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雑話集/第1話
「おくればせ」ながら、とうとう無明庵にもパソコンが設置されました。 私はパソコンが魔術的な理由から大嫌いである。だから自分で買ったわけではない。 これから先、パソコンがないと、ごく普通の日常生活にすら支障をきたすという状況 がこない限り、私はパソコンを使うつもりはなかった。しかし、今回、なりゆきで 他人から贈呈されてしまったので、これも何かの縁と感じて素直に受け取り、今、 ガイドを見ながらいじっている。 ところで私はシンセサイザーがまだアナログで発売された頃(私が高校生のころ) に真っ先に、楽器店に毎日毎日通い詰めて店員に操作法を教わっていたりした。 まだムーグシステムやオーバーハイム、アープ、国内ではローランドやコルグなどの シンセが店に宝物のように飾られているだけで、シンセ教室さえない初期の時代だった。 ということで、元来私は電子機器そのものや機械いじりが嫌いなわけではない。ただ、 ことパソコン、それも文書編集機能や、インターネットでの情報検索機能に限っては、 ある理由から私は今でも、それらのシステムを敬遠している。以下に、その理由に ついての雑談をしてみたい。 ・・・・・・・・・ 8/24***方斬 いろいろと、パソコンについては、反感を持ったり、本でも書いたが、 自分でやってゆくうちに、何が問題なのか、少し感覚的に分かった。 なんといっても、私のようなタイプの物書きにとって最大の問題なのが 起動するまでの待ち時間。これははっきり言って辛い。(約2分弱)。 オフィスのようなところならば、電源を入れっぱなしでスリープ状態にも 出来るが自宅ではそうもいかない。 この待ち時間の間に、突発的に頭の中に沸いた言葉などは、 みんなどこかへ吹っ飛んでしまう。 だから、起動するまでは、それこそメモでも取りながらでも内面的な テンションを維持しなければ、とても私にはモノが書けない。 私の場合、今使っている普通のワープロの、たったの10〜15秒の 待機時間でさえも、ひどく、うっとおしい事がよくある。 実際、それは一秒ごとに頭から「何か」が消えてしまうのである。 ・・で、結局問題なのは、 人間が瞬間的に何かを思いついてから、 それが何かの形で物体(または物質)になるまでの間に、 『多くのファクターや処理』が加わると、 それを生み出した『元の意識に内在していた力』がひどく薄まるという事である。 極端に言えば手書きの文字は思考をほとんど瞬時に表現するので一番良い。 ただし、筆記速度やワープロの印字速度が、口で言葉にするのと同じ速度であれば、 言葉よりも文字が劣るという事はないという面はある。 ただし、文字には『ペンと紙』という要素が入っているので、 すでに、そこに刻印される『意識の濃度』は、少し薄くなるはず。 余談だが、こうした事を考えると、物書きやマンガ家にとっては、 実は、『愛用のペンと愛用の紙』を選ぶことが、かなり重要だと 分かった。・・・・・・・・・ さて、とにかく、原則として、意識から生まれた何かに、 「道具」と「工程」が加わると、伝達されるものに含まれていた 『天然の栄養素』のようなものが、どんどん薄くなるという話。 ・・では、ワープロとパソコンの違いはというと、 パソコンは起動時間が長い事以外にも、 その内部に『あまりにも多くの処理』があるために、便利で複雑な分だけ、 そこを情報が通過するうちに、どんどんと元の意識の濃度が薄くなると思われる。 また、仮に、起動時間から、処理速度がメチャクチャ速くなったとしても、 結局は「通過する処理ファクター」が多いので、意識エネルギーが薄まる という弊害にはなんの変わりもない。 というのも、昔の単純な、本当に「ただ、文字が打てるだけのワープロ」で 作られた他人や自分の手紙などを、今あらためて見ると、それは最近のパソコン による印字とは全く違うものが、そこに生き残っているという事が実によく分かった。 だから、EOシリーズの『まんだらけ出版部』からの初版5冊を、 EO師が実際に使っていた古いワープロを使って版下として印刷した事は、 あの当時は、成り行きと、私個人の直感でそうしたのだが、 それがEO師の「実際の気配そのものを刻印する」には非常に大きな効果が あったという事が、いまさらのように理解された。 ・・・・・・・・・ ということで、皆さんも、もしも、出来るだけ自分の意識エネルギーの こもった文章や手紙を生み出したいならば、手書きで書かないならば、 昔のワープロを使うとよい。 もしも何かの機会があったら、本当に安くて(なんとか手持ちのパソコンと 互換性やデータの変換出来る可能性がある)『昔のワープロ』を ディスカウントで買うとよいだろう。 ・・・・・・・・・ とにかく、瞬時に思いついた事を、すぐに表現出来る態勢に入ること。 これは、物書きでなくても、我々人間の意識にとって、非常に重要な事なのである。 そして物質化するまでに、その過程で「処理要素」「ネットワーク連結」がなるべく 少ないこと。 ということで、最近私がパソコンをやりながら、手を休めると、 すぐに棒手裏剣を投げているのは、このあたりの大きなギャップを埋めて、 バランスをとるのに良いからなのだろう。 手裏剣術の場合には、意識が瞬時に身体と一致するので。 ところで、手裏剣に興味のある人は、下記のサイトがお勧めですので、一度ご覧くだ さい。かなり珍しいサイトです。 手裏剣術は、もともとから秘伝的な要素が強いので、 むろん、すべての技を公開しているわけではありませんが、 初心者の入門編としては、最適のサイトです。 他の武術サイトとは違って、変てこな術理やら、合気道との関係の うんちくなどは出てこない、純然たる手裏剣術のサイトです。 「明府真影流手裏剣術」:= http://www.hello.co.jp/~usa0277/ 方斬 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ * 黒間の追稿 やはり、メッセージがメールで来るのと、FAXで来るのと 大分違うようです。 どのメールも同じフォントで読むせいもあるでしょうが、 とにかく変な感じです。 今まで他の人からのメールではそれほど感じなかったのですが、 方斬氏からは、いつもFAXや郵便で来るのに慣れていたので 余計感じるのかもしれません。 