意識と瞑想に関する質問 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** クリシュナムルティーはなぜ 『瞑想には方法などない』と言い続けたのですか? EO**** 「方法」というものは、今ここにある自分の在り方とは別の自分に「なる」為の手段だ。 それは、その方法を使って今はない、何か別の結果を自分の中に作り出そうとする。 方法というものは達成したい目的によって生まれる。 だから厳密に言えば障害となるのは「方法それ自体」なのではなく、 方法を使って達成しようとするその「動機」と、 それが生まれて来た原因である「記憶」の存在だ。 つまり、あなたのその目的は記憶によって作られている。 だとしたら、そもそも記憶によって作られているのではない、 ここの『今の現存』に至ることなど決して出来ないのは確実な事だ。 たとえば、あなたの中に「より覚醒した状態」「気付き」「あるがまま」「無心に明け 渡す」「オープン」「リラックス」「無為自然」「何にも囚われることのない自由」 「ポジティヴ」「光明」「悟り」など、こうしたなりたい自分の目的があるとする。 だが、例えば光明や悟りなどについては、あなたがなろうとしているその状態とは、 単にあなたの「記憶の合成」によってイメージされているにすぎないわけだ。 それはあなたが本を読んだり、あなたが出会った導師たちのイメージや、導師の気配の 記憶をあなたが勝手に自分の好みの形に合成したものだ。また、そうしたイメージに、 あなた自身の過去の瞑想経験までをも合成して「おそらく、たぶん、悟りとはこんなも のだろう」などと考えているわけだ。 あなたは悟りや光明に対して、それがなんであるかについて、 「ひどく大ざっぱなイメージ」を作り上げている。つまり、実際にはその体験の中にい ないにもかかわらず、あなたはなんと、「勝手に自分で推測している単なるイメージ」 を自分の理想にしてしまっているのだ。 またあなたが導師の20センチ隣に座っていたとしても、 あなたは彼の体験しているものを体験しているわけではない。 ということは、あなたが、自分が望んだ理想的状態になろうとして、 何かの方法を使おうとする時点で、既にあなたは「今の自分はその理想状態ではない」 という『前提』をかかえている。 また、「あなたの中に既にそれはある」などと言われれば、あなたは内面に意識を向け て「どれがそれなのか」と見付けようとしてしまうが、 この時にもまた「今の自分は、それを発見していない、それに気が付いていない」とい う『前提』を既にかかえてしまっている。 あるいは「無心に何も求めずに、方法も捨ててただ在るのだ、ただ座るのだ」と言われ れば、またもやそのように「在ろう」とするが、 今度は、そこで「今の自分は、無心にただ在る状態ではない」という『前提』を、既に あなたはかかえてしまっている。 ところが、「なろう」「見付けよう」「在ろう」、このいずれもが、 その行為に着手したその瞬間に、悟りの性質とは相入れないものなのだ。 というのも、光明とは簡単に要約すれば、 1/それは「なる」ものではなく、既に今ここにあるものである。 2/それは見い出されるものではない。第一、それを見ることは出来ないのだから。 3/それはあなたの探求心がない時、そして記憶という過去から自由な時にある。 こうなってしまうと、「なろう」とすることは、1に反する。 内面を探ろうとすることは、2に反する。 方法を使おうとすれば、その方法を「使うあなた」がいる。 そこには動機や目的や期待があるために、どの方法を使ったとしても、 すべからくそれは自我を強めてしまう結果となりこれが3に反してしまう。 また、あなたの過去の記憶も作動してしまう。 禅仏教によれば、それは修行の結果として作り出されるものではなく、 『既に、今ここにある』そして『いたるところ、どこにでもある』とされる。 ところがあなたは、今すでに在る「それ」を、別の未来に起きるであろうと期待し、 うるさい町中ではなく、どこかの瞑想的な場所や、導師のそばでなければ達成できない と考えて「今、ここ」とは「別の時間」「別の空間」でそれが実現されると妄想する。 そういう時には「今、ここにある自分の状態は、その理想状態ではない」という『前提』 あなたは既にかかえている。そうしてあなたは、その理想的な状態という目的に向けて の「方法」に取り付かれてしまう。 「今、自分は悟っていない」「だから、悟らなければならない」という前提が、 あなたを「なること」へ駆り立てる。 「今、自分は見付けていない」「だから見付けなければならない」という前提が、 あなたを「見付けること」へ駆り立てる。 「今、自分は、あるべき在り方ではない」 「だから目覚めて在らねばならない」という前提が、 あなたを「在ること」へ駆り立てる。 だが、今ここにはない別の何かに「ならねばならない」などと駆り立てられたら、 あなたは今ここに『現存』するものから、とたんに離れて行ってしまうことになる。 だから、道は非常に限られて来る。まず必要とされるのは、 そうした『前提』と『強迫観念』の破棄だ。そして物事の判断をする自分や、 その判断材料をなしている自分の記憶からの自由だ。 ただし「今、もう悟っているというならば、何もしなくていい」という『正反対の前提』 をここへ持ち込むようなことはしてはならない。それでは単にひとつの前提が 『別の前提』にひっくりかえって、すり替わっただけだ。 だから、前提と強迫観念の破棄は「片側」だけでよい。 「今の自分はあるべき理想状態ではない」「あるべき状態にならねばならない」という、 こ思い込みが消えることで、問題の大半は消え失せてしまうからだ。 だから、クリシュナムルティーは言う。 「まず第一に学ばれるべきこと、それは求めないということだ」と。 ただし、それは現状を肯定するというのではない。 肯定というのは「よし」としてしまうことだ。だが、「よし」などは不要だ。 現状がどうであれ、物事のありのままの状態に対して、『一切沈黙したままで、 その経験背景の根源をなすもの』それが『それ』だ。 今の自分とは別のものになろうとするのは、達成欲だ。 今の自分に発見されていないものを見付けようとするのは、知識欲だ。 そして、覚醒した在り方や、無心に在ろうとするのは、けっきょくは生存欲だ。 しかもその上、「本当に自分がなりたくてなろうとしている」のでもないのだとしたら、 それは、もはや悪質な強迫観念だ。実際にこうした事は寺や組織的宗教でたびたび起き ることだ。また、個人的な探求者であっても、本人が勝手に自分で強迫観念をかかえる 事も日常茶飯事だ。 今の自分はあるべき状態ではなく、もっと上の存在の仕方があるように、どうしてもあ なたには思えてしまう。