『EOイズムの概要』
哲学から悟りへのアプローチ




1/ *****EOイズムの本質*****
BY:EO




私は歴代のいかなる祖師たちも言わなかった事をはっきりと言っておく。
これはEOイズムの本質中の本質である。

私は、悟りを良き状態とは認識していない。
また全ての生命が最後にそのようにあるべきだ、
などとは全く認識していない。
この点で私はいかなる過去の祖師たちとも全く異質な認識を有している。
歴史上の祖師たちの誰もが、悟りの状態を絶対幸福として称賛し、その為の何かを世間
に対して行ってきた。
だが私の観察によればそれは誰にでも起きるものでは断じてなく、
また単なる努力の量によって起きるのでもなく、
人類のほんの一部の者にしか起きないと断言できる。

そしてそれが起きた結果として、それが他人や社会に何か平和的で創造的な結果をもた
らすなどとは認識していない。
それは、本人ただ一人の安楽な死を保証するのみである。
そして、悟りはそれが本当に顕在化しなければならないような時には、
本人の努力によるのではなく、自発的に、必然的に生まれるものである。

又それは一般の人々や瞑想者には全く不要な出来事である。
またそれは一般の人に「ここへ来なさい」と言えるような理想状態ではないと私は痛感
している。

それは我々のような、特殊な心理的病魔に侵されてしまった者にとっての
最後の治療法のようなものであるとすら私は認識している。

確かにそれは静けさと安らぎに満ちているが、
その為に、人間が支払うべき代償はあまりにも高くつくものとなる。
それは「魂を捨てる」という事ですらあり、
感情ある生き物にとっては耐えがたいものとなる。
・・・・・・・・・
悟りが本当に必要とされるのは、修行僧でもなく、宗教家でもなく、
愛や幸せを求める人間でもなく、瞑想者でもなく、自己放棄という自己満足の為に人々
につくそうとする者でもなく、芸術家でもなく、病人でもなく、セラピストでもない。
それが本当に必要なのはたった2種類の人達だ。
それは『真実を求め過ぎた狂人たち』と『妥協なき哲学者』のみである。




2/ *****妥協なき哲学者たちへの助言*****



昨今流行りの新興宗教やチャネリングといったものは、
いわゆる高次元世界への転生を目指すための進化だの、やれ精神の成長だのをスローガ
ンにしている。
常にそれは地球や人類の改良だの改善にばかり力を入れている。

しかし、もしも改良や改善にあなたが目的を置くならば、
ここで「極論」というものを持ち出してみるがいい。
「極論を持ち出して考えろ」ということはEOイズムの基本のひとつだ。

EOイズムでは常に「極論」が持ち出される。
誰もが「これが目標だ」といっているその目標が達成されたら
「その次はどうするのか?」
「進化が達成されたら、さらにその次の進化はどうなるのか?」
「その次はどうなるのか?」

それまでには、膨大な天文学的な時間がかかるだろうから今はそれは考える必要はない」
という論理はEOイズムにはない。

常に、「究極」を問う場合には、そのプロセスにどれだけ膨大な時間がかかるかは問題
ではないのだ。プロセスにどれほど時間がかかろうがその時は来るのである。だからこ
そ、ひとつの進化が達成されたその時に、
「次をどうするのか」を考えるわけである。
そこで、次のさらなる進化が待っているとしたら、
『それは何のためなのか?』。よく考えてみなさい。

「そのうちいつか世界はなんとかなるだろう」などと言ってはそのプロセスを楽しむ事
で、誰もが、存在そのものの意味を問うというこの「根本問題」から目を避けようとし
ているにすぎない。しかし、根本問題というものは、究極の問いなのであるから、それ
は、
「宇宙がどこに向かうのか、どこから発生して、
宇宙の最終目的はなんであるのか?、そのために意識や肉体としての存在の自分は一体
何をやったらよいのか??」と問うべきものである。

では、そこで次のように考えてみるがいい。
仮に今の精神世界でまかり通っているような目的が全部達成されたとしてもいいだろう。
波動の高い世界とやらが達成されて、だからなんだと言うのだろうか?。
みんな楽しくやっていたとしたら「その次のヴィジョン」はどうなるのだろうか?。
また宇宙の最高責任者(あなたの大好きな神様やら仏様やら宇宙意識とやら)を、あな
たの想像力の中にでっちあげて、そいつと論議しなさい。
「理想的な宇宙が実現されたあとはどうするのか?」と。
「そのあとはどうなるのか?、そしてそんなことをしていて一体何になるというのか?

