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我々の知覚する現実とは何であるか
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知覚とは広がりなどではなく『限定機能』である。
あなたの限定した知覚の世界以外は、あなたにとっては世界ではない。
世界などというものは、ただの限定知覚の中にしか存在しない。
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一体「どこで」あなたは幸福になったり、不幸になるのかね?。
「どこで」、その感覚は生まれているのか?。その本当の『現場』はどこか?。
それは全部たったひとり、あなたの意識の中だ。
*********
『あなたの言う現実』というものは、その尺度、スケールがコロコロ変わっている。
毎分違う。あなたはたとえば、社会的な情勢やムーヴメントについて、考える。
あるいは週刊誌でも読み耽る。いわゆる、あなたの言う「現実問題」としてね。
さて、友人から電話がかかって来る。
電話に出たら、実につまらない話でさっさとあなたは電話を切りたい。
一刻も早く切りたい。これがあなたの現実世界のすべてになる。早く電話を切ること。
やっと切ったら、テレビでニュース速報で、どこかの国で大地震があったという。
たいへんだなぁー、とあなたは思う。それがあなたの、「そのとき」の現実だ。
ところが、他人の国の心配をしていたあなたは、次には、またかかってきた、
悪友からの電話にうんざりする。今度はその「うんざり」があなたの全世界だ。
そして、今、これを読んでいるあなたは、それがあなたの世界だ。
それも、あなたがとらえられるところの全世界のスケールだ。
夜になって、誰か恋人と享楽的にセックスをすれば、またそこが現実だ。
電話の事も、世界情勢なども、どっかの国の地震なども知ったことではない。
あなたの世界、現実、これらは、瞬時にコロコロとその範囲や内容が入れ代わる。
あなたはそれらの集積としての記憶の中を漂っては、
随分といろんな事を知ったのだと思い込む。
中には自分は世界的なスケールで物事を見ているのだと思い込む者もいる。
さて、このあなたの知覚や思考によってクロ−ズアップする現実のスケールが、
あまりにも統一性なく拡張したり、ちょっとしたささいな
目の前の出来事に集中するのを観察してごらんなさい。
一体、あなたの現実とはなんなのか?。どこが現実なのか?。
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私はどれが価値のある現実だとは言うつもりはない。
どれが意識を集中するに値する現実であるかなどは私は問題にしていない。
そうではなく、現実とは、常に『瞬間にはたったひとつ』だということだ。
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正気とは何も常識や社会や正常な脳細胞が
あなたたちに提供しているものではないという事実がここにある。
正気とはひとつの人工的な『夢』にすぎないものだ。
あなたの正気を支えているのはあなたではない。それは実は惑星や太陽系の安定した
『集合意識のシステム』なのだ。
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あなたの内面などというものは、人類という宇宙からみたらたった一握りの
下等生物のただの社会情報で出来上がっているのだ。
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あなたたちは、世界や宇宙と言うが、では一体どの知覚のしかた、どの感覚によって
それらを知覚するのが「正しい」、「正気な」、「本当の」知覚だというのであるか?。
正しい知覚の仕方などあるのだろうか?。
あなたたちの言う正気とは、集団的な『合意』
または『共有の枠の中』で言っているにすぎない。
すでに述べたようにこの地球の動物とあなたの間に
すでに生物学的な構造上の原因でこの合意は成立していないのだ。
こうしてみれば、正気など存在せず、それらは単なる多数決の狂気である事になる。
そして単に社会的な安全な狂気、合意された狂気であるにすぎない。
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あなたたちが、教育され、適応してきて、そして、常識として安全に暮らすための
数々の習慣、風習、ことに、他人の静寂をずけずけと壊すような無礼な朝の挨拶から、
サラリーマンやOLの酒場でのおしゃべり、学者どもの討論会での
気違いのようなおしゃべりに至るまでの、そのすべての心理的妄想に対して、
その全部を、ただの気違いと呼ぶ人種が存在する。それが、ブッダたちだ。
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我々が知覚する物質の側面は物質それ自体の一体何パーセントだろうか?。
『どこからどこまでを』物質と言っているのか?。よくよく観察するがいい。
あなたたちは現実を見ているのではなくその物とあなたたちの関係から生じる
『あなた』の思考世界に住んでいるのである。
もしも現実を物質と定義して安心したとしても、実際にはひとつの物質だけでも
無数の現実があらわれる。
つまりその物質のどの側面を問題にするかによって現実は異なるということだ。
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人々が現実と言っているものは、本人が問題にする『現実』だけだ。
本人が世界というものから、ほんの僅かな情報を切り取った世界の
小さな小さなひと切れを現実と呼んでいるだけだ。
現実の基準点は常にあなただ。それ以外にない。
一体、我々の現実とはどこにあるのか??。
ことごとく、すべて、全部が主観だ。その中でたとえば今日は暑いとか寒いとか、
忙しいだの暇だの『そんな程度の現実』を共有しているにすぎないのが人間の社会だ。
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あなたが相手にしているのはあなたの知覚、あなたのイメージ、あなたの思考、
あなたに起きることばかりだ。そこがあなたの現実のなんたるかだ。
この数十億の猿が数十億の自分の夢の中に住んでいるという現実を
あなたたちはまだ理解していない。
理屈では分かっているつもりでも『現実』として認識していない。
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人々はコミュニケーションなどと称しては、つまらぬ会話から哲学問題まで
毎日のようにおしゃべりをしているが、そこにあるのはお互いのただの『推測』だけだ。
非常にボンヤリとした『相手への推測だけしかない』のに、分かったふりをしている。
また、相手に自分が理解してもらえているなどと『誤解』している始末である。
あなたがポックリ死ぬ。さて誰が問題にするか?。家族だけである。
しかもそこに利害関係がある場合だけ家族が問題にする。
もし利害関係がなかったら家族もあなたの死など問題にしない。
例えばあなたがいなくても家族が生活できるとか、
あなたなしでも別に子供も誰も寂しがらないとしたら。
そして、現実にこれはあることであろう。
実際あなたがいようがいまいが、残された人は生きて行く。
そして記憶など時間とともに消える。
あなたは10年後にはたまに手をあわせて挨拶されるだけの仏壇の写真と化す。
