思考・感覚・感情に関する質問 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 座っていても、妄想や囚われから、どうしても抜け出せないのですが、 何か方法はありますか? EO**** 何かに囚われている、何かがすっきりしないとあなたが感じるならば、 まず一体何に囚われているのかを直視する事、そしてそれを書き出すことだ。 「自分には別に大きな囚われはない」などという自己欺瞞に陥ることなく、 まずいくつかの囚われを発見するようにしなさい。囚われというものは、何も精神的な 問題の囚わればかりを言うのではないし、また世間的な囚わればかりを言うのではない。 それがどんな囚われでも同じことだ。 「自分には囚われはない」などとぬかす禅の坊主などがよくいるが、世間的な事に囚わ れなくとも、彼らはすっかり仏道やら無心という事に囚われている。 だから子供の手からおもちゃを引っ張ってみるかのように、彼らから座禅やら仏法やら マントラやら修行や教義をひっぱって取り上げようとすると、 まるで子供のように「ムキ」になって「自分のしている事は正しい」と言い訳を始める ものだ。取り上げるとは、すなわち、ちょっとばかり「こきおろして」みればいいので ある。 むろん、これは世間の問題でも同じで、その人間が大事にかかえている観念や常識、 あるいは価値観や好みを引っ張ったり、つっ突いてみても、同じく子供じみた反応が帰 ってくるだろう。 さて余談はともかくとして、そういう囚われは、むろんあなたの中にもある。 しかし、それは個人によって異なるものだ。宗教など馬鹿みたいだと思っている人間も、 自分の命や、自分の子供の進学問題は馬鹿みたいだとは思えない。 逆に自分の命など捨ててもいいと思っている者でも、ただ無意味には捨てることは出来 ない。それは誰かとか世界だの仏法のためだの、あるいは誰かへの「仕返し」のために 捨てるのである。だから、自分が囚われている対象そのものを馬鹿みたいだとは、 結局は誰も思っていないわけだ。 そこでまず、あなたは自分が囚われているものを見付けるとよい。それは必ず多くはな いはずだ。自分が一番囚われている思考を見付ける方法は、一日の中で「自分がうっか り考えてしまうこと」の中で『何についての考え』が一番多いかを、何日か時間をかけ てチェックしてみることだ。 そうすると、心配とか、こだわりとかは、必ず同じようなテーマの付近をぐるぐると回 っている事が分かるだろう。自分が今の人生の中で「何度も必ず考えてしまう思考の種 類」というものがあるはずだ。それがここでの瞑想の対象になる。一体自分は、その思 考が「一日に何度頭をかすめるか」を数えてみるがいい。 するとその思考内容は、個人によって、いろいろなものがあるだろうが、 精神世界も世間も区別せずに書き出すと、おおよそ、次のようなものになろう。 生活の心配、金銭や仕事の心配、異性の事や結婚願望、あるいはセックスの事、 あるべき自分について、無心について、悟りのこと、思考を観察しなければならない、 とか、注意して目覚めていなければならないという思考、あるいは、なぜ自分は生きて いるか、なぜ死ぬのか、なぜ存在世界があるかの疑問などなど。 ただし、これらには「倫理的なランクづけ」をしてはならない。どれが精神的テーマで、 どれがそうでないかなどとは考えてはならない。ここでは思考の種類や内容が問題なの ではなく、一日の間での『頻出度』が問題なのだ。 だから、この瞑想で対象になる思考は、あなた自身が自分の頭の中を「正直に見て」、 何度も繰り返して出て来る思考を対象に決めることだ。瞑想の対象とする思考を決定す るのは、あくまでも『頻出度』であって、どれが重要な問題かという事ではない。 平たく言うと、もしも、頭から音楽の同じフレーズが何度も浮かんで離れないならば、 悟りの問題などより、そっちの方が問題になるということである。 さて、そうして、まずあきらかに囚われていると判断した思考を決めてみる。 それは実際にノートにいくつか書き出すとよい。そうしたら、その中から囚われの強い 思考をひとつを選び、その思考が出て来るのを待ってみるとよい。 しかし、それはあなたが自分から考えるのではない。そうではなく、 その考えが「出て来るのを待つ」のだ。あなたは身を引いてみて、その思考を観察して みるとよい。はたして思考そのものが「自力で」妄想や連想を続けることが出来るかど うか、実験してみるとよい。 「どうぞ、勝手に思考をしてください」といわんばかりに、 完全にその思考をつきはなして、思考自体に主導権を渡してしまうのである。 あなたが、妄想という火に油を注ぐようなことをしないでいると、はたして、 思考の炎それ自体が燃え続けられるかどうかを見ることだ。 この方法は、どんな思考に対して行ってもよい。ただ何度も言うように、 その思考は、あなたが囚われている比率が高いものに限るということだ。 あなたは、なんでも「うっかり」考えている。 たとえば、無心が大切なのだと「うっかり」考える者もいる。 自分は囚われてない、などと「うっかり」考える者がいる。 仏道は大切だと、「うっかり」考えてしまう者がいる。 思考や感情に対して観照者でなければいけない、などと「うっかり」考えてしまう。 常にあなたは、うっかり考えているのだ。そうすれば、そうしたものは、すぐに「習慣」 になる。そしてそれらは習慣なので、全くそれを考える必要もないときにまで、あなた はそれについて考えてしまう事が増えてゆくのだ。 だから、思考に例外をつけてはいけない。「これについて考えるのはいいだろう」など とはせず、とにかく、明らかに自分が「よく思考してしまう事」を見付け、それに瞑想 することだ。 