それとは別に、昔からコンピューターに向かうと、何となく せわしい感じがするので、「何でだろう?」と思っていました。 現在のコンピューターはもともと大砲の弾の弾道計算用として 開発された歴史があるので、あせって計算して敵に弾を当てようと する意識が根っこにあったり、その後の金利計算や顧客管理の 堅い枠組みがかなり影響して、いろいろな魂胆がちらちらして いるのかもしれません。 その点ワープロは、特に日本の場合はタイプライターに相当する のどかな目的で作られたので、おとなしい機械なのでしょう。 FAXも単純な機械で割と可愛い。 もしかしたらコンピューターに限らず、「思考というもの」がもともと あせって「どうしよう?!」と計算してしまうことから始まり、 何やらせわしげな雰囲気を背負って生まれて来た出生の秘密のせい なのかもしれないと思いました。 開設者 からコンピューター(ソフト、ハード)メーカー各位への要望 1.音のしないマシンを作って欲しい。(冷却ファンの音、ハードディスクの音、 電子回路が発生している高周波音の全てを極力減らし、さらに遮音ケースに 入れれば良い。CPU等の発する熱でガス冷蔵庫のように冷却できる筈だ) 2.立ち上がりの早いマシンを作って欲しい。(OSの核だけをブート時にロードし、 後は必要に応じて初期化していくとかいくらでもやり方はあるだろうに。) 3.OSは、暴走アプリによってシステムを簡単にいじくられてしまうような 無意識なものでなく、どのアプリが何をしているのかいつも知っている ものにして欲しい。現在のコンピューターは学級崩壊のクラスとおんなじである。 4.コンピューターは、情報処理(データベース管理)の機械なのだから、あらゆる データフォーマットに対応できるデータベース処理言語を開発して、OSから その言語で作って欲しい。つまり、OSにアプリが使える(使い物になる) 超汎用データベースエンジンが組み込まれているべきだ。 もし、この意味が分かる人がいたら、D言語でも作ってください。お願いします。 5.キーボードの配置をユーザーが自由に入れ替えられるようにしておいて欲しい。 今のWindowsでも、キーボードドライバーを書けばいいだけでしょ。 それから、欧文フォントの表示や日本語との混在など、もう少し工夫して欲しい。 MS−Japanが馬鹿なのだが、特定のアプリや特定のウインドウには、 欧文フォント(または日本語フォント)しか使用しないように、OSレベルで 登録できるようになっていれば良いだけなのに。Sendfont等のユーティリティーも あるが、肝心なアプリで効かない場合も多い。 6.結論:以上の2から5まで、私の不満のほとんどはOSの情けなさに由来している。 つまらないオモチャ(スクリーンセーバー、アニメーション、うるさい音等)に 手をかける暇があったら、基本的なところをどうにかして欲しい。 他のOSで仕事に必要なソフトを揃えたり環境を整えるのが面倒なので我慢して いるが、他にも嫌々MSに付き合っている人は多い筈だ。 Win98も出たことだし、Win95は、ソースを公開してパブリックドメイン にするとかして欲しいものだ。そうすれば、MSのバグと仕様のない仕様は、皆で どんどん手を入れて改善して上げるから、MSはそれをお手本にして新しいOSを 作れば良いだろう。 7.最後に方斬氏からメーカーへのお願いは、「ディスプレーやあらゆる光源を早く、 有機ELにして欲しい。」ということだそうです。
雑話集/第2話
EO師の本を出版するときに、原文はほとんど編集されていないのだが、構成、 つまり目次が編集された。 しかし、これは今思うと大変な失敗だった。もう取り返しはつかないが。 前の第1話で言ったように、何かが生み出された場合、その元のエネルギーは 何かの処理が加わるごとに(魔術的な次元では)、その威力が落ちてゆく。 EO師の文章も、もしも何も編集をしなかったとしたら、 それは、もともとは、「時間列順」に並んでいたものだった。 つまり、師が大悟する直前の「狂気のメモ」(これは書籍『反逆の宇宙』に 記載されています)から始まり、大悟直後のメモ、そして、最後に、 1994年の10月まで並ぶ事になっただろう。 しかし、それは毎日、あるいは、数時間、数分ごと、一話ごとに、 内容がどんどんと変化し、また師が出会った人それぞれに応じて、 そのつど、相手に応じた、全く違う話が飛び出していた。 従って、無明庵では、書籍の形にする作業では、常識的に考えれば、 「内容別に」整理せざるを得なかった。 しかし、この読者に「分かりやすく」という良心的な動機から行われる、 「内容の整理整頓」というやつが、実は、EO師がその心身全体から発信した 『元の力』を半減させてしまったという反省が私にはある。 真実を言えば、執筆の内容などは、整理されていなくてよいものだった。また、 これはEO師に限らず、どんな人の書いたものであれ、 著者(または作者)の『時間的な変化』を、ありのままに、そのままに 表現するのが、一番正しい表現方法だと言える。 いや、「正しい」というよりも、 それが著者が発信したエネルギーを最も効率良く印刷物に刻印する 方法であると言い換えるべきだろう。 読者は、その著者と同じ時間的変化を感じ取り、体験できるのだから。 確かに学術論文や、実用書や、何かのガイドブックならば、 目次を分かりやすく整理するのが良いだろう。 しかし、特に大悟した者の『説法』という、 この世で最も神秘的な作品だけは、そこにいかなる編集もしては ならないものだと、今になって、やっと理解をした次第である。 といっても、今さら、遅いのだが・・・・・・・・・。 ***************************
雑話集/第3話
雑談3(1999方斬/8/26)99年度/ミステリーサークル