結局は存在の目的はなんであるのか?」と、
「そいつ」に徹底的に問い続けなさい。
・・・・・・・・・
この宇宙では地球よりももっと素晴らしい次元世界や霊的世界や惑星があるのだと、あ
なたはどこかで吹き込まれたわけであるから、そういった本でも読んで、もっとどんど
ん探索して進化して楽しんで、修行して、
そういう世界に没頭して、そうした次元がおもしろいと思えるかどうか、
どんどんとやればいいのだ。

もっとも、それらの霊的次元と呼ばれる世界が素晴らしいのだと思い込んでいる人間達
が、こんなにもたくさんいるからこそワークショップやら書店の精神世界コーナーが流
行るわけである。
また、いろいろな組織が仏教という看板をかかげていても、そこには常に、未来へのヴ
ィジョンや価値観がある。また未来に価値をおかない場合には、今度は「今ここの気付
き」だの、覚醒だの、内観だの、自己改善などというものをもって来たがるものだ。

そうして楽な存在、高次元存在、高い波動の存在やら宇宙人のような存在や悟った存在
になるのが正しい事だ、などと思い込んで、今まであなたたちは精神世界に首を突っ込
んできた事だろう。

ならば、究極的な理想が実現された世界を極論として想定してみなさい。
さて、「そのあとには何があるのか?」・・・と。

「こうしろ、ああしろ」と精神世界や導師たちにあちこちであなたたちが言われ続けた
ことを、もしもあなたや人々が「その通り全部やってしまったら」つまり人間を卒業し、
さらには究極的な宇宙的課題を「卒業」したら、
「その後はどうなるのか」を考えろということだ。

絶対の理想とは「どんなもの」であり、それが「実現化したらそのあとは、どうするの
か?」「なんのために実現するのか?」と考えなさい。
「本当にそうしなければならないと断言する根拠はなんであるか?」を考えなさい。
それを実現するためには、どうしたらいいかではなく、
理想が実現されたら、それが「だからなんなのだ?」と考えろということである。




3/ ****真実を求め過ぎた狂人たちへの助言****



1/まず、地球上の伝統的宗教のものであれ、異星人や異次元や高次元からものであれ、
いかなる教えも安易に信じるな。そして、まず何よりも思索すべきことは、宇宙はどう
して存在しているのか?というあなたの生命の原因、またはその生の目的についてだ。
この問題について、もしもあなたには考えられないのであれば、あなたは、自分が何を
「個人的に好きだとか、嫌いだ」と言ってもかまわないが、決して、何かを「正しいと
か、間違っている」とか翌日から他人に言えない事になる。なぜならば、いかに小さな
世界の中で正しいとされる事も、究極的にも正しくなければ、もともと物事の正誤・是
非を他者に言う資格はないからだ。

2/あなたの思索による結論であれ、宗教からの借り物の結論であれ、自分と存在宇宙
の発生の原因と究極の目的に関して、もしも「ひとつの答え」が出たと思ったら、『で
は、それは何のためか、その原因は何か?』と思索をさらに続けて、決して安易な結論
によってその問いを止めてはならない。

3/すると、神や宇宙意識が宇宙を作ったとか、あるいは何かの創造意志が存在を作り
出したとか魂が進化をするためだとか、どこでも耳にするようなそんなつまらない結論
に陥りそうになったらば、そこで『なぜ存在を作ったのか、何のために作ったか、なぜ
進化するのか』を自問するべきである。
あるいは、単に「唯物的な自然法則だけが宇宙を作った」という考え方でもいい。では、
その『最初の宇宙の法則はなぜ存在し、そして何のためのものなのか?』と考えるとよ
かろう。

4/どんな結論が出て来ても、あなたの全知性と思考力を集中して、存在の理由につい
て妄想し、夢想し、推測し、分析し、問い続けるがいい。
『それはなぜか?』と。

5/そしてもしもあなたが本当に心底思索に疲れたら、ちょっと一休みして、全く視点
を変えてみなさい。
あなたが、生きるためにやっている事、生きながらやっていること、個人的に好きでや
っていること、人生の目的としてやっていること、
そして本能的にやっていること、そしてあなたや社会がやっているすべての事を『もし
もやめたらどうなるのだろうか?』と。
すると、その答えは『自分の生命力が弱まり、ついには死ぬ方向へゆく』、
または『万物が滅びる方向へゆく』という事実が見える事だろう。