その瞑想のしかたは、あなたが自主的に「次の連想」をそこにかぶせない場合には、 思考がはたして「それ自体の力で発展してゆけるかどうか」、はたして、 あなたが一切の協力をしなかったら、それは長くあなたの中に留まれるかどうかだ。 こうして、何日かして、もしもひとつの思考に対しての囚われがなくなったら、 ノートに残っている別の囚われの思考に対しても、同じことをしてみるとよい。 あなたが、どんなに大切に思っている問題意識や価値観、そして日常の問題や、 ごく当たり前の人間的な問題、生活の雑事の問題にしても、つまるところは、 けっきょくそれらは「ただの思考であった」ということが。理屈や観念としてではなく、 本当の実感として理解できるまで、とことんこの瞑想をしてみるがいい。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 私は頭の中の独り言が止まらないのですが、どうしたらいいのでしょうか?。 EO****** 私の知り合いの女性に、いろんな種類の動物から、妙に警戒されない人がいる。 見ていると、動物に警戒されないどころか、むしろ通りすがりの何の面識もない犬猫や 鳥にも親しみさえ持たれるようだ。この状態は、ちょうど子供に似ている。 動物は子供に対しても警戒心が薄いからだ。しかし言うまでもなく、それは子供の身長 が低いせいではない。もっと内面的な問題だ。 さて、その女性にはひとつの特徴がある。 それは生来、物事の言語化が困難であるという事だ。 言葉で表現するという事が、異常とも言えるほど苦手なのである。 何か質問しても、普通ならば、即答するような簡単な事でも、 彼女は言語として答えるまでには、通常の5倍〜10倍以上の時間がかかる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ところで言葉の役目とは一体何だろう??。 それはもともとは意志を「他人に伝達するため」にあったものだ。 ところが、人間は、思考をする為に言葉を使うようになってしまったために、 精神に無数の歪みが起きたのである。 ちょっと、あなたの頭の中に耳を傾けてみるとよい。 するとあなたは、一日の中で、膨大な量の独り言を頭の中で言っているはずだ。 あなたは、言語で思考する事が習慣になってしまっている。 しかし、言語は、もともと思考を「順序立てる」ためのものなどではない。 それは、「相手がいる時にだけ」に必要となるものだ。 つまり、あなたが一人でいるときに、頭の中で言語を使う必要は何ひとつもない、 という事である。 にもかかわらず、あなたは、「あーして、こーして、それからこうなって・・・」 などと、逐一、言葉を並べて思考をしている。 ところが、言語を使うと実際には思考能力は極端に効率が悪くなる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そこで、ためしに、まる一日の間だけ、 頭の中で言葉を言うという事を一切やめてみると決心してみるとよい。 しかし、それは「思考するな」というのではない。思考してもよい。ただし、 『印象と画像』によってのみ、思考しなさいという事だ。 たとえば、あなたが買い物に行こうとする時、普通ならば、「えーと、あそこへ行って あれを買って、次にあそこで・・・」などとうっかり言語化せずに、すべてを絵として 思考するのである。思考はしてもよいが何ひとつも言語化してはならない。 画像や音の記憶、そして『短い印象の配列』によって思考するように、まる一日心掛け るとよい。すると今まで、どれだけ自分の頭が言語で汚染されていたかが分かるだろう。 しかも、言語の中には、無数の「習慣的反応」が植え込まれている。 あなたは馬鹿だと言われれば、反射的に不機嫌になる。ところが馬鹿という状態を正確 にイメージしてからあなたは不機嫌になっているわけではないのだ。つまり、相手が言 った馬鹿という事自体の、その場における微妙なニュアンスを理解をしてから不機嫌に なっているのではなく、全くの反射として、言葉の理解もなしに感情が反応しているの である。とはいえ、馬鹿と言った相手も正確に馬鹿をイメージしてから言っているので はないものである。 これと同じように、全く理解もしていない、つまりイメージさえされていない誉め言葉 でも、あなたは「全く自動的に」反応する。 だが、これは全くナンセンスなことだ。 だから、この一日中、自分の頭の中での言語化をやめる事を試している間は、 自分のばかりでなく、他人の言葉のひとつひとつをも、『イメージや画像』に変換して みるとよい。 すると、思考のプロセスというものが、言語が介在すると、いかに歪曲されるかが洞察 できるだろう。 子供たちは覚えている言語数が少ないために、言語化できない無数の印象を持っている。 だから、感性が伸び伸びしており、大人なら一個の答えしかしないものに対しても、 時には10人が10人とも違う答え方をしたりする。 さて、言語化という作用が停止したり、または極端に減ると、その分、 物事の知覚がそれまでとは比べものにならないほど明瞭になったり、 自分の頭を通り過ぎるいろいろな印象や雑念に対して客観的に敏感になってくるものだ。 そして、これは、もともとは動物や子供の思考の仕方だ。 言葉ではなく「実感を伴った印象や、画像の断片」を並べて物事を思考するのである。 そのために、こうした本来あるべき非言語的な思考方法が習慣になっている者は、動物 などとは特に親しくなりやすい。また、言語の妄想の暴走との癒着がなくなり、印象の 羅列で思考を始めると、いわゆるテレパシーが極端に敏感になりやすい。 