宇宙と探求に関する質問 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 宇宙人情報は、精神の探求に役立ちますか? EO**** いわゆるチャネリングによる宇宙人情報や、 あるいはコンタクティーによる別の宇宙の星の物語りというものは、 その本質は、『宗教』とほとんど同じものだ。 単に、キャラクターのデザインが違うだけで、いわば神ではないが「天使クラスの人達」 がそこにいる、という実に勝手で、いいかげんなイメージが人々の中に形成される。 しかも、どういうわけか、そろいもそろって、地球人より精神的に、あるいは科学的に 進んでいる事になっている。 そうなると、「神になるのは不可能でも、天使程度ならば、なれるかもしれん」、 というわけだ。 ところが、この天使どもの「世間で言われているところの」特性ときたら、 ほとんど聖人のような性質ときている。 さらに、言うにことかいて、 地球を監獄と言ったり、地球は学習の場だから頑張れ、などと言ったり、 ワクワクしろと言ったり、地球を助けようとしていると言ったりする。 (・・・と、地球人は勝手に「思って」いる始末だ)。 そのくせ、どう見たって、それらの描写や表現は地球人に劣等感をあおり、 自分に自虐的である事を強いることばかりを言う点では、 キリスト教や仏教とどこも変わりはしない。 それで、何かが変わるならともかく、しょせん事態は何万年も変わってはいない。 そういうと、彼らは、すぐに、こう言う。 「あと、300年すれば進化は達成されるのです」、、だとさ。(馬鹿か) 「では、それまで、我慢しろということか??」、と質問すれば、 「それまで、自己変革のために努力しなさい」と、屁理屈を言う。(へっ??) ・・・・・・・・・ だから、気をつけることだ。 精神性という言葉は、『宗教以外の経路』からも入り込みやすい。 マイヤー、アダムスキー、ラエル、そしてウヨウヨいるチャネラー、その他もろもろの 言い腐ることといったら、宗教教義や天国まがいの「おとぎ話」と変わりはしない。 『君たちは、馬鹿なのさ。でも僕たちの世界は進化している。君たちは遅れている。 だから、頑張りな。目覚めな、ワクワクして、隣人を愛せよな』と言うわけである。 だがね・・・「これで地球に不幸が増加しないほうが、どうかしている」。 そうは思わないかね??。 たったひとつの宗教でさえ、十分に人を不幸に出来るというのに、 一体、いくつの宗教、そして理想郷イメージが地球にはあるのだ??。 ・・・・・・・・・ 一方に、「世間教」という宗教がある。それはおおむね、世間的な自他の「快」を阻害 しないように作られているという意味では、理想が小さいので、ある程度は無害だ。 ところが、普遍性とか、広大な愛とか、進化とか、神のような能力とか、万物との共感 とか、あるいは、ちっぽけなこの地球を離れた知識や経験という目標になると、 それは、十分にあなたのエゴを満足させる「目的」となる。 もっとも、エゴは結局は、到達不可能な現実を見て苦しむことになるのだが、 とうめん、そうした「新しい目的を示された時点」では、 自分が「活動する口実が見つかった」と喜ぶものだ。 ところが、それが到底実現出来ない、または実現されていない、と分かると、 失望し、そのころには、普通の幸福さえ感じられなくなっている。 人間というものは、愚かなものである。 私に言わせれば、「経験に中毒する」ならば、まだいい。それはそれで、健全だ。 何かを経験して、それで満足せずに、次の快楽を求める。これならば、経験主義だ。 しかし、「経験もしていないのに、理想ばかりが先行する者」たちがいる。 経験そのものをコレクションするのではなく、 理想という『虚構をコレクションする人達』だ。 一輪の花や、石ころの中に神の微笑を見い出す人達と、 そうした人達を軽蔑して、 「私は、そんな{ありきたりのもの}ではなく、天国を見いだそうとしているのだ」と 言う者がいたらば、あなたには、一体どっちが「神秘的」だと思えるかね??。 ・・・・・・・・・ また、自分の苦が大きいと、その原因もきっと大事件がきっかけで、 大変なことが原因なのだと、人は、「思いたがる」ものだ。 だが、事実は、自分の苦が、あまりにもちっぽけな事が原因だったと判明したりすれば、 それだけでもエゴは傷つく。 だから、こうした人達は、自分のかかえた問題が、重要で、大きくて、高尚で、 世間並の苦ではないと言い張るか思いたがる。 だが、よーく見てごらん。 どんな欲望も、理想も、信仰も、目標も、不満も、実に実に世間的なものだ。 『今のこの瞬間』という、未知の深淵に落ちて行けないから、 別の地点へと、逃げようとしているだけだ。 多くの者のやっていることは、探求でもなんでもない。 単なる逃避だ。心の死からの逃避だ。 だから、あらゆる希望と天国と、未来と理想をすべて破壊して、 この瞬間に止まる道を模索する者。 それが本当の探求者だ。 彼らにはどんな天国も、宇宙人も必要ないし、普遍性も愛も必要ではない。 これらが、真理は、「あまにも近すぎて見えない」と、言われるゆえんである。 それが見えないのは、誰のせいでもない。それを経験するのに難しいことはない。 ・・・・・・・・・ 私がかつて若いころに、「野のユリを思え」というヨシュアの言葉を聞いたとき、 「こいつは、馬鹿だろうかか??」と思ったものだ。 なんの目的もなく「ただ坐る」禅の坊主など、ただの阿呆だと思っていた。 それよりも、宇宙や別の次元には、 人の興味と目的意識をそそる題材が山ほどあった。 だが、今ならば言える。 希望も絶望すらもないまでに、 あなたの一切の不満が『完璧に黙る』までは、 何ひとつも起き得ない。 それまでは、何ひとつも美しいものなどない。 自分の不平不満に、正当な根拠があるかないかなど、実はどうでもいいことなのだ。 もしも私が、自分の宇宙論が正当な主張だという根拠を盾にして、 宇宙に反逆することに固執していれば、 私は、宇宙への恨みつらみを書き続けていただろうし、 それも尽きて、とっくに自殺していただろう。 だが私に起きたことは、『完璧な敗北』だった。 敗北は、エゴにとっては、この上もなく苦しい。 理想や「生きる口実」が失われ、なおかつ生きなければならないのは、 人間にとっては、この上もなく恐ろしい。 だが、それも度がすぎると・・・・・・ 『・』。 ・・・・・・・・・ そうは言っても、人の心は、そう簡単に黙るものではない。 そう簡単に、永久の沈黙に入るものではない。 だから、あなたたちは、頭の中が「真っ白」ではなく、(真っ白はまだ何かがあるから) 頭が「真っ暗」な空洞になるまで、闇の瞑想を続けるがいい。 不満と不平と、そしてかくあるべきだという理想の残骸の汚物を、 闇に向かって、投げ込み続けるがいい。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 私は自分の狭い知覚に不満があります。