そのころには妻は再婚、子供達は結婚。あなたの存在意味はゼロだ。
さらに20年後、あなたは家族にとってすら問題外となる。
一方あなたになんの利害関係もない人達。
実際こっちが数億と存在するのがどちらかと言えば現実とも言える。
あなたの生存などまったく問題外だ。
ちょうどあなたが爆撃をうけた戦争地域の死体を何の感情もなくテレビで見るより、
それよりも遥かにあなたの人生は無価値なのだ。
なぜならあなたの死など報道すらされず、政治的意味もない。
そうすると誰があなたを『大切なもの』に仕立てあげたのかね??。
それはたったひとり『あなた』だけだ。
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夜、起きてしまって部屋でぼんやりしていたら、考えなさい。あなたは誰かね??。
あなたの世界、あなたの現実はどこにある??。なんでそこにいるのか??。
なんのためにいるのかね??。まず、世界とか現実と呼ぶものが
全部あなたの中で起きている「極地的な事件」だということに対して深く考えることだ。
他人を見るとき、あなたは他人など見てもいないし理解など出来ていない、
あなたは他人に対する自分の評価や『思い込み』を見ているだけだ。
しかし事実はもっと始末が悪いのだ。あなたは自分すら見ていないからだ。
自分ではなく『自分はこうだ』という思い込みを見ているだけだ。
さらには他人は自分を『こう見ているに違いない』とか、
こうすれば私を『こう見るに違いない』などという妄想を見続けている。それも一生の間。
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あなたが現実主義だというならば、あなたは『現実という宗派』を盲信する。
あなたがオカルトや神秘主義者だというならあなたはそれらの盲信をする。
あなたがなんとか主義だと言って自分をどこかに位置付けたとき、
すでにあなたはその世界の{宗派}に属する。
あなたがもしもあなたを「平凡な一般人です」と定義したら
すでにあなたは『平凡主義の信者』だ。
あなたが他人に優しくしたり他人から心地よくなど思われようなどとした瞬間に
あなたはすでに気違いになる。
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あなたの内部にあるのは現実でもなく客観的基準でもなく、正しさでも間違いでもない。
あなたの中にあるのは、ただのあなたの、肉体と心理的な
快感と不快感に直結する事件だけだ。
そしてそれらに対する『あなた自身の反応』だけをあなたは自分の世界として
その中だけに生きている。それが現実だ。
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一体、どこに本当の世界があるのだろう?。そんなものはありはしないのだ。
なぜならば、「本当の正しい知覚」などという基準がどこにもないからだ。
世界は世界として安定してあるのではなく、見る者や見る生物ごとに違って見えており、
その知覚の中にしか「世界と呼ぶもの」はないのである。
もっと平坦な言い方をすれば、ある会社に4人の社員がいて、そこには4つの朝がある。
一人は家族とけんかをして出社し、一人は電車の中で痴漢に会い、一人は静かに出社し、
最後の一人は遅刻したとする。
さて、晴れた日で、静かに出社した人が『いい天気ですね』と二人に言った。ところが、
一人は家族のことでムカつき、もう一人は痴漢にムカつき、ちっともいい朝じゃない。
だもので、3人はムスっとして、仕事についた。
それぞれの朝、それぞれの内面の違う天気の朝だ。そこへ4人目ニコニコしながらきた。
何がそんなにいい気分なのか尋ねたら、彼はこう言った
『いゃー、ゆうべ遅く電話があって、おやじが死んだそうだ。
あっしはそれが嬉しくて嬉しくて、だからニコニコしてるんですよ』と。
この者がどんな父親との関係を過去に持つかなど、3人には知るよしもなく、
またその嬉しさも誰も理解しないことだろう。
このように平凡な平日の朝でさえ、そこは、全く異なる『世界』が4つもある。
そんな中で猿同士や人間同士に理解などあり得ない。それはただの推測になってしまう。
その推測はしかも、推測する者の経験の範囲に限定される。
ならば、誤解が起きない可能性のほうがはるかに低いのだ。
理解など、それは不可能に近い。
共有できる程度の常識、娯楽、感覚ならば、せいぜい歩調をあわせるふりはできても、
これが全く異なる世界を見て来た者同士では理解は不可能だ。
いわんや、他の生物に対して、何が愛だね??。
何が自然を愛するだね??。他の生物、ワニやトカゲやクモ、ネズミ、ヘビ、
みな全く異なる世界に住み、彼らには、それが『世界そのもの』なのだ。
彼らがもしも哲学や芸術を作り出したら、
それはまるっきり我々の想像もつかないものとなるだろう。
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現実の定義をしようとすると、こうなる。
現実とは、生物ごとに限定された知覚情報から構成され、
しかもその平均的内容の総称であることに注意。
知的生物においては、さらにこれに記憶とその配列である思考が付加されて、
外界の知覚以外に脳内に『ありもしない思い込み』を作り上げる。
これらが混合した情報を意識は現実として捕えるが、
さらにその中でもとりわけ平均的な、日常的に安定した情報を
通常は現実と呼んでいるにすぎない。
すなわち、「てめぇーは馬鹿だ」と突然に幼い子供に言われた中年が、
カッとするといった愚かな行為はこの「現実」のなせる特技のひとつである。
日常的ではない情報や内的思考(思い込み)と相反する情報がやってきた、
というだけで現実とは、いとも簡単に揺らぐものである。
通常この揺らぎに対する無駄な抵抗は、「反論」と呼ばれ、
さらに悪化した症状に至ると論理性を脱却して、二人の異なる現実を所有する者の間に
激怒のエネルギー波動または殺傷行為が発生する。
一方、銀河系宇宙で一般に現実とは、「限定された世界」とも言われるように、
それはなんらの客観性も持たぬ、完全なる主観の産物である。
ただし地球のような低脳な人類の惑星では、『集合的な多数決による主観の総体』が、
まかりまちがって「現実」などと呼ばれることがよくある。
知覚器官が似たような生物どうしでは、似たような現実という
「夢」を共有することはあるが、それが同一であることは、まずあり得ない。
現実とは人間に限らず、『知覚』の中にのみ存在する『情報の単なる断片』であり、
それは、ほとんど夢より始末の悪いものである。
なぜならば、人間が夜に見る夢は、争いを作り出すことはないが、
人間が昼間っから見続けている「現実」は種々の妄想を生み出し、
その行為はさらにこの現実という夢にフィードバックし、影響を与え、
より混沌とした夢の発展を続けるからである。
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現実とは、縦横15センチ、高さ7センチのちっぽけな空間で作られ、
維持され、壊れては、めぐりめぐる。
どうでもいいくだらない事にまどわされ、
何ひとつも集中も放棄もコントロールも出来ず、
ただ漠然と平均的知性の常識の領域を『たゆたう』思考のすみか。
それは我々の『おつむ』だ。
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あなたはただの記憶の思考と感覚情報の固まりに過ぎない。
昨日楽しかったあなたは、本日の友人の死の知らせで落ち込み、
