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[3519]
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ある人が受け取ったEO師からの手紙
by:
崩残
2006/05/09(Tue)02:17:38
●この連休中に、とある人が、EO師から直接にもらった手紙を
無明庵に送ってきてくれました。
年数が経過し、ワープロの感熱紙に打たれた文字のほとんどが、
消えかかっていたのを判読しながら、
もう一度打ち直して下さったと事でした。
手紙は1993年の5月から7月までの期間のもののようで、
実際には、量はもう少し多かったようですが、その一部ということで
資料を提供していただいたので、竹の間で公開することにしました。
EO師の原稿というのは、無明庵にフロッピーとして残っているもの
以外に個人に宛てられた多くの個人的な私信が存在しており、
その中では、悟りについて語られたものも、かなりあるようです。
そこで、バーナデットロバーツについては、ここで「一休み」するとして、
その人が送ってきてくれた、EO師の手紙を以下に掲載しておきます。
________________________________
1993年5月
それは、「今ここにないもの」などではない。
全然、違う、全く違う。
それが「今ここにない」などということなどは在り得ないのだ。
実は、あなたがいまその「存在」でないころなどは、
そもそも一瞬も在り得ないのだ。
なぜならば、その「現在」とは、
「体験主体」そのものの事だからだ。
ただし、もしもあなたが体験主体である事を自覚をしたら、
もう瞬時にそれは体験「内容」になってしまう。
だが「体験された」内容は、体験主体性そのものではありえない。
・・・・・・・・・
そしてあなたが開悟するそのとき、そこに悟りという、
今のあなたとは別の特殊な体験があるのではない事を知るだろう。
それは何かの状態の「体験」ではないのだ。
今そこにいるあなたが「何を体験するか」は、全く問題ではないのだ。
本質の重心は、体験の内容ではなく、
体験の主体の方だ。
だから、「悟りの体験」などというものはないのだ。
そうではなく、それは、「体験者」そのものの事だ。
悟ったものが、そのナンセンスさに笑うのは当然の事だ。
なぜならば、彼は「経験をしている自分そのもの」が「それ」だったのに、
今まで彼は経験対象の中にそれを求めていからだ。
だから、「体験」を求めているうちは、全く検討外れだ。
全然そうではない。
悟りは体験内容の事ではない。
体験者自体のことだ。
悟りとは、体験するあなたがいて体験される悟りがあるのではない。
全くそうではない。
そこでは体験「内容」などは一切問題でなく、
体験者そのものが純粋にそこに在るとき、
その在ることそのこと自体が光明なのだ。
だからこそ、それは今のあなたとは別の体験として求めたら、
決して得られない。
それはあらゆる体験自体の「主体」そのものだ。
だからあなたは悟りを対象として見て体験することなどは出来ない。
なぜならば何かを見るということはひとつの「体験内容」だ。
だが、それは対象化した体験として見ることによって知られるのではなく、
「経験主体」それ自体の、絶え間ない「充満」なのだ。
だから、「体験の中に」それを求めるとしたら、
あなたは根本的に誤解している。
開悟の時に、「悟りという特殊体験を経験する」
というのは完全に表現が間違っている。
そうではなく、あなたのその主体それ自体が、
ずばり悟りそれ自体なのだ。
だから覚者たちは全員笑ってきたのだ。
彼らはまず最初に、
まるでトンチンカンな方向を求めていた自分自身を笑う。
「最初から何ひとつも迷ってなんかいなかったじゃないか」・・・と。
そして、やがて周囲の人々を見渡して笑うのだ。
「なんでこんな簡単な事が解らないのだ?」と。
_____________________________________
1993年6月
もう『終わりにしたい』とあなたは言うが、
最初から、始まってもいないと考えたことはないだろうか。
私は、20代の始めに、
何度も『宇宙は、始まってすらいない』と感じた。
今朝、ただ、仰向けになっていて静まっていた。
その時の洞察・・・・。
宇宙には、最初から何もない。今も何もない。未来にも何もない。
何もないのに、何をムキになることがあろうか。