とにかく、美しい・・・・・・・・・ そこに含まれた意味とか、誰が作ったのかという問題よりも、 まずは「アート」としての、その美しさを観る事をお勧めします。 『虚無宇宙からの伝言』のリンク集にある、 英語サイトの1999年をクリックして最新のサークルの写真を ぜひご覧ください。 ・・・・・・・・・ ところで、EO師がまだ大悟する以前に書いたメモの中に、 実はクロップサークルに関する記述がありました。 EO師が当時言ったのは、 『図形そのものには大した意味は実は何もない。ただの落書きだよ。 ただし、あの作図行為そのものは、ある宇宙系の民族意識があの地域に 定着するのに必要な儀式のようなものだね。 ただし、笑える事に、当の本人たちは、その事には全く無関心で、 ただただ、楽しんで落書きをしているだけなんだ。』という事でした。 しかしひとつ興味深いのは、EO師が生きていた1994年には、 当時まだ出現していなかった『浮き彫りサークル(つまり、麦を倒し残 して描く手法)』に関して、それが現れる事をEO師が何年も前に予見 していた事です。 ・・・・・・・・・ さて、私(方斬)のサークルに対する感想ですが、 おおよそ以下のようになります。 1.図形そのものの作図に使われるプログラムそのものは、 「フラクタル図形」や一部の「渦巻き模様」などを除けば、 実に単純で、ごく初歩的な作図機のプログラムで可能なものである。 つまり、絵画的なものがまだ描かれていないところを見ると、 極端に美的センス(あくまでも地球的な意味でだが)があったり、 恐ろしく知性が高いとは思えない。 2.誰がこれを描いたかはともかくとして、 これが描かれる瞬間のビデオが去年、日本テレビで放映されたように、 わずか数秒でサークルが形成される事から、 これらの図形は、あらかじめどこか(もしもUFOだとするならば、 その中で)模様の作図が済んでから、一気に畑にそれを投射したのだと 推測される。 3.去年あたりから、私が非常に面白いと思ったのは、 図形には、あきらかに「作者が数名いる」という事です。 というのも、図形をよく観察して分類してゆくと、 いくつかの独特の個性があります。 私が見た限り、大ざっぱに分類すると次のようになりました。 冗談で、作者を「君付け」で言いますと、 ムカデ君、または、三日月君・・・・・・・・・ この生き物は規則的な螺旋の弧にそって、円をやたらに配置するのが とてもお好きなようです。それに三日月をよく描く。 六角君・・・・・・・・・ この生き物は、その名の通り、やたらに6角形構造が好きなようです。 浮き彫り君・・・・・・・・・ この生き物は、前記した浮き彫り手法がお好きなようです。 四角君・・・・・・・・・ 比較的最近現れたもので、円にしろ、何にしろ、4角形、または菱形に 配置したがるようです。今年は手裏剣そつくりの図形を描いていた。 また、上記のどの作者なのかは分かりませんが、 「相似形の図形」をやたらに多く配置する癖の作者がいるようです。 9角君・・・・・・・・・ これは1999年の最も大きな特徴で、今まで、奇数角の図形では、 3角、5角、7角などはありましたが今年は9角がいくつかあります。 よくわからない君・・・・・・・・・ ぐちゃぐちゃになったような模様を描いた生物で、 たぶんこれは失敗作か、あるいは「抽象派」のアーティストなのだろう。 ***************************
(クロップサークル)についての感想サークルの「本物」と「偽物」の見分け方。
まず本物は、 1/もしも出来たばかりで、まだ人が入っていなければだが、 上空から見た時に麦の反射面がまるで「ビロード」のように美しい事。 ただし、これはその作物の生育状態(何月ごろに、どんな植物の畑に 出来たか)にも影響されるし、 出来てから日が経つと自然に崩れて来るので、 「麦の反射が汚いサークルは絶対に偽物」という事ではありません。 2/それと、浮き彫り型で、しかも複雑な模様は、まず本物だろう。 ただ倒すならば棒とロープによって人間でも出来るが、 中心に足跡も残さずにあれだけエッジを美しく残して描くというのは、 もしも人間がやったら、かなり手間がかかるだろう。 3/形成されたと思われる、およその時刻が判明しているサークルで、 真っ昼間に、ハイウエイのすぐ近くで形成されたもの。 もしも人間がやったら、絶対にドライバーに目撃されてしまうので。 4/逆に、偽物に関しては、「極端に地球的なもの」・・・たとえば、 生命の樹や、燭台などのユダヤ的なデザイン、あるいは東洋の曼陀羅の 基本構造に似たものは、それがいかに美しく描かれていても、 いちおうは、疑ったほうがよい。 というのも、今までの過去約10年の傾向からすると、 サークルを描いている知性体?は、 地球の規制の図形をそのままで「模写」する事はほとんどない。 (だいぶ以前に描かれたフラクタル図形を別にすれば) 確かに見た目が魔法陣のようなペンタグラム模様などもあるが、 どれもこれも、彼らの「個性的な模様」に仕上がっており、 何かの魔法陣をそのまま「模写」した事はほとんどない。 5/前記したように、麦の状態や、出来てからの日数によって、 サークルは、ある程度荒れてしまうが、 それでも、本物にはどこか「気品」がある。 6/一方1999年になっても、まだあきらかに人間が作り上げたもの もあり、それらのサークルは、線のエッジの精度において常に不完全で ある。また、極端に小さなサークルも、いちおう疑ったほうがよい。 ********* 誰が作ったのか?? 世間では、諸説紛々あるが、今のところは、私個人としては地球外、 または、この地球上にいても、我々には未知の次元の生き物だと 感じています。(根拠ありません) たとえば、国防省が開発した兵器の初歩実験にしては図形に 「気品がありすぎる」し、それに、何も他人様の畑で実験することも なかろう。 そして、どうも、作者たちにはあまり「真面目腐った雰囲気」がない。 以前、私はサークルについて、知人とジョークを言って大笑いしたもの だが、その「ジョーク」というのは、こうです。 実は、あれらの図形幾何学は、 宇宙では「ものすごくヒワイで下品な意味のもの」だったりして、 彼らは、地球でしか、あの落書きが出来ないのかもしれない。 ・・・・・・・・・ さて、最後に、私の直感なのだが、 今まで、サークルというと、「形成された後」に調査をしている。 しかし、少しだけ深読みをすると、実はあらかじめ畑に「下書き」が なされていて、その後で、小さな球体が飛来して一気にサークルを形成 しているという事も考えられる。 だから、軍なり民間の調査組織は、一度、真っ昼間に、 まだサークルのない畑を、赤外線カメラその他の探知装置で上空から 撮影するといいだろう。 もしかすると「下書き」が描かれているのを発見できるかもしれないので。 ・・・・・・・・・
雑話集/第4話
聴くと死ぬ音楽・・??
