◆「反逆の宇宙」/よりの抜粋編◆





絶版となった「闇のタオイズム」は、全文、ホームページにアップ
しましたが、「闇のタオイズム」に、ページ数の都合などから、
シリーズ中で唯一「反逆の宇宙」からの抜粋文が編集されませんでした。

そこで、今回、EO師が直接に、元の手紙の原稿文にマーカーを
引いてあった部分のみを、ピックアップして、掲載します。
この引用は、編集者である私による抜粋ではなく、EO師自身が、
重要であるとして、マークしたものです。(ほ う ざん 記)




  反逆の宇宙」プロローグ

私は歴代のいかなる祖師たちも言わなかった事をはっきりと言っておく。
これはEOイズムの本質中の本質であり、この1頁を持っているだけで、
EOイズムの最大の要点を再認識することが出来るだろう。そしてそれは、
あなたたちの知っているような宗教理念や瞑想の道ではないという事だ。



本書の結論

私は、悟りを良き状態とは認識していない
また全ての生命が最後にそのようにあるべきだとは全く認識していない。
この点で私はいかなる過去の祖師たちとも全く異質な認識を有している。

歴史上の祖師たちの誰もが、悟りの状態を絶対幸福として称賛し、
その為の何かを世間に対して行ってきた。
だが私の観察によれば、それは誰にでも起きるものでは断じてなく、
また単なる努力の量によって起きるのでもなく、人類のほんの一部の者に
しか起きないと断言できる。そしてそれが起きた結果として、それが他人
や社会に何か平和的で創造的な結果をもたらすなどとは認識していない

それは、本人ただ一人の安楽な死を保証するのみである。
そして、悟りはそれが本当に顕在化しなければならないような時には、
自発的に生まれるものである。

又それは一般の人々や瞑想者には全く不要な出来事である。
また、それは一般の人に「ここへ来なさい」と言えるような理想状態では
ないと私は痛感している。それは我々のような、特殊な心理的病魔に侵さ
れてしまった者にとっての最後の麻酔のようなものであるとすら私は認識
している。確かにそれは静けさと安らぎに満ちているが、その為に、人間
支払うべき代償はあまりにも高くつくものとなる。それは「魂を捨てる」
という事ですらあり、感情ある生き物にとっては耐えがたいものとなる。

悟りが本当に必要とされるのは、修行僧でもなく、宗教家でもなく、愛や
幸せを求める人間でもなく、瞑想者でもなく、自己放棄という自己満足の
為に人々につくそうとする者でもなく、芸術家でもなく、病人でもなく、
セラピストでもない。それが本当に必要なのはたった2種類の人達だ。
それは『真実を求め過ぎた狂人たち』と『妥協なき哲学者』のみである。



宇宙論の概要

        我々も全宇宙の存在たちも、
 「消滅したい、停止したい」と望むようにプログラムされた上で、
        無理やり、生きることを強いられて、
        常に『振動し続ける微粒子』にすぎない。




◆死後の行く先のカタログ化◆

何やら、我々の死後の行く先は、
やたらに希望を持たせるような所ばかりが羅列されているのである。
やれ「高次元だ」、「天界のようなところ」、「別の発達した知的惑星」、
というわけである。

そういった世界に、「さぁー、つまらない地球など捨てて行きましょう」
と言うことになり、我々の移動しようとする範囲もここ20年で、かなり
拡張されたわけである。

以前ならば、せいぜい、地球の別の豊かな場所に生まれたい、という程度
のものであったのが、今ではその選択肢が拡張し、極楽や地獄以外にも、
別の惑星や別の次元世界というバリエーションが、
あなたの死後の『ショッピングカタログ』に加わったわけである。
そして、こうした話は人々に心地よさを与えるものとなる。

この世界でサラリーマンや主婦をやっていて、いくら退屈や絶望をしても、
「次の生まれ変わりでは、こうなってやろう」という動機から、
その為にと、いろいろな「心理的な貯蓄」をする事もできるわけである。

従って、EOイズムは輪廻概念の一般化をその浮上の背景としているとは
言っても、実際には、精神「世間」という世界では、輪廻を自分勝手に、
ポジティヴに「利用しようとする者」たちが、そのほとんどを占めている。

ところが、あなたの死後の行く先の世界であると、勝手にあなたが期待を
したり、都合のいい想像をしたり、望んだりするような場所、つまり、
別のもっと高次元の世界や、別の宇宙の惑星や、異次元世界や天界など、
さらには世俗的なものでは「この地球でもっと良い家庭に恵まれたかった、
もっと良い男や女に生まれたかった、もっと裕福に生まれたかった、とか
もっと精神的な探求の出来る土地に生まれたかった」とか、「アートマン
の自覚や悟りを実現できる世界に行きたい」、
「この次の生まれ変わりでは、もっと面白い生命体に生まれたい」
というような期待と想像を含む、
あなたが「死んだ後に行くと考えている世界」への、その希望のすべてを、
完全に『叩きつぶした』のがEOイズムの宇宙論だった。

どこの次元世界へ行っても、『同じ』である
形は変わっていても、やっている事は同じである
宇宙の異次元世界や高次元世界など、どこも同じである。

では、何が同じなのかと言えば、
『万物は、すべて生き延びるためだけに活動している』ということだ。
そして、それは断じて、我々が楽しむためなのではない。

我々は、生き延びようとするために楽しむのであって、
楽しむために生き延びようとしているのではない、という事である。

・・・・・・・・・

あなたの小さな小さな『楽しみや幸福な時間』などというものは、
結局は、あなたが生きる気力を奮起する燃料であるにすぎず、
また、あなたの自殺防止の為の一種の麻薬なのである。
「平和とは、次の戦争までの準備期間」であるように、
『幸福とは、次の不幸までの休息期間』にすぎないのだ。

あなたは楽しめば生きようとし、
苦しめば死のうとする。
あなたに対して、鞭と飴のように与えられるこの生・死、快・不快の刺激
によって、あなたは洗脳されて生きている。
あなたは死ぬことを怖がり、苦しむことを嫌がり、
楽しみを安定して増やそうとする。

これがなんと、人間の「精神活動」と言われているもののすべてなのだ。
「苦しみを減らし、楽しみを増やしたい」、ただこれだけの衝動だ。
すべての政治、経済、宗教は、ただこの快楽と不快の2つの信号だけを、
その活動のすべての発端としている。




◆宇宙での生命活動は必ず中毒する◆

我々は発展する人生や、深まる魂なのではなく、
我々は単に同じ中毒の中をぐるぐると回っているにすぎないからだ。

我々は生命活動という同じ遊園地の中を巡っているだけである。
常に、生まれると、その乗り物は変わるだろうが、それにも飽きて、
結局は、次の乗り物を探しにゆく。そして、
我々は「生命活動ランド巡り」という名の遊園地オタクになってゆく。

そして、だんだんと我々は飽き飽きしてくるのだ。しかし、いざやめよう
とすると、我々はなんと、自分の意志では生命をやめられないのだ。
生命活動という遊園地がなければ、我々は生きてゆけないことに、
ふと気がつくのである。そして、ふと、生命活動をやめた時、
あなたは、突然にすべてが、つまらなくなるのだ。

・・・・・・・・・

人間にとって、何が最も苦しいかと言えば、それは
『やりたくない事をやること』ほど苦しいものはないものだ。
しかも、次の人生でもそれが繰り返されることになる。
そして、その次もまた、あなたは生命を繰り返す。

あなたは、発展したり、問題を掘り下げたり、人生を楽しんだり、
誰かを愛したりしながら、結局は、
それを繰り返して、『永遠に』『強制的に』生き続けねばならないのだ。

『なんで、いつまで、こんなことを繰り返すのだ?』、と思いながらも、
あなたはそれをやめる事は出来ないのだ。

最初は、あなたは楽しくて生きていたのに、あなたは、次第に、
つまらないのに生きなければならなくなるのである。

なんであれ、あなたが最初は楽しくやっていたものも、いずれ、
それに中毒した時には、あなたは
『つまらないのに、それをやらなければならなくなる』のである。

あなたが、いろんな経験をして、とても愛情も豊かになり、
瞑想をして、いろいろな能力も開発され、人生も万々歳になったとしよう。
だが、ふと、『なんで、こんなことをしてきたのだろうか?』とあなたが
思うときが来る事だろう。
その時あなたが、
『本当は、一体いままで自分が何をやってきたのか?』を知りたければ、
やってきた事をすべて『やめればいい』のだ。

・・・・・・・・・

そこであなたは痛切に理解するだろう。
あなたの魂も心も肉体も、それらは変化や発達に向かっていたのではなく、
ただ、『何か』から逃げようとし続けてきたのだという事を。

あなたが逃げ続けて来たもの、それはつまり、生存の『正反対』だ。
すなわち、『死』『衰弱』『魂の完全死』『無』『非存在』・・・

これらへの恐れが、
あなたの生命活動のすべてを動かしていたのである。

しかも、それが次の生まれ変わりでも延々と、続けられてゆく。
あなたは、生命を嫌悪するかもしれないし、生きていたくないと思うかも
しれないし、絶対無の中に死にたいと願うかもしれないが、
宇宙は決して、あなたという家畜を死なせはしない
あなたの肉体も、精神体も、すべて無を恐怖するように設計されたからだ。

そして、EOイズムにおける苦というのは、
決して「肉体的に死ぬことへの恐怖や苦ではない」のだ。

それは、もう嫌なのに、生き続けなければならないという『生の苦』への
恐怖なのである。生命の堂々巡りの恐怖なのである、永遠に、無理にでも、
生き続けなければならないという繰り返しの恐怖だ。

したがって、死人禅門下の苦とは、死ぬことの苦でもなければ、
地獄行きの恐怖の苦でもない。我々の本当の苦とは、
同じところへ戻って来て、同じことを繰り返すという事への嫌悪だ。
結局は、ぐるぐると、同じ生命活動という労働を巡っている自分に
「しらけてしまうこと」こそが、仏教の苦なのだ。

あなたが、どんな高次元世界へ生まれて、何を楽しみにしたとしても、
あなたは本能的に「絶対無から逃げるように」教育をされたのだから、
あなたは動くことを強いられ、
あらゆる次元の食い物を食べることに中毒する。

やがて、それをやめたくても、中毒のために、
死んでは、生まれ、休む暇もなく次の生命に生まれ、
あなたは生き物であり続けることを繰り返すのである。しかも、
あなたという歯車は、宇宙によって、どんどん苦が増えるように設計され、
もっと動いてエネルギーを生産するように、常に「改良され続ける」のだ。