もっと広大な宇宙を実感するために 超常的な知覚力を開発する必要があると思いますが、 これは探求に必要な事なのでしょうか? EO**** 知覚・・これが実に大変な問題を作り出すんだよ。 なんたって、宇宙には知覚以外には実際には何もありはしないのだから。 人は、知覚の範囲が発達すれば知識欲が満足したり、 違った楽しい世界を体験できると思いがちだ。 しかし、事実は全く逆だ。 人は、多くを知れば何か宇宙を統一する事実(いわゆる真実)に行き着くと考える。 しかし、実際には、知れば知るほどに、 「一体、生きているとは、そもそもどういう事なのか?」 「そもそも現実という実体などどこにあるのか??」 「一体、我々は永久に何をやっているのだ???」という思いが強くなる。 普通に考えれば、知識や体験の豊富さは理解へとつながると思いがちだ。 だが、それはその体験がごく狭い範囲のものだからこそ、安易に結論などが出せるのだ。 たとえば、人が悩むというのは、そもそもこれと同じことが原因だろう。 人が自分一人しか知らないならば、問題は何もない。 他人という別種の存在が知覚される事から、問題が多く発生する。 国民が、自分たちだけしか知らないならば、問題はないが、異国の文化が入る段階で、 問題が発生する。むろん、時間と共にその異文化は浸透もするが、しかし、 基本的には、やっかいな問題が発生するのは、拡張の時なのである。 田舎、あるいは石器時代同様の環境で暮らしていた者がそこにいれば幸福だったものが、 別の文明社会に接触すれば、生きて行くという基本的な事以外の、どうでもいい余計な 自己管理や、生活風習の維持に追われることになる。 ・・・・・・・・・ 誰かの探求が、もしも本物の探求であるならば、 それは先へゆくほどに必ず疑問が増えたり深まる事になる。 だから、普通に言われる宗教家や何かの信者というものは、探求者ではない。 彼らは一度信じてしまった体系の概念を守るために、現実を都合よくねじ曲げるからだ。 しかし、本物の探求者は、別の現実に出会うたびに『自分をねじ曲げねばならない』。 ・・・・・・・・・ 確かに、いろんな次元はある。いや、あるというより「あり過ぎる」のだ。 妖精も悪魔もいれば、まるでミヒャエル・エンデのおとぎ話のような世界もあれば、 まるで地獄のような世界や、天国と間違ってもおかしくない、のんびりした世界もある。 人間をやっているよりも、逆にわずらわしい管理が少ない世界もある。 スターウォーズの宇宙酒場にいるような異星人と寸分違わないような雑多な異星人たち がいるし、我々の頭では「想像すらも出来ない」ような生命体もいる。 知覚の領域が拡大すれば、そうした現実にも出会うかもしれないが、 「それこそが問題になる」のだ。 たとえば、我々はここ数十年で、 赤外線カメラ、暗視カメラや、高感度の望遠鏡や顕微鏡を作り出した。 まだ時代は先になるだろうが、いずれは、心霊的な次元世界も写すことが出来るものも 出来るだろう。ただし、問題は、 「では機械で知覚の範囲を拡大した結果、我々がはたして幸福になったり、 賢くなっただろうか??」という点だ。 ものごとは、特に精神は、「拡大すれば賢くなる」などというふうには正比例しない。 なぜならば、その拡大をさせてゆこうとする動機の欲望に、 そもそも終わり(満たされる限界)というものがないからだ。 あるいは、機械によらず生身の精神で、さまざまな次元世界に同調できたとしても、 それでも、何も変わりはしない。むしろ、混乱はひどくなるだろう。 たとえば、今の人間が、ある日突然に可視光線領域が拡大したり、聴覚や臭覚が10倍 になったり、エーテル体が見えるようになったと考えてみるがいい。 たったひとつの感覚にわずかな飛躍が生じただけで、我々の文化そのものが根底から 揺らぐ事になる。 人間の手の指が、ひとつふたつ増えたからと言っても、それは衣服や、日常の道具や、 楽器が変化する程度のことだ。しかし、知覚がひとつ増えたら、大問題だ。 だいいち、そんな知覚変化どころか、 あなたは、たかがちょっとばかり慣れない環境や事件や状況に取り囲まれたり、 大嫌いな人間に接しているだけですら、精神が不安定になってしまう。 だとしたら、次元を移動するたびに、知覚のシステムが変更されてしまうような世界に 入ったら、(多少、慣れるということはあるものの)それだけで、十分に発狂できる。 人間であるあなたが、イヌと人間を毎日交互に生きるという程度ならば慣れることも 出来るだろう。もっとも、それでもかなり気がおかしくなるだろうが。 しかし、これが一日おきに『昆虫の生と人間の生』になっただけで、 ほとんどの者は、完全に狂ってしまう。 というのも、昆虫と人間は、まるっきり世界の認識の仕方が違うからだ。 ・・・・・・・・・ 本当に知覚が拡大することには、想像も出来ないほど大きな負担やダメージが伴う。 ただし、地球上の動物同士ならば、地球という「場全体に共通の振動内」にあるから、 それでもなんとか耐えられるが、これがもしも全く人間型ではない別の星系になったら、 発狂ではなく、そこへテレパシーをつなぐことは、我々の即死を意味する。 安全な範囲の好奇心を拡大する程度ならば、ほんの少し知覚を拡大すれは済むことだ。 事実、そうやって、しょうもない霊感師やチャネラーやコンタクティーたちは、 自己満足と自己顕示欲を満足させ、また、そんな情報に地球人も聞き耳を立てる。 ほんのちょっとした差しかない別の次元を見るだけならば、それは人間的に解釈できる。 別に、それによって何ひとつ感情や人生観が害されることもないだろう。 しかし、次元の差が大きくなると、ちょうど我々が害虫か(害虫というよりカビ)でも 扱うように、人間を扱う者たちにも出会う事になる。 ・・・・・・・・・ 宇宙の現実というものに出会う覚悟が本当にある者は、 次の言葉を決して忘れてはならない。 『我々は確かに、ゴミのような点ではあるが、 それでも、やはり宇宙の一部の何か「ため」に存在するかもしれない。 だが、一方宇宙は、こんな取るに足らない我々のために存在しているのではない。 そこには、相互協力やら、人間を通じての神の体験学習だの、 神と人間には、相互協力などは微塵もない。常に作用と実験の実施の発案は、 利害関係という基準からのみ割り出されて、 創造者たちの側から一方的になされる』・・・ということである。 ・・・・・・・・・ また、知覚の拡大に伴っての最大の問題は、 まず最初に「現実」というものが何であるか全く分からなくなるということである。 知覚の柔軟性を獲得した者にとっては現実は「作らねばならないもの」になってしまう。 それは、実際には、生きて行くどころか、知覚の(現実の)安定作業それだけですら、 自殺したくなるほどに、気がめいるような作業になる。 我々が何千年もかけて、集合意識によって思い込みで作り上げてきた『世界の見え方』 を外れてしまうことは、意識に拡大や変化をもたらすかもしれないが、 それを本当にやった者は、逆に、 いかに、そうした集合意識が「安全で大切な保護膜」であったかを痛感する。 