第四章 特別資料編 『死心伝』 善悪基準は 生死の分別から発生している ******人類への遺言****** 社会、あるいは人間の「善悪基準」とは、一体何なのであろうか?。 何かが「いけない」と誰かから言われたり、 何かを見聞きしたときに「なんとなく」それがいけないことだと、 ついつい「反射的に思ってしまう癖」が人間にはあるものだ。 よく考えてもみないで、ただ「いけないと教え込まれた」ために、いけないと思ったり、 あるいは、外見が「いかにも良くないように見える」から感情で悪いと判断する物事が 我々の生活の中で実に多くある。 しかし、人間が日ごろ、生活の中で、あるいは宗教や寺などで実に軽はずみに 「いけない」とか「いい」と言っているものは、よくよく洞察してみれば、 それはすべて『ある単純な問題』に集束しているのである。 ********* 例えば、「いじめ」はなぜ、いけないか?。ためしに逆に、仮定してみよう。 もしも、いじめられた者が、気分が楽しく、そして健康になるとしたら、 いじめは悪いとは言えなくなってしまう。つまり我々の社会では、 いじめられた者は落ち込んでしまい、活動しなくなりやがては「不活性」になってゆく。 そして最後には自殺するケースもある。つまり『死』がそこに見えるのだ。 ********* 「戦争」はなぜ悪いのか?。それは殺される者がいるからだ。つまり『死』だ。 しかし、「勝って生き延びた側」には、それはまぎれもなく『善』なのだ。 ********* 「学習」をしないとどうしていけないのか?。 それは生きて行くのに、情報に適応できなくて、不便になるとか、 あるいは、何かと知識を知っていたほうが、生き延びるのに有利だからだ。 すなわち、無学だと、『死ぬ』可能性が多くなるとでも思い込んでいる。 だが、実際には、下手に物事を知ったために死ぬケースすら多いのだが・・・。 ********* また、どうして、「病気」は悪いことと決めつけるのだろうか?。 それは生きて行くのに不便であり、病が進行した場合には『死』があるからだ。しかし、 病気をすると、そのあとは以前よりも何倍も健康になる・・・などという事が医学的に 証明でもされたら、一体どうなるだろうか?。 ********* なぜ、挨拶をしなかったり、「無愛想」だといけないと言われるのか?。 他人とのそうした(軽薄な)接触がなくなると、いざ困ったときに、誰も助けないので、 生存に不利なのである。 ゆくゆくは『死』か、あるいは「生きるのに不便になるであろう」というわけだ。 ********* 女性が容貌やスタイル、すなわち美容に異常なほど執着するのは男性からは単なる愚行 としか見えない事だろう。だが、女性にとって、社会的に美しいか醜いかという問題は、 その根底にあるものは、彼女たちの死活問題であるのだ。 女性は美しければ(というよりも、美しいとその時代の多数決で決まれば)、 少なくとも醜いと呼ばれるよりは結婚可能な確率が増える。 また社会進出をしたところで、結局は男性社会が支配的であるこの時代では、 美しいとされる女性には商業的な商品価値もそこに加わり、 彼女たちの収入が増加する可能性があったのである。 つまり、男性中心の基準の実力社会で、経済的に女性が自立するのが困難である この20世紀の女性にとって、美容とは即サバイバル問題そのものなのであった。 このように、我々が、日ごろ、口癖のように「良いこと、悪いこと」と言っているもの は、実のところ『生存に有利なもの』あるいは、ゆくゆくは、 生き延びるのに有利になるであろうものは「良い」という事になっており、 生存に不利になるものは『死』につながるので「悪い」という事にされているのだ。 ********* たとえば「元気がないように見える」のは、なぜいけないなどと言われるのだろうか?。 それは元気がないと、活動が静まり、やがては動かなくなり、 最後には『死ぬ』という「勝手なイメージの連想」が人間たちの中にあるからだ。 しかし、実際問題でいえば、じっとしていた者が死んだケースはほとんどなく、 下手に動き過ぎたのが原因で死ぬ者の方が圧倒的に多いのは皮肉なものだ。 ********* また、「精神病」は、なぜ悪いと言われるのだろうか?。 もしも社会に適応しなくても一生暮らす分の財産があって生きてゆけるならば、 そして誰にも迷惑をかけない隔離された環境にある精神病だったらば、 そこにはどんな悪も存在しないはずだ。 それが悪いと言われるのは常に「集団社会には不利だから」という理由である。 山下清が、もしも有能な画家でなかったら彼は単なる「迷惑な者」にされただろう。 実際には一種の精神病である彼を、変に評価しているのは、彼の作品が原因である。 彼の作品は、彼の生存にはなんら利害関係がなくとも、それを手にする他者にとっては、 生きるのに有利な「価格」がつくからだ。・・・たったそれだけのことだ。 つまり、他者の「生存に有利な物を生産する狂人」ならば、社会は受け入れるのだ。 しかし、誰かの「生存に貢献しない狂人」は、ただ幽閉されるか、ただ単に殺されるの である。このように、人間には、非常に外面的で、漠然としたあいまいでいいかげんな 『何でもかんでも生死分別に分けるイメージ回路』というものがある。 だから、人は、静かな状態や、物事の停止や不活性状態、そして病気などを 見ると、そこに最後にやってくるであろう『死』を、うっかり連想してしまう。 (実際には、それらは、死とは直接には全く関係ないにもかかわらずだ) しかし、人が死ぬという事は、生命の楽しみも失うが、 まったく同時に、生の苦しみも失うのであるから、本来ならば、 死というものの価値は、良くも悪くもない中道であるべきものだ。 ところが、死は「とにかく悪いのだ」という固定的なイメージが人間にはある。 死、あるいは、ゆくゆくは死ぬ事になるであろう兆候は悪いとする傾向がある。 ********* たとえば、「誰かを殴る」ことが悪いと言われるのは、なぜなのか??。 それは殴られた者がケガをしたら、その痛みで「動くのに不便」になり、 動くのが不便である事は、これまた「生存に不利になる」というわけだ。 だから、逆に、もしも、殴れば殴るほど、殴られた肉体は元気に丈夫になるとでも医学 が証明したら、殴ることはその日から悪ではなくなるだろう。 また、たとえ殴ってもケガをしなかったような場合でも、なぐられると「苦痛」がある のでそれは『悪い事』と呼ばれるようになる。 ********* さて、では、どうして「苦痛」がいけない事なのかと言うと、 苦痛を感じている間は、人は、「生存するための行為が出来なくなる」というのがその 理由だ。苦痛のときは、生き物は、一時的に動かなくなる。 そして、これがすぐにまたもや「動かないことは死につながる」というイメージに連動 するのだ。 また、逆に苦痛に耐え兼ねて「暴れる」という(つまり余計に動く)場合もあるが、 これまた「生存に不利な動き」をしているから悪いというイメージがあるのだ。 たとえば、狂人が暴れるとする。それは、「元気に動いていて」、 むしろ生き生きと活動しているから、「良い」はずなのだが、それは、今度は 「他者の生存や身体を脅かす」という理由で悪いとされるのだ。 ********* 一方、全く社会には、なんの生産性もなく、生存問題にも関係ないオリンピックである のに「速く走れる者」がなぜ『良い』などと評価されて言われるのだろうか?? つまり速く走れると動物の世界ならば、いざというときに、逃げられて、助かるからだ。 少なくとも遅いよりは獲物を捕獲するにも有利だ、というような見方が人間にあるので ある。(まぁー、それだけではなくオリンピックというものがテレビの視聴率競争や、 スポーツ用品メーカーの市場である面が大きいわけで、 どこかの企業や政治家の「生存に有利だから開催される」という点では基本的には それらは『生き延びる材料』である事には変わるまい。) ********* 速く走ることの価値、ということで思い出したが、 ある本の中で誰かが、こんな事を言ったことがある。 『この世界の価値基準は、すべて死からの距離で計られている』と。 すなわち、死からより遠くへ逃げられる者に『点数』が与えられるのである。 たとえば、財産があれば、飢えて死ぬ「確率」が減って、 死から少しは遠く離れられると「思い込んでいる」わけである。 (確率的に遠くへ行けるというだけで、死から逃げ切れるわけでもないのだが) ********* また、性格や、人当たりが他人に不快感を与えないとか、さらには、 他人を愉快にする振る舞いをすると、 「こいつは、私に害がある者ではない」などと相手が勝手に思い込み、 それによって、さまざまな交渉が成立しやすくなり、 それが結果として「生存に有利」になるのである。 これまた、根本的な魂胆にあるのは、結局は『生存に有利か不利か』なのだ。 他人の前で明るくすれば、生に関係する報酬がいつかやってきて、 他人の前で暗くすれば、いつかは、死が近づくとでも思い込んでいるわけだ。 だから、こうした、社会や親や教師たちや、聖職者どもが、 しょっちゅう口癖のように言う、「良い」とか、「悪い」という安易な決めつけの、 その「本当の根拠を」よく考えてみるがいい。 「なぜ、いけないと言うのか??」。 「どうして、いけないと言うのか??」・・・と。 すると、必ず、そこには、 「死ぬような結果になる方向のものは悪いものだ。 