さもありげに、そういう在り方があるかのように振る舞い、 生きて死んでいった人物についての知識や、導師たちのエピソードを、あなたはまるで 自分の理想、あるいは時には人間全体の理想像のように誤解して、そんな理想に執着を し続けているのだ。 だが、今の自分よりも「もっと上」とか「別の自分」というものこそが、 心の中に架空の未来を作り出し、そしてその為の方法にしがみつく事になる。 だが、悟り・光明の根本中の根本は、「それは目標には出来ないこと」である。 なぜならば、それとあなたの間には、もともと認識の距離さえも存在しないのだから。 それゆえに、距離やプロセスがなければ、そこには方法は存在し得ないのだ。 そして、それは「しなければならない」などという強迫観念によっては、 決して実現などされないものなのだ。 では、内面的な探求など全くせずに、自分の在り方になんの疑問も持たず、開き直って いる一般社会の偽善者、無神経な人間たちも、「今ここままで悟っているのか」という、 ごもっともな反論に対しては、こう言えるだろう。 「はい、全員とも、もう悟っていますよ」と言えば、あなたは果してそれで、 以後二度となんの迷いも持たずに生きてゆけるだろうか。 すなわち、真実の言葉の中には、あなたを救わない真実もあるという事だ。 「あなたは五体満足、どこも問題ないですよ」と言われたからといって、あなたが幸福 になって満足するわけではない。 それは単に身体の「部品」がちゃんと揃っているということにすぎない。 「部品」に問題がないという事とそれが正常に「機能」している事とは全くの別問題だ。 だから、あなたには既に仏性がある、などと言ってみたところでそれはあなたにも 「種子はある」と言っているにすぎない。 しかしそれが花になるのとは全くの別問題だ。 「あなたはもう既に仏なのだ」などと、禅師に言われれば 「自分の一体どれがそれなのか」と、あなたは自分の精神の中を探索してしまうだろう。 だが、それは、探すまでもなくそこにある。 それは、探す事をする「以前に」あるのだ。 すなわち、一切の記憶や動機、目的、理想、そして認識をも離れた『沈黙』の中にのみ あるものだ。 唯一の障害とは、何かが人間の中に足りないのではなく、その悟りの現存の周りに余計 なものが付着しているということだ。その余計なものとは、あらゆる種類の「目的」、 そして、その素材となっているあなたの記憶だ。 そして、とりわけ一番最悪のものは、「こうあらねばならない」という強迫観念だ。 だから、あなたが全く何にもなろうとしていないとき、 全く何も見付けようとしていないとき、何ひとつも確定しようとしていないとき、 今の自分以上や、別の自分などを何も求めずに、心がどこへも出掛けずに、 問いも答えもないときにだけ、それは在る。 ただし、それは「沈黙した内面を見詰める」ということでは断じてない。 それはあなたが内面を傍観して見て知るのではなく心の沈黙そのものの中に『深く入り 込み、交ざり、一体となって』、ゆったりとくつろいでいる時にのみあるものだ。 しかし、あなたは、ただくつろいで空っぽにしていたら、 「何も起きやしないじゃないか」と、きっと思うことだろう。 だが、そう思った瞬間には記憶の働きがすぐに始まってしまうのだ。 あなたは、そこでは「何かが起きなければいけないのだ」という強迫観念にまたもや落 ち込んでいるのだ。 そうやって、あなたは今の瞬間の中に過去の記憶、過去からの判断を引き込んでしまう。 だから実は、悟りを探求するという姿勢そのものが、それには決して到達できないよう に出来ているのだ。 したがって、「何も起きない事そのものの沈黙の中に、深くひとつになること」、 そうした技法こそが残された数少ない道のひとつだ。 死人禅の闇の瞑想、頭頂留意、いずれもが、瞑想をしている主体そのものが、 その技法の中に深く一体となり、自己忘却してしまうという事が最大の鍵となる。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 瞑想には方法などはないと言われるのに、 どうして実際に大悟した人達が作り出した体系が、こんなにも多くあるのですか? EO**** その問題については、次の点をよく理解しようとすると良い。 この問題は思考だけでは理解する事は出来ないように複雑に入り組んでいるからだ。 体系とは誰のためにあるのか? それは、修行者のためにあるのであって、導師本人には体系などはない。 当たり前のことであるが、導師とは体系を必要としなくなった者のことだ。 では体系を作るのは誰か? 体系は、大悟した者のみが作ることが出来る。 なおかつ、それは間違いなく、彼が見性した「後」になってから、 弟子とその時代に応じて作られるものであって、決してそれ以前ではない。 だから、本人が見性する前に、本人の試行錯誤の中で作られたものなどは、本人にすら 役に立たないどころか、全く他の誰の役にも立たない。 その体系の「部品」の中には、後で少しは使えるものもあるかもしれないが、製品全体 の有機構造としては、作動しない全くの不良品で使い物にならない。 まだ修行途中でありながら何かを 体系化しようとする動機は何か? 1/本人が「組み立てる」ということが性分として好きであるという構造化、体系化の 単なる「癖」。いわば、発明家が何かに凝ったり、自分の作品を残したいというような 個人的な動機と同じ。理屈屋に多い一種の「構造化中毒」 2/体系化すると本人も後で使うのに「便利」だと思い込んでいる。要するにEOがよ く言う、体系を好む人間は、何も支えなしに、あるがままに直面もできず、自分の内面 や精神を武装する「臆病者」であるということ。 3/体系化すると、後で他人の助けにもなるから、という(偽善的)動機。しかし、 それが役に立つかどうかは、大悟してから初めて分かることである。おうおうにして、 至っていない者の考案した体系など全く役に立たない。 では体系の目的とは何か? それは「体系がいかに不必要であったか」を、痛感させる事のみである。 本物の体系とは、これ以外のいかなる目的も絶対に持ってはいない。 体系それ自体が、光明から見れば、すべて例外なく、あきらかな虚偽である。 にもかかわらず、それが存在する理由は、 体系によって修行者の中の何かが進歩したりするのではなく、また、 体系によって悟るのでもなく、体系によって、あらゆる修行者が、 あらゆる体系に、『完璧に愛想をつかす』為にある。 このことが考慮された体系のみが真の体系である。 それ以外の体系は、単なる「なんとか上達方法」にすぎない。 