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EOイズムにおける宇宙論
*********
転生理論に関してはそれが事実であることは確かだ。だからこそ、問題なのだ。
我々はもう何億もの時を繰り返して生まれて来ている。それは結構なことである。
だが、それでどうなるのか?。これからどうなる?。なんのために繰り返す?。
魂の進化のためだというが、では、進化しないとどうなると言うのだろうか?。
この質問に私のかかわっていた別の次元宇宙の生命体は
「進化しなければ死ぬ」と言った。なんと彼らまでもが生存のために進化していた。
それはとても創造の遊びと呼べるようなふっきれたものではなかった。
結局あなたは、サラリーマンをやっていて、
「毎日なんでこんなことをしていなけりゃならない?」という
問いへの答えと同じものを別の世界、別の天体、別の次元で耳にするだろう。
それは『生きて行くためだ』と。
ただし、宇宙そのものの生存の理由に関しては、
あなたは誰からもその答えを聞けはしない。
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我々の意識は完全な停止を許容できないようにプログラムされている。
その結果、我々の意識は対象物を求め、動き、
その動きによって生命や存在を想起しようとする。
すなわち生きている感覚を活動によって維持しようとする。
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『創造は宇宙ではよくないこととして広く知られている』
『生活は生命の無駄使いでもある』
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愛だの慈悲に満ちた種族も宇宙にはゴロゴロいる。
だが、彼らはある種の『責務や義務や業務や本能』として
それらを発揮しているのであって、それはあなたたちの為じゃない。
彼らにはそれが死活問題なのだ。
無私の愛というものがなければ、生きて行けないように
『単に彼らが設計された』というにすぎない。
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このいわゆるTAOや悟りのトリックと呼ばれる巧妙な「かくれんぼう」を
人間をダシにして執行した連中が、もともと欲したのは、
それに到達しようとする衝動を人類に生み出し、なおかつ『到達不可能にする』ことで
人間に絶えず不満と不安と葛藤を持続させることだった。ここには慈悲などない。
『小型の創造者たちは、自分の高次元の意識の一部を人間に注入してみた。
すると人間は親和力の法則によって、元の意識に合体しようとする。
そこでそれが決して最終的な合一の満足をもたらさないようにした。
さらに苦痛回路や男女の分離を設計したために、人間は葛藤し続ける事になる。
この方式から良質のルーシュ、すなわち『生存意志エネルギー』が得られる。
これは別の宇宙に貯蔵され、売却されて報酬が得られる。
つまり人間や知性のある宇宙民族とは、宇宙全体の中では
『穀物、家畜、製品またはエネルギー発生の機械的微生物』ということだ。
だからもしもあなたがいわゆる宇宙や創造者に貢献したいのなら、
もっと、もっと、苦しみなさい。
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はたして宇宙船を作ったり、火を起こすのがはたして知性なのか?。
地球人類は自分を保護する皮膚があまりにも『貧弱』だったので、
生きるのに必要で、しかたなく作らなければならなかった道具が無数にある。
脳などなくて、はるかに人間より情報、哲学、思考、計算能力、感性、
いわゆる超能力のある生命体が宇宙にはゴロゴロしている。
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この地球だけでなく宇宙全域にわたって、いわゆる非物理的な高度知性体もふくめ、
ヒューマノイドタイプのエーリアンにいたるまで、
欲求不満がプログラムされたのである。
年がら年中不満に陥り、恐怖を感じ思考する生物。
これは地球人のみならず、宇宙全域がそうだった。
『苦痛を知覚出来る生物』の設計である。
宇宙の需要がそれらにさらに改良を加えた。そこで食糧の『蓄積』を覚えた。
他の動物を殺傷するために道具を作った。農耕文化による定住。
そして安定場を外敵から守るための戦闘。
娯楽を除いたら、もうほとんど現代とかわらない。
さらには次の発信をした。それが『退屈』だった。
なんだか訳がわからないのに、落ち着かなくさせた。
こうなるとあわれな人類はただ生きるだけでは不満となった。
『何か』が飢えているのだ。この飢えは感情的な飢えだ。
つまり今度は感情レベルで何かを摂取しなければ
生存に不安と不満が付きまとうようにプログラムした。
これは『飢えの次元がちょっと変化したもの』にすぎない。
こうして次々と付加される器官は必ずそのレベルのエネルギーを摂取しなければ
存続できないように作られる。こうして『情報に対する飢え』が生じた。
言語自体が正確な伝達をなさないために『誤解』というものが生まれ
そこにまた葛藤が生まれた。
まず人類が知性を使って解決しようとした不満は
言語のコミュニケーションの限界の問題、つまり『誤解の解決』から始まった。
そしてとうとう絵が生み出され、そしてそこから「文字」が描かれた。
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高次元知性体であれ、そこには進化や情報への『飢餓のプログラム』をうけている。
食物であれ、気体であれ何であれ、いわゆる新陳代謝の必要性だ。
これが停止したり停滞すると肉体の下位中枢では『苦痛』となり、
感情中枢では『不安』となり、知性中枢では『悩み』になる。
適度にこれらのエネルギー、すなわち、食物、衝動、情報が出入りして
交換されていれば健康でいられる。
が、そのためには常に人類は苦痛、快楽を絶えず『往復』することになった。
さらに画期的な新手の企画が登場したのだった。
さらなる苦痛と葛藤、つまり新たなる恐怖を与えるための方法だ。
そうすれば全宇宙の生物から生存する意志のエネルギーで
あるルーシュが採取出来るからだ。
なんとそれは我々が物事に『飽きる』という機能だった。
これは当然知性中枢に改良がほどこされて生まれた。
『つまらなさを感じる中枢』である。
同じことをすると退屈する。暇だと退屈するようにしたわけだ。
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あるとき虚無感から自殺するという現象が全宇宙に蔓延した。
これには企画者は焦りを持った。全宇宙に生存意欲の急速な低下が起きた。
