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闇のタオイズム(一章の2)



         探求者が陥りやすい迷路




*********
一人で闇に座っていれば、やがて基本的な、
もっとも基本的な恐怖と疑念があなたを襲うだろう。
『なぜ、私はここにいる?』。なんのためにいる。こんなことをしていていいのか?。
一体世界そのものはなんだろうか?。その宇宙の中の、この私は一体何だというのか?。
書店にあるありとあらゆる精神世界の書物を読んだところで、
あなたには回答は全くない。

回答と自負する嘘、あるいはいかにもそれらしく納得しそうな嘘のどれと
あなたは契約するおつもりだろうか?。その理屈はひとときあなたの思考のお遊びや、
つまらぬ口論のエサとなり、やがて、新たな100もの疑問を生み、
やがてあなたはあきたらず、実際に修行なるものを始めるだろう。

ところがそれはあなたがそういう『技術に』進歩すればするほど
あなたを責めたてるだろう。「もっと上が可能だ」、と。さらにあなたは修行する。
やがて、とてつもない神秘体験をする。ところがそれはまた冷め、
なぜあれが起きないのかと、あなたは疑問に思い、もっとその体験を欲しがる。
それは金銭や性欲にとりつかれた人間と全く同じである。
ただ対象物が天国や神秘やオカルトや悟りにすり代わっただけのことである。
依然として、あなたは貪欲だ。そして、知れば知るほどみじめで、
他人との口論には勝てても、あなたは自分の内奥の欲求不満と不安に勝てない。

*********
いかなる種類の疑問についても、問題は
その『疑問が発生する』ということそのものにあるからだ。
論点は『何が』問題なのかではない。そうではなく、なぜ、人はどこへ行っても、
何をやっても、問題や課題を『作り出してしまうのか』が問題なのだ。

*********
いわゆる常識というものは『ある範囲ならば』どこでも持ち歩けるように作られた。
だが、常にその『有効範囲』の限界がある。通用する常識の範囲は
どんなに大きくても小さくても必ず限界がある。

*********
人間の理解などというものは、知性の混乱が一時的に沈静されるだけであり、
それは決して終わることのない疑問を生み出す。
理解によって、あなたの精神の安定がなされた試しはただの一度もない。
その第一の理由は、理解は記憶に基づくものであるから、
記憶ではない実際に発生する日常の現象そのものの多様さ、突発性、には
全く無力である。

*********
実際には論理性が消滅すればするほど、悟りにあなたは近付く。
自分の状態に確信が持てないほど、あなたはそれに近付く。
説明ができなくなってきたら、それに近付く。
意図して保持できなくなったら、それに近付く。
コントロールが出来なくなったら、それに近付く。
どうしたら、いいのかわからなければ、分からないほど、より近付く。
どうなっているのか、いい状態なのか悪いのか、
検討もつかなくなったら、それに近付く。
なぜならば、それこそが自我の終焉だからだ。

しかるに自我とは何か?。
今、羅列して言ったような事を、何から何まで自分で確認し、
制御しなければ気がすまないというのが自我の本質ではないだろうか?。
だからこそ、あなたはどうしたらいいのかについて、無知になるべきだ。
ただし、私は途方にくれて悲惨になれとは言っていないし、
またバグワンのように、生を肯定して深刻になるな、遊びに満ちろとも言わない。

*********
あなたが『どうすればいいのですか?』などと言うならば、依然としてあなたは、
その闇から逃げようとして落ち着かず自我を満たそうとして、あがいており、
その次元にいるかぎりは、私が何を言っても、どんな瞑想法を提示しても、
それはあなたにとって不愉快きわまりない結果をもたらすだろう。
あなたが自我から意識、または無心、不在性、虚無、闇へと
全面的にシフトしないかぎりそれが宝石として見えることは決してない。

*********
「いま、ここにいれば、理想的な地球になる」と叫んだ時点で、
あなたはもういまここには「いない」。
なぜならば、あなたは、そこに未来という理想を持ち込み、
そして過去は悲惨だったという比較を持ち込みその結果、
結局は今ここと、そうでないものに分裂してしまっているからだ。
この『自己変革』という概念、改革、自己改善というこの幻想が
そもそも莫大なエゴの発端なのだ。

もしも我々が、自力で変容したら、それは我々の「成果」になってしまう。
そうなれば、それは技術となり、エゴが達成したぞと言い、
これでいいぞというマインド・トリップの一部、すなわち思考になってしまう。
そして変革や改善という妄想が進めば、やがて、以前の自分と現在の自分を比較し、
また毎日違う自分をより安定した精神の自分にしようと葛藤し、
より、もっとよく「あろうとする」。
たが、それら全部の底流にある逃げ出せない『罠』は、
あなたは、それでは一生『くつろげない』ということだ。
どこへ行っても何をやっても、かくあるべき自分とそうでない自分を比較し自己想起し、
自覚的になり、反省し、改善し、瞑想し、よりいま、ここにあろうとする。

しかし、そうした方法が成功したためしは、ただの一度もない。
いかなる用語、スローガンであれ、あなたの思考が、
『それを理想にした瞬間に重荷になる』からだ。
社会や瞑想センターや禅寺はそのあなたのスローガンを聞いたら
「とても、よい方向です。まさにそれが正しい道と探求です」と支援するだろう。
しかしそういう虚構に対して、私があなたたちの理想を全部破壊するつもりだ。

その理由、動機は至って簡単だ。『理想こそが、あらゆる戦争の発端だった』からだ。
なぜならば、異なるふたつの理想が、戦わないでいられるわけはないのだよ。
では、どうすればいいのか?。それは理想など持たないことだ。
そして、持たないという理想も持たないことだ。

*********
世間の殆どの瞑想、セラピー、能力開発セミナーとは、
すべてあなたのエゴにまたひとつの部品、
つまり「おもちゃ」「自己主張」「達成したんだぞ」「理解したぞ」の
エゴを上塗りすることになる。

*********
あなたは観察する必要はない。ただいればいい。
あなたの無垢なただの存在に落ち着いていれば自然に物事は見え、聞こえ、通過し、
役にたたないものは消え、何かちょっと最低限やらなくてはならない必要なことは
自然にあなたはやっている。自然にひっかかるものも出て来るだろう。
だから、何かがひっかかっても『無心でなきゃ』などと緊張しないこと。
小さな錯乱でさえも、必要なものがあるものだ。
混乱を受け入れたら、初めてあなたは静寂をも受け入れられる。
もしも静寂だけを受け入れたら、迷いをあなたは拒否し始める。
そうなったら、そこに無思考の静寂と思考という分別が、あなたを苦しめることになる。