何もないのに、何を求める必要があろうか。
世界がある、自分がある、何かがある、という思いが、
かろうじて宇宙を維持してきたものの、
もともと、何も始まってもおらず、
起きてもいないのだから、
問題そのものがあるわけがない。
迷いすら最初からなくて、
悟りもない。意識すらない(あると思わねばない)。
知覚している現実や、空腹や痛みがない、とは言わない。
だが『ある』『存在している』といって騒ぐほどのものでもあるまい。
最初から何も起きておらず、最後まで何も起きず、
そして今も、何も起きてはいないのだから、
おきてもいない問題などあるはずもない。
生きていれば、いろいろな事はあるだろうが、
結局は傍観して済むことばかりだ。自分の生死さえも。
人は、有を見れば有の世界が楽しみの場となり、
無を見れば無が安住の場になる。
ただ、ただ、それだけのことだ。
__________________________________
1993年7月
エゴは究極と絶対を好むが・・しかし
究極の生命とは死である。
究極の言葉とは沈黙である。
究極の舞踏とは停止である。
究極の音楽とは無音である。
究極の思考とは無心である。
究極の映像とは闇である。
究極の疑問とは無疑問である。
究極の関心とは無関心である。
究極の愛とは分離である。
究極の分別とは無分別である。
このように、究極の何かの探求とは、
必ず正反対の究極を引き連れてくる。
ところが、死もまた成長して究極に至ると、
究極の死とは生命であると認識するようになり、
究極の沈黙とは語ることの中にあると認識するようになり、
究極の停止とは、踊る事の中にあり、
究極の静寂とは、音の中にあると認識し、
究極の闇とは、映像であり、
究極の無疑問とは、疑問の中にあると認識するようになり、
究極の無関心とは、関心であり、
究極の分離が究極の愛であると認識するようになる。
究極の無分別は究極の分別へ至る。
こうした事がおきる原因は、
究極の完全性とは、不完全であるからである。
同じく、究極の不完全性こそが絶対の完全性と認識される。
有と無、生と死、動きと停止の、
そのどちらからこの一元性に至るにせよ、
究極に至ることがなければ、分別が崩壊することはない。
しかし、絶対という言葉を好む人間は、
物事を停止した真理に押し込めようとする傾向がある。
絶対という言葉は、退屈な固定化を求める衝動から生まれる。
しかし、絶対とは、
その言葉の正確な意味においては「対立が絶している」という事である。
しかし「対立が絶している」ということは、
それが「絶対的に正しかったり、
絶対的にいつでも効力がある」という問題とは、
全くの別問題である事を見落とすものが多い。
つまり「絶対」という言葉は、
「確実」という言葉と簡単に「混合」されやすいのだ。
だが、対立が絶しているということは、
確実性を意味するのではない。
なぜならば、絶対とは、確実性と不確実の『対』すらもないが故に、
それはもともと安定したもの、確定したものではないのだ。
思考の最大の悪癖、そして限界のひとつは、
どちらか一方しか選べないということだ。
二つのものを交互にならばすり替えて交換して選べるが、
「同時的に」そこに存在することを決して認めようとしない。
認めようとしないというよりも、
それは思考には不可能な認知作用である。
このように言うことが出来る。
ひとつの方法やひとつの真理しか選ばないとか、
基準を最終的にはひとつにしないと不平を言う者は、
彼らは実は「動き」に中毒しているという点だ。
何かの絶対基準をひとつに確定しようとする原因は、
それがもともとは、『動き』と『認識』に対してのみ、
利害関係(有効性)をもっているからだ。
すなわち、こういうことだ。
何かする、何か行動する、
何か運動する場合には方向性や基準が定められる必要がある。
その方向性は、とりあえず動く時にはひとつでなければ混乱するだろう。
同じく、何かを認識する場合にも、
とりあえずは、基準はひとつでなければ混乱するだろう。
このように、任意に一時的にでも、ひとつに確定しなければならないのは、
何かを『認識』する時や何かを『行動』する時に限られる。
というのも、何も認識もせず、何も行為もしないものにとっては、
確実な基準もいらなければ、方向性も必要としないからだ。
また、幾つもの基準や方向性が混合していても、そのものは混乱しない。
なぜならば、多くの矛盾した方向性や基準が混在していても、