そこで『推測』という知性センターのゲームが開始された。
常に分からないまま何かが間違っているのでは?という慢性的な不安状態になった。
かくして何が正しいのかわからないままに
この『正しさの証明の論争の試合』がゲームとなった。
しかも正しいと分かっていながらも
絶対に人類の中枢の特性上実行が不可能な正しさの基準、
つまり『戒律』を与えると、人類は良心の呵責の念や
罪悪感にさいなまれることになった。
さらには、あちらこちらで「少しずつ違う神の概念や現象」を試しにばらまいてみた。
その結果たった数種の異なる神の概念をばらまいたのに、
人類は自らの確信のなさが生み出す不安から、
相手の神の概念を滅ぼそうと葛藤し戦闘状態になったのだ。
これには企画者は大いに満足した。
あいまいな信念が常に揺さぶられるという不快感がもとで、2種類の行動が生まれる。
ひとつは敵対物の『否定と破壊』。
そしてもう一つは集団が巨大になることで
『多数決が正しい』という思い込みで安心するという方法だ。
こうしてとうとう「あいまいな真実と神への信仰」なるものの
『押し付け合いのゲーム』が開始された。
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肉体の管理の必要のない世界の住人たちは何によって生きるのだろう?。
ここからが、本質の問題であり、また釈迦の提示した仏教の根本問題である。
いかなる振動密度の次元でも、かならずその住人あるいは生物は、いかなるものであれ、
生存の維持のために、なんらかの『動き』を続けなければならない。
我々はいわばこのすべての次元の住人の『食用生物』となりうる
非常にすぐれた『カロリーメイト的生物』なのである。
我々は他の生物を摂取して生きている。だが、我々より上位の存在は、我々の感情、
記憶、思考、知覚、意識というそれらそのものを彼らが存続するための『餌』とする。
すなわち、もしも地球人類や、地球の生物たちが、
仏だの神に愛されし子として作られたのではなく
宇宙の次元民族の『食をまかなうため』の『家畜、穀物』として
品種改良されたあげくに出来上がったものであるとしたら、どうだろうか?。
人間が、肉体的に苦しみ、そして楽しみ、感情的に苦しみ、そして楽しみ、
知性的に苦しみ、楽しみ、意識的に苦しみ、そして楽しむ。
これは我々の自主的な人間の尊厳の産物ではない。
我々が肉体や感情の喜怒哀楽、あるいは知性の作り出すヴィジョン、
一体性を求める衝動、あるいは悟りなどを求めて我々が苦しみ、
そしてまたそれが達成された時に発生する信号をもその『牧場主』は収穫する。
我々を中国料理の「一頭のブタ」のように、
精神も肉体もその全身をあますところなく『食用』として扱い、
そのために我々が生まれたとしたらどうなるのか?。
すると、我々の生きる道には、次のような『標識』がかかっているのだ。
『勝手に、しなさい。ただし絶対に生きなさい。そして自由にしなさい』。
なんでもやりたいように、しなさい。どうせ人類は、進化などしない。
なぜならばそのままの苦悩、快楽、思考、愛、感情、迷い、悟り、恐怖などを
そのまま発生し続けてくれなくては、我々が食事にありつけないからだ。
そしてその為には、人類はまさに、いまのままでよい。ただそのままでよい。
君達が空腹や恐怖で苦痛を発生すればそれを喜んで食べる者がおり、
君達が喜怒哀楽をもてば、それを喜んで食べる感情生物がおり、
君達が愛を感じれば、それを喜んで食べる愛生物がおり、
君達が哲学すれば、それを喜んで摂取する思考生物がおり、
君たちが悟りを開けば、それを喜んで摂取する意識体がおり、
まさに人類は、宇宙のカロリーメイトである。
であるからして、地球の歴史には『間違いなどなく』、
君達の行動にも『全く間違いはない』。
現状のまま、空腹と病魔から逃げるための生活に追われ、虚無感に苦しみ、
知識を収集し、科学芸術に没頭し、悲しみ、愛憎、戦争と迷いを往復し続け、
おおいに我々の食用として『繁殖』したまえ。
我々は時期がくれば君達を収穫するだけである。
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我々は肉体から悟りといわれる意識にいたるまで、その全身全霊が、
我々の上位の何者かの『食物』である。
そしてそれ以下でもそれ以上でもないというのが、
我々人類の宇宙存在における正確な位置付けである。
この結論から、我々が得られる、『正しい生き方』とは、次の通りである。
『間違いはなにひとつない。なんでもいい。ただし、もっと悲しめ、苦しめ、楽しめ、
泣け、悩め、迷え、悟れ、呪え、そして生きよ。生きることに執着せよ、
そして動きを絶対に止めるな』。
この基本命令は我々の遺伝子になされたので、これを変更することは不可能である。
したがって我々は転生してもどの上位次元(神界、仏界、メンタル、ゴーザル、惑星体、
恒星体、銀河系意識体など)に生まれようと『永久に食用の家畜』として生存し続ける。
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さて最後の疑問が残る。さてその全体のトップにいて、我々を作り、食う『その者』は、
絶対的な支配者のくせに、なぜ『食事』などを必要とするのか?。
そのたったひとつの理由は宇宙の絶対者は『存在維持病』『活動病』という『神経症』
の巨大な病人であるということである。
しかし、なぜ、その者はそもそも、そのようにあさましく
存在を維持しようとするのだろうか?。実は『その者』は、無が怖いのだ。
したがって、読者の、あなたの道はここで真っ二つに別れる。釈迦や私と共に、
このくだらない、わけも解らず生き続ける病人=すなわち宇宙から消え去るか、
それともそのあなたの『脳の信号』を彼ら『牧場主』に提供し続ける
『良い子』『良い品種のブタ』としての存在を続けるかのみである。
あなたは全くの無能、無力、無価値である。全くつまらない生物である。
あなたひとりなど、そこに存在する価値は何もない。
『宇宙は人間を中心として存在などしていない』のだ・・・断固として。
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私に言わせれば、地球という惑星の内部で発達したTAOや禅の、
その説得力には限界がある。
外部の宇宙の無数の知性、無数の生命、無数のいわば天国や地獄があるという
事実が知らされるにつれて、まるで人々は人の魂が宇宙を永遠に旅するかのような
ファンタジックな夢を持つということだ。
そして実に始末が悪いことに、それは事実なのだ。
だからこそ、私は宇宙的な規模の疑問符をあなたたちに突き付け続けた。
つまり、『いいだろう、結構だ。永久に学び、進化し、楽しみ、変化し続けるがいい。
何億もの時の果てに、あるいは一瞬にあなたは何のための進化、なんのための宇宙か?