だから「永久に生き続ける」あなたの魂というものを想像してみなさい。

あなたが死んでも、終わるものは何もないのだ。

あなたは、死にたくても、

永久に死ぬことすらも出来ないのだ。

             EO

・・・・・・・・・

宗教は病をなくそうとし、争いをなくそうとし、貧困をなくそうとする。
これだけの看板をかかげたら、新しい新興宗教がいっちょう出来上がり
である。

では次に、そういう平安が本当に実現された世界があるとしよう。
その次にやってくるのは、エコロジーだのなんだのの問題だ。
そして地球が奇麗になって住みよい世界になって万万歳になったとしよう。
そうしたら、次は退屈の登場だ。

今度は哲学論議、神学論議、暇潰しの論議、そしてエスカレートする快楽
主義だ。「宇宙はどうなっているのかだの、神はどこにいるのだ」とか、
そうした暇潰しの哲学ゴッコが開始されることだろう。
そんなことを年中やっている連中など宇宙には大勢いるのだ。

そして彼らは何を目的に何億年もの寿命を生存してゆけばいいのかで、
毎回周期的にノイローゼになってゆくのだ。
何を目的にし、励みにして、何億年もの寿命をすごしたらいいのかで、
彼らの間にはいつもいつも、
宇宙というものについての論争が起きるのである。

高次元存在たちというのは、ある意味では慢性的に行き詰まっているのだ。
あなたは果して、なんの目的も快楽もなく、
何億年という時間を過ごせるかね?。だから、いずれそういう存在たちは、
『どうして、そもそも宇宙が存在しているのか』を考えざるを得なく
なるのだ。そしてその理由探しに一生懸命になる連中もいる。

理由がないと判断した場合には、理由や基準を人工的に無理に作り出す事
もしばしばである。しかし、何のためにそんな事までして我々は宇宙の中
に生存をしなければならないのだろうか?・・・。



◆進化する魂などという用語に
 警戒しなさい◆


昨今流行りの新興宗教やチャネリングといったものは、
いわゆる高次元世界を目指すための進化だの、
やれ精神の成長だのをスローガンにしている。

常にそれは地球や人類の改良だの改善にばかり力を入れている。
しかし、もしも改良や改善にあなたが目的を置くならば、
ここで「極論」というものを持ち出してみるがいい。
「極論を持ち出して考えろ」ということは
EOイズムの基本のひとつだからだ。

・・・・・・・・・

EOイズムでは常に「極論」が持ち出される。
誰もが「これが目標だ」といっているその目標が達成されたら
「次はどうするのか?」
「進化が達成されたら、さらにその次の進化はどうなるのか?」、
「その次はどうなるのか?」。
「それまでには、膨大な天文学的な時間がかかるだろうから、
今はそれは考える必要はない」という論理はEOイズムにはないのだ。

常に、究極を問う場合には、
そのプロセスにどれだけ膨大な時間がかかるかは問題ではないのだ。
プロセスにどれほど時間がかかろうがその時は来るのであるから、
だからこそ、ひとつの進化が達成されたその時に
「次をどうするのか」を考えるわけである。

そこで、次のさらなる進化が待っているとしたら、
『それはなんのためなのか?』。よく考えてみなさい。

「いつか世界はなんとかなるだろう」などと言っては、
そのプロセスを楽しむことで、
誰もが存在そのものを問うという「根本問題」から
目を避けようとしているにすぎない。

しかし、根本問題というものは、究極の問いなのであるから、
それは宇宙がどこに向かうのか、どこから発生したのか、宇宙の最終目的
はなんであるのか?、そのために意識としての存在の自分は何をやったら
よいのか、と問うべきである。

仮に今の精神世界でまかり通っているような目的が全部達成されたとして
もいいだろう。波動の高い世界とやらが達成されて、だからなんだと言う
のだろうか?。みんな楽しくやっていたとしたら、
その次のヴィジョンはどうなるのだろうか?。

こんな初歩的なことで地球人は精神的な理想だなんだのと騒いでいるのだ。

そんな高次元世界などを達成した民族など宇宙には腐るほどいるのだ。
彼らがどうなったか知っているかね?。彼らはすべて自殺したのだ。

というのも、進化の極点に行った彼らには、次の宇宙像が形成できず、
彼らには生存の目標が見付からないからだ。
あなたたちは自分を嫌悪し、社会を嫌悪し、そしてそこには改善の余地が
あるからいいようなものだが、
しかし、それすらも改善されるまでの「時間稼ぎ」なのだ。

ならば、もしも改善されたら、その後は、あなたはどうするのかね?。

極楽や天国だって腐るのだ。腐敗するのだ。

ひとつの宇宙が崩壊したら、また宇宙を作らねばならない。

そうやって宇宙は、ただ明滅を繰り返して行く。

では、それらは一体なんのためなのだ?。

その中で人間とか生物などというものは、たいそうな使命など背負っては
いないのだ。あなたは宇宙にとっては単なる歯車か燃料や肥料であり、
宇宙の食い物であるにすぎない。

そしてその「宇宙様」に食われて本望ならば、どんどん食われて下さい。
ただし宇宙にとって良い子となり良い肥料となりよき燃料になるためには、
あなたは「決して悟ったり解脱してはならない」。
なぜならばEOイズムに限れば悟りというのはもっとも悪質な犯罪であり、
宇宙から弾き出される異分子となる事になるからだ。
それは存在宇宙の意志には決して貢献しない。

宇宙があなたに下した命令は、「存在し続けろ、生まれ続けろ、苦しめ、
楽しめ、そして生活の動機はでっち上げてでも、とにかく生命を繰り返せ、
動き続けろ、退屈するな、思考し続けろ、
目的を絶えず作れ、娯楽を生み出せ、理由などどうでもいいから、
とにかく活動が停止しないように頑張りたまえ」というものだからだ。

高次元的美徳だろうが、悪徳だろうが、害があろうが無害であろうが、
とにかく動いていろ、という以外には存在世界には確たる目的がないのだ。
だからクリスチャンの方々や仏教徒の方々は仏やら神に「良い子」だと言
われたいのならば、まったく今のままでかまわない。あなたたちは、
憎しみ合い、愛し合い、殺し合い、頑張って修行し、頑張って克服ゴッコ
をして、頑張って労働をして頑張って進化したり娯楽情報を集めたりして
「ずーっと動き続けていなさい・・永久に・・」。

そして、よその次元に生まれたら、そこでもまたどこかの「精神学校」に
入学して頑張りなさい。存在世界とは、その「繰り返し」だからだ。
飽きるまでやるがいい。そうしたいのならば。

そうしたいからこそあなたたちは高い金まで払って成長や克服だのという
セラピーを受けたり修行をしたり御利益グッズを買ってみたりしているの
ではないのかね?。あるいは禅寺へ行ったりして悟ろうとしているわけだ。
ならば、ずーっとやっていればいいのだ。

そしてそれらをやり続けて到達できなければ、まさに、そのことこそが
宇宙にとって良い子であり、よい肥料となり良い食用のブタとなるからだ。
というのは、存在を支援して、存在を肯定して、
存在を促進する立場に立つならば、それこそが間違いのない善行だからだ。



◆人間を生物として認識しない次元存在たち ◆

たとえば「人間が、いかなる苦痛を受けようが文句は言うな」
という原則が宇宙にはあるものだ。
人間は苦痛を感じ、発病をしてもらわねば困る事情があって、
元々そのように人間は設計されているからだ。

というのも、適度な苦痛と快楽を与えないと生物の意識は動き続けてくれ
ないからだ。これは『飴と鞭の方式』と呼ばれているものである。
しかもこれは人間ばかりではない。だから、その基本構造が『食の構造』
なのだ。常に食べなければ我々は死ぬように作られた。

我々は毎日、燃料となる物質を口から入れて下から排泄し続ける。
こんなことも我々にはやめることすら出来ないのだ。
たとえ仙人のように霞を食っていたとしても、何ひとつ変わりはない。
その時は、今度は霞を食わねば生きて行けないのだ。

そんなことをしなくても生きてゆける生物や生命体は他に無数にいる。
しかし、そんな彼らも今度は波動や思考を食わねば生きてゆけないのだ。
これが『廃墟のブッダたち』に書かれた「次元間の食物連鎖」だ。
では、それをやらないとどうなるのだろうか?。

どのような高次元生命体であれ、彼らも結晶核のようなものをもっている。
その結晶軸の磁場もまたエネルギーの新陳代謝をしないと崩壊してしまう
のである。そのための食い物は光であったり、いろいろな波動であったり、
情報であったりするが、
とにかく何かを食い続ける為の動きを、次元の高低にかかわらず、
あらゆる生命体は例外なく続けなければならない。
どの次元でも苦は発生するのだ。「食の必要」という形で。
そして自分の生命を維持する為に動き続けねばならないという苦からは
誰も逃げることは出来ない。



◆仏教は存在ではなく「非在」へ向かう◆

世界が仏教によって良くなるなどということもあり得ないのだ。
なぜならば、仮に宇宙に「宇宙意識」や「存在の主」というものがいた
としたらの話だが、もしもそうであったらば仏教というものは、その宇宙
に対する完全な「アンチテーゼ」となるものだからだ。

つまり存在をもしも神とするならば、仏教というのは悪魔であると断定し
てもかまわないほどだ。
それほどまでに、仏教は本来は存在に相反するものなのだ。

なぜならば解脱というのは、そういうことではないのかね?。
解脱とは全世界の存在から『一抜けた』ということなのだ。
それは宇宙からの『退学』なのだ。

・・・・・・・・・

本当にもしも大悟している人間がいたとしたら、
彼は自分が悟っているとは認識しない。

こういうことを言うと、
あなたも「自分だって悟っているとは認識しない」と言い出すことだろう。

では、あなたは「自分が迷っていない」と断言出来るのか?。
するとあなたは「いや、まだ迷っている」と言い始めることになるだろう。

しかし、「悟っていると認識しても」それは違うのであり、
また「まだ迷っていると認識しても」それもまた違うのである。

だからEOイズムでは存在しているのか存在していないのかのこの根本的
な2元的な分別が脱落してしまった瞬間を大悟としているのである。

しかし、それは、あなたが存在しているのかしていないのかが
「適当に分からなくなってボーっとしている状態」なのではない。
そんなことを言ったら、そのへんの街を歩いている人々でも、
自分の存在感などは、曖昧で実感があったりなかったりしているわけである。
だからと言って、彼らが光明を得ているわけではないのは当たり前のことである。