生きる結果になる方向は良いのだ」という、 実に『軽薄な基準』がある事に気が付くはずだ。 ********* ・・・では、どうして、そうまでして、生きて死んで、 その間に、自分の夢などを実現しようとしたり、個人的な趣味に没頭したり はたまた、修行などをしたり、幸福を求めたり、そんな事までして、 『一体そもそも、なぜ我々は、宇宙に生存などしていなければならないのか??』 これこそが、問われるべき、唯一の問題なのだ。 だから、次に、その事について考えてみようではないか。生き物は、生き続けるべきだ・・・ などというデタラメな事を 一体誰が決めたのか??。 世間を見ると、地球の人間たちは、よく次のような事を口に出して言うようだ。 「私は世のため人のためになる事をしているのだ」と。ならば問うが、 その人類全体は、はたして人類以外の生物や自然の為になっているのだろうか??。 寄生虫のように資源を食い荒らしながら繁殖する人類は、 大小便と二酸化炭素を吐き出す以外には、自然に返したものは、ほとんど何もない。 先進国では、死人の肉や骨さえも、土に返さない始末だ。 あなたが世のため人のため、あるいは愛する人や家族のためとか、信仰や理念の為に、 そして地球環境や宇宙の『ために』とか、自分の趣味と楽しい人生『の為に』あれこれ と奮闘して生きるのは、まったくもってして、実に結構なことだが・・・ しかし、そもそも、人間や宇宙や宗教の神、その他、あなたが生きがいとしている、 その「対象物そのもの」には、はたしてそれらは、そこに存在しているほどの価値があ るのかどうかを問う事が、「先決問題」なのであるまいか??。 ********* 最低限の衣食住の生産に従事する人々、例えば農業や建築にかかわる仕事の人々は、 自分のしていることは、人類の生存には「不可欠な産業だ」などという自負があるかも しれない。 しかし、「人類そのもの」は自然にとっては、必要不可欠な生物ではないのであるから、 そんな人類の生存と繁殖に貢献するような食物や住居を作ること自体の是非を我々は問 い正すべきだろう。 ********* また、医療に携わる者たちは言う。 「私は大切(?)な人の命を守っているのだ」と。 ********* また、よく料理人は言うものだ。 「私の作った物をおいしいと喜んでくれるのが私の喜びだ」と。 しかし医者に直された者や、その美味しい料理を食った客は、その晩には、 元気ハツラツとした一人の殺人者となるかもしれないのである。 ********* また芸術家たちは言う。「私の作った作品に感動してくれるのが喜びだ」と。 だが、それで感動する人間たちは、そもそも感動を与えるに値するような生物なのだろ うか??。そもそも人間たちが経験する喜びやそして感動的興奮や、 愛などというもの、そして宗教的歓喜や悟り、宇宙全体から見たら、 一体どれほどの商品価値あるいは存在価値があると言うつもりなのだろうか??。 こうした、「他人が喜んでくれればいいのです」あるいは「自分が楽しんでいる」など と言いながら行われる無数の創造行為や趣味や研究や娯楽、 そしてとりわけ偽善的宗教活動も、『地球の自然そのもの』にとっては、 「単なる迷惑なガン細胞」にすぎないのではあるまいか??。 我々は、むやみやたらと進化だの、愛だの、自然環境の為だの、 自分の趣味や好奇心や、研究の為だのと、そうした『何かの為』に生きる前に、 まず人類や生物や、神や宇宙やら異次元世界だの、人生の楽しみやら、 そして何よりも「あなた本人」が、そもそも、そこに存在している意味などが本当にあ るのかどうかを、その根底から、とことん考え直してみるべきであろう。 ・・・・・・・・・ さて、ならば結局のところ、人間は生の経験の中で、 一体何を求めていると言うのだろうか??。 それは、外界と生の動き、そして死の恐怖にも関係なく、 それらに『乱されることのない精神』であろう。 しかし、人は、そもそも、どうしてそんな探求を始めるのだろうか??。 言うまでもなく、それは生の中には、さまざまな「苦」の経験があるからだ。 結局、あなたは、どうなりたいのか、という事をつきつめてゆけば、 とても『極端に言えば』、こういう事になるはずだ。 ●1/どんな他人や社会や外界の自然に、ひっかきまわされるような状況でも、 その中を自由に動きつつも、それらには全く影響されない心境。 つまりは、『生とその活動に苦を感じない意識存在』になりたい。 ●2/どんなに、静寂で全く何も動きのない状態でも、 そこで退屈や不安を全く感じない心境。 つまりは『絶対静寂の無にも苦を感じない意識』になりたい。 もしもこの2つが実現されたらば、 生の中でも苦はなく、死の中でも苦はなくなるからだ。 要するに、『苦』がなくなるのである。 そういうと、よく人々は「苦もなくなってしまったら楽しみもないではないか?」など という。しかし、もしも、そう言うのであれば、 『楽しみがない事を既に彼らは苦であると決めつけている』ことになり、 その時点で、彼らはもう既に苦を「もっている」ことになるから、 それでは、苦がない状態とは定義できないのである。 そして、人は、よく『楽をしたい』と言う。 「私は永久に苦しみたい」と嘘ではなく本気で言う者などは、この世には存在しないか らだ。「一時的なら苦しんでも、その代償として後で楽になりたい」などという打算的 な事ならば、すぐに「ずるい人間たち」が言いそうなことだ。 しかし、それはあくまでも自我の『取引』だ。 「我に七難八苦を与えたまえ」なんぞと、偉そうに言う聖者がいたとしても、 「我に永久の七難八苦を与えよ」とだけは、彼にも言えないからだ。 しかも七難八苦のあげく、またはその自己犠牲の結果に、自分も他人も、 誰一人も救われない「ただの徒労」になる事が「確実」だとされたら、 それでも彼は自分に苦を浴びせるだろうか??・・・否である。 だから、凡人も、聖者も、動物も人も皆、空腹の苦や、縄張り争いや病の苦や、 生存競争の苦や、自分の死の苦を嫌うのが、生の世界というものである。 さて、これほどまでに、全生命に嫌われる「苦」であるのに、 どうして、「苦」などが我々や生き物にあるのだろうか??。 それとも我々は未熟な魂なので、生を苦だと「勘違い」をしているのだろうか??。 だが、そんな、誰かの都合のいいような論理には人間は断固賛同できない。 「苦しむのは、魂が未熟な、お前ら人間の誤解と成長不足による」などという、 そんな勝手な言い分をする仏や神や宗教など、人間は絶対に信じるべきではない。 また「苦があるから、それを超える意識に到達できる」などという導師やら、 チャネラーたちのくだらない言い分も、人類は断固として信じるべきではない。 なぜならば実際問題として、我々人類は、何万年も成長もしていなければ、 そんな意識にも到達していないし、その兆候すらないからだ。 そんな理屈では我々が、この自分の生の苦を容認できる説得力になどならない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、もしも、我々が死と無からだけ逃げるようにプログラムされていたら、 それほど「道」は困難ではなかっただろう。もしも、そうだったら、 ひたすらに、生きる事に向かえば我々の苦はなくなるはずだからだ。 ところが、その生きてゆく事に対してすらも、我々は苦を感じてしまう。 そして我々は逆にこれこそ救いになると思った「絶対の無」に向かっても、 苦を感じてしまうのである。生物は、実に中途半端に作られたものなのだ。 人は、自分の許容量を超えるほどの『動き』についてゆくのに苦を感じ、 人は、自分の許容量を超える『静寂』に馴染むのにも苦を感じてしまうものだ。 たとえれば、それはまるで惑星や衛星や電子のようなものだ。 惑星は、止まることは許されない。また惑星は、その中心の恒星と一体化することもで きない。かといって惑星は、一定の軌道の外にも自由に出る事はできない。 それは、ただ、奴隷のように、同じ軌道を回り続けるだけだ。 まるで、それは宇宙的な規模での『社会適応』とさえ言える。 「枠の外へは出るな、他のみんなより動きすぎるな。 しかし止まりすぎることも駄目だ」というわけだ。 しかし、どうしてそんなふうに動き続けたりせねばならないのかとか、 枠を出てはいけないかの「その理由」を、誰も説明をしてくれないのだ。 そして、その『宇宙に適応して生きて行かねばならない理由の説明』を求めると、 決まって『神とやら』が言うことはこうだ。 『そうしないと、生命と存在の万物が困るのだ。 第一、おまえは、その生の恩恵を受けているくせに何を言うのか?』と。・・・・ だが私は「そいつ」に言ったものだ。 『そんな事をされたら、この会社はつぶれるのだ、と言い張って、 毎日毎日社員を働かせる会社があるとしよう。では、そもそも 「その会社がつぶれてはいけない理由」を、明確に説明したまえ????。 それともうひとつ。私は存在に恩恵などは受けていない。受けているとしたら、 すぐにでも解約してもらいたいものだ。 その代償として永久の死がやって来ても構わん。』 これが、人間社会の会社ならば、こうした口論の結末は、 「そんな事を言うなら、出て行け」・・『ああ、出て行ってやる』で事は済む。 しかし、宇宙では、出て行くところなどあるまい。 すべての生き物は宇宙の奴隷として働き続けるだけなのだ。 