『EOイズムの概要』
瞑想から悟りへのアプローチ



***『火の道』と『氷の道』***



あなたがもしも、人格円満だの、人当りでも良くなりたいのならば、
どこかの「話し方教室」へでも行くなり、カウンセラーの所へでもいくがいい。
また、あなたがもしも、何かの能力を開発して他人より勝りたかったり、劣等感を克服
したいのならば、どこぞかの能力開発教室や密教道場へでも行くがいい。
また、あなたが社会から支援されたいのならば、とっとと、どこかのボランティア活動
にでも行ってしまえばいい。
またあなたが悟った人物を見てみたいとか会ってみたいとか、
あるいは彼らに協力したいというのであれば、それはただの『宗教の追っかけ』『グル
・ストーカー』だ。

しかし悟りの道だけは、そのように扱えるものではない。
それが困難である原因は、それ「について」の何かを少しでも思ったその瞬間に、即座
に悟りから外れてしまうからだ。

他のどんな道、どんな宗教、どんな訓練も、これほど逆説的ではない。
どんな訓練も、それについて考え、創意工夫して上達してゆくものだ。
どんな宗教も、それについて思いをめぐらし、信心を維持し、戒律を守り、
印を結んでマントラを唱え、願い事を祈ったり、お勤めをする、行いに気をつける、
などといった行為、すなわち、あなたにはやる事や、やらねばならない事がある。

ところが、唯一、悟りに関してはそれについて、何かを思った瞬間にそこから外れてし
まうという宿命を持っている。言うまでもなく、なぜそうであるのかは、
悟りが「無心」という背景、そして「心の沈黙」という基盤によって成り立っているか
らだ。いにしえの中国の禅師は言う。
『悟りについて語り、かつ考えるのをやめるがいい』
『悟りへの囚われさえも脇道だ』、と。

いささかでも、悟りについてのイメージ、期待、そして確認や反復などをすれば、即座
にそれは、無心という基盤から離れてしまう。
それどころか、悟りへの「関心」ですらも障害になる。

無心、それは、世間あるいはいろいろな宗教が示す達成目標の中でもとりわけ異質なも
のであり、そもそも次元が違うものだ。
どんな難題でも思考は考えられるし、どんな奇麗な天国や極楽もイメージできる。
また、精神を集中すれば、むろん限界はあるものの、何かの現象を引き起こすことも出
来る。しかし、どうしても思考には不可能なことがある。
それが無心、すなわち「心の完全な沈黙」だ。

無心に関してだけは、「ありとあらゆる思考と関心」が障害になる。
経典はむろんの事、導師の存在への依存心や、導師の言葉、法友の存在、
それについてのあらゆる教え、あらゆる言葉、そしてあらゆる批判、
その何もかもが、無心への障害となる。

古き中国の禅寺では、経典を読むことを禁じていたという事実もあるぐらいだ。
それについて語ることさえ禁じている寺もあったことだろう。
しかしそうした寺こそ、本当に大悟した師が存在し、本当の意味でのあらゆる配慮が行
き届いた寺であったのだ。
・・・・・・・・・
悟りについては、考えたところでどうなるものでもない。
いや、むしろ考えれば考えるほどに遠ざかってしまう。
無心ということについて考えてしまうのも無論、同じ事である。
それどころか、僅かにちらりと悟りについて関心を向けただけでも外れてしまう。
しかし、これはなんらの謎でもない。無心と沈黙が悟りの本質なのだから、
その沈黙と無心の中には『例外』というものはないからだ。
「悟りについての事だけは沈黙を破って話してもいいだろう」などという事はないので
あり、「悟りの問題についてだけは思考してもいい」などという事は断じてあり得ない。
しかし、多くの寺や道場、そして探求者は、常に例外的思考というものを作り出す。
「これについてだけは、考えてもよかろう、いや心して考えるべきだ」などと。

だがもしも、本当に真っすぐに悟りを目指したいのならば、あなたは、真っ先に、悟り、
仏道、無心、こうしたあらゆる概念とイメージと価値観を忘却しなければならない事は
言うまでもない。そうした思考そのものが、そもそも無心には反するからだ。
・・・・・・・・・
だが、もしも遠回りをしたいのならば、考えるがいい。
私は考える事を否定はしない。
むしろ、思索、それも徹底した哲学的思索は、EOイズムの重要な片足だ。
ただし、考えるならば、徹底して、あらゆる事を疑うことだ。
あらゆる前提、あらゆる問題について「本当にそうなのか」と毎日毎日決着がつくまで、
何年でも考え続けることだ。

EOイズムには二つの路面がある。
考えるという道は『苦の地獄』を通ることになる。
なぜならば、とことん考えれば、あなたは必ず苦しくなるからだ。
だが、その苦しみの大きさ故に、突然にある日、あらゆる考えがすべり落ちて、
おおいなる無心が残ることがある。