このあたりの何が決定的に違うのかは、
死人禅の行法をやってゆくうちに了解する以外に手だてはない。



◆神とやらを
  貴方の知性で尋問にかけなさい◆


「さぁーすべての存在が悟った。
それで、どうなるのか?、その後はどうするのか?」という
「極論」を持ち出しなさい。

   宇宙の最高責任者をあなたのイメージの中にでっちあげて、
           そいつと論議しなさい。
    「理想的な宇宙が実現されたあとはどうするのか?」と。
   「そのあとはどうなるのか?、そしてそんなことをしていて
一体何になるというのか?。結局は存在の目的はなんであるのか?」と、
       「そいつ」に、徹底的に問い続けなさい。


だからEOイズムは言う。
『存在していることには高尚な目標や神聖があるのではなくて、
高尚な目標やら神聖という幻想そのものが、
存在するための餌なのである』と。

したがって「精神的な」目標などあり得ないのだ。
そうではなく、すべては「生きろ」という目標に集約されるのみである。
だから、もしも仏教徒と自負する者がいたとしたら、その者は
「一切の修行や目的をやめるための修行」をしなさい。
修行だの、改善だの成長だのをやる「あなた自体を」落としてゆきなさい。
むろん世間の通念も同時に破棄しなさい。

死人禅の行法が禅よりも優れているのは
最初から無目的の地点へ誘導をするからだ。ヴィパサナや禅や、その他の
いろいろな修行などはそこには常に「やっている」という意識があり、
目標意識があり、未来に結果を延長して「なってやろう」という意識が
あり続けている。しかし最初にそれをぶち壊すのが死人禅の特徴である。

だから死人禅は目標を達成するためのものではなく
「目標そのものを崩壊させるため」にあるのだ。
だから一切の目的ある修行をきっぱりとやめることが出来るならば
それは道になる。



◆EOイズムを軽率に受け入れるな◆

この宇宙ではもっと素晴らしい次元世界があるのだと、あなたは
教わったわけであるから、もっとどんどん探索して進化して楽しんで、
そういった本でも読んで、修行して、そういう世界に没頭して、
そうした次元がおもしろいと思えるかどうか、
どんどんと、やればいいのだ。

もっとも、それらの精神世界と呼ばれる世界が素晴らしいのだと
思い込んでいるからこそ、こんなにもたくさんいるからこそ書店や
ワークショップが流行るわけである。

また、いろいろな組織が仏教という看板をかかげていても、
そこでは常に未来へのヴィジョンがあり、価値観がある。
未来に価値をおかない場合には、今度は「今ここの気付き」だの、
覚醒だの、内観だの、自己改善などというものをもって来たがるものだ。

しかし、そういうことをやったり修行するそもそもの
前提となる「存在そのもの」を、釈迦は苦であると言っているわけである。

とすれば、それはあなたたちの論理や理想には
まっこうから反するはずではないのかね?。どうなんだね?。

・・・・・・・・・

まず存在が苦であることの実感の自問がなければ仏教徒にはなり得ない。
また、存在が善であり素晴らしいという仮説によって、ブッダ、あるいは
EOに、あなたは徹底的に「反論すること」から開始しなければならない。

なぜならば、
楽な存在、高次元存在、成長した波動の存在やら宇宙人のような存在や、
悟った存在がいいと思い込んで、いままであなたたちは精神世界をやって
きたわけであろう。だから、まず存在は正しいと前提し、そして究極的な
理想が実現された世界を極論として想定してみなさい。
さて、「そのあとには何があるのか?」・・・と。

・・・・・・・・・

絶対の理想とはどんなものであり、それが実現化したらどうするのかと。
それを実現するためにはどうしたらいいかではなく、理想が実現されたら、
それが「だからなんなのだ?」と、考えろということである。

「こうしろ、あーしろ」と精神世界のあちこちであなたたちが言われ続け
たことを、もしも「その通り全部やってしまったら」、
つまり「卒業」したら次はどうなるのかを考えろということだ。



◆卒業できない
 強制収容所としての宇宙◆


ブッダたちというのは、もっとも厳密な意味においても、
彼らは宇宙的な規模の『反逆者』なのだ。

彼は「存在が苦である」と言い切ったひとりの「病人」「妄想家」「狂人」
それがブッダたちなのである。そしてEOもまたそうだった。

ブッダたちというのは、
宇宙からの「はみ出し者」であり宇宙の「落ちこぼれ」にすぎない。
ブッダたちというものは、決して偉大なのでもなく、正しいというのでも
ない。彼らは、考えつめすぎて、存在から弾き出された者のことなのだ。

だから、ブッダたちというのを偉大であるとか正しい者であるという妄想
をもう一切やめなさい。
そうではなく、
ブッダたちというのはどうしようもない「病的な哲学者」なのであり、
それ以上の行き場のなくなった修行者だったのである。

だから、人は、解脱を「しなければならない」のではないのだ。
ブッダたちは「解脱をせざるを得ないほどに」考えつめて
苦を見極めた者たちだったのだ。
それを見極めた段階で、はじめてあなたは仏教の僧になるのであり、
また死人禅の門下になるのである。

それまでは、あなたは単なる宗教オタクにすぎない。

苦を本当に見極めるまでは、

あなたはただの宗教難民にすぎないのだ。



◆怠け者は悟れない◆

どんなに座禅や瞑想をしたとしても、
一生に一度の「もうこれで駄目だ、終わりだ、もう後がない」
という最後の最後の最大の『土壇場』の苦しみでしか
「変容」などということは起き得ないのである。

なぜならば、全面変容というものは、
そうした土壇場に人間が追い詰められた その時に、
やっと『出番』になる からだ。



◆死と狂気の扉◆

いずれにしても、最後の変容に必要なのは
最大級の最低の、疑う余地のない、
『 全く救いのない瞬間 』があなたにやってくることだけだ。

そして、そこまでゆくためには、あなたは膨大な努力、または
徹底的な苦悩、思索をしなければならない。
黙って、普通にしていては、決してその断崖にゆくことは出来ない。

しかしまた、その断崖に来た瞬間には、
あなたはあなたの努力をすべて捨てなくてはならない。
あなたは、努力や経験だけではなく、
あなた自体を捨てなければ、その断崖から落下することは出来ない。

その断崖に至っていなければ、
絶対に全面変容など、あなたにはあり得ない。
その断崖のそこでこそ、『それ』は出番があるからだ。

苦という病が発病していてこそ、
やっとそこで「 悟りという抗体 」が形成されるようなものなのだ。
そもそも抗体が出来るためには、発病していなければならないのだ。

そして、もしもあなたがそこまでいかないのであれば、
あなたは普通のことをやっていればいいのだ。

苦しい、苦しいと言いながらでも、結局は、そのまま何十年も
生を嫌々ながら引きずって死に、そしてそれを繰り返すのだ。

だから、あなたに『変容か死か、死か狂気か』の踏ん切りをつけるだけの
探求心がないなら、変容などさっさと諦めて
普通の希望を燃料にして、生きてゆくことだ。
その踏ん切りをつける日がなければ、変容など、
絶対にあなたには不可能だ。

そしてその『最後の最低の苦しみ』以外には、
悟りの種子になり得るものは、なにひとつないのである。

そして、その修羅場には、
あなたは自力で たった一人 で行くしかないのだ。

・・・・・・・・・

もしも、その土壇場で、あなたに、
「発狂か自殺か衰弱死」の道しか意識されなくなっていたとしたら、
それは本当の土壇場だと言える。
そして、一点の救いも見えなかったら、それが土壇場である。
その土壇場では、悟りや光明などというものが
あなたに見え隠れすることなど、決してありはしないのだ。

一体悟りは何のためにあるのか?、
それは決して、あなたが死なないためにあるのではないのだ。

そうではなく、
それはあなたが狂わないための『ギリギリの純粋意識』なのだ。
それは、
決してあなたが「立派な魂」などになるためのものなどではない。

そして、そもそもあなたに、狂気というものが発病していなければ、

悟りという薬、

すなわち大悟という抗体は、

あなたに必要ないのだ。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


             覚者たちというものは
     人々の意識を改善するために存在しているわけではない。

           そして覚醒や光明というものは、
      最終的に人々があるべき正しき状態であるのでもない。

    あなたは別に悟りを開かねばならないというわけではないのだ。

   そうではなく、ごく希にではあるが、もしも全面変容が起きなければ
  破滅してしまっていただろうという程の『苦』に直面してしまった者が
      この惑星に何人か存在した、というだけの話なのだ。


  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

                EO



◆発心の瞬間◆

『 どうして、私はここにいるのか?。私は誰なのか?。
この意識そのものはなんなのか?。
生きること以外には、私は一体何をすればいいのか? 』
などと質問したところで、あなたたちは親や教師や友人からは

「馬鹿なことを言っていないで勉強しなさい」とか、
「そんなことは考えてもしょうがいない」とか、
「生きて幸福になるためにいるのだ」だのと、ありきたりな言葉を聞いて、
そうして探求者たちは身近な友人や家族には、そうした事を話さなくなり、
独りで本でも読みふけることになるのが世の常である。

そうしてみると、一番基本的な疑問であるはずの、
「自分が存在している感覚の謎」に対して、なんらの疑問も持たない人が
世間にはかなりいるようである。
あるいは、そうした疑問や不安があっても彼らは「見て見ぬふり」をする
わけである。

というのも、もしも
「 この私や世界の存在そのものは何なのだ 」という疑問を起こしたら、
我々は、そこから一歩も動けなくなってしまうからだ。

その疑問の中では、「具体的に何をすればよいのか」というそれ以前の、
『 根本疑問 』に我々の思考は釘づけにされてしまうからだ。

結局世間の大半の者たちは、この問題を考え詰めることによって不安にな
るのが恐怖であるために、その根本問題や、その虚無感を突き詰めようと
はしないのである。しかし、不安になろうが、ノイローゼになろうが、
そこが合点がいかなければ生きるのもおっくうであり、いつまでたっても
『何かがおかしい』という感覚がつきまとい、そのまま生きてゆくのが
『発心』した者たちである。

そして、共通に言えることは、そうした発心をした者は、
そのような発心をしていない世間の人達の中に入ったときには、
その 世間の者たちが楽しんでいるような物事をまったく楽しめない 、
という状態が発生するものである。
「なぜ、このような事がおもしろいのだろう?」というようなものばかりに
出会うことになる。

