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闇のタオイズム(四章)




    EOイズムにおけるワークの定義


*********
危険な状況でも人は悟り得るだろうが危険な状況よりも
全くの死のような静寂がブッダたちを生み出した事実を踏まえておくことである。
静寂こそがその土壌だ。

*********
もしも、根本苦、すなわち『絶対安心などはない』という絶望をしっかりと見極めれば、
絶望そのものが苦を消滅させる。
なぜならば苦とは、そのほとんどが欲望と希望の産物だからである。
あなたの苦が、あなたを圧しつぶしてしまうほどに、
捨てざるを得ないほどに拡大した時、苦はおのずから消え去る可能性がある。

*********
あなたのワークが本当に切実であるかどうかは、
そこに『あなたのすべて』がかかっているかどうかである。
あなたの好奇心や趣味的な心だけがかかわっていたり
坐禅の上達やその評価を楽しむというゲームのような感覚であっては、
それでは全面的にあなたがかかっていることにはならない。
あなたのすべてをかけた、根本疑問、すべての望みをかけた修行、
すべての欲望をかけた達成欲、すべての力、知力、好奇心、価値観と
あなたの生の意味を投入した道をもちなさい。
そして、そうした道の途上で、ばったりとそれが『完全に倒れて』、
挫折し、無意味になり、嘘いつわりなく、『何もかも失った時に』、
運がよければ、あなたは大悟と共にいる。
私は、あなたが大悟を「得る」とは断じていわない。
悟りの方は『ずっとそこにあった』のだから。

*********
釈迦と平均的な人間の絶大な相違は、
その苦から解放される可能性がまったくない苦にとりつかれるということだ。
24時間が嫌悪、否定、拒絶、疑問、不安と化す。

恵可はダルマに『不安でたまらない。この不安をどうにかして下さい』と言った。
彼は『悟りたい』などとは言っていない。
彼には自分に現在あるもので足りずに、さらに何かを求める余裕などない。
逆に、彼はさらに何か得るのではなくもう、自分にうんざりしていて
『捨てたかった』のだ。こうでなければ、変容というものは起き得ない。

だから、もしもワークあるいは覚醒ワークというコースがあるとしたら
それは努力がどれだけ不要だったかを痛感するまで苦しむ
『地獄』のようなワークであるべきである。

*********
何故そこで自分が座っているのか?
これに対する本当の答えは『死ぬ練習をしています』以外にないのだ。

*********
なぜ全国百あまりもある禅寺に、悟りを開いた者がほとんどいないのか、
よーく、分かったよ。実は悟りはまだ必要とされていないのだ。
誰もそれが必要になるまで、せっぱつまっていないのだ。

*********
私は、こう言わざるを得ない。
あなたが『自分はそんな祖師たちみたいに徹底して苦悩したり、
そんなに悩むところまでいけない』と言い続けるならば私も言おう。
『それでは、誰一人として、祖師たちの故郷へは帰れまい。』
そんなにも悩めないほど気楽な生活をしているのだったら、
道の苦悩のための努力すらも出来ない怠惰な自分に自虐的になるがいい。
だから、私はいつも言う。
「徹底的な不幸に出会えない者が、最も不幸な者だ。」

*********
真の探求とは、無人の砂漠で、世界とサシで向き合ったときにのみ生まれるものである。
それは、『あなた一人 対 宇宙』の勝負なのである。

*********
どうしてあなたの瞑想が進まないのか、という理由を私が洞察すれば、
多くの場合は、あなたの肉体のせいでもなく、やれ体質がどうのこうのではなく、
結局はあなたには『本気の探求心がない』というだけのことだ。
そして自分で苦しむほどの頭脳や感性に乏しいということである。
誰もあなたを助けたりしない。

*********
悔恨無きまでに生きられたひとつの経験は、その後に、
それに過剰に囚われることがない。
決して無視をするのでもないが、それを、
「未経験の状態で、憶測しつつ囚われている」という
以前の重さはそこにはもうない。
十分に経験されたものは、常に心理的に負担にはならない。
曖昧な好奇心と憶測はもう存在しないからである。
ただし、単に経験したというだけのものでは、悔恨を残す。
だから問題は、経験の対象や回数ではなく、自分本人が、
本心から、『もういいと、満足するまで』やったかどうかである。

和尚が「生きろ」と言うのは、それが瞑想の終着点を意味するのではなく、
死に意識的に向かうには、無心が必要となり、
そのためにはまず十全なまでに、満足するまで生きることが必要だからである。
一方で、和尚やEOが、『まずは死ぬのが先で生きるのは後である』と言う場合は、
それは瞑想の『本質そのもの』を指して言っている。
つまり、我々が、『まず生きろ』という場合には、
『瞑想の前段階の準備』の事を言っている。
こんなふうに、全く順序の違うことを言われて、
「では、どっちから、やったらいいのか?」と人が言うなら、
まず生きて、そしてまず死んで、そのあとは・・・、
《生きるとか死ぬではない次元》が待っているということである。
むろん、この死は肉体があるうちに体験しなければまったく意味がない。

*********
本来は、社会適応のためではなく、ある意味で、この世からの逸脱への橋だった法が、
なんと、現代では、その手法の一部は、セラピーにまで天下りし、
リラックス商売として取引されている。
もともと、それらは『この世を去る為、あるいは道を極めるため』のものであったのに、
一般社会に『製品』として顔を出したのだ。
その一般化自体は、「情報流通」という現象としては決して悪くはないが、
問題は、その本質に対する、『決定的な誤解』がそこで生まれたことだ。
その誤解とは『社会で、立派に生きるため』『地球を守るため』
『近未来の危機超越の為の神様のお祭り騒ぎ』の手段としての
『精神製品』に法が成り下がった事だった。
むろん、法そのものが原因ではなく人の手によってそうなったのである。
しかし、法は、もともと絶対の『個』の真理探求の道であり、
その道は険しく、厳しく、困難であり、道はそうあらざるを得ないし、
それが最後に咲かせる花の見事な美しさもそこにこそあったのだ。

そういうわけで、「グルのカタログ」や禅話を手軽に読んでは
「悟りたい」だのと口先で言う者は、20代の若者も含めて、
掃いて捨てるほど存在する。
しかし、その多くは、決して本気ではあるまい。命懸けではあるまい。
現代は、どこへでも簡単に逃げられるし、どこへでも戻れるからだ。
そういう現代に、過去の「禅のお話」などは役にたたないし、
過去のその僧侶たちの苦しみや心境など実感など出来るわけもない。
せいぜい美化された、『心の絵本』という製品になるだけである。
では、現代ではどうしたらいいのか?・・・・・。どうしようもない。
せいぜい、出来ることは、『新しい地獄の創設』だけである。

本当に知性がある者、というよりも、本当に知を『求める者』がいるならば、
EOイズムは役に立つが、知的真理を求めるのが全身全霊的でないのなら、
それは情報か、せいぜい、軽いショックや、軽い納得で終わり、
あなたは、その翌日には、また昨日と全く同じ生活と同じ精神状態を、
だらだらと繰り返すのみである。

*********
問題は、人は、どんな環境にいようが、どんな導師がいようが、
本人が、何か「差し迫ったもの」がなければ、どうにもならないという原則である。
これだけは、誰も反論も「文句」も言えず、「すねる」ような問題ではないのだ。

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「差し迫った事に見舞われる機会」というもの自体が、あなたの人生の中で、
決して多発するものではないが、もともと、師家や導師とは、
待っていても自然現象では、弟子にやってこない、そうした危機を
「人工的に」わざわざ作り出すものなのだ。

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悟りとは発病しないと形成されない『抗体』だと
『反逆の宇宙』の著作の中で私は断言をした。
それは実に、的を得た表現である。つまり「抗体」だ。
無病なら抗体は形成されないものである。
これは、事実なのであるから、私が何度も何度も繰り返し言うように、
「事実」というものは、人間に『気に入られる論理』ではあり得ない。

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思考と自己の同一化が外れるのが大悟あるいは苦の消滅の道だ、などと言ってみても、
その同一化している思考そのものに、
あなたの自分の「全部が、そこにかかっている」必要がある。
それがなくなったら、もう終わりだというものがかかっている必要がある。
部分的な、自己同一化だったら、別の同一化の部品があなたの中で生き延びるからだ。

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残念ながら、思考とであれ、感覚とであれ、私のように、
生死の混乱の思考との同一化であれ、とにかく、その自己同一化が
完全な同一化である必要がありそうだ。
つまり、大悟には『心中する相手』が必要なのだ。
全思考、観念が、そこに結集するような『核』が必要になる。
『ゴミはまとめて捨てろ』、とEOはよく言ってきたその、
苦を一点に凝縮する集中力が必要なのである。