本人が、それを認識や行為の決定の指針になどしようとしていないからだ。
これが意味することは、次の通りである。
「これ一つだけは確実だ」という、
絶対的なひとつの真理を欲するという行為それ自体が
「動く」か「認識する」事を前提にした欲望であるという事実だ。
動くか認識する場合には、
ひとつの基準やひとつの方向が必要となるからだ。
ところが、停止や非認識の中では、
何ひとつも絶対的なものは必要とされない。
停止や非認識の中では、
方向や焦点や基準の一本化という必要がない。
そればかりか、矛盾する方向や焦点や基準が、
いかに入り乱れていても、
認識や行為の指針としようとする目的がないために、
それらは単なる「観照対象」でしかない。
ところが、エゴは観照を
「ただの観照」にあらしめるのではなく、
観照を、自分の行為の基準や認識や洞察の手段や
安心の手段として使おうとする。
一方、真の観照とは、
それを何かに利用するという前提を持ち合わせていない。
つまり、真の観照、純粋観照とか「動機なき観照」のことだ。
もしも真に動機なき観照の中にいたらば、
いかに対立したものでも観照可能であり、
生と死や、解脱と大悟、あるいは有と無のような、
いかに矛盾したものでも受け入れて、観照可能であり、
全く一本化されない動きや基準が混在する状況であっても、
なんらの問題も発生せずにそれらは観照される。
なぜならば「純粋観照」は、動きや洞察の指針に観照されたものを
自分が『使おう』などとは全くしていないからだ。
何かを断定しなければ気がすまないという人間は、
その断定が何に役に立つのかを洞察すればよい。
断定とは、動く者にとってのみ有用なのであって、
停止する者には、断定は必要ない。
停止する為には、何かを断定したり、確定したり、一本化したり、
方向や基準を決める必要はないからだ。
定めるというのは、そもそも動くことを前提にしているからだ。
真の停止や非認識に至る者は、
こうした自己欺瞞、論理矛盾に陥る事がない。
主体が停止するためには、何も定める必要がない。
もしも基準を定めたら、それ自体が、
『認識という動き』を発生するからだ。
『絶対のものはない』
『世界は無意味だ』などと断定するのも、
結局はそれによって、
生に向かうにせよ、死に向かうにせよ、
その断定で自分の動き方や認識の枠を固定しようとする
欲望(あがき)である事は間違いない。
しかし、こうしたものは、決して停止する事は出来ない。
本当の真実を言えば、
絶対のものは確実にあり、そして絶対のものは絶対にない。
世界は絶対の無であり、同時に絶対の有である。
宇宙には確実な目的があり、全く同時に無目的である。
こうした二元共存の概念を耳にしたり、
あるいは実際にそういう状況にとりかこまれても、
本人が真の停止と非認識の中にある場合には、
二元性は二元性としてそのままに容認され、
かつ、本人は一元性の中にいる。
つまり、問題は、世界の概念も、世界の現象も、
二元的なままの、矛盾そのままでよいということだ。
エゴは、絶対のものがあると言うことは簡単にできる。
エゴは、絶対のものはないと言うことも簡単にできる。
しかし小さなエゴには出来ないことがある。
それは、絶対のものがあり、そして絶対はないと、
「同時に認めること」だ。
エゴは「何かの結論を使おうとする」。
エゴは結論を自分の「動く口実にしたがる」。
たとえば、解脱や絶対の死という方向に
自分がいくのだという結論を利用しては
エゴは自分がその方向へと動く口実にしたがる。
そうやって、結局は死という目的に、
自分を一本化して基準を定めて向かって動こうとするのである。
しかし、純粋観照には、動きと停止の区別はない。
純粋観照には、論理の整合性と論理の矛盾の区別すらもない。
〜結論〜
純粋観照は、絶対の基準を必要としない。
純粋観照は、究極の真理を必要としない。
絶対や究極の何かがあなたに必要に感じられてしまうのは、
常にエゴが生きようとするためだ。
純粋観照や純粋主体に至りたいと欲しながらも、
それには至らない最大の原因は、
それに至ろうとしている主体そのものが、
エゴの動機であるからだ。
すなわち、純粋主体や純粋観照に至るのが本当の目的ではなく、
それらに至ることで苦から逃げようという魂胆が、
もともとそこにあるからだ。
だから、これらは、動機なき探求、動機なき瞑想にはありえない。
死のうとするにせよ、生きようとするにせよ、
目的探求というものが、そもそも、動機を含んでいる以上、
動機ある行為は、決して純粋観照には