一般社会の風習や感覚に溶け込むフリだけはしてはみても、結局はやれば
やるほど空しくなり、なじもうとすればするほど、発心した者には違和感
が増幅されるのである。

なぜ、そうなるのかについての、もっとも単純な説明としては、彼らは
「 自分が存在しているという意識を、どこにいても忘れられない 」から
である。従って、彼らは決して本気では夢中になれないのである。では、
その夢中になれない原因は、何か常に考え事をしているからなのか?、
というと、決してそうではないのである。

これは非常におかしな現象だが、
『 自分が一体何に囚われているのかも分からないままに、それでいて、
何かに囚われているような感覚がする 』という状態なのである。
そこには別に具体的な悩みがあるわけではないのである。
あたかも「自分の存在感そのものに囚われている」ような感覚である。



◆今の瞬間を捕らえる事はできない◆
 
今の瞬間というものは、「向かう」ということは出来ない。

今というものへ「向かうことは出来ない」。

そして今というものを「知ることは出来ない」。

あなたの存在性が動かない時、すなわち
思考が動かず、感情が動かず、感性が動かず、知覚が動かず、
意識が動かないとき、あらゆる意味において停止した時、
その本当の無為の時が「今」なのである。

だから、
今というものを「知ろうとすることは出来ない」のであり、

今に「なろうとすることも出来ない」のであり、

今に「在ろうとすることも出来ない」。

今というものへは「向かうことが出来ない」ばかりか、
今というものは、それを「これが今だ」と知ることすら出来ない。

なぜならば、「知る」ということには距離があるからだ。

それでは「知るあなた」、そして「知られた今」というものがある。

そこには、「まだ見るものと、見られるもの」の2つがある。

しかし、今というものを知ったあなたがいて、知られた今がある、
などという、そんなことは『今そのもの』ではないからだ。
そんなものは停止でも一体化でもないからだ。
常に、『一体化の中では、知るという事は起きない』のであり、
また、見るということもそこでは起きない。

したがって、今の瞬間を見ようとすることを一切やめることだ。

今というもの、あるいは悟りという何かを
「知ろうとすること、向かおうとすること」をあなたは一切やめるのだ。
死人禅というのは、すべてを止めるための行法なのである。

・・・・・・・・・

そしてその『今』の実現があなたの意識になされたら、
絶対にそこは『 未知 』だ。
そこは『 永久に未知 』だ。

「未知」という言葉を聞くと、あなたたちは、
それは「今は分からないが、いずれは分かるようになるもの」という解釈
をしてしまう。未知というと、あなたは
「今は分からないが、そこへ行けばそれが分かるようになることだろう」、
という考え方をしている。
解明されていないが「いずれは解明されて既知になるだろうもの」である
かのように、あなたたちは未知という言葉を解釈している。

しかし、TAOにおいては、
『(それは) 永久に知られざるもの 』と定義される。

今の瞬間、とは絶対に未知であり、それを知ることは出来ない。
それは今の瞬間においてすら知ったり、確認したり、認識は
一切出来ないのである。
しかも、それは永久に、『知られる可能性すらない』、絶対の未知なのだ。

それは和尚ラジニーシが再三語ったように『知られざるもの』なのだ。
それは、「いつか知られるようになる未知」なのでは決してない。
絶対に知ることが出来ないもの・・・
それが今であり、瞬間であり、停止であり、軸であり、静止であり、
見性、大悟、光明そのものだ。

そして、その状態を最も適確に表した言葉は、
『それは永久に知られざるものである。決して知ることは出来ない』
という言葉だ。それは、認識も確認も、一瞥すらもできないものだ。



◆一切の価値観を無視し切ること◆

世間のあらゆる伝統的宗教や新興宗教、またはセラピストを見れば解る
ように、とにかく価値観をかかえているかぎりは、
そこは「世間的次元」に過ぎない。

それがなんの価値観であれ、どういう精神進化の価値観であれ、
世紀末的価値観であれ、またはその後の未来的価値観であれ、・・・

・・・・・・・・・

したがって、「あの価値観は間違っているが、こっちの価値観は正しい」
ということなどはあり得ないのである。

例えば、あるがままだの、ゆったり自然にする、などというスローガン
なども、これらは全部が「単なる価値観」にすぎない。

そして、世間や社会もまた
「なんとか共存して政治的、経済的にうまくやって行こうとすること」に
おいては、それもまた価値観に基づいてやっていることばかりだ。

従って、どの価値観が正しいという問題ではなくて、EOイズムに言わせ
れば、「どれも、全部価値観であるかぎりは間違っている」のである。
だからこそ『世間も宗教もない、どっちも同じ穴のむじなだ』、とEOは
言うのである。宗教といってもさまざまだが、クリシュナムルティや、
ラジニーシのアシュラムもそうであるし、ラムダスやら、
上座仏教もそうであるし、形式的な禅寺もそうである。

このような正法だと自負するあらゆる分野も、
一旦組織化して、しかも組織的な価値観を持った段階では、もうそこは
「世間」になってしまうのだ。

というのも『価値観こそが邪魔である』からだ。
『 価値観は決して無心ではない 』からである。

人間以外の自然界の動物や微生物はいかなる価値観も持ってはいない。



◆価値観などは、ただの囚われである◆

極論すれば、あなたは一切何も大切に思わない方がいい。
大切に思うこと自体が、こっけいなのだ。
価値観というのは、
ある特定の問題に意識が集中してしまう傾向のことだ。
「何度も何度も、あなたが同じ問題について思考してしまうこと」である。

なぜそのようなことをするかと言えば、それは
その価値観や対象物をあなたは「大事だ」と思い込んでいるからである。
そして、それが今まで自分にとって効力や幸福をもたらしたので、
あなたはそのことに囚われるというわけである。
つまり価値観とは、囚われである。

それがどんな高尚な価値観であれ、
世間から支援されているものであっても、
何かを『大切だと指さした瞬間に』あなたは必ず対立物を生み出して
しまうだろう。

つまり あなたが「大切なもの」を持った瞬間には、
あなたは「大切ではないもの」を同時に生み出してしまうのだ。


世間のすべての経済機構、世間常識、または宗教的価値観、
または多次元的な別の次元で生き抜こうとするそういう価値観、
魂の進化や人間的成長などという、そんな一切の価値観とは
死人禅やEOイズムはまっこうから対立してくることになる。

そうした価値観を全部やめるというのが『死人禅』だからである。
世間や宇宙が、あまりにも生きようとすることと、その根底の上に理屈を
積み上げて、価値観を積み上げ、人を先導して徒党を組んで何かをやり、
あげくの果てに苦を増加している。
そのために相対的なバランスを取る意味でも、
EOイズムでは『死』というものを持ち出さざるを得なかったのである。

・・・・・・・・・

EOイズムとは実存主義ですらないので、
いま、ここで自分が存在しているか否か、などという事すら、
どうでもいいことなのだ。

「ただ在る」と言う必要すらもないし、
「これが悟りなのか」と確認する必要もなければ、
「これでは迷っているのか」とも思う必要もない。

こうしたことを一切「離れていろ」というのが死人禅の道である。
しかし、それは「捨てろ!」というのではない。
「捨てる」という場合には、そこには構えがある。
「それは、悪いものだから捨てるのだ」という滑稽な力みがある。
そうではなく、そういうこと自体をもう「無視しろ」ということだ。

この「無視」という言葉が一般的にネガティブに取られるのであるが、
決してそうではないことは、すでにEOイズムに何度も解説されている。
これはかなり重要なポイントだ。(『 続/廃墟のブッダたち 』参照)

というのも、本当に、一切を無視し切って世間で生きて、
あるいは寺で生きて、なにもかもどうでもいい、
そして自分の死活問題すらもどうでもいいという態度で本当に一切から
離れ切る事ができたら、それこそが『意識体』の状態だからである。



◆気づきという用語を鵜呑みにするな◆

TAOは、「気付け」などとはどこでも言っていないのだ。
そこでは気付きが「起きる」のであって、そこには「気付いている主体」
があるわけではないのだ。

気付きそのものがそこにあるのであって、
それはあなたが「やっていることではない」。
『気付きが気付いている』という状態である。

(編集者 /『気づき』の問題に関する詳細は
EO著『 小さなブッダの大きなお世話 』を参照。)

・・・・・・・・・

宇宙には「精神的な目標」などというものは断じてあり得ない。
我々が大切に抱えているのは「断じて精神的な目的などではなく」、
つまるところは「どうやって、動きが止まらないように活動するか、
そして生きようとする意志を奮起するために快楽を手にいれるか」という
動き(=あがき)であるだけである。

ところが、このシステムにまっこうから相反するものを、肉体や環境に
持ち込もうとするのが死人禅=EOイズムであるから、
それは生存を根底にしている世間とも、精神世間とも折り合いがつかない
のは当然の末路である。
そして、ここには、無理をして折り合いをつけてはならないものである。



◆馬鹿のままで暮らすのが楽である◆

普通の世間は、「他人から注目されること」で生きる意志を奮起し、
自分の「空虚さを穴埋め」をしては、
自分の「存在価値や存在の実感をでっち上げている」ものだ。

しかし、死人禅門下の場合には無視されれば無視されるほど、
清々して満たされてゆくものである。

そのような意味では、いかにして役立たずで『注目されない人々』になる
かが必要となってくるし、誰もかまわなくなってくれば実習者にとっては、
「しめたもの」、というわけである。

誰からも相手にされないことが死人禅の実習者には必要だ。
ただし、それは他人から「迷惑がられる」という意味で相手にされなく
なるのではない。

精神世界の話もせず、世間の話もせず、役立たずで、価値観もない、
『ただの馬鹿』として『楽に存在する』のがよい。
結局はそれが一番楽なことであるのだから、

・・・・・・・・・

結局は死人禅の修行などはやらない方がいい者が、圧倒的に多いのである。
死人禅をやるに当たって必要なのは、
決して好奇心や熱烈な探求心ではないのだ。

ただひとつ、必要な条件は「健全なる心理的病状の悪化」のみなのである。
ちなみに「不健全な心理的病理」というのは、薬物やアルコール、精神科
の薬品浸けになったような者を言うのである。

あるいはまたは死を覚悟しているのではなく「誰かに認められたい」とか、
「愛されたい」とか、「何かのためになりたい」などと、
くだらぬ「生の目的」を持っている者たちは、 不健全な心理的病理 と、
無明庵では見なしている。

・・・・・・・・・

本当に価値観というものを持たなければ、
あなたは他人と協調は出来ない。協調しないようにするのではないが、
必然的に協調ができなくなるだろう。

他人のことを否定も肯定もせずにいれば、やがてあなたは他人からは
「つまらないやつ」と見なされることになる。
そうしたら、清々して自分の行法に専念すればよい。

あなたが下手に「同情や共感や同感」というものを他人にすれば、
彼らのエゴというものは、そうした同感や共感される事を常に望んでいるために
余計な面倒が増えるものだ。だから極力他人とは無関係になることである。