「貞子の呪い」の場合は、見ると死ぬビデオとかディスクなのだが、 実際にその手のものはあるようだ。 今年、たけしの「アンビリバボー」でも放映されたが、 『舞うと死ぬ舞い』というのがあるらしい。 ならば、舞うのでなく「ただ聴いても死ぬのかな?」と思って、 私は、その雅楽のCDを注文してみた。 タイトルは『雅楽の稀曲』日本コロンビアCOCF−7058 の中に収録されている「採桑老」(さいそうろう)という7分 ちょっとの曲である。 別のサイトを見たら、実際に雅亭会という所のメンバーが、 この舞を舞ってみたが、無事に終わり、別に何事も起きなかったらしい。 ・・・・・・・・・ しかし、私個人の感覚では、この雅楽は、かなり「キテいます」。 雅楽には全くの素人の私が聴いても、のっけから、とにかく危ない感じが する。 なんというか、空間が「歪むような」というか、 倍音・和音がちょっと耳慣れないというか、 とにかく、これは「危険曲」にいちおう推薦できると私は思う。 ということで、自殺したい人とか、 建前上、「自然死とか突然死」で死にたいという人には、 いちおう、お勧めのCDです。毎晩、かかさず寝る前に聴きましょう。癒し音楽の裏側には
さて、世の中、やれ「癒し音楽」だとか、農作物の成長に良い音楽だ、 とか、そういう事で、あいかわらず商売をしているが、 実は、私は10年以上前に、物好きな事に「聴くと病気になる音楽」を、 自分で作った事がある。 「エクトロイ」というタイトルで、むろんどこでも売っていません。 曲名はすべて西洋(それも特にユダヤ教やキリスト教で敵視されている) 悪魔の名前ばかりで、曲としては、現代音楽?、または単にシンセ音を 何回か重ねただけのものだった。 ただ、これを創っている時には、とにかく「不快な音」 「心身のバランスが崩れそうな音」ばかりを必死に探して、 アナログ式のシンセサイザーで合成して、録音をした。 それで、どうなったかというと、私はそれから1ケ月後に、 胸膜炎で、約30日入院するはめになった。 余談だが、そういえば、EO師の部屋にも、時代物のアナログシンセが あったので、そんな話題で師と盛り上がったこともあった。 ただ、師のはコルグ社ので、私のはローランドのだったので、 残念ながらアナログ同士では制御電圧の違いから互換性を作るのには、 やや手間がかかり、繋げたことはなかった。 なお、かつて、門下が行法に使っていたガイド音テープは、EO師が直接に 編集して記録したデータを、私のシンセで再生したものであった。 ・・・・・・・・・・ 癒しの音楽があるならば、当然、「病みの音楽」があって当然である。 癒しの音楽に法則性があるならば、その法則を逆に使えば、 「病み」の音楽が出来るのは当然の事である。 ところが、実は、この「病みの音楽」は、 けっこう世の中に溢れているのである。 といっても、ヘビメタがそうだとかという話ではない。 それは音量やテンポの問題ではないからだ。 よく、アルファー波がどうのこうのといって、 馬鹿のひとつ覚えみたいに8ヘルツから12ヘルツのパルスを、 耳や目に刺激する方法があるが、 そういうものよりも、「特殊な倍音構造」、あるいは「特殊な不協和音」の ほうが、簡単に身体に病みを引き起こしやすいと私は見ている。 だから、低周波公害ではなくても、ごく普通の音域でも有害な音という ものがある。 日常生活の中では、極端に「病みの効果」があるのは、それほど多くは ないが、たまにテレビ番組の「効果音」や 「CMの中の音」でそういうのがあったりする。 あとは、工事現場から聞こえる音の中で、その全部ではないが、 「一部の機械音」がかなり「病み系のサウンド」に似ている。 ・・・・・・・・・ ところで、いろいろな騒音が混ざると、結局は「ホワイトノイズ」に なるので、単に、「騒音に囲まれていると悪い」という事ではない。 ちょうど3原色の光を混ぜると白光になるように、 音も全部混ぜてしまうと、いわゆるテレビの何も映っていないチャンネル の「ザーッ」という音になってしまう。 これは川の濁流の音や、海の波の音に近いものだから人体に有害ではない。 それどころか、このノイズ音は、 「赤ん坊がすぐに泣き止む音」としても知られ ている。 だから、単なる騒音ではなく、 「ある周波数だけを抽出して組み合わせような音」 や、「特殊な和音が長く継続する音」が危ない。 雅楽というのは、その点で、長く継続する音があるので、 偶然に、そういう音が出来てしまってもおかしくはない。 雅楽は、もともとが宗教儀式的な要素のものものだけに、 逆に言えば、ちょっとした組み合わせの変更で、 「病み系サウンド」にもなるのである。 ……… 聴いた感じが、病み系に「似ているだけ」のものならば、 ごく初期の電子音楽のリゲティーの作品などにもあるが、 あれは病み系ではない。 (リゲティーと聞いても分からない人は、『2001年宇宙の旅』の BGMに使われていた音といえば分かるだろう) ・・・・・・・・・ ということで、呪いの音楽・・・『採桑老』の曲を 聴いてみて、体調を崩したり、急死したという 情報があったら、ぜひ、メールをお寄せください。 ********* ちなみに、とりあえず、私はまだ生きています。 鈴木方斬 8/30 たけしの「アンビリバボー」のURL http://www.fujitv.co.jp/jp/unb/
アンチ・ヒーリング音楽ありき
EO師が言及した
BY:方斬(1999 9/27)
「ダイジ」「麻原」についての記録。その1***
