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闇のタオイズム(二章の1)




           探求者たちへの問い




**********
迷いもまた必要な学習なのだ、と言う導師や異星人たちもよくいたものだ。
では、それもいいだろう。しかし一体なんの学習なのだ?。なんのための悟りなのだ?。
なんのための禅寺なのだ??。「なんのためでもない」などと嘘を言ってはならない。
それらは、なにもかも『人の苦しみ』から始まったはずだ。
しかし、なぜそんな苦しみから始まらねばならないのか?。

人は、世間で、そしてたった一人で生きて、死ぬ、その意味に苦悩するのだ。
そして人々は「60億の命は、そのひとりひとりが貴いのです」などと、
その口で言いながら、虫けらのように、500人、1000人を、
たった1秒で、それもただ一個の最新兵器のビデオ収録のために殺すのだ。

*********
薄明かりの中で、一人の哲学者になってごらんなさい。あなたは『そこにいる』。
あなたは『そこにいる』。そしてこれから何十年も死ぬまであなたはいる。
あなたは『なぜそこにいる』のか?。
そこにいるその肉体存在、心理的存在、そして意識、
それらが『何をやるか』は問題ではない。
あなたがこれからの人生を何をやるかではなく、
どうして、そもそも『そこに存在しているのか?』。
薄明かりの中で、考えてみなさい。
薄明かり、あるいは暗闇の中で、『あなたが存在そのものの理由、目的を問うこと』だ。
これは、たったひとつの『根本疑問』だ。多くの問題があるわけではない。
いかなる人生や宇宙の問題も、たったひとつのこの『根本疑問』に集約される。
これが『哲学』のやることだ。
出来れば、あなたを愉快にする物事や情報ではなく、
あなたが不愉快になる物事を見なさい。
社会の明るい側面と言われる物事が
人を洞察力のある者にしたためしは、ただの一度もない。
本当に進化や仏性になど世界は向かっているのか?。私の結論は、断固、「否」だ。
あなたは世界の中に社会の中に昼間はどっぷりとつかってしまっているから、
いろいろと深く物事を感じ取れない。

闇の中や薄明かりの真夜中に、独りでとことん、考えなさい。
『どうして、あなたはそこにいる?』。
それに自分が答えをもっているなら、さらに問いなさい。
『その答えはなんのためか?』。『究極の自分の目的はなにか?』。
そして、なぜその自分の究極の目的は、『そもそも必要なのか?』。
どんな質問や答えからあなたが思索に入っても、
その哲学の館は、たったひとつの広間に行き着く。
それは、そもそもなぜ自分も含めて
『万物、存在そのものが、何のために、なぜあるのか?』だ。

*********
私は一般的な沈黙のワークとは全く違うことをあなたに許そう。
それは、その期間に出て来るものはなんでもメモしなさい。
なんであれ、噴出する疑問は徹底的にメモし、考え抜きなさい。
あなたが、本当に今のままでいいのか、『どうしたい』のか。
あなたは一体あと『死ぬまで何をするつもり』なのか?、
そしてそれは『何のため』なのか?、
そもそも『存在はなぜある』のか?、
進化や成長は『なんのため』なのか?
究極的にはすべてはなんのために在るのか?、
そもそも『宇宙はなんのために存在する』のか?。
創造者の意志というが、『その意志とはいかなるものか?』、
本当に世界はそんな意志に向かっているだろうか?。
多くの者は、すべては光明へ向かっていると言うが、
現実的世間や、あなたは本当にそんなことへ向かっているのだろうか?

*********
『あなた一人の存在』は、いったい宇宙の規模の前で、
一体どれほどの価値などがあるというのか?。
無限の中のたった80年すら、あなたはそんなに苦悩して、気苦労が絶えないが、
それが繰り返し、別の世界でもあと千年、10億年と続く。
そのような生命とは本当に心底あなたが美しいと言い切れるのか?。
借物の観念ではなく本当に素晴らしいと笑顔いっぱいに
あなたは生命や存在を称賛しているのかね?。
だとしたら、あなたはもう瞑想などやめていいし、探求も必要ない。
だが、あなたは依然として落ちつきなく、怒りや疑問や葛藤の中にいる。
一体、いつまでたいした爆発的な変容もないまま、だらだらと生きるのか?。

こうした基本的な問題を、あなた本人の記憶や思考を相手にして
何週間ももう一度浮上させなさい。
その為にはあなたは閉じこもらねばならない。
あなたは、あなたの自己というものだけを相手にすべきだ。
ワークや組織に属していては、あなたは、いま一度、全部、和尚と自分の人生そのもの、
その何もかもについて、もう一度見詰める機会を失ってしまう。
いままで、導師やら、あるいは中途半端な世間にかかわってきて手薄になっていた、
あなたの根本疑問があなたを自問自答に追い込むだろう。
こうした、爆発と狂気は、最終的に、
それ以上にまったく何も失うことの出来ない最低の状態へあなたを連れて行く。
ただし、あなたは途方もない勇気、または覚悟を必要とする。
私はこの私のワークに関してだけは、あなたの導師として存在できる。
なぜならば、私はその中を通過、あるいはその無に同一化したからだ。
そして、失敗の可能性もあることを覚悟すべきだ。

*********
悪魔の私があなたの耳元で一声で殺してあげよう。
『ところで、僧よ、・・{なんのための}悟りなのかね?。
悟らなければ、本当に{いけない}のかね??。
私は、門下に2つの道を使う。
禅から見ての私の方便は、さして目新しいものではあるまい。
だが、私の『双剣』のもうひとつの刃を忘れてはならない。
私は、思考しつくすまで、あなたを考えさせることも出来る。
あなたが無心と言いながら、無心でなけば私はあなたを責めるし、
理屈を持ち出すならば、徹底的に論理、哲学であなたを追い詰めることもする。
どっちかしかないのだ。極度の無心か、さもなければ、
24時間、そして何カ月も考え抜くだけの頭脳だ。

*********
禅僧たちは、安易に禅の境涯などで逃げてはならない。
理屈はないなどと嘘をつき続けるから、こういうことになったのだから、
理屈にしっかりと真っ向から向うべきだ。
そして、その理屈、問いは、ちっとも難しいものではない。それはこうだ。
『あなたは、なんのために、修行をしているのか?』
「あるがまま」とか「今を守るためだ」とあなたが言うならば、
一体それは何のためなのか?。なんのためとは、つまり、
あなたはそれでどうなりたいというのか?。
あなたの内心は「なんのためでもない、という境地のため」なのだ。

では、その境地、意識、その生き方のために、今、なぜそれを修行しているのか?。
全部それは『あなたの目標とする別のあなた』の為だ。
「別人ではなく、本性に帰るのだ」とこれまた、禅師は理屈を言うが、
その本性とやらは、あなたにとっては、充分に「別人的」ではないか?。

では、あなたは何を求めているのか?。
ありのままの充実か?、悟りか?、楽であることか?。対象や名称はなんでもいい。
なんでもいいが、『どうしてそれを求めるのか?』。
それが得られたらあなたはどうなるというのか?。
そして、なんのためにそれらを得るのか?。
『その目標そのものの目的』と意義はなんなのか?。
まさか全く無価値だと思うものに、あなたは向かっていると嘘を言うつもりかね?。
とにかく、あなたは『何かが欲しい』のだ。では、『なぜ欲しいのか?』。
すなわち、逆に問うと、『どうして欲しがらずにいられないのか?』。
あなたが、もしもそれを欲しがらなくなったら、
あなたは、まったく平凡な人間になり、あなたの10年の人生はパーだ。
つまり、あなたは自分の人生をパーに、『無価値』にしたくないのだ。
そんなことだから、禅師の趙州は言うのだ。
『捨てたいと言いながら、そんなに捨てられないなら、ずーっと持っていろ!』

*********
あなたは振り出しに戻る必要がある。その振り出しとは、
『そもそも、なぜ、こんな行法をやっているのか』だ。
ある地点で、どうしても、もう一度問われねばならないことがある。
それは禅問答でもなければ、公案や工夫ではない。
それは、そもそもそうした『自己変革』という「すったもんだ」をなぜ始めたかだ。
あなたは何が欲しいのかね?。死ぬことか?。おもしろく、生きることか?、
充実感なのか?。馬鹿にされない人間になりたいのか?。安心が欲しいのか?、
それとも、矛盾だらけのこの世界から、消えてしまいたいのか?。
それとも、なんとか働いて、ずぶとく生きて行ける性格かね?。
『何になりたい』のだね?。『どうなりたい』のだね?。
何にもなりたくなくて死人禅を始める人などいない。
さて、そこで、あなたは何になりたいのだね?。どうなりたいのだね?。
そして、『どのような死にかた』をしたいのだね?。
さて、まずあなたから貰いたい返事は、あなたは、『自分をどうしたい』というのかだ。
普通の人間として、普通に結婚し、普通の幸せで満足できるならば、
こんな瞑想はもう止めたほうがいい。
もう一度、自分に『ほんとうにこれしかないのか?』と、問いなさい。
そしてどうして、これしかないのか?。という『理由』もである。
『これ以外にあなたは何をしてきたのか?』。
はたして『別の可能性』をためしてみたのか?。
それとも、もともと最低限の社会適応、あるいは、自分を甘やかして
生活の保証をしてくれる環境にでも寄生できれば、それで一生安泰であり、
しょせん探求など嘘なのか?。
これら全部について、可能なかぎり、正直に自分に問うことである。