昨日楽しかった生活が本日の愛人との離別でひっくりかえり、
昨日まで平安だったものが本日は会社が倒産して失業し、
昨日まで恋人とベットで寝ていたのが、本日は病院の死のベットだ。
こうした転落は、いつなんどきにでも、起こり、
またあなたもこれまでに経験しているはずだ。
ところが、日常にあって、人類は、
ある一定周期の安定した生活があるからという理由で、
人々は安定の中に安住していると思い込んでいる。
人類の心理的な安定など、ただ状況が安定しているという事に依存したものだ。
ところが、実にささいな事であなたは不安になったり激怒したりするのを見るがいい。
それはいつでも、「どうでもいい、ささいなこと」ばかりだ。
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絶え間無い激変と同居出来るのは、力ではなく、無力だ。
それは無心だけだ。そうでなければ、狂ってしまうからだ。
絶え間無い激変の中では、維持できるようなものは何もない。
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あなたの信念や瞑想や政治的なバカ騒ぎやモラルや宗教など、
あなたの虫歯が痛んだり、ちょっと病気になったり、
家族や子供や愛人が死んだりした途端に、
あっと言う間に消えてしまうではないか?。
あなたの一日の思考をとっくりと、よく見守ってごらんなさい。
それは呆れ返るほど、無常で、一貫性がないはずだ。
あなたは一日を終わるとたいして何も変化していないと言うが、
では、数分間思考を見るがいい。
いったいその、あまりに「はかない明滅」はなんなのか?。
心底からしみじみと感動的なほどの「実感を持てる思考」など、
いったい何秒間あなたの中に存在できているだろうか?。
にもかわらず、あなたは自分などというものがあると思い込んでいる。
繰り返し、同じような事ばかりイメージし続けるから、
あなたはかろうじて自分などというものがあると思い込んでいるに過ぎない。
そしてその繰り返し、あなたにいつもと同じだ、という安心を与えているものは、
とりもなおさず、いつもと同じ肉体、環境、情報、感覚のせいだ。
そのとりもなおさず、いつもと変わらぬ、あなたたちのその心理的な根底が、
たった一発の、突き上げる衝撃で崩れる時が来るだろう。
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生存欲も、どんな欲望も動きも、神経的な苦も、自我の葛藤も、退屈感も、
そんなものは、すべて、二次的な苦の産物にすぎない。
生命としての第一次的な苦は、「絶対の静止」に我々が「無意識レベル」では、実は、
いま、この瞬間にも、毎瞬間、常に直面してしまっていることなのである。
常に無意識的に、我々はそれに直面しているからこそ、
そこから逃げようと生命は活動し続けているのである。
絶対の無の空間とは、宇宙の、はるか遠くにあるわけではない。
それは『あなたの中』にある。
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我々の現実とは、一体、何によって構成されているのだろう?。
実は、それは『習慣的な思考と習慣的な感覚』・・ただそれだけなのだ。
したがって、その二つに異変や情報の入れ代わりが生じたら、
あっというまに、まさに「現実のすべて」が、ひっくりかえってしまい、
すぐに我々は、その新しい現実に適応してゆくことになるのである。
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普段の生活では、我々は、ただただ「習慣」の中で生きている。
その生活環境がどれほど宗教的なものであれ、平和的なものであれ、
創造的な環境であれ、それがただの習慣的生活である事には変わりない。
学生の朝はきまりきっており、サラリーマンの朝はきまりきっており、
主婦の朝はきまりきっており、老人の朝もきまりきっている。
むろん、富豪や皇族の朝も退屈であり、どんな素朴な土地の朝もきまりきっている。
寺院の朝もきまったパターンであり、どこもかしこも、
ただ決まった一日が始まって、終わりを繰り返して、
過疎的なこの現実世界を、ただ、なんとなく生きて死ぬ。それが人間や生物の一生だ。
その間に、えらそうな事をしゃべっては、あげくに最後は死んでゆくのである。
しかし、そういう現実というものに、ときおり『亀裂』が入る場合がある。
平均的な人間は、何かその現実をひっかきまわすようなこと、つまり
『事件が起きて』から、はじめて現実というものの認識に亀裂が入る事が多い。
しかし私が言う、いわゆる『本物の探求者』の条件とは、
そうした「具体的な事件」によって現実がゆらぐ事ではない。
そうではなく『魂の繊細さ』ともいうべき本人の感性によって、
それまで、全く当たり前だった目前の現実に、ある日、
突然に大きな「疑い」を実感することなのである。
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私の力点は、私の目前に毎日見ている、この『現実』に対する『懐疑心』だったのだ。
現実とは何か、という疑問の次の当然の質問として、
「宇宙とは何か」の定義が私には必要になった。
しかし宇宙の果てにまで出掛けてもこの疑問は、解消されなかったのだ。
そこには、宇宙という「別の現実」がそこにあるだけで、
それは現実とは何かの「根本的な答え」にはなっていないからだ。
『現実とは何か??』、これだけでもあなたは一生、
あるいは無限にでも探求を続けることができるほどのテーマだろう。
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多くの人が、現実世界をまるで『当たり前』のように受け止めていることには、
幼いころから大きな疑問があった。
そもそも、「今、自分達が見ているものが何であるか」をも知らず、
何も考えずに彼らがその中を生きているというのが、
私には、まさに「信じがたい光景」であった。
というのも、生きるためには少なくとも自分の位置づけや、万物の存在理由や、
自分が見ている世界について理解をした上でなければ、
そもそも「あるべき生き方」などというものは定義できないはずだ。
ところが、その『根本的な確定』もせずに、
人々は、やれ社会だ、やれ愛だ、やれ楽しみだ、幸福だなんだと、
その中を漠然と生きてゆき、そして死んでゆくのだ。
だが、これはあまりにも馬鹿げている。
これでは、人間がいかなる社会を作ったとしても、まるで家畜であり、
そもそも精神などない生き物だということになってしまうではないか。
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だが、私の探求心は、世界の様相や、次元の階層や、
宇宙の『様相』がどうであるかではなく
それを見ている私の『意識そのもの』は一体何であるのか?ということだった。
したがって、この疑問は私がいかなる別の天体や次元世界に転生しても、
常に連続し続けていた。
それぞれの世界に生まれれば現実は常に一変してしまう。
爬虫類型の異星人に生まれれば、人間とは異なる目と耳と鼻で宇宙を見ることになる。
しかし、どこに生まれようが、仮に天界に生まれようが、常に変わらない謎がある。
それは、世界を見ている『自分の意識への疑問』だ。
世間を見ていて思うこと
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最も確率的に、統計的に確かだろうと、単に推測している未来、
それがあなたの思考が作り出す未来だ。
