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★第18話★

★韓国の読者との質疑応答★

無明庵のHPの中の、書籍紹介の http://www.mumyouan.com/e/eobk.html で紹介されている本のうち、現在上から7冊までは韓国語に訳されて 韓国で出版されています。 下の二つの質疑応答は、韓国の読者の方から寄せられた質問に コメントしたものです。                ●

質問第一便

Q1

■修行を通して、心を癒すことは出来ますか? 精神不安定、対人恐怖症、赤面症、パニック症、どもりなどは、 韓国でも、精神科では完全な治療が出来ないために、 薬物治療に依存する傾向があります。 修行や他の方法で成果を上げることは出来ますか? ↑【に対する方斬からの回答】↓ この質問は、私(無明庵)に向けるべきものではありません。 そうした心理学の分野で、患者を癒したり、 または騙したりするカウンセラーは、世界に、たくさんいますので。 この質問は、EO師の教えには全く関係のない話題です。 なぜならば、EO師は、 「もともと、人間の心の構造そのものが病的である」と言うからです。 ですから、心は決して、究極の安心の状態に「改善」されたりはしません。 「心とは、そもそも、安心が出来ないもの」だからです。 「自分が何者かになった」ように思い込んだり、 「自分がやったのだ」と思ったり、 「人のためだ」と言いながら、自分のために何かをやるのが、 心のエゴが持つ性質です。 そして、心とは、もともとから「自分を満足させるための欲望」しか もっていません。 それがたとえ、神への信仰でも、悟りへの修行でも、世界平和のためでも、 結局はそれは「自分のエゴの満足のための欲望」です。 だから、EO師は「心そのものの死」を説いたのです。 心そのものが消えれば、心理的な苦そのものが全て消えますから。 しかし、その道は決して一般の人の社会生活や、 単なる神への信仰のための道ではありません。 その「道」は、 欲望とエゴと自分の信仰や信じたものすべてを全部捨てたくなるほどに、 欲望や信仰を完全に生きた人だけが、「最後に目指すべきもの」です。 ですから、EO師の言う本当の意味での修行とは、 「心の自己改善への意志そのもの」も、全部捨てるというプロセスです。 本当の修行とは、「目的の一切を捨てること」です。 だから、それは目的を達成することだけを目指しているエゴにとっては、 「自分が死ぬこと」と同じなのです。 しかし、そうしたEO師の説いた道は「普通の人たち」には必要ありません。 普通のレベルの精神的な不安は、その個々の、それぞれの原因を 「自分でつきとめて」、改善すればいいだけです。 何も、普通の人生の悩みのためにEO師の教えがあるのではありませんから。 ただし、自分の心の治療を医者に頼るのは、よくありません。 むろんあなたには、協力者や友人は必要かもしれません。 しかし、医者やカウンセラーに頼るのでなく、自力でやるべきです。 ただし、薬の使用は何の役にもたちません。

Q2

■EO師がチャネリングによって歴代の聖人たちに会ったと言ってますが、 そうした現象が大悟後に起きるというのは本当ですか? またEO師の大悟後の日常生活はどのようなものでしたか? チャネリングできる方法を教えてください。 ↑【方斬からの回答】↓ この質問をした人は、何に興味があるのですか? チャネリングのことは、チャネラーに聞いてください。 また、EO師の日常生活は、まったく普通の人と変わりありませんでした。 不通に社会で働き、笑い、時には怒りました。 特別に人に優しかったわけでもありません。 また、必ず人々に安心感を与えるわけでもありません。 「本当の大悟者たちは、静かに目立たないように、普通に生きている」と よくEO師は言っていました。 ただし、唯一、EO師が普通の人とは違っていたのは、 師は、未来や過去や宇宙や神や、人生の目的といったものからは 全く自由で、常に、今のこの一瞬を、師が受け入れていたことです。 何も理想も信仰を持たずに、 ただ、あるがままの「今だけ」の中に生きて死んだことです。 これは、言葉だけを聞くと、とても単純な事のように思いますが、 これが「目的を達成すること」だけにしか、人生の意味を教えられなかった 多くの人たちにとっては、最も困難なことなのです。 つまり、私達は、もう一度、子供のようにならなければ、 どんなに何を修行しても、どんな能力を身につけても、 決して安心は出来ないし、何ひとつも楽しめないということなのです。