6/そして、もしもそうだとするならば宇宙の万物は、どう理想や言い訳(つまり宗教)
をでっちあげたところで、つまるところは、『無』にならない為にそのすべてが作られ
て運営されていることになる。
すなわち、宇宙の『存在目的は存在を維持すること』そのものだけである。

7/ここで、ひとつ、宇宙のすべてのものが「動いている」という事を見てみるがいい。
では、動きとは何だろう? 
するとそれは、歪みつまり「アンバランス」によって生まれているものだと解るだろう。
そして、歪み、苦痛、アンバランスは宇宙に意識を持って存在するすべての万物に、不
足感、不満感、そして『飢え』を作り出す。そして、その飢えをどうにか満たそうとし
て、あなたも万物も動き回るのである。
すなわち飢えの『苦』こそが活動の源泉であり、飢えるという苦痛は宇宙の活動の維持
には「必要不可欠」なものである。
そして、ときおり、バランスが元に戻るが、それはあまりにも「つかの間」である。ま
るで音をならし続ける弦のように、存在物は上へゆけば下へゆこうとし、下へゆけば上
にゆこうとして揺れ続ける。
生命とは『まず飢えるように作られた上で、
飢えて苦しみ、もだえて動き、宇宙の各次元に活力を提供する』という事にすぎない。

8/さて、ここであなたの生き方は二つに別れる。
その繰り返しを楽しみと感じる事ができるのであれば、
あなたは宇宙のすべてを肯定して、永遠に生まれ変わりながら生きてゆくがいい。

しかし、もしもその繰り返しをもうやめたいと、本気で死滅を望み、解脱を決断したの
ならば『死人禅』の行法をやるといい。

9/ただし、死人禅は、絶対に悟るために行ってはならない。
死人禅は、神秘体験や安定した心や、幸福を得るためにやってはならない。
死人禅は、いかなる意味でもあなたの社会適応能力を教育したり、
あなたの活動を活発にするために行うものではない。
自分を空虚にして宇宙から消えるという目的以外のものは、
それが「何であれ」、何かの「期待や目的」や「好奇心」をもって死人禅を行ってはな
らない。

それは、あなたの知性や判断力や、感覚や感性を限りなく削り、
『もうこれで私には何もない』というまでの空虚さと、
「非在性」を実現するだけの為にのみ行われるべきである。


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4/ *****全ての常識を疑い、そして考え抜け*****



あなたが本当の探求者であるならば、決してやってはならない事がある。
それは物事や常識の中に「当然のような顔をして」そこにひそむ「前提」というものを、
「鵜呑み」にするという事だ。これだけは断固として避けられねばならない。

存在している世界や自然界、あるいは輪廻する魂としての自分の存在には、
それが存在しているからには、「その存在には何か意味や価値があるはずだ」という、
この「実に奇妙な前提」は精神世界では最も軽薄かつ危険なものだ。
精神世界ではなくとも一般世間でも、これは暗黙の了解のようになされている前提だ。
「人間は生きるに値するものであり、人は他の単純な動物とは違う・・・」などと。

そこで、そもそも「価値」というものはなんであるかについて、まず考えてみるとよい。
人々が、あるいは宗教の神が言う「価値」というものは、そのすべてが、
『利用価値』であることをまず洞察するといいだろう。

価値というものは、「利用されるかされないか、利用に値するか値しないか」という事
を前提につけられるものだ。いわばそれは『商品的な価格』の事だ。それが思想であれ
電気製品であれ、悟った聖者であれ、少数の者にとっての価値であれ、大勢の者にとっ
ての価値であれ、誰かにとっての「利用価値」があるかないかという事が物事の価値と
いうものの本質だ。
だから、今後「価値」という言葉を誰かから聞いたときには、どんなに美化したり言い
訳を言ったところで、それは『利用価値』のことを言っていると覚えておくとよい。

さて、そうすると、原則として価値というものは、単独で存在するものではなく、
『値踏み』をされた品(つまり、あなたや世界)と、
それに『値踏み』をした利用者(あなたや他の誰か)の存在がそこにある。

しかし、ここで問題であるのは、
利用者と被利用者では、価値感覚が全く違うことがしばしばあるということである。

たとえば、あなたは人間の精神活動、あるいは世界の存在がなんらかの価値をもってこ
の宇宙に存在し、またその宇宙における肉体的活動と精神活動に貢献している、などと、
あなたは、どうせ、どこかの本でそんな観念を仕入れてきた事だろう。
さて、そうなると「誰がそれ(つまりあなたや世界という存在)を利用するのか」の問
題が問われてくる。