それはある意味で、とてつもなくドラマチックな変容だ。
だがこれは苦の地獄を通ることになるために、いわば『火の道』と呼ぶべきものだ。
あなたの苦は、全面的な思考によって極限まで「過熱」される。
ただし、この道では、あなたが自分でその進路を作って行くのだ。
あなたには思考の自由がある。
あなたは、自分の力だけでその道をゆくことになる。
誰からの命令でもなくあなたの意志でだ。

そして、もうひとつの道は、『氷の道』とも呼ぶべきものだ。そこではあなたは『死の
地獄』を通ることになる。その道は、いわば無心へと直行する道だ。
ある意味では思考の道よりも近い。だが、ある意味では逆に遠くて困難でもある。
思考の道では、あなたの自力、あなたの自由な思考力、
その強烈すぎるほどの「集中的思考力」が原動力になる。

だが、「死の地獄」である無心の道では、あなたには自由意志などない。
むろん、それは他人や導師や寺の命令に従うということではない。
そうではなく、そもそもそこでは「意志それ自体」が障害になるのだ。
「思考それ自体」が障害になる。「探求心すらも障害」になる。
だから、これは「死の道」と呼ばれる。

あなたはまさに、思考の死、意志の死、目的の死へと向かうことになる。
別名「氷の道」とそれが呼ばれる所以は、ここではあなたは過熱されるのではなく、
「冷却」されて生気を奪われ、これでもか、これでもか、というぐらいに、
何ひとつも、希望や理念を持つことを許されないからだ。
・・・・・・・・・
哲学の道、思考の道では、「これも考えろ、あれも考えろ、すべてについて考えろ」と
いうのが、原則だ。
一方、無心の道では「これも考えるな、あれも考えるな、一切何も考えるな」、
というのが原則だ。この二つの道はまったく違う。
ただしそのどちらも「全面的」に行わねば効果はない事だけは覚えておく事だ。

悟りに至ろうとするならば、
徹底した全面的な思索か、徹底した全面的な無心、
そのどちらかしかないのである。

そしてもしも無心を目指すなら次の方法は役に立つ。
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****死という扉****



悟りそのものの中には、技法などは一切存在しない。
しかし、ある技法の中に深く入ることで、瞑想者自体のその記憶や動機や強迫観念が消
え去ってしまう性質の方法がある。

悟りにとって本当に役に立つ技法というものには原則がある。
それは、その技法の向かう指向性が「生」ではなく『死』へと向かっている場合だ。
唯一、死の中でのみ、記憶、そしてそれが生み出した目的や理想はその出番を失うから
だ。どんな技法を使ったところで「生きる為の技法である」という前提があるかぎりは、
その生を、あれこれとやりくりしようとするのはあなたの自我と記憶だ。
しかし、死に対してだけは、自我は何ひとつも、やりくりは出来ない。
死から逃げるためならば、自我や記憶は何でもやることだろう。
だが、死へと『入る』ためには、自我も記憶も理想も、全く何の役にも立たない。
また、死へと入るとき、それらは必然的に失われて行く。だが、大きな問題は、
あなたはそれに対して、必ず恐怖と疑惑を持ってしまうということだ。

こうした『死』へ向かう技法の中では、あなたは時には全く何もかも思い出せなくなり、
目的、希望、動機といったものが消失することがある。ただし、それは、
何かに夢中になって過去や記憶を「忘れる」という方法なのではない。

そうではなく、死へと向かう「沈黙」の途上で「必然的に過去を思い出せなくなる」と
いう事が起きるのである。
その忘却は、わざとらしく意図したような忘却ではない。
それはむしろ、不可抗力的な忘却だ。
忘れようと努めるのではなく、思い出せなくなってゆくのである。
だから、そうした技法の中では、自我は次第に弱まってしまう。

死人禅の技法の、特に『闇の瞑想(接心3)』は、もともとは最後のとどめを刺すため
のものだった。
頭頂留意の技法だけでは、目的や記憶の忘却は不完全なものになる。
だから、闇の瞑想だけを8日間行う期間を、年に数回は設けてみることだ。
闇の瞑想があなたの中に深く刻まれた時、つまり闇にあなたが交わって無との融合を始
めた時にのみ、あなたは根源の母体との『一体性』の中に入ってゆくのだ。
しかし、それもまた困難な道になる。
あなたは、「全く生きた心地もしないような道」に踏み込むことになるからだ。