*********
ワークをやっていようが、座禅していようが、
自分の探求の段階や体験の状態を確認しているようなあなたが存在しているかぎり
それはただのまさにゲームだ。
なぜなら結局は、それによってどこの誰が、
どこの誰のエゴがそれで満足しようとしているのだ?。

*********
よく聞くのは「そんな難しい理屈でなく感覚です」という曖昧な言い訳である。
しかし、この感覚とは全く仏性及び本性とは何の関係もない。
これらは思考を否定したものの、それよりも『もっと低い感覚の世界』に逃げて行くという
一種の屁理屈に過ぎない。
ラジニーシは、とりわけ受け身で待つことを女性特有の性質であると
多くの講話の中で語った。
だが、それは感覚の中に埋没したり、生理的、
または感覚のゴタ混ぜの混沌に負けよなどと言ってはいない。

*********
いわゆる「フィーリング」という言葉をよく口にする女性たちが、
付き合い始めた男とどうやってトラブルを巻き起こすか見てごらんなさい。
不幸は常に思考の『取引から』始まる。
だからフィーリングという言葉にも注意しなさい。
これは断じて『精神用語』じゃない。いわんや、これはTAOではない。
知性の全滅こそが男性であれ、女性であれ、光明に必要な条件であって、
それは、理屈が分からなくなったときにだけ、
都合よくフィーリング(機嫌や気分)に逃げるというものではない。

*********
どんな高尚なレッテルを張られた探求分野も『現状嫌い』から発生したものにすぎない。
すなわち不満以外に探求の原因は存在しないということだ。
多くの探求者が無自覚なままに、よく見落とす不満、すなわち現状嫌いというものがある。
彼らは探求したり学習することで自分が満ち足りた人生を過ごしていると言うものの、
その探求や学習や活動性、行動性の背後にある、根本的な不満、嫌うものの存在を
盲点のように見落とす。
すなわちそれは『退屈感』だ。彼らは退屈が嫌いなのだ。
退屈とは、実際にはおおいなる静寂、死、再生、変容への扉が見えたということなのに、
彼らは退屈をまるで自分の人生を破壊する領域のように錯覚してそこから逃げ去る。

*********
意識停止の結果として、いわゆる神秘的な幸福感が悟りや禅の世界にはつきものだ。
それはそれで別にいい。しかしそれらは副産物。あくまでも副産物だ。


*********
改善という看板を掲げるセラピーはすべて失敗する。
いわゆる「考え直す」「考え方を変える」とか「考えが変わった」などという
思考次元にいる限り、TAOはあなたの門を開かない。
だからTAOはいわゆる教化のための説教を持てない。
それは倫理や戒律ではないし、人の心や思考に訴えかける次元のものではない。
どういう考えを持ったらいいのかではなく、
『一切の考えを撲滅してしまえ』というために
無数の事をブッダたちは語ってきたのだから。
問題は迷いをどう解決するかでもなく、迷いとどう戦うかでもなく、
迷いをいかにして無心にするかでもない。
迷っているその「あなたそのもの」が死ねばいいのだ。

*********
成果というものがあれば、失敗というものがあなたの心につきまとう。
あなたが、あなたの意識の在り方、死人禅的な留意の発達程度を自覚して、
もしも「反省」したりすると、反省というものはあきらかに、
すでに『善悪』に汚染されている。
反省とは、かくあるべき方向とそうでないものを基準に生まれるからだ。だから、
死人禅は反省を止めさせる。

しかし、これは自我を発達させた人間には困難な事だ。
我々は反省からあらゆる「改善」が生まれるとあらゆる場所で教えられ、
また徹底的にそれが「修行」であると思い込んできたからだ。
改善、進化、発達、悟り、なんであれ、そのプロセスで我々は以前の自分と
現在の自分に比較を持ち込む。そして反省してしまう。
だが、あなたに反省を引き起こすその理念はどれほど立派なものなのだろう?。

たとえば、それが悟り、大悟だとする。では、それが万一あなたに起きたとしたら、
あなたはその時、自分を見て「やったぞ」と言うつもりだろうか?。
それでは、それは悟りではなく、あなたのでっちあげた「理念が達成された」という
自己満足に過ぎないではないか?。
だが、本当の大悟に在って、『理念』が生き残れた試しは、
ただの一度もない。理念は崩壊し、無理念の中の生と死を漂うようになる。
もはや生への理屈も死への理屈もない。だからそれは自然の中の生物たちこそが、
道の手本になる。もしも本当に達成されるべきものが、仮にあるとするならば、
仮にだが、仮にあるとするならば、それは達成対象も、達成者もない、
ただの『達成状態そのもの』ではあるまいか。

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なんであれ、自分を振り返る『観察者のあなた』が消えない限り
幸福というものは存在できない。そして禅がいかなる理由と理屈を言うにせよ、
人間としての最後の到達点が、幸福でなかったら、誰も禅や法や道など求めはしない。
それが無や、単なる哲学、単なる神秘体験、単なる偉大な境地だったら
誰もそんなものを求めはしない。どんなに社会的な価値があろうが、
どんなに禅界で優れた境涯だと判を押されようが、その者本人が
幸福に満たされていなかったら何もそこには、ありはしない。

*********
あなたが分かったとき、知ったとき、把握したとき、
「これだ」と手に入れたと思ったときから、あなたは抜けられない不幸の中に突入する。
『分かるあなた』がいるということは、かならず、
『分からないあなた』というものを生み出してしまう。
だから、なにも分からないままでよい。

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何もせず、工夫もなしに楽に座ることにあなたが退屈するとしたら、
あなたは、ちっとも『意識が座っていない』ということだ。
さんざん、あなたは修行課題を与えられ、その成果やその目的を説教された。
そういうあなたが私に出会うと、
私は『それこそが、その全部が、あなたの大悟を妨げている』と言う。
「それでは世俗に落ちてしまう」と、多くの者が私に言う。
私は限りなく、毎度、何度も言ってきたはずだ。
「世俗とは、充分に、すでに、達成欲の固まりだ。僧侶は、これまた、達成欲の塊だ。
だから、本当の悟りは、世間にも、寺にもない。どっちも駄目だ」。
達成する心の落ちた人達だけが、本当になんの努力もなく、今の瞬間を我家としている。
それ以外の者は、僧侶も師家も、全員、今にしがみつこうとする、貪欲な、ただの俗だ。
多くの場合は、それは世俗よりも始末が悪いと言える。
なぜならば、彼らは俗を越えようとする、ごたいそうな仏法やらを
「これのみだ」とばかりに振りかざしているからだ。