Q3

■ある本を読むと、EO師は、自分がもう宇宙に存在する必要がないとき、 または弟子の意識が成熟したときが自分の死ぬときだと言っていますが、 聖人にとっては、物理的な死も、ある程度の統制が効くのか知りたいです。 ↑【方斬からの回答】↓ ある程度まで悟った人は、物理的な死だけでなく、 誕生(転生)も意志で決定するようです。 その様子は、OSHOの本などにも書かれています。 (「日本題={反逆のブッダ}」) しかし、EO師は、死期については、私達には何も言わずに他界しました。 ただし、 「私は、もう、いつ死んでも、かまわない。 なぜならば、弟子が成熟するのを待つ必要もないほどに、 私はあらゆる目的というものから自由であるからだ。 だから、いつ死ぬかは、弟子や人々のためではなくて、 それは私が自分で決める」と私達には言っていました。 これは、EO師の本に書かれたEO師の言葉とは矛盾するかもしれませんが、 私(方斬)は、そのようにEO師から聞きました。                ●●● ● ●● さて、最後に、いろいろと質問される読者の皆さんに ひとつのメッセージを私(方斬)から、書いておきます。 ◆ 社会的達成や権力、個人的な恋愛や信仰、 そして自分の病や、心の不安からの解放を、人は人生の目的にします。 そして、こうしたもののために、人は、次のようなプロセスを作り出します。 1=現在の自分への不満 2=その不満から解放されるための行動や学習 3=その結果に満足しようとする 4=安心して落ちつく そして、どんな修行や社会的な仕事や楽しみのプロセスも、 かならずこの1234の順番になると人は、考えてしまいます。 ところで、ここで、皆さんに私から、4つの質問があります。 皆さんは、いつでも「私は自分にもっと満足したい」といいますが、 では、あなたは、 1/「どうして満足したいのですか?」 2/「満足したあとは、どうなると思っているのですか?」 3/一体、人間は、「何のために満足をしようとするのですか?」 4/「もしも人間が満足しなかったら、どうなるのですか?」 「満足をしたい」と言う心の状態をよく観察してみてください。 本当の満足とは、大きな快楽がそこにあるのではありませんし、 大きな神秘体験がそこにあるのでもありません。 本当の「普遍的な満足」とは、 「どんなことにも不満を感じない状態」のことです。 それは、満足できる楽しみがそこにあるのではなく、 「不満が一切ない」という状態そのもののことです。 それは、あなたがどれだけのものを得たり、持っているかではなく、 あなたの目的意志が、どれだけ空虚になり、 その結果として心が静かになって、あるがままに世界や自分を受け入れ られるかに比例して感じられる「安心感」のことです。 それは、どこか他の場所や、別の自分を探さなくても、 幸福や安心は、「今ここにちゃんと在る」という体験です。 しかし、人は、「今の自分とは違うもの」にならなければ 安心は決して来ないと思い込むのです。 しかし、それには、実は、とても大きな原因があります。 ●たとえば、こういう話をしてみましょう。 あなたは、「自分が最高に満足した状態とはどんな状態なのか?」を、 はっきりと、具体的に、明確にイメージできますか??? すると、あなたは、自分が今までの人生で経験した 「小さな幸福感」「小さな満足感」「小さな安心感」が、 もっともっと「大きく、強くなったものだろう」と考えるのです。 つまり、私達は、本当の安心とは、 今のあなたには「未知なもの」であるはずなのに、 「それは、だぶん、こういうものだろう」とイメージしてしまうのです。 たとえば、大きな怪我をした事のないあなたは、 他人の大きな怪我の痛みを知ることは出来ません。 そこで、あなたは、自分がいままでに経験した小さな痛みを 「拡大」してみて、その他人の痛みをイメージすることしか出来ません。 これと同じようにして、あなたが未来に期待している幸福感や、安心感も、 今までのあなた自身の経験の記憶や、 他人を見ていてあなたが嫉妬をしたりした記憶から作られた「幻想」に 過ぎないのです。 さて、私達が何かに満足するためには、まず不満があります。 たとえば、食事をして「安心する」ためには、 何よりも、まず空腹という苦が、生き物にはあります。 すると、 1=空腹の不満  2=食べる行為  3=満腹  4=安心 という順番で、その食欲を処理します。 