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[469]
■
★分割自我復元★その469■トラウマ分析の報告より■
by:
鈴木崩残
2015/06/19(Fri)15:52:15
報告
■報告からの転載となります。
*********
鈴木 崩残 様
こんにちは、お久しぶりです。
今回は2ヶ月ぶりの報告となります。
どうぞよろしくお願いします。
ゴールデンウィーク明けから、就職の準備として、
発達障害などの障害者を対象にした、準備支援というものを受けています。
準備期間は3ヶ月が一区切りで、就職先が決まり次第、自活することになりますが、
3ヶ月の間にに決まる人は少ないとのことで、
その後もしばらくは準備支援を続けるかもしれません。
自我復元中の就活というのも、やりたい仕事を見つけたくても、
自活できる環境を整えてトラウマ掘りを進めない限り、分からない、
というジレンマがありますが、
それでも、今の自分がやりたいと思える仕事を選んでいます。
準備支援を受けている人たちと過ごす中、今まで分かっていなかった、
人との関わり方を、今ようやく知り始めている状況です。
これはあくまで、発達障害ではない人を真似る練習のようなもので、
働き続けるにはまだ自分の対応だけでは難しいと感じます部分もありますが、
かといって自活が無理だと決まった訳ではありません。
この機会が無ければ、いわゆるブラック企業に入って、
家庭と似たような環境で、今までどおりコミュニケーション障害を
起こしながら働いていたと思うと、やはり準備支援は必要でした。
支援を受けるという形ではありますが、独りよがりではない会話に
なってきたと感じています。
今まではいつも、自分が何を言うべきか、とばかり考え、
相手に自分の話が理解されないことが多々ありました。
相手のことなど全く見もせず、壁に向かって話していたのと
大差が無いことに、講習を受けて初めて気づきました。
むしろ、自分の力だけで自分を変えなければ、という考えが、
一人でやってさえいれば問題ない、という何となくの思い込みに、
今まで気が付かなかったのかもしれません。
そこで新しく始めたことは、自分のやりやすい環境を整える、ということです。
今までは我慢して、これぐらいなら・・・、と見逃してきたことを、今やる。
思い返せば、誰一人として同じようにトラウマ掘りを進めたり、
AC人格を解除してはいません。
発達障害だろうがアスペルガーだろうが、自分なりのやり方があるはずです。
どこまでが発達障害の影響なのか 悩む時期もありましたが、
機能不全家族も発達障害も、トラウマを紐解き、
当時の自分の思いを理解するには、どちらも欠かせない手がかりになります。
こうした変化を感じる一方で相変わらず、自分が不快な目にあう妄想は続き、
特に電車では、以前に比べ少しは抑えられていますが、錯覚は今でも出ています。
特にひどかったときのパターンというのも不可解で、
初めはこの声が聞こえてくることを愉快にすら感じていました。
脅せるもんならやってみろ、と。
しかし時間がたつにつれ、そういった高揚感が徐々に恐怖へと変わりました。
自分が周りから見られているようで、一挙一動にも緊張が走り、
呼吸すら苦しくなります。
自分はおかしいと思われてやしないか、錯角というのも、
実は思い違いで、この声は本当に聞こえていて、自分は本当に変なのではないか?
そう思うのを止められず、抵抗するとより焦り、気分が悪くなって、
冷や汗をどっとかく。
そんなことを二十分近く続けていました。
電車の一件でもそうですが、このパニックは、自分が今まで味わった、
いじめられたときの不快感と、よく似ていました。
それからしばらくたっても、周りのすれ違う高校生が、
クサイと陰口をたたいている気がする。
即座にそんな事があるわけはないと、否定していましたが、
それで錯覚が消えることはありません。
自分が傷つけられたと感じれば、相手の頭がおかしいと思い始めていました。
無意識の中で周り 、周りといっても、もやもやするほど曖昧な範囲で、
その周りの人の頭が狂っていると、そういう考えが刷り込まれています。
なぜ自分で自分を痛めつけるように妄想するのか、
初めは全く意味がわかりませんでしたが、
これまで自分が体験したことのない、未知が恐ろしくて、
それを避けようとした結果、
自分の苦しい思いが詰まった過去の体験を繰り返していると、思いつきました。
AC人格の自分が、これまでの記憶を繰り返し、
今まで以上の苦痛を避けようとして、かえって苦しんでいるのかもしれません。
この考えは、中学生のころからあったものです。
自分がいやな目にでもあったと思えば、
そら見ろ、あいつらは狂っている、自分の基準は正しかったと、思い始めます。
この錯覚に、本当に言われていたって、そんなことの何が重要なんだ、
と思いながらも、必死にしがみついています。
いや、俺が正しい!