ところが、人類の人生の大半が、実は架空の未来への恐怖で
引きずり回されているわけなのだ。
このままだと、明日は食べられなくなるかもしれない。
このままだと、明日でなくても、いずれは悪化する・・と。
いつもその前には「このままだと」がついている。
しかし、一体誰が「このままである」と保証できるのかな?。
人々は気分のよいことだと、このまま『明日も大丈夫』だと確信(単に思い込み)し、
状況が気分を悪くするようなものだと『明日もだめだ』と確信(単に思い込み)をする。
あなたはあなたの死を「今は健康だから」という理由で、
あるいは人類の平均寿命を念頭に入れて、
『希望的観測で、想像上の延期をしている』にすぎない。
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一般に、あらゆる人達が逆らい、怒り、戦う言葉がある。それは『馬鹿』という言葉だ。
子供から老人、男女、地位を問わず、『馬鹿なやつ』と言われて喜ぶのは私か、
本物の禅師ぐらいのものである。
人々は、馬鹿だと言われれば、歯をくいしばるか、あるいは
無視したり、あるいは、心にもなく卑下したりするだろう。
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いわば、「愛力」「腕力」「権力」「知識力」「心霊能力」「判断力」「観察力」、
なにもかも人類はいつも『力』を持ちたがり、何もかも語尾に『力』をつけたがる。
そして競う。それも、心理的には陰険に遠回しに競う。
力は必ず力そのものが生きようとし、大きく拡張し、増加してゆこうとする。
だから、それは減らされたり、対立されたり、あるいは殺されることには、
完全に断固として抵抗する。
だが、これこそが探求者に、そして一般のすべての人達に
光明・・すなわち大悟が起きない最大の理由だ。
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もしも、現象を自分の思う通りにどうこう「しよう」、とか、
どうこう「出来るのだ」という力に固執していれば、
人は常に『自分の出番』、その『力の出番』を待っており、
常にいつ自分を売り出せるかにひどく執着し、囚われる。
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多くの人間が事実ではなく、知性や理性や感情が好む情報を収集したり、
持論を助長する応援団を求めているに過ぎず、
あるいは自分達の死活問題に直結するような事実しか拾い集めないのを見て来た。
私は悟る前からも、多くの人々が事実を求めているのでなく、自分に知的、
あるいは『感情的快楽をくれそうな情報だけ』を欲しがっているのを見て来た。
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私は人生や宇宙や人間や自然について何ひとつ洞察しないのに、
知ったかぶりをした人々ばかりしか見たことがなかった。
たとえば、気楽にやればいいだの、あるがままに人生楽しむことだなどとか、
学習することだとか、愛することだとか、ワクワクすることをすればいいだのと言う。
暇な時や酒場や集会や友達とのおしゃべりの中ではさんざん『生き方』について
分かったような顔をして、おしゃべりをしている人達は、
翌日の朝から仕事場や学校や日常の生活へゆくと何者に成り下がるのだろうか?。
一体どこがワクワクしてるのだろう?、どこが楽しんでいるのか?、
どこが愛しているのか?、どこが学んでいるのか?、どこが楽しんでいるのか、
どこが気楽なのか?と、ただ、あきれるほど人々は緊張して
偽善的で感情的で激怒しやすく、惨めなただの生物機械のように成り下がるのだった。
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私はあらゆる論争が馬鹿げていると言っているのである。
各自の違いだけを認めていれば静かに聞き耳を立てるか、無視する以外にない。
そうすればどこにもトラブルなど起きない。
社会的な死活問題からくるトラブルや業務上のトラブルはあるだろう。
だが、少なくともそうした『死活問題に何も関係ない』それぞれ個人の人生の見方や
生き方の問題で論争する必要がどこにあるというのだ?。
人間ときたらそのトラブルのほとんどが
『生きて行くのにどうだっていいもの』のせいで起きる。
人類には神秘や神聖さや哲学性など見い出せないと言い続ける。
そして『テーマが重要だ』と勝手に思い込むほどに論争は激化する。
今、他人と論議しているあなたの問題が、死ぬか生きるかに何の関係があるだろうか?。
ほとんどが、どうでもいいことだらけである。
あなたが間違っていても死ぬわけではない。
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あなたは『あんたは馬鹿だ』『まだそんなくだらないことしているのかね』
『あんたなど生きている資格ない』『死んでしまいな』『とっとと消えな』
『馬鹿、どあほ、能無し』の言葉で『おしまい』だ。完全にパニックになる。
これらの用語のどれひとつとってもあなたを殺すような威力があるかな?。
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いかに理想を掲げても、人類がたったの1年も戦争を停止したことがなかったのを
考えてみよ。
我々は争い、苦しむために作られたのであるからそのプログラムなどは、
我々がどう努力しても変更しようがない。
また、戦争を止めようという理想同士がまた争う悪循環を抜けられず、
それどころか、日常の生活の中でさえも人々は感情的には慢性的に争っている。
また論理どうしも争い、何もかもが争う。
さらに絶望的なことに、そうした、人類の『性さが』をすべて超越せんとして
修行に入る者のほとんどが挫折し、覚者本人ただひとりが安楽にひたり、
周囲の何万もの人々は、その覚者の境地を知ることで、さらに苦悶し、
苦しみ続けたことは歴史を見ればあきらかである。
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本当に個性に満ちた人々は、他人にそうあれなどとは言わないものだ。
他人にそれを強いるのは、いつも決まって、無個性な退屈な人々だ。
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さて、いきすぎた自我は、愛がないとののしられる。では愛とは何か?。
他人への思いやり?。では他人をどういうふうに思いやるのが本当の愛なのか?。
それが本当に他人にとって、10年以上の時間の流れのなかで、いいのか悪いのか、
あなたにそんな予言者のようなまねが出来るというのだろうか?。
単なるあなたの好き嫌いの、その片方の好きのカテゴリーのほうを
愛などと呼ぶ偽善はやめなさい。
社会があなたに教えた自我の発達も愛の発達も
結局あなたの人生を全く豊かになどしていない。
それは適応のためのものだからだ。
内発的なものではない。それは社会的なものだ。組織的なものだ。
組織的な生き残りに貢献するかどうかで判断されるようなものは、
なにひとつ愛や個性などとは呼べない。
なぜならば、もうこのようになったら、個性や愛のための個性や愛ではなく、
『生存』の手段としてのそれらだからだ。
*********
たとえばエコロジーが叫ばれるが、あなたたちはどうしてそう言うのかな?。
それはあなたの存命中の時代あるいは、あなたの子供の時代に
「死活問題」に発展する可能性が見えて来たからだ。