ここで、たとえばあなたという宇宙での部品を、養鶏所の「食用の鳥」だとしよう。
それはそれを利用する側の人間にとっては価値がある。つまり食用としての価値であり、
そこには売買するための値がつけられている。

ところが、逆に鳥の彼らにとっても人間は価値ある存在、という事になどは決してなら
ないのは明白な事だ。
確かに、彼らが生きるための餌は人間から毎日与えられる。だが、そもそも彼らは
「養鶏所で自分たちを大量生産してくれ」などと人間に頼んだ覚えは全くないのだ。
それは人間の『勝手』つまり人間の都合と利用価値に基づいて行ったことだ。
さてそこでこれを全宇宙や自然という名の「産業」にあてはめてみるとよい。
あなたや万物という鳥は、神(宇宙の創造者または管理者)にとっての利用価値がある
かもしれない。
だが、だからといって、「逆も真なり」ではないのだ。
あなたにとって神が利用価値があるという事は必ずしも成立しない。

仮に神が存在全体やあなたに愛や生命力や、知恵や生命法則という餌をやり、その成長
をはぐくんでいたとしても、それはまさに「何かにあなたを利用する事」を前提に行わ
れているものだ。
つまり、端的にいってしまえば、神は、別にあなたの為にあなたを生かしているわけで
はないし、被造物の為に世界を作ったり運営しているのではないという事である。
これは、人間が「鳥の為を思って養鶏所を作ったのではない」のと全く同じことだ。

こうしてみると神(あるいは何かの宇宙的意志)が万物を作ったからといって、そして
鳥たち(万物)の生命を支える毎日の餌を神が与えているからといって、それを恩義と
して感じる義務などは被造物にはないのである。
なぜならば、そんな事をしてくれと誰かに頼んだ覚えは被造物の側にはないからだ。

ところが宗教とは、その前提からして、勝手にこういうのだ。
「おまえら(万物)を作ったのは私(神)だ。
おまえらを育てているのも私だ。
おまえらの命は私の手中にある。
したがって、私の言うことを聞け。
言うことを聞いたら、餌(楽しみ)をもっと増やしてやろうじゃないか。
とはいえ、まぁー別におまえらが言うことを聞かなくとも、私は寛大なのでおまえらを
許してやろう。(だって、言うことを聞こうが、聞くまいが最後は商品として売れて、
食事として食える事には変わりはないからな)・・・と。

これは人間が養鶏所の鳥、あるいは畑の農作物に対する態度と、基本的にはどこも変わ
りはあるまい。

このように、存在の価値というものは、
高度な宇宙的理念や宇宙意識や宇宙的法則が、そこにあるから、
というようなただそれだけの理由でつけられているものではなく、
「誰かがそれを利用できるか、それとも出来ないか」という事でつけられている
「商品的価格」の事だ。

あなたが趣味として夢中になるために利用できる、物や人物や体系や論理、あなたが自
分の空虚さを穴埋めするために利用できる物や人物や体系や論理、あなたが自分の生存
に有利に利用出来る物や人物や体系や論理、
あなたが自分が楽しむために利用できる物や人や体系や論理、
それらが思想であれ、宗教であれ、製品であれ、導師であれ、
そうしたあなたが自分のために「利用できるもの」に対してあなたは心の中で「値踏み」
をする。これが価値というもののすべてである事は、くどくど言うまでもない事だ。

あなたが、自分の存在や世界の存在に賢明に価値や意味を見いだそうとする衝動は、
結局は、何をどう言ったところで、
あなたが自己満足するためのものでしかないのである。

また、そうやって仮に発見された価値があったとしても、あなたが満足する価値とは、
あなたにとって利用できる価値でしかなく、
普遍性というものはそこには決して望めない。


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ところで精神世界、あるいは修行体系などという馬鹿げた領域にそうした「価値」を見
い出して、あなたがそこに首を突っ込むに至る過程には、
いくつかの種類というものがある。

1/普通のことが出来ずに、普通なみになろうとする時に、普通にやればいいものを、
普通に出来なくて、何をするにも「精神性という防具」をつけたがる馬鹿のゆく道。
この場合の本人の目的は、どう口実を言ったところで、
「普通並みになること」にすぎない。
(大勢で徒党を組むような宗教信徒やワークショップにはこの手が有り余るほど多い。)