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本当に、『一生懸命に、徹底して怠け続ける』ということは、それそのものが、
あなたの『自尊心を殺す』のだと覚えておくことだ。
怠けないで努力をするあなたなら、そこ
には、「ご立派な」あなたがいる。その努力を誉められるあなたがいる。
だが、そんな、ご立派なあなたがいるから、大悟が起きないのだ。

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静寂と無為の中でのあなたの死んだような、楽な座禅が必要だ。
この『まったく無意味な座禅』こそが、『まったく無意味な悟り』を可能にする。
もしも、悟りに意味や意義があったらば、かならずそれは、
また苦悩や混乱をあなたに生み、世界に生み出す。
まったく『なんでもないこと』が悟りの無垢なる美しさだ。
そこには仏法などという汚らわしい言葉は不要だ。

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なんであれ、あなたが問題を解決しようとし始めたら、あなたはまず不安になり、
やがて思い詰め、最後には狂人となる。しかしその狂人には2種類ある。
ひとつは全く訳がわからなくなって、混乱のまま「錯乱する狂人」だ。
もうひとつは、回答を得て「解決したと思い込む狂人」となる。
実は、あなたはこの生で、そのほとんどを後者の狂人と、なり果てることで
過ごしてきたのだ。
あなたの正常とは、そんなものだ。それは、単なる安定した思考、社会的に、
あるいは実験室や応用科学の現場で通用するというだけの、
安全だというだけの思考と情報の寄せ集めに過ぎない。
では、一方、問題を解決しようとか、疑問を解こうとか、理解しようとするのではなく、
問題そのものの発生を根絶してしまったらどうなのだろう?。
それが、ひとりシッダールタが、ブッダとして名を変えた瞬間に起きたことなのだ。

*********
本当のTAO以外の他のあらゆる物事はそれが物質的成功であれ、
いっぱしの教祖きどりの宗教家であれオカルティストであれ魔術師であれ、
モラリストであれ、どんどん心の陰であなたを『エゴイスティック』にしてゆくだろう。
つまり『自分はこうなんだぞ』と他人へ押し付け、また間接的に他人に匂わせ、
あるいは『自分はそんな人間じゃない』と他人におしつけ、
あるいは間接的に匂わせような振る舞いをし、あるいは自分に言い聞かせ、
そうやってあなたはどんどん自分だけを大切にする。
他人への振る舞いがどうあれ最終的にそれは
そうすることがあなたを心地よくさせるという方向へ向かう動機をあなたはもっている。
とすればこれは単なる偽善だ。中心は依然としてあなたにある。
にもかかわらず『他人のために言うのだ』などとあなたは大嘘を言う。

*********
瞑想によって創造的なエネルギーを得るなどというのは、とんでもない誤解だ。
瞑想という言葉は、ブッダの時代と違って今や広範囲な意味を持ってしまった。
カルチャーセンターや気をコントロールして「元気になるコース」のごとき
幼稚なものから、神秘体験、神秘能力開発に至るまでの分野にさえも、
瞑想という言葉が乱用されている。
それは元来「瞑想」と呼ばれるべきものではない。
それらは「なんとか訓練法」と呼ばれればいいだけだ。
だが、真の瞑想とは無訓練にいたる、無心にいたるものだ。


*********
遊び足りない子供に『座れ』というのは、無理だし有害でもある。
この私が言っている子供というのは、50だろうが、70だろうが、
今まさに死ぬ90歳の者だろうが、子供は子供なのだ。

*********
この停止した意識体の場合は、『原因がなにもない統一性』の中に存在し続けている。
しかし「で、これがどうかしましたか?。
これが何に役に立つのか?。この後はどうなるのか」これを言った瞬間に、
すぐに意識体は一気に崩壊して思考体に戻ってしまう。
思考はこのようにして、常に自分が判断したり
利用出来る範疇に事を運ぼうとする悪癖がある。
通常は悪癖と言わず、それが思考の正常な役割なのであるが、
こと意識体に存在するという体験のプロセスだけにおいては
これが最も始末の悪い障害になってしまうのである。

*********
自分を他人に説明するには、それは大変な努力がいるだろう。しかし、無説明で、
ただ存在するのに、どんな種類の努力が必要だと言うのだろう。
もしも、無心でいようと決意したらば、もうこの時点で、あなたは自分をすでに
「落ち着きのない者」と定義してしまう。

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この世の中で一番簡単なことを、なんと人間は全く出来ないということなのだ。
何かをやったり、何か考えるなら、一生でもやっていられる思考にも、
たったひとつ出来ないことがある。それは思考そのものを停止することだ。

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本当に無心が好きならば、あなたたちはとっくに考えることをやめている。
だが、あなたたちは、思考が好きなのだよ。とても好きなのだよ。
だから、思考をやめろとか、落ち着けと言っても、
それは『子供からおもちゃを取り上げようとする』ようなもので、
あなたたちは内面では実は私に激怒しているのだよ。
無思考や落ち着きの瞑想を求めていると言うならば、
座って、じっとして、何を迷うのかね??。しかし実はあなたたちは、
思考したくてしょうがないのだよ。
サマーディについて、意識体について、本性、悟りについて、宇宙や存在について、
そして自分の瞑想の段階について、本の記述とか他人の意見と比較したり、評価したり、
確認したりしたいのだ。
しかし、これらこそが全部『思考』ではないかね?。
これだけ思考をし続けて、思考を落としたいとは一体どういうことかね?。

つまり、あなたたちは愛において、愛そのものを好きではなく
むしろ特定のものだけを好きであるように
あなたたちは『全思考を落とす』気など、かけらもないということだ。
あなたは思考があなたを『楽しませるようなもの』であるときは
何の不平も言わないくせに、思考があなたを苦しめ始めるような展開、
たとえば、それは簡潔に言えば悩みや、いらだち、不満に変わった瞬間に、
そのヒステリー状態から逃げたい、解放されたいと言う意味で私、
あるいは導師のところへやってきて、こう言うのだ。
「思考を落としたいのですが、方法はありますか?」。・・・あるわけがあるまい!!。
「私は自分の子供を限りなく愛していますが隣の子供は大嫌いです」と言っている人間に
「私は隔てのない愛を求めています」という資格があるとでも言うのかね?。
楽しい考えや解り易い考えや自分を誉めてくれる考えは大歓迎、でも、楽しくないのや、
解りにくいのや、自分を悲惨な気持ちにする考えは大嫌い。と言っている人間に、なぜ
『全部の思考を落とす』ことなどが出来るかね?。

*********
まだ生の何かに執着がある葛藤の中で、生きるべきか死ぬべきかを考えているうちは、
それは、あなたの『駆引き』だ。
『もう少し様子をみてみよう。もしも人生に何かおもしろいものがあるならば、
私を気楽にしてくれるものがあるならば生きよう。
でも今のままなら死んだ方がましだ』と。
これはあなたがまだ全面的ではないことだ。
その『まし』な人生探しの天秤に生と死をのっけて眺めているだけだ。