もしも、その保護膜がなくなってしまったら、 我々の知覚は毎日、分単位で変化してしまうからだ。 地球のどんな重度の精神病にさえ、そんな症状は存在しない。 しかし、宇宙の次元間ではそうした事故が、比較的頻繁に起きている。 精神の動物園みたいにして、狂った人達(生命体)を、時には医学的見地から、 または単なる冷笑の娯楽として、大勢の者が見物する「動物園」もあるぐらいである。 ・・・・・・・・・ さて、話をもっと地上的な問題に戻そうか。 こう考えればよい。ちょっとした知覚拡大ならば、それは人間のエゴを満たす程度しか 拡大しない。せいぜい、それは超人的な視覚をもつとか、透視能力が出るとか、 せいぜい4次元宇宙を体外離脱するという、実にちっちゃな程度のものだ。 それはスパイ活動や盗聴的行為か、科学者の道具、あるいは人生相談やら、 本当かウソかも分からない宇宙昔物語りや、ファンタジーに大金を払う馬鹿者を相手に した商売としては実用性があるだろう。 ところが、大きな知覚の拡大には、『実用性などは全くない』。 実用性どころか、それは悲劇的なだけだ。 自分一人の生活、自分ひとりの毎日の現実感覚すら安定しなくなる。 それに近い状態になった一時期、私は、毎日目の前の物体の存在を心底疑い続けた。 しかも、それは知的とか、哲学的に疑っているのではなく、 「現実感覚」として、物体や世界と完全な違和感が生じてしまうのだ。 もはや、「当たり前のもの」などは、何ひとつなくなってしまいそうだった。 もしも、仮に『何も気にせずにいられる事が幸せの基本』であるのだとしたら、 知覚の拡大状態とは、「一瞬一瞬何から何まで気になってしまう状態」といってもよい。 知覚の拡大は、楽しさではなく、私に苦痛だけをもたらした。 そして、知覚の拡大には、さらに2種類ある。 ひとつ・・それは単なる知覚システムの「種類の拡大」だ。それは水平への拡大だ。 (もっとも、それだけでも、十分に狂えるが。) 問題なのは、もうひとつの、垂直方向への知覚の視点の拡大だ。 銀河系を何億も集めた小さな宇宙全体を自分の意識の内部に一望などしたら、 その宇宙の中で「個々に起きている事」には興味などなくなる。 その視点からは、個々の問題ではなく、その全体の意志だけが知覚される。 そして、その全体の意志は分かっても、自分が元の肉体の知覚基準に戻れば、 そこには途方もない「現実のギャップ」が生じる。 ギャップというよりも、それは決定的なトラウマに限りなく近い。 宇宙がどうやって運行し、どれほどの量と種類の銀河が宇宙にあり、 また、物質宇宙以外に8つの次元が各宇宙に存在し、どんな意志がそこに働いていると いう事が分かったからといっても、 あなたは、それによって日常のささいな問題の何ひとつも解決できるわけではないのだ。 毎日の自分の感情起伏や、つまらない嫌悪感や恐怖や雑念さえも、どうにも出来ない。 部分が全体を体験するとき、その部分は個の意味を失ってしまう。 とてつもなく大きな世界の一部に自分がいる。 そこから知らされる絶対的に確実な現実とは、 その自分とは「最初からいなくても、いいものである」ということだ。 「綺麗ごとやら、美化や謙虚な言葉」などとしてではなく、 全身全霊で、あなたの無価値さの『事実認識』があなたの魂を貫くだろう。 さて、そうなったとき、翌日、あなたが自殺しない確率は極めて少ないだろう。 (ほとんどあり得ないほど) だから、本当の「全体」を一人の個が体験した時には、「宇宙意識に目覚める」などと いう事は断じてない。その時発生するのは、個の魂の消滅だ。 (とはいえ、破滅の残骸から疑似的に個性を作り出す事は出来るが。) また、地球で軽率にも「宇宙意識」「全体」「TAO」などと呼ばれているものの そのほとんど全部は、ローカルな意識(たとえば、太陽系意識や地球の意識)に同調し たものに過ぎない。 また一方では、個が本当の全体意識に「ほんの微かに接触する」現象は、宇宙では実は、 全然好まれてはいないのだ。個の意識が全体に回帰するなどという幻想理想を人が信じ つつも、結局は個は個のままで、お互いのその誤差に葛藤を続けるからこそ、 この地球にもある程度の利用価値があるのである。 だが、個が本物の全体意識に、「ほんの微かに接触する」現象・・つまり悟りがもしも、 大量に発生などしたら、それは何億年もの時間をかけてやっと安定させた「個」の意識 を元のもくあみに戻してしまうことになる。 個の意識というものは、知覚作用に「限定に限定を重ねた」宇宙の作品とすら言える。 多くの地球人は、人間が動物よりも知能が優れていると思い込んでいる。 だが、知覚範囲に関しては、人間は最も劣っている。 (劣るというよりも、狭いという事だ) 個の意識のない生物ほど、それは地球全体を覆う意識の直接の傘下にある。 だから、彼らは実際には、外見上は、ある特定の動物を生きていながらに、 その睡眠中には全く別の生物の体験をしたり、時には大気の電気や磁場を体験している。 山に生きている猫が居眠りの最中に、遠く離れた深海の魚になった経験をしていたりす ることもある。 人間も、いわゆる個の意識が、生まれつき極端に希薄な者に限れば、 睡眠中にそうした別の生物体験をする事も、稀にはある。(ただし、ほとんどない) そういう点では、荘子が蝶になった夢を見たという話は、おそらく実話だろう。 私も犬や草になった夢を見たことがあったものだ。それは人間の観点から見た犬でなく、 まったく、犬そのものだった。つまり、その時には犬になった自覚すらなかった。 その自覚は、その体験が次の生物体験に移動した時に、はじめて、前を振り返って比較 してみてやっと、何の生物体験をやっていたのかを確認出来たのだった。 ・・・・・・・・・ こんなふうに、知覚の領域や種類の変化や拡大は、 結局のところ、我々が望んでいるところの幸福感には、全くほど遠い結果をもたらす。 一見すると、知覚の拡張は「便利」なもののように見えたり、自分の楽しみや知の拡大 の力に貢献するように、うっかり考えてしまうものだ。 しかし、拡大した知覚は、個の存在意味を完全に失う。 では、そうなったら、個を捨てて全体意識として生きるのはどうか??という問題に 直面した時には、さらに深刻かつ悲劇的な事になる。 なぜならば、個も全体も、両者にどこも違いがない部分がたったひとつあるからだ。 それは「存在意志」だ。すなわち「生存への執着」。 もしも神がいるならば、神が生存に執着していないなどという事は断じてあり得ない。 宇宙が神の好奇心や遊びの産物である事などは、断じてあり得ない。 また、仮にそうであったとしても、遊びの裏には恐怖が必ず存在する。 その恐怖とは、「無変化」への恐怖だ。 だとしたら、宇宙創造が「遊び」とは言葉の上では聞こえがよいだけで、 つまるところは神の『恐怖』の産物であるに過ぎない。 だから個が全体意識となっても、問題は何ひとつも解決はしない。 全体は、全体意識として、やはり生存と変化と動きの為に苦しむ。 