何も、EO師に限らず、どの覚者たちにも言えることであるが、 周囲の者は「対機法」という現象を勘定に入れなければならない。 最近、ある読者から無明庵のサイトへの抗議を戴いた事がある。 EO師がダンテスを「禅師」としては非常に高く評価している、 その一方で(地球史全体の尺度の中で見れば)「2番煎じである」 と述べていたEO師の文書を{そこだけ部分読み}をして、 その挙句に、えらく腹を立てた抗議をしてきた事があった。 しかし、私はあの「EO師に関する方斬メモ」の一番冒頭で 「これは私にあてた師からの手紙の抜粋である」と書いてある。 ( http://www.age.ne.jp/x/mumyouan/e/eoho1.html )を参照。 * 相対アドレス指定はこちらから すなわち、EO師の著作の「そのすべて」における、 最も「厄介な問題」とは、 あの膨大な原稿が不特定多数ではなく、何人かの「個人」に 向けられた「手紙」であり、その中で「時には」、 人類全体をもその話題の対象としていた点である。 しかし多くの場合、EO師にとっては、常にその「個人」だけが その視界と弾道計算に入っていたようである。 なぜならば、探究をするのは集団でも社会でもなく、 常に「個人」だからである。 こうした「背景」からの説明をあえて、させて戴くとするならば、 当時、私(方斬)は、ダンテスに異常なまでに傾倒していたという 経緯がある。 それを感知したEO師が、あえて普段は評価しているダンテスを 多少こき下ろすことで、私の中に「全宇宙における普遍性」について 思索する機会を与えてくれ、絶妙に知のバランスを取ってくれた。 EO師は一環して誰かを評価したり批判するということはなく、 常に質問者である相手に応じて誰かを評価したり、 また逆に普段は評価している和尚をひどく悪く言ったりしていた。 「一体、本当のところはどうなのですか?」と弟子が問い正すと、 答えはこうでした。「お前・・・その「本当」が分からないから、 うちで死人禅みたいな馬鹿げた行法をやってんだろ。 だったら、そのお前に 「本当のところ」なんか分かるわけないだろう。 お馬鹿さん・・」
その2*********
ある個人の持つ幻想が「その探究者個人」にとって障害となると 見れば、それをそしり、逆にその幻想が(プロセスの一部として) 役に立つと思えば、口からどんな出任せでも言いのける。 それがEO師でした。 またこの方法は、EO師は探究者の偏った重心にバランスを取らせ る手法として使う、と同時に逆にバランスを「崩させる」のにも 日常的に使っておりました。それに対しては師は、 「バランスを崩すも、立て直すも、相対的には全く同じことだろ。 だから、私はその両方を使う」と言っておりました。 誰かがバランスを崩すことでこそ、そこで学ぶことがあると見た場合 には、徹底的にその探究者がEO師に対する不安と怒りを持つように、 わざと仕向けるような事も師は頻繁にしておりました。 また、なぜかEO師に全く関心を持てなくなるように意図的に操作する ことも頻繁でした。 多くの場合、彼らはそこでEO師から離れるのですが、 何年かしてから、「結果」としては、その当時のEO師の計らいに 感謝しているケースが多いようでした。 ><><><><><><><><>< 話が長くなりましたが、要約すれば、 「対機法」という形を取るために、EO師の言葉はたった数ページ の個人的な手紙の中でさえも相反・矛盾することが多々あります。 ただ、それを受け取った「個」にとっては、 その矛盾そのものが「その時」「その場」では必要であったという事に なるのかもしれません。 ただし、私の個人的な経験から言いますと、その結果が出るには、 何年もかかることがあります。その3*********
EO師は、 「自分は説法などしたくないし、もう何も書きたくない」というのが 毎日の口癖でした。それに対して、「どうして書くんですか」と 読者が尋ねた時があり、師は「その時」には、こう言いました。「その、「どうして」を言うお前らのせいじゃないか。 なんで、私にしゃべりたい事なんかあるというのだ。 私が私自身の事をしゃべって、それが一体何になる? 私は自分の過去について語るときでさえ、 それを「私の」思い出話としてなんか話しはしない。それらは、 今、そこにいる「あんたに関わる事」として話しているだけだ。 それに、私の話が嘘か本当かなど、どうでもいいことだろう。 なぜならば、君の目的は、あれこれの道を、どれが正しいのかと 「見極めること」ではなく、 あんたそのものが「道そのものになる事」のはずだ。 だったら、嘘でも本当でも、かまわず手当たり次第使えばいい。 「嘘では到達できない。嘘は真理への到達を妨げる、だから、 なるべく嘘のない導師や本を選ぶんだ・・・」とかなんとか言って、 あんたたちは、そんな事やっとるから、まっとうな絶望にすら ぶち当たらないままで、怠惰な生活の中に流されてゆく。 そして、こういうアホな事は、 インテリや本を読みすぎた連中に限ってやらかす愚かさの特徴だ。 いつまで経っても「あっちは凄い、こっちは偽者だ」などとやっておる。 だが、その「本人は、一体それでどうなった」と言うんだね。 正しいものと称するものを、 あっちから、こっちからコレクションして、その結果、 君そのものは、一体「どこ」に到達が出来たのかね?。 せいぜい「悟った可能性の高い人間のリスト」ぐらいしか作れまい。 そんなことなら、 「たった1個の嘘」からだって、人は悟りに到達し得るものなのだ。 たとえばだな、、、その「役に立つ1個の嘘」といえば、 こんな嘘がある。 君が、 今、そこに、 生きている・・・・という、大嘘」
第4話(どうでもいい蛇足)***