本人の煮詰まった、ギリギリの時期に達していなければ、
死人禅は、たとえ10年やっても何も起きないどころか、
むしろ、闇の瞑想などによって、余計に社会適応もできなくなり、
死と無の幻影に憧れつつ、10年をひきずるように生きることにもなりかねないからだ。

*********
あなたにとり組んで欲しいものは、禅の公案ではなく、哲学である。
そして、その課題はたった1つだ。
『あなたの苦は何か?。何が一番苦なのか?。どうしてそうなるのか?』。

まずは、身近な衣食住とか性の苦から見てみるのもいいだろう。
どうして、それらがないと苦なのかと、、、。
そうしたら、もしもそれらが満たされたら、
苦はなくなるだろうか?とよく考えて、問うがいい。
もしも何も食うこともなく生きられる肉体なら、何もしなくても苦は消えるか?。
もしもそうだとしたら、あなたは、家にいて、空腹もなく、とりあえず仕事もなく、
屋根もあり、布団もあり、着るものがあれば、なんの苦もないはずだ。
よく、ここのところを考えなさい。
そうだったら、あなたは、休日などは、幸福で卒倒してもいいはずだ。
いやいや、平日の昼休みの食後20分など、解脱していてもいいはずだ。
戦争難民に比べれば、禅堂にいる時間など極楽そのもののはずだ。
だから、苦の発生は、単なる衣食住の不足ではないということだろう。
だが、衣食住の不足につながるかもしれない、未来の死活問題に
発展するかもしれないという不安が生み出す苦は、世間に満ち溢れている。
上司に逆らえないその理由は、クビになって食えなくなるからだ。
政治家が脱税の暴露を恐れて誰かを殺す。これまた最終的に食えなくなるからだ。
寺で師にへいこらする。あるいは、正当なことも言えない。
それは利害関係があるからだ。

したがって、こうした社会的な抑圧のほとんど大半は、生存優先から発生する。
実際のその日の生存がかかっている死活問題からのトラブルなどそんなにないが
長期的にみて、自分の安定した生存に不利になることに関して、
人は極端に不安になり、臆病になり、そして感情的になる。
外部社会がこうなってしまっていては、その生存適応に一生を費やすだけになる。
生きるためには自由な言動は捨てるか、あるいは権力を得ることで
自由な言動をしようとする。
国家というものの頂点に立てない人間はその権力欲は会社の社長になりたがる。
そこでは、実にちっぽけな「おとぎの国」の王様ごっこが出来るからだ。
そして、そういう会社でコキ使われた社員は、今度は
「家庭という、ちっぽけなお国」で権力者となり、
「誰が食わしてやっているのだ」と言って、えばる。
規模はどうあれ、権力欲は、実は個人的な自由獲得への葛藤だ。

この自由獲得には2種類の手段がある。
ひとつは他者を制圧する力によって、自分が自由になる。
もうひとつはこうした生存力の獲得ゲームのシステムから逃避して
逃げることで自由になる。
死人禅の実習者たちもどちらかと言えば、後者にあたるはずだ。
前者は結局支配する者は支配される者となり、
自分の首を絞めることになることが目に見えているからだ。
しかしながら、後者にも問題がある。
生物としての我々は、他者にかかわらぬように、ごく微細な動きをしても、
必ず苦を生み出すように設計されているからだ。
動くということは、何も実際に歩き回ることばかりではない。
思考というものが、動くと、それ自体、すでに、記憶との関係、
外部社会との関係、価値観との関係をひきつれてくる。
いうまでもなく、生活が安定して、禅堂や自宅にいても、
あなたは、なんら幸せにはなれない。
あなたを襲う、無数の圧迫がある。そして思考は止まらない。
それらは、どれもこれも、どうでもいい思考ばかりだ。

だから、悟りなどどうでもいいことだ。問題はあなたの『苦』の集計だ。
何があなたにとって苦なのか、考え抜くことだ。
そして、ひとつひとつ、どうしたらいいか、考えることだ。
そして、冷静に考えて、どうにか出来るものなら、どうにかすればいいだけだ。
いろいろと考えて、そして実際にやり、どうしても残る苦は何か?。
徹底的に、『苦の論文』でも書くつもりでやってみることである。
だから、あなたもこの課題を考えてみるとよい。
あなたの『苦』とはどんなものがあるか?。とりわけ『一番の苦』は何か?
そして、『どうしてそうなのか?』を突き詰めなさい。

*********
そもそもあなたの言う『覚醒』とはなんなのだろう?。
覚醒していれば、無自覚な失態をやらないから覚醒が必要だと言うのであろうか?。
覚醒していれば、多次元的経験が出来るし、いろいろな経験をありのままに捕えて
成長するから覚醒が必要なのだろうか?。
覚醒とは、それともあなたの生きているという充実感の為の道具なのだろうか?。
ひっきょう、覚醒とは、ほんとうに人を幸せにするのだろうか?。
幸せとはそもそもなんであるのか?。
なぜ、幸せでなくてはならないのだろうか?。
もしも一人の人間が幸せになるために、もしも知らずに誰か、
あるいは他の生物や物質の不幸が必要とされていたとしたら、
それは普遍的な幸せだろうか?。
覚醒とは、『何に対する』覚醒であるのか?。
覚醒とは、『誰がする』覚醒であるのか?。
覚醒とは、『なぜ必要なのか』
覚醒とは、本当に『楽しい』のか、それとも時には、『苦痛』であるのか?。
覚醒とは、ひっきょう、『なんのための覚醒』『誰のための』なのか?。
ほんとうに、絶対的に、それは『必要』なものなのか?。
覚醒しているとか、覚醒していないとかを、
一体自分の中の『何者が』その判断をしているのだろうか?。

*********
EOイズムでは、根本問題の『哲学的課題』こそが効力を持ってくる。
EOはこの根本的な疑問を通過するまでは、行法に手を出すなと言う。
その根本的な疑問、哲学課題とは、『なぜあなたは修行するのか?』である。
そうすると、修行そのものをあなたは正当化しなくてはならなくなる。
修行の目的とか、効能とか、社会的影響とか、あるいは個人的絶対幸福とか、
あなたは修行の目的を言うだろう。

するとEOはこう言う。
『ではその目的は、誰によって正しいとされたのか?。
なぜ絶対に正しいとあなたは断言できるのか?。』
これに対する回答は「経典や導師がそう言ったから」という低俗な答えもあるだろうし、
ある者は自分のこれまでの体験を思い出してみては
「それらが自分に幸福感をもたらしたから正しいのだ」ということだろう。
だがEOは問う。
『あなたのその幸福感は、あなたにとっては心地良いかもしれないが、
心地よい事が正しい事、と言う事にはならないだろう。』
個人にとって心地よいことが必ずしも正しくなかったことは、
快楽主義が決して満足や平和に至らなかったという過去の歴史があるからだ。

しかし、人間は結局は、正しいとか正しくないという
観念的なもので生きているのではなく、つまるところは、
肉体的、心理的に、苦しみたくないという意志と、
楽しみたいという意志によって奴隷的に生存しているにすぎない。
あらゆる芸術も科学も、そして瞑想修行もこの2つを動機にしている。
するとEOはこう言う『では、なぜ苦しみをそのままに出来ないのか、
幸福を求めないままで満足していられないのか?』
この答えは、「もしも苦しみを回避しなければ肉体は死に至り、幸福を求めなければ、
精神が虚無感によって死に至る」からである。

さて、いよいよこの段階になるとEOはこう言う。
『すなわち、生き物は、「絶対死」を恐れるというわけである。
その絶対死を回避するために、医学を発達させ、農耕文明を作り、
あげくに死後の霊的世界への昇進などという修行や、
永遠の魂や楽園というものを作り出した。
世界は作られた以上は自然法則には深遠な意味があるとか、
偉大な宇宙意識の目的があるとかいう前提をそもそも「とっぱらって」みたまえ。
そこにあるのは、『絶対無と存在』という2つのものだ。
さて、ではその存在=全宇宙の全次元の最終目的は何か?。』
『進化し続けなければならなかったり、存在しつづけなければならないという、
そんな命令を誰が、どんな権限で下したのか、そして何のためなのか?』。

人は言う「そんなことは謎だ」。EOはさらに言う。
『もしも、この根本的な宇宙の存在理由が謎であるならば、
存在する一切の『部分的真理の説明』なんぞには、なんの説得力もありはしない。
『では、なぜ活動を続けなければならないのか?。』
『なぜ、そもそも存在したのか?。なんの目的で存在したのか?。』
EOイズムの結論は、ただひとつだ。
『ただ存在するため』である。