たとえば、養鶏所のブロイラーには、自分の生命を自由に生きる権利などない。 「君は、偉大な人間たちに食べられて、役に立つのだよ」などと、 どんなに慰められたところで、ブロイラーたちが、ただ毎日、薬品入りの餌を食って、 人間の為に肥えて、最後には、ただ食肉にされるという自分たちの立場を、 一体どう「ポジティブに思え」と言うつもりなのだろうか??。 ちょうど人間たちが、「神様や仏様に食べられる(一体化できる)ならば、本望だわ」、 などとつまらぬ幻想を見ているのと同じように、 鳥たちも自分が、ただ食べられるために生まれて来て、毎日毎日、ただそのために、餌 (快の信号)に首をつっこんで、暗い檻(存在)の中で生活(生存)している事に、 自分たちが生きる意味の美化や感謝でも、しているとでも言うつもりだろうか??。 しかし、「人間様たちに食べられるのは、私たちの一番の幸せなのね」などと言うその 「鳥たちの信仰と自己犠牲」の精神に反して、 それを食べた肝心の、その人間たちが、かくも『不幸』であるのは、全くの『皮肉』と しか言いようがない。 全く同じように、おそらくは、 宗教的信仰心のある人間たちの心のエネルギーを、いくら食ったところで、 肝心の当の神が、依然として、毎日不幸な日々を送っている事だろう。 その証拠に、もしも神が本当に幸福だったら、 とっくに宇宙そのものが「廃業」しているはずだからだ。 また、この活動自体が示唆しているのは、彼ら神たちも常に 「何かのエネルギーを食わねば苦がやってくる」という証拠でもある。 もしも、神が存在に本当に満足していたら、宇宙は存在などしていない。 と言うのも、原則として満足の中では、何も生産する必要がないからだ。 すべての生産行為は、常に何かへの『必要性』からくるのが原則だからだ。 では、その『必要性』とやらは、一体何であるのか???。 いつだって、それは誰かが『生存するため』に決まっているのだ。 このように、食われるものを「食う者たち(神々)」を、もしも私のように 「単なる大馬鹿者の集団」、に見える視点に立ったらば、もはや、自分のこの生、 そして繰り返される輪廻で受ける苦には、どんな慰めも成立しない。 では、人はこの生の中を、どうやって、かろうじて、生きているのだろうか??。 空腹の時に、ご飯を食っては「うまい」と思って生き、恋愛をしては幸せだなどと、 思い込んで生きてゆき、精神世界の本を読んでは「おもしろい」などと思って生き、 霊的世界を夢想したり、研究したり、瞑想や修行をして、 「ここで修行すれば、そのうちになんとかなる」などと、勝手に思い込んで、 なんとかかんとか自分の生きる気力を持ちこたえて生きてゆくのである。 すなわち、宇宙が実は、絶望的な苦の連鎖にすぎない事を「ごまかす口実」を、 自分や他人にふりまいて、我々は、幻想の慰めによって生きて行くのである。 しかも幻想は長続きせず、また退屈がやってくるために、 常に新しく作り替える必要が出てくる。 全く、生命とは苦労の絶えない、終わりなき徒労なのである。 ・・・・・・・・・ しかし結局は、こんな創造行為で一体宇宙の誰が利益を手にするのだろうか??。 それがすなわち、『動き(宇宙の陰陽の活動)』というものなのである。 もしも生物に「苦」がなければ動きは完全に停止してしまうからだ。 つまり生物の「飢えの苦」とは、宇宙に「動き」を作り出す『重要な』手段として宇宙 では必要になったわけである。 (生かされている我々にとっては、ちっとも『重要』ではないのだが。) ********* たとえば、もしも私が惑星とその生物を設計するとしたら、食事を必要としないように 作るだろう。また仮に食事が必要だとしても昆虫から哺乳類に至るすべての生物が、 泥や雨水を飲むだけで、生涯を生きてゆけるようにするだろう。 ところが、地球を見てみるがいい。 どうして、なんの必要もない弱肉強食などがあるのだろうか??。 なぜ食物連鎖が、かくも複雑に『連結』していなければならないのか??。 この原因は、ひとつには、弱肉強食の複雑な食物連鎖によって、 生き物たちが絶えず緊張状態と活動を繰り返すからである。 また、食物連鎖によってエネルギーや情報なども運ばれるからだ。 人間に暴力的な知恵を与えて他の生物を制圧して、雑食をするようにプログラムをした のは、人間の中で食物を通じて行われる情報の「ゴタ混ぜ合成」を地球の生物飼育管理 者たちが実験したかったことも理由の一つだった。つまり人類の脳は、 単なる情報のミキサーのごとき機械として機能している。 しかし、いずれにしても、人がどのような生き方と死に方をしたところで、 人の死の最後の出口にはその調理の結果としての料理(=生命情報と生命燃料)を食う 『グルメ』または『生存中毒患者』が存在するという事は確かだ。 利用される事のないエネルギーや物質形態は決して生産されないのが、 『産業』や『創造行為』というものの基本だからである。 だから、どんなに巨大な全宇宙も、結局つまるところは、 人間たちや、宇宙の高次元知性体が毎日ここでやっているような、 この愚かな生活や企業と「全く同じこと」をしているまでの事である。 ********* 『とにかく存在しなければならないのだ』という強迫観念によって作られる、 無数の「無駄な生物」とその動きとその連鎖システム、その共存システム、そしてその 為の口実、つまり神の創造の『不始末』への「言いわけじみた宗教教義」・・・ それが全宇宙の活動の根拠の実態だ。 だが、時には探求者の一問が、宇宙意識そのものを絶句させる時がある。 真の哲学者は問う。 哲学者『宇宙の活動や、その企画の偉大さの理屈をダラダラと言う前に、 まず「君(宇宙)そのものの存在理由」を明らかにしたまえ』と。 すると、神は「嫌な顔」をして、こう言うだろう 神「その理由を君たち生物に探求してもらっているんじゃないか」。 だが、それに対して知恵ある探求者たちは、こう言うのである・・・・ 哲学者 『そんな、くだらない仕事は降りる。 輪廻などは、もうたくさんだ。 私はこんな宇宙には、二度と生まれるつもりはない!!』・・・・・・。 (EO) ******************生きるとは、飢えて苦しみ、 もだえて動くのみである。 たとえそれが宇宙の 「どこの誰」であっても 結論から言えば、結局のところは《生存の為》に我々の自我が発達し、 生存の為に思考が発達し、生存の為に善悪が存在し、生存のために宗教的口実があり、 社会や国家の生存のための自殺がある。 自我、思考、倫理、宇宙、思想、文明、これらはことごとく生存の為にある。 これらは、生存というたったひとつの命令の中で生まれた多種の手段である。 だから、これらは、唯一「生存の為にのみ貢献」する。 したがって、もしも生存という目的が消し去られてしまうと、 自我、思考、善悪、思想、文明、これらはその一切の存在価値を失う。 だから生存を目的として生まれ出るものは、宇宙のいたる次元で、 どこにでも無数に存在する。ところが、 世界には[死の為の何かをやる]というものは公然とは存在しない。 ・・・・・・・・・ では、我々の最も根底であるこの「生存」とは一体なんであるのか?? 「生まれたことは素晴らしい、生きることは素晴らしい、 生み出すことは素晴らしい」などと人々は言う(よく考えもせずにだが)。 では、「生きるとは、それはいかなる事であるか定義しなさい」という質問には、 あなたは一体どう答えるつもりだろうか??? あなたは、いつの間にか生まれ、いつの間にか生きてしまっている。 いつの間にか教育をされ、いつの間にか自分の好みの価値観だけを寄せ集め、 いつの間にか、「死ぬまでは生きていなければならない」などと思い込むに至った。 人間は、泣きもすれば、笑いもする。苦痛もあるが時には快楽もあるために、 あなたは、生きている事は「まんざら悪くはない」と思いがちだ。 また、極端な場合には、生き延びることこそ唯一の善であるなどと錯覚もする。 この中には、むろん、自然や他者との共存やボランティアなどという これまた「生存行為」も含まれることは言うまでもない事だ。 しかし、生きて動くことという、この最も根底にあるものを、 あなたは、あまりにも、うっかり見落としている。 ・・・・・・・・・ 生存行為とは、実のところは、生物の特権でもなく、人間の偉大な目的でもなく、 生きるということは、単に『苦痛の回避という行為』だけであるのだ。 ・・・・・・・・・ たとえば、我々の基本的な生存である「衣食住」、 これらは一体何の為に行われるのか??。言うまでもなく、 衣類は[苦痛]を感じないための保温のためであり、 食事は、空腹という[苦痛]を感じないためであり、 住居は、保温や外傷の[苦痛]から身を守るためである。 さまざまな文明や娯楽の発達以前に、そもそも生物の生活の最も根底にある、 この衣食住が、もともとは、それらの行為自体を「楽しむためにではなく」、 単に肉体の[苦痛を避けるために行われている]という事実にこそ注目すべきである。 すなわち、人々が「生きることは素晴らしい」と言うのであれば、彼は 「苦痛を回避しようとして[もがく]行為は素晴らしい」と言っているのと同義なので ある。 「あなたは何の為に生きているか??」に対する最も明確なる論理的回答は、 『苦痛を回避するために生きている』という事なのである。 これが生きるとは何であるかの答えだ。 そして、厳密に言うならば、それは決して死の回避ではない。 