*********
只座るということにおいて、最も鍵となるのは、
自己の状態、あるいは座の状態に是非や確認や、
これでいい、これでは悪いという分別を持ち込まないことである。
すなわち座禅の心理状態に対する自覚も反省もいらないということである。
すなわち、「ああ、空っぽだ、ああ無だ、ああ静寂だ、ああ分かったこれだ・・・」など、
これらは『すべて只管にはなっていない』ということである。
只座るという事は、あらゆる次元で『知るという事を離れている』。したがって、
知らぬそのままの今このものが只である。心の中で何ものをも「これこそが道だ」とは
指さしていない状態である。

*********
禅は人々や世界を救うのではない。禅は『あなた、ただ一人』を救うのみだ。

*********
世間で正しいと言われる事を求めれば、あなたは苦悩する。
自分で正しいと思う事を求めても、あなたは苦悩する。
心地よいものを求めてもあなたは苦悩する。
生き生きとした充実感を求めてもあなたは苦悩する。
何をどう求めようが、あなたは絶対に、必ず、確実に苦悩する。
そして、それが正しいと思えば思うほどあなたは苦悩する。
何を求めても、絶対にあなたは苦悩する。
何を求めてもの「何」とは、『一切何を求めても』ということだ。
何かを求めた瞬間に、あなたは『この瞬間』の本当の存在と、
どこかがしっくりこなくなる。
そして、あなたの問題と苦悩は、すべて、ひっかかっている思考が作り出す。

*********
この世界でどうもうまく生きられなくて、人々と摩擦を起こし、
また不安や不満を溜め込んで人は瞑想や座禅に向かう。
しかし、それはもう一度社会でよりよく生きるための道などではない。
そういう魂胆は悟りに不要だ。そういう魂胆だと、あなたは禅や瞑想をしながら、
そこで自分を満足させる『ごほうび』や
『世間でやっていけるひとつの心理的な武器』を手にしようとしていることになる。
絶対不敗の境地とやらだ。

*********
日常の雑事と、大切な探求とを区別せず、どっちも滅ぼしなさい。
どれが雑念でどれが大切な思いなどという分別をする馬鹿な禅者にならないことだ。

*********
たとえ主人公やら、今の只の事実であれ、あなたが何かを『これだ』と指さした瞬間に、
『それ』は二つに分裂してしまう。とするならば、いわんや、何かを仏法だとか、
禅だとか、悟りだとか、事実だとか、言った瞬間に、それは外れてしまう。
言わなくても、たとえ思っただけですら。何かを言えば、かならず、それは、外れる。

*********
何かが分かる、知る、理解する、道がはっきり見える、つかめる。
こういうことがあなたたちの内面に自覚として起きるような方法は全部、
必ず的を外すことになる。

*********
諸問題は、常に、解決すべきなのではなく、単に対面すべきであるのみである。
解決という強迫観念は、そもそも自己を捨て切らないところに発端があるからだ。
ならば一体何がどう解決したら『満点だ』とあなたは言うつもりだろうか。
そんなことをすれば、それは解決人と採点人という
またもや苦の張本人を生み出してしまう。

*********
悟りさえ得られれば、万事安心して生きて行けるというのでは、
生きて行くための『手段の』悟りとなってしまい、
依然として、あなたには悟りを自己の為に
個人的に『利用しようとする自我』がそこにあるのだ。

*********
あなたの『生存』が、あなたの無意識の内部で、あくまでも優先されているかぎり、
悟りもその生存のためになってしまい、精神的な死もまた、
最後は生きるために還元されてしまう。
リラックスや安心といったものも、とどのつまりが、
最後は『生きるための手段』であるなら、そこにあるのは本能だけであり、
そんなことでは本当の無心、無垢、本性、といったものは決して現れない。

今の瞬間だけに生きれば、それが幸福なのだと分かっていながらも、
あなたが、決してそれが数分も数日も長く続かない最大の原因は、
あなたは、実は、ちっとも「今」に生きていないからである。
今、今、と言いながら今に生きれば、やってくるだろう明日の幸福を
あなたは見定めていることになってしまう。
今になりきりたいと言いながら、今だけの生になれないとしたら、
それは、あなたが嘘を言っているということだ。
本当は、あなたは今には生きたくないのである。
なぜならば、本当に今に生きる時、
あなたは、そこがあなたの自我が完全に殺される場所であると知るからだ。

あなたたちは、今に成り切りたいという。だが、それは、とんだ嘘だ。
あなたは今よりも過去の確かさの中にいたいのだ。
今に成り切ることは、恐怖、不安定さ、死のような奈落、狂気に似た錯乱、
そうした『関』そのものだと言うのに、それを恐れるかぎり「今」は在り得ない。

*********
禅であれ、ヴィパサナであれ、只座るということであれ、なんであれ、
方法というものは、あなたの目的達成のために使うものではない。
だが、それはいくら言っても実習者には不可能に近い。
ただやることが今度は目的となり、ただ観照することが目的になってしまい、
そうなれば、ただ、とは言いながらも、ただとそうでない区別をそこに作り、
自分の状態に是非判断をする。是非判断をするということは、あなたは、
自分の状態に時には、喜び、そして実際には、ほとんどの時間は「これでは、だめだ」
と落ち込むのは必至となる。

*********
座禅その他の修行のすべては、それによって
あなたが世間での生活を『なんとかする為』のものではない。
実際には、それらの方便というものは、
あなたが、さまざまな状況で、ジタバタしなくても
とっくにすでに、もう『なんとかなっている{あなた}』に
気付かせるためのものだ。
すでになんとかなっている、その『あなた』は生まれて一度も悩んだことなどない。
生まれて一度も、『私』などと言ったこともない。
生まれて一度も、悟りたいなんて言ったことはない。
そして、それはずーっと、そこにある。それは訓練され得ない。
それはいかなる方便によって生まれるのでもない。
それは、すでにもう、そこに在る。
そして、それはただの一度も探求に出掛けたことはない。
ただの一度も座禅などしたこともない。

*********
自分が過去に経験した良き心境に似た状態をいくら再現したり、練ったりしたところで、
なぜ、あなたはそういう事をそもそもやっているのかね?。
あきらかに、あなたは、その過去の状態が『良いものだ』と思っている。
そしてそれを再発させ、磨こうとする。そうなれば、あなたが磨いているのは、
断じて『今そのもの』ではなく、あなたの良かった時の記憶を磨いているだけだ。
自分の過去の経験の蓄積の成果を『そうだ、あれが正しい』と支援させるために
現在を『利用している』だけだ。
そうなれば、現在は、あなたの過去の成果の応援団に利用されてしまう。
これが『病』だ。だから自分が誰であるか、どこにいるか、何が正しいか、
あの時がいい状態だ、などというものを完全に捨ててしまうことだ。実際にそうなれば、
あなたは経験基盤から何かを行うということは出来なくなる。