・・・・・・・・・

死人禅とは、その名のごとく、
「 いかにして死んだままの死人が世間をうろつくか 」という点に尽きる
のである。

心が死んだ者にとっては「生の世界」などは、どうでもいいことなのだ。
それでも、そこにどうしても葛藤が起きてくるとしたら、

@ひとつにはまず行法が足りないか、
A行法の集中度=精度が甘いというのが原因として考えられる。

特に、闇の瞑想が足りないと、価値観が抜け切らないことが多い。
また、闇の瞑想の不足は、死への恐怖につながってしまう。


さて、本来の導師の役目というものは、
徹底的に弟子を残酷に追い詰めてゆくものである。
そして、そのときに弟子は
導師に対して2つのものを差し出さねばならない。

ひとつは、ギリギリの 『苦』 である。そして、苦がないとしたら、
もうひとつは、ギリギリの 『心境や境涯』 を示すことだ。

弟子というものは、本当に決着がつくまでは、
常に導師にこの2つのどちらかを投げ続けねばならない

だが、無明庵では、現在は、そうした個人的指導はしていない。
結局、土壇場に追い詰まるかどうかは、
外側から導師があなたの尻をたたくものではなく、
『個々の本人の【資質】』にかかっているからである。

そしてまた、
そうした 土壇場 に出会えること自体が、
TAOから言わせれば「運がいい者」なのである。

平均的な幸福と不幸を往復していては、一生の間に
『 本当の土壇場 』というものには、めったに出会えるものではないのだ。

だから、EOイズムは言う。

徹底的な不幸に出会えない者が、もっとも徹底的に不幸な者だ』と。



◆ただ今の瞬間に在ること◆

死人禅は世紀末とはなんの関係もないし、
破局を想定して奮起するものではない。「時間がもうないから頑張ろう」
などと言う事は全く死人禅には関係ない。
「 時間は、いつでも、ない 」のだ。

「日本はあと数年で経済的に破局するだろうから、あるいは世界は
20◎◎年に戦争になるだろうから頑張って死人禅をやっておこう」だの
と、そんなことは我々には関係ない。
時間など、『いつだって、ない』のである 。

だから、死人禅の門下は決して未来の希望の中を生きるのではない。
我々の行法は、想定した破局の未来世界を生きるためでも、
そこでやってくるであろう苦の『準備のための瞑想』ではない。
だから死人禅の門下は社会の情勢だの、または精神世界だのは、
一切どうでもいいものとして無視し続けるがいい。

さらには、一般に称賛される「人間性」というものや
「平均的幸福」などもどうでもいいものとして、
それら全部の観念から離れることと、
あなたの無駄な心理的な動きをやめることが死人禅である。

もしもあなたの意識が今から動かなければ、
これからどういう世の中がくるかなどは、
全く問題にすべき問題ではなくなるからだ。

そもそも、『時間などない』のだ。
すべては この瞬間に停止する ということにかかっている。



◆他人に何かを与える時には
 充分な注意をしなさい◆


瞑想とは、それは常に冒険的だ。

それは全くの保証のない道を行くことだ。

それは誰から支援される可能性もない。

それは、あなたのカルマ落としや
あなたの善行積み立ての道具じゃない。

あなたは、世間の基準ではなく、
TAOの直感にのみ従わねばならない。

・・・・・・・・・

瞑想的でないような人からどんな金品が与えられても、
ブッダたちは、決して感謝しない、という事を覚えておくがいい。
むろん、彼は、あなたを軽蔑してもいない。しかし感謝もしない。
彼は「ただ、受け取る」だけだろう。そして、時には、
それをすぐに川へ投げ捨ててしまうことだってあることだろう。
すると、あなたはとても怒るに違いない。
「ブッダや法のためにと思って寄付したものなのに捨てるなんて」と。

だが・・・「だからこそ」彼は捨てるのだ。そういうあなたの魂胆と、
そして「他の誰よりも私はグルに与えているんだ」という、自己顕示欲に
よる贈与、または、「少なくともこれは悪いことじゃないだろう」という、
安易な無知からの贈与、「相手からよく思われるだろう」という期待・・・
まさに、これ故に、ブッダは、そうした行為には感謝ができないのだ。

・・・・・・・・・

ひとりのブッダは「法や自然から与えられるもの」には、
いかなるものであれ感謝するだろう。
だが、彼らは決して、人のエゴというものには感謝をしない。

彼は別に感謝しないようにしているわけではなく、
単にそういう局面では、彼には感謝が浮かばないのである。

ブッダが人のエゴや自己顕示欲、あるいは「安全確保された善行」という、
打算的な『神様との取引き』や、「相手からよく思われたい」または逆に、
「悪く思われたくない」という期待、こうしたものを動機として送られた
物に対してだけは、決して感謝をしないその最大の理由は、次の点にある。

光明や自然が彼に何か・・・たとえば神秘体験や瞑想を与える時には、
与えた側の自然は、決して『私が与えたんだ』とは思考していないからだ。
つまり、ブッダたちは常に『無心で与えられるもの』には感謝するのだ。

しかし、無心からの行為ではないような贈り物に対しては、それが、
いかなる多額の布施であっても、彼は、決して感謝をしないだろう。
そして、その時、本当ならば感謝すべきなのは、ブッダではなく、
そんなエゴによって与えた物を受け取ってくれた事に対して、
与えた側のあなたこそが、ブッダに感謝せねばなるまい。

だから、どんなに、多額の金品や食料をブッダに与えたとしても、
もしも、それが『無心』と『完全な直感』からの行為でないのならば、
彼にとっては、それは汚物にも等しいものを与えられたことになる、
という事を覚えておくことだ。
だから、そんなものを受け取ってもらえた事に対して、
あなたが感謝しなければならないというわけだ。

だから、あなたは、他人に何かを与える、ということには
充分すぎるほどに注意すべきだ。

「与える」というだけで人はそれを「悪くない行為」とみなす癖がある。

しかし『無心』によるものでないかぎりは、あなたが他人への同情心から
何かのボランティア等に参加したとしても、
それらはすべて、あなたのエゴ、つまり「自分は与える側」にいる、
「自分は、少なくとも間違った事はしていない」という、あなたのエゴを、
単に心地よく保証しようとしているだけだからだ。

しかし、真に価値ある与え方をする者は、
「与えている」などと決して思わない。
また、その与えた物の、そのゆく末にも頓着をしない。
彼は、与えているとも、なんとも思わず『ただ与える』からだ。
彼は、無心に与える。

実際には、それは、与えるということですらない。
それは、単に起きることなのだ。
そこには、与え手も、受け手もいない。
それがTAOの、『無心のうちになされる』相互作用なのである。

だから彼は、たとえそれが相手に受け取られなくとも、あるいは、
どこかに捨てられてしまっても、
決して、がっかりすることもない。

               EO 



◆自我が正常に
 発達することの役割◆


衣食住性が、どんなに整ったとしても、人は幸福にはならない。
これは無数の人間が、永劫の時間の中ですでに自らの経験によって
証明した事実である。

次に、衣食住の周辺の問題としての、家族、伴侶、社会環境、生活環境、
これらがどんなに整ったとしても、人は幸福にはならない。
これもまた、多くの人間が自らの経験によって証明した事実である。

次に、周辺問題ではなく、内面問題としての、心、感性、経験を
どんなに整えたとしても、人は幸福にはならない。

また、心を入れ替えたり、心理的外傷を取り除いたりしても、
人は幸福にならないことを現代の地球人は認識しつつある。

これらの認識の結果として、幸福への道として、多くの場合は、
決して変わらぬ何かを求め始める。それは、いかなる状況下にあっても、
不変の自己確立である。

いかなる場合にも動じることなく、判断を下せる自己確立である。
いかなる不幸にあっても、それを不幸どころか幸福とすら感じる感性である。
いかなる罪人や自己を傷つける人物に会っても、彼らを愛せる心境である。
また、生まれた時より、死ぬ時まで、まわりで何が起きていようが、実は、
まったく影響されていない、自己の中にあって、生来無垢である中心である。

このように、いつでもどこでも、どんなときにでも、不変であり、
かつまた普遍的であるもの以外には、人間を幸福にするものはない。

しかしながら、人々は愚かにも、常に外部的安定を探しているものである。
多くの男女が持つ「生涯の伴侶への出会いの切望」とは、つまるところ、自我
が安定した生活を送るための打算的な手段である。他人に依存して、物理的に、
あるいは「心理的安定」を図ろうとするのがその動機である。自我が安定し、
かき乱されることなく、平和に暮らしたいと願うのが、その動機ではある。

しかしながら、自我は、もともと安定できるものではなく、それは常に不安と
なり、それは常にかき乱され、それは平和を、そもそも好んではいない。

すなわち、もともとが自我の望みであるものから発生した行為は、それが
どんなに美化されて、あるいは世間でまかり通る当たり前のささやかなる幸福への
切望であっても、それが自我の切望である限りは、必ず苦痛を招くことになる。

自我とは、自分が傷つかないようにするためには、どんなウソでもつき、
どんなことでもやるものである。自我とは自分が心地よくあるためには、
どんなウソでもつき、どんなことでもするものである。

しかしながら、自我は『その限界点に行き着いた場合にのみ』
我々に貴重な事を教えることができるのである。



◆手のひらの蝶◆

あなたが自然に手を開いた、その状態が、TAOだと言える。
あなたは、まったく自然に、ただ手の平を上にして、指を開く。
それがTAOである。

一方、探求者たちは、ねんがらねんじゅう、
その手で何かをつかもうとする。
あさましく、何かをつかみ取ろうとしている指だ。
常に得ることに彼らの焦点がある。

そしてまた、もうひとつの貪欲さがある。

それは、手をわざと大きく開くという行為だ。

これは、一見すると、何かをつかみ取ろうとはしていないが、
しかし、これは「待機」という貪欲だ。
「自分はオープンなんだ」と叫んで、何かを受け取る「準備」の手だ。
これは貪欲さのもうひとつの現れである。
「ほら、こんなにオープンにしているから、何かよこせ」と
あなたが言っている手だ。

しかし、TAOとはこの2つを離れることだ。

ひとつは、あなたが何かを求めて心を動かすことをやめること。
もうひとつは、期待をもって待機するような受け身をやめることだ。
それは、いわば、何かが入ってきたその瞬間に「動くための準備」に
すぎないからだ。