2/普通の生活の中に見て聞いて感じた世界が、そのサンプルがあまりにも劣悪なもの
ばかりだったために、
普通の世界という事に「信頼をおかなくなった」馬鹿のゆく道。
この場合の本人の目的は、どう霊的な世界を持ち出して口実を言ったところで世界に対
するその本人の「信頼心の回復という、あさはかな幻想的な目的」でしかない。
(人道主義だの人々を救うだのと言う幻想にとりつかれた者たちにはこの手の族が多い)

3/普通のことは、そこそこ満足のいく状態だが、恒久的な満足や安定感が足りないと
いう不満をブツクサと他人や自分に不平をもらし、時には世界に恐れを持ちながら、な
んとか自分が契約できそうな「精神保健」を探して、あちこちをうろつく馬鹿のゆく道
。この場合の本人の目的は、どう口実を言ったところで、退屈をしのぐことと、自己防
衛の武装を固めることでしかない。
実際には武装と保険を解除するほうが、退屈しのぎの為に有効な技術であることには全
く気がつかないという馬鹿が多いものだ。
(修行者、あるいは軽い好奇心で精神世界にかかわる者にこの手が多い)


4/生まれたその最初の時点からして普通のことに全く「興味がない」、という生まれ
つきの精神障害者(不具者)のゆく道。この場合の本人の目的は、どう口実を言ったと
ころで、魂を自殺させる事でしか成就されない。
(ごく稀にだが哲学者、あるいは精神病患者の中に稀にいるタイプ)

・・・・・・・・・
これらの結果として、しばしば生ずる愚かな行為


人間というものは、本当に「独自のもの」を生み出す事は稀だ。
したがって過去に存在した人間の生き方の中で、「マシな生き方」をしたと、あなたが
勝手に思い込んだ人物への「模倣」あるいは「羨望」ということがなされる。

「模倣」ならばまだしも本人がその模倣に向けて行う「努力」というものがそこにある。
だが単なる羨望や共感から、時にはその体系や人物の「単なる取り巻き」や「協力者」
としてそこに参加することにより本人自身のための探求という下駄を預けてしまう者が
多い。これが、あらゆる宗教や新宗教の周辺で起こっている代表的な愚かさのひとつだ。
多くの者は、一種の「人間の理想的状態」というものを勝手に頭の中に作り上げる。し
かし、「その理想状態というものを厳密に定義してみろ」と彼らに言うと、それは実に、
あいまいとしたものである。
また、仮に理想状態というものに関する詳しい説明を延々と彼らにさせたところで、そ
れは常に本や他人からの借り物の情報を、勝手にその本人が
「組み立てたもの」にすぎない。
おうおうにして、その情報は、全くの好みで勝手に組み立てるものだから、
その元となった教義にすら似ても似つかないものである場合が多い。
・・・・・・・・・
さて理想という点では、地球には大ざっばに分類すれば4つの理想しかない。
1/ひとつは、極論すれば行動や知識において完璧に『自由』になろう
(すなわち神、または悪魔・・・つまりは全能になろう)とする体系。
自我の極限的発達を目指すもの。【神智学、あるいは魔術や小乗仏教などは、この手の
族に入る。】

2/もうひとつは、いちいち努力するのが面倒なので、自分の言動の基準を、『ある限
られた範囲の時空間の法則』に同調させて、下駄を預けてしまおうとする体系。無我の
発達を目指すもの。【TAOや禅、大乗仏教などはこの手の族に入る。】

3/3つめは、1と2の間に適度な和解を設けて、個人意志と全体の意志をその場に応
じて使い分けようとする「虫のいい話」でできあがっている体系。
【ニューエイジ系やチャネリングから沸いた宗教に多く、もっともいいかげんな族。そ
れは、要するに早い話が、自分が何かで困ったら、その時だけは神頼みして、別に何も
困らなかったらエゴを貫いてやろうという「世間教」なのである。】