*********
何をどうやっても、あなたは、抜けられない病気になってしまう。
その病名は『このまま駄目だと駄目になる』というものだ。
いかなるものであれ、『これでは駄目だ』こそ、あなたの自我の原動力だ。
満足は、行為につながらない。
「さらにもっと満足しなければ」ということが起きた時に、
あなたは、またもや、もっと満足しなければ『駄目だ』、をまた作り出す。つまり
『自分が駄目になりたくない』ということが一切のあなたの苦の原因なのである。

*********
本当は、何がこの世界を不幸にしているのか、見てみたまえ。
それはたったひとつ、『恐怖』だ。

*********
かろうじて平和に暮らした80年ののち、人が死ぬ。
今度は、生から死への変化だというのに、あなたは、生という過去全体に執着する。
そうして死を恐怖する。そして、逆に、あなたは生をも恐怖する。
あまりにも静寂や平穏、これに偏った好みを持つ者は、
自分が、まわりの動きに巻き込まれてゆく時に、
自分の内面の静寂が変化する事を恐怖する。
だが、そんなふうに、まわりの生死、まわりの現象で影響される、そんなものが、
はたして悟りだろうか?。

*********
現在の中で過去が生き延びられないならば、そこには理解など何もない。
理解というのは、過去との照合だからだ。理解が落ちれば、あなたには善悪判断もない。
善悪がなかったら、どうしてあなたは自分をどうこうしようとするだろう?。
もしも、あなたが本当に今に在ろうとし、さらに、ただ在り続けることが恒久的なもの、
すなわち大悟に至ろうとするならば、もっとも、てっとり早いのは、
あなたの心の中で『一番大切なもの』から順に捨てて行くことだ。

*********
工夫とか問答とかヴィパサナとかの細工を使うことのメリットは、
一瞬だけ理想的な意識になったような気になることだが、これがまた最大の欠点でもある。
最大の問題は、そうした小細工をやる『動機』が消え去っていないことだ。
悟りのため、安心のため、しっかりとした超越的な意識の確立のため、と
工夫をそもそもやっている目的がそこから消えないままになってしまう。
だが、それは必ず、行き詰まる。

*********
我が死人禅の門下は、一切価値なきをもってして、道とせよ。
心はすべて無価値である。従って、菩提心も無価値であり、求道心も無価値である。
慈悲心も無価値であり、一般用語、仏法用語の一切の区別なく、
「心」と語尾の付く、全言語が無価値である。
また『悟り』という、そこから何が生まれようが、一切無価値である。
いまだ、『悟り』のみに至らぬ多くの原因のひとつに、
仏、法、僧への価値観があるからだ。
それは法を良しとする心であり、道を良しとする心である。
だが、それこそは、まさに分別以外の何物でもない。
なんであれ、価値を売り物にする瞑想道場や禅寺は、
おおよそ、そのすべてが偽物だ。

*********
最高の楽とは、『何物にもよらず、満たされる、安堵』である。そして、
最低の苦しみとは、『何物によっても決して満たされない不安』である。

誰もが一瞥をしている。そして、その一瞥こそが、あらゆる不幸の原因である。
一瞥は何も禅僧や瞑想者だけのものではない。
苦しむ者すべてが、一瞥の経験を持っている。
そして、それ故に人は苦しむのである。
では、なぜ一瞥が、全一的な『光明』になってしまうのでなく、
さらなる大きな苦しみの連続になってしまうのだろう?。
ひとつは、それをあなたが自分で保存する記憶や思い出にするからだ。

また、あなたが、それを「これだ」と指さして、
いつでも安定して断定出来るようなものとして知ろうとするからだ。
それをはっきりと捕えたり持続的に維持しようとしたり、より練ろうとするからだ。
それをあなたの人生の武器になどしようとするからだ。
禅師の中にすら、「無自己に勝る武器はない」などと、馬鹿な事を言う者がいる。
だが、『悟り』は戦うためや、生きるためのものではない。
それは、ただの『悟り』であり、
なんのためでもない。

*********
あなたを苦しめる構造的な回路・・。それは、あなたの抜けられない『集中機能』だ。
なんであれ、あなたが何かに過剰に囚われる、というのは、そこに焦点が結び付いて、
そのままになってしまう。だからその焦点が善悪であれ、仏法であれ、禅であれ、
あるいは、あなたの体裁、あなたの虚栄、あなたの姿へのこだわり、他人からの評価、
あるいは、肉体の苦痛や病気もまた、これらはすべて、あなたの意識の焦点が、
過剰に常にどこかの一点に囚われることによって起きる。
だからこそ、我が門では、最もぬけられなくなる恐れのある焦点として
『全価値観』を筆頭に上げた。

*********
我々のすべての動きを「無自覚で気の抜けたものにするな」と導師が弟子に強制したら、
もしも、矛盾なく、完全にそうしようとしたら、私は、それは事実上
絶対に不可能だと断定できる。
あなたが、どんなにスローモーションにしても、あなたの注意力は、実は
『ただの15秒も連続していない』からだ。絶対にそれは連続していない。
ひとつの事実と認識したものから、次の事実の認知までの間には『空白』がある。

さて、問題はその空白はなんであるかだ。
だが、そこは実は『真っ黒』なのだ。「対象」が何もない。
しかし、そこには意識がある。何も見ていないままのただの存在性がある。
そこには自覚もない。ただ在るのである。
ならば、それをただ在ると、認めて言っているこの私は誰なのか?。
実は、そんな者は存在しない。そこには『知る者』はいない。
私は便宜上、あなたの関心をその微妙な空白に向けさせる「口実」として
私は『ほら、そこはただの存在性だ』とは言うものの、
あなたが、そこを覗き込んだら、「観察するあなた」という自覚も
そこで消滅してしまう。