だが本物の体系は、「これは、きっとうまく行くよ」とそそのかして、 やらせたあげくに、可能なかぎり、速く、 あらゆる体系それ自体の過ちに気づかせるような体系である。 すなわち、本物の体系とは結局は、その全部が『嘘の固まり』である。 だが、その嘘を作れるのは、本物を体験した者だけである。 私が日本で唯一ただ一人、敬意を払っていた老師がいる。彼の名は原田雪渓(福井県の 発心寺の住職)。ただし私と老師の間には、直接の面識はない。さて、老師は言う 『今は認識できない。(今には、時間も距離も、場所もないからであります) 認識できるのは、過去と未来のことだけです。』 『坐禅が、明瞭でなくてもよろしいから、 ただひたすら座布を「坐」で温めて「坐忘」をすることです』 この二言だけで、彼が「どこにいるか」の、そのすべてを語っている。 私は彼の事を日本のクリシュナムルティーと呼んでいた。 私が、会ってみることを他人に勧める、ただ一人の日本の導師だ。 『今は認識できない』。これが一体何を意味するかを参究するだけでも、 人の半生がかかるものだ。だが、老師がそこに至った原因は、 彼が「今とは何なのか」を6年間に渡って、時には木の上に座り、 本当に一生懸命に、休みなく悩み続けたことだった。 本当に知ったものは、「『それ』は、知り得ない」「今は、認識できない」 『光明は知られざるものだ』と必ず断言する。 これは、一見、すさまじくナンセンスに思えるだろう。 「なぜ『その中』にいるはずの彼らがそんな事を言うのか??」と。 だが、この短い言葉の重みは、恐ろしく重い。釈迦以来2500年の時間の人間のすべ てをかけて体得された、「すべてのすべて」であるのだ。 これを言ったのは私の貧弱な知識の限りでは、 私以外には、原田雪渓老師、バーナデット・ロバーツ、そして、稀に和尚が講話の中に、 それと分からぬように時折、語ったのみである。 ただし『それは知り得ない』が、『それで在り得るという事は可能だ』。 これが、光明のすべてを物語る、世界一短い言葉だ。 『不可知、只在あるいは只不在』と。 だから、それを痛感し尽くした彼らは「探すな、求めるな、見るな、知るな」と30年 も40年も言い続けた。しかし『悟りは、絶対に知り得ない』、 というその結論は、それを全身全霊で知ろうとした、 彼らの苦しい地獄のような葛藤こそが割り出した結論なのである。 だから、知ることへの、気の狂ったような情熱ぬきには、 決して、そこへ至ることはない。 これが私がさかんに言っていた、『不必要な真実』と『必要な嘘』ということである。 だから、雪渓老師は、常に不必要な真実を語り続ける。 しかし、それは「最も親切な真実」でもある。 そして、必要な嘘とは、 しつこいまでに「全身全霊で求めろ」と叱咤し続ける。 しかし、これもまた「最も親切な嘘」でもあるのだ。 私の大悟の瞬間の最初の認識であったもの、それは、 『これは、探求者には到達不可能だ。無理だ。絶対に無理。不可能だ。というものだ。 なぜならば、探求それ自体、技法それ自体が、体系それ自体が、 全く『これ』に完璧に反しているのだから。 探す必要など、もともと全くなかったのだからだ。 しかし、こんな事は、何万回言っても、誰も実感などしないだろう。 あまりにも過去の導師たちが、同じ言葉を言い過ぎて、 弟子たちが本質も分からずに、ただその言葉に「耳慣れて」しまったからだ。 それでも、「探す必要は全くない」というのは完璧な真実だ。 なんと、探求心それ自体が光明に至れない唯一で最大の原因なのだ。 しかし、もしも、それでも、いわゆる探求者の中に、そこへ至るものがいるとしたら、 それは、ほとんど狂ったように、求める者だけだ。 そして、そういう者は、本当に稀にしかいない。 狂ったように求め、本当に狂ってしまう者だ。 そういう者は、誰が尻をたたかなくとも、必ず自分でそこまで行く。 誰の助けもなしに行くからこそ、彼らはユニークになる。 ただし、それは、ひどくて苦しくて、人生最低の日々の連続となるだろう。』 結論 『即効性』のある体系とは、すなわち、 どれだけ速く、その体系が人を 『生き地獄に送り込めるか』という一点に尽きる。 「仏道は、そんな無慈悲なものではない、 そんなのは嘘だ」とまだ言い張るのならば、 一体、今までに何度、 地獄こそが、探求者たちを救って来たかを、 じっくりと見てみることである。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 頭頂留意とは、集中ではないのですか? たとえばインドの和尚は「瞑想は集中ではない」と言っていますが。 EO**** インドの和尚は、観照者、観察者、傍観者の3つを区別する。 観察者とは、判断する者、つまり思考だ。 傍観者とは、無関心なアウトサイダーだ。それは単なる鈍重な意識だ。 観照者とは、全一的な実存状態の「副産物」として現れるものだ。 しかし、なんくせをつけるならば、観照「者」などは存在しない。 観照という「現象」は存在するが観照には主体はいない。 だから、それを観照「者」というのは間違いだ。それは主体があるのではなく、 観照それ自体の特性だ。 さて、さらに和尚は言う。観照とは「全面的に在ること」の副産物である・・・と。 したがって、観照を訓練するような事は通常は出来ない。 観照者になろうとすることは出来ない。 観照は、単なる副産物であるかぎり、ポイントは、原因のレベルにおかれねばならない。 しかし、世の中には、観照だ、自己観察だと、観照の目を自分の行為に注意深く向けて しまう技法が多すぎる。そうして、観照者が目覚めているように訓練でもしているつも りになっているが、そこから生み出されるのは、単なる緊張と分裂的な精神病だ。 だから、観照者であろうとする事などは出来ない。観照とは、ある条件がそろった場合 に『自然発生』するものなのだ。和尚はそれを「全一的に在る」場合という。 だが、ここが死人禅では技法の着眼が異なっている。 死人禅では、観照は頭頂留意の副産物である。 集中というものは確かに瞑想ではない。 ただし、ある集中の仕方をすることで、「全一的な実存状態」が可能になるというのが 死人禅の結論だった。 確かに、頭頂への留意は一見すると、排他的な一点集中に思えることだろう。 だが、実際にやれば分かることだが、頭頂へ集中した瞬間に、 あなたは閉じていることが不可能になってしまうのだ。 通常の集中は、集中点以外をすべて排除してしまうだろう。 手元に集中すれば手元以外は排除されてしまう。眉間に集中すれば眉間以外は排除され てしまう。ところが、頭頂だけは、そこへ集中することで、何かが排除されてしまうと いうことがない。いや、むしろ全く逆に「排除が不可能」になる。 