至れないのは当然のことである。
真に動こうとしていない者、停止と非認識に至った者は、
世界や宇宙を、
白か黒か、光か闇か、無意味か意味か、有か無か、
真理はどちらか一方にしてくれなどと言う必要がない。
一本化を要求するのは、
常にある方向へと動く口実、
またはある認識を確定しようとする魂胆
つまり動きがある者だけだからだ。
そして実に多くの愚か者たちは、
解脱や絶対死や大悟といったものさえも、
ある『方向』の行き着く『先』にあるものだなどと思い込む。
事実は、それらは、ある方向(たとえば死のベクトル)へと
動く事で達成されるのではなく、そこがどこであれ、
今現在の地点で停止することで生まれるのである。
停止、非認識、あるいは死があるとしたら、
それは、時間的に先にあるのではなく、
現在にしか現存しない。
このように、
どうしてエゴは選択であり、悟りは無選択なのかには、
論理的理由・・・というよりも構造的な原因があるのだ。
動こうとするエゴにとっては、
無選択であることは支障をきたす。
基準と方向を何かに定めなければ、
それは動けないし認識が出来ないからだ。
何かを『認める』ために基準がいる。
何かを『断言する』には、基準がいる。
何かをなすためには、方向性がいる。
だが、停止したもの、認識しないものは、
どんな矛盾に対しても無選択でいても何も支障はない。
開悟した者は、絶対なるものを必要としない。
しかしそれは、
彼が絶対のものに『到達したから必要としない』のではない。
開悟した者とは、
究極や絶対の何かに到達したものだと思い込むのは、
大きな間違いだ。
開悟した者とは、
絶対も究極も『必要としない意識』に到達した者のことだ。
かといって、彼らが絶対や究極になったわけではない。
彼らは絶対者ではない。
そうではなく、
彼らは、絶対も究極も『必要としなくなった』にすぎない。
彼らは、不完全と完全を区別しない。
彼らは絶対と相対を区別しない。
彼らは、停止した動機なき観照の中に存在するために、
絶対基準も、究極の真理も必要としない。
そうした絶対のものが必要に感じられるのは、
『知る事』と『動き』にエゴがとらわれている場合のみであるからだ。
したがって、開悟者とは、絶対に『達したもの』ではなく、
単に、知の欲望と動きの中毒から開放された者のことだ。
だからこそ、彼らの観照は、
何の努力も注意力も必要とせず『不意自然』に発生する。
生の経験の中に、何らの洞察も体験も求めていない者に、
どうして絶対基準など必要になろうか?。
それが必要に感じるならば、
あなたは何かを洞察(断定)したかったり、
知りたかったり、体験したがっているから、
動きたがっているからにほかならない。
________________________________
1993年7月
人間の中に、
「どうこうしよう」、というものが依然としてあるとすると、
なぜ、どうこうしようとするかの原因の一つは、
『どうこうできる』と思っていることにある。
これは当たり前のようでいて、重要なポイントである。
何かを、どうこうしようとする動機はいろいろだろうが、
そこに共通することは、どうこうするその「対象」ではなく、
どうこう『出来る』という思考そのものにある。
そして、見性者に共通のことは、
どうこう『出来る』が『出来ない』と断念されたことにある。
あるがまま、とは『どうこうできない』という経験だけが生み出す。
和尚も最後は、どうこう出来なかった。
バーナデットロバーツも始終、
どうも出来ない状態に見舞われている。
私も永久の生存命令に抵抗が出来ないと断念した。
すべて、同じことは、その断念が本物であるということだ。
だから、どうこうしようとするのを、
それが問題だからといって、やめようとは出来ない。
しかし、そこで何も手を打たないのでは、一般人と変わらない。
どうこう『出来る』という自負、思い上がり、
そして可能性が『不可能性』に転じるような経験が必要となるのである。
『出来る』というものがあると、
何をどう出来るのか、という路線が決められる。
それは、一致の生ではない。
何をどう出来るのではなく、出来ないまま、
そこにあるものを受け取るというBRの言うような事がおきる。
間違いなく、どうこう『出来ない』事態に頻繁に見舞われるか、
あるいは大きなのが一発くるかである。
死という扉はその一つだが、
あなたは、そんなものを待っているわけにもいかず、
第一、生前に悟らない限り、