4/4つめは、存在する世界のすべてに見切りをつけて、解脱しようとする体系。【原
始仏教、およびEOイズム、または一部の哲学者たち。】



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5/ *****哲学を除外した導師たちの過ち*****



どこを見ても、ろくな探求者はいない。彼らは全く半端な知性であり、瞑想も半端だ。
和尚(バグワン)の犯した最大の誤ちは、哲学つまり「考え抜く」というワークを除外
したことだ。このワークは通常のエソテリックサークルでは「瞑想の一環」として当然
組み込まれているものだ。思考が正常に機能しなければ人間は正常な光明への基盤を作
れないのは常識だ。第一バグワン自身が大学では哲学博士であったはずだ。彼はもとも
とは完全な無神論者だ。そしてその徹底した懐疑精神があればこそ、何者も、そしてど
んな教義にも彼に「信仰」という逃げ道を与える事が出来なかったのである。
確かなもの以外は信じない精神とは、それはただの拒絶や否定精神ではなく、考える事、
そして経験的に洞察することからしか生まれない。それは彼自身が通った道であり、
その「重要性」は彼自身が一番よく知っていたはずだ。
にもかわらず、私に言わせれば彼の弟子たちのサニヤシンは男女ともに非常に頭が悪い。
徹底して頭が悪い。どうしようもないほど頭が鈍くて悪い。
その主原因は、やれハートだノーマインド、波動が高いだの、低いだのと、自分勝手に
部分的なつまみ食いをしては、思考という重大なワークから逃げ続けたために、人間と
しては一種の「不具」になってしまった事だ。


*****丹田を鍛えろ*****
そして、彼らのもうひとつの特徴は、いわゆる「腹」が全く出来ていない。丹田という
ものは何も「気」を練るためだけのものではない。丹田というものに莫大なエネルギー
がなければ思考は使えないのだ。思考、それも単なる思考ではなく哲学のように「持続
的に」何カ月も、あるテーマについて自問自答するという気力と集中力は丹田が発達し
ていないと不可能なのものだ。
しかし丹田がろくに発達していない人間は、まず一定期間同じ思考を続けることが出来
ない。「まぁー、別にいいや、考えても分からない、頭が疲れた、結局は無心が正しい
のだ」などと口実をつけて逃げてしまう。実際には単に彼らは気力がないだけなのだ。
だから考え抜く頭を持つには、まず土台として丹田を徹底的に鍛えることだ。
丹田が出来ていない者のインテリジェンス
には独自性がない。ただ本で詰め込んだ知識の組み合わせしか彼らには出来ない。また
丹田が出来ていない者のハートは貧弱で誰もまともに本気で愛せない。またセックスも
弱い。基盤としてのエネルギーがなければ結局はその上に位置する諸中枢は正常に機能
しない。こういうナヨナヨしたサニヤシンやクリシュナムルティーの弟子は実に多い。
また単に腹だけしか出来ていない者は今度は頭が悪いときてる。だから、まずは腹でも
鍛えることだ。

しかし私が最大の力点をおくのはそうして鍛えた力を必ず思考へと注ぐ事だ。それをし
ないがために、瞑想によって、精神科へ送り込まれたサニヤシンを多く知っている。彼
らが精神科の世話になったたったひとつの理由は、瞑想のやりすぎでもなく、霊的に異
常があったわけでもない。彼らは頭が頑強でなかったのだ。光明のエネルギーが通過す
る場合には実際にそこで必要になるのは、その衝撃に対して破損しない脳だ。正確には
脳ではなく思考力だ。思考力がなければ絶対に光明には至らない。哲学する精神なくし
ては、絶対に光明には至らない。だからどう和尚が女性の受容性を称賛したところで、
実際問題となると女性が光明を得ることが少ないのである。

実のところ女性というものは、男性よりも腹に関しては恵まれている。ダンテスが言う
ように、女性はもともと腹など鍛える必要がない。子宮という形ですでに腹は出来てい
る。一方男性は後天的に丹田は作らなければならない。だから、女性は本来ならば既に
思考を駆使するだけの十分なエネルギーを持っている。だが、彼女たちは決してそれを
使わない。この原因は、せっかくの腹のエネルギーが生殖中枢や感情中枢に流れ込んで
しまうからだ。
私は性に関しては、全く否定はしないし、むしろその満足は十分に経験されるべきだと
常日頃から言うが、しかしそれは同時に性エネルギーの上昇をも自在に可能である場合
にのみ限られる。同じことは無論男性にも言える。