これが原因で、一点に集中をしている事そのものが、逆に全一的に開いてしまうという、 通常の常識ではあり得ない効果が頭頂への集中で起きたのである。 さて、そのように、観照は頭頂留意の副産物だとしよう。 では、その頭頂留意は、今度は何の副産物なのだろうか。 それは、実は意識の拡散、無焦点状態になった意識の副産物だ。 つまり、頭頂留意そのものが光明への橋なのではなく、 意識の拡散、意識の無焦点性が光明への橋となる。 では、さらに、無焦点の意識は何の副産物なのだろうか。 無焦点の意識、それは『死』『闇』『無』の副産物だ。 つまり、「死」の結果が「意識の拡散」であり、 「意識の拡散」の結果として、「頭頂」の経路が開き、 「頭頂」への留意の結果が「全一的存在」の状態となり、 「全一的存在」の状態が、「観照」を生む。 これが、光明の全体構造だ。 こういうわけで、『死』こそが最も本質の原因であるという洞察から、死人禅と名付け られたのである。その単純な技法の中に、死、意識の拡散、サハスラーラ・チャクラの 解放、全一性、そして観照というすべての要素が包含されているのである。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 意識の進化とはなんですか? EO**** 果たして意識の進化などというものがあるのかどうかは別としても、多様化する宇宙と は全く正反対の一つの方向性があるようだ。 それは運動から停止に至る方向性だ。 さて、人間を大ざっぱに霊的中枢と対応して分類すると、次の6種類に整理される。 ・・・・・・・・・ 1/ 下層部の3つのチャクラ、すなわち腹までで生きている者は、いわば動物だ。 ただ動いて、生殖し、単純な力を拡張するだけだ。あるいは、せいぜい何かになるとし たら、良くても格闘家か兵士かスポーツ選手だろう。なぜならば、腹のチャクラは力の 維持とその発散にだけかかわっているからだ。 ・・・・・・・・・ 2/ 次の第二のタイプは胸に重心がある者たちだ。力の入れ込み具合は最初のタイプよりは、 若干ゆるやかであるが、彼らは、やたらと感動を求めて世界をうろつく事になる。よく て、せいぜい冒険家になるか、芸術鑑賞の趣味か、旅行の趣味か、恋愛中毒にでも入れ 込む程度だ。 彼らが欲しいのは、とにかく感動であってその「質」の問題ではない。 彼らは経験を分析もしなければ、それについての思慮もしない。彼らは文字通りただ、 胸をときめかせるためにだけ生きている。 ・・・・・・・・・ 3/ 次の第三のタイプは行動範囲に一つの制限が加わる。彼らは、やたらと動くのではない。 彼らには目的とするものがありそれのみの為に動くのである。 彼らの主眼は蓄積だ。彼らが旅行するとしても、二番目のように感動を求めてではなく データを求めてだ。 つまり、この三番目の人種は情報マニアあるいは何かのコレクターだということだ。 彼らが旅行をするとしても、きっと常にビデオカメラでも持ってゆくに違いない。 彼らの主眼は記録とその蓄積にある。そしてそれは特定の情報に限られる。 こうした特性は、彼らが喉の中枢に重心があるためだ。そこは記録・記憶の中枢だ。 しかし、このタイプの人種は、技術的・事務的にデータを組み合わせる事はできるが、 新しいものを作り出すことはできない。何か全く新しいものを作り出せるのは、 次の中枢の者であるからだ。 ・・・・・・・・・ 4/ 第四の人種は、重心が額にある。彼らは科学者か発明家タイプだ。彼らは何か新しいも のを作り出すためには、「ひとつを除いては」、どんな思考でもする。 彼らは発想に必要な情報を求めてという目的でもないかぎりは、旅行などしない。 行動範囲がむやみに広いのは第三の人種までだ。第四の人種、たとえば科学者は実験室 にこもる。このように次第に上の中枢に重心が移るにしたがって、その行動範囲と思考 範囲が扱う領域が狭くなるのが特徴である。彼らは論理の地図と数式の道の上を旅する。 ・・・・・・・・・ 5/ さて次の第五の人種ともなると、なんと実験室さえも持たない。彼らは実験すらもしな い。彼らの運動範囲は机の上の、しかも手と目の運動だけだ。しかも、彼らは数式も使 わず、ただ頭の論理の中を散歩するだけだ。彼らは何かを作り出すために思考するので はない。彼らは第四の人種が「ただ一つ思考から除外する事」をそのテーマとしている のだ。それは「なぜ人は思考するか」だ。これだけは第四の人種は決して持たないテー マである。 というのも、第四の人種にとっては、この疑問は致命的だからだ。 この思考テーマには商業的価値も娯楽としての価値もないからだ。 ところが、第五の人種は、この「なぜ思考するか、なんのために思考するか、思考とは そもそも何か」を考えるのである。 そして、「自分の思考を見ているのは誰か」という問題がこの人種の根本疑問だ。 第五の人種とはすなわち、哲学者だ。彼らは机の上からも動かない。 彼らが仮に「世界とは何か」と問うとしても、彼らは学者のように法則の解明には乗り 出さないし、世界を旅して調査するのでもない。 彼らは世界がどうなっているかではなく「世界とは何か」「どうして世界があるのか」 という定義と意味に主眼があるからだ。 そして、彼らの重心となる中枢は、前頭部である。彼らは多くの思考には同化しないが、 人はなぜ思考し、なぜ万物は存在し、自分の主体とは何か、意識とは何かという思考に だけは完全に同化している。 こうして次第に中枢が上にゆくにしたがって、行動範囲が狭くなるのは奇妙なものだ。 ・・・・・・・・・ 6/ そして、ついに第六の人種に至ると自らの思考への疑問さえもやめて、 彼は完全に停止する。もはや、頭の中でさえも何も動かない。文字通り彼が『わが家』 にいるのか、さもなければ、単に廃人となったかは分からないが、第六に至っては、 内的な行動というものすらも全くない。 ・・・・・・・・・ かくして、人のこの『進化』は、肉体活動から感情活動、そして最後には思考活動へと 移行し、ついには、思考活動そのものへの自問を経て、思考を停止する。 動きから停止への道・・・要約すれば、これが悟りへと向かう方向の旅だ。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 自分という主体感覚とはどうして生まれるのですか? EO**** 人間が持つ主体の感覚には、誤差があるようだ。 私は長い間、主体とは誰にとっても、それは「観照者としての意識」として自覚されて いるはずであると思っていた。だが、これは過ちであったと気がついた。 私は誰もが本来は思考内容や経験には拘束されない「自由な意識の中心」を自分の中に 自覚していると思っていた。 