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[476]
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★分割自我復元★その476■ 判定時の報告例 ■
by:
鈴木崩残
2015/07/25(Sat)07:32:39
トラウマAC人格報告(判定用)
報告の引用の前に、少し、↓の記事を読んでみてください。
https://gunosy.com/articles/apKv8
自我復元は、皆さんが臨終を迎える前に、
こうした後悔をしないようにするのもひとつの指針です。
*********
●今回、紹介する報告は、大変によく掘れています。
具体的には、単に幼少期の記憶を思い出しただけではなく、
その当時の子供としての感情も掘り起こされている点です。
また、それがその後の人生に与えた影響についてもよく分析が進んでいます。
5回目の判定でした。
編集しましたが、長文の報告となります。
*********
崩残様、
5回目の判定依頼と報告になります。
◎ 少年時代の輝いていたと思われる部分。
トラウマを探る以前は私の少年時代は輝いていたと思っていた。
嫌なことは勿論あったと認識していたが、
楽しい出来事の思い出に飲み込まれ、カモフラージュされていた。
それでも楽しかったことは楽しかった事として思い出してみました。
幼稚園時代、小学1〜4年時代、小学5〜6年時代。
幼稚園期1〜5才の住まいは****。
小学生になる時には、****の閑静な住宅街へと移り住む。
幼稚園期は記憶が薄く、祖父、祖母に可愛がれながら育ったと
聞いていました。
祖父は孫の私を近所に自慢するように連れ回したようでした。
悪く言えば私は見せ物にされていた。
その時期、私はTVのアニメやヒーロー物に夢中で、
TV番組は結構見ることができたようです。
先日youtubeで当時の番組を調べたところ、7つくらいはしっかり覚えていて、
それらを見せてもらえないということはなかったようだ。
そんな子供番組のキャラを真似して家の中ではしゃいでいた。
時には祖父に怒られながら…。
***
この頃、祖父が度々私を新宿のうなぎ屋に連れて行き、うな重をご馳走してくれました。
これが本当に美味しかった。
まだ小僧だったのでうな重を青いプラスティックのスプーンで食べていました。
このスプーンで食べる味が格別でした。
箸を使えるようになった頃、同じ物を食べると味が違うと思った。
うなぎとスプーンで一つの味となっていたのです。
このうなぎ屋に連れていってもらえるのが楽しかった。
と言っても目当てはうなぎであって祖父と出かけることが好きだったか?
と問われると首を傾げてしまいます。
特によく話をしたり遊んだ記憶が薄いのです。
おじいちゃんっ子だったらしいが記憶が曖昧だ。
父親よりは祖父との会話のほうが多かったとは思う。
プロレスを見ている時はいつも一緒だった。
家族の中で祖父だけがタバコ、酒がいけた人だった。
いつもハイライトを吸っていた。
私はなぜかタバコの副流煙を吸うのが好きだった。
私は祖父にも父親にもどこか遠慮がちになってしまうところがあり、
会話が弾むという関係ができなかったと思っています。
だから、私は父親と会話したことがほとんど無いと言っても過言ではありません。
小学生になると新しい家が前とは随分変わり、勿論下宿人もいません。
これ以後変わったことはTVを見ることに対して窮屈さを感じたことです。
この頃からTVより勉強を強要されることになっていきます。
祖父がプロレスを一緒に見ている時はお咎めなし。
子供番組を一時間以上見ていると母のうるさい声が聞こえるようになりました。
ただ記憶が曖昧な所も多く、実際どんな番組をやっていたか、
小学生期のものもyoutubeで調べてみました。
意外にも色んな番組を覚えていて、いつこれらを見れたんだろうと首を傾げてしまいました。
夕食前後の一時間くらいは見ていられたようです。