知的生命体が日ごろ論議し、また時には修行などをするが、
こうした生命の目的に対する「憶測」や、
真理の為の魂の「学習」といったようなチンプなものは、
結局は知性の延命や生きる気力を発生する
『動機づけ』の『刺激』にすぎない。
力点は活動維持と存在にあるのであって、宇宙の目的達成のためではない。
そもそも宇宙が存在した理由は永久に回答不可能だからだ。
かくして、EOイズムは『宇宙の存在そのものを無価値』とする立脚点に立って
宇宙を眺める。
したがって宇宙の存在は善で正しいとするあらゆる宗教の論理は
EOイズムにおいては無効となってしまい、
また、なんらかの理想的精神状態を達成したり、
なんらかの高次元に魂が移動することに価値があるとする修行体系も
また無効で無価値なものとされる。
EOイズムは、TAOと禅とタントラや原始仏教をも『無価値』と看破し、
徹底して宇宙を軽蔑あるいは無視することによって、価値観や目的を離れてしまう。
死人禅の行法のすべては、一切の世間的価値観と、
一切の精神的宇宙観を破壊しつくして希望を断つことに目的がある。

*********
以下の質問はEOシリーズの著作の中でたびたび出てくるあなたへの質問だ。

@つまり、一体、あなたは、結局は、何を望んでいるのか??。
 その何をが答えとして出てきたら、どうしてそれを望むのか?

A「存在から消える」というのは、本心から望んでいるのか??。
  では、なぜ消えたいのか??。

B一度でいいから、(一度しかないが)大悟を経験したいというのか???。
 では、なぜ大悟したいのか???

この@〜Bのどれでもいいし、全部を使ってもいいので、答えが自分の中に出て来たら、
では、それはなぜ、なんのため、どうして、とやってみて、
その『フローチャートのメモ』のようなものを作り自問しなさい。

この3つの質問を使って、
なぜ〜なぜ〜なぜ〜それはなぜか、の
連鎖質問を作ってみなさい。
とりあえず、その、あなたの出した回答と称する言葉が、出尽くして・・・
完全に尽きるまで。






                 自殺論

*********
人は『自由に死ぬ権利』とその環境を獲得すべきである。
実は、これは単なる極論でも虚無主義でも、非人道的提案でもない。
いつでも死ねる環境、すなわち自殺が悪としてではなく
『権利』として容認されるような『死に対して開放的な社会環境』こそが、
本当に『生の意味』を考えようとする人間を発達させるからだ。

*********
自殺は根本的に人間が何度か思い立つことのある、ごく「正常な思考」だ。
かつても今も、安楽死の寺が流行るわけだし、死というものは本心から言えば、
人が決して100%望まないようなものではないのだ。誰もがそれを望むときがある。

「死んだら終わりだ、生きていればこそ、何かあるさ」などと
他人や自殺希望者に人々は軽率に言うが、その人々の人生ときたら、
はっきりと言えばそれは退屈しのぎの娯楽と
愚かな感情起伏の連続ではないか?。どうなのだろうか?。

どうやら、人類というのは、家庭を持ち、そしてある年令以後になると、
生きたくて生きているというよりも、死ねなくて『しかたなく生きている』らしい。
では、何が「しかたなく」なのだろう?。

それは実は、死ぬ自由、死ぬ権利が我々にはないことを意味する。
一度生まれて生きたら自然に病死するか事故で死ぬまで、
それに手をつけてはならないなどと宗教的な妙な暗黙の了解などしているが、
はたしてこれはそんなに倫理的に矛盾のないものだろうか?。

*********
自殺が自由に手軽になって、もしも多くの者が死を選択する結果になったら
それは人類のまぎれもない『本音の実態』であり、逆に、その時点で、
次のような疑問が問われるべきだ。
では、自殺が合法化される、その日まで自殺しないで、生きて来た者たちは
『一体、何によって生きて来たのだろうか?』。それは、自殺に対する社会的な抑圧、
規制、モラル、そういう単なる管理によって生きていたにすぎない。
彼らは自分の意志ではなく、自殺してはならないという
『単なる社会教育の命令』によって引きずるような人生を歩んで来ただけだ。

*********
いざ、死が生と同じぐらいに手軽に、あたり前に入手できるものとなると、
逆に人間は、今まで考えないで、そっぽを向いていた問題に直面せざるを得ない。
それは、こういう疑問だ
「我々人類は、生きぬくのは正しい、、とは言ってきたものの、・・・
さて、だが、なんのためなのだ?。
この私には本当に生存している価値や意味があるのか?」と・・。
だから、『明るい自殺』、『自由な自殺』、
『当然の権利となった自殺』が認められた社会だけが、
私にいわせれば、『本当の人間性』を獲得する鍵を持つ。

*********
我々は生きることも死ぬことも、いつでも『他人や社会や神のせい』にしてきた。
しかし、生死が、完璧なまでに、人ひとりの自由意志に任されるものになったとき、
初めて、人類は、自分の「意志」という言葉を使用する権利を持つ。
そうでなければ、あなたは自分の意志で生きているなどと言いながら、
実は他人に依存されたり、依存したり、他人や宗教モラルを気にして生きているだけだ。
だから、あなたには、死を選択する完全な自由が与えられるべきだ。
義務、モラル、惰性、で人生を引きずって、
「私は、しかたなく生きているんだ」などと力なく言う人間たちに、
そもそも、人間の価値や尊厳について語る資格など、何ひとつありはしないのだから。

*********
死の話題を持ち出すと、あなたたちは嫌な顔をするが、死は、あなたたちの生活
『そもそもの基盤』ではないか?。死の回避、これがあなたの人生そのものだろう?。
違うだろうか??。
手の届かないものには、いつでも人は憧れたり、恐れたり、期待したり、推測したり、
賛否の論議で時間をつぶすものだ。ならば、死を、簡単に手の届くものにしたとしたら、
いざ、そうなったら、人間はどういう行動パターンを取るかを
『深く考えてみよ』と言っているのである。

ぶつぶつと、いつも小言のように「死にたい、死にたい」と言いながら
長い年月の生活をダラダラしている人達をたくさん私は見てきた。
だから、彼らの死にたいという言葉には、なんのリアリティーもなかった。
また、事あるたびに「死ねば楽だ」と軽く口走る人達を見てきた。
彼らは「死にたい」と言うのに、なぜ死なないかの理由を尋ねると、
彼らはいつもそれを環境のせいにすり替えるのだった。
なんと自分の生なのに、環境や社会や宗教モラルのせいにする。
「運命だから、まだ死ねない」と。
こういう人類をちゃんと考えさせるたったひとつの方法が、自殺の環境設定だ。

*********
よく見てみるとよい。死ぬのを怖がるのと、一方では生きるのを怖がる人々がいる。
たいていの人々は生きていたいと言う。
だが、ほんとうは内心生きていたくないとも思っている。
そして全面的に『もう生きていたくない』と考えているひとたちが最も悲惨だ。
自殺してもまた生まれる。
また、自殺する勇気も踏ん切りもつけられない自分を責めてもいる。
とうとう人々は自分で自由に生きることどころか
『自由に死ぬ』ことすら出来なくなった。

*********
自殺というと、なにやらネガティブな思考だと決め付け、
あるいは通常は生命力が弱いからそういうことを思考すると定義するが、
実際には全く逆であり、生命力が強いほど自殺するし、知性が高いほど自殺する。
自殺の寸前に落ち着いているやつなどいない。
ならば『落ち着いていれば自殺しない』ということになる。
また、そもそも生きているという自覚のない生命体は自殺を考えない。
したがって、自殺率は『生への自覚に比例』する。
また知性体は『発狂の回避』のために自殺するのである。
「狂いたくない」という動機が自殺の動機のひとつである。

自殺の原因は、要約すれば、
1/何かの囚われによって、落ち着かないという苦から楽になりたいこと。
2/自分が生きているとはどういう状態かを変に決め付けていること。
3/正気とは何かを変に確定して決め付けていること。
善悪とは、正否の問題ではなく、我々にとっての『苦楽の問題』である。
しかし、全銀河系を見ても、その生命体にとっては
『落ち着かない』ということのみがすべての苦の原因である。
ところが、落ち着くということは、生命活動を極度に制限することになるため、
極度の落ち着きは『死』に似ている。
したがって『死を恐れる者は落ち着くことが不可能』である。

*********
10代〜28歳ごろにおける絶望や自殺願望は、それが、いかに哲学的に見えても、
自分に迫ってくる存在世界というものの「現実感の重圧」が
その思考の主原因であるにすぎない。
これは、例外なくどんな人間にでも起きることである。
生理的にもこの時期は現実感覚が「過敏」だからである。