死のチャンスに悟るなどという事は、まずあり得ない。
私がよく言う『駄目になる』とは、
端的にいえば、何かが『出来ない』という局面の事を言っている。
駄目という日本語は、広範囲の意味があるが、
意味を限定すれば、
『不可能さがあからさま』になるという事である。
そこまでいかずに、
あなたが自分の意志や自己の力を静まらせるのは難しい。
だから、どうこうしようとする障害の根っこのひとつは、
思考の妄想や、そういった『何を』どうこうしようとしているか、
という対象の問題と別に、
そもそも、どうこう『出来る』という思考にある。
したがって、私が言うように、どうにもならなくなる局面自体が、
そもそも普通に生活をしていて、頻繁にくるものではない。
そこで私は、その局面へ行けるヒントを作るわけだが、
哲学が徹底されなければ哲学の門は使えず、
瞑想は探究心というものが過熱する事そのものが、
そのどうにもならなくなる原因となるのであるし、
危ない目にあっても、肉体の危険では恐怖は深くならない。
今を捕らえることが出来るか、という公案も、
それもあなたが本当に真剣でなければ何も効果がない。
だから、私は、本人の思い込みでもいいから、
「自分の全部を賭ける対象が必要だ」とよく言うのである。
なんとなく執着しているのでは、
『自分ではどうにも出来ない』という事実に直面した時のショックが
まるで弱いものになってしまうのだ。
そして、その賭けには、実現が可能に見えて、
実は不可能なものを選ぶ必要がある。
公案の本質は実はそこにある。
出来ないことを、出来るように見せかけてやらせる。
だから、公案になり得るものは、限定されてくる。
●悟ろうとすること。一致でもいい。
●宇宙の始まりや終わりを解明しようとする。
●絶対真理を求めること。
●無について。
たとえば、最後の絶対真理については、
『そんなのは、前に不可能と断定した』と、
あなたの思考は言うかもしれないだろうが、
本当にその時に絶対真理はないと断念したら、
その事については、二度と頭をかすめないはずであるし、
絶対真理がないのならば、
和尚もクシシュナムルティーも絶対ではないという事になる。
にもかかわらず彼らの言葉に引っかかってしまうのは、
絶対真理の『体験的理解』が、
貴方に何ひとつも徹底しなかったために、
自分の知らない分野、自分のかかえた『無意味の理屈』では、
否定できない分野が残されてしまったのである。
絶対真理について、その定義は、どうにも『出来ない』、
という事が本当に看破されていればその時点で、
あなたは生きる基準というものも崩壊してしまうはずである。
ところが、あなたの劣等感として何が残ってしまったかと言えば、
彼ら導師たちは、その絶対真理を『生きていた』ということだ。
絶対真理はない、という貴方の言い分は、
ただの『思考の結論』にすぎないのだ。
『絶対真理はないという思考』を以後、
ある種の自負をして背負っていても、
そこには、本当にそれを捨てた、すっきりした精神があるのではなく、
実際に、その絶対真理を生きている者についての、
無知と劣等感が大きく貴方の中には残っているだろう。
すなわち、絶対真理は、『思考の中にはない』、
とまでは誰でも頭だけでは結論はできても、
実際にその悟りの中にある者にとっては、
思考を超えたところでは、
絶対性というものは、ないどころの騒ぎではなく、
『それ(絶対性)』は、
彼らの知覚には、当たり前にゴロゴロしているのである。
これらの『意味・無意味の無意味の結論』などは、
思考を超えるまでに至らない思考の典型的な例であり、
いわゆる実存主義者とは、頭だけ貴方の肩が並んでも、
そこまでの話にであるにすぎない。
すなわち、貴方は何も体験していないのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
要点をまとめると、
『出来ない』という局面が徹底して経験されるには、
まず、今は、まだ何とか出来ると思い込んでいる何かが必要になる。
すると、こうした題材は、非常に限られてくる。
1)無とは何か?
2)宇宙の始まりの原因とは?
3)宇宙の終わりの目的(宇宙の状態)とは?
4)今とは何か、今とはどれか?
5)今と、完全に一致できるか?
6)3分、意識をはっきり保ちながらも、
ただの一度も、記憶を振り返らないようにできるか?
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