それ以上見ていると母のイライラが居間に漂い始めます。
ずっと後になって気づいたことは、祖父が死んでから母は、
家事が済むとテレビをよく見ていたということです。
小学生期の楽しかったことはなぜか夏の思い出が多くなります。
楽しい思い出:
私は夏場の雰囲気がとても好きだった。
当時はクーラーなどなく、扇風機とうちわ、窓にはすだれがかかっている。
学校から帰って靴を脱ぎ捨て、
風が吹き抜けるキッチンで砂糖の入った冷たい麦茶をよく飲んだ。
甘い冷たい麦茶…
台所に母親がいる。
風が気持ちいい。
「靴をちゃんと揃えなさい!」と毎日のように言われた。
祖母も笑っている。
夏の当たり前の風景。
平和だった。
何の問題も見当たらないように思えた。
母親も文句を言いながらも麦茶を注ぐ。
家のすぐ近くには雑木林があり、大木が斜めに伸びていて、
そこに登り、木の上でのんびりする。
学校から帰ったあとや休日にその木と過ごす時間が好きだった。
ちょっとしたトムソーヤ的気分だった。
小さな雑木林だったが少年時代の思い出が詰まっていた。
母親にどやされることはあっても一人で遊んでいれば忘れることができた。
この夏の時間は輝いていた。
夏休みは私はよく母親の実家へ連れて行かれた。
家の周りは田んぼだらけの田舎だった。
田んぼには無数のカエルが鳴いていた。
あの田んぼの匂いが好きだった。
私はカエルを捕まえることに夢中になった。
なかなか素手では捕まえられないので、棒で突っついたり叩いたりした。
一日中やっても飽きなかった。
お盆の季節なので線香の香り、畳の匂い、カエルの鳴き声、お盆の提灯の明かりがあった。
家の中の薄暗い雰囲気は少し苦手だったが、ここへ来るのは好きだった。
おまけに親戚と一緒だと私は母に怒られることがあまりなかった。
小学2年か3年の頃、両親が博物館でやっている恐竜展に連れていってくれた。
恐竜とか怪獣とかが大好きだったから大喜びした。
大きい化石が展示されていてわくわくした。
でも、一人で遊んでいる時ような充実感がなかった。
親といるとどこか緊張しているような、笑っちゃいけないような…
そう、母親にはただでは喜ばせないぞ!的なところがあって
その恐竜展も夏休みの自由課題の宿題になったり、日記を書かされたりと条件付きになる。
連れてったんだから勉強しなさい、というように。
「笑っちゃいけない」…
そうだ、母親が僕を連れてデパートに買い物へ行くことがよくあった。
オモチャ売り場を通りがかると僕は期待が膨らみ笑顔になってしまう。
期待すると何も買ってくれないとこの頃は気付くようになった。
だから僕は期待心を隠そうと必死に笑いをこらえようとした。
「別に欲しい物はないよ」と装うことでオモチャを買ってもらえる可能性があったから。
買って貰えることはほとんどなかったけど…。
だから欲しい物がある時は笑っちゃいけない…
期待を顔に出しちゃダメだ。
僕は気持ちとは反対の表情を出す人格を身につけていった。
***
少年時代の楽しい思い出は親と一緒だった時よりも、
友人と遊ぶか一人での行動の時のほうが多い。
僕が自転車に乗れるようになったのは小学2年か3年の時。
周りの子たちはもっと早くから乗っていた。
やっと補助輪なしで乗れるようになった小さな自転車。
友達は少し大きめの自転車だったが、僕はその小さいサイズの自転車が気に入っていた。
恥ずかしいと思うことなく毎日乗り回していた。
あの頃は周りにどう見られるかなんてあまり気にしていなかったなぁ。
自分の気に入ったものが大好きだった。
自分の物が一番だった。
その自転車で公園や野原を走り回るのに夢中になった。
本当によくこの自転車を乗り回した。
「かっこ悪い自転車」と友達に言われた。
そんなこと全く気にしなかった。
ローラースケートもみんなの物より見劣りしてた。
ガラガラと音が大きくクッション感覚も悪いが愛着があった。
ランドセルもベルトでしめるタイプ。
友達は最新式のマグネットタイプが多かった。
不便だと思ったこともなく、自分だけの道具が好きだった。