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もしもこの全世界に、あなたが、ただ独りだけいて、他者は誰もいなくて、
衣食住もあり、まったく問題が何ひとつない状態。・・・それでも、なお、
そこにある苦を見極めてみれば、苦の実体は明らかになる。
これが、本当の精神探求の『入り口』である。

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悟りというものは、知と欲望を減らし続けたところにある。
ところが苦もまた、苦を減らし続けたところで、初めて苦が、
その「本体の核」を現す
のである。

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『真っ暗な、見るものも何ひとつもない監獄に、ほぼ永久に幽閉された世界』
それこそが、EOの苦の原点だったのだ。

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開悟への橋となるような方便は、極めて限られてくる。
端的に言えば、それは、あなたの知ろうとする働き、
つまり何かを対象化しようとする働きが、一瞬でも、数秒でもいいから、
完全に『停止・静止』する事にある。

そこでは、知が不可能になる方法か、あるいは知が無意味になる方法か、
そういう方便だけが残る。
何も分からなくなってしまうか、
もしくは、何も分かろうとしなくなってしまうか、のどちらかである。







           絶望という神秘の扉

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死に切るのが、たったひとつの安心であるという境地にあなたが本当に落ちるためには、
少なくとも、あなたは、絶望的な無力感を通過しなければならないようだ。
どんな禅の知恵も力尽きてこそ、脱落する。
この脱落の真意が、どうも私とあなたでは異なるようだ。
私の言う脱落は『2度と上がれない脱落』を意味する。
あなたたちの脱落は、何度でも座禅で落ちる、遊園地の乗物のように聞こえる。
だが脱落は、ただ一度だけだ。それがあなたの全面的な死だ。
それは、あなたの自我の死だ。

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感受性が非常に繊細で、本当に知恵のある人々だけが絶望をする。
本当に知性があったら男であれ、女であれ、絶対にこの世界の矛盾に気がつく。
だから絶望するにはとても才能と知恵が必要だと言える。
本当に物事を直視して思考すれば絶望するはずだ。
また、本当の探求者は決して満足しない。だから彼らはみんな同じ所へ行く。
とうとう駄目になるのだ。八方がふさがる。

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もはや、マスターなど西暦2000年以後には必要ない。
『生き地獄』があなたのマスターになるからだ。
完全な狂乱。暗黒。完璧な無目的、完全な無意味。
全くの価値喪失だけだ。それはほんとうにギリギリのものだ。
いわば、それは死よりも危ないとすら言える。
ここは終焉のない狂気の惑星となりかねないからだ。

*********
ブッダたちの方便、語る事はあなたたちの「価値観」の娯楽の一部に組み込まれないし、
組み込んではならない、と言い続けてきた。それらは心理的な娯楽じゃない。
それらはむしろ『最終治療』に近い。
私はブッダフッド(仏性)に「ついて」の何かが一般化しないとは言っていない。
「ブッダフッドについて」の賛否、論議、瞑想家や雲水の量産ならば、
そんな事は3000年も続いている。
私は「それについて」ではなく『そのもの』が一般的に顕在化する可能性は、
殆ど希だと言っているだけだ。
なぜならば、二度と自分の思考になど振り向く事がなくなるほどに、
思考というものに絶対的に苦悩し、全面的に打撃を受けて、それを放棄するという
地獄の通過を出来る者が、あまりにも少ないからだ。

*********
1/生の全部に、一点の例外もなく絶望し
  何ものも、その不満を絶対に満たせない状況の長期化。
2/そして、間違いなく、その時は死だけが、最後の救済なのだが、
  それすら、かなわぬ窮地に、宙づりにされること。
この場合には残る道は3つだけだ。
1/自殺の強行 2/発狂 3/大悟

*********
悟りとは、弱く、ギリギリの雑草のような生だ。
どんな価値観も、どんな宗教も、どんな禅も、決してそれを大袈裟にはできない。
あまりのシンプルさの極限、、『ただ在る』だけの一生・・・。
一体、誰がこんなものを求めているのだろう??。
否、これは、断じて、『自分の満足のために』何かを求める者が手にするものではない。
そうではなく、これは『もう、それだけが必要な人』が手にするのである。

*********
思考が発狂に入りかけ、何を思考しようが、何を見ようが、何をどうやっても、
徹底的な悲惨と苦痛と嫌悪と絶望しかなく、
一切何によっても救済不可能な生の全面否定の中にあって、
なぜ思考が維持できる?。
思考が全面的に自殺を考える時には、もうなにもない。
誰が、そんなときに思考にしがみつくかね?。
誰が自分を苦しめるそんな思考や宇宙に何かを期待するかね?。
そんな時は、全部まとめてただ捨てるだけだ。
ただ、彼は『その瞬間』がやってくるまで、
宇宙を捨てていたがまだ思考そのものを捨てていなかったのである。
だがその瞬間がやってきたとき、
彼はそれを『思考している自分本人』を捨てたのだよ。

*********
これは覚えておくべき原則だ。『希望のないところに絶望は存在できない。』
あなたが絶望するとしたら、それは何かに希望を持とうとしているからだ。
だが、全面的な絶望のもとでは、何も存在出来ない。
本当に絶望する、ということは「望みが達成出来ないことに対して」、
悲惨になったり、悲しむことではない。
普通はその苦悩、苦しみを絶望と呼ぶ。だが、それは用語が間違っている。
世間の言う絶望とは単なる『裏切られた希望』の産物にすぎない。

私が言う絶望とは、『望みが根本から断たれること』だ。
もしもあなたが世間的な一切のことから、精神的な一切の事まで何も望まなかったら、
あなたはどうなる??。

全くの無知で、無欲で、ただ『いる』だけだ。
そのただいる状態が落ち着かなかったり、不安になるとしたら、
それはあなたが何かをまだ内心望んでいるという証拠だ。
それは悟りかもしれないし、あるいは楽しみかもしれない。
さらには、それは生きることそのものの苦悩を終わらせたいという
死の願望であるかもしれない。
だが、いずれにしても何であれ望みというのは静寂や無の中に住むことは、
絶対的に不可能だ。

*********
稀にだが、思考ではなく、無思考を必要としている者がいる。
その者は無思考を欲しがっているのではなく、無思考の水を『必要』としている。
その者だけが、たったひとり、無思考と愛と落ち着きを『好き』になれる者だ。

*********
多様性、広大さ、こういったものをただイメージする人達は決して黙らない。
沈黙しない。それどころか、永遠や広さについてあーだこーだと論議する。
だが、イメージしたのではなく、本当に『出会った』人達は沈黙してしまう。
実感したら、気が遠くなってしまうからだ。絶句だ。もはや、言うべきことはない。

*********
意識体は今後、意識体固有の立場から思考体に本当のワークを提示する。
生を全面否定させるという方法で。
生が全面否定されたとき、死もまた全面否定される。
何かが全面的であるとき、常に2元対立は存在出来ない。
生を全面肯定させようとしたラジニーシの試みは、
結局言葉は聞こえのいいものの、もしも全面肯定してしまったら、
そこには指針は何も存在出来ないことを弟子たちは考慮していない。
肯定という言葉を彼らは単に概念的に肯定してしまうだけだ。

*********
希望に満ちた人生は、絶望に満ちた人生よりもはるかに始末が悪い。
なぜならば、絶望は、本当の謙虚や愛を生むが、
希望は闘争と憎しみと傲慢しか生み出さないからだ。

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『自発的な絶望』から発生する、『生死・人生・万物』への『根本疑問』と、
さらに、その自殺寸前に至るような『ギリギリの苦悩』なしには、
それは公案とは呼べない。
本当の公案は、人生にただ一度のみである。

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現代は一億もの日本人は、すべてが基礎教育を受け、学問を仕込まれ、
他人を屈服させるような理屈を言うように教育され、競争し、戦うこと、
意義をもつこと、目的と計画と、実行力とその成果を評価されて育ち、
それを「善」として、徹底的にたたき込まれて育った。
どこかで人間社会から受けた教育もそして自分をも
『全面否定』しなければならない境遇に落ちないかぎり、
欲が落ちる可能性はないだろう。

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私が語るのは、ただ『黙らせる』ためだったにすぎない。
私がいろいろと指摘するのは、決して道を示すためではなく、
そうではなく道を『ふさぐ』ためなのである。
ふさげば、人は、どこにも逃げられまい。
完全に心の逃げ場がなくなったら、行く場所はひとつしかない。
それは、もともと、人が生まれた時にいたところだけだ。

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地球で悟ることが困難な理由は
『徹底的な打撃』というものに出会えるチャンスがないことだ。