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直感という言葉はいかにも自然の働きであるとか、
またはスピリッチュアルであるかのような錯覚をあなたたちに与える、
耳当たりの良い「用語」だ。
いかにもそれは正しいものであるかのように錯覚しやすい。
まず、あなたが直感に耳をすませるとき、すでにそこにはあなたの思考がある。
その問題を解決しなければならないという強迫観念もあるし、
その問題を解決したいという欲望もあるし、その問題についてあれこれ考えている。
こうしたやり口では直感は依然としてあなたの思考に『利用されたまま』だ。
思考が直感を利用する立場にあれば、当然次のようなことになる。
「この直感は正しかった、あの直感は間違っていた」と。
あるいは直感そのものは確実なのだとあなたが言うならば、
今度はあなたはこう言うだろう。
「直感を正確に素直にうけとる私のコンディションが悪かった」だの、
「直感についてあれこれ迷った自分が悪かった」などと。
こうしてあなたの思考は直感というものをいずれはあなたの
『心理的な私有財産』のように錯覚し始めるだろう。
そうなればあなたはいつなんどきでも、
セラピストや霊感占い師の看板を持つことだって出来る。
そしてあなたは永久に不幸なままだ。しかも他人をもその不幸に巻き込むだろう。

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ロジックというものの次元では決して体験的認識は成立しない。
「人間の本当の本性とはなんですか?」と、どこぞかの出版社の社長が尋ねられて
『はい、アートマンです』だの『意識です』だの『本来面目です』なぞと言うことの、
こんなことの、『一体何が答えになっている』と言えるのかね?。
これではただの国語辞典と同じだ。
ひとつのものを別の言葉に置き換えることが知恵ではないのだ。
何かモノをよく知っていると『見せ掛ける人間達』が実際にやっている事は、
常にひとつのものを別の、あれこれのガラクタの言葉でただ「言い換えた」にすぎない。
それは何ひとつ本質への洞察から生まれたものではなく、ただの定義屋だ。
何かについて明確な説明が出来る人間というものは、
実際には何ひとつ本物を知らなくても可能だ。
百科辞典を暗記すれば、馬鹿でも利口ぶることは出来る。
だから、説明の巧妙さというものに騙されてはならない。
それはただの『言語的変換のトリック』にすぎないからだ。

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そもそも、あなたのそんな存在そのものが、無価値なものとして粉砕されなければ、
断じて静寂などというものは起き得ない。
どこかで、「自分は、なんとかなる。」「少しは生きている価値がある」と
ほんの僅かにでも思考すれば、その心の騒音のせいであなたには
静寂も光明も100%不可能だ。

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正しさ、あるいは『事実を知ることと、幸福とは無関係』である。
そのことを、もしも人が理解しないならば人々は正しいことが大嫌いになるまで
正しいことをコレクションして事実が嫌になるまで事実について学ぶしかないだろう。
幸福と正しさが混同されたことが、不幸の始まりであったとすら言えるほどだ。

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私はよく探求など投げ出せと言う。すると誤解しやすい人達は
それを世間的な生活に戻るか、世間の価値観の中に戻ることと勘違いをする。
そうではなく、どっちも捨ててしまったら、あなたは完全に手ぶらだ。
世間者と探求者は、結局は同じコインの裏表だ。

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うんざりしたり、飽きたり、あるいは、諦めたり、苦しかったり、原因はいろいろだが、
人間には心底、全部をほっぽり出してしまう時があるものだ。
その清々してしまった瞬間に、ほんとうに、囚われのないままのものが生きている。

ところが、ほっぽりだすとその瞬間がやって来る、などということを
変に知ってしまうと、「よし、ほっぽりだしてみよう」と言って、右手で放下してみては、
気が付かないうちに自分の左手は『いつあの解放感がくるかという期待』を
がっちりと貪欲に握り締めている。はてさて、この悪循環には困ったものだ。

たとえば、工夫し続けていたが、ある時に、もううんざりしてしまって、
工夫を、ほっぽりだして庭で寝ていたら、なんと、あまりにも、ありのままに、
そのままな瞬間が連綿と続くとする。
すると心は言う『ああ、、これだったか』。
そして、まさにその刹那「それ」は止まってしまうのだ。

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社会的な規制は村の人間の肉体が生き延びるためではあっても、
しかし、それは決して我々の本性から出た秩序ではない。
こうした作為的な秩序は、やがては『掟』と呼ばれ『現在の法律』に至った。
そして、個人の利益の追及ばかりがエゴと呼ばれるわけではない。
なぜならば現に集団としての会社や国の利益の追及が争いを大規模にするからだ。
地球をもしも大事にすればそれは地球人の誰もが「貴い理念だ」と言うかもしれないが、
これは宇宙の中では、もうたいそう立派なエゴだ。こんな極地の惑星の大切さなど、
しょせんローカルな問題にすぎない。宇宙の中ではただの地方行政の問題にすぎない。

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これは絶対にあなたが覚えておくべき事だ。
あなたの内面で、もしもあなたが「何かを敵に回したら」
つまり、なんであれ、あなたがあなたの心の何かを拒否して、拒絶をしたら、
その瞬間からあなたは絶対に、あなたが拒否した筈のものにとりつかれる。
なぜならば、あなたは、もうその瞬間から、
それらに『過剰に敏感になり始めてしまう』からだ。

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その何かが、努力を重ねて行われる達成ゲームであるかぎり、
それはオリンピックでメダリストになるのであろうが企業の商業的発展であろうが、
恋人獲得や結婚であろうが、芸術活動、あるいは瞑想修行であろうが、
まったく同じ「思考の次元」にすぎない。
その思考の次元に多少の神秘体験や霊的経験と称する
オプションがついているにすぎない。

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EOイズムが決定的に伝統の宗派と違うのは、観念破壊の範囲が、
宇宙全体、存在全体に及んでいることだ。
これについてEOはたびたび著作でも述べているように、
『価値観こそが障害であり、ただの思考、余計な雑念にすぎない』ということである。
その『本当の境地』に至った者からは一切の価値基準が崩壊するのであるが、
世間から見るとそれがまたひとつの価値として捕えられ、善にされてしまい
達成すべき目標にされてしまう。
かくして、人は『何を』『どう修行しても』
深く安心することは全く不可能になってしまったのである。

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祖師たちを見ていると、そこには、ひとつの傾向がある。
欲望や探求心の強かった者、そしてさらにそういう欲望や探求心を
剥き出しにして生きてきた者のほうが、あっけなく見性する場合が多いのだ。
逆に、欲望や自我が潜在的に抑圧されていただけで、
その出番がいまだなかったままに座禅などを始めた場合は、全く心境が進まなくなる。
この原因は非常に単純だ。欲望が希薄ならばいいが、希薄なのではなく、
単に抑制しただけの場合が最も大きな問題を引き起こす。
欲望が本人の自覚として希薄であるから「自分は欲望はない」という
勘違いをする者がよくいる。
だがそのような者は静かにさせておけば問題はないが、追い詰めると
一気に欲望も攻撃性もあっという間に浮上する。