そうでなかったら、あなたたちは、これからもずっと際限なく
環境を破壊し続けたことだろう。
地球があと30倍大きく人口が30分の1だったら、誰もエコロジーなどとは言うまい。
核や有機物エネルギー以外を使用していたら、かまわず環境を破壊しただろう。
全部これらは今ごろノコノコと社会的な『死活問題』に発展してから
叫ばれることになった。
すなわち、人類には、植物や動物に対する愛など、本来は「ひとかけら」もないのだ。
今となっては、人類の社会は生物を思いやって環境を守るのではない。
自分達の生存ばかりを心配してそうなっているのだ。
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個人の意見、見解をありのままに交換することが、
一般的に理想的な人間関係や情報交換だという変な定説がある。
だが私が知る限り、そのように中立的に他人の見解をまったく私見を交えずに
聞き耳をたてられる人を私は身近では、たった2人しか知らない。
しかもこの35年の何百人という出会いの生涯でたった2人だ。
世間では明るい人間関係と言いながら、
単に退屈しのぎの「おしゃべりと自分を押し付ける」という興奮した感情ゲームだけだ。
国の大問題を議論している国会ですら乱闘するのだよ。
いわんや、あなたが隣人と表向きは穏やかな顔をしていても
内面で冷戦状態や激戦状態を起こしても不思議はあるまい。
これらは何もかも、あなたを意図的に持ち込みすぎるのだ。
*********
あなたを無個性だとは私は言わない。
だが、あなたは自分の個性について意識する必要は何もない。
また意図して他人に知らしめる必要などどこにもない。
他人だってそんなものに関心あるふりはしても、
実際にはあなたに関心などないのだから。
もしもあなたの個性に本当に関心を寄せる人がいたとしても、
例えばあなたの恋人のような者であったとしても、
その関心は無心なものではありえない。
なんらかの『心理的利害関係』をあなたの恋人はあなたを見る尺度にするはずだ。
「こうしてくれるに違いない。そうしなければあんたを嫌うぞ」などという
「取引」がかならずある。今はなくとも1年後には出てくるだろう。
これらはすべて、あなたが自分を大切にしすぎるためだ。
*********
世間は自分を大切にしろという。だが、大切にすべきものなどなにもありはしない。
意図して大切にしないで、むしろ無視するからこそ
逆に無為に自然にあなたは何も分別なく大切にするようになる日がくるだろう。
そこには『やり手』はいない。
だがその行為、対応、応対は『あなたの思考の結果』であるならば、
あなたはその結果どうなっても、TAOから見れば完全な間違いだ。
たとえ、結果が楽しくなろうが他人に支持されて選挙に当選しようが、
好きな恋人と結婚へゴールインしても「完璧な失敗」だ。
世間でどんなに認められても、あなたはブッダたちには無視される。
*********
あなたは誰だって怒らせることができる。その方法は実に簡単だ。
彼らが「大切に思うものをとことんけなせばいい」のだ。実に簡単なことだ。
無条件に、あなたはどこででも、トラブルを作り出せる。実に簡単だ。
*********
一体年をとるというのは、どういうことなのだろう?。
男も女も年をとるほどに、飲んだくれて馬鹿になってゆくなんて、
一体、ここの惑星の生物は、なんという生物なのだろうか?。
*********
よくある低俗なオカルト雑誌でも読んでいた読者のような者たちは、
情報、用語、言葉ばかりの氾濫する手紙をよこすものだ。
彼らには全く知性や意識的な次元が欠落していた。
そういう世界からの読者は、大悟する以前にも百人以上、
そして悟ってからも、数人を相手にしてきて、
とにかく、彼らは「ただの思考だけ」である事が結論されてしまう。
思考している動機、内容、自分で言っているテーマの方向性、
そうしたことに全く『無自覚』なのだ。
ただの言葉と、つまらない体験と意見のごちゃまぜだ。
まったく、ただのゴチャ混ぜだ。
それをなんとか大袈裟にして、自己顕示欲のために使おうとしているタイプが
実に多かった。
特にアマチュア無線やら、コンピューター通信マニア、
いわゆるオタクと呼ばれる人種に圧倒的にこの手の者が多い。
そして彼らは最後まで「性」に取り付かれている。
そんな者に禅やTAOや精神性を語ることは無意味だ。
最後には異性問題に欲望が帰着するなら、
最初からとっととそういう風俗的な世界へ行ってもらいたいものだ。
*********
欲望のシステムの枠組というのはとても基本的なものであり、
何も精神世界に限った事ではないから問題なのだ。
いわば世間というものはすべてその基本で動いている。
たまたまその者が自己主張のために、『どんな素材を使うか』という問題だけであって、
ある者はファッションや自分のスタイルの美しさや容貌を使うだろうし、
ある者は別のはけ口を探して芸術、読書、などに自分が自己同一化できる題材、
あるいは感情移入できる題材を探すだろう。
社会的に最悪のケースとしては犯罪行為にそれを見いだす者もいるだろう。
だが、それらのどれも変わりはしない。
どこかの編集長だろうが、通り魔だろうが、心霊相談を請け負うオバサンだろうが、
酒場で上司をののしる中年だろうが、どこも、誰も何も変わってはいない。
彼らは、ただの思考の寄せ集めだ。
心霊的な感覚をもふくめた感覚情報と思考だけで出来たものだ。
私に言わせれば、彼らはただの雑音、『ノイズ』だ。
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エゴというものは基本的に何でも背負いたがるものだ。
口では空白や空っぽといいつつも、完全に空白でいるような落ち着きは、
そもそもエゴの特性にはないのだ。
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テレビ番組というものは、カメラワークにせよ、ナレーションにせよ、
構成のすべてが視聴率を稼ぐために、常になりふりかまわず下品かつ、
押し付けがましく出来上がっているものである。
番組のあらゆるファクターが、人間の思考に対する
いわば「暴力的ではなく見せ掛けただけの暴力的な洗脳」なのである。
だからテレビを見過ぎると馬鹿になるというのは、充分に正しい。
ただ四角い箱の前にボケっと座っているだけで、
あなたは『思考を外部から動かしてもらっている状態』になる。
それは視聴者が退屈しないためならば、どんな嘘でもやってのけるものだ。
「退屈な真実よりも、おもしろい嘘。」これがこの愚かなテレビ番組の制作方針だ。
そのすべての動機は結局は視聴率がテレビ局員の給料とテレビ局の存続にかかわるから、
という、くだらない問題、そして基本的な死活問題に発しているにすぎない。
実際にどこかへ出掛ければ、視界は360度であり、5感すべてが経験されるが
テレビというものは、なんの実感もなく、なんの危険もなく暴動を見たり
悪臭をかぐこともなく、腐敗した人間の死体も見ることだって出来る。
テレビというものは、どんな報道のリアリティーを追究したとしても、
あくまでもそれは「動く絵本」にすぎない。
よく私は以前に『ニュースぐらい見たらどうなんだ』と言われたが、
その者に私は言った『では、ここ3ケ月あるいは1年で、
あなたの人生に貢献したニュース、番組、新聞、雑誌は何かね???。
たった今、そこではっきりと頭に浮かぶ、
あなたに『本当に切実な重大なニュースや情報』は何かね?。言ってごらんなさい。
ほとんどは、ただ紙屑と時間の無駄であろう。
ただ、それはあなたの退屈しのぎとなっただけにすぎないではないか?