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私は、あなたたちをもっと欲望や嫌悪や私へ対立するように走らせるつもりだ。
そうしなければ、あなたたちは、あなたたちが落ち込んでいる罠に気がつかない。
あなたは、どこかで、完全に『駄目』にならないかぎり、
決して光明を知ることは在り得ない。
そこでしか完全な生死を超えたものは起きないからだ。
私はあなたのエゴを愛してなどいないからだ。

*********
唯一、悟りにおける確実な法則は、全く救われようのない苦の呪縛の中に、
長期間にわたってあなたが悶え苦しむこと
である。
そして誰ひとりとして、それを助けないことである。
それによってしか未知なる意識の卵を「孵化」させる為の熱は得られないからだ。
だから、あらゆる修行や導師とは、単に、
その『絶望点』にまであなたを導く道路標識のようなものである。

*********








              無関心の効能

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実のところ、ブッダたちというのは、思考の中にいないばかりでなく、
感覚、肉体情報、あるいは肉体以外の霊的情報の中にもいない。
ブッダたちが今に生きていると言っても、
彼は「今ここが大切だ」などとすらも全く意識せずに、ただいるだけだ。
彼は全く無関心で、ただ『いる』のだ。
この『無関心』という言葉、これはまるで
あなたたちに消極的であるかのような印象を与えるだろう。
だが、それはあなたが不適切な形で教育をされたための、
ただの言葉上の誤解に過ぎない。

本質的に、その言葉の最も正確な意味において、
もしも、完全にあなたが、全く存在全部、生の全部に『無関心』になった時には、
あなたは死にも無関心になる。

何に無関心であるか、が問題なのではない。ただ、全部に無関心なだけだ。
あなたが、今までの固体性、個人においてもっていたような、あらゆる関心が落ちたら、
しばらくはあなたはまるで馬鹿そのもののように思うだろう。

だが、そこに一体『何がいる』のかに向かって入ってゆきなさい。
私は、何がそこにあるのか『見付けろ』とも、『理解しろ』とも言わない。
ただ、そこに残っているものと『共に在りなさい』とだけ言う。
そこが本当の『静寂点』だ。

*********
ブッダたちは非常に世間的には非常識な、そして何よりもまったく無意味で
不毛ではないか、とあなたたちが反論、非難するような方法を使えと言う。
なんとそれは完全なる『無視』だ。ただし、無視とは拒否の事ではない。
あなたの個人的な好みによって、特定の物だけから目を避けるとか
内面のイメージに向かう事で外界を無視するなどというのは、
そもそも外界を過剰に意識するからそういう事をするのであり、
それでは無視ではない。
無視とは、全面的な完全な無視だ。
しかしながら、無視というのは意志によっては不可能だ。それは意図的にはできない。
無視をしようとした瞬間にそれは無視ではなく、過剰に意識することになるからだ。
ちょうど無心というものが起きるのであって、
無心になろうとするのはすでに無心ではないというような
単純なトリックにひっかかることになる。
ではどうやったら我々は外界のリアリティーからの影響を軽減したり根絶できるのか?。
それは、まず肉体を通じてやってくる知覚が希薄になることだ。
次に思考が希薄になることだ。

肉体的にはあなたは、ほとんど寝ているか居眠りをしているかのようにくつろいでいて、
一方意識は、ただの一瞬も間をおかず、絶えず覚醒状態にある。
ただし、それはあなたの知覚が外界の物音や
特定の内面のイメージや感覚に没頭しているという事ではない。
あなたは、『ただの存在性と共にくつろぐ』のだ。

*********
絶望が完璧な『無関心』を実現するとき、やっと人は我家にいる。
清々する、とは気軽に誰でも言葉にするが、その本質的な意味は、
『絶望』または『無関心』なのである。何かに清々するためには、
次の条件が満たされることが必要になる。
1/その何かを徹底的に『飽きた』場合。
2/その対象に徹底的に『失望』させられた時。
3/その対象が二度と手に入らないものとして消えたとき。すなわち『諦めた』とき。
これらが満たされないと清々したといいながら、結局はまたどこかで気に掛かったまま、
ふっきれないものを残す。

*********
あなたの落ち着きというのは非常にポジティヴな意味での
『無関心』によって支えられている。
周りに、そしてあなたの内面という外面的な出来事に対しても
あなたが無関心になりきってしまえば
あなたは動いているものに無関心になるのだから、
どうしたって、『動かないもの』に到達してしまう。
それは、あなたそのものの存在性だ。

*********
グルジェフの言う絶え間ない自己想起などは必ず失敗する。
基本的に無関心で『在る』ことが鍵だ。
ただ、その状態が人間にもたらす光明や悟りについて、
あなたたちが関心をもってしまうから、私達は、
そのあなたを『無関心』にさせることで、まさにそれに到達させようとしている。
私の瞑想法の最も基本は、求めないことだ。
仮に最初は求める動機から開始しても、
何をどう求めようとしていたのかをあなたに忘却させる方法だ。
その『完全な忘却』の中で、あなたは『忘却不可能なもの』とひとつになるのだ。
それが大悟の瞬間だ。

*********
いわゆる一般に言う好奇心や関心のある状態というのは、
悟道から言えば、厄介な迷いかもしれない。
それは、意識が外へ、つんのめっているからだ。
私は、極端な事を言えば、悟りにも無関心だし、法の伝達にも無関心だし、
日常の雑事でも、無関心だ。
だからといって、それらの仕事をやらない、というのではなく、
無関心のままになされてゆくのである。

*********
人間は、落ち着いている時には実は『関心がない』のだ。
あなたは自分の部屋へ戻ると、そこにはいつも『見慣れたもの』がある。
だからあなたは外にいる時ほど周囲を見ない。つまり自分の部屋には無関心だ。
するとあなたはまずもってして、部屋では注意が『外へ向かない』。
慣れた場所が落ち着く原因の一つは
『緊張してまで観察する必要のある対象がそこにないからだ』。
そうするとあなたは落ち着く。

*********
悟りを探すぐらいならばボーッとした方がいい。
とことん馬鹿になって、知的にばかりでなく、注意も散漫なほどボーッとすれば、
むしろあなたは意図して注意しないが中心からの柔らかい
『円のような注意』が生まれる。それは直線のような注意力ではない。

*********
苦とは、実は「事件そのもの」の内容には全く関係がない
「こういうことが、不幸で、ああいうのは不幸でない」と、あなたたちは
いつも、「事件内容と不幸を同一視する癖がある」。
だが、本当の不幸の原因とは、あなたにとって
『現実が重み』を持って来た場合だけなのである。
だから、同じ事件に出会っても不幸の感覚は、
個人の主観によって、苦の密度は違う。
何かの現実感がきわだって、確たるものであるとき、
それこそが苦になるのである。
だから、もしも、(無関心によって)現実が確たる重さをもたないと、
起きている事件の内容にかかわらず、あなたは、不幸でないか、
もしくは幸福になってしまう
のだ。








         行法にまつわるコメント

  (※ただしここでは補足の説明のみで、行法そのものについては次章を参照)
           ・・・・・・・・・

ようするに7つないしは9つあるいは12のこれらのチャクラは
全部を通過しないかぎりは、どこかで『最後に足を取られる』ということだ。
私が提示した、脳の上部の中枢へのコンセントレーションの前に
あなたは自分の未浸透のチャクラにまつわる作業を片付けるべきだ。
これこそ、どんなワークよりも必要だ。
その後で初めてあなたは静寂や闇の中に突入すべきだ。
そうでなければ、あなたはどこかで精神の『死』に怖じけづいて、
戻ってしまうだろう。

*********
中途半端に生命のこの上下の振幅もさほどダイナミックでないような
ダラダラした生活を何年も続けるぐらいならば、
数カ月で肉体に負担がかかっても、一度はすべてが無形で無名で、
純粋存在性と虚無へと吸い込まれる、この上昇経路に没入した方が、
アートマンや真我の探求だけに関して言えば、無駄がない。
それに、もしもこれをやれば、あなたたちの通過の不十分な中枢が
必ずあなたの足を引っ張るだろう。
どれが、ひっかかって残っている自分の障害かの自覚にもなるものだ。
この中枢に重点をおいたのは、経験的なものがほぼ9割以上だ。

しかし、あえて論理的に言えば、肉体上に位置するいかなる他の中枢も
『二元性』に基づいて機能しており、したがって一元性をモットーとする覚醒、
ニルヴァーナのためにはそれらは不向きであり、
不向きどころか『完全に不可能だ』といってもよいだろう。