だが、そもそも主体の自覚、つまりその人間が「何をもってして自分という感覚を想起 しているか」は、実はその者にとって重心となっているチャクラの種類によって異なっ ていると理解した。 肉体の中枢のどの部分に、繰り返し反復して「意識が集中したか」、つまり意識の焦点 が引き付けられてきたかによって、その人間にとって主体の自覚となるものは異なる。 1/ 例えば先程の下層の3つの中枢に意識が繰り返して何度も重心が置かれれば、 その者は自分の肉体や自分の力を自分だと思う。 2/ もしも胸に意識の重心が行くことが多いのであれば、 その者は、自分の感情側面を自己だと思うだろう。 3/ もしも意識が反復して喉に集中するのであれば、 自分の記憶を自分の主体だと感じるだろう。 4/ もしも額に意識が焦点を結んでいることが多ければ、 その者は、思考や発想をする自分を自己、つまり主体として認識するだろう。 5/ そして、前頭部に繰り返し意識が焦点を結像した者の場合には、 思考と感覚のすべての現象を「意識している者」こそが主体であると感じるだろう。 ところが、5では1から4では起きなかった重大な問題が起きるのだ。 1から4までは、確かな客体というものがある。つまり、肉体、感情、記憶、思考は、 対象化して客体になり得る。したがって、それらを内省して自分の主体として認識する ことができる。つまり記憶と照合して自我、自己意識が発生する。 しかし5の「意識の主体」となると、それは対象になり得ない。 つまり自己が発生しない、という問題が発生する。にもかかわらず本人は、自分の意識 こそが純粋主体としての自己であると思い込んだ「思考」の中にいるだけなのだが、 残念ながらそれは決して実感を伴う認識にはなり得ない。 原則として、記憶を振り返らないと自己は発生しない。 身体感覚だけでは自我は発生しない。自我は、記憶への内省によって発するからだ。 たとえば一見何も考えておらず、感覚も鈍感にしていたとしても、あなたには自己意識 がある。これは表層意識では明確でないというだけで、 無意識下では絶え間無く現象と記憶を照合しているからである。 したがって、その照合が希薄になる夢の中では自我は少なくなる。 このように、意識的にであれ、無意識的にであれ、記憶と経験が照合されて始めて自我 が感じられるのだが、意識の主体だけはどうしても内省の対象とならない。 その最大の理由は、それが「記憶には属していない」からだ。 このために、自分という「漠然とした主体」にいくら意識を合わせても、 そこには焦点が合わず、自己感覚が発生できない。 つまり、もしも実際に意識の主体を本気になって探そうとすると、 あえて客体としてそこに見る事が出来るのは完全な虚無だけとなる。 かくして「5」の哲学者が、卓上の論理ではなく実際に瞑想的に自己の主体を探求し始 めた時には、内側に見るのは虚無だけとなり、内面に見たものは同時に外側にも反映さ れるので、周りの世界にも虚無だけを見るという現象が起きる。 もしも主体が思考のように記憶としての実体があれば、それは対象化されただろう。 しかし真の意味での純粋主体は対象として知られるのではなく「一致」によって知られ るために、この一致が可能となるのは、唯一その次の第六のタイプに限られる。 つまり、客体としてではない純粋主体性を経験する事になるのは、 完全に対象化の作業が停止した者に限られる。 そして、このときその者は哲学者から神秘家へと変容する。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 悟った人たちの体験には共通する事はなんですか? EO**** 「一致現象」による主体の知り方とはどんなものであるかの問題について参考になるも のを、古今東西の神秘家の体験を要約すれば次のようになる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ★誰でも、時には悟りは起きるが、それは自己客体化(記憶への内観)の機能が止まっ ていて、さらには意識の存在そのものさえも意識されない時、つまり主体に目を向けて すらいない時に限られる。しかし、その出来事は、記憶として留めることはできない。 ★悟りの中では、何かを知るときに、知る者、知られる対象、知る行為そのものが、 同一で分離していない。それは、目それ自体を見る目であると言ってもよく、 どこを見ても、何を見ても『悟り』しか見えないのである。 ★そこには、内面も外面もなく、その悟りがどこから来るのかを問うのは無意味である。 もしもその問いに答えたら、そのとたんに知る者と知られるものに分離が起きる。 ★悟りは存在感の意識なのではなく、ただそこに在るものであり、ただそれ自身を見て いるのである。ただしそれは、内観によって客体として意識されるものではない。 それは、一致によって知るという方法以外には体験する事は不可能である。 ★『悟り』は対象化が出来ないことが原則だ。その原因はそれが記憶ではないからだ。 しかも『悟り』は自分の力で悟るのではない。そこには、それ自身を見る純粋な主体だ けがあり、したがってこれは「私が悟った」とか「誰が悟った」とか、 「誰」に向かって与えられた悟り、というようなものでは全くないのだ。 ★『悟り』では、通常の意識の場合のように多くの対象を見るのではない。 悟りの客体はただ一つであり、それがまた同時に主体そのものでもある。 したがって『悟り』は通常の対象のように、時によって見えたり、見えなかったりする ようなものではなく、いつも今ここに在るのである。つまり、『悟り』だけが、唯一の 現実となる意識の状態にある時には、意識は個々の何ものにも注目することは出来なく なる。その認識では最初に一なるものが見え、それから意識が具体的なものに及ぶ。 ★究極の悟りは、歓喜や幻視の瞬間のような、何か得意な体験ではなく、 理由もなく沸き起こる、沈黙の微笑のようなものである。そして、悟りはどこにあるか と言えば、いたるところにあり、悟りとは何かと言えば、ありとあらゆるものである。 ★悟りの中では物事はただ全体として観照される。それは個々のものに焦点を合わせら れない幼児の知覚にも似てる。 このように、悟りでの知覚は通常の知覚方法と違い、客体を知ると同時に主体をも知る ことになる。たとえば、世界の中に分離した事物を見る場合でも、つまるところは、 悟りは、ただ悟りそれ自身を見ているだけなのである。 たとえば鳥を見る場合には、その鳥を見る者は私の主体ではなく、見られるものは、 客体としての鳥ではなく、どちらも悟り自身の現れの「二つの側面」なのである。 悟りの中では見るもの、見られるもの、見ることそのものの3つが一致している。 ★『悟り』が経験されるのは私の内部の客体としてではなく『悟り自体』の中において である。