*****哲学をしろ*****

さて思考のワークというもの、つまり考え抜くという事を、すっ飛ばしたために、光明
という花の土台部分が欠けてしまう。思考中枢は光明の重要な土台だ。腹やハートばか
り出来ていても、光明が起きるサハスララの真下にある土台としての思考中枢がなけれ
ば建物は、ひっくりかえってしまう。
だがこれがひっくりかえってしまった者が実に多い。クリシュナムルティーの弟子もし
かり、和尚の弟子もしかりだ。また禅や他の仏教体系の弟子もしかりだ。無心だ座禅だ、
ワークだ、瞑想だと騒いでもそれらすべてを支える基盤は頑強な思考力だ。ただしそ
れは記憶力ではない。単に知識を詰め込んだところで、それは思考した事にはならない。
それではただの読書家だ。
そうではなく、あなたはまず、一人の独自な哲学者にならねばならない。
それも哲学の本を読むということではなく「自分で」考えるということだ。
真相が全く知られていないし、誰も公にはしないが、あなたたちが知っている覚者のほ
とんどすべては、前世ではすべて哲学者だったのだ。彼らは論理の地獄の中を生きて来
た。あなたたちは彼らの表面的な姿だけしか見ないために、彼らが前世でどれだけ苦悩
してきたかを全く知らない。
メヘル・ババ、ラマナマハリシといった、一見すると温和で全く思考人間ではないよう
な彼らでさえも、その前世では強烈な論理との戦い、つまり絶対真理を知性で探求する
という道を通って来たのだ。
TAOの者たち、特に荘子がそうであるしブッダもだ。何よりも、クリシュナムルティ
ーも和尚も彼らは覚者であると全く同時に哲人でもあるのは明白な事実だ。彼らはただ
の酔っ払いじゃない。彼らは光明という酒も持っているが、自分の頭を醒ます「気付け
薬」も持っている。
バーナデット・ロバーツでさえも、彼女はその探求の旅の中で、絶え間なく自問と苦悶
と自己検証を繰り返している。彼らは単なる瞑想家ではない。
彼らは、瞑想漬けになっているだけではない。
彼らは常に、自分や宇宙の問題について、強烈なほど考えてきたのだ。

こうした思考の基盤がなければ、最上部の頭の通路のパイプが形成されない。思考する
とは、単に悩むことではない。単に妄想することではない。単に、心配事を増やすこと
ではないし、単に知識を詰め込むことではない。また、単に神的なイメージに憧れて奇
麗事を妄想することではない。思考するとは、テーマを決めたら何カ月でも、たったひ
とつの問題について考え続けるという集中力だ。そして単なる集中力ではなく可能な限
り論理的であることだ。また同時に自分で自分の考えそのものを疑いながら考えを進め
てゆくことだ。


*****思考は図式化しろ*****

重要な事は、考える時には、図面を書くことだ。ただ頭の中で言葉をならべて考えても
それは時間の駄目だ。スケッチブックを用意して、思考した事を短い文章のブロックに
して、それぞれの思考内容を枠で囲うのだ。次にその枠から矢印をひいて「その思考は
どうして出てくるのか」「どうしてそう思うのか」と別の枠の中にその原因と見られる
思考を書く。そして、その原因の思考のそのまた原因の思考を枠で囲う。こうしていく
うちに、枠で囲われた短い言葉とそれを結ぶ沢山の線が出来るだろう。それは、まるで
「思考の航空写真」だ。それはあなたの「思考の回路図」だ。頭というものは一回にひ
とかたまりの思考しか認識出来ない。だから、だらだらと独り言を言い連ねて思考して
いても何の役にも立たない。しかし思考を「図面」にしてみると、それは時間的なもの
として動いている思考ではなく「空間的に固定された思考」に形が変わる。つまり思考
は図面にすることで建築物のようになる。すると、思考のその全体構造や「関係性」が
見えるようになる。

紙の上に書くといっても、作文のように、だらだらと文章に書くのは駄目だ。だから、
スケッチブックが必要になる。それはある程度の面積が必要だ。
思考の回路図は、だんだんといろいろな枝に別れて行くから、十分な余白が必要だ。そ
れはどう展開するかあなたにも分からない。だからテーマはまず最初に「紙の中心」に
書くことだ。そして、その思考に対して発展する次の思考や疑問、またはその思考の原
因など、いくつかの思考のブロックとそれをつなぐ線で構成することだ。このようにし
て、自分の思考を図面として「上空から見る」と、あなたは、自分の思考の中に意外な
見落としや、何の疑問もなく、うっかりある前提を持ち込んでいた事に多く気がつくだ
ろう。当たり前に習慣的に考えていた事も図面にして思考を(感情の流れとしてではな
く)「構造」として見ると、なんで、こんな事を疑わなかったのかと思うような部分を
発見するだろう。だから哲学をする時には大きめの紙を用意して、思考をブロック化し、
あちこちに線を引き、いろんな角度から考えることだ。そして物事について考える時
は3つの思考のガイドを併用する。

1/その『原因』は何か(なぜ何のため?)
2/もしもそのまま発展させて『極論』するとどうなるか(結局は?)
3/全く反対の説を想定する(逆だったら?)