こうして私達は、小さい時から、 自分の「食欲や性欲」や「所有欲」を満足させてきたので、 「究極の安心」も、きっと、そうやって手に入れられるのだ、と思い込んで しまいます。 ●しかし、安心のために何かをしなければならないという事そのものが、 安心とは矛盾します。 安心のために、何かをするのでは、決して安心は出来ません。 安心とは、「最初からそこに不満がない」という状態の中にしかありません。 つまり、不満を持ったままで安心を達成しようとしても、 不満を持っているというその事自体が、 安心が生まれない最大の原因なのです。 ですから本当の修行とは、「不満の対象を満たすことではなく」、 「不満そのものを消し去ること」です。 これを分かりやすく、お金にたとえれば、 自分が欲しいだけのお金を「得ることで満足する」というのではなく、 お金への欲望そのものがなくなることで、目的意識から解放されて、 安心するということなのです。 ただし、たとえ、そうなっても、その後、あなたがお金を手にしないという ことではありません。 あなたが得ようとしないのに、もしも自然にお金がやってきたなら、 それはそれで受け取って使う、ということです。 ただし、あなたからお金を求めて探すという事は、もうしなくなるのです。 ● 人間を含めて、すべての動物や生物たちは、 空腹という根本的な「不満」を満たすために、 食べ物を探して、そして食べて満足して、最後に安心して眠る、という 基本的なプロセスを学習して記憶しています。 そのせいで、精神的な満足や安心も、きっとそのようにして探して 手に入れることが出来るに違いないと思うのです。 そうやって、人は、愛する者を探したり、自分の居場所を探したり、゜ 何かの瞑想修行をしたり、能力を開発しようとしたり、 あるいは、カウンセリングを受けたりします。 しかし、究極の安心や満足とは、 それを求めないことの中にのみあります。 これは、OSHOも、常に説いていた真理の基本中の基本です。 ● TAOや禅やEOの教えが、とてもユニークなのは、 そこには、実は、プロセスというものがないということです。 なぜならば、そこにプロセスのあるものは、絶対のものではありません。 プロセスがあれば、そこには時間と空間と「因果関係」があります。 つまり、何かが原因の、その結果として現れたものは、 絶対のものではありません。 何かをしないと安心できないのでしたら、それは絶対のものではありません。 つまり、本当の絶対安心の中には、時間と空間はありません。 つまり、そこにはプロセスもなく、対象もなく、時間もなく、距離もなく、 それは、今、ここにだけ在るということです。 ただし、それは、「あなたの中」にあるのでもなく、 「他人」や「導師」の中にあるのでもなく、 また「自然」や「宇宙」の中にあるのでもありません。 それは「どこにでもあるもの」なのです。 だからこそ「どこにあるとは言えない」のです。 また、「いつ、あるのか?」といえば、それは未来にあるのではありません。 では、「それ」は、どんなものですか?と聞かれたら、 「それ」は、「どのようなもの」とは表現が出来ません。 なぜならば、「それ」は、「あなたという主体」がそれを見て 「これが安心だ」というふうに「対象には出来ない」からです。 もしも、あなたが「これが安心だ」「これが真理だ」「これが不動の意識だ」 などと「対象」としてそれを見たら、 そのときに、もうあなたは、 「見るあなた」と「見られたあなた」という二つの部分に分裂してしまい ます。 しかし、本当の安心には、時間の分裂も、空間の分裂もありません。 ●しかし、そうした「絶対の安心」に到達するためには、 自分の世界や信仰、すなわち「一切の思考」が、 一度は、完全な「無」になるまで破壊されてしまう事が必要となります。 だから、キリスト教的な西洋では決して信仰しない「無」「虚無」を 東洋では、「道」として説いてきたのです。 無というのは、そこからは、まるで何も生まれないように思えますし、 無は、まるで自分のすべてを殺そうとしているように見えます。 だから、多くの人が、その「虚無」から逃げるために、 瞑想修行や、愛や、神や、仕事や、権力や、金、そして幸福や満足を求めて、 苦しみ続けるのです。 でも、それは、結局は、自分が「無=心の死」から逃げているだけなのです。 だから、逆にその「無」で、自分の一切の思考を破壊することで、 分裂と不満から解放された「ただ在る状態」に戻ろうとするのが、 禅、TAO、EOの教えの本質なのです。          2000   9/8              方斬