*********
サハスララチャクラの問題だが、この意識の二元性や対象化、
あるいは意識の動きがもしも停止したら
必然的にあなたの意識は内面においても
水平方向に対してチョロチョロ『動かなくなる』。
そうなったら、意識の行き場はひとつだ。それは『垂直の方向』だ。
そして、肉体があるかぎり、その上昇は一定の位置で止まる。
それがサハスラーラか、あるいはそれより数十センチ上空だ。
停止が完全なものに至ると、それは確実に21日もあれば、
肉体に止まれないで死ぬだろう。
だが、普通に生活している環境では、そこまで純化されることなく、
適度な雑事に囚われることで、ソフトに濃度が薄まるから、
もっと穏やかなサマーディになるだろう。

*********
瞑想中に闇のイメージも、頭上への集中も、陶酔感覚も、うまくいかないとしても、
故意に行うこれらの瞑想を離れて『普通にしている生活』の中で、
突然に瞑想中にはうまくいかなかったそれらが
自然に『起きる』ことが増えるに違いない。

*********
単に瞑想の時だけにサハスラーラに一時的に集中するのではなく
そこを意識のありか、ベースの座としてそこに住むとなると、問題が発生する。
もしこの7番目の中枢を作動させると、あなたたちは、他の6つの中枢で、
まだ心残り、すなわち『十分に生きなかった器官』があると、
まっさきにそこに『引き付けられる』という現象が起きる。
そういう点で、この私のメソッドは個人的な修行者や一般社会の人達たちにとっては
扱いやすく、一方、禅寺の雲水にとっては、かなり不向きなものとなる。
なぜならば、世間から隔離して、閉鎖された寺の中では、
他の6つの中枢を通過するための環境がないからだ。
一度寺を出て、もう一度人間が通過する6つの段階をやり尽くさなかったら
彼らは7番目の中枢が発達し始めた時点で、
各自がやり残した問題を一気に噴出することになる。
その時、寺では収集がつかない。
常に原則として『あたりまえの日常的な人間生活』をやり残した重荷は
結局それはあなたがサハスラーラに住み着くのを『最後に足を引っ張る』ことになる。
このようにサハスラーラへの意識の移動は加速的に『何を片付けるべきか』を
それぞれの個人に明らかにする。
そしてカタがつけばつくほど、あなたは長くその座にいられるようになる。

*********
このサハスラーラが決定的に他の6つとは異なる機能を持つことについて
記憶しておくとよい。
あなたたちは、他の6つのチャクラならば、生の為のなんらかの機能性を見い出せても、
ここ7番目には、生きるための属性、『生にまつわる機能』が
何ひとつないということを洞察してみるとよいだろう。
古来より歓喜や至福の座とは言われるものの、
しかし、それは生存欲の属性に所属していない。
他の中枢への集中は、あなたに生きるための何らかの力を刺激する。
ところが7番目は、ただあなたに静寂あるいはひとときの無思考をもたらす。
まったく、この中枢だけは生に属していないかのようだ。
というのも、事実この7番目は『死の為にある』からだ。
通常は『死ぬ時』にやっと機能する。そこが『肉体からの出口』だからだ。
他の中枢は生きるために絶えず動いている。だが、7番目は死ぬ準備がある。
だから他の中枢にあなたの意識の重心があるかぎりは、思考も感情も、
それらが生み出す迷いや不安、疑問、から抜け出すことは不可能に近い。
一方この7番目の座では、そもそもそれらが初めから存在しないがために、
無努力であなたは無思考を手にするだろう。

*********
あなたに必要な最低の努力はただ、そこへ上がるという意識の上昇だけだ。
一度上がったら、何のためにそうしているのかすら忘れてしまうはずだ。
瞑想の目的すら忘却してしまう。
だから7番目でなら、あなたは「くつろげる」。
悟りはその無知性の中で体験されるものだ。
悟りすらなんだか分からなくなるのである。
充分に発達したサハスラーラとなったとき、
あなたは、そもそも『ただ、いる』だけで充分だったことを痛感する。
そこには、いいも悪いもない。目的も希望も絶望も何もない。
何もなくただ『いる』あなたの『存在性』だけが『我家』だったことを知る。
だが、その前に『支払うべきもの』がある。
それは、あなたの心が、すなわち6番目の中枢が闇によって
自滅して死んでしまうことだ。

*********
私も数カ月この頭頂の中枢が変容し続けていた時期があり、
その時は、毎日まったく違う意識になり、一日になんども意識が変容し、
あがったり降りたりしながら、まるで不安定だった。
そして、呆然と仕事場で自失してしまうこともあったし、食事中に、あるいは歩行中に、
動作が全く止まったままになったりもした。
しかし、私はもう諦めていた。
それがもとでクビになるならそれもいいだろう、と割り切っていた。
すると奇妙なことに、決して仕事に差し支えるような場合には
自失状態にならなかったり、実にうまく仕事をこなしつつ、
その合間の無害な瞬間にだけ呆然自失がやってきた。
それはまったく予想ができなかった。しかしその流れを通過するには信頼しかないのだ。
「これでは困る」とか、そういう事を言う者など粉砕されて初めて
本当に7番目の中枢が生きる術を活用し始める。
途中で、いろいろな頭痛に近いことが起きるだろう。
割れるような痛みである場合もあるし、針で刺すような痛みのときもあるし
それも脳のあちこちに変化する。
たぶん、エネルギーが脳に負担にならないように、
それ自体の知恵によって調整しているのだと思われる。
しかし、最終的には、それは脳天にまとまった振動に終息するだろう。

ただし、それにどれくらいの時間や場数を踏む経験が必要なのかは分からない。
私においては、脳が安定するのに、大悟の日から約10ケ月が必要だった。
事実、茶碗を乗せるという方法が確実な方便として整ったのは
10ケ月経過した時だった。
この7番目の中枢は「不安定で分からないことによって、かえって逆に、
知らない、分からないことが、それでいいのだと、より安心する」という意識になる。
しかし、他の中枢で生じる「分からない」という感覚は、
胸の内部に不安を引き起こしたり、動揺したり、思考がどっと押し寄せたりして
「分からないことに抵抗」する動きがややある。

*********
頭頂はあなたの意識が不動でいられる唯一の中枢であり、
実際にはそれは脳にあるのでもないし、脳天にあるのでもなく、
脳から少しだけ『突起した空間』にある。
だから、それは肉体のあらゆる『活動と無縁な静寂点』なのである。

*********
まるで死体のように、座ること。だがそれは病的な死体ではない。
その中で、『やる』という事を根本的に落とすために
たったひとつだけ『やる』ことを私はあなたに指示している。
それが茶碗を脳天に乗せることだ。
その『結果に構わず』にとにかく乗せることだ。
そして、その結果にかまわずに、とにかく、脳天に留意することだ。
本当に心身が座禅の中で死ねる場所はそこしかない。

*********
毎朝、あなたは高速で思い出して再生して、
我々はその日を生きる『自分という幻想』の粘土をこねてから通勤へ出る。
だが、もしもこれらの記憶が再生されない場合、我々は毎朝呆然自失してしまい、
したがって、それは毎朝悟っているという事にも似ている。
だから、記憶喪失は悟りに「似ているがそれは、きっかり半分だけ似ている」
ということである。
悟りの場合には、さらには肉体の感覚からの過剰な神経信号の負担、依存、
愛着も軽減されるのである。
こうした理由から、朝の座禅、瞑想はたとえ15分でも不可欠である。
あなたの個性や記憶に損傷はないが、やがて、それらは
あなたがしがみつくような主張するような個性ではなく
全く過疎的などうでもいいものに変容してしまう。
朝よく注意すれば、目覚めた直後はあなたはまだ
自分が何者であるかの自己同一化を完了していないのである。
だからその時に死人禅瞑想をすると、
自我が形成を完了しないままにあなたは放置される。

目覚めた直後には肉体意識が優勢になろうとする作用がある。
これは生物としては当然の自然なことである。
目覚めたら肉体をしっかり感じ取ることで我々は生活を回復するのであるから。
だがこれまたこの『隙間に』瞑想が割り込むと、
肉体とのリンクが希薄になり意識が優勢になる。

*********
視線という生存のために何十年も緊張し続けてきたあなたの眼球からくつろがせなさい。
歩行のときに最もよい瞑想は、呼吸への留意でもなく、足の裏への留意でもない。
終始、努力も自覚もなく、あなたの視線が穏やかに、ゆっくりと漂い、また静かに止ま
っているとき、あなたはより、実存に近くなる。
大悟したものは、視線、眼球から真っ先に凝固したエネルギーが溶けてゆく。
それは、一種の馬鹿か狂人のような目付きになるものだ。
だから、古来より老師は弟子が何も言わなくても
目でその見解を認めることが出来るのである。
そして、その目付きは悟りの後には恒久的なものだ。
一時的な瞑想などで決してごまかすことは出来ない。