を問うときがくる。その時、あなたは宇宙がひとつの箱庭のようなものだったと知る。
そこで何が行われていたかを知る。
生そのものに、存在そのものに絶望する日がくるだろう。
宇宙の無数の奇妙な世界を見るがいい。
あなたの知性の許容範囲など粉砕されるだけの狂気がそこに在る。
現実は一体どこなのか、問う日がくる。何が究極において正しいのかを問う日がくる。
それが来ないとしたら、あなたは知性がないということだ。
あわよくば、あなたに知性があれば、問われて当然のことをあなたは問うだけだ。
永久に楽しもう・・どうやらそれが宇宙らしい。
だが、ちっとも楽しくないのはどうしたわけか?。
そんな時、私の言葉が浮かび上がるだろう。あなたは踏み出したのだ。外側へと。
今、あなたは、こう言ったのだ。
『宇宙そのものは一体どうなっている?』と。
だからあなたは宇宙そのものを見たいと言ったから
あなたは宇宙の外へ連れ出されたのである。
なぜならば宇宙全部を見たいなら、その外でなければ無理であろう。
ところであなたは、その今、自分がいるところが何だか知っているのだろうか?。
あなたはその時知る。宇宙の外、そこは本当に何もないということを。
そここそ、本当の無限をあなたが知る場所だ。
そして永久の闇の前で途方に暮れるのである。無数のブッダたちがそうであったように。
あなたの手の平に握れるほどになってしまった丸い宇宙を見詰めて、
あなたは言うだろう。「なんのために、あそこへ戻る??。
生きて、一体どうしたらいいのだ?。」
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嫌になるほど、死にたくなるほど思い知りたいものは宇宙へ出なさい。
そこで待っているのはファンタジーや宇宙人ではない。
彼らは確かに無数に棲息している。
だがあなたを待ち受けているのは、あなたのちっぽけな『おつむ』とちっぽけな『心』、
ちっぽけな『愛』、ちっぽけな『知識』に対して、
あまりにも大きすぎる宇宙の『現実』だ。
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存在の目的が分かれば、万事解決と私は探求方向を決定した。
だから、あらゆる宇宙人にその事を質問した。だが、納得はできなかった。
ところが、完全に私を納得させた答えが私の内部にあった。
私は何度も、別の結論を仮定してみた。だが、その結論以外に結論はあり得なかった。
その結論こそが、私がその日以来、二度と探求がなくなった原因だった。
原因のひとつには、いわゆる思考を超えた悟りが恒久的になってしまったことはある。
だが、もうひとつの原因、それは『探求の題材が無になった』ことだ。
あなたたちが、瞑想によって悟りを得たとしても、かならずいつか、
再び『世界の存在の意味』に首を傾げるときが来るかもしれない。
だが、私には絶対的にそれはあり得ない。
宇宙の発生と維持の真実は、人間の夢、進化や発展などという、甘い夢物語り、
悟りと平和などという、幼稚な世界のヴィジョンを真っ向からたたき壊すようなものだ。
なぜならば、『事実が心地よいもの』であるべきだなどという論理は
どこにもないからだ。
たとえば、あなたはいつか死ぬ。
これは事実であって、どう、あなたを不安にさせようが事実だ。
事実というのは『聞く者の気持ちや願望』とは全く関係がないのだ。
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そして、私が決定的に知ることになった、事実はこうだった。
宇宙に偉大な目的など何もない。これといった目的もない。方向性もバラバラだ。
ただひとつ、この宇宙にはたったひとつのプログラムというか意志がある。
それは『生存』を続けるという意志だ。
だがこれは意志というよりも本能、あるいは全宇宙的な衝動といってもよい。
すなわち、言い方を変えれば『病的な衝動』だ。
その病名は『活動病』『創造病』『生存病』だ。
『進化は生存のためであって、進化のための生存ではない』。
だとすれば、精神世界のいうところの魂の進化などといったところで、
それまた高次元宇宙で『どうやって生き延びるか』の生存欲の産物にすぎないわけだ。
生きがいなども同じく目的のための目的ではなく、
生きるための生きがいという刺激にすぎない。
つまりは、喜びとは、単なる『自殺防止薬』にすぎない。
だから、事実は、宇宙には正しさもなく進化などもなく、
たったひとつの基準、宇宙の目的と活動が
『存続』と『苦痛回避』だけに費やされている。
ただの存続だ。なんのためでもない。ただの存在のために。
さて『事実』がこれだけならば、私も開き直って気楽な余生を送れただろう。
問題は、さらに複雑で単純だった。
つまり、その宇宙を存在させて、活動させるために
宇宙は『どういうシステムを作ったか』ということだ。これが私を絶望的にした。
私を絶望させたのは、その宇宙の生存に使われている『基本的なエネルギー』の問題だ。
宇宙を維持しているのは、重力や力学的な法則ばかりではない。
最も基本にあるのは、『意志』である。
本当はこの宇宙が思考と知覚の錯覚の産物にすぎないということは、ブッダでなくとも、
平均的宇宙人たちの誰もが認識している基本的な事実である。
さて、思考の産物としての宇宙であるが、
その無数の思考を維持する根本的なエネルギーがある。
それが『生存意志エネルギー』だ。
つまりこれは、単純な感情だ。あるいは意志。あるいは生物学的な衝動だ。
あらゆる動物、植物からこの『 生存意志』は発生する。
しかもその生物を恐怖させて、苦痛を与え、葛藤させて、不安にすることで、
さらにそのエネルギーは得られることになる。
この一件については、部分的にはロバートモンローが『魂の体外旅行』で
『ルーシュ』という呼び名で説明しているので参照するといいだろう。
だが、彼はその追究を途中で放棄した。
だから、私は『廃墟のブッダたち』の中でその後始末をするはめになった。
そのルーシュとは正確に彼は定義していない。
愛のルーシュとか、憎しみのルーシュとか。淋しさを人工的に発生する、などと
実に曖昧な表現をしているが、これを正確にあらわす言語は『生存欲への執着』であり、
そして、すなわちそれは、ひっくり返せば『無への恐怖』だ。
これはありとあらゆる方法で生物や惑星から採取可能だった。
微生物や植物よりも可動性の動物の方がより生死の問題で葛藤し、
そのエネルギーは得られる。
さらに、人間に対しては、頭脳から肉体まで、そのための全機能を搭載した。
実に、その機能とは『いかにして苦しめてその苦しみと葛藤しつつ、
生きる意志を助長するか』という苦悩の発生のためだ。
慈悲などかけらほども、地球人を制作した制作者にはあるはずがない。
どうやって人間という感情発生生物資源から
『生存欲』という原料を絞り出すかだけが目的だったからだ。