死そのものには苦痛はあり得ないからだ。 問題の多くは死の「プロセス」に向かう途上にある[苦痛]への恐怖にすぎない。 ・・・・・・・・・ さて、ここで人々は言うだろう。「人はパンのみにて生きるにあらず」と。 ところが、人間は、そのパンのみではないものが、 実は「それもまたパンに過ぎない」という事実を決して洞察しない。 パンのみの為ではない人間の活動とは、いわゆる科学、文化、娯楽、芸術、哲学、 そして宗教信仰などを「漠然と」指さして言っているようだ。 しかし、科学はもともとは「効率よくパンを手にするため」に発達したものだ。 宗教は、その多くは「結果的にパンが手元にきやすいように」善行とやらを積むことに 費やされる。また哲学とは、精神安定剤の代用物としての「観念のパン」の事だ。 「いや、パンのためではなく人間の本質の探求や、宇宙の法則の解明とその利用のため、 そして幸福と愛と知恵の拡張のための宗教なのだ」という『わめき声』が、 さっそく人類から聞こえてきそうだが、そこであなたたちに言っておこう。 あなたが、もしも幸福感を求めるとしたら、 それはあなたが幸福感に[飢えている]という事実だ。違うかね?? あなたが、もしも愛を求めるとしたら、 それは愛にまぎれもなく[飢えている]という事実だ。違うかね?? あなたが、一般的な学問や、あるいは神秘的な法則の解明を求めるとしたら、 あなたは、情報と知識にまぎれもなく[飢えている]という事実だ。違うかね?? あなたが、芸術やゲームを求めるとしたら、 あなたは、まぎれもなく刺激に[飢えている]ということだ。違うかね?? あなたが、誰かの為に活動したり、協力をしたりするなら、 あなたは、他人からの賛成や共感の声にまぎれもなく[飢えている]か、もしくは、 自分の落ち着きのなさを何かにぶつけて発散させる事に[飢えている]かだ。 違うかね?? ここに共通するものが何か、お解りのはずだ。 それはあなたの『飢え』だ。 膨大な時間と財産があっても、あなたはじっとしていられず、 退屈のあまり、何かを始めてしまう。 これらは、すべて[飢え]すなわち、『何かが足りないという不足感』以外の原因では 起こり得ない。 ただ、じっとしていて『満足』していることがあなたにできるならば、 あなたには、動いたり、何かを見聞きしたり、学んだり、誰かに会いに行ったり、 テレビを見たり、余計な創作物を作り出す必要など何一つないからだ。 また、あなたが単にじっとしていられるならば、あなたはリラックスのために瞑想など したりする必要すらないはずだ。 ところが、あなたは、衣食住が満たされていても、じっとしている事すらできない。 これらは、すべて『飢え=すなわち[不足感]』から発生する。 そして[不足感]とは、実はこれまた[苦痛]と同義である。 ・・・・・・・・・ このように、衣食住の確保安定という生存の基本行為や科学に関しても、 その発端は『苦痛からの回避』であり、 信仰、芸術、創造行為に関しても、その発端は、つまるところは 『心理的な不足感』という『苦痛からの回避』である。 してみれば、我々のあらゆる生存行為、そのための科学、文化、信仰も、すべては、 生存のため(正確には『苦痛の回避』)を目的として発生していることは明白だ。 そして、苦痛の定義とは、それは、[あなたが『落ち着けない』という状態]だ。 このように生命とは絶え間無い『苦痛』をまずその根底としている。 さて、これに異論を唱える者など、果たしているだろうか?? ・・・・・・・・・ しかし、どうしてこのような[苦痛]などが生き物に必要なのだろうか?? 実は、苦痛というものは、生物を[動かすため]に絶対に不可欠な要素なのだ。 たとえば、衣食住が満足された人間をさらに動かすためには、 彼の中に、刺激を求めて動くための[苦痛]を与える必要がある。 これが「退屈感」という苦痛である。 また、刺激を得ても、満足させないで、まだ動かそうとするならば、 彼の中に万物や自己の根源、あるいは全体との一体化を求めて動くための[苦痛]を与 える必要がある。これがすなわち「孤独感」あるいは、 探求心という名の「支配欲」または「依存欲」だ。 アメーバですら、食を求めて絶え間無く、動いている。 したがって、飢えるという基本的な苦痛は生物が動くためには必要不可欠なものだ。 ・・・・・・・・・ また、あなたは全く気がつかないでいるが、人間が利用しているあらゆる物理法則は、 『原子レベルでの苦痛』が存在するから応用ができるのである。 「原子や電子に苦痛などあるはずもない」とあなたは思っているだろう。 だが、苦痛がなければ動きというものは決して存在しないという原則がある。 原子レベルでの苦痛、それは時空間の[歪み]として経験されている。 原子の中の苦痛、それは人間が感じるような苦痛ではないとあなたは思っている。 しかし、それは実は人間が感じる苦痛の感覚と全く同じなのだ。 プラスとマイナスが出会えば、それは必ずスパークする。 しかし、どうしてそうならねばならないのだろう?? それは、もともと一つであったものを2極に分割した場合には、 その分割がそれぞれの極に苦痛を生み、その苦痛を回避しようとして、 おのおのが「元のひとつに戻ろうとする動き」を生み出すからだ。 あなたたち人間の世界で言えば、それは男女の分離だ。 これと同じことが、全万物の根底である原子、素粒子、 そして各次元空間を構成する因子にも絶えず起きている。 ・・・・・・・・・ これゆえに、ひとことに言えば、存在物すなわち、 動いているものすべては、苦痛を感じているのである。 そして、その苦痛の回避のために「もがく」こと、 それが『生きる』ということである。 生きているのは、オケラや、アメンボばかりではない。 エイズウィルスも、核燃料も、コンセントの中の電気も、電波も、あらゆるものが、 生きている。すなわち、あらゆるものが分割の苦痛を回避しようとしている。 そして、生物においては、あらゆるものが、それぞれの飢えを回避しようとしている。 肉体の飢えの苦、感情の飢えの苦、知性の飢えの苦、 そしてもともと一つだったものが、宇宙的なレベルで分解してしまった、 魂の一体化への飢えの苦を回避しようとしている。 ・・・・・・・・・ 生きるとは何か??・・・生きるとは、ひっきょう『苦痛の回避作業』だ。 苦痛とは何か??・・・苦痛とは、つまるところ『落ち着けないこと』だ。 落ち着けないこととは何か??・・・それは『停止できないことだ』 停止とは何か??・・・それは、『完全なる消滅死』のことだ。 すなわち、完全な絶対の虚無こそ、 我々が唯一、苦を回避できる場なのである。 それ以外のいかなる次元も[生きている]かぎりは、動いており、 [動く]かぎりは、そこにはその根底に[飢え]の[苦痛]がある。 これこそが、釈迦が、森羅万象は苦であると看破した、 その『根底の洞察』なのである。 だから、たとえ「悟りを得たい」などとあなたが大袈裟に立派な事を言ったところで、 それもまた、結局は、あなたは悟りに「飢えている」にすぎない生物であるだけだ。 悟りがもしも根源との一体化だとしたら、 あなたはやはり、単に、電子や原子のように、あるいは、母親の母乳に飢えている子供 のように、単に「飢えの苦しみの中」にいるにすぎない。 生きることとは何か???? その答えは、何かに「飢えて苦しむこと」であり、 「その飢えを回避しようとして動き続けること」なのである。 ・・・・・・・・・ そこで釈迦が見い出した、唯一の抜け道は、 存在をしないこと、すなわち『非在(涅槃)』へと消え去る事だったのである。 したがって、釈迦の言う悟りとは、 他の諸説紛々たる宗教の説く万物や神との一体化でもなく、 高次元への転生やら光への回帰でもなければ、 さまざまな次元世界を意識として旅をして、学習を続けることでもなく、 霊的世界への参入でもない。 まったくそんなものではない。 解脱とは、『宇宙から[おさらば]する』ということなのである。 3/27 EO可能性の検討 誰もが気がついている事ではあるが、地球の人類は、 そのまま膨らませれば、必ず割れると解っている文明という風船に、空気を送り続けて いるようなものだ。 しかも、それは、どう計算しても、あと僅かな時間で割れることは確実だ。 では、一体どうしたらいいのか、どうしたら生存できるかと言う、 「毎度お馴染みの問題」を人間たちが考えるとき、 もしも「この地球の上で」生存しようとするならば、まともに考えてゆけば、 核・電気・ガス・水道の設備とその技術を排除しなければならないだろう。 そして貨幣制度を廃止し、人口を大幅に減らす以外には手立てはない。 つまり、きわめて原始的な生活形態に逆行する以外に手立てはないのである。 ・・・・・・・・・ 実際、奇妙なことに、いわゆるチャネラーや意識旅行者の認識によれば、 西暦3500年近辺の地球上には、いかなる科学施設もない。 また、人類は全裸で暮らしている。食物というものは味覚経験以外には価値を持たず、 生存に必要なエネルギーは、いわゆる霊的振動の吸収によって行われる。 そしてまた肉体は裸体であっても、独自の保護フィールドに包まれている。 こんな話は、どこかで聞いたことがある者も多いだろう。 ・・・・・・・・・ さて、現在の人類が仮に火星に移住したところで、人間が「何を喜びとするか」という 意識に変化がないかぎり、地球よりも狭いその惑星は、あっと言う間に地球の2番煎じ をやることになるだろう。