*********
私は瞑想者たちに文書でかかわるようになってから、極度に精神の乞食、精神の愚か者、
精神的な死人、精神的な無知、無力、底辺つまり最低を目指すように力点をおいて来た。
それは昇りつめるようなものじゃない。昇るという言い方の中にまさにエゴが入り込む。
昇るのはあなたの意識がサハスラーラに昇るだけでけっこうだ。それ以外は落ちなさい。
知性もなく洞察もなく、ただの人であることだ。
緊張して意識的であろうとなどしなくていい。そこには目的意識や達成欲がある。
それでは底辺を流れるあなたの仏性を見い出せない。

*********
悟りの中では、そこでは、なにも始まらず、何も終わらず、なにもなくただいる。
そしていなくなる。実にシンプルだ。
このシンプルさにあなたたちの思考は決して耐えることは出来ない。
それは思考が耐えられるしろものではない。
複雑さ、変化、意義を求める思考にとっては、このシンプルさは死ぬことそのものだ。
悟りの中で、最初にあなたが知ることは、実のところ、こうである。
『何も知る必要はなかった』。

*********
もしも見性と言うものに禅がこだわるならば、あらゆる思考や雑念のみならず、
ただの自分の、その『存在の自覚』や存在意識のそれらの『発生の前へ』と
心を静めて見極めてみればよかろう。
すべての思いのみならず、あらゆる知覚、自覚の発生の『前の前の前』へと・・・。
そこは絶句した無言の意識の停止点で行き止まりになっているからだ。

*********

1/苦とは何か?
 =存在そのものがまず苦である。
2/その存在で苦を軽減する方法は何か?
 =一にも二にも、落ち着くことである。
3/その落ち着きとは、いかなるものか?
 =『道』に言われる落ち着きとは、維持や確保によるものではない。
 また訓練によるものでもない。いかなる状況であれ、落ち着いているということである。
4/どうやってそれが実現されるか?
 =その方便、方法論は、その本性を、努力によって顕在化する作業では断じてなく、
 その自然な顕在化を妨げている要素の撤去作業である。
 したがってEOイズムにおける瞑想や座禅は獲得のためのものではなく
 減算に次ぐ減算によって『それ以上は何も引けない』という地点にあなたの本性の
 実現をなすようになっている。
5/その死人禅はどのような原理なのか? =
  1/肉体感覚の軽減
  2/思考情報の軽減
  3/肉体という個別性の軽減
  4/自我=「私の」 という意識の軽減
  したがって過剰な肉体感覚の軽減、どうでもいいような思考や連想を軽減し、そして
  個別性の感覚の核となる自我意識の軽減により苦は軽減されるということが、
  死人禅によって確立された論理のひとつである。


*********
あなたの注意が現在何に集中しているかという指向性そのものを、頭頂は監視している。
感じ取っているものに成り切っているとか、しっかり感じ取っているのではなく、
頭頂にはあなたの全体的な状態が映し出される。
移ろう意識、注意そのものの方向性をまた別の視点から監視している意識点がある。
これこそが『停止点』である。
だが、そこには、なんらの人格も、思考もなく、理念も価値観もない。

*********
『それ』は認識不可能だが、逆に、一切の認識を諦めてしまうことによって
認識や見性を完全放棄して自覚などを捨ててしまって、全く、ただそこに座って、
空白そのものと、ただ一緒に存在すればよい。
その時『それ』はあなたそのものとなって現れる。
『それ』は、「これか!」とあなたに、知られるのではない。
『それ』は、ただ、現れるのである。
あなたが、それそのものに包まれるだけである。そこには、もうあなたはいない。
『それ』だけがあり『それ』だけがあると言う者もいないので、
それ故に真に『それ』だけの状態となる。

*********
TAOまたは原始仏法などは、本来いかなる形でも一般化させるべきではなく、
また『一般化の必要もない』という基本理念が無明庵にはある。
従って社会改善、個人の精神的成長、能力開発、セラピー等といった分野に
興味のある者は、基本的に無明庵との接触の必要がない。
EOイズムを始めとして、いわゆる禅的システムやTAOイズムは、
いわば『重病人のための医学』のようなものである。
従って、精神が大病でない者、すなわちまだ必要な病状ではない者に、
その方便を気軽に駆使できるものではない。

無明庵では「これが正法だ」とばかりにそれを広く教化したり
世間に主張するつもりは毛頭ない。
これはガンやエイズの特効薬を一般の町の薬局では市販しないのと同じ事だ。
常に瞑想というものは『どの方法が正しいとか正しくないという問題ではなく』、
あくまでも『個人の病状との適合性』こそが問題だからだ。
そこではひたすら「必要性」の問題が重視される。
情報の流通という形で本としては出版しても、無明庵では、
実際の実習者や門下を培養するつもりは全くない。
法は個人から個人へと受け継がれて行くために、我々は一切の組織を形成しない。
精神世界の一般人にとっては、EOイズムなどは必要性が
極めて薄い分野なのであるから集団的な活動は一切しないのである。

*********
断固として頭頂のみに留意し切っていると
『頭頂それ自体の判断』のようなものが自然に起きる。それは論理的決断ではない。
だが、ちょっと留意しているような程度だと、
『別にこの留意が、何だと言うのだ』と、思考がすぐに口を出しやすい。
思考は、あくまでも『自分の方が生きてゆくのには有能だ』と言いたいのだ
だが、そいつ(思考)を、徹底して主人の頭頂留意より「格下げ」して、
召し使いにしないかぎり、あなたは、いつまでもマインドという
車の通る路上に住もうとする事になってしまうのである。

*********
●本当の瞑想とは、あなたが何も、瞑想をやっていない時にこそ
 変化をもたらすものを瞑想という。

▲しかし、瞑想をやっている時に、何かが経験できても、普通に戻ったら、
 何も変化していないものは瞑想ではない。

○逆に言うならば、瞑想をしている時には、ちっとも瞑想的でないようなものでも、
 瞑想をしていない時に変容があるものは、瞑想と言えるのである。
 通常の、世間で瞑想と言われるほとんどすべての手法は、▲である。

★変容とは、瞑想を「している者」が、
 すべての理解や手法を捨てるときに現れる。

★変容とは、瞑想を「している者」への
 引き算であり、解体そのものである。

★変容とは、瞑想を「している者」そのものに
 多大な損傷が加わることである。

*********
頭頂留意は、本当は、その留意の『強さ』が重要なのではなく、
その『固定状態の(停止の)精度』こそが問題なのである。
留意がとても強いと、意識の固定がしやすい、という事は確かにある。
しかし、本当の鍵は留意の強度ではなく、<
いかに、一点から動いていないか、という停止の精度にこそある
また、停止の精度がよければ、自然に留意の感覚も強くなることだろう。

*********
意識の運動が、本当に停止していたら、それがたとえ1秒でも、続いたら、
そこではその1秒は、本当に悟りの状態だということになる。
単なる気の集中というのではなく、意識の運動が停止して頭頂に固定されていたら、
もう、それで 何もかも『終わり』なのである。
それほどまでに、悟りとは、構造としては単純なことなのである。
実際、もしも意識の『うごめき』が完全に頭頂に停止したら、
あなたは、視線が、たったの1ミリも動かせなくなってしまうし、
肉体が、微動も出来なくなる場合もある。
本当に30秒そうやっていたら、全く、何も分からない状態になってしまうだろう。
「あー・・うー」、と呻くことさえ不可能になる。
問題は、その全く何ひとつ出来なくなる恐怖の世界に、
あなたが、精神を身投げ出来るかどうかなのである。

*********
何度も言うように、動作や感覚に意識的になるのは間違いである。
そんな事をしたら、ただのスローモーションのワークになってしまい、
観照が分離せず、かえって動作や感覚に強く自己同化してしまう。
自分の動作や感覚は、そのままで他人事のようにほっておき、
ただ、留意に重点を置くことだ。
ゆっくりするというのは、留意を精密に維持しようとする「結果」として、
そうならざるを得ないということにすぎない。
動作を乱雑にするなというのではなく、重点は、
「留意を乱雑にするな」ということであるから、
どんなにゆっくりと動作をしても、留意が雑であれば、
死人禅ではワークにはならないのだ。