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****無気力こそが扉になる****



闇の瞑想による無気力化にせよ、思考と狂気が限界に達して力尽きるにせよ、
精神の『死』以外には完全な心の沈黙が実現される事はない。
座禅などしたところで、それが死の次元を含んでいないかぎりは、決して何ひとつも起
きはしない。
死こそが心の沈黙の鍵だ。まさに『死人に口無し』である。
・・・・・・・・・
さてあなたは、生きるためには何かの目的を持って奮闘する事を今まで社会や家庭で教
育されてきた。
何かの目的を持つ事は、生きるために必要不可欠なものだっただろう。
目的とはつまりは、あなたが人生を生きて「動く」ための「口実」のことだ。
だから、もしもあなたから、やるべき事や、やりたい事というものが失われると、
「こんな状態では生きていてもしょうがない」ようにあなたには思えることだろう。
こうした不安の一瞥は、誰にでも起きるものだ。
たとえば何かの目的が達成されたあとに「次はどうしようか」と考えた時に、
自分の目的を喪失してしまった場合。
あるいは目的としていたものが意に反して突然に失われた場合の目的の喪失。
そしてそれまで熱中したものに飽きてしまった場合などだ。
こうした目的喪失の時、あなたは自分を「動かすため」の口実を失ってしまう。
だから、何かとりあえず、目的を作ってそれに向かって動くことであなたは虚無感から
逃げようとする。

自分が無価値で、「生きていてもしかたない」という思いから逃げるために、
あなたは自分が動くための何かの目的を、なんとか探そうとするだろう。
その目的の中にむろん、座禅も含まれる。

このように目的というものは「動くため」のものだ。だからこそ矛盾が起きる。
つまり、それは「止まるため」には決して使いものにならない、というこの単純な道理
をあなたは考えないのだ。

目的というものはA地点からB地点へとあなたが行くためには役に立つだろう。
だが、「停止という目的地」などはないのだ。
なぜなら停止とはA地点のことだからだ。
だから「停止するためにはあのB地点へ行かなくてはならない」というような論理は通
らない。
それにもかかわらず、あなたは停止すなわち無心になるために、今現在、あなたがいる
A地点から「無心というB地点へ行く事」を目標になどしてしまうのだ。

停止とは、そもそも「A地点から動かない」という事なのであって停止点という「別の
場所」があるわけではないのだ。
だが、こうした誤解が結局は「無心に向かう」などという動きを作り出してしまう事に
なる。しかし無心とは目的地ではない。それは目的を持って動いているあなたそれ自体
の停止、あなた自体の喪失なのだから。
・・・・・・・・・
さて、もしも『闇の瞑想』が進んだ場合、あなたは極度な無力感に襲われるだろう。そ
れは、どこからどう見ても「このままじゃ、自分は駄目になる」としか思えないほどの
無力感と無気力状態を生み出す。
なぜならば、闇の瞑想は、あなたが何十年も熱病のようにとりつかれていた、
あらゆる人生の目的を急激に冷却するからだ。むろんその目的の中には、いわゆる光明
や無心といった目的も当然ふくまれる。

従って、あなたは「もはやどこにも行き着けない」という徒労感や、
「全くどうにもならない行き止まりになった」と必ず思うだろう。
そして時には肉体的にも衰弱や無気力が襲って来て、身体を指一本動かすことすらも出
来なくなる場合もある。
そしてあなたは「これではまるで生きていないかのようだ」という感覚に襲われる。
その結果あなたは「これではマズイ事になる」と考えて「動き出してしまう」のだ。
これが原因で、多くの者が光明を逃してしまう。

だが「悟りは、もうすぐそこですよ。もうじきですよ」などという感じがする世界が、
あなたを光明に突入させるわけなどがあるはずがない。
それはあなたの精神的な「死」なのだから、どこからどう見ても、
「完全に駄目になる。もうここで終わりだ」という感じがして『当たり前』なのだ。
だが、その恐怖のために、多くの者がそこから逃げてしまう。
しかし、そこまで駄目にならねば、あなたの自我が死ぬことはないのだ。

光明が起きる前には、確実な兆候がある。それは「全く自分が生きていない」
「自分は、まるで死人のようだ」と実感する地点があるものだ。
だがこの時になって、始めて、あらゆる目的というもの、自我というものが落ちる。
なぜならば、すべての行動や思考や探求は「自分が生きていると思っていること」から、
始まっているからだ。

あなたはまず「自分が生きている」という感覚がして、それゆえにあなたは
「その生の中では、何かをしなくてはならない」と思い始める事になる。
しかし『死の感覚』の中では、もはや何もする事はない。

生きていると感じればあなたには「やらねばならない事」があれこれと発生するだろう。
しかし「自分が死んでいる」と感じる者には、やるべきことなどは何もなくなってしま
う。
「今の瞬間にどうあるべきか」などという、そんな事すら死人には関係ないことだ。
死とは究極のリラックスであり、
唯一死だけが完全な「無緊張」の状態だ。
・・・・・・・・・
これゆえに『死』という次元がなければ、一切の障害が落ちることは断じてない。
どれだけ激しく長い修行を重ねたとしても、心の完全なる『死の経験』なしには決して
光明は起きない。誰がどう反論してもそれは事実だ。
そして、それは明らかに「自分が死につつある」「もう死んでしまった」
「駄目になってしまった」という強烈な実感を伴うものとなるのは確実だ。