「君たちが、どの導師は本物だの、偽者だのと言うから、 ひとつの指針を覚えておくとよい」と述べて、数名の門下に コピーした文書からの抜粋をここに記しておきます。 「EO師は、オウムの麻原については、何も述べていない」と 今日の精神世界の中では言われておりますが、 以下は、たった一度だけ麻原について言及したという点では、 「ある分野の人たち」だけにとっては(多少は)希少価値のあるものと 思われましたので、記載しておきました。これを語った時期は確か、 当時、坂本弁護士の失踪事件とオウムとの関係が取り沙汰されていた ころだったように記憶しています。 ********* EO師曰く・・・「本物の賢者たちは、「それ」を言葉で表現するのに、 全員、非常な苦労をしてきた。 だが、偽者の覚者は自分の体験を言葉にするのに、苦労をしない。 それは、実に簡単に、あれこれのものと、安易に関連付けてしまい、 それによって彼らは自分を実体以上に他人に大きく見せようとする。 また、まだ一人の探究者である者もそうだ。彼らは、 自分の体験した神秘体験とやらを、いとも簡単に経典やら、 誰かの言葉と関連付けてしまい、 しかもそれを探究仲間の他人にまで言いふらす。 では、バグワンやクリシュナムルティー、バーナデットロバーツは その他はどうだったか。 実は、彼らは常に「造語」を作り出してきたのだ。というのも、 彼らはそんな簡単に自分の体験を言葉には出来なかったのだ。 「本物たち」は、例外なく常に「表現の困難さ」にぶち当たってきた。 下手に過去のものに関連づければ、弟子は誤解をする。 かといって、あまりに独自の表現を取ればこれも誤解する。 だからダンテスもまた彼独自の詩的表現を取らざるを得なかった。 そして私も。 私は、神秘体験も含めて、あらゆる「体験」は本質ではないと言わざる を得なかった。というのも、瞑想者たちは、とかく「体験」という 「商品名」に翻弄されるからだ。 ならば何かを体験していたら、一体どうだというのか?、 精神世界の中では、「体験」という言葉は「味」や「痛み」の 比喩を使って、とにかく「一番大切なもの」のように扱われてきた。 だが、私に言わせれば、どんな宗教体験もしょせんは虚構、 または副産物にすぎない。 本当に問題となるのは、我々はいかなる体験者でもないということだ。 我々はあらゆる「体験以前」をその本質としているという事だ。 体験として「認識されたもの」には、「体験者」と「対象」の分離がある。 たとえ一体になったといっても、もしもそこに「一体感」が伴うとしたら それは全くの虚構だ。本当の神秘体験には、全く「何もなく」、またそこでは、 「すべてがある」といってよい。どう言っても同じことなのだ。 こうした表現や方便の独自性については、 もしもあなたが悟ったとしたら、同じ事が必ずあなたにも起きるだろう。 つまり、それまで「他の誰一人として言わなかった要素や視点」 そして、雰囲気,気配といったものが、本物の大悟者には必ず、 自然に付随してくるものだ。単純に言えば、それはある種の「新鮮さ」だ。 ところが偽者には、まったくそうした鮮度がない。 たとえばオウムの麻原、彼には独自なものなどは何一つもない。 ただ、あっちから少しこっちから少しとガラクタを寄せ集めただけだ。 むろん、その原典となっている経典がガラクタなのではない。 彼の収集の趣味、そして、その合成の仕方がガラクタなのだ。 彼は自分を聖者のごとく装うためなら、東西南北から寄せ集めて、 なんでも利用する。そして、あれやこれやを、実に思慮なく 関連づけている。これは、大悟者には決してありえないことだ。 既に述べたように、光明の中にいる者たちは、 その表現において、それこそいちいち注釈が必要となるような、 いくつもの「独自の表現方法」を作り出さざるを得なかった。 私はまだ大悟していない時だったが、 当時、雑誌「トワイライトゾーン」に掲載されていた彼の文章や、 彼のあの「超能力・・なんたらかんたら」の著作を読んで、 私は、「間違いなく偽者」であるとすぐに判断した。 寄せ集めた知識を、すべて自分の論理に無理やりに定義づけてゆく者に 特有の「腐敗臭」がそこにあったからだ。そして何よりも、 他の本物に必ず感じる「切れ味」がない。 彼は、解脱や超能力と称して、あなたたちの「欲望」を誘惑はするだろう。 しかし、本物の賢者たちとは、逆に、あなたの欲望から見れば、 全く無価値に思えるような土地に、あなたを案内しようとするのだ。 一方、麻原は、あなたたちの欲望と世界像の予想範囲にいるにすぎない。 だが、和尚、クリシュナムルティー、ダイジ、EO、B・ロバーツ そして禅師たちは、あなたの欲望の動機そのもの、そして世界観を、 根底からひっくり返すような事を語り続けてきたのである。 彼らの言葉は常にあなたの「予測」を 「少しばかり裏切るように」作用するという特性がある。 だからこそ、あなたたちは、そこに「新鮮な香り」を感じるのだ。
1993年から1994年 無名庵の内部文書より。 ダンテス関係の情報があるサイト
http://www.geocities.co.jp/Milkyway/7365/body.html
第7話
「やはり、私はパソコンが嫌いだ」::方斬
なかなかない、為になる性のサイト 前の雑話がひさびさにマニアックに精神世界臭かったので、 ここでは一気に俗っぽくいきます。 「オーガズムを深め合う空間」の加筆をするために、インターネット嫌いの私も、 最近は、あちこちのサイトをかなり、うろつきました。 ただ、私には最初から最後まで、そこに明確な目的があるわけで、 それはたった一つ、「性意識と性知識の現状分析」でした。 というのも、そこから次の執筆の課題が発生するからである。 しかし、そうした性意識の現状分析に役立つサイトというのは、非常に稀で、 しっかりとアンケートで統計を取っていたり、開設者のポリシーが貫かれている ところは少ない。そういう点では、オーガズムのサイトに現在リンクを張っている、 日本のサイトでは、まだ「オナニストのページ」と「心のノート」だけ。 実は、ネットをやっていなかった私に代わって、黒間氏が、ここ2年、 国内、国外の相当のサイトを検索してくれていた。 「虹のオーガズム」の書籍は、そんな中で生まれてきたものであった。 ただ、「次は?」というと今のままでは、特に私には、書くテーマが浮かばない。管理者の人間性