そして、その全宇宙が恐怖の対象としているもの、 すなわち「絶対の闇」を見たとき、私のすべての希望や期待は、粉砕された。 私の唯一の願いは、宇宙の果てを見ること、 宇宙の存在の根拠とその実態を知ることだった。 だが、それを見たことは、私から「何かに生まれる」という希望を完全に破壊した。 「どこかに生まれる」「どこかで生きる」という希望も破壊した。 すなわち、どんな次元(たとえば、あり得ないことではあるが)、宇宙そのものになる ことさえも、私は拒否した。 なぜならば、私は宇宙そのものが、その日から嫌いになったからだ。 「恐怖は娯楽の源泉である」という、「ある種の哲学」のような思想の基準が、銀河の あちこちで流行した時代が、かつて大昔にあったが、それも今考えれば、 誰かが苦しまぎれに考え出したスローガンで、とんだ嘘だったわけである。 ・・・・・・・・・ だから、何か別の世界、別の宇宙、別の次元が見えれば、 それで何かが解決するとか、少しは生きて行くための基準が見つかるとか、 確実な認識が得られるとか、そうした考えは、一切捨てた方がよい。 確実な認識とは、確実な束縛、確実な知覚の「限定」によってのみ「相対的、過疎的に」 生み出される。 だから、もしも確実なものが欲しい者は、確実に知覚を限定すればよいのだ。 しかも、もしも絶対幸福なるものがあるとしたら、 その知覚の限定作業は『ある極にまで』にゆかねばならない。 その「限定の最大の極」とは、無知覚、すなちわ『ただの存在状態』だ。 知覚の「対象なき、ただの純粋主体」としての存在性である。 だが、その状態は、いわゆる生き物(肉体のあるなしにかかわらず)として、 「宇宙で生きて行くためのものではなく」、存在世界から消失するためのものである。 ・・・・・・・・・ それはさておき、全く同じ地上の人間同士でさえも、これだけの争いと、嫌悪感を毎日 作り出し、しかも、こんなにも「住み慣れた自分の生活」の中でそれらを生み出してい るというのに、これが、別の生物や別の次元に知覚や行動範囲が拡大したら、 一体、どういう事になるか、一晩かけて、じっくりと想像してみるがいい。 知覚の拡大は、理解を生むと思いがちだ。 たとえば、知覚の拡大は、他の生物の心を直に感じ、彼らを理解出来ると。 また、テレパシーが出来れば、他人の心を直に感じ、お互いに誤解なく理解できると。 ところが、「理解することと、解決できる事」は全くの別問題だ。 また、何かを理解することと幸福という事も、全くの別問題だ。 たとえば、あなたが、他人の不幸を直に直接的に感じることが出来たとしても、 あなたは単にその他人に共感だけして、あげくの果てに涙でも流す事しか出来ない自分 の無能さを痛感して、結局は、よけいに苦しむことになる。 ようするに、知覚の拡大では、自分の都合のよいものだけを選ぶことは出来ない。 その拡大した領域にあるものは、あなたの好みで選ぶことは出来ない。 あなたは拡大した周波数領域のすべての情報に直面しなければならない。 また仮に、あなたが新しく拡大した知覚領域である法則や解決法を理解したと思っても、 次の別の領域に直面すれば、それらは常に「ある限定した範囲でしか通用しない」とい う事実を何度も経験する。 そのうちにあなたは、何か確実な事を他人に言うことは出来なくなってしまう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 真に「生きているとき」には、人は物事は理解できない。 感じ、生きて、そこに存在するだけで、精一杯であるからだ。 しかし、そうした時、つまり理解のないときには、人は「生きている」と言える。 一方、もしも理解が増えれば増えるほど、あなたは生きてはいなくなる。 その時には、あなたは生命を生きているのではなく、 自分の理解や力を「反復して試してみるため」に、生命そのものを利用する事になる。 あなたの関心は、自分が何を理解し、何を確実に反復できるか、という「成果」にしか 興味がなくなってしまうだろう。 そうなったら、そこで生きているのは、生命それ自体ではなく、 蓄積した自己のひけらかし、あるいは「自己能力」の訓練になってしまう。 理解というものは、もともとは 『心が安定したいという願望』から生まれたものだ。 しかし、子供が次第に自由な感性を失うのは、 常にパターンを理解して覚えることからだ。 どうすれば「よいか」という事を覚えるときから我々の不幸が開始する。 「そのどうすればよいか」という学習は、確かにエゴにとっては夢中になるだろう。 しかし、どうしたらいいのか、全く分からない、 どうなっているのか全く分からない、 何もかも、本当に全く理解できない時、 その時だけ、あなたは「生きている」と言える。 なぜならば、分かっている暇などあなたにはないほど、 経験そのものの中に融合しているからだ。 しかし、わからないという感覚、あるいは、わからないという状態は、 通常の怠惰や無気力や疑問や思考の混乱の中でも起きるものだ。 そうした、無気力な「もんもんとした曇った意識」と、 「きれいさっぱり何も分からない意識、何も知る気もない」との違いを知るためには、 どうしたって、一度は、人は思考の地獄に落ちてみる必要がある。 そのためには、「まー、いいか」では、何事も済ませられないような人間である事が、 探求者であるためには、何よりも必要になるだろう。 ただし、何をどう言っても、人は自分の好きなようにやるものだ。 それに、自分で実感していないのに、他人から言われて無理に捨てたものなどは、 すぐにまた拾ってしまうものだ。それに捨てることがいいなどとも私自身思わない。 たまたま、私には捨てざるを得ない『個人的な事情』があっただけのことだよ。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 確かに私も存在や世界は無意味だとは感じますが、 生活をしていれば、感覚的な楽しみに没頭してしまう事もあり、 どうしても心を捨てるまでには、完全な絶望などできそうにもありません。 何が足りないのでしょうか? やはり実際に体外離脱をして宇宙的な実体験をしなければならないのでしょうか? EO****** 私が、宇宙について哲学を突き進めていた時には、 確かに私は自分の目と頭で物事を観察して得られた情報を元にして、 「仮定と推論と極論と、そして図面の中で」、宇宙の全体を考え詰めた。 ところが私が、確実に絶望を24時間ずっと感じるようになった原因は、 そうした論理や哲学によってではなかった。世界をいくら無意味だとか、 虚無だとか断定したところで、人間は苦しんだりはしないものだ。 おそらく、未だに悟る前のEOと読者(あるいは探求者)の間に横たわる巨大な溝は、 その根本問題の「1ランク下」にあるものである。 「1ランク下」という言い方をするのは、つまり抽象的な概念ではなく具体的な現象や 実感という意味である。その具体的現象や実感とは、言うまでもなく、全宇宙の次元で 行われている「生存産業」の仕組みである。 