そして、いったん「自分が死んだ」と感じたら、
あるいは「自分が死人のようだ」と実感したら、その瞬間に、全く突然に
『あなた以外の』あらゆるものが完全に生き生きとした世界に変容する。

あなたが「自分が生きている」と感じるうちは、
存在との間にはいつでも曇った障壁が挟まっているのだ。
だが、あなたが全くのお手上げで「全く生きていない」と感じる時、
本当に心の中の何もかもが死んでしまったと感じるとき・・・
その時になって、ようやくあなたは『自分に足りなかったのは修行ではなく、
「死」だった』という事実を痛感する。

つまり生きている実感こそが障害だった事を痛感する。
そうした変容の時、そこにあるのは「あなたが生きている実感」ではなく、
「生そのもの」の実感となる。

それは「あなたの」生ではなく、「生それ自体の生」だ。
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***悟りは宇宙の企画方針とは逆行する***



一般に人類が神と呼んでいる機構が人間に感染させた最大の病気は『退屈病』である。
この宇宙は、細分化と運動の複雑化に向かうことを「ある時期に」決定した。
では、統一的な全体を細分化する最大のメリットは何であるかを見れば、それは明らか
にそこから生まれる「動きの複雑さ」である。端的に言えば「単純さに飽きた」という
のが、現在のこの宇宙の中に生きる生物の創造とその改良作業の発端であったのだ。

考えてもみるがいい。宇宙にたった二つの陰と陽しかなくその二つの車輪が単に回転を
している情景などは、誰だって長く見ていられるものではない。なんでもそうであるが、
パーツを増やすこと、回路(仕組み)を増やすことによってこそ複雑な動きが発生する。
・・・・・・・・・
宇宙の細分化は人間がコンピューターを発達させたプロセスに非常によく似ている。
人類が現在、絶えまなくコンピューターに対して行っていることは何だろうか?。
それは、とにかくやたらと密集したスイッチを増やすことだ。
その「動機とは何か?」と言えば「複雑な事」が出来るようにするためだ。処理能力が
単純化に向かうコンピューターなど存在しない。そんな物は商品として成立しない。
コンピューターの商品価値とは、より複雑な動きが出来ることであり、人間を「退屈さ
せない為」にのみ作られるからだ。そして加えて多くの部分が「自動化」されることだ。
つまり処理できる「現象は複雑に」、ただし「操作は簡単」にというわけである。

もしかしたら、自分は宇宙の中の単なるマイクロチップ、あるいはそれどころか、
スイッチの一つか、導線のひとつにすぎないのではないか、などと、宇宙の中での自己
の存在位置について、被害妄想をする者もいるだろうが、残念ながらそれは非常に正確
な洞察でもある。
宇宙が退屈しのぎに、複雑な動きを見てみようとしたために、原初にひとつであったも
のは無数の位置(座標)に分化された。その結果、たかが2つの陰陽の車輪がマヌケに
くるくると回っている情景からは信じられないほどの複雑な車輪の動き・・・あたかも
まるで時計の内部構造のような宇宙世界が出現することになったのである。ただしこの
「宇宙時計」の場合には、あなたという歯車がひとつ抜けたところで何の支障もない。
・・・・・・・・・
余談だが、正確に言うと宇宙で最初の車輪は、実は2つではなく3つであった。
つまり、最初の分化は、陰陽の2極ではなく、拡散・収縮・とその境界の3つである。
あるいは、光・闇・分化の支点の3つでもよい。定義などは何でもよいだろう。
ちょうど、陽子、電子、中性子のように原初には常にまず「3つの部品」が作られる。
そして、その「回転方向に2つの方向」が設定されて、ここで始めて陰陽が生ずる。
こうして3パーツに各2種類の方向性が与えられて合計6つの動きのパターンの個別性
が発生した。したがって宇宙に最初に存在した創造の化身がヘキサグラム型の6体であ
ったという「かの宇宙史」はこの事を意味している。言い換えれば、この3部品が最初
の退屈病の感染者・・・つまり『宇宙最初の3馬鹿トリオ』というわけである。

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***動きのパターンに退屈しない為の細分化***



一般に、この工程は神の「創造」として称賛されているが、その発端というものは人間
が退屈から抜け出すために物事をわざと複雑に多様にするのと全く同じことである。
物事を複雑にするというよりも、変化と現象の動きを多彩にしようとするのである。
さて、そのあとは、めくるめく、ただの分化につぐ分化、個別化につぐ個別化である。
まるで人間が作るコンピューターそのもののように、動きのパターンに飽きないために、
常に改良され続ける。宇宙では基本的には誰も単純性など求めてはいないのである。

さて、当然のこととして複雑な動きを眺めたいという創造の意志にしてみれば、創造の
手間や管理の面倒さは省きたいものだ。そこで毎度考案されるのが自動化システムだ。
創造者が自分でその細部まで企画や設定をしなくとも、ある程度偶発的に複雑な動きが
作られるようにしたのである。全く同じことを人類はコンピューターにやらせている。
つまり、マンデルブロート幾何学などである。