言語というノイズがなくなる分、さまざまな外部からの印象が入り込めるだけの、余裕 のある容量が意識の空間にできるからである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このために、無明庵では、ある人間が死人禅の行法に向いているか否かのひとつの判断 材料として職種やその者の言語に対する習慣をチェックする事がある。 というのも、言語化というものが、職業的な習慣となっている者は、行法の効果が非常 に困難になるからだ。 たとえば、マスコミ、弁護士、セールスマン、編集者、翻訳者、執筆家、何かの売り場 で極端に言語を使う職業や、文字を扱う職業。つまりいわゆる社会における職種の何割 かはほとんどこれに属してしまうものだ。一方、言語を使わない、職人的な作業、肉体 作業、神経のみを使う作業などは、弊害が少ない。 だから、インターネットのEメールなどに没頭してしまう人間は、ろくな事にならない。 それは、実感もないただの言語の汚物の受け渡し以外の何物でもない。 自分の思考が、常に言語化してしまう事、そして知覚物を言語化してしまうこと、 そして他人の言葉をイメージに変換しない事、これらを繰り返していると結局は、 言語暴走の連想方法でしか物事を判断できない人間になる。 実際には、言語では人間は思考はできないのだ。言語にできるのは、 とりとめもない妄想だけだ。しかも、それはほとんど何の実感もない妄想だ。 繰り返して言うが、私は思考を否定しているのではない。言語化して思考する事の弊害 を述べているのである。たとえば、アイディアや発明といったものを思いつく人間は、 決して言語では思考していない。言語というものは物事の発想には全く不向きだからだ。 言語化では、あまりにも思考速度が遅すぎるからだ。だから、発想に必要なのは、 いちいち言語化することではなく高速で「絵」で考える能力である。 絵や概念や印象を並べて、非言語的に思考するのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ だから、まず頭、そして感性を明晰にしたいのならば、 一切の言語化を離れる期間や時間を自分で計画的に設けることだ。 その期間は、一言も、頭の中で言葉を発しないようにすることだ。 その代わりに、思考をするときは、ゆっくりでよいから画像や印象の断片を、 紙芝居のように並べて思考することである。 紙の上で思考する場合も、絵の配列として思考してみることだ。 そうすればあなたは、いかに自分の頭が言語に毒されていたかを思い知ることになるだ ろう。言語で思考すれば、つまり独り言で思考すれば、あなたの妄想は止まることなく、 一生でも続くだろう。独り言、それが気違いへの第一歩だからだ。 それは、既に多くの人間が陥っている病だ。 既に、誰もが半分は、言語によって気違いになっているのだ。 だから、古代の優れたチベットの寺院では、入門から5年の間は、言葉と文字を使用さ せない事が多かった。それによって、概念や体験といったものを、軽率な言葉によって ではなく、すべて強い印象として学習させる為であった。 だから、おしゃべりな人間、本を読み過ぎる人間、言葉にいちいち反応する人間を、 よく観察してみるとよい。彼らはただ「言語」に「言語」だけが頭の中で反応する。 彼らは、彼ら自身すらも何も実感すらしていない事を口にしたり、本気では思ってもい ないような事をベラベラと言葉にしたりする悪癖がある事に気がつくはずだ。 言語を使い過ぎる人間、そして頭の中で言語で思考する人間は、 生のすべてに鈍感になるばかりか、次第に、思考すらもできない人間になってゆくので ある。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 私は自分の感性が鈍い事が苦しくて、許せないのですが。 EO****** 感性が鈍い、という、ただそれだけの事では、苦は生まれない。 現象が「ひとつ」だけである場合には、いかなる苦も生まれない。 苦とは「ふたつの点を往復する事」で生まれる『落ちつかなさ』であるからだ。 だから、実際、感性が鈍くても、その中に安住する人達はたくさんいるものだ。 にもかかわらず、あなたが、「感性が鈍い自分が許せない」という事は、 言うまでもなく、あなたの中には、 『いや、自分は、こんなはずではない。生命とはもっと実感のあるものであるべきだ』 という「理想」がある事は間違いない。 だが「自分は、こんなはずではない、こんなちっぽけでつまらない意識ではないはずだ」 と言うからには、では、あなたは 「本来は、どんなはずであるべきだ」と思っているのだろうか??。 ・・・・・・・・・ あなたが出会う生命や現象のすべてが、 ひとつの「人格」を持っていると思ってごらん。 人ばかりではなく出来事や自然や、人工物、そのなにもかもが、 あなたと同じように、心を持っていて生きていると思ってごらん。 そうだとすると、あなたは、出会うすべての「人達」つまり「物事」に向かって、 『おまえなんか、普遍的じゃない』『私が会いたいのはおまえなんかじゃない』と言い 続けるようなものだ。 そんな事を、ぶつぶつ始終言いながら、歩いている人を、もしもあなたが見たら、 一体なんと言うだろうか??。 「あんなやつ、勝手にしてればいい」と言うだろう。 自分が外界に対して抱いた思考は、すべて自分へと帰ってくる。 世界を否定する者は、世界からも否定される。 あなたが一方的に世界を否定し、なおかつ、普遍的な何様だけは、いつまでも、 あなたの来るのをを優しく見守っている・・・などというそんな虫のいい話はない。 出会うすべての物事を否定してゆきながら、 「これでもない、これでもない」と言い続けて、最後に神様か宇宙意識が、 「よくここまできたね」、などと言うはずもない。 いやいや、全く、逆だ。(もしも神がいるならばの話だが)、きっとこういうだろう。 