たとえば自然にあなたが手を開いていると、蝶がやってきて、
その手に止まったとする。普通の探求者は、蝶を探しに出掛けて、
つかみとろうとしている。

一方、もう少し正気の探求者は、手を開いてただ待つ。
しかし、まさに蝶が手の平に乗った瞬間に、あなたは手を握りかねない。
こうしてTAOは死んでしまう。

TAOとは、「来るものと、去るものに対する無頓着さ」だ。
それは手に何が乗るか、手に何が来訪し、去来するかという問題には焦点
がない。手に乗るものは、すべて変化するということでTAOは仏教的な
無常と同一だ。

問題は、蝶がやってこようが、去ろうが、そのままに手を開いていること。
たとえあなたの血を吸う蚊がやってきても、
そのまま手を開いていることだ。
彼らを殺したり、つかまえたり、あるいは留めたりしないことだ。
常に、TAOの焦点は、手にある。

つまりあなたの意識にやってくる対象物の問題ではない。
問題の本質は、あなたの手そのものの在り方だ。

あなたの意識に去来するものではなく、
そのあなたの意識そのものの在り方だ。
それは、あたかも、ただ自然に開いたままの手にとてもよく似ている。
その時、あなたの手は何もしてはいない。

・・・・・・・・・

ただし、あなたたちの習慣的思考は、
あらゆるものを「我物にすることによって」これまで生きて延びて来たし、
あなたは長い間そのように教育された。
したがって、あなたには「つかもうとする悪癖」が染み込んでいる。

この握った指を開かせるのが本当の禅やTAOというものの本質だ。

しかし、もしも、せっかく開いたその手に別の何かを握らせて、
他のものは握らせないようにするとしたら、
それは単なる「宗教的洗脳」だ。

しかし、TAOは、あなたに何かを与えることはしない。
それは、単に、握っている手を緩めさせるだけだ。
ただし、それは決して「開く」のではない。
というのも、開くというのは、またひとつの「モーション」だからだ。

単に、それは握るの逆のモーションだ。これもまたエゴの一面だからだ。
そうではなく、単に、指を緩ませること。

たとえば、あなたが手を握っている時、その手、
すなわち意識を開かせる方法は、いろいろとある。

1/口で「開いてごらん」と言うだけで開くような人達も希にいる。

2/何かのショックを与えたり、注意をそらすと、
  そのはずみで開く人もいる。

3/そして、指を手で無理やり開かないと開かない人もいる。

4/逆に思いっきり、握らせると、反動で、開く人もいる。

5/だが、死人禅はちょっとユニークだ。
  それは、あなたの指を開けとは言わない。
  そうではなく、『茶碗を手の平に乗せてごらん』と言って、
  あなたに茶碗を持たせるようなものだ。

あなたは別に指を開こうとしたわけではない。
私も、あなたに指を開けとは言わない。
あなたは単に、私の茶碗を受け取っただけだ。

ところが、しばらくして私が茶碗をどけると、
あなたの指は自然に開いたままになっている。
こうして、TAOの一面があなたに起きるのを私は狙っている。

言葉でいくら指を開けと言っても、
意識をゆるませろといっても、つかもうとするなと言っても、
あなたの心の指が、おとなしいのはちょっとだけで、
何かの体験がやってこようものなら、すぐにそれに飛び付いてしまう。
すぐに、それについて、考えてしまい、
悟りさえも、「自分のもの」にしようとする。

だから、私は、ひとつの、長期的な訓練として、
最も自然な受け身の手の状態を茶碗を持たせる事によって
あなたの手に記憶させようとしている。

そうすれば、本当に悟りがやってきた時も
あなたは、決して、その蝶を握り潰したりはしなくなるからだ。

            *********



◆ある浄土真宗の信徒への手紙◆

『何かのため』、というものが、もしもあるとしたら、
あなたは、まずその『何かの為』とはなんであるかを、
まず、根本的に哲学せねばならない。

『教えられた事を盲信するな、自分で疑って、あらゆる側面から考えろ』、
と言うのが、子供への「教育の基本中の基本」である。

あなたは真宗で10年念仏していると言うが、「阿弥陀様とやらを無条件
に信じろ、念仏がただ念仏するように無心に唱えろ」というのであれば、
それでは宗教にすぎない。それは子供への教育ではない。
ならば、あなたが考えるべき基本的な命題がここにある。

@あなたの成長や、変化、改善は、『何のため』なのか?

Aそれが、本当にあらゆる角度から考えて、為になると断言できるか?。

Bそして、それが誰の、あるいは何の役に立つというのか?。

Cそして、本当にそうであるのか、矛盾はないのか。
 そのために犠牲にするものはないのか?。
 何かのために、何かが犠牲になるのであれば、
 それは全体的肯定性ではないことになろう。

あなたは言う。「死ぬ時には、すべてよし、の心境で死にたい」・・・と。
だが、かつて地上に存在した、いかなる賢者たちも、ただの一人も
『すべてよし』などと言ったためしはない。

彼らは、神秘の中へと『沈黙した』のであって、
よしだの、悪しきだのと言ったためしはない。

もしもあなたが、すべてよし、と言うとしたら、
それを「言うのは誰である」のか?。
何をもってして「よし」、と言うのか?。
ただの感傷的な、一時的な肯定感で、あなたがそのようなことを言う
瞬間があったとしても、翌日には、あなたは、
何一つ変わらぬ、躊躇とみじめさの中で起床することだろう。

真宗で、阿弥陀の寿命が無量だという神話を信じるのは結構な
『精神的娯楽』ではあるが、
宇宙の万物とその元素はそもそも無量の寿命である。
おおげさに言うほどのことではあるまい。

また、宗教的神話は、たとえ、方便や象徴的な示唆としての教えであった
としても、そうした余計な要素を一切
「幼稚なおとぎ話」としてEOイズムは認識する。
だが、それは、軽蔑心からではなく、むしろ『慈悲』からである。

なぜならば、『余計な象徴』は、
常に「後世に混線材料を増やす」からである。
いわんや、そのような混線材料を子供たちに話すのは、形が違うだけで、
新興宗教の洗脳教育の仕方となんら変わりないものだからである。

EOは、そうした仏教的な存在者たちの次元世界に接触し、その上で、
それも究極ではないと言った点においては「ひきつりながら読む精神世界」
での神学者との論議でもおわかりの通り「ただの教義の信者」にすぎない、
あなたたちよりも、よほど実際に、彼はそうした仏の世界に精通し、
実地に高次元世界の様相を体験していた。
その体験の上で、疑問を持ったという点が彼が宗教家ではない点である。

また彼は無神論者でもない。
仏教的システムのプログラムされた世界があり阿弥陀も親神様や
イエスもいてけっこう、ブッダもいて、けっこう、・・・しかし、
『だから、どうかしたのか?』、というのが、EOの言い分である。



◆上座仏教徒への手紙◆

ヴィパサナであれ、座禅であれ、なんであれ、どんなあらゆる修行も、
やったその瞬間に『仏法そのものからは外れる』ものなのだ。

僧侶が何をどう反論しようが、
僧侶の思考が「自分は修行をしている」という形をとれば、
修行の動機と僧侶は自己同一化をしてしまう。

そういう同一化が、座禅やヴィパサナによって抜けてゆき、
ただ意識的に日常の、ありのままの行為をなしてゆくだろう、
そしてそれが正覚へとつながるだろうという、
そんな期待があなたにあるとしたら、
それは、とんだ見当違いというものだ。

仏教には、プロセスというものはない

過去もなく、未来もなく、現在もない。

『今』も存在しない。

今、ここの瞬間の行為と感覚に
100パーセントの覚醒をもってして修行したとしても、
決して苦が消滅するわけでもなく、
いわんや大安心を得るわけでもない。

なぜならば、それをやっているあなたの動機も、期待も、
真の仏教を実行しているというつまらぬプライドも、
依然として破壊されていないからだ。

動機、期待、希望、修行者という自覚、これは正しい道だという分別・・
一体、これらそのものが、迷いと言わずして
なんと言うつもりだろうか?。

・・・・・・・・・

本当に、あなたたちは、「苦」を看破したか否か?。答えてみよ
どこかの導師、どこかの経典や、誰かに説法されたから、
そして自分の人生経験の記憶を寄せ集めてみて、
その結果、「人生は苦だ」などと安易に定義していないかを自問せよ。

もしも本当に、苦を看破したら、
あなたは、たった今、その毎瞬間が苦に満ちるはずだ。
ときどき安心しては、また楽になるなどというそんなものではないはずだ。

そのように、苦が徹底したときだけ、つまり釈迦のように
徹底的に苦に直面した時だけ本当に人は、一切の欲望を落とす。

そして、忘れてはならない。その貪欲な欲望の中には
「修行して安心してやろう」という欲望が筆頭にあげられる。

釈迦が、見性した最大の原因は、
一切の修行を無駄と看破したことであり、
本人が徹底的にその無駄なことをやったためであり、
また、最後に、それ以上やるべきこともなくなり、
本心から、生のすべてに苦しみ、最後に『諦めた』ということだ。

徹底的にやった後に諦めれば、
そこには、大安心も、解脱もニルヴァーナもある。しかし、
苦しみが徹底しないような修行は、なんであれ
細かい欲望を捨てたような気になるだけで
最も基本的なものを捨てることが出来ないままで、あなたは死ぬ。
そして輪廻する。

その最も捨てるべきもの・・・・

それは、「何を」捨てるという問題ではなく、

捨てるだの捨てないと言っている

その『あなた』そのものを捨てることだ

・・・・・・・・・

あなたが、自分の過去にやってきたこと、
あるいは現在の自分に満足しているなら、
あなたはここには来る必要は全くない。

また、何かの組織団体や伝統や、
何か直接に自分のものではない『借物』を背負ってくる者は
門前払いである。無名庵にもってくるのは、
あなたただ一人であり、そして支払うものは、あなたの大苦だ。