また手間を省くためには個別化した生物に「学習機能」を設定することが必要となった。
ところが、人間にとっては最大の混乱(心理的葛藤)の問題はここで発生する。
人間以外のほとんどの動物は、非対象的な意識によって世界を認識している。
つまり内省機能なしで直接に根源と一致した意識の状態にある。彼らには自己意識がな
いために、言うなれば悟りしかない意識と言ってもよい。彼らは客体として悟りを知る
のではなく、彼らの中では「悟りそれ自身が悟りを認識している」とも言える。

悟りという意味に限定すればの話だが、バーナデットロバーツの言うように人間はその
「進化の最低の状態にある」と言うことも出来る。しかし、私は悟りを進化とは見なし
ていない。それは複雑性や多様性に向かう宇宙の方針からは、あきらかな「退化」と見
なしている。そういう意味では悟りというものは企画者側にすれば完全な『エラー』だ。
ドット数を増やして、飽きることのない動きの画面を作り出そうとする側にとっては、
なんの葛藤もせず、学習もせず、動くことすらしない悟りの状態の生物などは利用価値
がない。あるとするならば、せいぜいその周辺の個別化した意識が全体との一体へ回帰
した意識とは「どんなものだろう?」という好奇心と疑問と達成欲によって複雑に混線
した動きを増やしてゆくパターンが発生することである。つまり導師とその周りの弟子
たち、聖者と俗人との、その永久に結合しない運動パターンなどである。
・・・・・・・・・
さて、問題となるのは、自動化の中でも、とりわけ『学習機能』なるものだ。
人間が作るコンピューターの学習機能にも常に「基本的な命令」がある。
「何の為に自分で何を組あわせ、自分で検索し、自分で選択するか」がプログラマーに
よってあらかじめ決められる。これと同じように、「動き続けろ」という指令を成就す
るために人間に施された最大の機能は2つある。

ひとつは、既に述べた創造病の感染だ。つまり、神自体が持つ『退屈病』の特性である。
これを人間に発生させるために使われたのは、記憶を振り返ること、つまり内省機能で
ある。何度か同じパターンを反復した場合には、その経験パターンを記憶として閉じて
独立させ、早々に次の運動パターンや位置に移行するようにしたのである。
つまり、創造者が自分でやっている事を面倒であるので代行させたわけである。
つまり第一の指令とは、細分化の「さらなる増殖」のためには、同じ経験パターンを繰
り返すなという命令である。むろん安定して繰り返されるべきパターン、例えば生存や
生殖に必要な欲望や感情は、それはそれとして別に保存され機能し続けるのではあるが。
プログラムには固定部分と流動的部分があるのは、コンピューターと全く同様である。







****永久運動の要因となる自己発見欲の仕組み****



そして問題なのは、もうひとつの感染因子だ。それは、全体への回帰という飢えを作り
出すものだった。全体意識が個別化した枠の中に押し込められると、元の全体性に戻ろ
うとする欲求が生ずる。創造者はこれを知っていたために、ひとつである意識を、複数
の部品に分割して投入するのである。すると、その個別体はお互いに引き合うのである。
また、その分化もまるで家系図や木の枝のようであり、何も全体意識がいきなり無数の
意識に爆発して分化したわけではない。そして個別化したものは決して物質的形態ある
いは情報の形態としては融合は出来ないのである。
実は、それが融合できる地点がたったひとつだけ存在するのだが、それは個別化した魂
には発見出来ない盲点部分に設置されている。その地点は分化した意識の断片を投入し
た「入り口そのもの」、神が土くれの人間に息を吹き込んだ場所である。そして、
その分化した意識の核それ自体だけは、「対象として」は発見が出来ないのである。
この原因が存在するために、人間は自分の意識そのもの、主体そのものだけは見ること
が出来ない。つまり、自分の「本質だけは正確に感じ取ることが出来ない」のである。

成長してゆくに従って、人間は何か正確に定義できない世界との分離感覚を感じる。
世界という知覚そのものが、何か「よそよそしく」、本当の自分はそれらとは関係ない
ような気がしつつも、かといって完全に外界を無視することも出来ない。
また、自分自身の記憶や肉体さえも「よそよそしく」思え、自分は自分の記憶ではない
と感じる。つまり、外界も、内面もどれもこれも自分ではないと感じるために、
「何もかもが、よそよそしい違和感」は見るもの感じるもの、つまり生の全体すべてに
及んでいる。かといってその、よそよそしい記憶としての自己に影響を全くされないで
いられるわけでもないのである。
・・・・・・・・・
そこで、毎度おなじみの、『私は何か』という自己発見というゲームが開始されるので
あるが、多くの場合は、自己存在の意味の定義を外界に探してしまうか、もしくは、
内面に「絶対的な体験」としてそれを探してしまう。外界に探すのであれ、内面に探す
のであれ、そこに共通していることは「経験の対象」としてそれらを探しているという
事だ。しかし主体性とは「経験の基盤の核」であって、経験の「内容」ではないのだ。