*********
くれぐれも、死人禅は自分の心や感覚を見守る修行なのではないという事を
確認してほしい。
感覚や思考は、留意の副産物的な結果として、何ひとつも意志しなくとも、
行動や思考そのものと『全く同時に』観照が「もう起きている」というのが
正しい状態
なのである。
たとえば今、そこで、あなたの掌を腕が伸び切るまで、前に押し出したり、
引っ込めたりを、頭頂に留意し続けながら、ゆっくりやってみるとよい。
次に、少しずつ掌を前後する速度を速くしていって、
なおも頭頂に留意しているようにしなさい。
ゆっくりしても、速くしても、留意は関係ないことが分かるだろうか??。
経行やヴィパサナは、速くやる事はできない。
なぜならば、それらは動作の全プロセスそのものに注意を向けるように
指導しているからだ。
そうなったら動作は、すべて緩慢にせざるを得ない。
しかし、この普通の注意力を研ぎ澄ませるのが死人禅ではない。
まったく、そうではない。
だから掌を速く前後しながらも、留意が安定していれば留意は影響されない。
「あー速く動かしているなぁー」と、ただ観照されるだけである。

逆に、ちょっと、ゆっくりしてゆくときも、留意にポイントがあるなら、
変化なく、留意は維持できる。
ところが、ちょっとでも、ゆっくり動作している事そのものを意志したり、
手に意識がいくと、留意が阻害されるのが分かるだろうか?。
こんなふうに、いままであなたが知っていた、注意深さというものとは、
死人禅で言う注意とは、根本的に違うという事を理解して、経験しなさい。

*********
頭頂留意は、「感覚の情報と思考とを、全く区別なく同じ次元で観照する」のが特徴だ。
まったく他人の思考の動きでも見るように、自分の思考の動きが見え、
また、思考だけでなく、それと同時あるいは、瞬間的に入れ替わる
いろんな、情報を楽に観照できる。
しかも、「観照する気など、まったくなくて」、というのがミソである。
ポイントは、ただひとつ、頭頂留意が、安定して、維持されているかどうかだけである。
安定していれば、どんな速い動きの中でも錯乱したり躊躇からくる不快感を味わったり、
注意を失う事は決してない。








            闇の瞑想について


*********
闇の瞑想についてだが、私が闇に瞑想しろというときには、闇は初めのうちは、
ただのイメージとしての闇であり、対象としての闇である。
だが、それは、短時間に、概念としての闇ではなく、
本質的な『意識の闇』に直進するようになっている。
初めただの闇のイメージだろう。
だが、何もないというイメージはアジニャーチャクラのイメージ機能それ自体を
急速に『自滅』させる。
だから、他のものを観想するよりも
本質的なイメージを越えた次元に移動する『橋』になる。
あくまでもイメージは偽物の橋にすぎないが
橋そのものにとらわれてしまうような、
他の対象物よりは闇や無の方が、はるかに「まとも」だと私は感じた。

*********
暗闇のイメージ、またはイメージが無理なら実際に暗室や押し入れや洞窟で、
その雰囲気になじむ以外に手だてがない。
死人禅瞑想の完全な暗黒の闇がどうしてもイメージ出来ないという人は
この完全な暗闇を自室なり、洞窟なり、押し入れなりで、実現し、なじんでみるとよい。

*********
一体闇のイメージに瞑想してどうなるのか?、という質問には、
その最大の効能は、なにからなにまで、『どうでもよくなってしまうこと』だ。
悟りも、迷いも、そして生きていることすら、全くどうでもよくなる、という
『この世との絶縁意識が発生すれば、その瞑想はうまく行ったことになる』。

*********
闇の中に仏法などありはしない。それはただの無だ。
何かのための無ではなく、ただの無。だから、私は清々する。
あなただって闇に瞑想すれば、やれ禅だのやれワークだの、
やれEOの言ったことなど、なくなってしまう筈だ。それでいいのだ。
そのために闇はある。だから、闇で清々しなさい。
忘却、損失、が闇のモットーである。そこから出て来て、
ゆっくりと世界に着陸したとき、その着陸点が脳天になる。

*********
私があえて悟りは闇の副産物だというのは、闇は悟りなど生み出さなくても、
『独立した実体』だからだ。悟りもまた最終的には闇へ無となって消える。
だとしたら、禅は何を求めているのだろう?。
実は、悟りさえも、求めるような価値も意味もないのだ。
ひとりの苦悩する人間にとってはそれは楽になる道である。
しかし、宇宙にとっては、そんなことは知ったことではない。
悟りもまた、宇宙の明滅と共に、消える。

*********
私は大悟してから数日、もうあと何日も生きなくてもいいと思った。
それは、完全な、『完璧な、全くの終わり』だった。
どうやら、間違いないようだと思ったのは、それがなんの努力もなく、
絶えることなく連続していることだった。
しかし、もう一度言うが、これらの悟りの次は、本当の無だ。
全くなにもない。おしまいだ。
あくまでも、この無から『有の世界に戻ってくる途中に
悟りや無心がある』にすぎない。

闇と自分ではなく、また、死と自分、無と存在という関係ではなく
ただ闇、闇、死、、ただ無という中へ『溶かしてしまう』しかない。
そのプロセスで何かが残っていれば、その残っているものが
ジタバタと存在を続けよう、維持しようとか活動や動きを生もうと、あがいて
結局それは闇の前に苦痛を生み出す。
だから『闇にいられるのは、闇だけ』なのだ。
悟りは、絶対の不毛の闇と『引き分ける』ための、ぎりぎりの意識性である。
絶対無の闇のなかで、一歩でも意識が動いたら、
その『動き』そのものが膨大な苦痛と混乱を発生する。
そして、この小さな人間ひとりの苦悩、苦痛とは、実はその縮図にすぎないのである。
『絶対無に対する無駄な抵抗』、これが全ての迷い、苦痛の根本原因だ。

闇は、単に瞑想対象なのではなく『その中へ』と消えるべき墓場だ。
そこが、ただ唯一の我々の本当の『故郷』だからだ。私は、今でも、そこに住んでいる。
禅だの、いまここにいるだの、存在性の美しさだの、ただ在るなどというのは、
絶対無から、のっそりと出て来た私の『散歩道』にすぎない。

そこに闇の瞑想によって自我を殺し、心を窒息させ、
価値観を放棄するというプロセスなしには、死人禅は完了しない。
だから死人禅の実習者は、決して『闇の瞑想を削除したり飛ばしてはならない』。
まず全面的に自我も心も死ぬことだ。
悟りは、その『おまけ』にすぎない。だから、死ぬのが先だ。生きるのは、後だ。 

*********
健康であり、しかも肉体的な危険をおかさずに死に直面するたったひとつの方法が
極度の無為、倦怠、退屈、とそれが誘発する気力喪失=精神の死の接近である。
そして、これらの感情がもしも、残らずゼロになったら、それが禅定の本質である。
だが、もしも、不透明に何かが残っていたら、それは煩悩と呼ばれる。
そして、気力が永久に死ぬまで戻らないこと。それが大悟である。
なぜならば、その時、その者は、生きなければという恐怖や強迫観念や社会目的や、
生物学的な本能によって生きているのではなく、『別の何か』で生きているからだ。

*********
闇へと向かえば、あなたの迷い、苦悩、は最終的に
『死ぬか、それとも生きるか』だけしか思考できなくなる状態にまでゆく。
この自己肯定と自己否定があまりにも交互に繰り返される時、
とうとう『その往復の力』が尽きる瞬間がやってくる。

『全面的な不幸者』は、もはや不幸と離れてもいないまでに、
それと『ひとつ』になってしまうが故に、突如として、
それを不幸だとは、思えない位置に存在することになる。
この時だけに、『生死一如』が忽然とあらわれる。
それは、あなたが、なにもかもを本当に偽りなく、全面的に『やめた』時のことである。
生きるのは正しいという事もやめ、死ねば楽だというものもやめて、全否定、全停止、
すなわち、『無、不、死に成り切った時』だけである。
だから、徹底的な不幸に出会えない人達、それは、最も徹底的に不幸な人達だ。

*********
絶対的な静寂や闇、無といったものに近い環境や対象に、
あなたの全身全霊が交ざる事こそワークになる。
私は世間を落とすなどという半端なワークを提唱した覚えはない。
私は「世界」を落とせと言い続けた。宇宙そのものを落としなさい、と。

*********
ヒマラヤで瞑想するよりも、もっと苛酷なヒマラヤがあり、
世間で瞑想するよりも、もっと苛酷な世界があるということを
私は言い続けてきたつもりだ。
それは、あなたの時間だ。
あなたの空白、無為、闇、無への突入だ。
たったひとりで何日も何カ月も、たったひとりで、
無為にし、座り、膨大に眠りなさい。
それができない生活環境も多いだろうから、
せめて休日は完全な無為にしなさい。
あなたの中から「何か有意義なことをしている」というエゴを
完全に私は排除するつもりだ。
あなたは、ただ存在し、ただ食べ、眠り、
ただ朝がきて、昼がきて、夕方になり、暗闇になるといった日々を、
その狭いあなたの部屋で続けてごらん。
ちょっとの散歩、ほんの30分ぐらいはいいだろうが、
それ以外は、部屋に閉じこもりなさい。
生活に必要最低限の言葉以外は全くなくし、交友関係もその期間は切りなさい。
むろん読書もテレビも駄目だ。