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宇宙では何もUFOに乗って飛び回ったり
巨大なステーションを空間に建造したりするばかりが知性の仕事ではない。
むしろ、宇宙の航行の為に、
いろいろな物質を生産しなければならない宇宙人たちというのは、
次元は高いとは言えない。
それらの技術は、あなたたち地球人にも使えそうだという根拠で、
彼らの科学の『おこぼれ』に群がるバカも多い。
比較的我々から3000年とか、
それぐらいしか進歩していないエイリアンたちの科学や社会理念というものは、
我々の理想の延長にあるが、それを実現した彼らが
『果たして本当に幸福であるかどうか』については、
私は個人的に言わせてもらえば、はなはだ疑問だ。
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宇宙の多様性や複雑さは、とても現在の地球人のついてゆけるしろものじゃない。
ちょっと複雑な人間関係の問題が起きたぐらいで動揺する地球の人間に
『しょっちゅう大事件が起きている宇宙』で生きられるわけがない。
どこぞかの馬鹿チャネラーどもが言うほど宇宙は平和じゃないのだ。
まるで地球だけが遅れているから早く進化しろなどと言う大馬鹿宇宙人がいるようだが、
では彼らは一体どこまで進化したと言うのか?。
いまだに、宇宙をあちこち回っては、ちょっかいを出す惑星を探したり、
また、銀河系公務員としての義務でアリのように働いているに過ぎない。
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私は『自分のこの身の不確定さ』が嫌だったのだ。
不確定なままの『謎のままの自分の存在とその死』が嫌だったのだ。
そして、全部を、すっきりと説明している者はどこにいるのだ??と思った。
『理屈の超越』ではなく『超越的な理屈』こそ、当時私の求めていたものだった。
いつも、歴史や進化や事件の底流にあるその本質、宇宙とはそもそもなんなのか?、
僕らはその中でどういう存在なのかが私の疑問だった。
上を見たら、とほうもない進化の距離がある。仏教やらの仏なんぞ、
そのランクの中じゃほとんどザコ同然だった。上は全く、呆れるほど上には上があった。
無数の銀河を統率する意識体、小宇宙の管理者たち・・・。
しかし、とどのつまり、彼らはどうして存在しているのだろう?。
そして、僕は、どう生きて、死んで、どうすればいいのか?。
迷いは、つのるばかりである。
彼ら宇宙の連中の配慮なのかどうかは分からないが、
私への学習は、徐々に複雑化していった。
同時に、やがて、人間という立場からものを見るのでなく別のいくつもの観点、
生物や次元から同じものを多角的に観察する事を学んだ。だが、私の混乱は増した。
より知れば知るほど、現実がどこなのか、分からなくなった。
こんなに多角的な知覚があるのでは、現実とはなにか??で混乱した。
彼ら曰く、『そんなものはないよ。現実などは、ただの知覚情報の集積物にすぎない。』
私は言った。
『それはそれでいいが、ではその知覚情報を我々はどう処理したらいいのか?。』
彼ら曰く『マッ、いいから、それで勝手に楽しんで遊んでろ。』
私はとことん、質問した。
『この宇宙の目的ってなんですか?。それが分かれば、僕は迷わずにいられる。』
彼ら『地球のぼうや。知って迷わない自信があるなら、教えてやろう。だが、
知ることと、迷わないことがイコールじゃないって、後で知っても手遅れだよ。』
僕は、そんな筈はない、「知れば解決だ」と思っていた。そりゃそうだろう。
もしも万物について知ったら、なぜ迷う???。
大威張りで、僕は『すべての原因』を知った者になる。
僕の疑問は収まらない。そういう彼らのさらに上位次元はどこまで連鎖しているのか?。
宇宙の果ては?、あるいは中心は???。そして、万物の原因と目的は??。
彼らは言った。
『宇宙は、ただ分解と統合を繰り返すのみだ。意味などない。目的もない。』
僕は言った、『ならばなんで在るのさ??。原因はなんなんだ?。原因がある筈だ。』
彼ら『それを貫くたったひとつの真理はあるさ。だが、君はそれで満足するかな?。
その真理は、理由ではなく『事実だけ』だ。
つまり、それは、宇宙は『存在しようとする意志故に存在する』ということだ。
その意志を加速するためなら宇宙は多様性であれ、娯楽性であれ、苦悩、恐怖、達成欲、
なんでも生物にプログラムするさ。存在への意志が宇宙の根拠だ。
だが、その根拠の原因はない。ただそうなのだ。
人間は、人生や宇宙や真理に、偉大な理屈を言う。
だが、どんな理屈も真理も、どんな境地も、生きようとする意志の奴隷、
そして口実、正当化に過ぎない。』
1000もの理由は無意味になった。哲学も、科学も、人間存在も、神も消えた。
かれらは全員、ただ『衝動的に生きている』だけだ。
その人生の理由は、全部、生存のための、ただの口実だ。
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悟りには、目的も意義も、根拠も価値もない。
そんなことは、もう、どうでも、いいことなのだ。
世間も、禅寺も、どうでもいいことで、騒いでいるだけなのだ。
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人間や猿に至っては、長生きするという点ではちっとも進化しておらず、
とにかく自我を意識させるようにだけ肉体が作られた。
人間の淋しさの感情が「原動力」になって、
なんらかの葛藤の『動き』を生むことに利用価値がある。
また、その同じ動機によって人間に創造者が自分の一部を注入したのである。
どっちの場合も、とにかく思考が『動いてくれる』という結果は同じである。
ちっぽけな人間ごときの淋しさの感情などという物それ自体が、どこかの誰かにとって
貴重な資源になるわけなど絶対にない。
むしろ、生物を絶えず働かせ続けるためのあらゆる策略をDLPシステムと言い、
ルーシュとは、『落ち着かずに常に動こうとする意志そのもの』のエネルギーと言える。
どう動くのがいいかという是非の問題ではなく衝動的な運動意志そのものだ。
自己保存作用をうまく利用して、そこに『死なせない程度の圧迫や危険』というものを
与える。常に定位値のゼロ定点という基準があって、そこに戻ろうとする力を利用して、
しかも戻させないという方法である。
つまり力学的なバランスをわざと壊すという手法だ。
ロバート・モンローの著作によれば、ルーシュは次の局面で発生する。
1/生物が死ぬ時。あるいは死ぬまいとする時。
2/生物が相手を殺す時。または生物が自分の子供を守ろうとする時。
3/自己の高次元の分身、または生物学的に異性と合体しようとする時。
4/自己の意識の元と合体しようとする時。
これらに共通の事とは?