質問第2便

質問1

大悟者の瞳は、停止していたり、無感情で無心な瞳といいますが、 これは、覚者とそうでない者を区別する識別法ですか? EO師の本でもそうした識別法がありますが、どうしてですか? EO師の瞳もそうであったか知りたいので教えてください。 ◆方山より◆ そうした大悟者の、目の動きや、視線の停止は、 「多くある判断法の、ひとつの基準」にすぎません。 というのも、精神病でも同じような目をしている場合もあるからです。 ですから、目の様子だけで判断するのは困難です。 ただし、なぜ、瞳がそのようになるかという説明は、 EO師の著作を読めば分かるはずです。 私達の目の機能とは何でしょう? それは生き抜くために、いつも緊張して、 自分にとっての「外界の敵と味方」を判断したり、 いろいろな危険を感知したり、学習をする窓です。 つまり私達の「生存」のために、 私達の意識や記憶の多くの部分が視覚の情報に集まっています。 視覚の次は、聴覚と触感です。 つまり、生きるための緊張を一番多くするのが視覚ですが、 大悟者の場合、あるいは、ある種類の精神病の場合には、 自分が生きようとする意志や、他人と戦うという意志が希薄です。 ですから、彼等は精神的に緊張したり警戒したりしないので、 その意識を反映して、彼らの瞳は穏やかなのです。 それは、たとえば、インドのOSHOの瞳にも現れています。 しかし、いつでも彼らの瞳が、静かで、動かない、ゆっくり動く とは限りません。何かの必要があれば、目は素早く動きます。 ただ、普通の人と比較したらば、かなりリラックスしているということです。 もうひとつ注意が必要なのは、 この「瞳の動きが少ない」というのは、大悟してから「数年だけ」という ことです。EO師も本の中で言っていたと思いますが、 そうした視線、瞳は、大悟した意識状態が、 もう一度、肉体の機能と調和するまでの間だけです。 EO師は次のような事を言っていました。 ********* 「大悟してから、約1年半ぐらい、私の視線は、動きが非常に少なかった。 歩くのも、とても遅かった。しかしそれを過ぎると、だんだんと、 悟る前のように普通の速度で歩いたり、物を見ることが出来るようになった」 ********* これ以上は、あなたがもしも実際に、死人禅の行法を実際に行えば、 自分の視線や肉体が、そのような静かな動きや停止した状態になるのが 経験できるかもしれません。

質問2

死人禅の行法を直接にする場合、 意識は、いつも、目ではなく頭頂に置かなければならないのですか? つまり、まっすぐに、目を経由しないで頭頂に留意するのが 速くて効果的なのですか? ◆ 方山より◆ やや、翻訳された日本語の意味が不明の部分がありますが答えてみます。 行法をするときは、サハスララに向けるように {指示されているステップ}ではそうです。 「闇の瞑想」のときには、サハスララではなく「前頭部」です。 ただし、瞑想時ではなく、普通に生活している時には、 目の動きは特に意識する必要はありません。 自然に焦点が合ったり、焦点が揺れたりしていいです。 サハスララに集中するように{指示のあるステップ}では、 目は閉じていても開いていても、意識はサハスララに置きます。 むろん、そのままでも、肉体は歩いたり、聞いたり、見たりできます。 上達すれば、会話も出来ます。行法については、 詳しくは「廃墟のブッダたち/外伝」や、 特に、「小さなブッダの大きなお世話」などに多く書いてあります。