****悟りに共通のプロセス*****



悟りとは、分化した意識が、いきなり元に戻るということだ。通常は分化した魂が次第
に戻るパターンが多い。つまり、ある意識の12体の分身のひとつとしてあなたが生き
ている場合には、まず残りの11体と出会って融合し、さらに、その融合した意識は、
当然別の大きな意識の分化したものであるので、それがまた次の融合に向かって検索を
開始する。これは、全く気の遠くなるような無駄な作業であると言える。
ところが、いきなり原初の意識に戻ることがある。
分化した意識でも、その「核」は絶対無であるために、それは全宇宙の母体自体である
からだ。つまり「いかなる細分化の位置」からでも、もしも、この「絶対無の核」との
一致がなされると突如として、細分化のゲーム、多様性への飢え、そして個別化の意識
が全体に回帰しようとする遊びは、そこでゲームセットとなってしまう。
既に述べたように、核は、もともと非相対的な主体あるいは絶対無であるために、対象
としては経験することが出来ない。唯一それが体験される方法は「一致」という現象に
のみよる。従って、存在の軸や存在の核に向かって、あとずさりするかのように意識の
視点を内部に向かって「引いてゆく」という方法が頻繁に使われる。
死人禅の『0.1秒の悟り』『存在感の認識の手前』の公案などはこの技法に入る。

一方一般には、この内部の軸に後戻りする場合は、脊髄やその中を流れるエネルギーを
扱う手法が多い。「経験対象」としての絶対的なものを探すのではなく、経験の軸との
同化によってその位置に達しようとする方法だ。
一般に内面を見るという場合には、あなたの視点は、中心にはない。あなたの視点は頭
の目の近辺あたりにあってそこから肉体の内部を凝視しているようなものだ。
しかし、視点そのものが身体の軸に「ひきさがる」場合には、もはや内面というものは
意識されない。そして軸そのものだけは、決して対象とならないという洞察に到達する。
これが、第一段階の悟りである。そこでは、知ること、見ることから在ることへの転化
が起きる。あなたは何も探すこともなくなり、誰でもない意識にとどまる。
初期には、その主体の視点は身体の軸にあるが、すぐにそれは頭頂へ向かって移動する。
こうした軸への後退、そしてさらに、上昇してある地点(頭頂)に視点が固定される事
の最大の原因として考えられるのが、対象としての無の体験あるいは完璧な内的無関心
の状態だ。内面にも外側にも、全く「対象としてしがみつくもの」が完璧になくなった
場合には、必然的に、視点は原点に向かってあとずさりするしかなくなり、それが元々
最初に注入された位置にいくしかないからだ。もっと正確に言えば、頭頂に悟りの核が
あるのではなく、頭頂に留意することで対象化作用が止まるために『一致』が起きるの
である。だから、何かへの関心がある状態、あるいは意図しなくとも、何かの関心にひ
っぱられている場合に、いくら視点を身体の軸や頭頂に無理に集中して固定しても無駄
である。もともとは、軸への後退や頭頂への移動は、認識の対象が完全に奪われた場合
に、おのずと自発的に起きるものだからだ。

したがって、大悟者たちのほとんどすべてが経験しているのは、探求心の終焉、関心が
完全に尽きた状態、目的の喪失、絶望感すらもない完璧な絶望、あるいは闇につぐ闇に
よる無の浸透などである。要するに、意識がもはや全く動けなくなるのである。
そこには、退屈感の回避をするための衝動のプログラムの影響もなくなる。
そして、真の自己という探求すらも完全に放棄した時にだけ、それは起きる。
そして、この「在ることの生」を十分に燃焼した場合には、第2の悟りが訪れる。
そこでは、主体は誰でもない意識どころか、意識ですらもなくなり、絶対無そのものに
視点のベースが移ることになる。この場合は在ることから、非在への転化が起きる。







****自我の死で何が失われるのか****



何が人間の根源的な不安や不満の根本であるのかを見極めるには、何の道具も知識も必
要ではないものだ。それは、ちょっとだけ座っていれば済むことだ。
あなたは、何の心配も特にないという状態で、まずは座ってみればよい。

よく観察してみるとよいだろう。あなたが座って目を閉じる。
たったのそれだけのことで、一体そこで、「何が始まるか」を。
するとあなたの中では、必ず『何か』が「うろうろ」と動き始めるはずだ。
よくしゃべる人間を黙らせると、落ち着かなくなるのを知っているはずだ。
また「思考をするな」と言うと、今度は注意力があちこちと移動しては、何かに耳をす
ませてみたり、自分の身体のどこかを感じとろうとする。