したがって、自分になんらかの悔恨があるかないかというものは、
本人の自覚とは関係がない。見て見ぬふりをするのはエゴの得意技だからだ。
なんであれ、何かを『途中で取り上げる』というものは、徹底的なトラウマになる。
中途半端にされたものは必ず悔恨を残す。
よく座禅オタクなどは「自分にはそんな大それた欲望はない」と言うが
彼らを四方八方からつっつけば、欲望などいくらでも出て来るものである。
欲望というものはそれ自体は全く悪いものではない。正常な欲望はいくらでもある。
食欲、性欲、眠ることなどの最低限の肉体生存の手段に限れば
欲望そのものは不幸を作り出さない。
我々の不幸の99パーセントは肉体の生存に全く関係ないか、
あるいは間接的に脅威になるような社会的なイザコザと行き過ぎた欲望ばかりだ。

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シンプルさ、というものは、情報の複雑性に心底苦しんだ場合にだけ効力がある。
複雑な論理や困難な修行、あるいは伝統的に保証された道というものをエゴは好む。
なぜならば、そこで奮起する自分のエゴが満たされるからだ。
自分がやっているんだという自我が喜べる。
ところが、エゴは単純化や本当の簡素の中には住めないものだ。
そこではエゴが窒息してしまう。エゴは単純性には退屈してしまう。
いままで、やり手で優等生だったあなたの自我に、
学習という課題が与えられなくなってしまう。
自分の存在を無意味にされることをエゴは最も恐れる。
だが仏教もTAOも禅もEOイズムも、目指すものはただひとつ。
まさに、そのエゴを殺してしまうことにある。

*********
苦というものは、あなたが、「せっかく堕ちるときに、堕ちまいとする葛藤であり、
せっかく昇る時に、下にしがみつく葛藤である」。
常に、苦は、2つのものの間でのみ起きる。しかし、「ひとつ」しかない場合には、
それは葛藤にもならず、また、自他共に、それは有害にもならない。

殺人者、そして怒りの感情、不愉快な重さの感情、あるいは不愉快な軽さの感情、
これらが起きる原因は、常に自己矛盾した「二つの欲望の葛藤の結果」である。

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本当に、すべてをよし、とするならば、
あなたはまず何ひとつも『善し』と考えてはならない。
本当にあるがままにしたいなら、
あなたは二度と、あるがまま、などとは言ってはならない。
和尚は最後のただひとつの真実の「自由」は、『自分』からの自由だ、と述べたが、
別の観点から言うならば、最後のただひとつの真実の自由は、
『自由という観念』からの『自由』だ、という事なのである。

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たとえ大それた目標ではなく、どんなに日常のささいな希望であっても、

希望こそが、障害である。そして『絶望こそが真の真空である』。
なぜならば、希望の中でのみ、マインドは生き延びるからだ。
しかし、絶望の中では、マインドには出番はない。
希望は、未来への憶測の中にしか存在できないからだ。
だから絶望こそが、『いま、ここ』への扉である。

*********
もしも、どこかであなたが心理的に揺らいだら、何度も思い出すとよい。
『今、自分に死ぬ瞬間が来たら、何が問題なのか?』
他人がそこで問題になるわけがない。世界がそこで問題であるわけがない。
たったひとり、『死ぬ、あなた一人』が問題になるだけだ。
だから、道は、最後まで『TAOの一人芝居』である事は忘れてはならない。
それは、周囲との関係性の中ではなく、TAOそれ自体の調和の中に
完結している道
だ。極論すれば・・・というよりも、極論ではなく、
実際問題としても、それは決して、「人間の為の道」ではない。そうではなく
意識それ自体の為の旅である。
だから、悟りが、世間や世界や人間とどう関係するのかという事や、
そういう論議には、決してかかわってはならない。
そういうことは、意識が外の幻想へと向かってしまうからだ。

関係性から、自分を位置づける癖があるかぎりは、
誰一人として幸福になり得ない。
完全に、個人のその内部の中心に至らねば
世界のすべては中途半端な「協調」にすぎなくなる。
そういうウソの表面的な協調が本当の調和を生むことなどあり得ない。

*********
自分たった一人の中に至福感を持てない人間が、いくら他者の為になどなろうとしても、
ただのひとつも、それは成し得ないばかりか、他人に有害ですらある。

*********
悟りや光明といったものはあなたのお祭り騒ぎや、
くだらない精神世界プロモーションの手に追えるものではない。
あなたたちが、彼らを「自己顕示欲」や「欲求不満のダシ」にして騒ぐことは出来ても、
実際の悟りの意識そのものが、ヒット曲のごときブームになることなどは、あり得ない。
したがってあなたが導師を探す事も結局は無駄であり、
あなたの努力の量も無駄であり、
知識を溜め込んだところで無駄であり、
悟りとは、このようなものだろうという幻想を積み立てたところで、全くの無駄であり、
そして怠惰にすぎない無為もまた無駄である。
だから、決して『一般化しないこの道』をもしも、あなたが本当に望むというならば、
それはどのように行くべきか?。それは、あなたが、完全な『独り』でゆくべきだ。

*********
たとえば、ちょっとばかり仏法を分かったと思い込んだ人間が寺にいて、はたして
彼は、根源の深みから「くつろげる」だろうか?。それは無理だ。
自分が何か分かったと思っている人間が、
他人より低い「底辺」にいられるわけがあるまい。
そして、それこそ(比較)が彼に苦を生み出す。

女性にしても、これは同じことだ。他の母親より親らしくとか、
他の母親とせめて「人並み」に同じであろうとする。
これもまた利口であったり、「まとも」であろうとする事であり、
つまりは「気違い」になる原因を作る『緊張』に外ならない。

*********
いくつかの大事な点を、探求者や瞑想者が、よく誤解するのだが、まず誤解の第1は、
その立会人を「自覚する」というのは『立会人に在ること』を妨げるということである。
第2の誤解は、立会人とか、観照者とか、本質とか真我とか、
そういったものに到達できれば、何かがよくなる、変わる、自分が落ち着く
少なくとも自分は改善される、よい方向にいく、という期待である。

つまり、『ごほうび』に目がくらんだ状態で、心が雑音を立てていては、
瞑想になりようがないのだ。
しかし、この心の騒音は、なかなか気がつかないぐらいに小さい場合が多いのも
難点のひとつだ。何も、悟りだ、光明だと騒いでいるつもりは全くない人でも、
『わずかでも自己改善や自分の変化という期待』がそこにあると、
その僅かな心の騒音が原因で、瞑想は台なしになるのである。