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人間というのは、ただの名前だけ、ただの呼び名だけで、逆上し、
また批判するのである。
そしてまた、同様に、内容の全くともなわない、ただの誉め言葉、丁寧さ、礼儀で
機嫌が良くなったりしているのだ。
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人は常に、『自分を説明しよう』と身構えている。
また時には聞き耳を立てるが、それはその内容が自分に
どのような利害関係をもたらすかを考慮しながら選別して聞くのである。
ただ、ただ、聞く、ということが全く出来ないようだ。
世の中の人々を見ると、彼らは自分を説明するのに異常なほど取り付かれている。
彼らは慢性的な『自己紹介病』と名付けられるかもしれない。
自分を説明する準備、『論争の装備』を背負った人には基本的に法は伝達できない。
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生活という基本ベースが安定しているという点で先進国、とりわけ日本は恵まれている。
戦後を過ぎた今日の毎日の衣食住は、長い目で見ればいくらでも不安材料になるものの、
目先の不安とはならない。なんとかなるさが通用する雇用状況と治安状況であるからだ。
だが、一体精神性はどうしただろうか?。それは全く安定などしていない。
未だに精神病棟もあり、自殺もある。カウンセラーや占いは流行り、
全く効力のない前世治療まで徘徊する。
せっかく安定した静かな人々の生活を今度は
人工的な商業的な動機の価値観がかきまわす。宗教による罪悪感などもしかりである。
これらは想像上の恐怖への脅迫を利用した『商売』だ。
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ブッダたちは常に『必要な嘘』を語る。
一方、人々は、「不必要な真実」ばかりを語るのである。
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あなたの感覚的、あるいは知的な好みだなんだというが、
それらは単に育った環境の中で生まれたにすぎない。
そして一旦育ったその好みに合うようにあなたは他人や知識や物事を選別して、
あなたの好みのものだけを寄せ集めたにすぎない。
そのあなたの『趣味の寄せ集め』をあなたは個性などと呼んでいるだけだ。
では、その寄せ集めをした基準は何か?。それはあなたの好みだ。
だがその好みの原因は何かね?。それは単なる『環境からの初歩的な教育』だけだ。
あなたの個人のものでなどであるわけがない。
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日ごろは生命や人生を楽しむのだと言いつつ、
何かささいな事があるたびに「死ねば楽だ」と不平を言う者たちを見て来た。
このように人類など実に簡単に弱々しくなる。
そして、どういうわけか人間が、苦楽、あるいは退屈や虚無感などで失望し、
不満に苦悩する時には、ポジティブな思考などというものは、全く効力などない。
虚無感や死臭、退屈や倦怠というものは、すべて死の感覚に由来するからだ。
これらに対してだけは、あなたは絶対に
ポジティブな思い込みで復帰するのは不可能だ。
なぜならば、もしもポジティブという言語の意味が『肯定的』であるならば、
あなたは死に対して理屈をつけるにせよ、なんにせよ、
とにかく死を受け入れなければならないからだ。
口先で死を肯定するのと実際に受け入れるのは全く別のことだ。
こうして死にポジティブになったとしたら、
あなたはとにかく精神や肉体が死ぬことを許すことになる。
ポジティブとはそういう意味のはずだからだ。
それが「次の新しい生命へのプロセスだ」などと
馬鹿な理屈を言うあなたたちに私は言うだろう。
『ならば、そのポジティブなプロセスをなぜ怖がるのかね?・・ならば
退屈も倦怠も、不毛も、死も、息苦しいような無気力、解らないこと、知らないこと、
無感覚で、なにもない、永遠に続くかのような、虚無や闇や、なすべきこともない、
見るものもない、なにもない、全くの無の中に、なぜ落ち着いていられないのかね?。
死とは、まさにそういうものだからだ。』
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生活形態が素朴でも、たとえば、ラマ教のチベットの国を見るがいい。
人々は、外見は素朴でも、その内面は、貪欲極まりない。
それは近代化した娯楽や刺激への貪欲さではないというだけで、
彼らは来世、極楽に貪欲なのだ。
かくして、各種の祈祷や祭りが行われる。
こうしたものは、チベットに限らず、イスラム、キリスト、ユダヤ
そして仏教も禅もすベて狂気である。
これらはすべて不安と不満への恐怖を利用した、心理的商売にすぎない。
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世間というものは努力に、さらに努力と気力と希望を積み重ねれば
安定した幻想を維持できる、などということが当たり前のこととされている。
つまり『一生かけて、夢を果す』のが、世間の人生論だ。
だが、結局こんなものが世間の人生観、そして地球の全人類の持つ、
もっとも一般的な世俗の哲学なのである。
あとは、その欲望がエスカレートするかしないかだけのことで、
基本的には、夢、幻想の実現と達成というのが、
人間の半生のすべてであることになんら変わりはない。
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多くの人達が質問や疑問をカウンセラーに持ち込む。
ことに占い師やチャネラーに持ち込まれる質問の低俗さたるや、
聞いているだけで『いかに人類が生存に値しない生物であるか』を痛感するほどだ。
そして、彼らによって持ち込まれる質問は何もかもが、
「どうしたらいいのでしょうか?」だ。
しかも、それらはすべてが「個別の問題」についてのものだ。
つまり、主役の自分がどう変容したらいいのかではなく、
目先の問題をどう『かわしたらいいのか』処理したらいいのかという質問ばかりだ。
こういった質問の回答に喜んで答えるいわゆる直感師のところへ行ったり、
あるいはあなたがそうしたことをすることに気をつけなさい。
これらは、ことごとくあなたが道(TAO)から踏み外すきっかけになる。
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『いっそ、自然とか運命にまかせる』この言葉を、あなたたちが物事に判断しかねて、
この哲学的な追及を『ほっぽり出す口実』にするのを私は見て来た。
都合が悪くなり、思案に暮れてあなたたちは始めて「運命にまかせよう」などと言う。
それまでは、何から何まで、運命を自分で『やりくり』しているつもりになり、他人の
運命に干渉し、あげくに他人の運命を占うなどということをやらかしている。
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よく世間には意見を求めているのではなく『同意を求める』ようなタイプの者がいる。
これらの者たちには、共通する言葉づかいがある。
語尾に「ね」と「な」と「だろ」が、連発されるのであった。
「・・ナ!」「・・!」「・だろ?」これらは同意を求める言語である。
同意を強要または期待することから生まれる強調である。
だが、こういうタイプの人達を試してごらんなさい。
つまり、何か言ったら訳もなく「首を横にふってみる」のだ。
彼らは途端に不機嫌になる。
彼らは意見というものを受け取るような知性はなく、
ただ「そうだ」と言って欲しいだけである。こういうタイプを相手にするなかれ。
したがって、あなたたちは、ほとんど誰も相手にする必要はない。
世間はこういう猿の群れなのだから。
私はよく、たずねて来る人に向かってこういう。
『あんたが私の言葉を理解出来るのは、あと30年かかるよ』
