主体」が、 それを苦痛と感じるか、それとも快楽と感じるかの問題だけである。 しかし、その苦痛と快楽の区別でさえも、その線引きが困難であったり、 よく見れば、もともと「苦と楽は相互依存している」ものなのである。 ・・・・・・・・・ さて、人間と人間以外の生物もどちらも世界の創造者(あるいは創造法則) なるものから、「生きている事の明確な目的」を示されていないという点 では全く平等であろう。ただ人間以外の生物は生存の問題で哲学的に悩ん だりはしない。彼らは遺伝子に組み込まれたプログラムどうりに生きて死ぬ。 しかし、それでは、人間が哲学的に悩むことや、何かの精神的修行をする 事は、遺伝子に組み込まれていないもので、それが超自然的知能の進化に よるものか?、と言えば、そんな事は全くないといえる。なぜならば、 そもそも我々が哲学などしてしまう事自体のその根底には、我々の生存が 脅かされたり、他の生物には発生しないような無駄な心理的な不安や葛藤 が生じざるを得ないという構造上の原因があるからである。 我々は決して「純粋に知的な動機」から哲学をするのではない。 哲学は、いかにも知的遊戯であるかのように見られやすい。 だがあらゆる種類の哲学は、極めて動物的な『生存における苦への恐怖』 がその本当の背景となっているのである。 だから、人間は科学によって何を作り出し、哲学によって何を思考し、 宗教によって何を信じ、また瞑想などによって何をどう訓練したところで、 基本的には、極めて動物的で恐怖に満ちた状態のままなのである。 しかし人間と、人間以外の生物の、はたしてどちらが幸福であるか、 または苦しみが少ないかという点になると、 動物たちもまた、決して幸福だとは言えないだろう。 ただ、人間以外の生物の多くは、心理的葛藤や羞恥心や、見栄による欺瞞 などという余計な不幸を生み出す事はあまりない。 彼らとて、縄張り争いや、餌や異性獲得の為の争いによる、一時的な闘争 感情はあるだろうが、人間のようにいちいちそれらの経験を記憶しては あとまで根に持つようなことは、(全くなくはないが)ほとんどない。 しかしだからといって、自然が「絶対的見本」であるかと言いえば、 自然とても何ひとつ人間の手本や生きる基準にはなり得ない事も事実だ。 とかく人間は「人間は間違いを犯しても、自然には間違いはない」などと 思いがちである。しかし、自然が正しいという根拠もまたどこにもない。 自然界の様相ときたら、微生物から高等生物に至るあらゆる生物はあいか わらずその一日のほとんどが「空腹の苦」にさらされているのである。 ・・・・・・・・・ ところでブータンという国には「国民総幸福論」というものがあるらしい。 私は詳しいことは全く知らないが、噂によればブータンの政治や経済の根底 には国民の幸福の基準となる「思想」があるらしい。 テレビで見たかぎりでは実際の生活形態としては、昔の日本にも似ており、 人々は民族衣装で暮らし、物質を大切に使い、自給自足し、「病的先進国」 からの有害情報や物流も適度に規制されている。 この国では経済発展が目的なのではなく、 国民のつつましく「平和的な生活の維持」にこそ主眼があるようだ。 一見すると、こうした国は理想的な国家であるように人間の目に映る。 しかし、そもそも「人間」という種の集団には、事の最初から理想的社会 の実現などは不可能とも言えるのである。 我々は、よく、人類史の中で、一体いつの時代が幸福だったのだろうと、 ふと考えることがあるものだ。自国で言うならば、江戸時代なのか、 それとも明治ごろ、それとも縄文時代なのかと。 しかし、私個人としては、どの時代であったにせよ、 人間が集団として幸福だったことはなく、また、人間以外の生物が普遍的 に幸福だったこともないと考えている。 ・・・・・・・・・ ならば、我々や生物たちは、何億年もの時を、そしてこれか何十億年も、 「一体なんのためにこの宇宙に存在しているのだろう??」。 どうみても、あきらかに我々を含む生き物たちの宿命とは、 「飢えと満足」という名の「不幸と幸福を往復する機械」としか見えない。 『死心伝』の著者であるEO師の透徹した視力によれば、 地球という惑星はむろんのこと、それ以外のいかなる星系や、 非物理的な次元世界においても、そこで行われていることは、 『思考や感情の生産業』と見なされている。 我々が、自分たちの生存環境において、苦痛を経験しようが、快楽を経験 しようが、至福や愛の深さを経験しようが、絶望を経験しようが、 そんな事は「収穫者には全く関係ないこと」だ。 