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[473]
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★分割自我復元★その473■原主体とトラウマ掘りの関係■
by:
鈴木崩残
2015/07/10(Fri)20:33:55
トラウマを掘っている主体は何か?
●自我復元において、トラウマ掘りが必須となる理由について
理解をしていない人もいます。
またトラウマ掘りをしている最中に、
「掘っているこの自分もAC人格ではないか」との疑問を持つ人は
多いものです。
それは当然です。
しかしそれでもトラウマを底が尽きるまで掘り続けるということは
それ自体がどれだけ重要な結果をもたらすか、
それを出来るだけ簡単に説明しておきます。
トラウマ掘りが促進するものは何か?
「自己同化」の溶解、これ以外にありません。
ある特定の自分の考え、それを考えるのが自分であると思い込んでいた
それが溶解することが、原主体への道です。
ただし一度や二度のトラウマ掘りでは終わりません。
徹底して現象から自分を分離すること
たとえば、
「なぜ、こんなことまでして、生きていなければならないのか、
その理由を知りたい」
という思考は、誰しもが当たり前に考えることです。
これを分解すると、
「なぜ」=理由のこと
「こんなことまでして」=多くの場合には、何らかの我慢をしたり、
あるいはしたくないことをしたり、
または、苦痛ではなくても、
理由のないことを繰り返していることへの疑問であったりします。
「こんなこと」とは個々の人間が自分の現実だと思っているものによって
異なります。
多くの場合、仕事であったり家庭環境であったりします。
また、中には身体的な不具合も大きな原因になります。
しかし仮に一生生活をするのに困らない状況にあったとしても、
「こんなこと」に該当することは、絶対に立ち現れます。
「生きていなければならないのか」=ここはあとで説明します。
「知りたい」=知る方法は何かということが問題です。
たとえば、あなたが、生きている理由を、たとえばですが、
「3です」と言われても、納得するでしょうか?
仮にそれが非の打ち所のない完璧な回答であったとしても、
「あなたが自分が理解できた」あるいは「納得できた」と
思い込まないかぎりは、
その答えそのものがどれだけ正しくとも、
あなたは「答えを得た」とは思えないわけです。
よって、この「知りたい」というのはかなりいいかげんなもので
正しくは、「納得したい」と置き換えられます。
あなたは真実を知ることよりも、「納得したいだけ」なのですから。
こうしたことも、トラウマ掘りをしてきた人は、
AC人格の挙動のひとつとして、今までに内省してきたはずで。
しかし知るということと、納得とは別問題です。
さて、残しておいた「生きていなければ」ですが、
誰も「生きていなければ」と強要はしていません。
社会や、あなたの親、あるいは誰か、または本が、
「しなければ」と言ったの皆さんが勝手に、命令として
あるいは強迫観念として受け入れてしまったというだけのことで、
「生きていなければならない」とあなたに命令できる者はただの一人もいません。
だから私は、ほぼ100%自殺容認派です。
死んではいけないと、あなたに言ういろいろな人達が
死んではいけない確実で論破不可能な理由を絶対に言えないのですから。
さて、残る最後の定義は、
「生きている」、これです。
そもそも、何をもってして生きているとか、死んでいると言えるのかです。
しかし、これには明確な原則があります。
●たとえばあなたが全く主体的な意識もなく、ゾンビのように、
それもたとえではなく、映画のゾンビのように、
生体反応だけで歩いていたら、あなたは、「動いて」はいますが、
自分が生きているとは自覚できません。
よくあるのはお酒に酔っ払っている人間も、
そこでは生きていません。
生きているかどうかの明確な線引きは、
意識が混濁していたり、知覚が飛んでいたりしていないかです。
つまり、意識的な意識がそこに存在しないかぎりは、
今、この一瞬ですら、あなたは、
何かの思考、何かの価値観、何かの感情、何かの五感の感覚、
といった、何かを「自分の意識がそれを知覚している」という明確な主体性もなく、
単に機械のように反応して毎日をやり過ごしてるにすぎません。
生きているというのは、
生きている結果、感じていることを、「見ているもの」がそこにいる、
ということです。
では、その「見ているものとは何か?」です。
関心地図は高度な瞑想である
●私が皆さんに、関心地図を書くように、またはするように
幾度となく示唆する理由は、
関心地図とは、「分析」ではないからです。
まさに今この一瞬、この瞬間に、
どんな思考も、考えも、イメージの断片も、
「それは自分ではない」
ということを徹底して自覚するための方法、
それが関心地図の中に、仕込まれています。
しかし、こういうことを言うと、皆さんの多くは、
そんなことは知っていると言い出す人もいます。
でしたらば、
「そんなことは自分は知っている」と今、考えた、
その思考ではなく、その思考を見ている位置に、
あなたは、この瞬間にいるでしょうか?