あるいは『あんた、ほんとに馬鹿だね』などと私はなんの根拠もなく言う。
私が本当に着目するのは、そう言われた時の彼らの「反応」だ。
その反応パターンによって、私はその者を振り分けていた。
私を訪れる者のほとんどは好奇心ではなく、
私から馬鹿だと言われた瞬間に、反射的に
「なんだと?。そんなことはない。第一お前は私より20も年下の小僧だ。
世間や人生のことなど私の方が知っている」という思考が発生し、
彼らはそれに取り付かれ、
つまるところその後どうなるかと言えば、意見を求めるのではなく
彼らは「自分はいかに馬鹿ではないかの、言い訳、主張を始める」のだ。
だから、そういうタイプの人達には、こう言ったものだ。
『そんなに知っているなら、何も私を訪ねてくる必要もなかろう。
私より20年老いているなら、私より20年、早く死ぬということだ。
帰って成仏なさい。』こんなわけで、
世の中には、意見でなく、同意を強要する者ばかりだ。
最初から聞く耳も持たないくせに、ただ体裁上、
他人に意見を求める「振り」をする者を相手にしてはならない。
そういうタイプの人達が私を訪ねてくると私は、途中でこう言ったものだ。
『拍手しましょうか?。それともあなたの頭をナデナデしましょうか?。』
というのも、彼らは意見を交換するのではなく、ただ同意してもらいたいという
子供っぽい動機だけでおしゃべりをするからだ。
だから、私はそんな、おしゃべりをとっとと打ち切るためにこう言う。
『最初から拍手して、あたまナデナデしましょう。
そうすりゃ、あなたの最初から望んでいる結果がさっさと成就するから、
無駄話も必要ない。』
*********
不幸な事に、この惑星の子供猿は、親から強制的に「うなずく」
あるいは「返事をする」ことを強要されて育つ。
子供も数日もしないうちに、聞いていようがいまいが、解ろうが解るまいが、
とにかく、首を縦にふってりゃ、
うっとおしい馬鹿な親の説教が早く終わるということを覚えて、
とにかく首を縦に振ることを覚える。
こうしてこの動作は理解を表明するためではなく、
さっさとくだらない会話が終わるのを助ける動作として子供は覚える。
かくして、この「首振り運動」は、いい年こいた大人になっても続き、
さらに老いて死ぬまで続く。
社会的な体裁と挨拶と偽善の動作としてのこの習慣は
日常当たり前のものとなった。
*********
充分に、ただ落ち着くことが瞑想の本質だ。
禅寺などにいけば、落ち着けたものじゃない。
あなたたちの座禅やワークやセラピーだって、結局は「このままでは私の内面生活は、
いけない」という、お客様の罪悪感をカモにして商売をしているのだよ。
あなたたちは、その社会にうまく適応できなかったから、若いころから
精神世界などに足を踏みいれたはずだ。違うかね?。誰か反論出来るかね?。
たとえば、充分に一般的な生活を楽しんだから次の新しい世界を探して
精神世界に入ったなどと、私のような事を言う者がいたとしても、
その私もまた満足できる社会的な枠を出てしまった、という意味において、
社会不適応者なのである。
通常の満足に飽き足らず、私は貪欲だったのだ。
どういう経過であるにせよ、常識社会の最低のモラルに適応できなかったか、
あるいは常識社会に適応して、さらに不満だったか、
そのどちらかによって、人は精神世界に入る。
もしもそうでなければあなたは常識的な社会人として
今も繁華街でナンパでもしていたはずだ。
あるいは老いて将棋友達でも作って遊ぶか、
おばぁーちゃんになって、孫と遊んでいるかだ。
しかしそういう枠に適応できなくて、寺やインドへ行ったりしているのだよ。
*********
さて、非常に基本的な事を覚えておくとよい。
社会は、ひとりの人間のレベルにおける幸福というものを
決して許していないという事実を、しっかりと覚えておきなさい。
社会は、人類が幸福を求めているという嘘のもとに生きているのだ。
その理由は、至って簡単だ。
ある一人の個人というものが、本当に幸福になったとき、
彼には利害関係も心理的脅迫もイデオロギーの洗脳も成立しないために、
いわば、彼は『商売』の成立しない人物になってしまう。
だが、この社会は、情報にせよ、物資にせよ、愛情にせよ、すべて商売
すなわち、心理的取引で成立している。
その点では、いわゆる精神世界なぞは、不安産業以外の何ものでもない。
だから、人々が本当に幸福を得たらば、
それによって膨大な被害を被る場所があることを、死ぬまで覚えておくがいい。
すなわちそれは、社会システム、経済そのものだ。
経済も商売も、なんと『人間の不幸なしに成立しない』のだ。
だとしたら、幸福は、それ自体が社会的罪悪なのだ。これはなんという愚かさだろうか。
あらゆる企業は、多かれ少なかれ、幸福あるいは幸福に貢献すると称する商品を
売り物にしているであろう。違うかな??。
だが、企業の本音としては絶対にそれは達成されてはならないのだ。
幸福が達成されたら、企業は倒産するからだ。
*********
実は、人々というものは、他人や導師から戒律や規制を与えられる事を好むものだ。
自由が欲しいと口ではいいながら、本当は自由というものを人々は恐れている。
むしろ、他人、あるいは神から、規制やマントラや呼吸法や作法や戒律や、
命令を加えられたほうが人類というものは安心できるのだ。
その最大の理由は、もしも最後にすべてが間違っていた時には、
人々はその『他人のせい』に出来るという逃げ道があるからである。
そして、さらに、自分では生き方について考えなくてすむという安易さがある。
さらには、人々は、独自の内面的な指針を打ち立てるにはあまりに不安で、
確信がないために、結局は、自由ではなく、規制や他人の意見や
グルに賛同することで自分を精神的に安心できる位置につけようとするものだ。
*********
残念なことに『精神世間せいしんせけん』というカテゴリーの本は、
そのほとんどが『毒にも薬にもならないもの』だらけだ。
まだしも、せめて、人類に毒になるならば、そこには苦悩という道がある。
だが、現在はそれすらもない。
ただの安全な退屈な言葉の羅列、ただのマニュアル、ただの詩、ただのエッセイ、
あるいは、くだらない灰やガラクタを空中から出現させて信者を寄せ集めるごとき
幼稚な芸とその信者たちの本。
そしてただの宇宙的に脚色されたチャネラーの宗教的ホラと
御利益目的の信仰まがいの本ばかりだ。
*********
誰も人の話など聞いていない。聞いていると思いこんでいるだけで、
何度も言ったが彼らは自分の意見、イメージ、記憶と言葉を照合しているだけだ。
*********
私が平凡と言うのは、それは「みんなと同じような」という意味じゃない。
いわば、誰よりもそれ以下があり得ない、最低の状態、無力さだ。
それゆえのエゴの不在と静寂を私は平凡と言っている。
なぜならば、力の中には必ずエゴがあるからだ。
力とはこの場合、物理的な腕力のことじゃないし、権力のことじゃない。
たとえば、あなたが女性であっても、知識は知識力であり、
瞑想もまた瞑想力になってしまう。
また心霊的な力、感性、そしていわゆる創造力という、
私に言わせれば最も汚れた力も力だ。
そしてあなたたちは愛の力=愛力も口にするだろう。
だが、どんな種類であれ、力を誇示したり、力の量的な比較をそこに持ち込めば、
かならず衝突し、それは小さな戦争=口論になる。
事実、二人の女性(育ての親と生みの親)が子供の所有権をめぐって、
裁判所でやりかわす口論は何かね?。
どっちが、育てるに値する経済力、そして愛力、
そして法律的な権利という力があるかの愚かな論争だ。
皮肉たっぷりに言わせていただくが、
そんなふうに『何からでも戦争を引き起こすことが可能』と言う意味において、
あなたたち人類は非常に『創造的』だ。
*********
娯楽、学習、科学、芸術、宗教、これらがただの一度も人間を幸福にしたことなどない。
それらは社会的な生活のために『合理化』をなしとげたのみである。
安定した生活は確保できた。だが、それ以上の何も我々に与えてはくれなかった。