答え=この局面では『絶対に生物は落ち着いていられないで激しく動く』
ということのみである。「心が揺れる」という日本語があるが、
文字どおり人間が動揺=『焦り』を発生する時には「心が振動する」。
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生物の中に『自我』さえ作れば、なんと他の動物に襲われなくてもルーシュを出し、
死ななくてもルーシュを出し、守る家族がいなくてもルーシュを出し、
まったく外部から手を加えなくても、勝手に自分で葛藤と苦悩と
『それによる動き』を作り出してくれるのである。
かくして、自我を発達させるための感覚の付加と、高次元意識の微量注入
さらには社会的な宗教、経済、道徳などにより心理的葛藤と自我が発達し、
ほっておいても何ひとつも管理者が手を下さなくとも
その生物=人間は頼まなくとも勝手に自らで、
どんどんルーシュを生産してくれたのである。
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我々の魂が植物から動物に生まれれば、動かなかった時には必要のなかった、
たくさんの構造や管理が必要になる。
そうなれば、自分の肉体の管理がますます面倒になる。
動けば、怪我もするし苦痛も増える。動くためには神経も発達させねばならない。
外敵の感知能力も上げなければならない。
植物ならじっと吸収していればよかった養分なのに、動物になったら、
いちいち毎日動いて捕獲しなければならない。
結局は、何が増すかと言えば『緊張が増す』のだ。
結局のところ、可動性生物になったメリットはなんなのか?。
なにもない。葛藤と苦がどんどん増えるわけだ。
進化系列と勝手に人間が呼んだもので、上位に位置する生物は、
一言に言えばそれだけ下の生物よりも苦しみ、
葛藤する機能性に優れている、ということだ。
そもそもなぜ有機体を植物から動物へと改良したのかについて直視すれば、
それは安定して生き延びるための進化とはとても呼べない。
安定した生存をする生物ではなく『不安定な生物』こそが必要だったのだ。
動物になれば植物よりも何百倍も葛藤要素が増えるのであるから、
いわんや知能のある人間に至っては、自己管理のための混線要素が増えに増えて、
動物の何百倍にもなる。
そしてまた、自我を発達させる点でも可動性生物はその目的に適っている。
皮膚感覚や運動感覚の発達は『個の意識』を生み出すからだ。
人間が、他の生物よりも変化して「発達した」と自負するあらゆる要素は、
ただひとつの目的に向かっていたと理解できるだろう。それは、
1/生物学的な運動能力の向上
2/警戒と緊張のため、あるいは絶え間無い狩猟のための視聴覚や皮膚感覚の発達。
3/農耕文化による安定のための記憶と思考力の発達。
4/そして最後にそれらは、総合的に作用して自我=自分だけ存在している
という感覚を、皮膚を通じて、あるいは観念として生み出した。
地球人が軽率にも、一般に「優秀と呼ぶ生物学的発達」の様子は、
角度をかえて見て、『葛藤要素の付加の結果』とみれば、あまりにも明確だろう。
どこの次元においても、たえず虫のように落ちつきなく活動する「部品」が作れるか、
という目的で人間や、いわゆる知的生物と名のつくものは創造され改良されたのだった。
『とにかく動け、働け、止まるな。落ち着くな。
常にもっと奮起してずっと振動していろ』、という指令が
宇宙というものが唯一あなたに出した『命令』である。
*********
だが、誰も決して宇宙のことなど『実感』はしない。
それよりもあなたの空腹のほうがよほど現実なのである。あなたの命のほうが。
あなたの理論、あなたの夢、あなたの座禅、あなたたちのワーク、あなたの前世やら、
転世先、そしてあなたの家族や明日の生活が・・・・・。
宇宙、それはあなたに実感しろと言っても無理だ。
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徹底して、なんとか楽な道を模索することは、これこそが快楽主義の極点でもあり、
科学を発達させた要因でもある。
実はいかなる修行も苦行も「極度に安易で楽な道」の模索である。
新しい進化した意識経験を常に求めて楽しもうとする衝動も
これは積極的活動衝動が原因とは言えず、
活動しないと『退屈感によって落ち着けない』という単なる習癖によるものである。
活動せずに落ち着けたら別に活動する必要などはないからだ。
ところが、生命体のほとんどは、適度な活動をしないと
心身共に『病苦』が発生するように作られている。すなわち無活動は苦を発生させる。
したがって活動もまた活動そのものに目的があるわけではなく
『活動の結果によって得られる落ち着き』にこそ目的がある。
*********
私には肉体の死という恐怖はなかった。だが、それこそが恐怖だったのだ。
なぜならば、
『永久に生きるならば、永遠の時間の中で私は何をすべきか?』
という問題が持ち上がったからだ。
永久の生命は世間にとっては素晴らしいことかもしれないが、
それは私にとっては、永久の疑問をかかえたままの拷問であったのだ。
だからこそ、私はその永久の魂の目的そのものを問うことが最優先の目的になった。
そしてその結論は、私の一切の価値観を破壊しつくした。
そしてあの日の疑問がやってきた・・・・・・・・。
『なぜこんなことしてまで何のために楽しんで存在し続けなければならないのだ』
という哲学課題に取り組んだ結果が、現在の私に至ったわけである。
宇宙という遊園地で遊んでいた子供が、「僕は、ここで一体何をしてるのだろう?」と
遊びに来た者が絶対に言ってはならないことを問いかけてしまったわけだ。
*********
私は思考を、完全に、ただの宇宙が存在するための動力や食料として位置づけている。
その内容、つまり『質』などは、全く関係ないのだ。
オカルトだろうが、美学だろうが芸術だろうが、何であろうが、
思考というものによって意識が、運動性を得て動くことには何一つ変わりないからだ。
この視点こそが、私が一切のすべての思考に、
全く同化する気もなくなった原因である。
思考は、それがどんな願望であれ、パチンコ中毒の主婦の思考であろうが、
オリンピックに夢中になるのだろうが、歌手に熱を上げるのだろうが
テレビゲームに夢中になるのだろうが、殺人者の思考だろうが、
神智学的思考も・・全部、私には、ただの振動のスペクトルのパターンとしてしか
認識されていない。
それは、宇宙にとって、まことに価値ある「燃料」だろうが、
私には、どんな思考も概念も、目的も、全く無価値であり、それに無関心である。
私には注目に値する思考など、どこにも存在などしないからだ。
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私には大勢の人間と私のどちらが正しいか、間違っているかの、
明確な基準が得られたとも言える。つまり、私以外は、ほとんど正しいのである。
つまり、誰もが、苦しみ、もがき、わけもわからず、
あるいは、わかったように自分をごまかして、
止まる事なく、感情や恐怖を人間は発電しているからである。
だから、彼らは、宇宙にとって、有用であり、有能である。
彼らは、私よりも存在している価値がある。少なくとも、宇宙にとっては。
だから、私は『軽蔑する者』や『あれは、くだらない事だ』と言えるものが、
本格的に、全くなくなってしまったのだ。
どうしても白黒つけたいなら、私に言わせれば、まさに、改良の必要もないほどに、