余談だが、ここ数日、わざわざ移動形跡がわかるようなアクセスを繰り返して、 開設者にはっきりとわかるように、一人3役を演じてみたりしつつ、 そこのサイトの開設者の人間性と、そこに集まる人々の傾向を観察していた。 たとえば、「別のサイトの情報」や「異論」を流したときに、 そこの読者全員の利益を視野に入れた配慮をして、 それを有益情報として開設者が扱うか、それとも、 単なる宣伝や「掲示板荒らし」として嫌悪する態度に出るかなどである。 こうしたことは、実際の肉体のある人間を判断するのと結局は全く同じことで、 何よりも確かな判断が出来るのは、まずは、相手を怒らせてみる方法。 それに対する反応と応対の質で、開設者の人間性のほとんどすべてがわかる。 人間、誉めて持ち上げても見えないものも、率直な意見をぶつけてみたり、 わざと、適度に(観察という目的を逸脱しないように十分に加減しつつ)、 相手が「怒る方向」に軸を移動してみるとよいだろう。 そこで子供じみた動きに出るか、すらりとスマートに応対するかで、 そこのサイト管理者や、掲示板の質がほぼ確定できる。 私個人の認識に過ぎないが、ここ数日で、結果としてわかったことは、 「開設者が稚拙でも、そこに出入りする者はまとも」というのはなく、 やはり、「類は友を呼ぶ」という大原則が、エレクトロニクスの次元でも 確たる効力を持っているようだ。 また「開設者はいい人なのだが、そこの掲示板に集まる者は、変なのばかり」 という事は、不思議にも、ほとんどないのである。(ほんの少しはあるが) ということで、原則としてホームがある掲示板は、まずはホームの論旨を 熟読して、そこの開設者の人間性を見極めること。 この方法だと良識あるサイトを見つけるには間違いがほとんどない。 「オナニストのページ」「心のノート」はそうして見つけたところである。 リンク依頼をする前に事前に、ポイントを私がかなり読み込んでからに したのである。 (ちなみに、「メッセサンオー」だけは、同人誌で世話になったので 「義理リンク」です。「ブティックホテル」は、コンパクトな 性の辞典みたいで便利だったからリンクしました。)掲示板だけの選択には要注意
一方、最初に掲示板から入るのはよくありません。これは駄目ですね。 今回、たまたまホームがない「掲示板だけのSEX談話室」を 紹介されて見てみて、いくつかの探りを試してみました。 自分の形跡を記録にはっきりと残る設定にして、 管理者にそれとわかるように多重人格的発言をして反応を見てみたが、 これがまぁー、今までで最低のレベルの掲示板でした。 (紹介する価値もないので、どことは言いませんが) そこに書き込んでいる人たちも、悪くもないが特に良くもなし、 いまひとつ、きらきらした個性や、全体の傾向と目的が 形成されていない「漂流型掲示板」。 おそらく、こうした最低レベルの掲示板は、もしもホームがあって、 それを私が読んでいたら、たぶん、書き込みをしかなっただろう。 一方で、現在とても少数だが、性の分野で、今後こちらから リンクしたい候補はある。 リンク候補を考える時は、常に読者の事を考えている。 ホームページというのは、もちろん「個人の趣味」であるから、 なんでもリンクしてもいいのだが、こと、無明庵では、 読み手が行って「時間の無駄」となるサイトを リンクすることは読者に非常に申し訳ないと 思っている(勝手に私がそう思っているだけだが)。 だから、特に実用性という事に主眼のある「オーガズムを 深め合う空間」では、他のメニューに比べて、 異常なほどリンクが少ない。 無明庵の他の精神世界や自殺論の関連サイトは、 多角的に情報収集をするために多くのリンクがあるが、 こと、「オーガズム」の問題と、「自然葬」の問題となると、 現在、まっとうな情報がネット上に、いかに少ないかという 現実には、改めて驚かされた。同人誌やコピー本にする、その楽しさ、
蛇足であるが、私は15年ぐらい前から、まず、文通、 そして同人誌作りという畑から育ってきた自称物書きである。 つまり、考えたものを、趣味であれ、商業的なものであれ、 とにかく「物質という形」に変換してきた。 それで最近、つくづく思うのだが、 コピーでもfaxでもなんでも、とにかく印刷物の文字は、 それを書いた人間の意識が、確かに文字通りそこに「生きて」 「定着」している。 一方、ディスプレイで見る文字は、まるで「浮いている」ように見える。 実際問題としても、単なるデータが一時的に可塑的な光に なっているだけであるし。 つまり、「紙の印刷物や手紙ではちゃんと伝わるのに、 ネットでは伝わらない要素」が非常に多いのだ。またそれ以外にも、 インターネットやパソコンには「自由度の弊害」というものがある。 たとえば、同人誌を作ろうと思えば、その工程でいろんな制限を 受けたり、手間がかかったりしながら、それは「もの」に変化してゆく。 いろんなレイアウト上の苦労や、手作業や、限られた費用の中での、 印刷所の手配もしなければならない。 しかし、その面倒さの中でこそ、その本の中には、 それを作った人の「魂のようなもの」が吹き込まれてゆく。 ところが、パソコンでは、いとも簡単に編集したり削除したり、 送信したりできる。 むろん、そこに便利な面は多々在るが、そのぶん、 「たった1ページを大切にする」、「たった一言を大切にする」 という事がなくなりつつあるようだ。 (早い話、これは私の、ただの節約根性=貧乏性なのかもしれん)。 それこそ財布の「懐を痛めて」自費で出版する場合には、 なにしろ、データではなく、「物体」になって何百冊も 印刷されてしまうのだから、それだけに、作るときも、 そして出来た本を管理したり、納品するにも、いろいろな点に 気をつけざるを得ないし、それだけに、また結構、 作るのにも気合いが入るものだ。 だから、最近感じるのは、印刷物の同人誌を作ってきた 経験豊富な人が作っているらしきホームページは、これまた、 他とは違う独特の重みのようなものがある。 印象が「強い」というか、まさに、 あの「コミケのパワー」がそこにあるのである。 ****************** ということで、しばらく私はネットをお休みして、目と神経を休め、 また朝の座禅でもしながら、古本屋さんにでも行ってきます。 それに、10月から始まる道場での手裏剣術の稽古のためにも、 体力や気力を、しっかりため込まなくてはならないし。 そういうわけでしばらくノートパソコンを押し入れに入れてしまいました。 メールチェックは週に一度程度になるでしょう。 1999 9/29
そしてその苦労から学ぶこと。