****闇は哲学の母体だ****

さて次に必要なのは、闇の瞑想だ。哲学にどうして闇の瞑想が必要なのかと、あなたに
は理解できないかもしれない。瞑想と思考は別のものだとあなたは考えるだろう。だが
根本疑問に向かう場合にせよ、身近な問題について考えるにせよ「前提」を破棄するた
めには闇という無の母体が役に立つのだ。
あなたは、常に物事を『途中から』考える癖がある。だから闇の瞑想をすることで、途
中ではなく「根源から」考えることが出来るようになるのだ。
たとえば人間は、他人の「死」を見て、はじめて「生」を問うことがある。「死」を見
たからこそ生きるという事がどういう事なのかの疑問が浮上する。これと全く同じよう
に、「宇宙の死」である絶対の無というものに出会う事がなければ、あなたには「存在」
を哲学することが出来ないのだ。
光や形として形成された宇宙や存在をまず念頭において、そこから世界とはなんだろう?
存在とはなんだろう?などと考えても、結局あなたの行き着く先は「神はなんでも許
している」などという馬鹿げた結論になりかねない。そもそも思考をするあなたが闇や
無の立場にいなければ、期待や前提というものを、哲学の中にうっかり持ち込むことが
あるからだ。

だが、闇が持ち込まれることで、あなたの哲学は透徹したものになる。
なぜならば、あなたが自分の存在理由や、宇宙の存在理由に、どんな答えを出したとこ
ろで、常に「アンチテーゼ」としての無が対抗してくるからだ。つまり、世界や自分を
どう結論づけたところで、無の闇は必ずあなたに、
次の問いを示す・・・「では、それはなぜなのか??」と。
闇には底がない。底がないからこそ、その問いにも際限がなくなるのだ。
「あー、こういう事だったのか」、とあなたが何かを結論したとしても、
闇は無言であなたを脅迫する。「では、それはどうして《ある》のか?」と。たとえ何
が答えとして登場しても闇は『その答えの存在自体』を問うという特性がある。仮に世
界の最初に神、あるいは何かの宇宙意識がいたとしても、闇にとってみれば、それらは
形あるものだ。しかし形のあるものは無形のものには勝てない。だから、無や闇の体験、
あるいは概念が入り込んだときに、始めてあなたの「問いは終わらないもの」になる。
そうでなければ、どこかで適当な安心感を得られる「嘘」の中にあなたは安泰してしま
うだろう。

だが、それでは哲学にはならない。ニーチェやカミュが言うように徹底して疑い、自分
を慰めるような結論をしないという頑強な精神が必要となる。
そして、それを支えるのは無の闇だ。無だけが、永遠を問うことが出来る。
『では、それはなぜなのか?』と。なぜならば、何が世界の答えとして出現しても、
無の闇には、たったひとつの言い分があるからだ。それは、
『そんなものは、無くてもよかろう?』
『それがあるからといって、それがどうしたというのか?』というものだ。無と闇だけ
が「根底」を問うことができる。根底から問われなければ哲学は意味をもたない。根底
から問うことをしなければ、それはワークにならない。
だから、EOイズムでの哲学作業には、闇の瞑想は必ず併用されるのである。
また、思考に対してそれを「客体化」して分析するという力は、実は眉間の中枢ではな
く「前頭部」の働きを必要とする。そういう点でも、闇の瞑想は前頭部を使うので非常
に役に立つ。眉間と前頭部では、同じ頭部でもそれは作用する次元が全く違う。眉間は
ただの思考だ。それは発明や想像には役に立つ。だが眉間の中枢にはある限界がある。
それは、思考それ自体を客体化できないことだ。思考が客体化されるためには、前頭部
の中枢が機能しなければならない。また世界を哲学するのではなく「意識とは何か?、
自己の主体とは何か?自分がいるというこの感覚はどうして生まれるのか?」といった
実存的な問いをする場合にも、前頭部が機能している必要がある。

*****以上を要約すれば、次のようになる*****

1/男はまず腹(丹田)を鍛え、思考に持続力と集中力を持たせろ。
2/次に男女とも、エネルギーを必要な時に上昇出来るようにしておけ。
 (死人禅の幽暗行がよい)
3/前頭部と眉間の両方を酷使して哲学をしろ。(闇の瞑想も役に立つ)
4/その場合には、かならずスケッチブックの上で思考地図を作成しろ。
5/そして結論が出ても、気力の限り、どこまでもさらに問い続けることだ。

こうした思考力の基盤の上に立って、はじめて洞察が可能となり、
そして思考というものが本当の意味で切り離される瞬間も起きるのである。
だから本気で哲学しない者は光明を目指す資格も資質もないのだ。

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