・・・・・・・・・

ここへ来るのは、精神の、探求の大病人のみだ。
論議や情報交換や、EO見物人どもの来るところではない。
ここは、一種の『病院』であることに留意してほしい。

ここは、おしゃべりの場所ではない。
ここでの本業は、あなたのエゴの摘出手術のみだ。

だから、自分が健康だと思うなら、そしてどこかの体系で治療中なら、
来ない方がよいだろう。また、ちょっとの病気なら、
別のところがいくらでもあるだろう。

・・・・・・・・・

あらゆる哲学、神学の回答といえども、
回答に対する『さらなる、なぜ』というものは永久に続く

我々人間の最も反省すべき点は、我々は『真実』を求めているのではなく、
常に自分の感情や判断力と『折り合いのつく論理』に落着させる悪癖
あるということである。

しかし本当に論理的真実を求める者は、その真実を受け取った時に、
それを受け入れるという資質が必要になる。

自分が望んだ方向の結論ならば受け入れるが、そうでないものは、
受け入れない、という態度は特に『哲学』では決定的な障害になるのだ。

あなたは知らされる真実によって、自殺しない資質が必要になる。
つまり、真実に殺されないだけの資質が必要になる

・・・・・・・・・

あなたが、至らなかったら、すべては無駄なのだ。
だから、満足させるのは、あなた、たったひとりでいい。
その、あなたの中に現実というものがあるのだから。

他人というものを外にいると思い込むことから「布教という幻想」が
生まれる。しかしあなたの存在性に変容があれば、
布教という幻想は消える。

そして、その時にしか、助けというものはない。
それ以前の助けは、どう言ったところで自己満足にすぎない

そもそも、助けがなんだか知りもしない無心さというものが、
自然界のあらゆる調和の原因でもある。


私が見性する前、私は修行者というよりも、哲学者だった。
私は修行したり、その効果がどうのこうのの以前に、
私が行こうとしている道が、本当に行くべきものなのか、という
その問題が最大の私の探求方向だった。
もしもそれが見付かったら、私は、どんな修行でもしただろう。
しかし、どこのセラピーやチャネラーや宗教にも属することが
出来なかったのは、その正しさの根拠について誰ひとり説明できなかった
ことだった。ありきたりな説明ならば、ゴロゴロしている。

だからまず神話や宗教の中に私はそれを探った。
共通点はあったが決定的な回答はなかった。
現在地球で『宇宙の根拠と目的について、説明できる』と自負する分野は、
実は一般仏教にはなく、神智学と言われる東西の宗教をゴタ混ぜにした
ような教義にある。
かなり多くの者がその教義の説明を鵜呑みにしてしまう。
だが、これもまた『では、それはどうしてか』という疑問の連鎖の前には、
全く無力なのだ。(『廃墟のブッダたち』を参照)

そして、EOイズムの結論は、そもそも、生き物であるかぎりは、
どんな高次元の魂へ至ったとしても、
『苦は、発生しなければならない』のだから、
苦を発生ゼロにする方法は、完全死する以外にない、ということだった。

だから、本当の仏教とは、完全に消えるための方便であるから、
世界に愛着のあるもの、自分の存在に意味があると思うもの、
善なる道があると信じる者、何かの正しい方向があると信じる者、
存在を支持する者、・・・これらは分類上は仏教徒ではない

仏教徒とは次の世界、未来を完全否定し、拒否し、最後の生物体験に
決着をつけるための修行(というより経験)をする者のことだ。
したがって、宇宙や神や輪廻など、本来は仏教の修行では問題にしない。
論理背景としては問題になるが、しかし、いったん修行に入れば、
もう神も宇宙も数学も知ったことではない。

その時は、現在たった今ここ、希望の全くない無心、
いま、ここが修行場になる。
行脚する必要もなく、巡礼の必要もない。

どこにいても、あなたの今いる『そこ』こそが寺院だ。

・・・・・・・・・

中途半端な思想や教義や神秘学は、
人間にとって常に単なる精神安定剤にすぎない
しかし究極の疑問は、人間にとっては精神錯乱剤になる。

そういうわけで『他に道がなかったから』、というのが私の変容の唯一の
原因の説明である。
もし『それ』が起きなかったら、確実に自殺していたか、発狂である。
悟るか死ぬか、2つにひとつしかなくて、死ななかったのだから、
起きて当然のことが起きただけだった。

ところが、世間の、そしてあらゆる探求者は違う。
悟らなくても、死なないし、自殺しないし、狂うこともなく、
『平均的生存』へのちょっとした不満から探求を始める。

確かに私も以前はそうだった。そんなにせっぱつまったものではなかった。
しかし私をせっぱつまらせたのは、生きている根拠、原因、意味が
まったく、なくなってしまったことだった。

たとえば、あなたには現在、修行とか解脱という、それなりの希望がある。
だから、何かを日本でやろうとしたり、外国のアシュラムへゆく。

しかし、そういうものが一切ない人間が、まったく何もする気がなくなり、
毎日、いつ死ぬかだけを考えるという状況に追い詰められた場合には、
その本当の絶望の煮詰まりと繰り返しの中では、
希望というものが、本質的に落ちて行く瞬間がくるものだ。

そして、もしも本当の修行者ならば、絶望の中では「悟りという希望」が
まっさきに落ちる。だから、たいていは、僧侶は『修行というエゴを全部
捨てた瞬間』に大悟し、いままでの修行のバカらしさに笑う。

そして本当の無欲というのは、そういう苦の嵐の中でその基盤の土壌を
作って行くものだ。
だから悟りへの希望があるかぎり、それは不可能だ。
たとえ、それが解脱であれなんであれ、その期待、希望こそが思考を作り、
善悪を作り、それこそが仏性の生きざまに背反する結果となってしまう。

希望なく、生きること、死ぬこと。達成欲なく、生きることと、死ぬこと。
あらゆることをやって、なおも挫折し、人間性そのものが、どう修行した
ところで救われないように、そもそも出来ているということ看破・・・・。
ここまで来たときにのみ、本当の『身心脱落』が起きる。
それ以前には、どんな瞑想も、単なる一時的な静寂でしかない。

・・・・・・・・・

ひっきょう、大悟の最後の要素はなんなのか?。それは、ひとつだけだ。
それは「必要性」だ。
悟らなければもう生きられないし、死ねもしないという、
八方ふさがりの苦が続いていること

だから私は悟った時、それは自分の努力ではないと、まっさきに理解した。
それは人間としての最後の切札、最後のものが、
もうそれ以上は潜伏しているわけにはいかず、
それ自体で浮上してきたのだった。

だから、それは私の仕業ではなかった

人が悟るなんて、そんな事は大嘘だったのだ。

悟りが人になる、というのが正しいのだ

人は悟りになることはない。逆だ。

悟りが人になるのだ

・・・・・・・・・

探求というものは実は完全なエゴを必要とするのだ。
それは最後まで『あなた本人だけを助ける』のがその動機であるべきだ。
その個人的な動機を、誰かのためとか、人々のためとか、組織のため、
導師のため、あるいは過去のブッダのため、
というふうにすり替えることは断じて許されない。
そういうものが、これまでに幾多の戦争を生み出したからだ。

世界でもっとも戦争回数の多い宗教は、キリストとイスラムだ。
それはこの宗派の探求が、個人的な成熟よりも
「組織的な団結力や他人への影響力や強引な愛」を押し付けた結果だった。

もうひとつは日本の仏教もそうであるが、
この宗教が「社会と折り合い」をつけることが出来たという点だ。
これが意味するところは、それらの宗教は社会にとって無害であり、
時には政治がそれを利用できたほどに「世俗的」だった、ということが
ある。
しかし、たいていの場合、本当の法というものは社会に絶対に折り合いが
つかない。それは、もともと生存を促進するためのものではないから
である。

・・・・・・・・・

死人禅の行法というものは、個人がひとりでやるということを前提に
作られている。指導すべきことなど、私には、もう、なにもない。
以前にはあったかもしれない。それは説明不足だったためだ。
しかし、今は『ほとんど』ない。

・・・・・・・・・

大悟から1年の間も私はなにひとつ座禅もやらなかった。

私にとっては、座禅することなどよりも遥かに大切だったのは、
よく眠ることだった。そして、十分に怠けるということだった。

それは、目的のために何かをやる、という、
それまでの私の習慣との完全なる断絶だった。

なにひとつも、やるべきことはなく、だからこそ、
幸福と平安で圧倒されそうだった。

どんな人間にも、どんなに悲惨な人間や、病人や、無目的な人にも、
何かひとつぐらいは、やりたいことや、やるべきことがあっても良さそう
なものだ。だが、私には、そんなものは見当たらなかった。

一体、ここにただ、存在している以上に何が必要だと言うのか?。
存在を維持する最低限の衣食住だけでも私には宝だった。

・・・・・・・・・

さて、私に言わせれば、本当の瞑想的な空間とは、
『非宗教的な空間』のことなのだ。

本当に確かに大悟した導師の元ならば、それは瞑想的空間になり得る。
また自然環境ならば、それも瞑想的になり得る。
自然環境がなぜ瞑想的かと言えば、それは美しいからではない。

まったく逆だ。
自然では、我々は無数の『死体』や死を見るからだ。
自然は、どんどん死んで行くという、そのことを思い出すためである。
人間の中にいて他人や釈迦からの、
ただの借物の知識で無常を口にするよりも、自然と共にあれば、
生老病死などは日常茶飯事のことだからだ。

・・・・・・・・・

本当の探求というものは『苦』の実感なしには、あり得ない。
それは、究極の偉人さや大悟者を追うという趣味の延長であってもならず、
宗教的ヒーローの追っ掛けであってもならず、
また、それは人生からの逃避であってもならず、
それは、絶対的に、あなた個人の『苦』から始まるべきものだ。

しかし、世の中の人だって、『私だって苦しんでますよ』、と言うだろう。
ためしに、あなたは誰か友人に、「私は苦みがあったので仏教やってます」
と言ってごらんなさい。

あなたは間違いなく彼らに『あんたバカかよ?。何をしみったれてんのよ。
別にあんただけじゃないのよ』と言われることだろう。

人は「自分の悩みは特別なものだ」というエゴを持つことだって
出来るものだ。
実力で他人に勝てない場合は、なんと「悩みの大きさで勝とうとする」。
いわゆる卑下慢である。

傲慢は、もっていることを自慢する。
一方卑下慢とは「自分のほうが惨めなんだ」、と
これまた自己主張をしているエゴだ。
なんとしてでも悲劇のヒロインでなければ気が済まないようなバカな女性
は世の中にけっこう多いものだ。
こういう人達の苦などに耳を傾ける暇は私にはない。

また、挫折や、無能さから宗教に走る人達もいる。
普通のことが普通に出来ず、他人にバカにされ、劣等感を持ち、
とうとう、ふてくされていたところへ、
『みんな救われます』などという言葉にひっかかって、
そういう教えに甘える者たちだ。

こういう組織はすぐに単なる「傷のなめ合い集団」に成り下がる。
自分たちは「無能者の集まりだと自覚して」静かにパーティーでもやって
いればいいものを、彼らは、とうとう世界や他人を説教することにまで
手を延ばす。
もともと落ちこぼれた集団なのに、なぜ、こうなってしまうのだろうか?。
それは、その彼らのパーティーの教義の中心には、イエスやらブッダやら、
そういう伝説上の『保証人』が居座っているからだ。