物事の管理が計画的であるのは最初のうちだけで、 いずれ火星は地球と同じ運命をたどることになる。私の直観によれば実際には火星移住 は決して成功しない。 第一、そこはもともと地球人の管理すべき土地ではないからだ。 あなたたちの目に見えるかどうかは別としても、ある種の先住民が火星を管理している 以上は、地球から送り込まれる探査機の多くは、着陸を拒否されり故障するだろう。 さて、しかし仮に人類がこの地上で「後戻り」をしようとしても そこには、大きな問題は山積みになっている。 地球には、生活必需品を作り出すのではない、なくてもいいような産業が無数にある。 我々消費者は、何もこんなに多くのインスタント食品や化粧品や電化製品を作ってくれ などと企業に頼んだ覚えはない。 だが企業の経済発展のために、必要のない新製品というものが作り続けられ、 そして我々消費者もまたそれを買い続けた。 ・・・・・・・・・ 核/電気/ガス/水道と通信や移動手段の交通は残して、最低限の衣食住の設備を確保 するようにしたとしても、そのためには、その他の無数の企業をすべて廃業にしなけれ ばならないが、それは失業者と社会的混乱を生み出すことになる。 また、理想的には国民のすべてが自分が自給できる農地を持たねばならないが、 それは人口から言って不可能だ。 ・・・・・・・・・ つまり、地球人類が、もう一度、あたかもエーリッヒ・ショイルマンの『パパラギ』に 出てくるような南海の人々のような暮らしになるためには、 どう考えても、何らかの異変が人口を現在の100分の1か1000分の1にする必要 が出てくるのである。 水も食料も、ありあまるほど自然の中にあり、 決して我々の自然な肉体にとって苛酷な気候の土地には住まず、 質素な住居の中に住むという、まるで南海の楽園の人々のように生きて死ぬためには、 結局は、手製の道具と火の利用以外のすべての文明を捨てなければならないのだ。 ・・・・・・・・・ しかも、単に貨幣制度を捨てたり、余計な科学技術を捨てるだけではなく、 人類のその日々の単純なる原始的生活の上に、 「一体何を幸福として感じるか」という根本的な変化がなければなるまい。 ・・・・・・・・・ 生活用具の発達、火の利用、油性燃料の発見、医療の発達、火薬の発明、電気の発見、 デジタル技術、言うまでもなく、これらがここ数万年の地球人類の物質的な大きな変化 のターニングポイントだった。 今後の地球でも、新しい技術が今の社会や自然環境をなんとかできると思い込んでいる 者もいるようだし、科学と自然は共存できると考えているようだが、科学と自然は共存 できても、今の人間の精神状態では自然とは決して共存できないというのが現実なので ある。 実際、もしも仮にSFのように、すべての生き物の言葉が人間の言葉に変換される技術 でも開発されたら、人類は、どれほど多くの生物を殺すか解ったものではないだろう。 隣人でさえ、単なる言葉のすれ違いで殺すような者たちが、動物たちのその正直な言葉 に立腹しないわけがあるまい。 ・・・・・・・・・ このような現実への推測から、多くの者は無意識的にであれ、 自分をも含めて、人類の大半が死滅するか、突然変異的に人間の感性や価値観が根本的 に変わってしまう以外には、暴走するこの「狂気の経済」が停止する手段はないと感じ ていることだろう。そうした正直な願望が、ある意味では地球上の人類の大半を消去す るための無意識レベルでの引き金となるのも、ご周知の通りである。 実際問題として、アンケートを取れば、「どうせ社会全体として多くの者が死ぬならば、 死ぬのもそれは別にかまわない」と思う者は多いはずだ。 それだけ、人間は自分たちが作り出したこの今の世界を、おおいに嫌っているのも現状 なのである。現在の社会の中では、死ぬことや貧困はまるで「社会的な敗北者」である かのような、軽蔑をもってして見られる傾向がある。 だが、社会的な優劣の比較などしている暇もないほどの貧困や変動が社会全体に蔓延し た場合には、そこにはプライドもなければ敗者も勝者もいない。そのような中では、 それこそ自殺というものが、ごく当たり前に行われる時代もくることだろう。 ・・・・・・・・・ 人口の増加と物質の消費速度に対して、今後も科学技術は決して追いつかないだろう。 原子構造を根本的にコントロールする事によって、すべての物質を、完璧に自然還元、 または何らかのエネルギーに還元できる技術が開発されないかぎりは。 食料はクローン技術によってなんとかなるにしても、どのみち、消費形態が変化しなけ れば、何も変化はしないのである。 ・・・・・・・・・ そして何よりも、何を幸福として感じるかという「幸福感知回路」が脳に新しく再プロ グラムされないかぎりは、結局は同じ歴史を繰り返すのみである。 しかし残念ながら、仮に、そうした意識変容が起きるとしても、それは数千年後となる だろうし、それはまた人類の「自主的な洞察」によるものではない。 それらは機械的に外部次元から人間に対してなされるのであり、 そういう意味では、今までの人類の歴史もそうであったように、被造物であるすべての 生物は『誰か』の為の実験動物や家畜である事には変わりはない。 だから我々のこうした科学文明や消費生活の愚行も、もとはといえば我々人間が自主的 に行ったわけでもなく、脳が無管理にこうした暴走をするように『人間を設計した側』 に全責任があると言ってもよいだろう。 ・・・・・・・・・ そして、今の時代に生きている我々には、数千年後にやってくるであろう、 新型の人類の世界などは、全く関係はないのだ。 それよりも、我々にとっての最大の問題は、 現在の時点におけるこの終末的な地球で、残った自分の寿命の年月を、 いかにして苦を軽減した形で生存するかという一点にある。 既に、物はあり余っている。だから、無駄な消費をせずに、最低限の住居の中で、 食のみを自給して暮らすというライフワークが必要になるかもしれない。 そして最大の問題は、そうした中で、無為な時間を、 他人とのおしゃべりによってではなく、 自分たった一人で満足して過ごせるという意識である。 EO師の提示した『死人禅』の行法とは、 そうした環境の中で、始めてその本来の機能が発揮される事だろう。 EO師が言うように、『生命と万物が、飢えて苦しみもだえて動く』のが宇宙の宿命で あるのならば、[その宿命とは、全く逆行してゆく死人禅の行法]によって、 あらゆる不足感[欲望]を減らすことで、飢えて苦しむことが減り、 思考や妄想を減らすことで、もだえて動くのが減少するであろう。 EOは言う『あなたたちには信じられないかもしれないが、思考と感覚が超越されたら、 それは、宇宙そのものを超える事とほとんど同じ事なのだ。なぜならば、 宇宙とは、もともと単なる[思考と感覚の産物]なのだから。』 1997 4/8 方斬虚無宇宙からの伝言 ところで精神世界では、常に魂の進化というものを人は常に幻想してきた。 未来において、人間はひとつの光に統合されると人々は思い込んでいる。 だが、彼らはその宇宙の「統合のあと」に何があるかを決して知らない。 統合の後に来るもの、それは、またしても分割と分離だ。 たまたま宇宙が統合の「季節」にある時には「統合こそが進化だ」という考え方が自然 に宇宙に蔓延しやすい。 そしてまた、その時期には、分離した魂が統合される時に意識の中に喜びが生まれると いう構造になっている。 だから、この統合の時期には、エネルギーの高次元への上昇という考え方が、あちこち で蔓延し、それが多くの宇宙の民族に単に好まれる。 ところが、一旦、実際にその統合がなされると、その一体化した光の中では、 そのあまりの変化のない退屈さから、今度は、宇宙を分割して分離し、 再びエネルギーを低レベルに落として、宇宙のいたるところで自我や個別性や、 物質的な創造行為を始めるのである。 この時期には、逆に物事を分割し、ひとつであったものを、どんどんと孤立した個別性 の中に魂を引き離して、分離を繰り返しゆく事こそが「幸福」」として感じられること になり、多くの宇宙民族は、それを指針として生きて行く。 もともと、ひとつであった宇宙を分割したり物質化させて次元を低くしたりすることを、 もしも悪魔の仕業であるなどとあなたたちが言うのならば、 この、みずみずしい地球や世界を作ったのは紛れもなく悪魔たちの功績だ。 逆に、もしも統合や光への回帰を目標とするならば、それはとどのつまりはこの物質界 を上昇させて高密度の振動に還元してしまう事になり、 それは、このみずみずしい世界の側にとっては、世界を焼き尽くす天使たちによる破壊 仕業でしかない。 今、たまたま、地球や銀河系が今は統合期にあるから、そこでは「光への回帰」などと いうものがまかり通っているが、わずか数千年で、そのスローガンは一転して、 『もう一度光を分離して、世界や分別や悪徳や自我を作らねば、宇宙は進化できなくな ってしまう』という事が、当たり前の常識になってしまうのである。 事実、たった今現在の、この銀河系におけるあらゆる意識の分断や個別性、そして地球 における人間の混乱も、すべては、もとはと言えば、 退屈しきった『ひとつの光』のヒステリーによってなされたものだからだ。 哀れにも、地球人は、それを『神の創造の遊び』と呼んでいるようだが、 正確に言うならば、ビッグバーンとは、退屈のあまり『宇宙がプッツン』したという事 にすぎないわけである。 