常に収穫者にとって関心があるのは、収穫量と、収穫物の品質のみである。 ちょうど、我々人間の農業生産者にとっては、作物や土壌中の生物たちが、 「自分たちの生をどのように感じているか」などと言う事は無視しており、 ただ収穫量と品質のみが収穫者にとっての重要問題であるのと同じだ。 ・・・・・・・・・ あるときEO師は私に人間の発生する感情が別の宇宙の生物の中では、 いくらで取り引きされているかという『価格表』、 いわば人間の精神の「人心売買」の価格表を見せてくれたことがあった。 つまり我々が日々発生している憎悪や、愛や執着や恐怖や殺意にも、 珍重される感情や、収穫量が多いと喜ばれるものがあるというのである。 その価格表には、我々人類が愛や快楽や幸福感、満足感や笑いとして感じ る感情の品名から、我々が悲しんだり怒ったりする感情、そして軽い嫌悪 から殺意や自殺願望まで、あらゆる感情の種類の名称が、 数十種にわたって「品種分類」されており、それぞれが各次元間、または 銀河系間で取り引きされる時の価格が表示されていた。 すなわち微生物から人間、そしてさらには別の宇宙や異次元の世界の住人 たちも、結局はどこもかしこも、「感情農場に生育する作物」である、 というのがEO師の見解である。 したがって、人間の感情の起伏が低迷すれば、 ちょうど我々が植物の成長が悪くなると、肥料を与えたり、枝を剪定して 植物に刺激を与えるように、「収穫者たち」もまた人類のさまざまな感情 の成長をうながすための薬品を投与したり、品種改良をほどこすのである。 その結果として我々個人の中、そして集団としての人間社会の中では、 他の動物たちに見られないほど屈折した感情の根が生育し、 常に不安感情と享楽的感情の葉が青々と覆い茂り、 時には絶望という見事な花が咲くほどにまで成長させられる。 ・・・・・・・・・ 言うまでもなく、我々は自分の意志で生まれてくるわけではない。 また親の意志で生まれたり、母体で成長するのでもない。そもそも人間と いう種の発生原因と、その精神の仕組み(設計)自体が被造物である我々 人間や、その他の生物自身の意志によるものではないのは明白な事だ。 ここで、いわゆる宗教や自然崇拝という妄想は、世界や宇宙の創造者なる 誰かが「善意から人間や万物を作り出した」などと考えてしまう。 だが、現象世界をよく見れば、あきらかに善意よりも悪意に満ちた設計 または「生産者に都合のよい設計」で生物は出来上がっているものだ。 にもかかわらず、彼らは自分たちの存在のその「無力さの事実」を認めた くはないのであろう。そういう点では科学もまた一種の宗教と見なせる。 しかし、もしも我々生物が、「感情農場」という農園の、単なる「作物」 であるならば、そもそも最初から最後まで極めて無力な存在なのだ。 我々は遺伝子をコントロールできるようになったと自慢などをしているよ うだが、我々の意志や知能すらも収穫者によって品種をコントロールされ、 収穫者によって成長させられ、収穫者によって余計なものは処分され、 収穫者によって収穫され、売買され、宇宙の誰かの生存の糧となる食品に すぎない存在なのである。さらに、自殺などしたところで、 次のどこかの星の農場で、やはり作物人間として生まれるだけである。 このような宇宙像が当然の前提となっていう「EOイズム」では、 いかなる形で、いかなる次元に生まれ変わってそこで生存したとしても、 くる日もくる日も、宇宙では何かを生み出し続けなければならない。 いきあたりばったりで何かを口実にしては、生き物が自分たちの体や精神 を「休みなく動かしていなければならない」という、「宇宙産業」自体が EOイズムでは疑問の焦点となっている。 ・・・・・・・・・ このホームページでは「EOの宇宙論」は内容の構成上あまりにも飛躍が あるために、EOイズムのほんの断片のみを「死心伝」に組み込んだ。 もっと詳しく知りたい方は『虚無宇宙からの伝言』に記載のEO師の著作 (9作)のうち、次のものをぜひ一度読まれる事をお勧めする。 『ひきつりながら読む精神世界』『廃虚のブッダたち』いずれも、マンガ 古書で有名な「まんだらけ」出版部発行につき全国書店で注文可能です。 また、限定自費出版物で出ている『反逆の宇宙』などを読まれる事もお勧 めします。 1998.2/27. 記http://www.mumyouan.com/d/js-i.html = 目次に戻る
この空間は 1997/08/15 に生まれました。