*********
しかし、瞑想とは手段ではなく、そこで完結した『今』のことであり、
立会人そのものへあなたが『溶解』する事なのだ。
むろん、サニヤシンも禅僧も、「今」こそが実在であることは言うだろう。
しかし、なんのために、そんな「今ここ教」という宗教にのめり込んだかと言えば、
彼らには、そして、あなたにも、『自己改善』という目的が、
その「そもそもの発端」にあったはずなのだ。
そして、その「発端の欲望」は、決してまだ消えていない
だから、これこそが問題なのだ。
自我が、「自分を改善しようとして始めた」、どんな努力も瞑想も、
その発端が『自我が、自己満足するため』のものであるかぎりは、
その自我は、じーっと何十年も瞑想していても、心の奥に隠れて
「いつ、俺の望んだ満足が現れるのか」を待っているのだ。
しかも、それは、とても、気がつきにくい。

*********
瞑想や探求の動機は、実に単純だったということだ。
そして、その動機は、真の意味では「精神的な動機」などではあり得ない。
それは常に、生存への恐怖、適応への恐怖、変化への羨望、
自己変化への、あなたの期待などから始まったからだ。
つまり、その発端の最初が『不満から』はじまったものが
最後に『満足』に到達するわけは絶対にないのだ

*********
精神世界の誰も『光明』に憧れるあなたを間違いだとは言うまい。だが、二人だけ、
それを間違いだと言う者がいる。ひとりはEO、もうひとりはクリシュナムルティーだ。
彼は言う『まず、求めないことを学びなさい』。
エゴが、遠い過去に自分に課した『自己変化』という課題を持っているかぎりは、
その理想と現実を照らし合わせて、
その瞑想の『成果』を常に確認しようとすることだろう。
これゆえに『瞑想者が、瞑想そのものの中に消え去ること』ができなくなる。

*********
『観照者』や『立会人』という用語は、私は大嫌いだ。なぜならばそこには
『見ること』『立ち会うこと』という「行為」を連想させるからだ。
だが、実は『幸福で在る』ためには、内面を見たり、心や感情への観照を
することすら必要ないのだ。
満足は最初から誰の助けもなく、あなたのエゴの努力の助けもなく、
それ自身でずーっと満足しきっている。
ただ、あなたさえ、余計な事を『やりさえ』しなければ・・・。

*********
もしも、世界、宇宙、人々、魂の進化、愛、これらが、
完全に無目的で、無意味と看破された後ならば、瞑想には「目的がなくなる」だろう。
そこでは、純粋に瞑想を味わい、楽しむことができる
しかし探求のそもそも発端が、『自己改善』からであるとしたら、
『改善』とは『何かよい状態』を目指すことであり、その『良い』という基準は、
森羅万象に対するあなたの何かの意義の期待を投影して生まれる『良い』である。
そうすると、瞑想が瞑想として完結せずに『これは意味ある瞑想だ』という、あなたの
思考の投影が始まってしまう。

*********
自分が現在経験中の何かを、あなたが、ちょっとでも振り返ると
そこに、あなたは『内省』『反省』といったものを生み出す。
しかし、これが、存在そのものとの距離を生んでしまうのだ。
あなたの経験は、そこで客体化されてしまう。(見られたものになる)
すると、そこには『見る者としての自己』という認識をしてしまう。
ただそこで起きていることへの、こうした客体化の連続は、やがて、
それに立ち会っているのは、『自分の意識だ』などと思うようになる。

かくして人がまず『自分の』をつけるのは『自分の意識』に対してである。
(『私の思考』『私の物だ』、というのは、二次的なことである)。
しかし、それが「自分の意識」である証拠は、何ひとつもないのである。
だから意識とは、ただの意識である。むろん、宇宙意識ですらない。
それは「変容の橋になる」とか言って
価値づけされたり美化されるべきものではない
それは、当たり前の意識である、などと
意識というものを、あなたや私がそう名付けたその瞬間に、
「ただ在る」という事から、我々は転落してしまうのだ。
その時には、我々は、「ただ在る」のでなく、
『ゴチャゴチャしながら在る』というわけなのだ。

*********
基本的には、価値観と価値観が相対していては、一切の論議は無駄である。
なんらかの有益な論議が可能なのは、見性した者がいる場合に限られる。
だから、私は決着がつくまでは、完全に「個=独り」に戻れという。
今の時点で、あなたが誰に何を言おうが間違い以外のことは言えないからだ。
仮に、私の本を貸したり、私の本の一節を抜粋してそのまま誰かに渡したとしても、
それでもあなたは間違いしか起こせないのだ。
なぜならばその私の文書の言葉が、
相手にとって、その時に必要であるかどうかの判断が出来ない状態で、
そういうものを相手に渡すことは、混乱しか生み出さないからだ。
TAOにおいては、話の「内容」が問題ではなく、
話される状況全体が問題であるように、
EOの話題においても、問題は内容の是非や整合性ではなく、
それが「相手に、今、はたして必要かどうか」の判断力である。
だから、見性しないかぎりは、あなたは何をやっても間違いしか引き起こせない。

*********
悟っていないのなら「他人に対して、何ひとつ道の事を口に出すな」が原則であり、
それはまた、しゃべりたがるエゴにとっての良き修行にもなり、
また実質的にも、他人に対して無害であり得る。(そうしなければ
単なる住宅街を徘徊している聖書の布教屋どもみたいになってしまうからだ。)

*********
私は、繰り返し、実習者に、「価値、無価値の問題ではなく、あなた本人の苦に
この道が必要かどうかが最後まで問題になる」、と言い続けるのだ。
個人の問題として、必要でやっている行法なら、それは他人には関係ないからだ。
EOイズムは同じ思索の道を通ったり苦を通った者でなくては共有は出来ないし、
しようとしてもならない。世間から言わせれば、この道は、全く「無用」なのだ。
だから、ふたつのものが、この道で最後まで影響する。
ひとつは、今述べた、『必要性が最大の動力』である場合
もうひとつは、意識や無知である事が、利口な思考であることよりも、
『好み』として『好きであるかどうか』だ。
これ以外のものは、道をゆく動力になり得ない。
価値はその動力にならない。「無価値という論理」もまた動力にならない。
他人と、「話題や概念を共有したいという甘え」は、動力になり得ない。

*********
エゴは目的を忘れて「手段」にしがみつくという悪癖をもつ。
エゴは常に臆病だから「確実」な手法の中にいたがるのだ。
しかし、手法とは、あくまでも踏み台であって、
不確定な神秘の向こう岸に行くためのものであり、
決して、エゴがその手法を何度も確認して『我が物』にする為にあるのではない。
そんな事をしたら、いつまでたっても、あなたは「入り口」にしがみつくことになる。
これが、いくらサニヤシンや禅僧が瞑想をしても、依然として
目的志向のエゴそのものの魂胆が変わらない、その最大の理由である事は、
さんざん私は本に書いたはずである。




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