*********
法というものにあなたが聞き耳を立てるには何千年もの時が必要だ。
それは常にある状況を必要とする。
それはあなたの苦痛が自殺寸前の極限へ来たときだ。
それ以外にはない。だから中途半端な者たちにはブッダの法は必要ない。
そこで必要なのは、どんな神もどんなオカルト能力でも穴埋めできない虚無感である。
無意味。無関心。どんなものも回復不可能な無気力。手の打ちようのない完全な空漠だ。
だから、もう何も求めず、何も望まず、何も期待もしない。
ただもう、何もかもを終わりにして死にたい・・・そうした人達だけが
死人禅の門をくぐる。
私もそれ以下の人達はごめんだ。
それ以下の者たちはあなたたちを楽しませ、そして苦痛にするその楽しく、
苦しい人間の生をまだ遊んでいればよいだろう。
神秘主義と現実主義を往復しているあなたたちに私は一言だけ言う。
『では、あなたは、そんなことまでして、なんのために、
自分が死ぬまでの時間を生きているのだろうか??。』

*********
闇の瞑想に親しむと、その親しむという行為が、次第に深層無意識に働きかけてくる。
最初は、単に闇に落ち着いていただけであったのに、やがては自分が根本的に、
存在そのものを根こそぎ無にされるという『実感』が、
どこからともなく発生するようになる。
そうなると、根本的な気力低下などが発生する。
従って闇というのは、大いなるニヒリズムへの入り口である。
しかも、それは観念的なものではすまない。
それは確実に宇宙の『現実』としての無の闇への通路をなしている
イメージシステムであるからだ。
その単純極まりない闇のイメージを前にして
観念や自己保存欲そのものがジタバタし始めるという事こそを、死人禅は狙っている。
このしーん、と何も自分の意見を聞いてくれない、
ただの静寂で無意味な宇宙空間というものが、
どこかでその人の意識に刻印されるとき、
これがダンテスの言う『自発的絶望』という公案をその人間本人に生み出す。
だから、闇の瞑想には根本疑問としての本当の『公案への仕込み』が含まれている。

*********
必要なのは、一切何もしないことだ。だが、あなたが無為や退屈に親しみ、
ただ毎日の空いた時間を無為のままにするためには『準備』が必要になる。
心理的に何も問題がないことが必要だ。
そのためにはどんな人間関係もほとんど希薄で、
あってもなくてもよい状態にととのえることだ。
自分の射程範囲で楽しめること、考えること、やれることはやりつくし、
異性の肉体関係から心理的関係問題まで、『かたがついている』ことだ。
やれ哲学やれオカルトと分かったような事を口だけで言い
その実、性のコンプレックスや不満をかかえたいわゆるオタクを私は見てきた。
彼らときたら何の可能性もない。

*********
心理的負担や肉体の生理的要求がほぼない状態で闇への旅は開始される。
よく、反応として、『何も起きません』とくる。『結構なことだ、続けなさい』と言う。
何も起きないならそれがTAOだ。禅だ。
ところが、彼らには実際にはもう起きているのだ。
彼らは言う『退屈です。気力がなくなりました。虚無感がひどい。むなしい。
何のためにこんなことしているのか疑問です。不安ですよ。
もっと刺激のある神秘体験じゃないんですか?』と。
こうして不満が『立派に起きる』のだ。そして私の狙いはこれだ。
根本的な知性の餓鬼のような欲求不満と飢餓状態を浮上させることだ。
さっきまで『何も起きません』と言ったのは誰かな??。
とんでもない。倦怠、退屈、死臭があなたにはじまる。そしてこれが闇の入り口だ。
そしてそこに出口はない。そこを住み家にしてしまうまでは狂気からの出口はない。
どこの宇宙にも生まれず、ただ消え去るだけだ。だからそれが嫌なら、やめなさい。
魂そのものの死を覚悟した者。
来世も次の星での生をも捨てた者が最後に数年、数十年を静かに生きる、静かな小屋、
わらじ、それが本当の『雲水』というものだ。
だから、私は人々を安易に誘えない。
狂気か自殺かの瞬間になって、初めて『それ』はあらわになる。
だから意識体の道は生きるためではなく、
また現実のいざこざや何かから逃げる口実としての死のためにあるのでもないと
私は言い続ける。

*********
霊的な根本的な骨組の次元の解体に至る道が、闇の宇宙だ。
しかしそれは、心の掃除のための無などではない。それは『ただの無』なのだ。
それは確実にあなたたちの実存を消し去る絶対の闇になる。
こんなものを誰が欲しがるかね??。
目的指向、達成指向の思考生物には不可能だ。

*********
いつでも死が間近にあり世界やあなたが無常そのものであることに深く入り込みなさい。
壊し続けなさい。壊し続けなさい。
イメージというもの、思考というもの、夢や希望を壊し続けなさい。
すべての探求者にとっては、とうぜん、
その中には導師などというものも含まれる事は必至のことだ。
すべての雲水にとっては、悟りだ迷いだなどというものを壊しなさい。
すべての女性は結婚や育児による幸せなどという夢を壊しなさい。
すべての人間は、人類は、自分が人間であるなどという幻想を壊しなさい。
残るものなど何もありはしない。

*********
もしも、あなたが意図的にわざと活動をしないでい続けるとどうなるかな?。
そうなると今度はあなたの中から「思考が大量に噴出」するのだ。
そして余剰のエネルギーはその人間の重心のおかれているチャクラに
なだれ込む性質を持つ。
普通の人々はちょっとよく眠ってはまたチョコチョコと活動する。
だが徹底して活動をせき止めて、さらに眠り続ければあなたたちは爆発寸前に行く。
私が知る限り、これは禅が見落とした重要な『修行』だ。すなわち『眠り行』だ。
『眠り行』で発生する最も重要な現象は、実は『死』なのだ。
眠り、それは徹底して続けると、限りなく死に似てくるだろう。
それがまるで死のように思えて来る時期がくる。
よく『寝過ぎて頭が腐る』と言うが、それこそが私の狙いだ。
あなたを徹底的に腐らせるのだ。
そして腐敗させ、眠りを通じて、疑似的に死に直面することが可能になる。
実のところ、そうすると、エネルギーを喪失して衰弱するのとは全く逆の意味で
あなたは衰弱する。思考が死に始めるのだ。あるいは殺され始める。
だから多くの人達は大量の睡眠のあと、さらに何もしなければ思考の洪水がやってくる。
思考が殺される事に抵抗が始まるのだ。
だが、私が再三にわたって、あなたたちに『死ね』と言っているのは
この思考の次元での事に外ならない。
眠り続けることはあなたを最初のうちは疲れから楽にする。
ところが次には、それはあなたを落ち着かせなくする。
次にあなたは思考が腐敗し、狂乱し始める。思考の死との抵抗が始まる。
次いで、あなたの脳は発酵する。つまり発狂する。
もしも、途中で逃げ帰らなければ、最後の出口は悟りだけだ。
退屈、怠惰、空漠、昏睡するという道は、
川へ飛び込むような一瞬の勇気ではなく『持続的な勇気』を必要とするのだ。
それは徐々に『なま殺し』にされる事に対面するからだ。
しかし、引き返さず、そうした死に覚悟して向かってゆく、そのどこかで
全く期せずして『大悟』が起きる。
それはただ、死ぬ練習のどこかで、突然に『在る』ものなのだ。
















           死人禅における公案


あなたは、あなたのその存在感をもっと深く意識しようとする。
そうするとそれもまた瞬間の中に存在できない。断片的だ。
あなたは、私の誘導で、うまくいけば、完全に沈黙してしまう。
あなたは、独りで、どんなマスターも必要なく、たった独りで、そのあなたの部屋で、
完全な沈黙と静寂を実現出来る。
それは『あなたの、純粋な存在感の自覚と自覚の隙間にいようとすること』だ。

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さて、私はこの部屋にいる。『存在』というのは、『存在感よりも早い』のだ。
『存在』の方が、『存在感より以前に在る』のだ。
その存在感覚を維持して感じ続けようとしてごらんなさい。
実はそんなことすら出来ないのだ。
実は、あなたのただの存在の実感すら、それは途切れ途切れなものなのだ。
たとえ、あなたというただの存在感であれ、それすら『途切れ途切れな感覚』だ。
何度でも試すがいい。存在感を感じ続けようとしてごらんなさい。
きっと、その緊張は長く続かない。私の基本的な公案はこれだ。
『あなたの存在感と存在感の間隙には何があるか???』。