               死について

肉体の実際の死は、なかなか我々は体験できない。
その為に我々はすっかり死にそっぽを向いてしまう。
つまり、常に実感のないものは『現実』と人間に呼ばれないわけだ。
そのくせ、実感のあるものだと、どんなにつまらない取り越し苦労であっても、
本人は大まじめで『実感』の固まりになっているものだ。
人間の現実だの「現実感覚だの」とは常にそんなものだ。

*********
死と戦うだって??。死に対してなど、戦えるものではない。
人々が戦えると言っているのは『死ぬきっかけになる生の現象面』にすぎない。

*********
肉体だけの死は、人のエゴを決して落とすことはない。
肉体ではなく、『心が死ぬ』ことの出来た人達は、完全に無力だ。
もしも力があるとか、何かしらの存在の意味が自分にあるという
「価値観の力」を保持などしたら常にそれは生に対して『戦う姿勢で緊張し続ける』。
そして、これが多くの人達に起きている現実だ。
だから私は全面的な心の死に落ちなければ本質的なリラックスなどあり得ないという。

*********
厳密には死の体験とはなんなのか?。それを、他人の現象としてではなく、
あなたの体験としてあらしめるためには、
『体験者としての意識』が残っていなければならない。
だからこそ、もしも本格的に死んでしまったら、死について語る意味がないのだ。
死が、ただの消滅だったら、誰もそれを問題になどしない。
そこに社会やあなたの観念、疑問、恐怖があり、そういうあなたがいるから、
この問題は論議されるのだ。

*********
死んで、あるいは一時的に死んで、肉体を分離すると、とたんに、
あなたの全意識は生き生きと覚醒する。
そこでは、あなたがほんのちょっと何かにひっかかっただけで、
それは膨大なこだわり、執着に発展する。
たとえば、あなたは夢の中では、本気で恐怖する。
ささいなことでも引き戻す現実がないという状況では、そこではすべてが思考の世界だ。
ほんのちょっとした、執着、思い、思い残し、ほんのちょっとした肉欲やその他の欲望、
そしてあなたの恐れるものも、何十倍にも拡大されてくる。
もうそこには、客観的な現実がなくなって、あなたの思考しかないからだ。
あなたは決して覚めない、自分の作り出す悪夢に一歩踏み出したわけだ。
目覚めたくても、もう戻る肉体はない。

*********
あなたは死ぬなんていうことを実感などしたことがないに違いない。
だが本番のそれはリハーサルではない。本番だ。引き戻れない。
その実際の本番と、あなたたちの想像の推論や反論では、話にならない。
あなたの死では『生の全部との別れ』になるのだ。
この惑星、この大地、そのあなたの何十年も親しんだ肉体。隣人、思い出、そして
あなたの心理的業績の何もかもだ。
全部と『永久にさよなら』だ。それはそんなに簡単に「はい死んだよ」ではすまない。

*********
死ぬと通常はどうなるかというと、なんらかの執着の思考が種となって、
あなたはある方向へ安心するような光で誘導される。
あなたは「ああ、極楽にでも行くのか」と思うが、とんでもない。
それは『魂の回収処理場』に回されるのだ。あなたは、騙されて、生まれてしまう。
その責任は全部あなたにある。
あなたは生まれたい、まだ生きたいと思い願ってしまう罠にハマる事になる。
そうなれば、輪廻の『コース』が実に丁寧に用意されている。
そしていざ生まれてみると、どこへ行っても、さして、そんなに変化はないのだ。
どこの世界で生きるかは問題ではない。
生きるかぎり、形あるものであるかぎり、仏も人間も共に、
生きるためには決して停止することは出来ず、永遠に
『宇宙が終わるまで』あなたは『働き続ける
』。
そして、動き続けるためには、あなたにかならず2つのものが必要になる。
ひとつは『生きるために必要な何かのものや行為』。
もうひとつは、『それをやらないとあなたに苦痛が発生する』というシステムだ。
消えようとするものを宇宙は許さないようになっている。

*********
医術は、それが心霊的治療であれ、物理的であれ、その医術は
とうとう『死んで循環してバランスをとる』という
最も大切な自然界法則の『基本中の基本』を無視した
延命が人口の増加を生んだ。その結果を素直によく見てみるとよいだろう。
誰も地球の環境悪化の本当の原因を直視したがらないがその原因は至って単純だ。
これは政治的でも科学的原因でもなんでもない。ただの『人口過剰』だ


*********
『死が実感として身近である』ということが、本当の精神性や霊性を発達させる基だ
そこで物理的な死をさけようとしてあがき、奮闘すればそれは医学を生み、
他者から肉体を防衛する衝動は、ついには核兵器に至る武器を発達させた。
だがもしも死をちゃんと受け入れていたら、人々はもっと哲学的であったはずだ。
奮闘したり逆らうかわりに『私はいつ死んでも自然だ。ならば今のこの生とは何か?』
という疑問がちゃんと日常当たり前なもののはずだった。

現代の日本では死というものが病院で隠され、
死が身近にないという極めて不幸な社会であるために、
我々は結局のところ、生について何も洞察をしなかったのだ。

*********
人類は基本的には『ただ漠然と生きのびる為の経済であり武器であり、
政治組織、知的・感覚的娯楽』であり、そんな中での哲学論議や
人生観や宗教などはただの娯楽の延長に過ぎない。好奇心の対象にすぎないのだ。
週刊誌でも読むように気軽にあなたたちは死や生について読み、そして論議する。
『死』、それはあなたのことなのだ。それは三面記事ではない。
たとえ何年先に延長されていようがあなたは確実に死ぬ。
何も老人になってから考える問題でもないであろう?。
夏休みの宿題ではないが、『明日やればいい』の考え方で
自分が死ぬという問題を引き伸ばしたところで、結局そのときになってはもう遅い。
なにも分からず、生きて死ぬ、そして終わりだ。
たとえ、生まれ変わってもまた同じ無知を繰り返す。

*********
殆どすべての宗教は肉体的な死を受け入れる代わりに、
想像上の『精神的な延命』をしてしまった
転生、来世、天国、霊的次元世界、そして現代では他の宇宙へ生まれ変わるというもの。
薬や医学が肉体の過剰な延命をしてしまったのに対して、
宗教は『観念を延命してしまった』。
それゆえに『本当の死の恐怖や苦痛から生まれるべき法の種子』を
完全に失ってしまった。

*********
魂もアストラル体も、いずれは何もかもが死ぬのだ。
そしてそれは肉体とは違う種類だが、
ある意味で肉体の死よりもっと過激に苛酷な苦痛をともなうものだ。

*********
他人の白い目であなたは死ぬのかな?。そう言われたからと言って死ぬだろうか?。
まったくこんなことで怒るなんて謎だし、エネルギーの無駄だ。
だが、私は知っている。これは謎じゃない。そして重大な問題だ。
とても根が深い。絶対にあなたたちはこれを理解しなければならない。
実はこれが『死の本質』なのだ。

*********
あなたはその精神の死の苦痛を知っている。絶対に知っている。
ただ『規模』がとてつもなく小さいだけだ
それこそが、あなたの『怒り』の本当の原因なのだ。
あなたの怒りとは『死の微弱な経験』なのだ
心は物質でないのに『傷つく』のだ。
それはそれ自体の生き残ろうとする生存欲を持っている。
他人から否定されることを最も人間は恐れる。
だからと言って体が死ぬわけでもないのに、この無害な言葉、
『君は無価値で駄目なやつだ』をいやがる。
ただの論議、思考の次元なのにそこでは『何かが』死のうとしているのだ。
そしてそれに逆らっている。
自分の考えが間違っているのを知れば、その考えは消えなければならない。
だが、思考にはそれ自体の消えまいとする本能がある。
だから逆らい、生き残ろうとしてそれが苦痛を生んでいる。
これが心の痛みになる。

*********
もともとはこの世界に間違いも正しさもないわけだから、正確にいうなら
間違った考えなどはなく、それぞれの場所で自分の考えが『通用しなくなった』時に、
なおもそれを、かたくなに守ろうとなどすれば、あなたはどこへ行っても苦悩し続ける。
だから、物知りほどケンカばかりしている。
何かご立派なたいそうなことを成し遂げたと思い込んでいる人間の目を見てごらん。
彼らは主張する。一生懸命力説する。
そういう彼らに一番不可能なことは『それを捨てる』ことだ。
すくなくとも自分の考えを脇にどけておくぐらいすればいいものを、彼らは
『攻撃こそ最大の防御』だと思い込む。つまり思考があさましく生存競争を始めるのだ。
まるで肉体の次元で食い物で争ったり殴り合いをするのとなんの変わりもないことが、
思考の次元で起きているだけだ。
だから人間はまだ『猿』なのだ。原始的だ。
とても文明や知性があるとは思えない。
だから私は言う。あなたは確実に『精神体の死』が何かを知っていると。
恋人や家族との論争から、宗教論争に至るまで、そこで起きていることは、
あなたの思考内容が『否定される嫌悪感』だ。