「生存と存続しか目的がない」という宇宙そのものの存在に絶望したことよりも何十倍 も私を苦しめたのは、その存在のための「手段の遂行」の実態を見た瞬間からだった。 本のどこかで書いたが、当時は、生きている事自体が私には屈辱として実感されていた。 生きている事が苦しいとか、虚無感があるとかではない。 それは『屈辱』なのである。その屈辱の原因は言うまでもなく、 全存在の中での「自分の位置」「人類の位置」「あらゆる生き物の位置」への認識だ。 どんな哲学も瞑想もしなくても人は、絶望あるいは変容する可能性がある。 それは、実際に、宇宙の中の自分の位置を実感することだ。長い転生の中で、 いつかあなたにチャンスがあれば、次元宇宙船に乗って、実際に自分の目で見たほうが よいだろう。 しかも、そこで見る事になるのは全体の中では無意味なほど自分が小さいと、 などと言うそんな初歩的な問題ではない。 顕微鏡のガラスの上で振動している微生物が自分なのだという、そんな事だけではなく、 そこへいろいろな薬品や電気的な刺激を我々の苦痛を無視して投入している者たち、 つまり生物自体の「生産者、管理者」がいることへの直面である。 「被害妄想」というか「被害をこうむっていることの実体験」こそが、 私の最大の地獄だった。まさに、ここが大きな分岐点だ。 どうして、大悟した時、私には全く透明なほどに思考がなかったのか?、 そしてその後も、探求という行為自体を自分にも他人にも否定し続けたのか?。 それは、思考や探求そのものが「例外なく」あきらかにその、 「産業的な動き」である事の実感からだった。それに本当に私の愛想が尽きたのは、 思考やエゴがあると「悟れないから」などという、そんな単純な理由じゃない。 それら(思考や意識の指向性や生存欲)が人間その他の生物の中にある事自体の、 その根本原因が頭から離れなかったからである。 生きる目的と自分の家畜としての生存の実態が、 もしも「映像や、触感として実感される」とどうなると思う??。 それは「生きている事の答え」なのだから、それは24時間継続するのだ。 普通の者の悩みは悩んだり体が不快だったりしても、その不快がある時しか問題になら ない。しかし、自分が生きていることの答えを背負った場合には、 生きているのは24時間なのだから、24時間それは頭から離れない。 なぜ思考するか、どうやったら悟るかなどというものは、それらがあなたの頭にある時 にしか問題にはならない。しかし、24時間継続するものがある。 それは『生きている事それ自体と、完璧に密着した絶望』がそこにある場合だ。 たとえば、これは空気を一息吸うたびに肺に激痛が走るような病気をかかえたようなも のだ。しかも当時の私の精神的な病いは、宇宙のどこへ行っても直る見込みもない。 だいいち、宇宙が、その産業機能を直そうともしていないのだから。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そういうわけで、根本的に何かが読者や探求者と私では違うと感じて来たのは、私は、 哲学とか瞑想という土壌で絶望したのではない事である。 チャネリングもしていたせいで人類の植物的な位置、家畜的な位置、カビのような生存 状態の位置関係は少なくとも私には手に取るように実感される「現実問題」であった。 そうなると、だいたいから、思考などは、全くする気がなくなるものだ。 人間や、人間の形態でない知性の者も含めて、思考が一体、どういう加工食品や、 燃料資源に使われるかを知っていたら、その屈辱から、思考することが嫌になる。 探求心や好奇心や創造性なども同じである。 何かを分かりたいだの、構造化したいだの、悟りたいだのそんなことをしようとしてい る自分が、まんまと、ルアーに誘われる魚、あるいは誘引剤に誘われるアブラムシのよ うに動いてしまっていて、それを上の培養者、養殖者たちが「事務的に処理」している 様子などを実感したら、とても生きてゆく気になどならないのだ。 それを本当に実感したら、そうした奴隷的な生の『永遠の』繰り返しに 「それもしかたない」などと、開き直るにしても、それには感情的な限界というものが ある。「全面肯定」はまさに絶望そのものだ。正すべき基準が全くないのだから、 あまりに完全に自由を許可されたら動きようがない。 そういう時は、善悪基準を自分で新たに作るのが宇宙民族の常套手段だが、 そういう営みをしてまで宇宙が生存し続ける事には、私はうんざりしていたのだ。 皆さんが、いつまでたっても、「自分」がお山の大将、エゴの大将をしていられるとい うのは、自分にはどうにもならないような、「完璧な別の支配的階級、支配的な高次元」 に出会った事が全くないからだ。 実際にそういう別の優勢種の下で、こてんぱんな目にあったら人間のプライドなどは、 そもそもそれを持っている意味がなくなってしまうし、生きているのは嫌になるものだ。 思考する事なんかもっと嫌になる。 だからどこかで言ったのだが、あれはカルチャーショックなんて言うシロモノではない。 自分の生も、他の生物や物質の存在も、その存在の尊厳を根こそぎぶっ壊すような、 宇宙の産業的な仕組みを、概念ではなく映像や実体験としてつきつけられたらば、 そのショックだけで誰もが自殺してしまう。 しかも自殺をした、「その後」までをも見せつけられたら、 自殺をする気すらもなくなるものだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ここでの話の要点は、無意味とか、虚無とかが問題なのではない。 問題は「自分がどんな扱いを受けているかという現実」なのだ。 だから、普通、これは生物つまり被造物が簡単に得られる実感情報ではないと私は思う。 それを得たら生物がどうなるかは、生物の設計側にとっては、分かり切ったことである からだ。狂うか自殺するし、たぶん転生させる際に、やや面倒な修復作業をしないと、 「使い物」にならない生き物になるので彼らがそれを嫌がる。 ・・・・・・・・・ さて以上のことを踏まえると、ここのところ、やれ悟りだ、自己実現だなんだと言い続 ける、「うっとおしい」読者の性質を思い出してみるにつけ、 今後、彼らにはすべて単一の対応をする方がいいと思ったものだ。 それぞれの個人的な性質や経験背景など、もはや、こちらの知ったことではない。 彼らが何を言おうが、 「思考、探求、好奇心など、それらこそが宇宙の肥料になり、燃料になり、波動資源と して培養されているのだし、そうする事は、あなたにはどこも、ちっとも屈辱でないの だろう。ならば、もっと生きて、いろいろとやり続けなさい」と、 事実そのものだけを言うべきであろう。 「ほらほら、もっと悩め、もっと瞑想をしろ、もっと動け、苦しめ、笑え、そして、 楽しめ、もっとセックスしろ、もっと学習しろ、もっと喜びに満ちていないさい」と。 「そうすれば、君はちゃんと神に貢献しているんだよ」という点をとにかく強調するべ きだろう。 私は彼らを否定しているのではない。人間は、言動を否定されるとすぐに怒るものだ。 