その分割作業が、あまりにも行き過ぎた極にゆくと、今度は「統合だ」と、 これまた単に『プッツン』するということである。 残念ながらこの統合と分離のうんざりするような『繰り返し』が宇宙というものであり、 そのような意味では、小宇宙の基本的な構造は、故イツアク・ベントフ氏が提唱した 『トーラス状』の宇宙である可能性が高い。 その『ゆるやかなビッグバーン宇宙』の 流れ中で、たまたま、その小宇宙が、ブラックホールへと向かう流れの位置にいれば、 そこでは統合が進化として強調され、 たまたま、もしも、その小宇宙がホワイトホールから出たばかりの流れの位置にいれば、 分割こそが進化として強調される事になるのである。 統合も、分割も、天使も悪魔も、光も闇も、つまるところは、 相対性の中にあり、どちらも共に宇宙を回すための、 小さな小さな部品でしかないのである。 この宇宙の機構そのものから離脱しようとする者がいるとしたら、 その者たちこそが、唯一本当のブッダたちなのである。 だから、彼らは、宇宙のどんな場所、どんな時代の中にいても、 愛や光への統合を強調もしなければ、創造性や分割をも強調しない。 彼らは、いつでも常に『絶対無』を強調するのみである。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◎自殺を哲学するための小説◎ 22世紀の自殺権 自由に死ぬ権利が合法化された日 ********* その日、地上では、西暦2600年を祝う、ささやかな祝典が、 農民たちによって開催されていた。 そして本日は、地球がこの太陽系から消え去ってから、 ちょうど300年目にあたる年でもあった。 かつて地球に生息していた人類は、今は火星で平和な日々を過ごしている。 人口はわずか100万人にも満たないもので、 人々の生活は極めてシンプルなものだ。 生活様式は、古い時代の地球の農耕文化を基盤としており、 最低限の生活必需品以外には、いかなる無駄な科学技術も存在しない。 というのも、人類が火星へ移住したのは、地球人の科学技術によってではなく、 異星人による「強制収容作業」によるものだったからである。 今から300年前、銀河系会議で、惑星の害虫にすぎないと見なされた地球人類は、 2300年に火星に運ばれて、さらに脳を大幅に改造されて、 異星人たちの加工食品の為の家畜として「放牧」されたのだった。 そして、その直後に、地球という惑星は分解され、 その一部の破片を資源として産業利用した上で、この太陽系から除去された。 とはいえ、いくつかの彼ら地球人類の文化風習や性格や感情のようなものは、 今もなお彼ら二足類人猿の記憶の中に保存されている。 もしも、20世紀の人類が彼らを見たら、 どこにでもいる素朴な農民にしか見えないことだろう。 ただ、20世紀ごろの地球には決して存在しなかった、ある風習が、 現在の人間たちにはあったのである。 それは『自殺権』という人権である。 今では、人々は、いつでも『自由に死ぬことが出来る』のである。 だが、この自殺権の発足には長い歴史があった。 事の起こりは21世紀初頭に『尊厳死』が問題にされ始めた時代にまで溯る。 愚かにも人類は、すべての経済・政治・そしてそれを支えるための資源問題の、 唯一の解決方法が、人口管理にあるという、その単純な事実に気が付くのが、 あまりにも遅かったのである。 食料、資源、廃棄物問題などは、いずれ科学力によってなんとかなるであろうという、 21世紀初頭の人類の楽観的な希望は、ものの見事に裏切られたのだった。 もはや、残り少ない資源と、当時の科学技術では、 増加し続ける人口のすべての生存の為の必需品を維持する事は出来ないと、国連で結論 が下された2050年には、地球政府は、とりあえず、 すべての「病人の尊厳死」を合法化したのである。 そしてその後、急速にその制限年齢や条件は改案されていった。 最初は、家族の同意が必要だった尊厳死も、2060年には本人だけの意志により 可能なものとなった。さらに、その後10年ほどで、病人ではなくとも、 60歳以上であれば、薬物による安楽死を選択できるという事が合法化された。 ただし、この合法化には、ひとつの時代的な流れがあった。 人口問題が拡大した当時、「自殺こそ地球を救う」という種のカルト教団が、 こぞって集団自殺をしたのである。 皮肉な事に、彼らの大半は20世紀末に「エコロジスト」と呼ばれていた人種であった。 彼らの環境保護の幼稚な持論に、彼らなりの哲学的考察を加えていった結果、 「どうやら、そもそも人類が減るのが環境にとって一番よい」という信仰とも言えるべ き思想が生まれ、犠牲的精神という名の元に、集団自殺が行われたのである。 ごく初期のころには、自殺権は社会問題として批判的に扱われたが、 テレビで行われる不毛な善悪論議や、自殺事件における訴訟裁判も、 やがては消えてゆき、のちに自殺は完全なる合法のものとなった。 なんといっても、自殺が合法化に至った最大の原因は、 自殺の是非を口先でダラダラと議論しているよりも遥かに早く、 自殺の効能として、確実に経済は安定し始め、 資源問題も急速に解決されつつあったからである。 倫理問題よりも、地球全体の死活問題としての社会的メリットの方がはるかに大きかっ たため60歳以上の人間の自由な自殺は、完全に人権として合法化されたのである。 とはいえ、生命の尊厳という妄想がまだ存在した21世紀中頃には、 自殺は60歳からという年齢制限に加えて、本人が借金などの返済義務をもっていない 事などの条件はあった。 しかし、当時の一部の哲学者たちによれば、年齢制限はもっと低くすべきであり、 選挙権と共に20歳から自殺権を与えるべきだという主張があった。 人口増加と、高齢化とそれに伴う無駄な生産と消費の悪循環が地球そのものの死活問題 となっていた当時では、国民の多くは内心はおおいにその哲学者たちの案に好感を持ち、 賛成をしていたのだが、当時の地球政府の管理職の大半を占めていたのがキリスト教徒 という、今では宇宙のどこにも存在しない極めて原始的な宗教の信徒だったために、 自殺は60歳からと制限されたのである。 だが、それから間もなくして、2074年に起きた第3次世界大戦以後、 自殺は完全に『無制約なる人権』となったのである。 すなわち、いかなる低年齢であっても自殺が許可されたのである。 だが、そのプロセスにも大きく分けて2つの要因があった。 核戦争後、生き残って地下で生活を始めた人類は、水耕栽培による食品や、 核汚染を免れた土中成分から作られた合成タンパクの食料やクローン技術による食料を 主食としていた。 初期の地下生活では言うまでもなく、産児制限は極めて厳しく、 一部の特権階級以外の者以外は、出産を認められなかった。 だが、それでもなお、食糧原料の確保は需要には追いつかず、 かといって、公には余計な人口を殺戮する事も出来ないために(公ではない裏側では、 盛んに余剰人口の殺戮が行われたが・・・)残された唯一の自然淘汰方法として、 地球の地下政府は、自殺を全面的に無条件に許可したのである。 だが自殺率がそれから増加の一途をたどったのは、必ずしも、 食料不足や、地球の未来への悲観によるものではなかった。 実際、核戦争後の文明の復興は目覚ましく、 2200年には、すでに人類は巨大な地下国家を建設していた。 合成食料のための原料調達は依然として困難であった事を除けば、 教育や娯楽や労働、すなわち文明は存在し、ある程度の発展もした。 さらに、科学技術により地上の核汚染が完全に除去出来る技術も、 現実化されるまで、あとたったの一歩だったのである。 だから、人々は、もうすぐ、また地上に住めるという希望に満ちていたし、 地上の核汚染が解除されれば、再び地上で食料を生産でき、 人口制限も解かれる日が来ると堅く信じていた。 ところが、あまりにも長い地下生活における2つの事件が、 やってくるはずだった人類の地上での復興と人口増加を抑止するきっかけとなった。 それは、高齢者を含む多くの人間が悪性のノイローゼと脳障害により廃人となったこと である。その原因のひとつは、長い地下生活の中で生まれたストレスを解決するために 使われた「脳内薬物」の使用だった。 20世紀末に発見されたこの脳内薬品は当時は身体的依存性がなく無害とされていたた めに、核戦争後には、地下生活でのストレスから来る鬱病やヒステリーの治療に多量に 使用された。 しかし、やがてそれが約7年から8年の連続使用で、脳の神経細胞を萎縮させて、 人間を完全な廃人にしてしまう事が明らかとなった。 しかも、その残留物は遺伝するため、引き続く次世代には、 多くの先天的脳障害を持つ子供が生まれたのである。 もうひとつの原因は、地下生活において発達した、 バーチャルリアリティー学習システムの弊害であった。 長い地下生活の当然の結果として、 かつての地球の地上生活のデータをバーチャルリアリティーで教育したり、 それを娯楽として使用するという方式が一般化したのであった。 ところが、この仮想現実の体験システムには、 大きな欠点がある事に人類は気がつかなかったのである。 人間の脳は、もともとは、生体の5感全体を通じてやってくる情報の、 しかも自然界の振動情報のみを処理するように作られていた。 