この世界の人間は苦楽を往復する発電機として機能し続けている。
そして犯罪も殺人も、苦しみも、例えば、母親が自分の子供を殺されるような事件と、
その遺族の感情も、まったく私には、悪とも、悲惨とも感じなくなったのである。
ここが私と祖師たちとの完璧な洞察の違いだ。
私は、輪廻から抜けようとする者には、ささやかなアドバイスは出来る。
しかし、輪廻の中にしがみついて、よりよい生き方を求めている者には
全く関心がひとつもない。
そして、彼らが、いかに悲惨な人生の中にあっても、それが悪いことだとか、
彼らを助けようなどとは私は思わないからだ。その理由は次の通りだ。
「神が人間の苦を、そのように容認しているのに、
どうして私が口を出す必要があろう?」。
これは、ドストエフスキーにでも聞かせて差し上げたかった『名言』だ。
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ただの推論と論理は、人や人の自我を自殺させはしない。
だが、もしも本当に存在の中での自分の位置と小ささの事実を{見たらば}、
その精神的な打撃は、一生あなたから消えないだろう。
どんな哲学も、実存主義も、TAOも、意識と思考の構造論理も、
誰も、宇宙では、そんなことにかまってはいない。
宇宙が、かまっているのは、『なんでもいいから、動いて、実感して、
この宇宙を維持したまえ』という事のみだからだ。
ときおり、「その宇宙がそもそも、どうしてあるのか?」などと問う者がいると、
『それは、とても、凄い質問じゃないかね。きっと答えはあるから、頑張りたまえ』
などと言われてしまう。
「悟りたい」などと言えば、『ああーできるさ、頑張りたまえ』と言われる。
「死にたい」などと言えば、『好き勝手にしろ』、と言われる。
知性活動とは、それ自体が、宇宙が、回転するための7つの食物のうちの一つだからだ。
人々は知性を使っている時には自分が、何か、論理の主導権でも持っていると錯覚する。
つまり、自由に自分が思考していると思っている。
だが、私が、2度と論理に「本気には」ならなくなった原因は、
知性が、どういう位置づけにあり、どれほど、くだらないものであるかを
「実感」したためであり、それが自由の産物ではないと確信しているからだ。
それは単に、『燃料』と『動き』なのだ。そして、我々も、そしてあなたも。
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この宇宙での恐怖には3つの種類がある。
@生きたいと思う者の、生命を中断することで作られる死の恐怖。
A死にたいと思う者を死なせないで、生きさせることで作られる生の恐怖。
B生きるのもよく、死ぬのも別によいし、
生きたいとも死にたいとも言わないような者には3つ目の恐怖が待っている。
それが『幽閉』である。幽閉という状態は、死ぬことがまず許されないのである。
しかも、活動して生きることも許されない。
つまり、とても、生きているとは言えないような状態で、
「ただ存在だけ」させられる。
『ただある』などというものを意識の理想として思うのは幼稚な精神の産物であり、
そんな事は、「見る対象や変化のあるこの世界」だから、
「ただ在る」ことが、何かの至福をもたらすにすぎない。
だが、もしも、何ひとつもないところで、ただ在るとしたら、
それはその存在者には苦痛以外の何ものでもないのだ。
ところが、「この既知宇宙」は、そうやって始まったのだ。
「今のこの宇宙」に関しては発生の記録がある。
それは、「前の世代の宇宙」がいったん滅びて、
彼らの間で『卵』と呼ばれている一点に凝縮していた宇宙が、
無の凝視に耐えられなくなって『殻を割ってしまった』のだ。
そして、創造者としての宇宙意識の最大の苦がここにある。
その苦から、宇宙が失態を演じてしまった。(失態とは『宇宙創造』のことである)
それは、存在意識が、「無への凝視」に耐えられなかったのだ。
つまり、ただ純粋に存在していることが出来なかったのだ。
しかし、自分たった一人が生きていて、あとは果てのない無の死の世界という中で、
正気で存在できる者などいない。
だから、生死など、どうとも思っていないという者ですら、
その幽閉空間にぶち込むと、一瞬で悲鳴をあげて助けを求めるのである。
だから、これは宇宙最大の『拷問』としても知られている。
そして、幽閉というものは、解脱したいだの、消滅したい、
死にたいなどという者にとっても最大の恐怖となる。
なぜならば、そこでは「永久に死ねない」からだ。
また、そこは生きたいという者にとっても恐怖である。
なぜならば、単に生があるだけで、「生きて動ける現実世界」そのものがないからだ。
実は、解脱志願者のほとんどは、ここにほうり込まれて、しかも、
消えられずに、長期的に待機させられる。
だから、ほとんどの者は、しかたなく、「諦めて」、いやいやながらも、
この存在世界へ妥協して戻るのである。
また、絶対に存在の世界へはもう戻りたくないという者は、
「ならば、ここにずーっと留まれ」と言われ、
しかも、消えられないままになる、という苦を延々と味わうことになる。
これほど、陰湿で残酷な脅迫と拷問もないものだ。
そこでは、殺してくれさえもしないのだ。
そして、私がいたのは、まさにその次元だった。
EOイズムVS宗教論
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宗教家や神学者や信者たちが、一体何を頼りたいのかは知らないが、
彼らが崇拝しているところの『唯一の絶対者』の概念というのは、
ここ1万年の歴史の中でも最も始末の悪い『噂』あるいは『大ボラ』のひとつだ。
ただし、私はいわゆるデーヴァたち(自然精霊たち)を否定しているのでもないし、
さまざまな次元の中間管理職にある肉体を持たない知性体の存在を
否定しているのではない。
むろん、外部宇宙の生命体を否定もしていない。
私が論じるのは『その頂点にいる』と噂される絶対者の定義そのものの矛盾、
そしてもしもそれが存在するというのならば、その根拠についてである。
また、そうした唯一絶対者が仮に存在したとしても、
それに披造物が尊敬の念を持ったり敬意をはらうこと自体が矛盾しているということだ。
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『神』が仮に太古にいたとしても、『今もいる』という証拠はまったくない。
ある側面を見れば、『後にあらわれる生物』の方が優れているのが当然である。
神が始めにいたからといって、
それが君より『優れている』という論理は成り立たない。
最初にいたから偉い、とは非論理的である。
始まりにいたので偉大であるとか、支配者であるという理屈は成立しない。
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君達人間は、何でも君達と同じように『擬人化する悪癖』をもっているようだ。
なぜ、神が人間的である必要があるのかね??。
君たちのその思考の妄想の原因は次の通りだ。
宇宙を創造した神は『被造物より上位にある』という妄想だ。
宇宙を作った神が君より物理的に、または知的に『強いという根拠』はなにもない。
君に出来ることを神が出来るとは限らない。
君達は自分で出来ないこと、したくないことをさせるために君達の道具を作り出すであろう。
誰であれ、物を創造するその動機は、常に制作者の『代行業務をさせるため』であるものだ。