質問3

EO師の死について聞かせてください。 EO師の本によると、悟った者の血と肉を食べると、 悟った者の意識に近づけるそうですが、 EO師の遺体はどのように処置されたのですか? そして、無明庵では、悟った人(たとえば和尚)の舎利については、 どう思いますか? ◆ 方山より◆ EO師の死については、「日付け以外のことを発表すること」はEO師から 禁止されました。その理由を、私はEO師から次のように言われました。 *************   私が、いつ、どのように死んだとしても、   どのように死んだかという事を、他言してはならない。   その理由は、人間は死に方についてさえも【幻想】を持つからだ。   「座禅して座ったまま死ぬのが、高度な死に方だ」とか、   「病気で死ぬのはレベルが低い」とか、そうした妄想をする。   私は何が原因で死ぬかはわからないが、   もしも死んだら、その死因を発表してはならない。   そして、私の死後、私の肉体は自然葬にして欲しい。   また、散骨した場所は発表してはならない。」 ************* EO師の肉体は火葬され、いくつかに分割されて、 日本の海や山などに自然葬(散骨)されました。 場所は秘密となっています。EO師の骨は、無明庵にも全く残っていません。 無明庵では、「骨には何の価値もなく、EO師の波動もない」と考えています。 また、仮にあったとしても、そうしたものに依存したり、 霊的な効果を期待することは、 EO師の「探究は一人でやれ」という教えに反するものと考えています。 ただし、ひとつだけ言いますが、EO師の死因は自殺ではありません。 ●さて、「悟った者の血や肉を食べることの効果」について、 EO師がコメントした部分は、「廃墟のブッダたち/外伝」の 「地蔵」のタイトルの文中に、たった1箇所のはずです。 (グルジェフが語った最後の晩餐の話の部分です) ↓以下は、私(方山)の見解です。 ●確かにキリストが生きていた時代やある特定の地域では、そうした魔術が 効果を発揮した時代はあったのかもしれません。 ただし、現代において、それが効果があるとは言えません。 ●魔術、または気功などには、二つの種類があります。 ひとつは、長い時間や時代の経過でも、 その効力が安定しているもの。気功は魔術のような仕組みではなく、 生体のエネルギーなので、現代でも効果が安定しています。 しかし、とても古い時代の魔術儀式の中には、 現代では使えなくなってしまったものも多くあります。 その原因の一つは、私達の意識が古代のように自然と共存していたもので なくなってしまった事かもしれません。 また、電気の発見以後に地球全体に広まった電気製品や電波の増大が、 いろいろな古代の魔術の妨げになっている可能性もあります。 実際、日本でも、100年ほど前までは、地方ですと、 まだ「妖怪や天狗や河童を見た」とかいう話がありました。 つまり、幽霊ではなく、「自然霊や、妖怪」が 森の中や農村などで、人間の目に見える形で現れたのかもしれません。 しかし、近代になり、自然が破壊され、また電波や電磁波の増大とともに、 この世界と、別の次元との接点が減ってしまい、 その結果、使えなくなった魔術や、霊的な治療法などが多くあるはずです。 ●また、血や骨や肉を食べると言っても、 それが効果があると思い込んでいる人が何千万人もいる時代ならば、 効果があるかもしれません。 つまり、魔術の基本は、心理学者のユングの言う「集合無意識」を うまく連動させて使うという点があります。 ですから、もしも人が多くの人が、何かを信じなくなれば、 そうした魔術もやはり効果を失います。 カルト宗教の団体の人間100人が、ミイラを食べることによる効果を 信じていても、その地域や社会全体の人の多くがそれを信じていなければ、 それは効果がないとも言えるのです。 ● また、別の角度からの説明をしますと、 もしも仮に、死後肉体にエネルギーを残せたとしても、 それは、その大悟者が、そのように肉体に記憶しようと、 生前から、かなり強く意志しなければ、肉体には残りません。 生前から、自分の肉体の血や骨や肉に、自分の意識の記録をコピーして 残そうという強い思念(特に感情)がない場合には、 どんな覚者の肉や骨にも、そうしたエネルギーは残らないと思います。 また、そもそも、ほとんどの大悟者は、 そうした「物質への執着の感情」を起こしませんので、 なおさら、大悟者の死体には、エネルギーや記憶が残ることはありません。 ● ただし、大悟者ではない「普通の人達」の記憶や感情が、 死体、その他に残る可能性は、完全には否定は出来ません。 人の人との間の「臓器移植」や「輸血」によって、何らかの記憶や遺伝子が 移植や輸血された人に影響する可能性は、 今後の医学の研究で解明されるかもしれません。 ただし、「悟りの意識」というものは、「遺伝」ではありませんし、 「思考でも記憶でもありません」から、残らないと私は考えます。 ■死体への情報やエネルギーのコピーに関して、要約しますと、 1/大悟者のエネルギーは、形には残せません。  大悟した本人は、ほとんどの場合に、  そのような意志や「執着心」を持てないからです。 2/死体に意志して自分のエネルギーを残す魔術は、  古い時代にはそれなりに効果があったのかもしれませんが、  自然と調和していない現代の世界では効果はないと考えられます。  また、普通の人間の、特定の思考や感情や遺伝情報は残せるかも  しれませんが、それらの「思考を超えた悟りの意識」を、  何かのエネルギーとして残すのは、困難だと思われます。 3/最後に、  無明庵では、EO師から受け継ぐべきものは、  その「教え」と「行法」だけであり、  たとえ、どのような魔術の効果があったとしても、  「誰かの残した物質に頼ること」は、  探究者の道としては、邪道であると考えています。 ●今回の質疑応答は、お世話になっている韓国の出版でしたから、 「異例中の異例」として、こうした興味本位の質問にも いちいち答えましたが、 こういう「EOイズムの本質」を全く理解していない質問は、 無明庵では昔から、そしてこれからも一切お断りしています。」            ●         2000  11/6  HOUZAN
 


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執筆監修:鈴木方斬(すずきほうざん)
HP作成:黒間玄元(くろまのりゆき)ハンドルネーム:bv



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