そうではなく、その彼らの行為のすべてを私は『肯定』するのである。 ただしその全面肯定の根拠は、あくまでもそれが 『生産ラインとして正常に機能しているから』、という事は強調すべきだろう。 そうすればEOが至った「全面肯定による絶望」という現象も、 億に一つでもあり得るかもしれない。 とにかく、『飢えて、苦しみ、もがいて動いて生きる』という活動以外には、 自分は永久にどうしようもない機械で、作物のような生物であることの『実感』の連続 が鍵なのである。 読者がどう反論、あるいは同意しても、その場合には 「反論、または共感というエネルギーを生産して宇宙に貢献をしていただきまして、 毎度ありがとうございました」と言えば、 そのうち彼らは私とは話にもならないので、 私にも、うんざりして手紙もよこさなくなる事だろう。 ●***安楽死と死人禅***● さて地球でも安楽死法には条件があるのはご存じの通りだ。そのアウトラインは、 1/本人の意志の確認、 2/直る見込みがないこと、 3/耐え難い苦痛がそこにある・・・・・・この3つだ。 つまり、EOは、この3つをすべて満たしていた。 だから宇宙での安楽死としての解脱が許可されたと言ってもよいだろう。 そして特に2と3が問題になる。 しかし単に3ならば、無数の人間が、それぞれに耐え難い苦痛があるだろうから、 3よりも問題は2である。つまり「直る見込みがない病気」という事だ。 普通は、どんな心理的な病も直る見込みがあるものだ。しかしEOのは全く違う。 たとえばEOが高次元から「じゃー、君もこっち側へ来て支配階級の生物企画部に入ら ないかね」と言われて、それで果たして事が済むかという問題だ。 そんなものは私は完全に拒否した。 つまり、宇宙の中で、「どんなポジション」を与えられても私は拒否した。 創造神のポジションであっても拒否した。 全宇宙を一瞬で消せる破壊神なら、申し出を受けただろうが・・・残念ながら、 それは契約内容には提示されなかった。 そういうわけで、生存する宇宙での場所も地位も、その生存の形態も存在方法も、その すべてを否定したEOにとっては、光明を得た者などになるのは、猿になるのにも等し かった。だから、未だに多少の不満は残っている。 むしろ大悟して10日以内に死んだほうがよかっただろうとすら、よく思う。 (光明など10日で十分だ。それだけで完全に全面的に満足して、死ぬ覚悟ができ生き てゆく必要や欲求などは、全く感じなくなるからだ。) ・・・・・・・・・ 話を戻すが、安楽死法の条件は、死人禅の実習資格条件と非常によく似ている。 「本人の意志」「耐え難い苦痛があること」これだけならば、 そこらの重度の精神病でも同じだろう。 だが、最大の資格基準は、「直る見込みがゼロ」なのかどうかなのだ。 ここの判定の問題となると、私は、直る見込みがない者など、見たことがただの一度も ない。唯一、それを見たのは、例の、無次元の宇宙皮膜の中に幽閉されたエーリアンの 集合意識体だった。 しかし、あなたたちは悟ったら、それで満足してしまうはずだ。 その理由はいたって簡単で、宇宙や世界というものを、そこまでの次元範囲しか 実感として知らないからだ。悟った者がどういうポジションを与えられ、さらに愛と慈 悲の名の元にこき使われ、結局は、その周囲に葛藤や目的意識を生産してしまい、苦の 生産を繰り返してきたかを見たら、悟ろうとする者は誰もいない。 しかるに、魂の本質だのを求めたり、何かに決着つけようとしたり、 体系化や構造化にこだわったり、すべては、結局そうやっている自分そのものの実態を、 「上の次元」から見たことがないからである。宇宙の企画者責任者に言わせれば、それ らは「宇宙の存続に必要でやっている事」だという、「毎度おなじみの主張」があるだ ろうが、こちらの反論は、常に同一である。 「そもそも、宇宙そのものが存在する必要などない」ということである。 つまり「あなたは結局何になりたいのか?、どうなりたいのか?」という質問に対して は探求者1万人中、一万人が、大悟者、または小さな創造者のようになりたい、平均的 幸福でいたい、というに決まっている。 すなわち、これ故にそれは、2の「直る見込みがない病気」には「該当しない」という 判定になる。 彼らは安心ある生活や、光明や、宇宙の特権階級の地位で、悩みなど直ってしまうのだ からだ。だから、彼らには安楽死としての『解脱』は許可されない。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 質問*** 地球人類にとって宗教とは、一体何だったのですか? EO**** 人類の馬鹿馬鹿しいほどの、同じ愚かさの繰り返しには、 そこには特に「複雑な理由」があるわけではない。 そこには常に「死活問題に端を発する『利害関係の取引き』」があるのみである。 たとえば、乱世の世になると、必ず腐った水の中からボウフラのように沸いて来る宗教 のひとつに「衆生救済」「平民救済」「庶民のための宗教」というものがある。 とはいえ、この惑星の水は、腐らなかった事はなく、いつだって腐っているので、 いつの時代にだってそうした宗教が現れるわけであるが。 「無学な者が救われる、悪人が救われる、平民が救われる」というキャチフレーズは、 「商業的」には実に大きな効き目がある。なんといっても頭数だけ集めようとしたら、 これほど「聞こえのいい話、うまい話」はないからだ。 それはまるで、庶民に「あなたにも選挙権がある」と言い聞かせては、 政治的戦略の道具として参加させようとするのと全く同じように、 「あなたにも救われる素質がある」と言いくるめては、これまた「政治的宗教」に参加 をさせようとするのである。蓮如なんぞの俗人は、その筆頭に上げられる。 歴史を見れば分かるように、原則として、 「誰でも救われますよ」と言えば『普通の事も出来ない劣等感を持った愚か者』が必ず 集まり、「選ばれた一部の者しか救われない」と言えば『優越感を持った傲慢な愚か者』 が必ず集まるものなのだ。 どこの修行体系も、よくもこうも同じ愚かさを、何千年も続けられるものだ。 その間抜けさには、笑うどころか、哀れさを感じる価値すらもない。 ただし、本当の聖人たち、賢者たちには全く別の意味、別の観点、 別の次元から見た場合の「少々複雑な問題」が常に存在してきた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 開悟からしばらく何年かは、多くの大悟者たちはいわば「リハビリ」の期間に入る。 中には、その間に、あっさりと死んでしまう者もいるし、肉体がその次元の圧力に耐え られないで、病気になることもあるだろう。 しかし、彼らの光明体験の初期の数年に必ず共通して発生するのは、 その悟りの状態が「あまりにも当たり前である」という体験的認識だ。 それは特別に異常な体験でもなければ、特別に美化するようなものでもない。 ただし、それはあくまでも「彼らにとっては」そうであるにすぎない。 