否、、それどころか、とんでもないものを我々に与えた。
それは、止まることのない「飢え」だ。
知性、感情、エゴ、肉体的な過剰な刺激への飢えをエスカレートさせた。
一本の花をまじめくさって生ける。衣服のデザインをする。
動物が作り出しもしない雑音=音楽を作る。型にはまったダンスをやる。
そしてしかもそれを他人に有料で見せる。
四角い壁に色を塗ったくる絵画。しかも、これまた有料で売る。
こんなもののどこが我々を豊かにするというのだね?。
地球には無数の工芸や芸術がある。中には生活の必要性が発展した工芸品もある。
だが、いつもそれらは『機能性』を逸脱して『芸術とやら』に発達する。
*********
TAOイズムや仏教の土壌としての基盤の大地は「苦」にある。
ところが、サイババや、いわゆる宗教は、苦の問題をほっぽらかしたまま、
平均的人生、あるいは、せいぜい「平均的不幸」の上に理想の道だけ安易に作る。
そんな簡単に幸せになられては困るし、またそういう幸せは長続きしない。
そんな程度の心境は、人生のいろいろな局面で、いともあっけなく
また怒りや不安に変色してしまう程度の至福でしかなくなるからだ。
現代のほとんどの禅、そして宗教やサイババ芸の説法は、
ろくな傷も付けずに猿にバナナの「おやつ」を与える。
ある時は貴金属、ある時には奇跡の治療そしてある時はヴィパサナや坐禅だ。
さらに言えば、門下を追い込まない寺などは論外だ。そしてその理由は至って単純だ。
『肥大した苦悩』だけが、成熟した悟りの種子になり得るからだ。
たいしたことのない苦は、それが軽減されたとしても、別の苦には抵抗力がない。
*********
『人間は平和が好きなのではなく、戦争が大好きな生き物なのである。』
そもそも人類の『心理的娯楽』というものは
殺戮や破壊や戦争の上に成立しているのである。
なんであれ、『敵を設定し、それを滅ぼそうとする行為』は
すべて戦争であり、殺戮である。
それが物質的であれ心理的であれ、まったくその『枠組み』と
『システム』は同じだからだ。
誰だって、環境を整え手段を与え、法律規制をとっぱらえば、
明日にでも殺人者になれるという事実を直視したほうがよかろうと思われる。
人類には、そもそも平和などと言う資格もなく反戦の資格もないというのが
私の私見である。
人類が戦争が根っから好きな生き物であるならば、
いくら口では平和などと言っても、
いつでも何らかの形で作らなくてもよい『敵』を作り出し、
それと戦うことを好むのである。
戦闘アニメなどはその為に無理やり次から次に敵を作り出しているわけであり、
むろんNHKの時代劇とて例外ではない。
この世界には平和などあり得ず、また我々は平和が好きなのではなく、
人間はいつでも「誰か」を敵にすることによって
戦争をすることが好きな生物と断定せねばならない。
家庭内の口論も戦争と同じであり裁判も戦争であり、
企業も売上の為の戦争であり、アニメも戦争であり、
テレビゲームも戦争であり、教育も戦争である。
そればかりかスポーツも、そこに勝敗があるかぎり戦争である。
これだけ戦争を生み出しておいて、
人間は平和などを言う資格がどこにあるだろうか?。
*********
人々は、物音に吹っ飛び、テレビ番組に吹っ飛び、恋人や家族に吹っ飛び、
見栄を張ったり、他人から、くだらない馬鹿なやつと言われれば、
自分がそうじゃないぞと言うための「証拠」を求めて
言い訳を見付けに自分の過去の業績へと吹っ飛び、
あるいは相手の馬鹿の証明をしようと記憶を探しに行く。
そして精神世界に吹っ飛び、なんと内面の旅へまで吹っ飛ぶ。
最後には宇宙のエーリアンや宇宙の存在理由の探求にまで吹っ飛ぶ。
そしてただ、そうしてさんざん『自分を吹っ飛ばして』おいてから、
「自分が見付かりません」だの、「人生の道に迷った」などと言うのだ。
*********
あたかも平和的であるかのように、偽善的に振る舞う人達は常に次のようになるものだ。
彼らには、平和でないような『逆のものが必要以上に彼らの目につく』ようになる。
だから、普通なら全くこだわらなくてもいいような全くつまらない物事に激怒したり、
いちいち神経質に気になり、やがては「お前は平和的でない」などと他人に言い始めて、
大きなお世話の、なんくせまで付け始める。わかるであろう。
こういうタイプの人間はあなたの周囲にも必ずいるはずだ。
もしかしたらあなたそのものがそうした人間の一人ではあるまいか?。
もう彼らは必要以上に囚われて「とり付かれている」のだ。
だからこういう人達はあちこちでトラブルメーカーになる。
愛や平和にこだわる人達は必ず『そうでない状況』に取り囲まれる。
*********
何故人類が平和を口先で口走りながら、
1万年以上もそれが未だ達成されないかについての、
いわば「不幸を科学する」ことにEOイズムは重点がおかれる。
平和、愛、悟り、慈悲なんぞを語る以前に
我々は憎しみ、苦、不幸、争いの本当の原因を
嫌でも直視して検証すべきだった。
そしてそれをやったのが釈尊だった。
ところが、本当にこうした苦の科学を行うと、嫌でも我々の日常生活で「当たり前」の
前提や習慣を別の視点から激しくそしり、構造的に解析し、結論が絶望的であっても、
それこそ言われねばならない事実であり、そこから佛道が始まるべきだった。
たとえ人間以外の次元に生まれても、「食」の構造、「飢えの構造」は
次元が違っても存在するという視点にEOイズムは立つ。
従って、超人になったところで、何ひとつ苦は根本解決されないわけである。
「理想を語る遥か以前に、現実の愚かさを科学せよ」。これがEOイズムの根源である。
そしてそこに絶望的な苦があるからこそ、悟り=見性の出番が存在したのだった。
*********
相手や、自分に、かくあるべき人間像や、かくあるべき状態を投影して、
勝手にあなたが苦しむこと・・・
これ以上の、こっけいな馬鹿がどこにいるだろうか。
@他人や自分を、どうにかしようという方向性、
A他人や自分に、かくあるべき状態を強要する姿勢、
これらが、他人に対する怒りと嫌悪の原因のほとんどである。
これらが、実際のあなたの生活の行動内で他人に阻害されたり、または、
あなたが馬鹿な相手を観察することで、あなたの内面に
『人間はこんなはずじゃない』とか、
『少なくとも自分はこんなはずじゃない』という葛藤がおきて、
あなたは怒りを生むのである。
理想や、かくあるべき状態、という思考こそが問題の根である。
クリシュナムルティーが、生涯言い続けた、本質の問題が、ここにこそある。
*********
あなたが何かを「くだらない」と感じても、
それは彼らが客観的にくだらないと証明されたのではなく、単に、
『あなたが、彼らに同意しかねる』、
『好みとして、賛同出来ない』という事にすぎないと覚えておくことである。
*********
『TAOの神聖さ』からくる合掌の、一方的な立場に言わせれば、
人間たちが、自分たちの『家内安全』とか、なにやらの自我の都合で
『頼み事』で合掌したり、『祈る』のに合掌したり、『詫びたり』して合掌したり、
自分が『助かったり、有り難かったから』合掌する、というのは、
たぶん、そんな事を見ているのが、もしも「本物の佛たち」だったら、
喜ぶどころか、さぞかし、嫌がるだろうというわけである。
仏法とは、何も、人間に『頼まれ事』をされる為にあるわけではない。
本来は、その人間本人が、「法になるため」に仏法があるのだからだ。
信仰上の形式的な行事として、神棚であろうが、仏前であろうが、
合掌したければ、別に合掌すればいい。
ただし、もしもそういう事を「やめたら何か悪いことがあるかも」などという
強迫観念にどこかでなっていたら、あなたはもう人間として、おしまいである。
そういう場合には、『仏法の大原則を』思い出すことだ。
佛々も神々も、感謝したり拝まないからといって、
人間を恨んだり、脅迫するほど『滑稽』な存在ではあるまい。
もしも、それでも、あなたに罰でも当たったら、
『そんな尻(ケツ)の穴の小さい神様や佛などは、うちにはいりません』、
と言い返してやればいい。