*********
あなたたちに強要はするつもりはないが『死に慣れる』というのがTAOの万能の鍵だ。
瞑想とは全面的に死ぬ練習であり『死そのもの』として生まれることでもあるからだ。

*********
あなたが死ぬ瞬間に、私の言葉は、初めて、全面的にあらわになる。
人は、死の瞬間の為にこそ生まれてくるのだ。

*********
最低限の近辺整理についてやるのはいいとしても、
人生問題のやり残しなどという問題がそこで浮上するならあなたは、決して悟れない。
なぜならば、死と仲良くなり、くつろいで、
いま、ここの存在を味わうのが、悟りだからだ。

*********
死の『本番』に際して、あなたが深い安心の中で死ねなかったら、
あなたの人生は台なしになる。
もしもあなたが死ぬ時に、死ぬことそのものに対する安心がなかったならば、
あなたはとっくに我が家を取り違えていることを意味する。
あなたはせっかく家に帰ろうとしているのに、
それを恐れていることになる。
まったきの空、無、それがあなたの最後の家だ。

*********
あなたは、いつ死んでもあたりまえなのだ。あなたの肉体も思考も魂も、
いつでも死んで当たり前なのだ。それは単に『当たり前の事』なのだ。

*********
夢の世界にもって行けないような、そんなあなたの信念などは、死んでも同じ事だ。

*********
この地球で、死について直面したのは、仏教、TAO、禅だけだ。
他のすべての宗教、魔術、神智学、は厳密に言うならば
死をただの『肉体の乗り換え』あるいはただの『通過』だと勘違いしたようだ。
極楽、天国、あるいは高次元への転生、
そしてまた他の発達した惑星や恒星や次元階層への転生。
これらは『死』ではない。それらは、ただの『移動』だ
そして実際にそのようにただの移動だけが行われている。
これらに属するあらゆる宗教徒のやっていること、信じていることは、
それが事実であれなんであれ決して人をひとりのブッダにすることはない。
絶対にあり得ない。
それらは、まるで死を休息か夜の眠りとしか考えていないからだ。
だが、そういった死にまつわる軽率な論理とイメージは
決してあなたを『飛躍』させることは不可能だ。全くそれらは世俗的な幼稚な精神だ。

*********
もしもあなたが徹頭徹尾、無心であれば、いかなるヴィジョンもない。ただ死ぬだけだ。
あなたはただ虚空へと消える。そこになんの不安もない。
あなたは本当の我家へと帰還する。つまり完全に大海へと消える。

だが、もしも無心でなければ、自己が崩壊してゆくのに抵抗して、
あなたは『自分が何者であるかの夢』を勝手に作り始める。
死の体験をして戻って来たと称する人間のほとんどがこれをやらかしたのだ。

*********
EOが『もしかしたら私は禅について言っているのではないし
それは仏教ですらもない』と、ときおり言うのは、
もしかすると彼は宗教や悟りを問題にしているのではなく、
たったひとりの個人の死ぬ時の『安楽死』を
本当の問題にしているからかもしれない。

*********
『健康体で、座ったまま、そこで死体になってみろ』
自分が死体として存在する状態について参究すること。
それが死人禅の座禅の『ひとつの姿勢』である(全部ではない)。

*********
我々は、きっかり50パーセントは生まれた時からあたりには、その『敵』がいる。
それはあらゆる種類の『死、無、不』である。だが厳密には、これらは敵ではないのだ。
たとえば、死や老い、というものがもしも我々の体内になかったら、
あらゆるウィルスは体に侵入したら、そのまま増殖し続けることになる。
そして、正常細胞と異常細胞のどちらもがそのまま生きのびたら、
我々は破裂するか、あるいは毎日変化する奇形のような肉体で生きることになる。
日々、我々の肉体の中では、無数の死が起きている。
皮膚も老化し、無数の微生物が死んで、なにもかもが循環している。
だから、この循環という活動のためには、死や無は不可欠なのである。
中国の老子が述べたごとく、まさしく、死と生は完全に半々で補いあっている。
何かが生きるためには何かは死なねばならない。これが宇宙の基本的ルールである。
この最も基本的なルールがこれほどまでに明白であるにもかかわらず、我々は蓄積や
保持、維持、つまり生存にあまりにも偏った重点をおいた教育をずっと死ぬまで受ける。
これが、死や無化というものをきっかり半分まで受け入れていれば、
起きなかったであろうあらゆる混乱の始まりとなった。

*********
自然においては、絶対的に『死と生は等価』である。
だから「生きろ、とにかく食え」、などと、のたまう愚か者たちをよく見るがいい。
彼らは、実は自分に自信もなく、世界については何も思慮したことがなく、
全く深くものごとを考えたことがないという自分を見るのが嫌であるために、
それ故に、最も誰が聞いてもあたりまえだと支援されるようなものだけにしがみつき、
それを他人にも強いるものである。

*********
そして、あなたの瞑想は常に『死ぬ』ことに向けられるべきだ。
暗黒の無にどれほど純粋に消えて行けるかという死ぬ練習をしなさい。
暗黒の無の中にあらゆる判断と、あらゆるブッダを忘れて、あなたを捨てるのだ。
あなたが死ぬのだ。
そのリハーサルをやりなさい。そして、その死は『ただの死』でなければならない。
光明の手段であってもならず生き生きとした生活の為でもない。ただ死ぬのだ。

*********
馬鹿になることは少々間抜けなあなたにするだろうが、決してあなたを不幸にはしない。
一方あなたが小利口になれば、あなたは少々気持ちいいだろうが、
その少々が、とてつもなくあなたを不幸にするだろう。
何を体験しても、何を見ても、あなたはただ死ぬ練習をするのだ。

*********
生という観念があるかぎり、人間は何かをそこでしなければならない。
では死にあってなされることなど何がある??。
そして、自然法則のきっかり半分を構成しているのが死である。
しかしそれが『生きるための死』では、それは自我の取引だ。
『いいよ、あたしはいつでも精神的に死ぬよ。そのかわり、
あとで生き生きとした生をおくれ』と言っているようなものだ。
これでは思考体生物の目付きは『あるがままの死』など見ていないことになる。
エゴは、死のあとの『ごほうびの生』をチラチラ見ているだけだ。

*********
この世界で生きようが、死のうが、そんなことは死人禅は問題にしない。
そして、その生き方すら、死人禅は問題にしない。
しかも死人禅、あるいはEOイズムとは、別の次元での霊的精神学校でもない。
すなわち、それは高次元という世界にも、全く価値を置かないものだ。
死人禅は、ただひとり、あなたが満足の中で、法悦の中で、
楽に生きて死ねるという至福のあなたの死の瞬間の安堵にのみ、
そのたったひとつの価値を置くのである。

*********
たくさんの者たちが大悟したが、それはどういう環境であったかというと、
悲惨極まりなく、死がいつもそこにあるような環境だった。
無名の大悟者たちの時代は、いつでも戦乱と飢餓と死が身近な時代だった。
そして、そこに方便として機能していたのは、外ならぬ「理屈ではない死』だ。
洞察ある者や大悟者のそばには、いつも死の実感があったのだ。

*********
死人禅の到達点は、人が死ぬ瞬間の理想的な状態を、
今、この瞬間に実現し続けることだけを目指している。
そしてそれは死を超えるのではなく、死に住むことだ。

*********
大悟の原因、それはどうも苦行や座禅の年月の問題とは違うようだ。
年齢でも、性別でもなく、寺に属するか否かでもないし導師がいるかいないかでもない。
いつでも、そこにいるのは、死神だ。いつでも、死神が、仏の母親となってきた。

*********
生からは、何もかもが始まってしまう。しかし、死は何もかもを終わらせてくれる。
今、ここを生き切るのではなく、今、ここで『死に続ける』のだ。
ブッダたちというのは、ただの死人だ。死が生の中を『ちょっと横切る』だけなのだ。

*********
人は死ぬときには何を持ち込めるだろう?。実は何も持ち込めない。
ただあるがままに死ぬことと、そのまま死を受け入れ、消えて行くだけだ。
『死の中へ 連れて行けるは ただ死のみ』である。

*********
覚悟した死への道が、あれほど人の目を美しくするとは、一体死とはなんだろう。
それは「希望を持たない」からこそ生まれる、ありのままの美しさだ。
さりとて、彼は絶望で沈んでいるのでもない。人は死に赴いてこそ、本当に沈黙する。

*********
明日にでも命を捨てていいと大悟者に思わせる「何か」、その「何か」とは実は、
底無しの『死そのもの』なのだ。

*********
生も死も懇願もせず、そのどっちにも関心もない者には
永久の生という脅迫すらも成立しない。
たとえ相手が神であってもだ。
すなわち・・・十全な生は、十全な死と同義語であり、
十全な死は、十全な生と同義語であるのだ。
あまりに完全に馬鹿であることは、彼には脅迫の余地がない、ということなのだ。
だから、生を否定しても、同時に死もまた否定すべきである。
人生を捨てた者が、最後に捨てるべきものは『死の切望の思考』だ。