『どうして、目の前にいる私を見ようとしないのか??。 どうして天国ばかり夢見て、目の前にある一本の草木とすらも一体になれないのか?。 そんな事で、どうやって万物に融合できると言うのだ????』と。 ・・・・・・・・・ 宗教的な人間というのは、決して物事を楽しめない。 むろん、世間的な人達もまた、心から楽しんでいるわけではないが、 それでも、「かなり」楽しんでいるとは言える。 宗教修行などにはまる人間よりも、まだしも、現世利益に欲を出して、神社に行って、 神様相手に心理的な商売をやっている人達のほうが、苦は少ない。 なぜならば、彼らには、罪の意識もなく、何か今の自分とは違う世界へなど行こうとは していないからだ。今の自分以上のものに、なろうなどとはしていないからだ。 ・・・・・・・・・ 一方、この今の瞬間の中に、ありもしない別の理想郷や心の境地を持ち込んだら、 この瞬間はすべて否定されてしまう。 もしもそうなったら、 否定されたこの瞬間が、あなたを愛するなどという事はありえない。 いや、正確に言うと、あなたがそこから愛を「感じ取ること」など出来なくなる。 「お前なんか、わたしの理想とする瞬間じゃない」とこの瞬間に対して言えば、 まさに、そのように言うことが、その瞬間を破壊する。 別にあなたがそう言ったから、この瞬間が壊れるのではない。 瞬間のほうはというと、そんなあなたには関係なくただそこに在り続けているのだから。 ・・・・・・・・・ よく精神世界の人々は、「幻想にだまされることが屈辱的である」などというが、 ではなぜ『理想的意識状態』という名の幻想のトリックにだまされていることを直視し ないのかね??。 いわゆる普通の人達は、あなたより幸福だ。 なぜならば、理想とするものが、狭いからだ。 理想が狭いこと自体、まったく悪いことではない。それは極めて美しいことだ。 理想を高いものに設定しようとする人間は、かならず他人と自分を比較して、 「自分は、いつでも一番だ」と思っているような者であるに決まっているものだ。 そうでなければ、なぜ「理想の高さの競争」などしなくてはならないのかね。 宗教の、救い難いほど病的なところは、 勝敗の白黒のつく、学問や競技と違って、結局は誰もそこに到達できないために、 信者はいちおうに、周りの誰にも劣等感を持たなくてすむと思い込むところだ。 何か気にくわないことがあれば、「みんな神じゃないんだから、しかたないじゃないか」 と、食ってかかればいいのだから。 だが、そのくせ、彼らは、年中、他の信者と信仰心の深さの競争をしている。 実に馬鹿げている。こんな連中に信仰されて喜ぶ神がいるはずもない。 ・・・・・・・・・ いわゆる世間の人が、必ずしも、まともなわけでない。 しかし、少なくとも、高次元だの普遍性だのを持ち出す者たちよりは健全だろう。 彼らには苦がないわけではない。衣食住や人間関係の苦はあるだろう。 だが、「たただでさえ苦がある生活」に加えて、 到達するのに何万年かかるかもわからないような、進化だの、高次元意識だの、 完璧な一体感だの、そんなものを目的に付けたしたら、 なおさら苦は増大するに決まっている。 そうした理想が、あなたに貢献するせいぜいの利点は、 「私は、あんたたちのような低い理想では満足できないんだ」という『自尊心』が、 ほんの、わずかに慰められるという程度のことだろう。 だが、TAOの賢者たちに言わせれば、 「低い理想で満足できないというそれ自体が、 やれやれ、なんとも低い理想だ」・・・ということになる。 なぜならば、低いもので満足していようとする理想こそ、 同じ欲望には違いはなくとも、もっとも並外れた目標だからだ。 高い理想を持つことで満足しようとする者など、石を投げたら当たるほど存在している。 「理想合戦」ならば、どんな愚か者にでも出来る。 これゆえに、宗教戦争が起きる。「お前の理想よりこっちの理想のほうが高いのだ」と いう主張、それが宗教の戦争だ。 だが、最も稀な人達は、最も低いもの、すなわち希望も理想も入り込まない、 「ただこの瞬間のありのままで満足しようとする人達」だ。 高いものを目指すには、なんの勇気はいらない。単に貪欲であればいい。 単に、より、他人より高尚そうに見せかけ、他人の理想を低いものだと罵倒すればいい。 だが、この瞬間に満足しているためには、とてつもなく大変な勇気がいる。 この瞬間は、どんどんと生まれては死んで行く。 肉体の自分という意味ではなく、「物事の死」が受け入れられない者には、 この最も低い次元に止まることは出来ない。 自分の軸や足場が、瞬間ごとに破壊されてゆく事を冒険、または至福と思えない者には、 この瞬間に存在する事は出来ない。だが真理とは「ここ」にある。 目標をどこか別の次元、別の認識、別の神様、別の「普遍性」に向けることは、 どんな愚か者にも出来ることだ。 いや、それは、「愚かであるが故に」出来ることなのだ。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 私には生きている、死んでいる、という区別がわかりません。 EO****** 『何が生きていることになるのか?、何が死んでいることになるのか?』、 それは、あなたばかりでなく、誰にも確定できない。 だいたい、『我々は存在しているのだろうか??、我々が知覚しているものは現実なの だろうか??』という事で、ノイローゼになった宇宙人など、うようよしていているの だから。結局、宇宙では、下手に長生きすればするほど、 そういう根本問題に行き着かざるを得ない。 私は、あらゆる問題の核を一言で言っておこうと思い、かつて、このように書いた。 『生きているか、死んでいるか、そんな事は確定するな』 これが「存在の違和感」の解決法に関する、私の結論であるからだ。 