どんな人間にでも「共通する不安」が引き出されるような方法があるものだ。
つまり「30分だけ目を閉じて、何もするな、何も思考するな」と言われた場合に、
人間は「意識の置き場が分からなくなる」のである。
その時間の間「身体的に何もするな」という命令は、それはそれでいいとしても、では、
その間ずっと「どこに関心を向けたらいいのか」、「何に意識の焦点をあわせていれば
いいのか」が分からなくなり、落ち着けなくなるのである。
・・・・・・・・・
さて、その時、我々の内部では一体『何が』落ち着く場所を求めて「ウロウロ」として
いるのだろうか。その落ち着かない「何か」は「知覚のための意識」と呼んでもよいが、
ではその意識が対象を探してウロウロしてしまうのはなぜなのだろう?
我々は自分の知覚意識そのものの性質をあまり深くは洞察しないために、今日まで、こ
のウロウロする我々の意識を「どこに」落ち着かせるべきか、「何をすることに向ける
べきか」という問題とその技法にばかり囚われてきた。
しかし、それが「ウロウロする原因そのもの」を見ようとはしなかったのだ。
我々は、とかく、こう思いやすい。「思考はエゴさ。自我が問題だ。・・・だから、
意識的に注意してなきゃ、無心にしなきゃ」と。つまり、思考には問題があっても、
自分の『ただの意識』には「問題がないはずだ」と思い込んでいるのだ。
事実、その問題を指摘した導師もほとんど存在しなかったからだ。

しかし、そもそも知覚を生ずるこの我々の「意識自体に内在している性質」にこそ根烹R> 問題があったのである。
さてここで、もう一度、最初の観察に戻ろう。

我々は、行動を止めれば、おしゃべりに向い、おしゃべりを止めれば思考に向う。
そしてさらに、思考を止めれば、最後には何をするだろうか?
それは、かならず知覚の「対象物の検索」を始めるのだ。
すなわち、意識の中にある最大の「癖」、すなわちプログラムとは、
『意識の焦点の集中機能』つまり『たえず何かに関心を向けようとする癖』だ。
以下、これを『焦点機能』と呼ぶ。

だが残念ながらこの焦点機能は、宇宙的な規模の原因によるものなのだ。
意識の焦点機能は、生物の「生存」には不可欠だからだ。意識の焦点がバラける事は通
常では生存には不利になる。それでは餌の場所や危険も認識できないからだ。

また、焦点機能は、「動きの発生」の基本でもある。あなたがA地点からB地点に動く
ためには、あなたはまずB地点の位置に意識の焦点を合わせなければならない。そのB
地点が、あなたの生存に必要な食糧であれ、観念であれ、あるいは瞑想の
集中対象であれ、人生の目的であれ、なんであれ、動くためには、あなたは、
「まず目的地点に焦点を合わせる」のである。したがって、焦点機能は固定の原理であ
ると同時に、次の固定点への「動きを成立する原因」でもある。

そして、何よりも焦点機能は、そもそも物質宇宙や分割を作り上げた根本原因だ。
あらゆるエネルギーは、焦点を集中することで、凝固し、安定する。
したがって、焦点機能は、宇宙の物質化をも根底で支えているのである。
我々は、多くの場合、何かに集中するように子供のころから教わって来た。
また、集中することでこそ、成果や楽しみが得られると思い込んで来た。
そして、とにかく、何かに関心を持つように命令されてきた。
つまり、無関心な状態では駄目だと言われて育って来たのである。
だが実際には、関心の集中によって生まれるものは意識の「分割」と「苦」なのである。
集中性、それは物質次元、あるいは形ある霊的次元では、当然のことながら創造力を発
揮する。ところがそれに反比例して「意識の苦と分裂」は深くなってしまうのだ。釈迦
が「万物一切は苦」と言うとき、それは止まることなく輪廻して動いていると言う意味
であると同時に、その動きの原因は意識それ自体の「業」として内在しているという事
をも示唆している。

すなわち、そもそも、意識それ自体が、(光明という基準だけで言えばの話だが)、
その構造自体が、すでに「活動するために、常に何かの対象に必ず集中するように」出
来ているのである。すなわち、関心の集中こそが「執着」の根本だ。
集中と執着・・・この二つは同一のもの、全く同義だ。
それがなんであれ、どんなに精神的な理想や理念に対してであれ、
意識が何かに焦点を合わせている事、集中することが「執着」の本質だ。
そしてそれは、文字どおり「知覚される全世界を生み出している」原因でもある。
そして、「その関心の集中の度合」によって、苦の強弱もまた変化をする。
・・・・・・・・・
「苦」とは「落ち着かないことだ」というEOイズムの定義がある。
ならば、なぜ落ち着かないのかと言えば、そもそも我々の意識それ自体が、
常に何かに焦点を合わせようとするように作られてしまっているからだ。
「神学的」な表現で言えば、そうすることで存在世界という幻想つまり「神の娯楽」が
成立しているからだ。
通常は、身体感覚であれ、雑念であれ、本能であれ、無意識的な習慣であれ、
とにかく、何かに焦点をあわせて、我々も生物も生きている。
しかも、だからと言って、個別のものに意識は「固定したままでもいられず」に、次の
対象に焦点を移動しなければならない事も起きる。
つまり、意識の焦点は状況によっては「本人の意志に反して」その焦点を変える事を余
技なくされるケースが多々発生する。
そしてそのときは焦点の移動に伴う抵抗による不快感が我々の中に起きる。
焦点機能は、もともと区別がなかった全体的な意識を個別化した。
さらにそれぞれに個別化した意識は、自分がいったん関心の焦点をあわせたもの、たと
えば人格や記憶や娯楽に飽きるまでは、しばらくは「しがみつく」ために、
これが個別化をさらに進行させることになる。
その結果、あなたとは別の個別化した生命体や対象との間には常に葛藤状態や戦闘状態
が起きてくる。