ほら、崩残さんも同じことを言っていた、
あの人のいうことは正しいと、お前もそう思っただろ!?
分からないなら、分からせてやる!
といわんばかりに、人の話し声が自分に向かって言っているように聞こえます。
そこには後悔もありました。
あの時、恥ずかしい思いをしてでも言って怒るべきだった、と。
なんて情けないんだ、年下の「高校生ごとき」に、何もいえないなんて。
自分を責めるのも、相手を下に見た態度が発端でした。
中学生のときに、いじめを受けたときも、
あいつらは馬鹿なんだから、頭がおかしい。
別の小学校と合流したとたん、こうなった。
きっとそのせいだと思っていましたが、
だから、自分は相手にしない、という結論を出して、
いじめに対してやり返そうとはしませんでした。
「相手の程度が低いんだ」と。
違います。
やり返すだけの、勇気がなかったからです。
他人を見下し始めたのは、そのときからでした。
自分がその相手とやりあえないほど、弱かったことを認めたくなかった、
後付けの言い訳でした。
嫌がらせをされて、散々に傷つけられて、自分は自分を否定し始めました。
親の再来とも言っていいものでした。
人を見下すなんて、小学校までは考えもしませんでした。
それまでは、いやな思いをするとすぐに泣きました。
何度も机に突っ伏しては泣いて涙をこぼし、
クラスメイトからもう泣くな、と言われることもありましたが、
今思えば、それで嫌な気持ちを表に思い切り出していました。
中学校からは違います。
恥ずかしさも手伝って、自分のいじめられたときの怒りや、
傷つけられて苦しかったり悲しかったりするのを、我慢し始めました。
感情の行き場がなく、ひたすら必死に耐えました。
それは今思えば「自分ルール」でした。
根拠もなく、思い込みからそんなことをし始めました。
お世話になった先生のためだ、とルールを決めましたが、
そんなことをしても、先生は喜ばないことを想 像できませんでした。
とにかくその先生のためにもうまくやらなければ、と必死でした。
息が詰まりそうになりながら、真面目でいようとしました。
先生の言うことは絶対正しい、と信じ込んでいました。
最初の他人である親の判断が、その場でコロコロ変わることに加え、
相手の気持ちを推し量れない自分にとって、
相手がどんな態度で出てくるか予想出来ないことはストレスのたまる、
怖いことでした。
思えば、絶対に正しい基準、にすがりたかったのかもしれません。
自分なりに相手の気持ちを推測しても、ほとんど見当違いで、
相手の機嫌を損ねないように下手にでても、
突然、相手が怒り始めたり、突然、注意されたりすることはよくありました。
一方で相手から見れば、何か注意をしようものなら、
言い訳ばかりを説明して、ひたすら自分は悪くないと主張している
迷惑な人なのでしょう。
今の自分には、人に迷惑をかけている、というのが理解できないようです。
自分の部屋に居るときでさえ身構え、ACの自分は、
常に気を張っていて無自覚に疲れているのでは、と思います。
また、二か月ほど前には、母親から日記を借りて、
トラウマがいつどのようにして植えつけられていたのかを調べ、
年月日まで特定することも出来ました。
今までは記憶は部分ごとに鮮明に残っていても、それがいつのことか、
よくわからなかったので、トラウマの時期がここでようやく整理できました。
幼少期のトラウマの 時期をほかの方はなぜ具体的に覚えられているのか不思議でしたが、
自分の場合記憶の仕方が違っていたようで、
時系列順に記憶が整理できなかったようです。
しかし、その後のトラウマ掘りに進捗があったとは感じられず、
ネットで時間をどぶに捨てる日も少なくありませんでした。
特に、決まった予定がない日は時間を無駄にしやすいです。
ネットを始める前には開始時刻と終了時刻を記録していましたが、
ただ記録していただけで何の意味も成していませんでした。
ですので最近はそれに加え、
ネットを見ていた時間も記録することにしました。
これで、自分がどれほどの時間をネットに費やしてしまっていたのか、
ようやく見えるようになりました。
話は変わりますが、料理を見るだけで、
その家庭が機能不全家族かどうかわかるのでは?と思えるほど、