私が悟るのではなく、悟りがそれ自体で悟っているのである。 そこでもしも何かを言えと言われたら、『これはこれである』と言うしかなくなる。 ★自己を客体化しなくても、感情や思考の動きによって自分を主体として知ると主張す る者もいるかもしれないが、もしも自己を客体として見られなくなってしまうときには、 主体も意識できなくなるのだ。その時は、意識にとっては主体とは「無」である。 だが、そこでもしも何かを意識でもしたら、それは瞬時に客体となってしまう。 ★この現在の瞬間は記憶ではないので、決して自己というものは存在しない。 そして『悟り』自身を見ているその主体は、その本性からして瞬間のみに集中していて、 内省によって発生する自己意識などを必要とはしていない。そこにあるのは自己意識以 前にあるものである。 ★『悟り』は見ることは出来ず、知的には把握できない。 この主な原因は、『悟り』自体が非相対的な次元のものであり『悟り』それ自体の中に は自己という意識がないのである。そのために自己を意識する通常の心では、それとは 一致ができないのである。 ★悟りを目標とするという事は自己(エゴ)の働きである。しかし、『悟り』は期待や 観察の対象とは絶対になり得ない。『悟り』は見ようとしなければ、いつもそこにあり、 見ようとすれば姿を消してしまう。 ★この瞑想のプロセスでは、最後には存在全般に渡る虚無に出会わなければならない。 希望も未来も目的も奪われ、無意識のものも含めて、あらゆる経験と観念が一つ残らず 滅び去ったあとにのみ、突然に『悟り』は現れる。 つまり、確実な真実も実在もなしに生きることに十全に慣れて、その虚無を受け入れる しかなくなった時にのみ『悟り』は「向こう側から」顕現するのである。 ★悟りを妨げるのは、外界の出来事そのものではなくて、 その事物に「ついて」人間が思考するためである。 ★悟りでは、今の瞬間だけで満たされているので、過去や未来を思う余地などはない。 何も基準がなく、選択の必要がなければ、今の瞬間の外に踏み出ることはあり得ない。 ★「無為自然」とは、行為者も行為の対象も知られず、行為のみが知られる。 そこでは、「行為」とその「対象」とその「内容」がひとつである。 知ること、見ること、為すことが、相互に区別されない行為をなしている。 無為自然では、行為は存在と同一のものなのである。 ★基準がなく努力もなく、相反するものをあえて釣り合わせる必要もない、非相対的な 「無為自然」の状態では、選択というものはない。この瞬間の中では、思考によって どちらかよい方を選ぶのではなく、そこにあるものを、受け取るだけである。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** では覚者ではなく、探求者たちに共通するようなプロセスは存在するのですか? EO**** 1:要約すれば、「自己観察」という病気に取りつかれたときから人の探求は始まる。 2:自分の思考を観察するうちに、思考や感覚は「自分ではない」と感じるために、 内面に「確かなもの」を探し始める。 3:そこで、すべてを「観照している者」を見つけたり、それを安定して確立しようと して瞑想や自己想起などするのだが、この時点で「誤った前提」に落ち込んでいる。 つまり、「観照者は絶対に客体化できない」という事を考慮しない。 4:そのために、真の自己(主体・観照者)を見たり、維持しようとすればするほどに、 「虚無感覚」が満ちてくる。これは見えるはずのないものを見ようとするのだから、 当たり前なのであるが、本人は必ず見えると「思い込んでいる」のである。まるで闇の 中に必ず何かあると錯覚して、しつこく闇を見つめているようなものである。 5:やがて、内面の虚無が反映して外側の世界にも虚無を感じる。ここで、もしも完全 な虚無に敗北して客体化が完全に停止して見るということに全くの無関心になった場合 には「主体との一致」が起きる場合がある。ただし、これは主体の「発見」ではない。 主体そのものとの「一致」である。以上が悟りという現象のアウトラインである。 6:だったらば、最初から思考などを観察せず、また自分の主体など見ようとしなけれ ばいいのか?。答えは『否』だ。もしも思考を観察しないと、いつまでも思考を自分だ と思い込む。そして自分の主体を見ようという試みによってのみ初めて虚無に出会う。 虚無が現れる事で対象化は停止する。最初からいきなり対象化を停止する事はできない。 それでもなお「そんな探求は面倒だ」という方は、『記憶を全く振り返らない』という 要点だけを3分間試みるがいい。出来ると思うならば試すといい。 もしも記憶をただの一つも振り返らなかったら、あなたは目的も過去もなくまさに「今 ここに在る」ことになる。だが結局はそうはいかない事が分かって死人禅の行法の体系 というものが登場したのである。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 無自己(無我)の状態とはどのような状態なのですか? EO**** 自分とは「見ている者」であり、自分は「意識の主体」だと人間は思っている。 だが、自分の「意識」などというものがあるのだろうか?? 自分の個別化したこの肉体を見れば、それはあたかも自分のものにも見えるし、 思考は自分独特の成長をしたから自分のものだという主張は出来る。 しかし、意識を自分のだと主張できるだろうか?? 試しに、それをやってみよう。ちょうど自分の肉体のように、それは自然法則が作った ものだから自分のものではない、というのと同じ考え方によっても、意識は自分の意志 で発生したものではないから「自分のもの」ではない事になる。 さらに、意識は肉体や思考と違って「個性」がない。 あるのは、その「焦点の選択」と、「集中の密度」の違いだけである。 意識自体には個性はない。たとえば、意識を自分の意志で何かに向ける時は、 その意志は「自分の」ものだが、向けた「意識そのもの」は自分のではない。 では意識を向けるものを「選択」できるから、それは「自分が向けた意識」だと言える のだろうか??。 それは当然言えるだろう。それは間違いなく「自分が向けた」意識だ。 では「意識そのもの」はどうか??。意識そのものとは、つまり、 対象の選択に「自分の意志」を介在しない場合だ。 意識そのものに止まって、意識を何にも向けないでいると、どうなるだろうか?? 意識を「向ける意志」を使えばそこに自己はある。 しかし、向ける意志がなければ意識に「自分の」というものは介在できるだろうか?? 意識それ自体の中に止まった意識は「自分の」ではないであろう。 