しかも、代行のために作られる製品は常に『創造者を上回っている必要』がある。
かくして神は被造物と機能面で比較したならば、無能か、あるいは『ほとんど無能』と
定義される。これが要点である。神は『不器用』あるいは『能なし』である。
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真の優勢種や上位存在は『時間的に先にいる』ということではない。
つまり神が『始まりにいたから偉大だ』などという根拠は皆無だ。
また、次に上位存在は実際に何らかの力があるということではない。
これで『神が万能』などということはないと定義し直される。
また、神が『すべての万物を作った』という論理もなりたたない。
たとえば、神が作った『創造ロボット』がこの宇宙を製作、そして管理していても
全く不思議はあるまい。
万物などというものを『何から何まで神が作った』などという論拠はなにもない。
宇宙も最初の目的が仮にあったとしても、『現在もそれを維持している証拠』はない。
とっくに別の目的に向かっていることもおおいにあるのだ。
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神は、まったく尊敬の必要はない。一体、現在何が、
神の「父権性の首」をつないでいるのかね??。
神に残ったたったひとつの能力と、父権を維持する脅迫は恐らくそれだけだろう。
『いつだってこの宇宙と君達の楽しい生活を壊せるんだぞぉー』とそいつは
ボタンに手を触れてるだけの9000億歳の『クソじじい』かもしれないのだよ。
すると、神の最後の主張はこうなる。『俺様は宇宙で発想するのだ』
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そもそもなぜ神は発想しないでいられないのか?。
神はどうも退屈が嫌いな落ち着かないボウヤのようだ。
となると宇宙とは神の『退屈しのぎの副産物』かもしれないという仮説が出る。
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要点をまとめれば、
1/神は最初にいたかもしれないが『今いる証拠はない』。
2/神は『始まりにいても別に偉くない』。
3/神の『機能が優れている証拠はない』。
4/神は『万物を作ったわけではない』。
5/神は『管理しているわけではない』。
6/神はただ、永遠という退屈をどうやってしのぐかを思い、あるいは過去に思い、
もう既にくたばって、消え去っているかもしれない。
7/すると、今、宇宙は、全く無目的に、それぞれの宇宙で『我こそ管理者だ』などと
思い込んでいる知性体によって勝手にそれぞれの目的で運営されている可能性がある。
8/神は、もしまだ生きていれば『宇宙は俺が考えたものだ』と
特許権の訴訟を今も続ける特大のおいぼれた『アホ』であるか、
9/もしくは『俺は宇宙をいつでも消せる』としか言えない超特大の『ろくでなし』の
可能性が高いであろう。かくして神とは愚かなものである。
「そいつ」が偉大である痕跡は『論理的に』どこにも見当たらない。
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宇宙で正気に暮らしてゆきたいのならば、君達からみて、有能な知性体や生物体、
あるいは破壊力、脅迫力を持つ知性体と神の概念とを混同するなかれ。
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たとえば、衣食住に全くなんの貢献もしない無数の産業が地球にはあるだろう。
生存の為だけには、全くなくてもいいような職種だ。
ところが、その中に入れば、そこで労働に従事することが当たり前になり、
そしてこの基本的な疑問は忘れられる。
すなわち『そんな会社がそもそも必要かどうか』だ。
我々の惑星地球では、貨幣制度があるために、直接的なエネルギーではなく、
そのエネルギーと交換出来る保証書が貨幣と呼ばれる。
実際には、全体的な食糧供給が減っていてもその貨幣があればなんとかなると
馬鹿な思い込み違いをしたりするものだ。
ところが、その思い込み違いのせいで、
衣食住になんら関係のない産業でもなんでもいいから、
その貨幣という単なる保証書や預金というただのデジタル数値を増加させるために、
無数の無駄な産業があるのだ。
さて、そんな本質的に全く無駄な産業の会社を一歩出たら、
そして覚めて考えたら、疑問はこうだ。
そもそも、その中にいるときは、意味があると思っているが、はたして、
この産業そのものになんの意味があるのか?。
さて『この同じ質問』を神とやらに突き付けてみようじゃないか?。
全宇宙は存在し、それを維持し、生存することは、
そこに棲息するどの生物にも共通の営みだ。
しかし、そもそもこの宇宙という産業、この会社が存在するということに、
そもそもいかなる価値や義務、目的、があるというつもりか?。
すなわち、一言で神のような犬はその存在価値を損失する。それは、この一言だ。
『宇宙など、別になくてもよかろう』。
定義の特集
論争
『相手に「私が間違っておりました」と言わせて自分のエゴが満足するためだけに
双方で繰り広げられる果てのない屁理屈、または殺戮への弾み』。
その根本動機は安心への欲求である。そして、さらにそれを生み出すその根本原因は、
あなたの生存への欲望と死への不安である。
恐怖
恐怖とは、それは主に結果として3つの状態を生み出す。
それは嫌悪、拒否、殺戮である。
一体、あなたは何から逃げているのか?。本当は何が怖いのか?。
あなたは『変化』が怖いのだろう。
しかし、自然や子供たちはどんどん変化する。
なのに、なぜあなたは変化を恐れるのだろう。
問題は、変化によって、あなたの過去が消えることだ。
すなわち、あなたの過去が死ぬということだ。
変化そのものになんの恐怖があるのか?。ありはしない。
問題は、変化の代償として、そこには『何かの死』があるということだ。
それは過去の死だ。
結局、壊されることへの恐怖、壊れるものが自分の中にあるということ、
さらには、壊れる自分そのものがあるということが人を不安にするのだ。
憎しみ
外界あるいは自己の内面において、そこで起きている現象の全体ではなく、
一部分だけを拒絶し、それを叩きのめそうとする事から生まれる感情。
ところが実は、他人を憎むのも、自分を憎むのも、そこにはなんらの変わりもない。
何であれあなたが『許さない』こと、これが憎しみである。
それが行為に発展した場合にはそれは暴力と呼ばれる。
盲信
根拠をなすと見られる検討材料の情報が一定量になるよりも、はるか以前から、
すでに事実の検討などは、どうでもよく、最初から、
それを信じることによって引き起こされる脳波の快楽を求める本能。
その逆も真なりである。
疑惑、否定への盲信はそれがひっくり返っただけである。
いかにしてある対象を否定するかという事に快楽を感じることに重点を置く生物は、
それを否定する材料を回収し終えない遥か以前から「否定しまくれ」という
本能信号の完了のみを目指すのである。
こうして、いかにして最初に『仮定として用意した論理』に
たくさんの応援団をひっつけるかのゲームが開始されるわけだ。
地球でこれは『布教』とかあるいは『選挙』とか呼ばれる。
それは論理の正当性を競うのではなく、どうやって正常な論理を追究し続ける知性体を
どこかで、うまくまるめこんで説得して、
自分の仮説を信じさせるかというゲームである。