彼らにとっては「どうしてこんな簡単な事が解らないのか」という思いも発生するし、 事実、それはあまりにも「努力の余地もないほどに簡単すぎる事」である。 従って、その体験の中にいては、悟りの恩恵から漏れる存在などというものは、虫や石 ころや、それこそ極悪人に至るまで存在しないと(彼らにとっては)認識される。 実際に、それは「50%」は正しいのだ。 そのあまりの、説明の余地もないほどの単純さ故に、 その状態に在る者にはある種の完璧な「平等性」「無差別性」が目にする世界に対して 感じられても仕方がない面はある。 しかし、では「その状態に至るまでの彼らの歩み」に、はたして「平等性」「庶民性」 があったかというと、全くそんな事はない。 彼らが至った結果のその単純さと、それまでの「異常な複雑さ」との不合理性がそこに はある。 従って、もしも光明や悟りといったものに、どんどん勝手に自分だけが酔っ払うだけで、 分け隔てなく万人に説法をしていたら、のちのちそれは愚かな繰り返しの歴史の一部と なるだけだろう。 実は、悟りの意識といったものが、師弟関係や、あるいは小さくても組織としての形態 を作る場合には「仕分けが必要となり」「権利や資格は平等ではない」という、 『まったき事実』を「勘定」に入れないと、 それは政治的な商売としての宗教にはなり得ても、真の『法脈』とはなり得ない。 悟りは、誰にでも可能であるという事実が50%。 一方で、誰にでも可能ではないというこれまた事実が50%ある。 そして、そのどちらも同じぐらいに真実なのである。 達磨は、何百という来訪者に9年の間振り向かなかったのだから。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、『「最低の状態にある人にこそ、その資格がある」というのもまた、一種の選民 思想あるいは、それもまた一種のエリートへの差別ではないか』という、 「思慮のない意見」を以前に20代の若者からもらったことがある。 もしも、人を「選ぶこと」を「選民」であるというならば、 まさに無明庵は選出しているし、仕分けをしている。 「来る者は拒まず」というような偽善的な宗教の態度はここでは取ってはいない。 ただし、無明庵、そしてEOの言う「エリート」(探求者をエリートなどとはEOは全 く言っていないが)とは、「病状の悪化状態」がその『物差し』になっていることに 留意すべきだろう。 そうした認識、そうした理解が、(自称)求道者たちに欠落していたために、 以下のような事が、かつて無明庵ではよく起きたわけである。 その誤解の本質を極めて解りやすく言えば、以下の通りである。 ●●●●●●●●● ほんの小さな小さな虫歯があるだけなのに、歯医者に向かって 「これは大変な虫歯で根まで腐っているから、抜いてくれ」と頼まれた場合、 もしもあなたが医師なら、あなたはその歯を抜くだろうか?? ヤブ医者はすぐに歯を抜きたがるし、 差し歯で儲けようとする愚かな医者ならば抜くだろう。 しかし、まともな神経の歯医者ならば、可能なかぎり歯を大切に使うことを勧めるし、 詰め物や、被せ物をして、その歯を長く使えるように治療する事だろう。 ところが、患者は言い張るのである 「俺の歯のことは俺が解っている。これはもう駄目な歯なんだ。あんた医者だろう。 患者が頼んでいるんだから、歯を抜くのが仕事だろう」。 これが、患者、すなわち(自称)求道者たちの言い分なのだ。 もしも歯というものを、(仮に)それを人間のエゴに例えるならばの話だが、 エゴや欲望は、何十年、あるいは一生の間使えるものであるし、 それを抜くことが必ずしも良いとも私は思っていない。 それは、出来る限り大切に使い、どうにもならなくなったところまで腐ってしまい、 その痛みが限界に来たならば、それは抜く必要もあるだろう。 だが、それまでは出来る限りの治療をして、歯を使ってやらねばならない。 しかし、彼らは虫歯は悪いから抜けと「どこぞかの宗教」で仕込まれたせいで、 まだ少ししか痛んでもいない歯なのに「抜いてくれ」と懇願するのだ。 老朽化して抜ける時期でもない歯を、うかつに根元からなど抜けば、 顎の筋肉も不自然に痩せてしまうことだろう。 これと同じような別の例をあげれば、 膝を擦りむいただけの患者、または風邪をひいただけの患者が「手術をしてくれ」と 病院の入り口で叫んでいるようなものだ。 一体どこに、彼らのためにオペをやる医者がいるかね?? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 確かに、痛みというものは主観的なものであり、患者本人が言うのであるから、 痛みを沈静するのが医者の最初の仕事である面はある。 しかし、「痛んでいる」と彼らが言っている部分をつっついてみると、 実はそれが全くの嘘であったり、実に単純な事で痛みが消えてしまうことが多々ある。 病状がどうであるかは、医師が判断することであって、患者が判断することではない。 しかも、あげくの果てに、患者の主張する痛みの主張すらも当てにはならないのだ。 こうしたことは、精神科の現場では、嫌になるほど毎日起きていることだろう。 無明庵では、何度も何度もこうした人々を、追い返す必要が生じた。 また無明庵には、病気の治療システムはないし、ここはセラピーでもない。 怒りの発散が抑圧されたとか、愛に恵まれなかったから癒してくれなどと、 まるで八百屋へ来て、肉を注文するような事をされても困るし、悟った者たちを 「なんでも屋」や「便利屋」と勘違いしてもらっては困るのだ。 また、彼らはあなたたちのご機嫌を取るための「おだて屋」でもないし、 あなたの暇つぶしの「遊び相手」でもない。 実際には、まだ何十年も使える「エゴの牙」を、彼らときたら、 まだ、ろくに使ってもいないのに「抜け」と我々に言うのだ。 そして、もしも抜きでもしたら、後になってから、「やっぱり抜かないほうが良かった。 なんであんた医者なのに、そんな事も解らなかったんだ」と文句まで言い出す始末にな りかねない。 むろん、世の中には、そういう人々こそを「待ってました」とばかりに歓迎して、 そうした患者(カモ)の歯を抜いては、そこに「宗教」だの「宇宙意識」だの 「光明だの悟りだの」という名の『差し歯』を入れ、金をぼったくる連中も多いことだ ろう。しかし、我々にはそんな真似はとても出来ない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ こうしたことから、無明庵という場の役目は、 ある時期からは「必要性」の見極めが主目的となった。 自称探求者や、自称求道者の本人の自己申告などは全く当てにはなりもしない。 探求者と導師の関係を「釣り」に例えるのは、私は嫌いであるが、 だが仮に釣りに例えるならば、引きが悪い「弱々しい魚」つまり本気で食いついて来る 生きのいい魚ではない場合には、私は吊り上げる事はしないばかりか、 自分から早々に糸を切ってしまう事もしばしばである。 