そうではないはずです。
「私は知っている」とか「私は分かった」とか、
その分かった、知っている、という思考と、
あなたはすぐさま自己同化してしまっているだけで、
わかった、知っていると思考しているその思考自体を
突き放して見る意識状態ではありません。
しかし、トラウマ掘りは、一体何によって進められるのかといえば、
現在、トラウマ掘りが不完全ながらも掘れた人というのは、
そのトラウマを見ることの出来た目というのは、
「考えて分析してあぶりだした」ものによってではなく、
「トラウマや記憶の断片を、生まれて、はじめて見た」
しかも、「自分そのものとは、別のものとして見た」
つまり、「突き放して見る」という、
この気の遠くなるようなトラウマ掘りの繰り返しを、
本当にトラウマを掘っているといえる人は行っているのです。
トラウマ掘りとは、そのトラウマに起因する「AC人格」に
自分が知らないうちに、振り回されている状況から脱することと
直接に関係するとともに、
それだけではなく、そうやって、
誤魔化さずに自分の過去を直視することを
何度も何度も繰り替えことで、
「これも、私自身ではない」という地点に、
本人も、それと知らずに移行するわけです。
それ故に、自我判定というのは、
本人ではない私でないと出来ない面があります。
本人がそれを分かったら、
本人は、「自分はわかった、変わった」あるいは「変わらない」
「という考え」と同化しているだけだからです。
関心地図の前に宣言しておくこと
●これは結果として自己暗示になってもかまいません。
しかし、真実は自己暗示しても、弊害はありません。
それは次のことです。
「私は、どんな考えでもない」
「どんなことを、私が考えていても、
私はその考えとは別のものであり、
その考えを、見ることの出来ているものだ」
「見ているこの意識が私であって、
私は何かの価値観ではない。
私は、それが自分のことであれば、
自分の全ての思考を、見ることが出来る」
「またそうやって自分のことを突き放して見ることの出来る自分は、
これが正しい意識だ、自分は、それにこれからしがみつくぞ、
これは大切な意識状態だ、
などと私が考えたら、
それも即座に、私はその考えではない私の目からそれを見る」
*********
こうして、断固として「見る側」にとどまり、
見たもの(対象)に、支配されないこと。
これが実は、関心地図が皆さんを運ぼうとしている地点です。
>>続く
問うのではなく問いも観る
自我復元の作業の中には、
睡眠前の呼びかけと、起床後の回収、脳に送る、
これ以外に、トラウマ掘り、AC人格との対峙というものがあります。
しかし「関心地図」の部分だけが、それらと少し趣きが違うということは
長く自我復元をやってきた人は分かるはずです。
関心地図というのは、過去からひきずった関心ではなく、
今この瞬間に、関心が向いた方向に対する「監視」をし続けるという
数分間です。
ですから直接的に自我復元と関係なく見える場合もあると思います。
しかし、トラウマやAC人格の解除とともに、関心地図の精度が
変わってきます。
また日常生活の中でAC人格に翻弄されそうなときに、
意図せずに、この関心地図をやっているときの状態が再現されるようになると、
思考よりも先に関心が向いたその瞬間の自分の挙動に気づくことが増えます。
そもそも、関心がある方向、あるものごと、妄想などに向かう、
その「初動」、最初の動きは、内容のある思考から始まるのではなく
まず、自分の意志に関係なく、または自分の意志で、
「関心を何かに引っ張られる」ということから始まるからです。
●良いとか悪いとか、出来るとか出来ないとか、
やりたいとか、やたくないとか、それらはすべてそのままにして、
ただし、少なくとも、監視、凝視だけは怠らない、
というのが今回の要点です。
自分の見ている世界で起きていることを観ているものは、何なのか?
を問うことが目的ではなく、
そう考えたならば、そう考えているその瞬間に、
その考えと、観ている自分とに距離をつくり、
「考え」=自分 とならないことを維持する努力を積むということです。
●重要なので繰り返しておきますが、
この「関心地図」は、
断固として、「観ている側」に踏み留まるのが目的であって、
観ている側に踏みとどまっている自分を確認して「よしこれでいい」
とすることではないということ。
そんな確認をして、自分を良しなどと考えた刹那、
すぐさま、それにも同化せず、切り離せということです。
*********
●しかしトラウマが掘れていない、
幼児期の感情が回復していない、
AC人格に全く無自覚、
という状態では、こうした関心地図による、意識的な監視も、
すべてが、空振りし、出来た「つもり」になるだけです。
だから私はこの技法については、
かなりトラウマが掘れた人を対象にして語っています。
●なんでも簡単で楽な方をやりたがったり、
「自分は出来ていると思いたがる」
自己評価の甘い人達は二度と見たくもないですし、
そういう人に関わるのは時間の無駄ですから。
くれぐれも、自分で自分を偉そうに、
他人よりもマシであるかのように思い込めるようなものばかりを、
かき集めることをやめてください。
本当に観る側に徹底できているならば、トラウマは掘れるはずですし、
AC人格も解除できるはずなのですから。
それが出来ないのは、自分に起きることに対して、
不注意で、鈍感で、麻痺しているからに他ならないのですから。
●見ていて、私が全自我判定をした自我復元者、
また、現在、本当によく、トラウマを掘っている、
AC人格と戦っていると思える人たちは、関心地図を通じてではなく、
むしろ、そのトラウマを突き放して対峙しようとしてきた
その莫大な努力の中で、私が今回言ったようなことを
「それと知らないうちに」、掴んできている人ばかりなのです。
●視点さえ移動すればいいんだなどと、瞑想ごっこをやった気になっていただけの人は、
普段の生活に戻れば、何も変わらぬAC人格と同化したままの言動を
今も、繰り返しているのですから。
それだけ、トラウマ掘りというのは、「思考との自己同化」を、
実際に、それが問題を引き起こしている現場で壊すのに重要だということです。
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