第8話
今のマスコミって私は嫌いだな。昔の事は知らないが。
by 方斬 最近、SEX関連の掲示板を回っていたついでに、EOのページにもリンクがある 「阿修羅」の掲示板に立寄ってみた。すると、そこに興味深い書き込みを見つけた。 「ジャスラックの暴力と醜態」。 99年10/6 夜回り忍者 (私はこのネーミングには変な親近感を持ってしまった) そして早速、リンクされているページを見たところ、これが読み応え満点だ。 私も物書きなので、出版に関する著作権は少しならば知っているが、音楽著作権の事は、 作曲家の知り合いから聞いた程度の事しか知らなかった。 しかし、このページを読んで、たまげたのなんのって。 世の中、くだらない事がまかり通っているのは、いまさら言うまでもないことだが、 ここまで、馬鹿げた事が行われているとは。 ここでページを割いてもなんなので、とにかくご覧あれです。 「カラオケ著作権料に異義あり」http://members.aol.com/karaoketro/町の声
世の中くだらないといえば、たとえば何か事件があった時に、 「町の声」と称して、歩いているやつにマイク向ける馬鹿なマスコミ。 用事があって、急いでいるのに、そんなところを引きとめられて、 「どう思いますか?」なんて言われても、即答でまともな事が言えるかよ? あたり障りのない事か、さもなければ、口から出任せ言うしかないだろう。 それに、どうせ番組に都合の悪い事言うと、カットされるのだし。 そんなものを「町の声」とか言うなよな。 国民の声が聞きたいなら、ちゃんとアンケートでも取れよ。 たとえば、私だって、もしも急いでいるときに、街角で、マスコミにとっつかまって 「最近自殺が多いのはどう思いますか」なんてマイク向けて言われたら、 「はぁー、自殺ですか、、、特に関心はありませんね」とか、言ってしまうぞ。 「自殺の自由化」っていう本を出している、当のこの私でさえ。自殺特集
ところで、最近、突然玄関に変なやつがやってきた事があった。 某テレビ局の下請け会社、つまり制作会社の者。 アポも取らずに来るもんだから、玄関でとりあえず、しつこく事情を聞いてから、 中に通したものの、これが精神世界系の関係者だったら、棒でひっぱたきものだぞ。 しかし、なんで封書で連絡をしてから来ないのだ?と問うと、 「そうすると、断られるケースがあるので、今回は直接に尋ねた」という。 今回は???。しょっちゅうじゃないの?? そんなことやっているから、マスコミってのは馬鹿にされるんだ。 そうやって自分の無礼に、いちいち、業界でしか通じない言い訳のうんちくを、 のたまうんだよな。 だったら大手会社こそ、手紙なんか出したって門前払い食らうんだから、 そういうところへこそ、玉砕的に突撃して行けばいいのにさ。 うちみたいな、ちんけな個人宅に、気合いれて無連絡で来る理由がどこにある?? うちは、誰であれ、まず手紙から用件を明確にし、そのあとにどうするかを決めている。 それは、むろん、これからも変わらない。 で、その来訪者の用件は、某テレビ局で、自殺をテーマにした特集をやることを 「その人は考えている」という。つまりは「まだ構想以前」の段階。 数時間の間、世間話を交えながら、とりあえず、こっちも思いついたままを話したが、 どうも実現の確率は半々というところ。 摸索舎で「自殺の自由化」を購入して、それで知ったらしいのであるが、 歳は私より一回り上。なので、「感覚的」にはそれほどズレはないが、 あちらは学園紛争の時代を生き、こちらはそんな政治や報道などに興味はなく、 ひたすら精神世界を生きてきたので、だいぶ世界観の認識にはズレがある。 いかにマスコミ内部が腐っているかなど、よくありがちな世間話も散々聞くことが出来た。 テレビ局なんぞは、スポンサーに頭下げて、ただ視聴率を取るだけの毎日。 やらせも、演出もやり放題。いったい、いつからニュースはバラエティーになったんだ? そうなったのは、たぶん、久米や筑紫のせいかもしれんな。 で、彼は、そういうマスコミが嫌で、いつも自分の主張を通そうとし続けて、 そのせいでずっとマスコミ内部でも阻害されていた事が多いようだ。 むろん、常にではないし、 マスコミにいて、売れていたときには美味しい飯もずいぶんと食ったことはあろうが、 しょせん、最終的には、偽善者と営利追求には付き合えん、という点では、 まぁー私と共通する面は、あるにはあるのかもしれない。 で、話を戻すと、そういうわけで、「自殺特集」のお手伝いができないか、というのが 依頼の趣旨。しかし私は言った。 「たとえば、自殺志願者の言葉や、自殺未遂経験者のインタビューや、 場合によっては自殺の現場の映像、つまりはマスコミが真実と豪語する映像を いくら画面に並べてみたところで、それは何ひとつも伝えることも出来まい」と。 横並びした民放の、「衝撃映像の特番」のおかげで、人は凄惨な映像なんてものには とっくに免疫が出来ている。 自殺についての「報道」をするのではなく、それを通じて視聴者に「考えさせる」 のが、もしも仮に目的であるとするならば、報道という姿勢でのカメラはほとんど 役に立たない。むしろ、ドラマ、虚構を通じての方が、事実をより深く描写できるはず。 そう思って、私はもしも自殺を社会問題としてではなく、個人の思想、生死の哲学 として扱うつもりがあるならば、報道カメラ=真実を捕えるという単純な考えではなく、 「完璧に演劇として作られた世界」の中で、自殺について考える事をうながす表現法を 取ったらどうかと薦めた。しかし、これには綿密な脚本が必要となるのである。 もしも、それを始めたら、しばらく、私は缶詰だな。あー、嫌だ嫌だ。 さて、やるかやらないかは、yesともnoとも言えない中で、 ひとまずは、玄関で、はい、さよならとなった。 1999 10/6
執筆監修:鈴木方斬(すずきほうざん)
HP作成:黒間玄元(くろまのりゆき)ハンドルネーム:bv
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