緒問題のすべては、『生の実在感』から発生する。 死人禅行法の面白いところは、生きていながらにして、 その基本的な生死の分別があいまいになってしまう点だ。 むろん、感覚はあるし、思考もある、ものも見えて、生活もあり、 いかにも自分は生きて動いているようにも思える。 だが、一方では、全く生きていないとも言えるのだ。 何か、ただ影だけがこの世界、この感覚の世界に残っているだけで、 自分が幽霊よりもはるかに希薄なものかもしれないとすら思える。 変なたとえだが、人は自我の内側に視点がある時は、いわば、自分を「泡」の内部から 感じるようなものだ。 仮に「泡」が生命感や知覚、存在の輪郭だとすると、 通常は、泡の内部から泡の境界線を感じる。 しかし、あの日以後、自分を感じる場合に、「泡の外から境界面を感じる」ようになっ てしまったと言える。 うまくは言えないが、以前は、確かに『泡の内部』から、自分や世界を感じていた。 知覚の中心は、以前はあくまでも自分の身体の内部にあった。 今は、知覚の視点が、外側というか、空間そのものにあるようで、 内側から自分を感じることは、最早、うまくいかない。 ただ外の空間から、過疎的に境界面の自分を感じることができるのみである。 そして自我の問題については、以前に、かなり明確に述べたはずだ。 つまるところ、我々の存在感それ自体が問題なのではなく、 存在を感じる『視点』に問題があるということ。 また『存在感と存在性は違う』という事も、最も重要なところである。 どのような光明やら神秘体験やら、悟りの至福の絶頂を感じたところで、 それらは過ぎ去る。それらの現象、体験そのものにはたいした重要性はない。 まったくないとは言えないが、本質的にはどうでもいい。 どうでもいいが、体験するに越したことはない。 しかし、それらが起きる「背景」にこそ、 私が唯一、人に示唆するに値すると感じた本質がある。 至福は、存在『感』ではない。それは『感覚』ではない。 『対象』はそこには存在しない。 対象が、すなわち主体であり、主体がすなわち対象である。 だから、これは言葉の表現の範疇にはないし、『経験』とすらも言えない。 『経験以前』の領域だからである。 だが、この中に入った人々は、私だけではないので、 その現象は、決して不可能なのではない。これだけは言える。 「それはなされ得る」と。 ある条件さえ満たされれば、それは今すぐにでも起動する。 ・・・・・・・・・ ところで、私は読者や実習者にたびたび次のような質問をすることがよくある。 『そもそも、精神世界と思わしき領域への最初のきっかけはなんであったのか??』 それを答えて欲しい・・・と。 ある者の場合には、キリスト教系の幼稚園だったというたったそれだけの事で、 その後、何をやっても何を読んでも、その価値観が抜けない場合がある。 ある者の場合には、たまたま小さい頃に聞いた釈迦の話が一生残っている。 ある者の場合には、「世界の偉人伝」とかを読み過ぎて、 頭の中の理想がゴチャゴチャになっている。 ・・・・・・・・・ しかし私が「探求者」と言うときには、それは、 世間や宗教や科学で言うところの探求者と似ている面もあるが、異なる点がある。 私は、『病人を探求者と呼ぶ』。 探求者というのは、別にそのようなレッテルを張ったからと言って、 それで探求者になれるわけではない。 袈裟やローブを着たからそれで探求者になるのでなく、瞑想や修行をしたからそれで 探求者になるのでもなく、また本を読みあさったからといって探求者になるのでもない。 私に言わせれば探求者と定義するものは、『その根底に苦がなければならない』。 それ以外のどんなものも『原動力』になり得ない。 たとえば、とても集中力があり、行法をやり、真っすぐにやっても、 何も起きない者が無明庵にも多くいた。 普通の人が見たら、どこからどう見ても真面目で真剣な探求者としか思えない事だろう。 だが、単に気力満々で、何かをやりとげる人間なら、オリンピック目指すような人間や、 ギネスブックに載ろうとする人間には、ごまんといる。 では、それらの人間と、釈迦との違いはなんであったか。それは、彼が、 どんな瞑想をしても、『自分の苦しみは、これでも、まだなくならない』と、 断固として、師を転々とした事だ。 彼を動かしているのは、好奇心でもなく、達成欲でもない。 彼を動かしたものは、「苦から解放されたい」・・・ただそれだけの理由だった。 ところが、この最も重要な『苦』がなければ、いかに瞑想をやっても無駄になる。 なぜならば、その苦に対してしか、悟りには出番がないからである。 そのような点で言えば、あくまでも私の基準で言えばだが・・・ (もっとも、この基準は、正しいと私は自負しているが・・・) 『どうにもならない苦がある事、それがイコール探求者である』。 なんなら、探求者ではなく『大病人』という言い方をしてもよいだろう。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 私本体の命は、一体どれで、どこなのですか? EO****** {命}、{死}、{どれ}、{どこ}、そして、{私}、、、 これらの思考が一切消えるとき、『答え』が『ある』。 ただし、あなたが答えを{得るの}ではなく、あなたは{答えそのものに}なっている。 そこに答えを{受け取る者}はもういない。{あなたが答え}なのだから。 だから、あなたと答えの間に分離があるかぎり、それは起こらない。 全く逆に言えば、あなたが、問いそのものになっても、それは起きるとも言える。 答えでも問いでもいい。 どっちでも、あなたが消えて、問いだけか答えだけになれば、 それは、達成されるだろう。 ・・・・・・・・・ 「命」というのは、ただの観念であり、死もまた観念であり、 「どこ」も、「誰」も、「どれ」も、ただの観念の産物。 疑問はすべて、観念の産物である。 動物たちは、攻撃されれば恐怖する。不安にもなる。 だが、それらはすぐに忘れられる。 彼らはくる日もくる日も、普遍性や永遠の真理などというものへの渇望によって、 その感性を阻害されたりはしない。 だから、ただ一つの問題は、思考だ。 それも例外なく「あらゆる思考」が止まるまでは、悟りは起きないだろう。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 私は何事にも傍観的で、また自分の思考にも常に内観や自己観察が働き、 感情的になる事はほとんどありません。これは精神が成長している事でしょうか? EO****** とんでもない。それは成長どころか、大変な退化、そして精神の老化だ。 感情的であることから私が受けた恩恵は、はかり知れないものがある。 どんな知的探求も、感情と連動しなければ持続力や爆発力がないからだ。 これは、誰でも何となく経験的に理解できる事だろう。冷静に冷笑的に物事を傍観して いるよりも、カーッとのぼせて、何かに入れあげて感情的になっている時の方がパワー があるものだ。だがこれには心の「法則」としての根拠がある。 その最大のポイントは、感情と結びつかない思考は「恐怖」にならないという事実だ。 知的探求にとって最大のエネルギー源は、実は「恐怖」だ。 そして、恐怖とは死活問題がかかってくる場合にしか発生しない。 だからEOはよく、「真剣になれ」とか、「全身全霊になれ」と門下の尻を叩くが、 無気力な者からは、どうやっても力などは絞り出せないのである。もしも他人から言わ れるのではなく、自分で自分を叱咤したいのならば、 あなたが自分で『自分の心身の死活問題にかかわるようなテーマ』を探求の対象として 選択すればいいだけなのだ。 生存問題にかかわるものならば、どんなに怠惰な者でも恐怖が発生する。 恐怖が発生するという事は、そこでは思考が感情と連動して大きな力になる。 バーナデット・ロバーツが言うように、 「情意と結合しない思考は、決して恐怖にならない」のである。 だからと言って、恐怖をごまかすために思考を情意と結合せずに冷静を装ったところで、 何も生まれはしないし、それでは何も滅することもない。 通常、宗教家や瞑想者が陥りやすいのは、感情を剥き出しにする事を「恥じ」や 「はしたない事」「大人気ない」「冷静な人間でない」として抑圧することだ。 だが、そうして抑圧された感情は、別の形で「言い訳や自己正当化や卑下や妬みや冷笑」 という『屈折した表現』をとって累積する事になる。 そうした事を人生で繰り返して来た者には、典型的な独特の「人相」がある。それは、 顔の皮膚が硬直しており、見るからに重苦しく無表情なのだ。 その顔は、誰が見てもひどく歪んで醜いものだ。 顔の「造作」の問題ではないレベルの独特の「表情の醜さ」が、そこにはある。 それはあらゆる感情を経験しつくした、すっきりした透明感ではなく、情意のなさから くる幽霊のような弱さ、密度のない希薄さから来る透明感だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さてムキになるという事、感情を剥き出しにするという事は、とかく宗教家が「自分の 立場や体裁」を維持するために避けるものの一つだ。 だが感情なしには、どんな探求も本物にはならない。 なぜならば、既に述べたように、感情的になるという事は、それだけそこにはあなたの 「恐怖」があるからだ。 恐怖ほど人を動かしその者の全力を出させるのに貢献するものは外にはない。 どんな探求も、あなたの死活問題に支えられたものであれば、それは嫌でも感情が作動 するだろう。そして、その時に、その力は思考の持続性を与える。特に、和尚の傘下の サニヤシンたちは、ハートという用語を乱用するときに、気をつけなければならない。 「ハート」という日本語の音の響きがソフトであるために、 そこに内在する「有効な力の本質」を無視しやすい。 だからインドの和尚のワークの中には、泣き続ける期間と笑い続ける期間を交互に設定 するといった技法以外にも、「怒り」がワークに組み込まれていた。 これは非常に大切な事だ。そうしたワークを提示した導師だけが本物だろう。 怒りは醜いとか、波動が低いとか、他人に害があるとか、口で言う以前に、怒りという ものが、生存が脅かされる時の「生物の正常な反応」として認められた時は、 それを逆手にとって「探求の為の莫大な力」になるものだ。 燃料が下腹だとしたら感情はそのトリガーだ。思考は標的を定める力だ。 たとえば、そうした連動は、セックスにおいても役に立つ。 男女がもしも、生殖器、腹、胸、眉間の4点のオーラを完全に結合したままで性行為を すると必ず両者は同時にオーガズムを迎える事になる。 そして女性はその場合には、ほとんど間違いなくオーガズムの後には気絶するかのよう に熟睡に入ってゆく。これはエネルギーの完全な状態が実現される一例である。 ▼▼▼【編集者注:ここは、この技法については、【虹のオーガズム】という書籍に 収録しました。】 ・・・・・・・・・ さて話を戻すと、感情が消え去る、あるいはサットヴァの性質を帯びるのは、爆発の『事 後』のはるかに後の問題であって、探求の途上にいる者は決して感情を抑圧してはなら ない。それが他人に多少の害を及ぼしてもかまわない。それは後で自分で責任を取れば いいのだから何も問題はない。だが後で責任を取る事を回避するために、あらかじめ最 初から感情を押し殺すという者がこの世界、特に現代の日本には多い。 (それも結局のところは、死活問題から来る「恐怖の別の姿」なのであるが)。 