              思考のワーク

*********
私はあなたたちに『哲学や論理は常に仮説と極論の産物』であり、それ故に
本当に知性を使うものは常に『極論』を考慮すべきだと言ってきたはずだ。

*********
まず金をためて、数カ月の生活の心配をなくして、
そして、徹底的に世間から孤立して、考えよ、考えぬけ、
何もかもについて、疑問を持てと。
だから生活のゆとりこそが洞察と哲学の基盤であり、
またそのゆとりある時間を決して娯楽などに使わず思考することに使うことだ。
そういう状況で、はじめてあなたたちは、生死の根本問題、
自分の残る人生は一体何かについて、考える。

*********
あなたは自分と宇宙や、自分と自然を全くのありのままに比較した事があるだろうか?。
本当に、真実に比較したら、あなたは自分を完全に無価値だと痛感する。

*********
『万物はなんのための存在なのか?』例えば、世間では楽しむためという。
ならば、どうして楽しむのか?。
人間の楽しみとは宇宙でいかなる位置をしめ、いかなる意味があるのか?。
すると神学者は言う。インドでは、それは神が楽しむのだと。「リーラ」だ、と
そしてカバリストは言う「神の自己認識のためだ」
そしてイツアク・ベントフはいう「神のかくれんぼうだ」と。
そしてJ・リリーの出会った次元の知性体は言う
「我々は無に飽きた。だから、いたるところで我々は宇宙を創造するゲームをする」
そしてまたロバート・モンローの出会ったインスペックスは言う
「我々はエネルギーの微調整をしている。我々は生物から生存意志、感情、思考、
ありとあらゆる生命活動の波動を生産し、別の次元に売り飛ばし、そして報酬を得る。」
さて、EOは言う。
『だから、それは{結局なんのためか}と聞いているんだ!』

さまざまな憶測と情報が入り乱れる中で、宇宙そのものの発生や運営状態については、
断片的な情報しか入手出来ない。
あらゆる宗教や瞑想センターなどは進化あるいは成長や光明というスローガンのもとに
理想社会を目指す。
たとえ社会的成長ではなくても、理想的な「人の意識」を生産しようとする。
だが、問いはまたもや、同じだ。『しかし最終的には、なんのためになのだ?』
進化というスローガンは神智学特有のものだが、彼らは別の次元でまたもや、
階層制度に固執しており、そしてその進化の果ては、ただ光としか表現しない。
愛も進化も結構なことだ。だが、それは、なんのためなのだ?。問いはここでも同じだ。
なんのための光、そしてなんのための宇宙なのか?。
もしもあなたがこの問いを絶えず24時間続けるならば、
それ自体がどんな修行よりも優れた狂気をあなたに生み出す。
もしも宗教家やチャネラーの答えに、うかつにも満足しそうになったら、
はっきりと正気を取り戻して問いなさい。『では、その答えは、なんのためか?。』

この問いの連続は、宇宙の目的を愛と言おうが、進化や絶え間無い創造と言おうが、
または、悟りへ向かうと言おうが、あるいは消滅に向かうと言おうが、
なんと言おうが必ず『この問い』は生き延びる。
なんであれ、あなたが問うべきは、『では、それは何のためか?』である。

*********
宇宙では、単なる微生物である自分にも、何かの存在意義があるはずだ、と
あなたはオカルト書物を読むか、あるいは霊能者のとこへ行くが、
いつだって答えはいいかげんである。
「神仏や宇宙意識のネットワークの方針だから黙って精進しろ」で終わりだ。

*********
SF作家のダグラス・アダムスは非常におもしろい表現をした。それは、こうだった。
『主な種族あるいは銀河系の知性を観察すると、それは3つの段階の文明に別れる。

第一段階は、どうやって食うか?、である。
第二段階は、なぜ食うのか?、であり、
第三段階は どこで食うか?、で終結する』
この、「食う」を「生きる」に代えてみればよかろう。
原始的な生物は、どうやって生きるかに没頭する。
その彼らも合理化で余裕ができると、退屈して娯楽を作り出すが、そのうち、
「なんでこんなことまでして、生きていなければならないのだ?」と、問いを始める。

*********
地球という惑星には、おもしろい点がある。ここは、物理的にはいろいろな制約がある。
しかしだからこそ、その代わり、何を思考しようが勝手なのだ。
思考が物質環境に直接影響しないために、
思考というものがここでは制約や管理をされていない。
とにかく考えたい者は、徹底的に宇宙、神、目的、動機、存在、万物を、他人に頼らず
自分ひとりで問いなさい。

*********
「死については考える必要がない」と言いながら、
あなたの脳裏から一日だって死という考えが離れたことはありはしない。
ただ、あなたはそのあなたの生活の基盤が死への恐怖にあるという事実に
そっぽを向いているだけのことである。
さて、そこで「どうして生きているのか?」の質問を人間になげかけると、一見すると、
いろいろな答えがあるように見える。次の返答例は単なる一例であるが、こうなる。

子供の返答=わからない。
大人の返答=家族のためだ。
それに対する返答「質問をちゃんと聞きなさい。だから、
  その家族がなんの為に生きていくのか聞いているのである」
俗人の返答=幸福になる為。
僧侶の返答=悟りを開く為。
あらゆる分野の学者の返答=進歩、進化のため。
神智学者の返答=物質領域でないだけで基本は学者に同じ。
宗教家の返答=極楽ツアーの為。または現世の善行行為だが、
  その積み立ての目的は、極楽ツアーのため。
チャネラー、体外離脱者の返答=分離した高次元の自我との結合のため。
  ただし、結合そのものの目的については返答なし。
  たいていは宇宙の進化とか言って、ごまかして逃げる。
  私が聞いているのはその進化の目的そのものである。すなわち進化がなぜ必要かだ。
創造者の返答=大いに苦しみ、もがき、葛藤し、あらゆる次元で
  死にたくない、生き延びたいという意志を持たせるため。
・・・・・・・・・
どれもこれも、世論調査のインタビューならば、
ご立派に円グラフにでもされるような返答内容であろう。
ところがこのすべての返答を『一言で全滅させる質問』が存在する。
では、それらをやらないと、どうなるのだね?
これに対する答えは、たったひとつだ。「自分、または世界が、衰退する、死ぬ、
滅びる、停滞して無意味になる」これ以外の回答はあり得ない。

したがって、「なぜ、生きているのか」の質問に対して
返答する人間の答えがなんであれ、それは複数の多様な答えではなく、
いわんとすることは「物理的、心理的、霊的に、
衰退や消滅や無意味だけは回避したい」というものである。

生きがい、がなくては生きて行けないというのならば、生きがいとは結局は、
『生きて行くための部品や刺激』となる。理念もまた、理念そのものの為ではなく、
生存の存続の手段にすぎない。
原始的だった社会が現代に至った原因は、発展や進化の衝動だと言われるものの、
その根底にあるものは、霊性でもなく、進歩でもない。
それは合理的に生存しようとする、これまた生存という目的の変形にすぎない。

我々の内部には意義、意味、生命の実感、生命の充足感を求める衝動がある。
たいした実感もなく生きている者もいるが、
そういう彼らも虚無感だけは避けようとする。
だが、なぜ、避けずにいられないのか?。すると、また同じ結論が出る。
もしも虚無感、不毛感により生命の実感が欠落すると
生存がまっとうされないからである。
とするとこれまた禅やTAOすら、またもや、
その最終目的は健全な生存のために還元されてしまう。

そこで繰り返される問いがある。だから何度も言うが、
「なんのためのその生存そのものなのだね?」と。
ここでの大人たちの返答は、最初の子供の返答と同じになる。
「それだけは、わからない」と。

宗教、神秘学、神学というものは、個人の生存目的を世界、宇宙、あるいは神といった
普遍的で大きな生命の目的の一部であるとか主張する実に無駄な説明に明け暮れている。
なぜならば、存在物の最終目的があなた個人の生存目的であれ、宇宙のそれであれ、
根本の質問は依然として決して解決しないのだから。
我々が広大な法則や秩序の中で生きているのだとして、我々の生存に意義を付加して、
なんとか安心したところで、その広大な秩序そのものの存在目的を問えば、
またもや、回答はない。

また、『苦悩がなぜそのままではいけないのか?』。
もしも我々が苦痛や苦悩を避けないと、我々は、いずれ
死ぬ、自殺、発狂のいずれかに陥る。
すべて個人、または集団の生存維持への意志に還元される。
何を思考し、何を修行するにしても、『死ぬために行うものはただのひとつもない』、
ということだ。その全部が、生きるためになっている。
だが、そうまでして、『なぜ、我々も宇宙も存在しているのか?』。

*********
生死の境に『幽閉』されたままになる状態、すなわち『廃人』というものが
変容の唯一の鍵になる。
宇宙は、通常は、特定の種族や銀河系が進化や変化の限界の袋小路に入った場合、
あらたに不満、あるいは課題、謎、疑問、分離をプログラムする方法で、
活動に引き戻す。