しかし、もしも意識を「意志の力で止めて」いようとすれば、 すぐさま「自分の」が戻ってくるだろう。 自我とは「私は何かを動かす事、あるいは止めることが出来る」と思う事によって発生 する。したがって意識も自分がその焦点を選択出来ると思えばそこには自己が登場する。 大悟者たちは、いろいろな事情で、思考がまず動かなくなる。時には肉体も自分の意志 で動かせなくなる。そして、とうとう最後には意識を自分の意志で動かせなくなる。 「彼らの意志」は停止する。 そして、悟りの瞬間には「意識それ自体の見方」で見るのである。 それは自分が見ているというのではなく『それ自体が』『目そのものが』、 つまり意識が見ているのだ。それは自分の意識というものではない。 それと同時に、「自分ではない意識」ですらもない。 それは非相対的なもの故に「誰の」ものでもない。 思考の主人としての自分を放棄するのではなく、肉体の主人としての自己を放棄するの ではなく、人が、自分が「意識の主人である事」を放棄したとき、微笑と未知なるもの がそこにある。 その時彼らは言う。自分が「変わった」のではなく自己が「なくなった」のだと。 そして意識がなくなったのではない。 ただその「指向性を過去の記憶によって制御する者がいない」だけだ。 だから、「私の選択」で対象を見ているのではない。 意識自体が見ているのだ。 それが「何を見るか」には私は口を挟まない。 それは「意識それ自身」が決めることである。 かくして生における意識の動的運動は、「私の意志」から解放され、 「それ自身による見方」に転化する。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 『反逆の宇宙』の本の中には、禅の十牛図を完全に超えた、意識進化の15牛図があり ますが、それについて、何か詳細な説明をEO師はなされたのですか? 回答(方斬) 私にだけ、一度コメントした事があった。ただしそれには注意事項があった。 それは、その15図に関する説明は、悟っていない者には、全くなんの役にも立たない ことと、加えて悟った者にとっても、何の役にも立たないということである。 すなわち、そこを実際に歩んでゆく者にしか役に立たないという事である。 だから、師からこの件については、特別に発表を止められたわけではないが、 そもそも発表する意味がないと私は考えた。またそれは私個人へのコメントだったので、 不特定多数の人間には、関係のない事であると今でも思っている。 これから紹介するものは、ある意味では「読まなかったほうが良かった」という結果に なるだろう。むろん、何事も、読み捨てて、ただの情報で満足してしまうような人間は 「面白い」とは思うだろう。だが、本当の探求者にとっては、かえって読んだために、 本来ならばスムーズに行くべきプロセスに大きな障害が増えるのは必至となるだろう。 しかし、「知ることは、多くの場合に害になる」という事を経験してもらうという趣旨 で、今回は以下に、私がEO師からもらった手紙を紹介する。 ■1994年9月■ まず進化の15牛図の、8図から10図に関しては伝統的な禅とは異なる定義をしなお す必要がある。十牛図に関するバグワンの説明は、ひとつの講話の方便にすぎず、 あれが唯一の定義であるのではない。 たとえば、彼は道家の人々やブッダを8番目に止まっていると言うが、そうではない。 ブッダは10番目にいた。また老子などは9番目にいた。 8番目が悟りの初期だとすると、8番目に止まった人間というのは歴史に残っていない。 彼らはおそらく、誰にも知られず死んだか、洞窟などで暮らしていた事だろう。 あまりに意識が透明なため、8番目にいる者は、自然界とすら接点を持てないのだ。 彼は、深い瞑想の中にだけ存在し続ける。彼にはまるで宇宙も世界も関係ない。 これが8番目の特徴だ。悟りの純度という意味においては最も純粋だ。 非在と存在の境界線を漂っているのだ。 しかし9番目になると、まだ人間には接触できないが自然界とは交流が成り立つ。 つまり、まだ人間のエゴに向かって何かを語ることはできない状態だ。 というのも彼の中には、人間への関心がないからだ。 そういう点では、老子は9番目にいる。 ほんの少しの詩編を残した人々や、自然の比喩をふんだんに使って語った人々もだ。 人間の内面や心の偽善を批評するような事を言う事には、 あまり興味を持てなかった者たちが9番目に止まったのである。 アメリカのバーナデットロバーツも限りなく9番目に近い位置にいる。 これらの人々は、ほとんど人間の思考やおしゃべりにはかかわりあわないのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ それに比べて、皮肉屋の荘子は10番目まで降りて来た人物だ。 そしてむろんブッダも10番目だ。クリシュナムルティーもバグワンもだ。 何か、人々や探求者を相手に語り始め、なおかつその内容が、人間の心の迷いに関する 洞察である場合、その時、その者は10番目にいる。 さて誰も知らないプロセス・・というよりも誰も説明しなかったプロセスが11以降だ。 実は11からは「タロットカードの絵柄」に極めて酷似した性質を意識が帯びてくる。 たとえば11。ウエイト番では11は正義だ。ご存じのようにタロットの8と11は、 カードの種類によって逆になっている場合があるし、クローリーのタロットでは『欲望』 となっている。が、ここでは8を「力」のカードとし、11を「正義」とする。 第10図までは、誰が見ても悟ったような気配がプンプンしている。 また本人もそのようにふるまう。しかし11番からは少しずつ変化が始まる。 タロットの11のカードの絵柄に剣や天秤が登場する。剣とは分割の力であり、 善悪の存在しなかった悟りは、ここで再び分離と善悪をわざと生み出すのだ。 また、天秤は肉体とのバランス、物質界と意識のバランスを取る旅が始まることをも 暗示している。 10図にいる人間の肉体は、極めて不安定だ。それはいつ死んでもおかしくない。 和尚(バグワン)がしょっちゅう口癖のように「自分はいつ死んでもおかしくない状態 で肉体に留まっている」と弟子を、さんざんにからかっていたのも、このためである。 またサハスラーラの機能という点では、サハスララが全面的に機能している状態だ。 しかし、11図に進む者は、悟りを完全に捨てるという次元の旅が始まる。 11図に進んだ者は、再び世界と自己との間に障壁を作り、善悪を便宜的に確定する。 10番目の覚者が、人を選ばず入門させるのに対して11番目の覚者は来る者をその剣 と天秤で振り分けることをする。だから、分割の始まり、これが11番目の大きな特徴 である。11番目にいる者は、容赦なくその剣で人を叩く。 