ところが、可視光線領域以外の現実の認識を含む、さまざまな情報の刺激をバーチャル リアリティーによって脳に与えたために、神経細胞の有機性に歪みを生じたのだった。 本来は、生体から入って来る自然な5感情報の処理能力しかない脳に、 人工的に抽出・合成された情報を無理に与え続けたのである。 本来、人間の脳というものは自然な5感を通じてやってくるトータルな刺激を体験的に 学ぶことにより、その結果として、それは脳に負担がかからない仕組みになっていた。 つまり、たとえ理解速度が能率的には遅くなっても、それによってこそ、 脳に無理な負担がかかる事なく学習が進行したのである。 ところが、バーチャルリアリティーのような、現実には生身の人間が体験できない視点 からの情報を送り込んだりしても、 もともと人間の脳はそれらに対処できるようには出来ていなかったのだ。 一方、いわゆる霊的知覚などの情報は、まだしも自然な波動領域にある。 したがって、他の生物の体内に意識を侵入させて動物の生命経験するのであれば、 それは脳に負担や混乱は起きない。 ところが、人工的に合成や再現された情報を使って、他の生物の知覚情報や、 あるいは実際には人間では経験できない移動速度の映像を、 無理に人間の視覚に入力した場合には、脳はその情報を処理することは出来ない。 ところが、バーチャルリアリティーはそれを行い続けたのである。 そして厳密に言えば、さらに溯って、ラジオやテレビが発明された時点から この脳の歪みは人類の中で進行していたのである。 たとえば、現実にある場所へ行けば、5感を通じて脳に全体的な情報が入って来る。 それは過度に視覚だけを刺激することなく、聴覚や触感にも人間の注意力は分散される。 それが脳に過度の負担を与えることを緩和していたのである。 だが、テレビのディスプレイというものは、体験から視覚だけを過剰に機能させ、 しかも20世紀のそれらの技術は、映像や音響は前面の一方方向から発信されていた。 現実環境であれば、視聴覚、臭覚、皮膚感覚などがトータルにしかも、 全方向からの情報として体験されるのだが、テレビにおいては、それを見る者は、 ただ、一方方向だけに怠惰に意識を向けている状態で済むのである。 しかし、動物の脳は、本来ならば注意力を四方上下の全方向的に分散しているのが、 自然界で生存する上ではごく自然なものであったのだ。しかしテレビは、人間の注意力 を前面の一方方向に固定してしまったのである。テレビは、ただ黙って前を見て座って いれば、自動的にいろいろな刺激が与えられるために、それは脳にとっては、 一種の「刺激依存中毒」の状態を生み出したのである。 そして、さらに言うならば交流電源の光(蛍光灯)が人間の目に入るようになった時代 や、そして、その後のデジタル音、そして携帯電話の普及による電波の氾濫などの、 極めて不自然な波形の音響や光や電磁波が感覚に入るようになった時代から、 少しずつ人間の脳は、神経にダメージを受け、その歪みを増していったのである。 20世紀末の地球人の精神的病理やノイローゼの多くは、 実は、家庭環境、教育環境、労働環境などの社会的な状況あるいは、 当時摂取していた食品に含まれる薬品などが原因なのではなく、 こうした「人工的な波形の信号」が原因で増加していたのであった。 だが、人類はまったくこの事実に気がつかなかったのだ。 既に述べたように、地球人の脳のソフトウエアは、本来は自然情報に対してしか、 正常に処理や学習をする能力が設定されていないという、 この『あまりにも基本的な脳の仕組み』に無知だったために、 バーチャルリアリティーシステムは、次から次へと、ミクロの世界の画像や、 赤外線カメラの画像や、コンピューター処理された人工的な映像とその情報を、 教育と娯楽に活用した。 とはいえ、地下での生活では、それが最も有効な学習方法であったし、 また、地下で暮らす彼らの唯一の娯楽手段でもあったためである。 しかし、その結果、脳の神経細胞全体の本来の有機性が急激に歪み、 バーチャルリアリティーシステムを長時間使用した結果、多くの人間たちは、 脳障害を起こして、20歳代の後半には、すでに彼らの多くは、 廃人同様の精神的かつ肉体的病理に汚染されていた。 そして、その病理の治療のためにセロトニンをコントロールする為の脳内薬物が大量に 乱用され、ほとんどの人類は30歳半ばに至るころには、いかなる学習能力もなく、 労働能力もなくなった、いわば、社会的な「産業廃棄物的な存在」となったのである。 そして地下政府は、この膨大な数の「社会不適応者」の処理に頭を悩ませた。 30代で既に脳が犯されて完全に無気力化する人間が大量に増加し、かつまた脳内薬品 の落とし子としての精神障害を持つ幼児も同時に大量に発生したため、 それらの者たちを収容する施設も、管理のための人材も不足するばかりとなった。 そして、その処分の方法として、とうとう地下政府は、 自殺を「人権」として国民に許可したのである。 その結果、自殺は頻繁に公然と執行される事になり、それが当時の地球の危機的状況を 見事に救うことになったのである。 自殺に必要なものは、本人の許諾印だけであった。 初期のころには、国家が指定した医師の手による薬物での自殺が執行されたものだが、 半世紀もしないうちに自殺執行の「お手伝い」が民間業者で一種のビジネスとなった。 自殺に際しては、その方法を好みによって自由に選択できるものとなったのである。 首つり、投身自殺、射殺、神経ガス室、電気椅子、ギロチンはもとより、 好みによっては、刀剣による首切りなども、業者によって代行された。 特にギロチンでは、それが使用された17世紀のような首の設置とは異なり、 2200年当時の流行は、仰向けになって、落ちて来る刃に顔を向けた断頭スタイルが 広く好まれた。 また苦痛を伴わない薬物を使用するという古典的な自殺が流行したのは、 ごく初期のころのみであり、合法化の数年後には、 「より恐怖を伴う自殺」こそが美として称賛されるとの思想から、 自殺の仕方がひとつの「人格のファッション」となった。 たとえば、かつての地球の遺産として、地下政府が保護動物に認定していたライオンや 鮫に食われるというバリエーションでの自殺も、特権階級の中では、おおいに流行した ものだった。 ********* そして2300年、ようやく人類が核汚染を除去する技術を携えて地上に戻ったとき、 世界の人口は合計しても、わずか100万人程度であった。 しかし、その人類を待っていたのは、異星人の手による火星への強制移住だったのだ。 このような数百年の歴史を経て、人類は現在は火星で、 有史以前のような、平和的でシンプルな生活を営んでいる。 森で暮らし、僅かな作物を自給自足し、小動物たちと共存し、 本能のままに生殖行為をして子孫を残した。 ただ・・・有史以前の地球の人類には、決して見られなかった ある「風習」がひとつだけ存在していた。 そのおかげで、彼らの人口は決して増え過ぎることはなかった。 秋が来ると、 木の枝から首を吊った人々の死体が風に揺れ、 季節の森を美しく飾るのであった。 ********* ところで、2070年ごろ、自殺が合法化された初期の段階では、 倫理的な理由、それも、なんらの科学的根拠もない 「宗教的理由」に基づく反論がなされた時期があったものだった。 しかし、ある自殺志願者の自殺を阻止しようとした罪で起訴された宗教家に対する裁判 の法廷で、原告側から持ち込まれた、たった一冊の本によって、旧世代の神学者たちと モラリストたちの自殺反対論は、ものの見事に退けられたのだった。 それは、自殺が合法化される70年も前、すなわち、 自殺が合法化されるなどとは誰一人として思ってもいなかった、 1990年代に書かれたものだった。 『廃墟のブッダたち』と題された本と、そのシリーズの中で、 当時の神秘家であり、哲学者でもあった著者は、 「人間が自殺をしてはならない理由を明瞭かつ論理的に証明したまえ」と述べている。 1990年当時は、自殺に反対することは、感情的な世間常識の支援もあり、 倫理的にも、いとも簡単な作業であると誰もが信じていた古い時代だった。 ところが、実際には、いざ論点を 「自殺をしてはならない理由は何であるか」という問題に絞ってみたところ、 自殺に反対をしていたその根拠は、 単なる「宗教的おとぎ話」に基づく『妄想』に過ぎなかった事を、 国民の多くが瞬時に理解したのであった。 すなわち、人間に対しては、いまだかつて、 いかなる神も、あるいは自然法則も、 「自殺をしてはならない」と命令した『物的証拠』がないのであった。 神学者の多くは、古文書や宗教書や権威ある教会に公認されたと称する、 奇跡の実例の記録を幼稚な反論として持ち出し、また生物学者は法廷で 「自然はすべて生きるように作られているものだ」と、唾まで飛ばしながら熱弁をした のだが、裁判所では、神の存在やその命令、または自然界の意志を 『物的証拠』として提示できなければいかなる法的効力もなかったのである。 また、神や自然の意志の存在を、単に物的に証明するだけではなく、 その神や自然が「自殺を禁じたという『証拠物件』」を提出しなければならなかった。 また、自殺をした場合に、人間が行くと盲目的に信じられていた地獄世界の存在も、 「物的証拠」として法廷に提出しなければならなかったのである。 ところが、これらの証拠物件をただの一つも示せなかったために、 物的証拠のない神の存在を主張し続けた宗教家たちや生物学者たちは、 多くの自殺志願者から、『自殺権侵害』の罪で起訴されて投獄されたのだった。 