*********
一体この宇宙の目的や原因は何なのか?。それが分からなければ
禅だのTAOだのと言ってはみても、
グローバルに全体から生命や宇宙や自分達を見ることはできまい。
つまり、何のための禅、何のためのTAO、何のための人間、
何のための悟りなのか?。

*********
オカルトという分野は、人間が、ただ食べて、生きて、死ぬという、
ただそれだけのものではあるまいと言い続ける分野だった。
生存が目的ではなく、概念や感覚や、あるいは新しく何かを生み出し続ける特権、
または単に『機能』が人間にはあるという『説明の山』とでも言うべき分野だった。
平たく言えば、オカルトという分野は、平凡な生活に疑問を持った人間にとっての、
正確な意味では狂信的な宗教でもあり、軽度の精神病の者には鎮静剤や食糧であり、
科学者や芸術家にとっては神話やイデオロギーの題材の宝庫だった。
ところで、変化というものの定義はなんだろう?。
科学者は進化や、あるいは単に変化という結論に賛成するだろう。
彼らは言う「これだけのものを生み出したんだからな」
宗教家やオカルティストはむしろ退化だと言うかもしれない。
「内面は過去より貧弱だ。それに霊的能力はあきらかに減衰している」と。
そして『無変化だ』というのは、多くの場合は心理学者かもしれない。
哲学者は言う、
「そもそも我々にはなぜ幸福を求める衝動があるのか?。幸福とは何か?。
それは絶え間無い活動のことなのか?。絶え間無い安堵のことか?。
絶え間無い生命の実感のことなのか?。結論はどれでもよかろう。
だが、なぜ我々はそれを求めるのだろう。
我々は幸福などというものを神学やモラルで定義することは出来ない。
実のところ幸福などというのは、それは人間という生物にとっての、
あらゆる種類の『快楽の総称』につけられた名称にすぎない。

科学とは『苦痛からの回避の技術』だ。自然を超える物を作り出したかもしれないが、
作り出している元の衝動を我々がコントロールしているわけではない。
だから科学や医学の根源は知性からではなく衝動的本能からのものだ。
では一見してそういう死活問題に直結しない
娯楽、学問、芸術、宗教、神秘学とはなんだろう?。
これらの分野は、はたして、これらをもってして
人間はただ生存する生物じゃないと言えるほどの分野なのだろうか?。
言い方と視点を変えれば、やっていることや、
生み出しているものが生活に直結しないなら、
それはただの無駄と徒労という言い方も出来るからである」・・・・。

*********
『誰が万物を作ったのか』などはどうでもいい事なのだ。
問題は『なぜ作ったのか?』なのだ。つまり万物の『動機と目的』だ。
これを暇な哲学者の遊びなどと笑ってはならない。なぜならば仮定してみなさい。
もしもこれが分かったならば、あらゆる科学、医学、心理学、宗教、哲学論議は、
その結論で『終焉を迎える』からだ。
万物の創造の動機や目的が説明されたらオカルトをふくめて現在不可解な、
あらゆる現象の説明がすべてそこに集約されることになるのだ。

『精神の発達や進化の為の存在』と言う言葉は
飽き飽きするほど耳にするがそれは分野が違うだけで、
またも『別の次元での生存をかけた生存競争』ではないだろうか?。
我々が持つプログラムを動かしているものは、心地よいか悪いかだけである。

正しさの基準などはなく、最終的にその民族や生物にとって
苦痛という感覚は避けるべきものと定義され、苦痛が減少することを善という。
苦痛と快楽は真っ二つにできるものではなく、
それはある境界線で仕切られるだけだ。
感覚や肉体の許容範囲の間をうろうろしていて、
それが限度内の変化であれば快楽で、限度を超えたら苦痛となる。

*********
我々は何もごたいそうな哲学や神学や霊的な次元を根拠に発生したものではないようだ。
我々には我々の作られた感覚や肉体の限度を持っており、
その許容限度を、少しずつ拡張するものの、
基本的には機械的にその許容範囲を行ったり来りし続けるようにプログラムされている。
これは難解になど考えなくてもいい。ちょっと観察すれば分かることだ。
我々が『心地よい』という経験をする瞬間を観察してみるといい。
その直前には必ず『適度の心地悪さ』があるはずだ。
あなたが誰かと話して笑ったとする。すると心地よい。または楽しい。
その直前までは退屈で笑いがなかったのだ。逆はどうだろう。
さんざん笑って苦しいのが、おさまって、ほっとする。これも心地よさだ。
空腹でもないのに食べておいしいわけはあるまい。そこには適度な空腹が必要だ。
本を読んで納得して満足する心地よさはなんだろう。
それ以前に記憶された情報データが結び付かないことへの不満がある。
我々は心地よさを求めるが心地よいという『単独の実体』があるわけではないのだ。
我々であれ、ゴキブリであれ、種類は異なるが
共通の『回避しようとする感覚情報』が存在するようだ。
アメーバなどは、ただ食物を通過しているだけだ。
むろん、食べ物に、おいしいなどとも言うまい。
そして、死ぬときに、苦しいとも言わない。
だが、それでも、空腹にすれば、『もがく』だろう。なんらかの『動き』をするだろう。
このことをよく、観察し、哲学してみるがよい。

死活問題はアメーバも人間も異なるが基本的にはどちらも『食を断つこと』で発生する。
そうすると、我々はどうなるだろう?。『もがき』が発生して、『動く』だろう。
すなわち、全万物は、原子をふくむ、いかなるレベルでも『停止』するようには
作られておらず、全万物に唯一存在する法則がここにある。
それは、『活動の停止をしないようにしている』ということだ。

我々も微生物も、必ず食する。なぜか?、なぜ食がなくては生きてゆけないのか?。
維持できないのか?食に対する飢えという状況が常にあるために、
我々は動かなければならない。
『食がないこと』は、全生物にとっての『苦痛の基本』だ。
そこで、心地よさとは『平均的な満足した食』を得ることにあるだろう。
むろん、そのためには前提として空腹が必要になる。
しかしいつまで、我々はなんでこんなことをしているのだろう。
飢えては食べ、飢えては食べの『繰り返し』だ
しかも、そうしないと苦痛を感知する器官をもっている。
そしてその苦痛を回避する『もがき』をする。
結局、我々は宇宙にとって、進化や変化や高度に発展するためではなく、
『動き続ける』ための産業的な部品なのではないだろうか?。
意義、意味、価値観、希望、動機、目的、哲学、宗教、社会、科学、芸術、
そんなものはその活動の促進の為につけられた『口実』にすぎず、
その総称は実は『動き』だ。

宇宙は動くために、すなわち万物に「止まるな」の命令を実行させるために、
おのおのの生物や無機物に至るまで、その活動が減衰すると、
苦痛信号で圧迫するという手段を使う。
そしてその根拠と動機は単に「崩壊して無」にならないようにする為だ。だが、
この万物、宇宙という舞台の劇は、我々に結局、究極の疑問を残して幕切れになる。
なぜ、そもそも万物が、存在したか、作られたかだ。
最初になぜそんな管理やプログラムの必要な万物を、
そもそも作ったのかは全くの謎のままだ。

オカルト、学問、科学、心理学も超能力修行も瞑想も結構。
だが『なぜ』というキーワードは、万物の活動法則を
『無への消滅から逃げるために、飢えて苦しみもだえて動いて、
常に活動し続けるように設計した』と、ここまで定義が出来た段階で、
我々全員を『奈落に突き落とす』のだ。
その次の疑問は、では、なぜ『在る』のか?。いつから在り一体いつまで在るのか?。
どうして、なんのための存在とその動きなのか?、となるのだ。

*********
インドのラジニーシは彼の主要スタッフを半数近く女性で運営させたのである。
なのに、なぜ男たちが悟ったのだろうか?。
これは究極的には、段階的に見ても、最後に超える
のが『知性センター』であることに起因する。それは絶対に感情中枢ではない。
これ故に女性は到達しにくい場合が多い。
つまり、とても知的な女性だけがその可能性を持つのである。
だが、それは知識を持っていると言う意味ではなく、徹底した観察力、
あるいは鋭い感性と洞察を放棄しない力量を持っていることだ。
そういう苦悩があってこそ、初めて知性が全部まるごと放棄される瞬間が来る。
これは物事のあたりまえの順序だ。ハートや感情は明け渡しのきっかけに過ぎない。
単にその中枢がそれを得意としているのだ。
だからハートを明け渡すのは誰でも条件が揃えば簡単だ。