こういう者たちは自分で自分の苦をなんとかするという道を選ばずに
すでに誰かや社会が保証した路線に相乗りするという安易な道を取るのだ。

つまるところ、一体この人達は、何が欲しいのだろう?。
こうした宗教的な集いに集まる人達は、一体本当は何が欲しいのだろう?。
実は、この人達の欲しいのは、真実でもなければ、法でも修行でもない。
この人達が、本当に欲しいのは、

『自分が確かに生きている実感。
あんたも生きている意味があるんだよ、と言ってくれる他人や教え。
そして、自分が存在している確認を出来るもの。
自分の存在が無視されないような環境。
自分が奮闘して元気になり人生を楽しめる課題を与えてくれそうな教え』に
すぎないのである。

だが、これらの動機は、まったく『探求者』のそれではない。
これは、あきらかに『世間の望み』だ。世間の方針そのままだ。

従って、いわゆる内面の幸福や、幸福な現象や、自己存在の確認、
生きている実感や、自分が無視されない環境、こうしたものは、
いとも簡単に、『宗教的商売』として成り立つのだ。

そして残念ながら、個としての上座仏教徒そのものは別としても上座仏教
の『組織』となると、その動機のある者が実にたくさんいるようだ。
だから、彼らはあとあとで必ず問題をひき起こす。

・・・・・・・・・

私は何も知らない。
そして、あなたたちは、知っている。
だからこそ、これがあなたとブッダたちとの違いなのだ。

あなたは知っている。だから到達できない
私達は知らない。だから、到達している

存在性の悟りとは、「知る」ということとは一切関係がない。

いわんや絶対無ともなれば、悟ることとすらも関係がない。

それは体験のみによって明らかになる。
だが、それは、ちょうど私が今、ここでこれを書いているように、
常に『体験中』なのであって、分析されるような過去のものではない。
それは繰り返すものではない。科学のように、再現できるものではない。
論理化できるものではない。

だから学者や僧侶や弁護士のように、私の言動に振り回されてされて、
その是非や私の言動の矛盾や事実関係にこだわる「お利口さん」にはEO
は決して理解できない。
また、ある文化的傾向にあまりにも染まりすぎた者もEOを理解できない。

・・・・・・・・・

世の中には一環したことを語る導師たちは腐るほどいる。
それは上座仏教もしかり、普通の仏教もしかり、キリスト教もしかりだ。
彼らは「一環」している。なぜ、彼らが一環しているのだろうか?。
それは、彼らが『それ』を本当に『生きてはいない』からだ。
彼らは常に死んだものの中にいる。繰り返されるものの中にいる。
そしてそこから語る。

もともと死んでいるからこそ成り立つような思考や論理は人々には、
とても簡単に理解されるだろう。
死んだものは、死んだ者によって理解できるからだ。

しかし、『生きた教え』の香りは『生きた臭覚』を持った者にしか
理解できない。
そして、それは実は理解なのではない。比較宗教ではない。
それは、あなたに死んだ思考判断ではなく『生きた臭覚』を要求する。

そうすれば私が何をどう言っても、いかに矛盾した説法をしても、
あなたはEOを『嗅ぐ』だろう。

実は、EOはどこにはいなかったのだと。
彼は、何も語らなかったということを。
それこそが、EOやブッダたちの教えだったことを。
そして、あなた自身が、なんの努力も仏教も知らなくとも、
すでに、今、そうであることを。



◆なぜ釈迦は解脱したのか?◆  

釈迦が言ったから解脱や仏教が本当の道であるのではない。
釈迦が解脱したから、仏教が本当の道であるという事などではない。
全然、全くそんなことではない。

釈迦が解脱した、たったひとつの理由は、
彼が苦しかったからだ。・・・ただそれだけ。

彼は正しかったのでも優れていたのでもない。釈迦は、苦しかったのだ。

それも、あらゆる存在のすべて全部に例外なく・・・。
この他に釈迦の解脱にはいかなる理由もない。

この他に、釈迦が宇宙から消えるどんな理由もありはしない。
釈迦が消えなければならなかったどんな理由も、この他にはない。



◆個にふり戻されてこそ
 探求が始まる◆


ひとつ誤解しないで欲しいことがある。

私がポジティヴという精神世界用語を連発する者たちを徹底して批判する
理由の一つは、それが『全面的で無条件に』ではなく『条件付き』のもの
に過ぎないことに、彼ら自からがいつでも蓋をしているからだ。

何か自分を楽しませるような都合のいい情報やエネルギーにはポジティヴ
であっても、別の何かにはネガティヴであるというのでは
ポジティヴ指向を叫ぶ意味も全くあるまい。
そんな事をすれば結局は、自己矛盾に陥るのみであるし、
他人をも、そんな矛盾に巻き込んで苦しめるだけである。



◆悟りは命懸けの探求と
苦悩の拡大なしには不可能である◆


        悟りの道には原則というものがある。
        だが人々は、いつでもそれを忘れる。

原則1・・苦が拡大していなければいかなる方法論も役に立たない。
        苦が拡大さえしていれば他のどんな道でも到達できるも
        のである。『道は多く、歩むものは少ない』と言われる
        所以である。

原則2・・原則1の理由について。悟りは平均的な苦に対する抗体
        ではなく、最終的な苦と裏符号の位置にある。
        したがって、それを引きずり出す方法は、苦悩以外には
        ない。その悟りのレベルが肉体のものではない以上、
        その苦は苦行そのものでは発生しない。
        苦行の結果として思索に苦悩するなら話は別だが。

原則3・・故に苦が巨大に意識されていないのならば行法に問題が
        あるのではなく、原因は常に実習者の姿勢にのみある。


したがって、最初から、本当の苦に直面していて、その苦に満ちた状態で
私のところにくる者がいたとしたら、
その者は、ほんのわずかな公案と行法で悟ってしまうかもしれない。

だから、常に問題は弟子の資質にある。
ただ彼らには、他の実習者にはない資質があった。
それは「解決への欲望が強い」ということである。
絶対に満足がいくまでは、本人が決して納得しないということである。
ただし、絶対に満足が行くまで『あきらめずに突き詰める素質』には大い
に欠けていたのである。つまり、文句ばかりが多く、やることをやらない
というわけである。しかし、他の実習者たちときたら、その自分の状態に
対する「正当な文句」すらも、何ひとつ、ひねり出せない有り様であった
のだから、自分の意識状態を突き詰められるわけもなかったのだ。



◆命懸けの果てにあるもの◆

かつて、ダンテス・ダイジは彼の説法の中で弟子にこう言ったといわれる。
『命懸けになれる対象をたった一つでもよいから持って、それに向かって
突進しろ。{命懸け}というと何やら最近ではダサイことのように君たち
は思っているが、人間として、これほど当たり前なことはないのだ』と。

この『命懸け』で何かをやることはEOイズムでも強調されてきた。
ただし、それが世間でいう命懸けの意義と違うところは、
もしもあなたが命懸けでやった場合には、
その果てには必ず『空虚さ』に出会うからであるという点である。

世間の言う命懸けとは、命懸けの果てに「夢の実現」があるとか、
その命懸けのプロセスで「奮起すること」に変な意義を持たせているのだ。
しかしダンテスや私が命懸けという場合には、
もしも、あなたの命がかかれば、確実に自我が『滅ぶ』ことの出来る道が
そこに生まれる可能性があるからこそ言うのだ。

・・・・・・・・・

ところが、なにひとつも命懸けにもなったことのない人間は、
決して限界というものに直面することもなく「なんでも流れのままでよい」
などと口先で言い続けながら、鈍重な機械人間として終わるのみである。

・・・・・・・・・

そういうわけで、闇にしても、死にしても、いかなる公案にしても、
座禅にしても、行法にしても、問題は方便そのものにあるのではなく、
それに取り組む者に『苦があるかないか』という問題のみである。

公案にも行法にも問題が何ひとつないという証拠のひとつは、
かつてある公案で大悟した禅の話があったとして、それと全く同じ語句を
あなたたちが聞いても、あなたには何も起きないからである。
公案は当時と同じなのだ。
違うのは、弟子の状況のせっぱ詰まり方なのである。

「命懸けであること、大きな苦があること、限界点にきていること」、
これらは、あたかもまるで体育系のキャッチフレーズのように聞こえるが、
悟りもまた、それがある種のエネルギー現象である以上は、
もともとそれは知の道などではなく、
そのプロセス自体は体育系的・・というか『力学的』なものであるのだ。

たとえば、EOイズムにおける知性や哲学の使い方にしても、
それは知性そのものを発達させようとはしていないからだ。
そうではなく、知性がもうそれ以上理屈が存在できないように
あなたの、その小利口な屁理屈の論理を「限界」までへと拡大させようと
しているのみである。

そういうわけであるから、探求者たちは道に不満を持つ以前に、
何ひとつも「真剣になれない自分」にこそ不満を持つことである。

只管打坐も、死人禅も、クンダリーニ・ヨガも、どこも欠陥はない。
また、公案ひとつにしても、そこにあなたの命がかかれば、
嫌でも、それは本当の最後の公案にもなり得るのだ。

だから常に、導師はあなたたちに向かっては、ある種の失望の意をこめて、
『豚に真珠、猫に小判では全くお手上げだ』と言わざるを得ないのだ。
しかしそれでもまだ、あなたが「いまさら苦を拡大するは嫌である」とか
「そんなことは面倒である」と、言うのならば、
我々からの答えはたったひとつである。

それならば、あなたには変容どころか小さな変化すらも起きはしない。
      そんな者は誰ひとりとして到達など出来ない。

         全く何も起きないと断言できる。
  だから無駄な修行やワークへの参加など、もうやめたほうがよい。

      悟りが顕在化する大前提は苦の存在である。
       その前提抜きには絶対に悟りはあり得ない。

        苦もなく悟った・・・そんなことは、
  かつて、ただの一度もなかったのであるし、今後も決してない。

    最後に、あなたを「絶望という聖なる静寂」へと誘うのは
       あなたのすべてを賭けた探求心なのである。

           だから、もしもあなたに、
     情熱や命懸けになる対象すらもないのだとしたら、

      あなたには瞑想という未知なるゲームに参加する
        初歩的な資格すらもないということだ。

             あなたの自我が、
         こっぱみじんに粉砕されるほどの
    『完全なる絶望』こそが、瞑想の真の秘儀なのだから。



                 EO



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