だが、EOもまた感情がなければ、その探求は不可能だった。ムキになる事があればこ そ、それは探求として成立し得た。彼の場合は、「宇宙そのものの存在している理由」 が、知的遊戯というのではなく彼の日々の死活問題だったために、心底からムキになっ たのだ。その問題が未解決である事は、彼にとっては日々の生存での『恐怖』そのもの となっていた。 それを別にしても、彼はもともと感情的な人間だった。知られざる事ではあるが彼の幼 少時代も、青年時代も、彼は何ごとにもムキになる性質だった。何かを始めたら気が済 むか身体が壊れるまでは絶対にやめない性質であった。会社で上司に怒鳴るときには 思いっきり怒鳴り、これまた社長室の物を蹴飛ばして壊す始末だ。 異性関係の中でも嫉妬する時は、涼しくすました顔などは全くせず、 まっすぐに嫉妬したものだった。早い話がキレると『非常にタチが悪い、 アブナイ人間』であったのだ。(ただし何の論理もなく、「むかついた」から激怒した などという覚えは全くないが・・・)。 だが、私はその感情的である性質から実に大きな恩恵を受けて来た。 自分の心身にキズがつかないように体裁を気にしたり、平均的な社会人としてふるまっ たり、人畜無害な安全な善人としてふるまうという抑圧が、 全く欠落していたために、そこらじゅうで、トラブルを起こし、心にケガをしながらも、 それらは実に楽しく満足のゆくものに終息していった。 自分のわがままを自分で容赦なく発散すると、経験の中に悔恨が決して残らないからだ。 そして、トラブルを多く起こす人間は、その分、いずれは、周囲に対しての、 その「後片付け」の方法をも学習してゆくものなのだ。 かくして感情的になる事、ムキになること、あるテーマに死活問題がかかわることなど、 こうしたものが「かつての無名庵」では、中間コースあたりから、それと分からぬ形で 組み込まれていた。冷静に黙って座禅をしているだけでは済まなくなるのであった。私 は、あらゆる角度から彼らの心と身体、特に心の死活問題に訴えかける手段を使って弟 子を怒らせて来た。 そしていずれは探求の動力となる彼らの、その感情の力量を算出してきた。 それ故に、行法を真面目にやる事と同時に正直に導師に対して腹を立て、 ムキになれた者だけが無名庵では生き残るシステムだった。 そして最後には、そのムキになるエネルギーは日常の小さな問題ではなく必ず 『普遍的な問題』の探求へと向かわねばならない。 そうでなければ、ただの感情だけの気違い人間で終わってしまうからだ。 感情と思考が「同時に過熱」しない探求心は、どこへも至ることがない。 それは、満足どころか、「絶望」にすら至ることが出来ない。 探求者であるかぎりは、冷静である事などには、どこにも美徳はない。 それは単なる煮詰まらない知性だ。 知性が高いものほど自殺をするとEOは言う。だがどんな思考も感情の助けがなければ 自殺を決行するほどの力にはなり得ないはずだ。 それと同じように、感情のない者は、思考を加速することができない。 上品にふるまい、事なかれ主義で生き、たいしたケガもせず、ろくに悟ってもいないの に精神世界のへ理屈を武装して、穏やかにふるまったところで、そんな精神には、何ひ とつも受胎する事はない。 そして、そうした感情のワークや怒りのワークは、決してアシュラムで行ってはならな いのが原則だ。 なぜならば、そこは「安全区域」だからだ。 それではあなたはそれを「ワークだから」で割り切ってしまう。 しかし、世間の真っ只中でそれをやったら、それはワークでは割り切れない。 それはあなたの社会的な死活問題にかかわるだろう。 だからこそ、そこでこそ、恐怖心は本物になり、探求も本物になる。 ただし、とても難しいのはバランスの問題だ。 感情だけでも駄目だし知性だけでも駄目だ。 本当の奥義というものは力の量ではなくバランスの中にあるからだ。 だが、知性だけでは探求者は歩けない。感情だけでも歩けない。 知性と感情は、探求のための両足なのだ。 しかし、とにかく、こと精神的修行や宗教にかかわる者たちに限れば、 彼らほど、ムキになり、感情的になる事を抑圧してしまった者たちはいない。 (とはいえ、そこらの宗教は、既に充分に、全くの感情的人種の集まりではあるのだが) そして、もしも人間の枠を超えた絶対真理や絶対基準、あるいは悟りの探求に向かう時 には、その時は「ムキ」になれる資質こそが飛躍の鍵になる。 ムキになれるということは、結局そこに死活問題、つまり「命」がかかっている場合だ。 ただしそれは「熱狂」というものとは違う。熱狂というものは冷めやすい。 熱狂は人為的な失望によって簡単に冷ます事が出来る。 だから、熱狂する者を追い出すのは、実に簡単なことであり、彼らの期待をほんの少し でも裏切ればいいだけなのだ。それには全く何の苦労もない。 だが、熱狂ではない「執念」は、冷めることがない。なにしろ、自分の生命がそこに賭 かっているのであるから、それは冷めようがあるまい。探求に「命と、人生そのもの、 死活問題が賭かっていなければ駄目だ」と私が何度も何度も言うのは、こうした、思考 と感情と恐怖心の三位一体の効果という「全く法則的な根拠」によるものである。 私は単に出来の悪い弟子の尻を叩いているのではない。 出来の悪い者には、私は叩くこともしないから、とっとと単に出て行けばいいのである。 どこへ行ったところで、彼らの結末は同じであるからだ。 そして、もともと本来、師弟関係には「相性のよしあし」や「縁のあるなし」などとい うものはない。探求者本人がそこに人生そのものがかかってしまっていたら、導師どこ ろか、あらゆる「生活の状況そのもの」が彼らにとっては導師になるからだ。 