彼らは、その糸がまだ「釣り人」とつながっていると錯覚しては、 そうやって、餌と浮きが付いた仕掛けをくわえて、どこかへと泳いで行くのだ。 しかし、一方で、もしもそれが本当にひどい病状であったのならば、本人が拒絶しても、 無理にでも手術台に乗せることだって、我々にはあり得るものだ。 その者の探求の行き着くところが、本当に奇病である場合、重病である場合を除いては、 悟りなどには、そもそも「人間の生活」の中では出番はない。 よしあしや、理想の問題などではなく 「その個人にとって、それが最後の手段として必要になるかならないか」だけが唯一の 問題なのである。こうした徹底した明確な結論が無明庵にはある。 だから、それは「庶民」「普通人」はその体系の勘定には入っていない。 否・・・経験と熟考の末、彼ら普通人のことを充分に勘定に入れたからこそ、 悟りなどは必要ない人には『必要ない』とはっきりと言うことが必要な対応となった。 むろん、何かを求めるのは本人の全くの勝手である。 ただ、私と、そして死人禅のシステムは彼らの力にはなれないという事である。 一体、どこで、どういう夢と幻想を背負ったのかは知らねど、悟りたがる者は多い。 しかし、それと全く同じぐらいに「始末が悪い」のは「自分は根本疑問で苦悩している」 と言い張る者たちだった。 私に言わせれば、本当に根本疑問などあったらば、 休みなく毎日毎日が苦と緊張と疑問の連続になる。 ただひとつの自分の行為、言動さえもが、疑問また疑問の連続になる。 真の根本疑問というものは、机上の哲学の遊びではない。 あなたの毎日の歩くこと、食べること、息をすること、そのすべてに疑問や苦悩や、 迷いや躊躇や不安が生じ続けて、 生きるにも、どうにも生きられない状態になるものだ。 第一、根本疑問とは、自分がそもそも生きるに値するか否か??、 自分ばかりでなく、全存在が存在に値するのか否か??、 そもそも自分が知覚している世界とは何なのか?? 対象ばかりでなく、そもそも知覚や意識そのものとは何か??。 もしもこれらが無意味であるならば、 なぜ自分は自殺をしないのか??といった問題である。 そして、それは、机上に向かって、紅茶でもすすっている時だけに考えるような事では ない。それは毎日、毎瞬間あなたの中にあるはずの疑問だ。 だから、「根本疑問がある」と口で軽く言うのと、それが本当にある者との差は、 見た目にも歴然としている。つまり本当に根本疑問などというものがあったら、 彼、あるいは彼女は、もう狂いかけているはずなのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ところが、世の中は何事も『口先だけ』というやからで、まさに溢れかえっているのだ。 誰だって、どんな愚かな人間でも、見たこともないくせに、天国や極楽を受け売りで、 さも自分が見て来たかのように、知っているかのように、他人に言う事が出来るものだ。 その愚かさといったら、病的な宗教信者やその指導者たちの中に、 あなたたちも、さんざんに見飽きている事だろう。 ところが、これと全く同じ事が『地獄』についても起きるのだ。 軽薄なキリスト教徒や、浄土教の信者が、彼らの理想郷を語るのと全く同じ調子で、 今度はEOが語ってきた「宇宙の地獄」を口にする事も、そして「私も解脱を望んでい るのです」などと軽々しく口にする事ぐらいは、これまた「誰」にでも出来るのだ。 宇宙という、その、とてつもない空間、その密度、その多角性についての、 一切のなんらの経験も実感もないのに、彼らは、さも自分が「根本疑問に犯されていて、 存在のすべてを無価値だと実感しているのです」と言い張るのだ。 そして、とどのつまりは、「どうにかしてください。何をすればいいんですか??? 私のエゴの虫歯を引き抜いて下さい」などと言い始めるのである。 こんな馬鹿者たちでは、まったく手に負えない。そうは思わないかね?? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そして、そうした彼らの特徴と言えば、 論理的に何かを判断する能力が極度に欠落しているという事だった。 彼らはごく単純な利害関係に基づく感情でしか物事を判断できなかった。 彼らは、実にくだらない、本質的ではないような些細な事(カルマだの御利益だの善悪 だの)にしか関心を持たず、また、同時に、 実に些細な事で感情に傷がつくという精神的に弱い構造をもっていた。 だから、私は、その彼らの「構造上の欠陥」「病気」を十分に利用させて戴いた。 彼らが決して好感を持てないような特有の口調を割り出し、彼らが感情的に嫌がる言い 回しや、彼らが必ず私を軽蔑するようにするための傲慢な口調や下世話な話題、 あるいは、なんとなく自然にEOイズムには関心が持てなくなるような言葉を、 ほんのちょっと、その手紙やメッセージの中に交ぜるだけで事は済んでしまった。 なんとも実に簡単なことであった。 「悟った者とは、かくあるべきである、かくあるに違いない」という期待を、 ほんの少し裏切れば、たったそれだけの事で、彼らは去ってくれたのだった。 実に簡単なことじゃないかね。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ かくして、無明庵では、悟りの大安売りをしたのは、「開店当時」の数年間だけであり、 その後、ここでは、『店主が客を選ぶ』という傲慢きわまりない方式が取られて来た。 しかし、この世界の料理店でも、老舗や頑固なおやじさんの店では、 そういうところは多くあるものだ。 そして何よりも、我々は『商い』をやっているわけではない。 患者に最終的な治療をするかしないか・・・それも、たとえしたところで、 確実な見込みも何ひとつもない手段を講じるか講じないかというのが、 死人禅の本道なのである。 無明庵が『選ばねばならない』のは、 本当の『大病』を患った者だけである。 しかし、そうした大病、奇病それ自体が、 何世紀に一度しか現れないのかもしれないのである。 ・・・・・・・・・ だが、私のような地点に至る可能性が、たった一人にしかないからといって、 畑に種をたったひとつしか蒔かない馬鹿はおるまい。 これこそが私が不特定多数に向けて本を書いた動機と目的である。 私の本が、そのたった一人の探求者に行き着くためには何百という種が蒔かれる。 弟子という事になると「師弟ごっこ」なるものは演じた事もあるが、 今までに「本気」で入門させたのは、たった1人の弟子しかいない。 そして、本には本だけにしか出来ない目的があり、 それは師弟関係とは異なる別の問題である。 EOイズムの『本質』が辿り着く意識体は、 近未来の地球に生まれる「たったの一人の少女」となるかもしれないが、 しかし同時に私の言葉には「本質」から「非本質」にまでまたがる、 いろいろな『次元のコントラスト』があるのも事実だ。 だから、そうした中間段階の説法は、全くの部外者や単なる読者にとっても、 それぞれの人の位置に応じて、 それぞれに利するものがあるのかもしれない。 EO