そして彼ら神学者や生物学者たちも、 自殺推進管理局のカウンセラーの推薦によって持ち込まれたその本を、 改めて熟読させられ、 その後、獄中で静かに自殺をした事は言うまでもないことである。 『EOイズム』と呼ばれた、その1990年代の思想と著作物は、 2050年以後には、世界中で最も愛読され、 自らの命を断つ『正当な理由』として、 特権階級の国家公務員から庶民に至る、 あらゆる人々に、広く愛された書物となったのである。■ あ と が き ■ インターネットの常用者は 思索をしなくなる ところで「省資源」が叫ばれる御時世の中でなぜわざわざインターネット上の情報を、 このように紙の上に印刷して、本にしたかを述べておきたい。 過去数十万年にもわたって我々は、文字を読みながらであれ、文字なしにであれ、 「深く物事を考える時」には、一人で静かな環境にひっそりと身を置いて、 自分の記憶や思惟に向かい合うことをしてきた。 だが、インターネットの場合には、多様な情報を、いくらでも「覗き見る」事ができ、 表面的に「流し読み」をして、飽きれば次から次へとアクセスを「移動してしまう」の である。 むろん、これらは商業的には大変に便利な事ではあるが、一方では、このような習慣が 長く続けば、自分の特定の問題を、静かに「一人になって深く突き詰めること」、 すなわち『思索をしなくなる症状』が予測されるのである。 現代人は自主性や発想のオリジナリティーに欠けると批判されるが、その原因の一つは、 原始的な物体としての『本』に向かう事が減ったためと推測されるのである。 「最近の若者は、本を読まなくなった」とは常々、以前から言われて来たことであるが、 情報量とその多様さの点だけで言えば、むしろ旧世代よりも多くの情報を読んでいるか もしれない。だから問題となるのは情報の量や多様さではなく、たったひとつの問題を 『よそ見をせずに深く掘り下げる』という能力の低下である。 ・・・・・・・・・ ところが、インターネットのような媒体では、ひとつの問題を突き詰めないうちに、 その「よそ見」や「目移り」が、ネットサァーフィンと称して簡単に行われてしまう。 その結果、特に個人ページで掲載される内容は、その発言も討論も、 そこに煮詰まった凝縮度や、迫力がほとんど存在しない。 むろん、その分「何事も気楽になる」というメリットが主張されるのであろうが。 ・・・・・・・・・ しかし、かつての哲学者たちは、たった一冊の本について何年も考え、 神秘家たちは、たった数枚しか残っていない経典の謎に自分の一生をかけてきた。 たとえば東洋の禅師たちは、たった一片の法句について何年もかけて掘り下げていった。 かつては、今のように情報をグルメ的に「食いあさる」事が大切だったのではなく、 情報は、自分の『思索の為の刺激』なのであった。 情報を扱う姿勢の重心は、あくまでも『思索』そのものにあり、 情報を「むやみにコレクション」する事や、 情報を「使い捨てる事」に重心があるのではなかった。 ・・・・・・・・・ ところで本や紙の上に一度印刷された内容は、手軽に移動でき、手軽に手で乱雑にメモ を書き込む事ができ、手軽に紙を「放り投げたり」「叩いたり」「破ったり」できる。 あたかも作家が原稿用紙に向かって、苦戦しながら感情的に奮闘するかのように。 また印刷された原稿や本は、ソファーで読んだり、ベッドで仰向けになって読んだり、 台所で読んだり、トイレで読んだり出来る。つまり読むための「落ち着いた環境」、 「好きな環境」や「好きな姿勢」へと気軽に変化する事が出来る。 その点、多くのパソコンは電話回線へ接続したコードやアダプターコードが邪魔になる。 既に、アウトドアで使えるような通信機能を備えた小型軽量のパソコンは普及している のだが、それでもまだまだ問題は残っている。 それは、パソコンの宿命というべきか、単なる歴代の習慣としてなのかは不明だが、 文字テキストの場合に、一画面にあまりにも多くの文字を表示しようとする事だ。 その結果として行間があまりにも狭すぎて「読みにくい」のである。 出版編集の現場にいる人達には充分に分かると思うが、 編集専用の縦長の画面ならばともかく、横長の画面上で文字校正をすると、見落としが 極端に増えるものである。これはやはり行間が狭すぎるためであろう。 またこの他にも、紙に印刷された文字に比べると、当然目が疲れる。 だから結局は、今でも多くの編集現場では、文字校正のために、原稿は、いったん紙に プリントアウトをしている事だろう。 いずれは文脈の前後関係から誤字脱字を自動的に検索するシステムも現れるだろうが、 現状はしばらく続くに違いない。 さて、これ以外にも文字をあえて紙の上に印刷することの別のメリットを、 いくつか書いておきたい。自分や相手の文章を プリントアウトする事のメリット
携帯式のノートパソコンの普及によって、 情報をあえて紙の上にプリントアウトする必要は今後ますます少なくなるだろう。 しかし(省資源とかいう問題はさておき)、紙の上に印刷された文字と、画面上の文字 の間には、あきらかな「次元の相違」が存在しているように私には思われる。 ただしそれはパソコンの画面に表示される文字の書体や行間と、紙に印刷された文字の 書体や行間の「見た目の違い」から来る問題だけではない。 それは、「物質の次元に定着」されたものと、「不安定な磁気情報」との、その「振動 や波動」の決定的な違いのように思われる。 ・・・・・・・・・ 敏感な人々ならば感じることが出来ると思うが、他人の書き込みなどを、画面上で流し 読みするのと、いったん紙の上に印刷して見るのとでは、 同じ文章であるにもかかわらず全く「違う印象」を受けたり、文章の本当の趣旨を読み 落としていたりする事に気が付くことがあるに違いない。 そして、それは、単に書体や行間の変化によるものではなく、 情報が「物質化したかしないか」の問題のように感じられる。 私が受ける印象では、インターネット上にありがちな、密度や凝縮度のない発言、 つまり、しっかりと煮詰められていないような発言が、これほどまでに氾濫している 大きな原因の一つは、他人や自分の投稿を、「印刷して眺めることをしないからである」 と推測している。 書き込んでいる最中に見ている画面上では、自分が「まともな事」を言っていると思い 込んでいても、いざ、印刷してから再度自覚して見ると、自分がひどく「馬鹿げた事」 を言っている事に気がつく事も多いはずだ。 自分の発言が、いつでも機械の内部で、簡単に処理できる磁気情報にすぎないのと、 印刷された物質次元の「証拠品」として自分の手元にあるのとでは、 必然的に(人の無意識下での話であるが)その扱い方には、大きな違いが出て来る。 むろん、たとえプリントアウトをしたところで、ゴミ箱へ捨てれば、確かに見かけ上は、 それで、しらんぷりは出来るのであるが、 同じ『ゴミ箱』でも、画面上の「俗に言うゴミ箱」と、実際のゴミ箱に捨てるのでは、 捨てるという行為にまつわる「心理的効果」も格段に違うように思われる。 ■■■■■■■■■ たとえば、ここで分かりやすい例をあげてみることにする。 よく人は、過去に嫌な思い出のある「品物」や「手紙」や「道具」などを、部屋の掃除 のついでに処分することがある。 そうすることで、その物質にまつわる縁や記憶を切ろうとする事は、いわばひとつの 「個人儀式」のようなものである。 そこで、たとえば、あなたが自分の過去について自己分析などをして、 その分析内容をパソコンに書き込んだとしよう。 それらをボタン一つで、画面上で自分の過去を消す作業をするのと、 実際に紙という物質にプリントアウトして、眺めて熟読して「自分の思い入れ」をして から捨てたり、場合によっては燃やしたり川に流すのとでは、 その「捨てるという儀式的行為」による効果はまるで違ってくるのである。 ちなみに、このように「物質から、逆に自分の心理的問題や、上位次元の構成を操作し ようとする技術」は、西洋魔術や東洋の陰陽道の世界では、すでに常識である。 ・・・・・・・・・ 通信上での情報開示や発言は、それがあまりにも「可塑的」であり、 いつでも簡単に消したり移動したり編集が出来る。 それがある種の「気軽さや便利さ」をインターネットに吹き込んでいるのも事実だ。 だが、その一方では弊害として、多くの人々が、 「毒にも薬にもならない情報の発し方」と「受け取り方」をしているように思われたの である。 そこで、逆に情報が自分や他人にとって「毒にも薬にもなり得るようにする」ためには、 『考えたいページや、発言したいページ』を見つけた時には、 面倒がらずに『必ず紙にプリントアウトする事』を、ぜひお勧めする。 また、『自分から発言する場合』にも、単に画面上で文字校正をするだけではなく、 一度プリントアウトしてから自分の文章を見てみるとよいだろう。 自分の投稿であれ、他人の文章であれ、印刷して、紙に手で触れて、読んでみると、 「馬鹿らしい文」は、「よりいっそう馬鹿らしく」見えてくるし、 「味わいのある文」は、「より深い味わい」が浮き彫りになるに違いない。 1998 3/21 鈴木方斬
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この空間は 1997/08/15 に生まれました。