したがって意識の「焦点機能」とは、『物質化と個別化』の基本中の基本であり、
またそれと全く同時に意識の『動き=移動』を作り出す要素となる。
つまり、意識は、個別のものに焦点を集中する事で知覚そのものを安定させるが、
さりとて、一点に固定させたままにも出来ない。
意識は、あちこちと焦点を合わせつつも、一定の対象に止まることも出来ず、
その焦点自体も移動し続けるという宿命にある。これが意識の根本原理だ。
そしてそれは既に、我々のこの意識それ自体に組み込まれてしまっている。
・・・・・・・・・
さて、そうだとすると、そうした中で、稀に起きる光明や悟りとは一体何だろう。
実は、それは意識の『焦点機能の損壊』『集中機能の喪失』だ。
あるいは軽度な場合でも、それは本人の認識にかなりの変容を生じてしまう。

実際問題として、光明を得た者の特徴を思い出してみるとよい。
彼らには、あきらかに、意識の集中機能の低下が見られる。
それは、低下というよりも、意識の「拡散」あるいは「拡大」とも言えるだろう。
だが、共通することは、彼らはどうしても特定のものには集中できないという事だ。
その意識の焦点は平均的な基準から言えば、「度が過ぎているほど散開している」と言
ってもよいだろう。
彼らが特定の価値観や思考内容を維持できないのは、焦点機能の喪失によるものだ。
彼らの目は、ときおり全く不動でありながらも、焦点はどこにも合っていない。
彼らは沈黙と静寂の中に落ち着く。なぜならば、そこには焦点の対象がないからだ。
彼らは、一般的な人間と違い、完全な静寂や無の闇といった全く焦点の対象のない世界
でも不安になる事はない。
そして、生の動きの中にあっては、彼らもまた動くが、焦点が一定のものに固定されな
いために、個別のものを記憶に留めないし、責任感といったものも全くない。むろん、
その意識の焦点は「自分が在る」という存在感覚にすら合っていない。
つまり、彼らは『焦点なき意識』または『拡散した焦点の意識』だと言える。

記録によれば、インドのバグワンは光明の直前の数年は意識の焦点が合わなくなり、
数を数えるのもやっとのことで、自分の身体感覚すらも喪失するという現象に見舞われ
ている。彼はその回復には約1年を要したと語っていた。同様の意識の焦点の拡散とそ
れによる存在感覚の消失はアメリカのバーナデット・ロバーツにおいても発生しており、
彼女の場合にも、自分が今何をやっているかを自覚するのもやっとの事であった時期が
あるようだ。
また、多くの場合、その意識の拡散に対して、もしも肉体(正確には霊的身体)の抵抗
があると「自分が爆発しそうだ」と感じる者が多いのも特徴のひとつである。なお、実
は死人禅の「闇の瞑想」は、この時の霊的身体の抵抗を、あらかじめ軽減しておくため
にあるのである。
・・・・・・・・・
「無焦点」の意識や、焦点が「拡散・散開」してしまった意識、それが光明の大きな特
性とも言える。そして頭頂留意と闇の瞑想の技法は、意識が合わせる焦点の中で焦点そ
れ自体が崩壊するという特性があるのである。

最初に述べたように、闇や虚無により、外界および内面の自己の中に、認識の対象を見
い出せない場合には、必然的に視点の主体は軸へ向かい、さらにその軸の一端である頭
頂部へと向かう。
頭頂留意は一見すると排他的な一点集中に思われやすい。つまり「瞑想とは集中ではな
い、瞑想とは閉じることではない」という原則に反していると思えるだろう。

ところが、頭頂に主体性が移動した場合には、逆に『閉じることが不可能になる』のだ。
頭頂以外の肉体のどんな箇所、たとえば丹田、ハート、眉間に集中しても、それらは必
ずそれ以外のものを排除してしまう。
だが頭頂や頭上点では、排除は生じない。そこは唯一焦点がばらける位置だからだ。そ
こへ焦点を集中することにより、焦点機能が崩壊するという地点・・それこそが頭頂部
なのである。そして、闇の瞑想は、対象の中に認識を求めようとする動きを消去してゆ
くのである。




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