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もしもあなたが、それを体験したい場合、
それは決して体験したいという関心によっては達成され得ない。
逆に、あらゆる事に、すなわち、いまそこで起きているあなたの感覚、思考、自覚、
自分の存在感のあらゆることに、完全な無関心を徹底するという工夫をすればよい。
そして何が認識されても、何が理解されても、何を感じ取っても
徹底的にそうした理解や自覚やこれだというものを断固として捨て続けるならば
それだけが、体験を可能にする方法である。

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『ギリギリの生』というものをあなたたち禅師に公案として渡そう。
ギリギリの生とは何か?。本当にもう『ギリギリの生』とは何か?。
自分を『路上に倒れた乞食』だと思って、その『死期』をありありと思いなさい。
そして、もしも、あと、10秒で死ぬとしたら、誰がそこでジタバタするというのか?
出来ることなど何もない。恐怖するとでも言うのか?。
恐怖すら無意味になるのに何を恐怖するのだ。安心するというのか?。
安心もあと10秒で消えるのに、それにしがみつく事になんの意味がある?。
想像しうる、あなたの最低状態とは、もはや僧侶は無論、
世俗の人間としても最低であり、餌も取れない瀕死の動物のようなものだ。
まったく白痴的に、そこに存在する、超馬鹿者だ。
しかも、自分を馬鹿とすら思えないほどの脳になった、ギリギリの生だ。
このギリギリの生、まったく、ただ、かろうじて生きているのみの状態とは何か?

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「来たるものは、本質ではない。また、去り行くものは、本質ではない」
去来するようなものは、なんであれ、あなたの本質ではない。
それがたとえ小悟の一瞥でもだ。そんなものは、本質じゃない。』
ならば、一体本質とは何かを、突き詰めなさい。

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あなたは自分で自分に対して徹底的に自問するがいい。
『なんのための幸せか、どうして安心でなくてはいけないのか?、
死ぬときに別に安心でなくてもいいじゃないか』と、
あらゆる可能性と反論、持論について考えなさい。

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もしも見性と言うものに禅がこだわるならば、一瞬で悟る方法だってある。
それはあらゆる思考や雑念のみならず、ただの自分の、その『存在の自覚』や
存在意識のそれらの『発生の前へ』と心を静めて見極めてみればよいのだ。
すべての雑念のみならず、あらゆる知覚と自覚の『発生の前の前の前』の
『何も始まらない地点』へと戻るのである・・・。
そこは『絶句』した無言の意識の『停止点』の行き止まりだ。

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ある禅僧に、私は、よく言い続けたものだ。
『スキのないように工夫するのは、今までのあなたたちのやり方だが、
ここでは、全部スキだらけにしてしまえ。
どこからでも攻め込まれる{完全なスキそのもの}になりなさい』と。

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自分を精神活動の固まりや、目的意志や希望や好奇心や
愛憎の固まりと認識し続けるよりも
ひとつの『なんでもない物体』として存在する時間を持ってみなさい。
それが、本当の瞑想であり座禅である。

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あなたはこの単純な事に気付くべきだ。説明すら必要のないことだ。
苦悩は思考の産物にすぎない。
はたして内部の思考や心配は、『あなたの思考の協力なしで
独力であなたを苦しめられるかどうか』、あなたを襲うことができるのかを
試しなさい。

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大切なものほど、あなたは必ず執着する。
自分でつまらないと思うものに、執着する者などいない。
したがって、もしもそれが悟りや一瞥や法なら、まず悟りや法から捨てなさい。
悟りを捨ててもなおも大悟しないとしたら、
あなたの一番大切なものは悟りではないと言うことになる。
だから、とにかく、あなたの心の中の一番大切なものを見付けなさい。
間違っても、それは2番目であってはならない。一番、大切なものである。
あなたが、人生の最後まで持っていきたい、一番大切なもの、それをたった今ここで
あとかたもなく破壊すること。それこそが、本当の禅の仕事だ。








         付録:無明庵の禅語録集


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法の種は衆生が持っておるのだ。
法話はその場でその都度、衆生より調達される。
釈迦は何も持たぬ。彼らはただいるだけだ。
説く用意などはいつもない。
なにひとつも説こうとなどしていない。

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僧侶「悟っている時と迷っているときの区別をされているのは一体誰なのですか?」

師『お前だ!』

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EO『いいから、どんどん、尋ねろ。』

僧侶「しかし、あなたが、答えないのでは、質問の意味はありません。」

EO『ならば、聞くな。』

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『あるとき、竹に小石が当たる音で大悟した僧侶がいたという。
さて、その竹と小石は大悟していたのだろうか?』

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EO『ところで尋ねるが、、この寺はなんのためにある?』

師家「僧侶が、修行に励むためだ。」

EO『それはなんのためなのだ?』

師家「おぬしの言うように、人が楽になるためだ。」

EOは天井を見て、じっと耳をすませた。
EO『同じことを、寺の天井に尋ねたが、そんな答えはなかったぞ。』

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弟子「悟りを得るとどうなるのですか?。」

EO『あんたのその言葉を、私は2度と聞かなくてすむ。』

弟子「つまり無欲を得るのですか?」

EO「悟りで得るものはなにもない。」

弟子『得るものが何もないなら、なぜ私達はそれを求めるのですか?』

EO『いずれ、あらゆるすべての{得る}という事が苦しくなるからだ。』

弟子「では、重ねて尋ねますが、ここでは一体、人は何を得るのですか?。
また何を失うのですか?」

EO『得たり、失ったりする、という考えを失う。
そして得たり失ったりしないものを得る。
それは、得られないのだから、お前さんが「やった、見付けた」とすら言えない。
なぜならば見付けるとは心が「見て得る」ことだからだ。
それすら「得ないもの」をここでは得る。』

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新参者「悟りがどんなものか体験したくて来ました。」

EO『体験したくなる心が起きる前がそれだ。』

新参者「それでは、好奇心もなく、人間は何も発展しません。」

EO『悟りは、好奇心もなく、何も発展しない。そこが悟りだ。』

新参者「それでは、求める意味も価値もありません。」

EO『意味も価値もないのが悟りだ。それ故にそれは悟りなのだ。』


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死に切る以外に安心など断じてない。
しかし死に切って生きようとすれば、また不安になる。
だから、死んだままになること。
それが悟ったままになることだ。
ちょろちょろ、死に切ると、その度に、ちょっとだけ、あなたは安心する。
完全に死んだまま、2度と生き返らないと、それが大安心になる。

だが、それはあなたの心が再起不能になるまでは、あなたに訪れない。
だから、ここで、学ぶのは、死ぬことだけだ。
安心して、その上で世の中を生きてやろうでは、まだ死人ではない。
迷いたくないとか、注意がとぎれないようにと言っては
心中ドタバタしているのは、あんた自身じゃないかね。

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私が呆然としろと言うときは、完全に呆然としなさいと言うことだ。
呆然記録を作るぐらいの気持ちで、まったく最低のような自分を実現しなさい。
なんの覚醒も注意もしなくていい。
ただし、そのためにあなたはまず座ってそれを行いなさい。
あなたに限っては寝転んでは駄目だ。
座ったまま、何も見ないで、呆然と{気違い}ごっこをしなさい。
淡々と、口を半開きにして、精神病のようでありなさい。
それを徹底的に持続することだ。最低でも30分は持続するのだ。
「ダラダラ」と呆然とするのでなく、「ちゃんと」呆然としなさい。

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無名庵 『釈よ。よく聞くがいいぞ・・・・・釈迦は迷いを知らぬ。』

釈 「でも悟る以前には迷いを知っていたのではありませんか?」

無名庵 『いいか、釈。ブッダは迷いを知らぬ。』

釈 「はい、和尚様。わたくしも知りませぬ。」

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無名庵 『無思考が人を幸福にしなかったためしは一度もない。

一方思考が人を幸福にしたためしは一度もない。

だから悟ろうとか、煩悩の撲滅をしてやろうなどと思慮すれば、
佛性も、そこで即失するのじゃ。』

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気を張るのは煩悩だけじゃ。反省などするのは煩悩だけじゃ。
無心にいようと努めるなどは煩悩の仕業じゃ。
だから、無心に『向かおう』となどするのをやめなさい。

おまえの『いる』ところがお前の我家、お前の佛性じゃ。
それはお前の『ゆく』ところではない。
そこはお前の『帰る』ところなのじゃ。』






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