うちの料理は、食べる人のことなど何も考えてはいないことに気がつきました。
何より、美味い不味いの味以前に、食材の相性を考えていません。
よく食卓に出るのは、ごった煮の煮物や炒め物で、
単にありあわせの食材をぶち込んでいるようで、
火加減も強く、肉は硬くなってパッサパサです。
自分が子供のころは好き嫌いが激しく、甘いものばかり食べたがった、
と母親の日記に書いてありましたが、
自分で料理を作るようになってからは、それは当然のように思えてきました。
思い出す限り、食卓もちっとも安心できる場所ではなく、
食卓につく父親から隠れて、お菓子 を食べているような状況でした。
子供の味覚は動物の本能にちかく、甘いものが安全な食べ物だと認識している
という話を聞いたことがありますが、まず食卓が安全な場所ではありませんでした。
二十歳を過ぎた今でも、甘いものを摂り過ぎています。
これが原因で、子供のころは頻繁に歯医者に連れて行かれ、
麻酔の注射を嫌がったために、暴れないように網で体を縛り付けられて
麻酔なしで歯を削られるという、拷問に近い痛みと恐怖を植えつけられました。
せがまれれば母親や祖母がお菓子を与え、そうかと思えば
父親が唐突に禁止して、また母親や祖母がこっそり与える。
虫歯になるような状況にしておきながら、無理やりに歯医者につれて
嫌がる自分を叱り飛ばすループを作ったのが、
両親をはじめとするバカ親でした。
ここまで自分の子供を痛めつけて・・・、本当に、バカな親です。
また、以前桜の間での報告で話しに出てきていた、
ジャガイモと煮干入りの味噌汁は、うちの家でもよく出ていました。
この一文を見たときは、どうしてここまで一緒なのだろうか、と思いさえしました。
小学生のときは、とにかく早く食べ終われる味噌汁かけご飯が、
主な朝のメニューだったと記憶しています。
とにかくいえることは、母や祖母の作る料理は、
食べる相手に対する配慮が欠けていて、それはやはり、
子供に対する態度にも共通していました。
さらに日記を見返していると、
兄弟の間に明らかに扱いの差があることに 気が付きました。
母親のなかでは、自分と弟は言うことを聞かない厄介者、
妹は聞き分けがいい小さな母親のような扱いでした。
小学校の低学年からすでに学校には行きたがらなかったことも、
そこで初めて知りました。
当時の自分は弟をいじめ、弟は妹をいじめていました。
弟は少しでも自分の思い通りにならないことがあれば、
かんしゃくを起こして泣き喚いていました。
例えば、自分の食べたいものが家になく、買ってこれないというだけでも
泣き出して夕食を食べないことがよくありました。
弟のそんな様子にイライラしたのも、いじめる理由になっていました。
弟が妹をいじめていたのは、幼いころがほとんどで、
寄って来る妹を叩いたりおもちゃを取り上げたり、といった内容だったと思います。
長い間いじめてきたのは、自分にも弟と似たところがあったために、
余計に腹を立てていたのかもしれません。
よく調べなおすと、弟は自分と同様、広範性発達障害と診断されてました。
後で発達障害の子供の様子をネットで見る機会がありましたが、
予定通りにことが進まなかったときに泣き叫んで、
へそを曲げている様子は、子供のころの弟や自分を見ているような気分でした。
もし、これが遺伝するのであれば、
母親あるいは父親も発達障害なのかもしれません。
延々と自説を繰り返して人の話を全く聞き入れない、
子供である自分の気持ちを全く理解できないのが、父親でした。
発達障害の子供は変わった言動から、いじめの標的になりやすい、と聞きます。
詳しくは話しませんでしたが、
以前父親から、昔は、いじめられていたことがある、と聞きました。
父親の脅し文句として、思い出したものもありました。
父親の言うことに従わないと、
「そんなことを言うなら、アフリカへ一人で行って来い!」
と言われ、当時の自分は見知った場所から離れていくことが怖くて、
それ以上は言い返せませんでした。
アフリカのほかにも、親戚のいる***へやるぞ、と言っていたと思います。
小学生の自分は、家から離れて暮らすどころか、
一人でトイレに行ったり、暗い場所に行くのがとても怖くて、