覚者とは善悪を越えている者だ、などと思い込んでいる俗人の目には、 明らかに彼が悟っていないように見えるような振る舞いをするようになる。 なぜならば、覚者の衆生への役目(義務というようなものが仮にあるとしたらの話だが) は10図で既にもう完了しており、11図以降は彼は単なる「彼の趣味で」生存してい るに過ぎないからだ。11の者は時には説法もするが、基本的には彼は単に個人の趣味 としてこの世界に生きている。 サハスラーラの機能としては、頭頂のエネルギー場に柔軟な動きが始まる。 10では固体のように安定していた場が、水のようになる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて12番目は、タロットでは「吊るされた男」だ。そのように12番目に進んだ者は、 極めて不活性な状態に入ってゆく。すべての動きは静まり、説法も完全にしなくなる。 ただし、ここでのメリットは、覚者はこの12図の段階で初めて肉体の安定を得る事だ。 11図の段階では肉体の機能は、まだ悟りの影響でやや不安定だが、 12図では肉体と意識のリンクは完璧に安定をする。 また、彼はここで世間の鎖に再び自分の一部を連結し始める。10図、11図では全く 興味すらも持てなかった世間的なことを自然に受け入れるようになる。 サハスラーラという観点から言うと、柔軟性を越えて、エネルギーの拡散が始まる。 11では水だったものが水蒸気に揮発し始める。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そして13図、ここがひとつの大きなターニングポイントになる。 13図は、文字通り死の気配に満ちている。タロットでは「死神」となっているように、 ここは死だ。ただし、覚者にとってはエゴの死などとっくに8図で通過している。 だから、ここでの死とは高次元身体の死だ。 たとえば10図では、肉体は危ないが、高次元身体はまだしっかりと機能している。 しかし13図では高次元身体は確実に死に始める。 つまり最も高い意識の核と最も低い肉体だけで今後彼は生きることになる。 サハスラーラという観点で言えば、もはやサハスラーラは機能していない。 エネルギー場は、完全に崩壊し、身体のオーラの境界線すらもなくなっている。 にもかかわらず、肉体は安定しているといった実に奇妙な状態だ。 まるで中身が空っぽだが、外側がしっかりと出来ている人形に宿って生きているかのよ うである。 この13図にいる人間には、その気配に独特の死臭や死相がある。ただし一般人の病的 な死臭は文字どおり「不純」なのだが、覚者の死臭には匂いがなく、 その死相も、堅くよどんだいわゆる病的な死相ではなく「存在感の不在」として現れる。 また悟りの意識の残留は、この13図で完全に消え去る。次の14図に至るとき、 彼はもはや、どこからどう見ても、普通の人間に見えるのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そして14図では一転して、彼は何か形あるものを作り始める。 クローリーのタロットで14のカードが『アート』となっているように、 14図は「錬金術的作業」だ。 また普通のタロットでは14のカードは「節制」となっているが、 11図であったような過激性は彼にはなくなり、ある種の節度を持って物事に対処する ようになる。意識や肉体に負担をかけるような何かに極端に走るということがなくなる のである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 最後の15図。タロットでは悪魔だ。 ここで彼は物質の世界を支配する、まさに「悪魔の力」を手に入れる。 これは14図までには不可能なことだ。14図はまだその準備としての期間であり、 14図は、いわば意識による環境操作のノウハウを身につけている段階だ。 しかし15図では、それは現実のものとなる。 ただし、この支配力は、7図以前の者が持つような、自我の欲望による支配欲ではない。 また、何か特別に一心に念じて奇抜な現象を引き起こすのでもない。 彼が単に、ふと思っただけで、それが現実のものとなってゆくのである。 ただし、15図で覚者の意志が現実化するケースは極めて限られている。 それは、よほど「持続的な感情」が大きく作動する事がないかぎりは、現実のものとは ならない。しかし、15に至っている人間には極端な感情はほとんどなく、 またそれが一定時間持続する事がない。 だから極めて特殊な状況下や、よほどそれが必要な場合にしか15図の人間が物質を 操作する事はない。 だからあなたたちにとっては残念ながら、サイババは、15図にいるわけではない。 それどころか、彼はまた8図にも、いや7図にも至っていない。6.5といったところだ。 いわゆる奇跡というものを「公衆の面前」で起こす者がいたとしたら、 その最大の原因は、彼らのカルマによるものと考えたほうがよい。 病人を直す者は、過去生で殺戮や無数の病人を生み出してきたということであり、 金品など空中から出すとしたら過去生で、たんまりと他人様の財産を盗んだと見たほう がよい。なぜならば、そうでなければそんなアホな事をする「必要」が全くないからだ。 バグワンもクリシュナムルティーも、あれだけの言葉を語り直さねばならなかったのは、 過去生で、よほどいいかげんな事を言って他人や弟子たちを迷わせたのである。 だから、ほとんど何も語らなかった老子が最もカルマが少なかったと言えるだろう。 かく言うEOは、公衆の面前では語らない性質から、おそらく過去に、 かなりいいかげんな本をあちこちで書いたのだろう。 4世紀には、インドにひとつのエソテリックサークルを持ったが、 私は、当時の弟子たちをすべてほっぽり出して、自分一人で探求の旅に出た。 当時の弟子たちは、私の本の読者の中には存在するが、 ただし、「私に会う者」の中には存在していない。 今生で肉体としての私に会う者は、過去の私とは全く因縁がない者だけだ。 そうではなく、今生で私と出会った者のごく一部の者は、私の「未来」で出会っている 人々だ。 私はこの生を受ける直前に、21世紀に生まれている。 だから、私にとっては、未来は既にもう済んだことなのだ。 つまり、私は未来から逆行して、この時代に生まれた。 私は今生を最後の輪廻として生きるが、15図には決して至らない。 私にとっては、物質世界の問題などは丸っきり関心がないからだ。 私は14図から8図の間を、往来しつつ、 8図から宇宙を出て行き、全ての生を終えるつもりである。 ただ、最後に去る時に、たった一度だけ物質世界に対して意志を使うつもりでいる。 それは、私の本の出版を実現する事だ。