自慢
自分はいかに持っているかということを宣伝し、それによって相手を屈服させ、
状況を有利に運ぼうとする猿の行為の一種。
ただし、優位とは、本人が感覚的快楽を味わうため、
という意味において優位なのであって、実際にはこの行為は周囲からは軽蔑され、
爆笑もしくは圧笑をともなう不利なものとなることが多い。
卑下
自分はいかに持っていないかということを自慢し、それによって相手を屈服させ
状況を有利に運ぼうとする猿の行為の一種。以下「自慢」の項目と同一。
礼儀
相手に不快感を与えないための最低限のマナー。従ってあなたに出来る唯一の礼儀とは、
誰に対しても、黙々と黙っている、ということになる。
喜び
次のさらなる不幸を生み出すために経験されるか、または自ら進んで経験しようとする、
「進化する不幸」のこと。あるいは自殺抑制剤とも呼ばれる。
ただし、「なぜ、こんなことまでして生きていなければならないのだ」という
重大な哲学的な課題を思い出すことによって喜びは停止することが可能である。
不幸にもその哲学の結論が『喜びを感じるため』というところに落着した場合には、
では「なぜ、なんのために喜びを感じなくてはならないか?」という課題を
思索することにより、容易に不幸に復帰することが可能であるから心配はいらない。
反省
ある特定の行為を「もう二度とやるまいと深く思い」、それによって近未来に
再びそう思うはめになる別の行為に乗り換えるための単なる「はずみ」。
自己分析
悟りを得ない限りは、とりあえず自己の定義が安泰しているかのように錯覚することが
可能な分析行為またはそのディスプレイ。
他人と自己分析について語るという行為は、お互いに、いかに自分が馬鹿であるかを
楽しく軽快に暴露することであるが、さりとて、
その行為によって馬鹿が軽減した試しはない。
よくてせいぜい前記「卑下」を促進する程度である。
悩み
いつなんどきにでも、あっさりと捨てられる思考と戯れる事を思索と言う。一方、
それが2度と脳裏から捨てられぬものに進化するとそれを「悩み」と呼ぶハメになる。
飲酒
世界を基本から認識しなおすために有益な他のドラッグが合法化されないために、
とりあえず仕方なく地球の猿たちが利用するドラッグを飲む行為。
ただし、利用者の多くは認識を深める為ではなく、
認識を「浅はか」にすることによって苦痛を軽減する目的でこれを摂取する。
会話
はっきりとした目的とそれを遂行する為の情報交換の為、
もしくは言語によるギャグを楽しむ分には
無害である無形文化財的「ドラッグ」の一種とも言える。
ただし上記の目的より、これが自己主張などの要素に展開した場合には、
それは「おしゃべり」と改名され、その末路は「好き嫌い」の問題に退化し、
最後には「類は友を呼ぶという」銀河系法則を促進するための機能を持つ。
戒律
この宇宙に存在する、唯一の全体的な共通の、重要な戒律はただひとつである。
それは『馬鹿者は相手にするな』である。従って、これを厳守するならば、
あなたの内面的な平和は確実なものとなる。
嘘
この行為なしには地球で平和的な生存は不可能とされる。
この行為のおかげで、我々は投獄もしくは死刑にならずにすんでいる。
進化
自由と同様、この宇宙で一度も起きたためしのない死語。「合理化」や「変化」に
一般的には、この進化という用語を乱用するが、それは適切ではないであろう。
言語
単語のおのおのを、いちいち定義していたら、
それだけで膨大な量の解説になるというのに、
なぜか我々はその単語の連続である会話をなんとなく理解している「ふり」をしている。
ここから推測できることは、我々はおそろしく膨大な量の定義の連続を
理解できる天才的な生物であるか、もしくは単なる馬鹿の集団である。
ためしに、他人に言語の2つか3つを「明確に定義」させてみると
明らかに我々は後者であることが判明する。
つまり、我々は毎日わけの分からない言葉を使って会話をし
分かったふりをしているところを見ると、完全なる狂人の集団であると思われる。
なお、会話につきものである、「あいづち」について概略を以下に記述する。
大きく、うなずく
「こいつは私と同じ考えだ。従って私の考えは正しい。
私は支持されてる。私の考えは価値がある」などと
「ただの意見の一致と意見の正否を混同する」猿が行う首の運動。
小さく、うなずく
地球の類人猿にとって、まったく訳のわからない話題が進んで行く場合に、
分かったふりをして、とりあえずは穏便に時間をつぶすために使われる首の運動。
実際にはこの間に地球の類人猿は、いかにして別の自分のやりやすい話題に
移行するかの策略に頭を使っており、そのために
首にまでエネルギーがまわらないのである。
小刻みに速く、うなずく
もはや、とっくに相手の話など聞いておらず自分の内部で持論が暴走し、感動し、
歓喜きわまっている地球の類人猿が引き起こす、首のケイレン状態。
なお、これらの首の縦ふり運動を停止する万国共通の言語が存在する。
それは相手に『お前は、本当に馬鹿だ』と言うことである。これによって、
あの目障りな、うなづく首ふり運動は、ほぼ95パーセント停止可能である。
宇宙人
この宇宙人の『人』なる文字を「意識あるもの」と仮に定義すれば、
無機物から有機物にいたる、あらゆる万物が意識を持つので、
すべてが宇宙人ということになってしまう。
従って、我々は毎日宇宙人を殺して食い、宇宙人をふんずけて歩き、宇宙人に住み、
宇宙人に乗って移動し、宇宙人を着ているので定義してまで記述するほどの価値はない。
そんな中で、たまたま地球人を食用とする宇宙人が現れたとしても
『お互い様ですなぁ』と、にっこり笑えば、
彼らとの戦争は全面的に回避されるであろう。
すなわち、明るい無抵抗こそが平和への第1歩である。
愛
私の言う事をきいてくれて、私をご機嫌にしてくれて、私に従ってくれるかぎりは、
私はあなたの事をこよなく好きになるでしょう。
しかし、私を悩ませたり、私の機嫌を損なうような事をするならば、
お前なんか死んでしまえばいいと思うようになるだろう・・という精神状態のこと。
これほどの「深い愛」はない。
なぜならば、誰ひとりとして、そこから抜け出すことが出来ないからである。
精神世間 せいしんせけん
単に精神世界や宗教や寺に、その『同じ俗っぽい頭』を突っ込んでいるだけで
根の部分は全くの俗人である人々とその馬鹿な集団を言う。
この中には大変な修行をしたり、その結果に「光明を得て大悟した!」などと称する
導師なども、盛り沢山含まれる。
世間教 せけんきょう
精神世界や宗教には全く無縁か、あるいはそうした宗教をむしろ敬遠する人々がいるが、
そうした人々は、結局のところは『平均的幸福教』、『愛と平和のカルト』、
『常識教』『ポジティブ思考』なんぞという、これまた大変にご立派な
盲信的宗教に属しているという事を表す用語。
世間人以外に、特にマスコミやアナウンサー、評論家やコメンテーター、
そして心理学者やセラピストなどに多い馬鹿の一種。
生存教 せいぞんきょう
宇宙の全万物が属する唯一の宗派のこと。この宗派が敵対し、恐れるものは『絶対無』
すなわち万物の活動停止とそれによる宇宙の消滅である。
したがって、あらゆる口実と宗教的教義を用いて魂の進化などというものを
嘘で美化しては、生存に目的意識をでっちあげてゆく。
また、それと同時平行して罪悪感や自責、恐怖心や不安を
人間や高次元知性体に与え続け、常に生命を活動という名の『労働状態』に置こうと
日々策略をしている全宇宙的な、あさはかな教団である。