ドアを開けて弟や妹に見張って貰うこともあった、
と日記にはそう書かれているほどの怖がりでした。
そんな状態で家から追い出すぞという脅しは、
自分が一人で生きていけないことに、そんな臆病な自分、
と言うイメージを植え付け、劣等感を抱くきっかけにもなりました。
この恐怖が元で、ますます家から離れなくなりました。
中学生のときも自分ひとりで市内から出ることはなく、
電車やバスに一人で乗れるようになったのは3年ほど前のことでした。
まともに一人で出歩けないのも、周りへの劣等感を抱き始めた理由のひとつでした。
そして自分には、徹底する、ということがどうしてもできない、と思っていました。
何より、ブログで見た、徹底する、その言葉に自分は気圧されていました。
なぜ、徹底するまでには至らないのか。
自分が今、親のお金で生かされている状況がその理由の一つではあります。
この家から脱出できれば、トラウマ掘りも進むのかもしれない、
と自分でもそう考えることがありますし、そうなるだろうと思います。
何より、心の中で嫌い続けている家族と一緒に居る家は落ち着かないし、
気分が悪いです。
しかし、今は家に居る状況が続いています。
休みの日は、ぼうっとしてテレビなんかをずっと見ていたり、
ネットで意味もなく面白いものはないか探して見たりなんかしています。
自活できない状況では、確かにトラウマ掘りは難しいのかもしれませんが、
かといって、それを理由にして、半端にしかトラウマ掘りを出来ない自分の現状に、
やりきれない気持ちがあります。
今の自分は、本当にこれ以上やれないのだろうか?
今までのままの自分を、どこか当たり前のように思っていた所は無かっただろうか?
今まで何となく言うことを避けていたことこそ、
こうして報告すべきではないか?
もともと歪んで欠けていた自分が、間違ったやり方でありながらも、
何とかして元にも戻ろうとあがいたように、
歪んでいるなら歪んでいるなりの理由が、その時の自分の中にあるはずです。
これまで話に出すのをためらっていましたが、
以前に自我復元を休止するように言われた人を見たときも、
自我復元という道の半ばで亡くなられてしまった人がいたことを知ったときも、
残念に思ったり、悼む気持ちよりも、
もし、自分もそうなってしまったら、と恐ろしい気持ちのほうが強く残っていました。
それからしばらくして、自分が軽度だとは言えアスペルガーだと分かった時は、
自分にはまともになる資格さえもないのか、と、
目の前が暗くなるような思いもしましたが、
本当のことは、恐らく誰にもわかりません。
およそ100人に一人いる、といわれているアスペルガー症候群(広範性発達障害)です。
むしろ、知ることができるのは、自分において他にないのかもしれません。
そして、自分から見た、上手くいっている人たち。
あの人たちのようにはなれない、と思っていました。
しかし、よく考えてみれば、自我復元をやりきろうと、
たとえ途中で挫折してあきらめてしまっても、
誰かに似た人にはなりたくても、なれません。
親には似るのかもしれませんが。
良くも悪くも、自分以外には戻れないのに、です。
その思いは、憧れというよりも、
全自我になれる、という確証が欲しかっただけだ、と思います。
どうなるかわからないという不安を消したい、
ただそんなことのために、何度もそんなことを考えて、
結局何のために考えていたのか、分からなくなっていました。
何のためにここまで悩んでいたのかも分からないまま、悩んでいました。
これまでのメールでも少しだけ触れたことですが、
崩残さんからメールの返信が来ないことを見て、自分は相手にもされないほど、
並外れておかしなところがあるのではないか、
という疑いを持つようになっていました。
そう言われ た訳でもないのに、いつのまにか、
その疑いが自分の中の真実になってしまっていたのです。
それは、崩残さんと話したい、ということですらなく、
ただ自分の不安な気持ちを払拭したいだけで、
何よりそんな自分に心当たりがあったから、疑ったともいえます。
今回の報告は、これで以上となります。
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