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最終的には知性は破壊されるものだ。
だが、それはのちのちに再び頭を出さないまでに『使用されつくした場合』に限るのだ。
野心家というものだけが最後に悟る。知的な者だけが最後に悟る。
強欲なまでの知性、探求者、そして攻撃性や破壊性を発達させた者だけが、
最後に2度とそれらに手をつけない。
もしもそうでなければ、彼らはどこかでまたもやそれらを拾うだろう。
要するに完璧に『懲りる』か『無関心』になるまでやり尽くさないことは、
転落の原因となる。
狂ったような探求なしに人は『限界』にぶち当たることはない。
そしてその限界にぶちあたらなければ、
いつまでも知性が効力を持っているものだと思い込んでしまう。
人を悟りへ至らせる重要な要因のひとつはこの『限界点』である。
一方女性の知性が限界に行き着くまで発達するのは希だ。
知識や認識や自我を貫くことに対して、そこまで貪欲になれないからだ。
だが徹底的に突っ走ったことのない知性でなければ
その『むなしさや限界点』は立ち現れない。
だがその限界点で始めて本当に人は知性を捨てる事を学ぶのだ。

知性が限界に行き着くためには、その知性が
『多大な被害と迫害』を被ることが必要になる。
ところが女性はたたきのめされない。
だが、 本当の悟りには、 知性を発揮して、しかも限界までいって
全部粉々に粉砕されるというプロセスが非常な必要項目になる。
男性は社会で自我の闘争によって突っ走りすぎるために、ダメージが大きい。
だから、本当に捨てる瞬間が来る場合がある。
ところが女性の野心たるや、バーゲンや恋愛と、ひどく狭い世界で発揮される。
それらは「知性」ではなく『ずる賢い程度の思考』ですんでしまう。

ようは、こういう事である。あなたは粉砕される必要がある。
だが、待っていても誰もあなたを粉砕してはくれない。
あなたが突っ走って限界の壁にぶち当たって自我が死ぬべきだ。
あなたが自分で自分を破壊しなければならない。
そうしなければ恒久的な無心などあり得ない。
だから、とにかく、知的な探求も女性に必要だ。そしてそれは単なる探求でなく、
『徹底したもの』であり、しかも『完全な失敗』をする必要がある。
限界に行き着く必要がある。

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思考に絶体絶命なほどに苦しめられたことのない者が、
どうして全面的に思考を放棄できるというのだろう?。
そのためには思考は発散したり下手に落としたりせず徹底的にあなたが抱え込むべきだ。

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貧困ではなく、むしろ生活に恵まれていることがブッダを生み出すということは、
あまり多くの人は言わないだろう。
だが絶対に『埋められない不幸』こそが
最後の薬を必要とする『最悪の病人』を生み出す。
だから、私は、哲学や疑問という『いわば、先進国の持つ贅沢な道楽』を
『重要なる扉のひとつ』として使うのである。

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多くの場合に人間は、他者への適応という口実で、
直接的に他人や社会あるいは銀河系という社会、あるいはマスター、教師、
そして崇拝物へ自分を適応させて、そこでその
『存在の根本疑問の哲学的な探求』を中止する行為を取る。
こうして探求の焦点は本人へ向かわず『想像上の概念』への依存へと向かう。
だがそうでない人々もいる。
徹底的に自分の中心とはなんであるかだけを探求する者たちが。
だが、よく観察しなさい。そもそもその疑問は「何」によって持ち込まれたかを。


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本当のエソテリックサークルは『あなた独り』だ。
完全な『独り』において、そこには完全な外部も浮上する。
完全な独りにおいて、人の探求を『常識』に止まらせるものは何もなくなる。
そうなれば探求は果てのない宇宙、存在そのものへ向かうだろう。
その作業に導師は必要ない。

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日本の禅は、安易にダルマの法脈を輸入しすぎた。
純粋に法そのものは伝わったが、その法を生み出した背景に、
哲学者の、理屈屋の死ぬほどの苦悩と理屈があったことを忘れてはならない。

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釈迦はおそらく、まず『苦の見極め』について長い間、説法したことだろう。
方便はあとの問題だ。苦が本当に苦でなければ、法など必要ないからだ。

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苦というものが悟りへの最大の贈り物だ。あなた自身の頭脳で洞察し、極限まで考え、
そして、万物を徹底的に嫌いになるまで不幸になることだ。
そうでなければ、あなたの手が握っている
『執着』というものがすべり落ちることは永久にない。
いくら自分では捨てたつもりでも、それはあなたの手にくっついている。
執着している「もの」を捨てても、あなたは別のものを拾うことだろう。
あなたが捨てなければならないのは『握っている手そのもの』だ。
ダルマの面前で自分の腕を切り落とした恵可のように。

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本当は、誰一人としてグルなど必要ない。あなた一人で充分だ。
ただ、相手にするなら、私ではなく、本に書かれた私の『論理』を相手にしなさい。
また、神や絶対真理というものを仮想敵国のように想定して、
それを相手にして自分の頭の中で、自問自答の議論をしなさい。

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根本苦とは、根本疑問とは『なぜ私はここにいるのだ?』、という存在への問いであり、
そして最後にはそれは社会的な存在としてではなく
『ひとり』としてのあなたの『生死』の問題に収束する。

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釈迦の「苦諦」の問題は、どうしても避けて通れないのだ。
苦しくないなら、何も非在へと、消える口実があなたにはないからだ。
消える口実がないなら、そのための行法などもあなたには必要ないのだ。

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EOイズムの総論中の総論であり、要点中の要点を言えばこうなるので
記憶するといいだろう。
論理を使うにせよ、瞑想だけでゆくにせよ、実に単純なことが必要なのだ。
  二度と思考しないための口実、二度と探求しないための口実、
  以後は馬鹿になりきる口実、すべてどうでもよくなる口実、
  すべてを無視する口実、ここから解脱する口実 、
これらが、他人への説明の為や、他人にとってではなく、
「自分ひとりにとって」、完全な整合性をもった口実として成立した時、
これらは、何に対しても、ゆるぎないものになる。
口実でなければ、それは絶望、あるいは何かの大きなショックや、
逆にすべてが全く無意味になるほどの神秘体験などであってもよい。

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したがって、「何をやめるのであれ、」、その「やめるための口実」が、
あなた本人にとって不完全であれば、それは、決してやめることは出来ない。
自分の言う口実に(他人の評価ではなく)自分そのものが、もしも不完全を感じて、
自分の結論に自分で懐疑的であれば
どんな行法をやったところで、
あちこちで矛盾をおこして、擦り減るのみである。

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私が知的探求に使った手口は、二つだった。
@ひとつは、それが実現できようが、出来まいが、常に極論を持ち出すこと
Aそしてもうひとつの手口は、論敵は常に『仮想の絶対者=神』のみを相手にする
ということだった。私の頭の中の独り言は、いつもこんな舞台設定だった。

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人々は言う「やりたい事をやればいいじゃないか」と。
私は言ったものだ。『あんたとじゃ、話にもならん。というのも、私は、
その自分がやりたい事そのものに、「なぜ自分がそれをやりたいのか」、
「なぜそれをやらねばならないのか」に疑問を持っているのだ』と。


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今ならば言えることだが、人の疑問すらも、
人の聖なるものへの憧れすらも、体外離脱して何か解明したいとか、
人の日常の娯楽の動機や、人の精神的な探求心すらも、
それは、巨大なメリーゴーランドを回す動力の、
たったの、ほんの一部の燃料であるという価値しかないものであるのだ。
だから「存在は無意味」というのが私の結論ではなかった。
そうではなく、全生命たちには、完璧な生存の「意義」がそこに確かにあった。
存在宇宙の完璧なまでのシステムがそこにあった。
ただ、そうやってまでこの宇宙が存在しなければならない、
その根本理由が「何ひとつもなかった」のである。

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存在の全面肯定の為の口実を、誰よりも大まじめで、
くそ真面目なほど、率直に掘り下げていった結果、
なんと私は、そのまさに全面肯定の口実を得てしまったのだった。
ところが、この全面肯定とは、エゴにとって、それは自殺を意味するのだ。
エゴは何かを肯定する一方で、何かを否定しなければ、存在は出来ない。
ところが、私が認識した宇宙は、あまりにも断固として
『生存という方針』のためには間違いが何ひとつなかったために、
そこには、ひとつの間違いも見いだせなかった
さて、「全面肯定」という言葉は、あなたたちのマインドが聞くと、
いかにも、それは良さそうに思えるものだ。あなたたちは、
肯定=すなわち至福、とでも、すぐに、そこに線を引っ張りたがるのだ。
だが、これは、「とんだ思い違い」というものだ。
なぜならば、全面肯定の中では、マインドは生き残ることは不可能なのだ。

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そして、私は、存在は無意味だ、と言う。
しかし、何度も言うように、「無意味だ」と口で言ったからといっても、
我々が、その、真に絶対に無意味なこの生を、
正気で「生きられる」という問題とは別問題なのだ。

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EOイズムとはあくまでも『哲学』だ。それは断じて宗教ではない。
哲学というものは善悪では物事を取り扱わない。
哲学には戒律などはない。哲学には人生の指針などというものはない。
そうではなく哲学とは推論と仮説による思考の『飛躍』だ。
哲学はモラルではない。哲学の仕事は矛盾をあからさまにすることだ。
哲学とは『思考の自由』だ。






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