かつて大悟した者たちの中で、彼らの人生そのものを賭けていなかった者が、果たして、 たったの一人でもいたかどうかを見れば、 こうした問題には、どこにも反論の余地はないものなのだ。 そして、それが命を賭けた賭博だったという事は、とうぜん彼らは、 その途上では、とてつもなく恐怖し、感情的にもなり、そして、 その総体が一体となって、思考を超える飛躍の原動力になったという事である。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 私は、どうしても何に対しても自己意識を投げ出せず、そのためにどんな瞑想をしても、 完全な一体感というものを味わったことがないのですが、何が障害なのですか? EO**** たとえば、瞑想で内なる空白と解け合うといっても、無・空性の空虚さとは、「充実感」 に対して「相対的に感じ取られるような空虚」ではない。 というのも、空虚「そのものの中」には、どんな「空虚感」もあり得ないからだ。 空虚そのものには、そもそも感覚というものがないからだ。 空虚感とは、あなたが存在感の立場に自分を置いて、 空虚を「他人事として眺めている場合」に感じる感覚にすぎない。 だが、いったんあなたの立場そのものが、空虚そのものの中に踏み込んだら、そこには どんな空虚「感」も存在しない。 つまり、これは物事の原則だ。「・・・感」と言われるものはすべて、 対象とあなたとの「距離」が感じさせるものなのだ。 空虚「感」とは、あなたと空虚の間に距離があることを表している。 存在「感」とは、あなたと存在の間に距離があることを示している。 原則として、「何かを感じ取る」場合には、あなたは『それそのものではない』という ことなのだ。 だから、空虚にせよ、存在にせよ、あなたが「それそのものである場合」には、 そこではなんらかの感覚、たとえば存在感や、空虚感を感じ取る事は決してない。 このようなとき、その在り方は「存在性」または「空性」「不在性」などと呼ばれる。 ただし、言うまでもなく、これは存在「感」、そして空虚「感」なのではない。 だから、空虚になるときは空虚そのものになり、存在になる時は存在そのものになるよ うな者がいる場合、彼は世界を存在とも感じないし、空虚とも感じない。 つまり、彼からは、あらゆる『感』が欠落してしまう。 そこでは世界は「ある」とも「ない」とも言えないものに変貌する。 「・・・感」というものは、常に「一体性の欠如」が生み出すものだ。 だから、よくそのへんによくいる「万物との一体感を感じた」などという者は一体化し ていない事の何よりの証拠なのだ。 なぜならば、本当の一体性、完璧な溶解と融合の中では、一体「感」などという「感覚」 は決して発生しないからだ。そこで発生するのは、一体感ではなく『不二』だ。 「不二」とは、「ふたつではない」という事だ。ただし、それは「一つだ」という感覚 ですらない。不二とは、単に「ふたつではない」という事だ。 だからと言ってそれは「一つであると感じる」のではない。 そのような感覚はそこにはない。 なぜならば二つという感覚が消えたら、当然の事として、一つという感覚もまた消える からだ。二つに対するひとつ、あるいは、「ある」に対する「ない」と言うような相対 的な定義そのものが、そこでは溶解するからだ。 ほんのごく僅かな瞬間だが、セックスのオーガズム中において、あなたはそれを体験す ることがあるかもしれない。完全に一致した融合、完全に男女が同時にオーガズムを迎 える瞬間には、あなたは相手を感じない事だろう。そしてまた自分も感じない。 ふたつという感覚もそこでは消滅し、それと同時に一つという感覚もないはずだ。 そこにあるのは、ただのエネルギーそのものだ。 しかも、そこでは、ひとつになったエネルギーを「感じる」という事ですらない。 そうではなく、あなたも相手も、ただのエネルギー「そのもの」となっているのだ。 融合の一体性において、感覚が発生しないという事は、「知る」ということが機能しな いという事でもある。ここで言う「知る」というのは、何も知的に、論理的に物事を知 ることばかりを言うのではない。 もしも花を見るとき、花の存在を感じるとしたら、そこで知ることは既に始まっている。 もしもその香りをかぐとき、香りを感じるならば、そこでもう分離が始まっているのだ。 しかし、あなたが本当に花そのもの、香りそのものになってしまう瞬間には、 そこには『花』も『香り』もない。 同じことが、あらゆる知覚現象についても言えるのである。 あらゆる「感覚」は『距離』によって生まれる。 あらゆる「感覚」は『誤差』によって生まれる。 だが、一体性の中では、誤差と距離がないために、いかなる「感覚」も存在しない。 では、そうした一体性の中にいる者は「無感覚」なのだろうか。 だが、もしも「無感覚」という感覚がそこにあれば、それは既に感覚に対する、相対的 なものとしての無感覚になってしまう。そうではなく、 真の無感覚とは、無「の感覚」なのではなく、無感覚「性」のことだ。 だから、感覚が超越されるとは、「無感覚を感じ取る」というのではない。 思考が超越されるとは、「無思考が観察される」ということではない。 空を体験するとは、「空虚な感覚がする」ということではない。 存在が充満するとは、「存在感が感じられる」という事ではない。 真の一体性の中では、何ひとつも感覚は存在せず、 しかも、すべては充満としてそこにある。 しかも、その充満を知る者すらも存在しない。 空性もまた、空性そのものとの一体性の中では、その空虚を知るものすらいない。 その時は、あなたそれ自体が充満「そのものとなり」、空虚「そのものとなる」からだ。 すなわち、「ある・なし」『有と無』という最も基本的な二元性が超越されるとき、 それに付随する、充満と空虚などのあらゆる二元性が消え去ることになる。