この頃の僕には「かっこ悪い」なんて言葉は私の中になかった。
休み時間にやるボール遊びにも夢中になった。
授業でやるサッカーとかドッジボールは立ち尽くしてフリーズしてしまうのに、
遊びでやるボールゲームは楽しく割と上手かった。
5分10分の休み時間が充実していた。
近所の友達と遊び回って日が暮れる前には家に帰る。
それだけ遊んで疲れ果てて家に帰るとホッとした。
母親の説教はいつ始まるか分からないけれど、
まだこの頃はその説教に直面する瞬間までは
家というのはホッとできる空間だった。
そして母親の作るご飯は僕は大好きだった。
美味しいと思った。
だから学校の給食なんぞ食べたくなかった。
絶頂期は小学5,6年の時だった。
母親への反撃人格が生まれると同時にそれは他者にも向かった。
この頃の楽しみはケンカをすることだった。
ケンカで負けることがほとんどなくなった。
相手が仕掛けてきたケンカで返り討ちにする快感が楽しかった。
何をやっても楽しい時期だった。
家庭や学校でやられる側からやる側になったこの時期。
居心地が良かったため私の精神年齢は12才で止まっている。
◎ 小学、中学での不快な思い出
■「うるさいと嫌われた私の感情」:
私は楽しい時の感情だけは人目を気にせず表現できていた。
それは母親や学校の先生の目には落ち着きがないと映った。
小学校低学年の頃、先生の家庭訪問というが年に一回ほどあったが
好きでもない先生でも我が家に来るとなるとなんとなく嬉しくなっていた。
すると私は母親と先生の横でソファーの上で飛び跳ねたり騒いだりと
話の邪魔ばかりしていた。
落ち着いて座っていることができなかった。
注意されても止められなかった。
客の前でこういう行動をされるのを母親は嫌った。
こういう時、客が帰ったあとで母親の説教が始まる。
「どうして!、おまえは!、そんなことばかり!、するの?!!」
このセリフのひとつ、ひとつの 所で背中を平手で叩かれていた。
やっと叩かれていた記憶が蘇ってきたが、
私にとって叩かれていたことより、声をあげられることの方がイヤだった。
こういう場面は日常茶飯事だった。
ただ、昨今の社会風潮からこれを暴力と捉えることは嫌な面もある。
私は母親からの感染人格としてこれを身につけてしまってることに気付いた。
これについてはあとで書いてみます。
最近、記憶を探っていると何やら寂しさに襲われることが増えた。
小学4年くらいまでは学校での勉強、運動、テスト、発表会など
分からないことばかりで引っ込み思案が続いた。
遊ぶこと以外では本当は寂しかった。
勉強ができないから塾に押し付けられ、学校でも答えさせられないようにジッとしていた。
答えたいときもあったけど、間違えたら惨めだ。
文をまとめる力などないし、作文は下手くそ。
取り残されるのが怖くて分からなくても一応手を上げておく。
みんなが手を挙げているのに一人挙げていないと逆に目立つから。
運動会でも「ここに立っていて順番が来たら向こうに移動」
とか言われると頭の中が真っ白になった。
「何の順番?」 「向こうってどこ?」
「どうしよう…」「誰かそばにいてよ! 一緒にやってよ! 分からないよ!」
心でそう叫んでいた。
「分からない、分からない!」
だから、僕の名前を呼ばないで欲しい。
だって、間違えたら怒るでしょ?、先生。
小学3年の絵か工作の授業で切り絵みたいな作品を作った時、
画用紙を切りすぎて僕は失敗しちゃったでしょ?
「失敗したから画用紙もう一枚ください」って言ったら、先生はイライラした声で
「知りません、それを使ってやりなさい」って言ったよね。
1,2年の頃は嫌われてるって感じたことなかったけど、3年になったらなんとなく
嫌われてるってことが分かり始めてきた。
嫌いなのはわかったけど、他の子にはそんな風に言わないよね!?
学校のなかでは先生以外に誰にお願いすればいいの?
家に帰って「できなかった」って言えば、母ちゃんに怒られるんだよ!
だからそんな目で見ないでよ!
家でも学校でも怒られてばかりだよ!
家で作り直した時は失敗しないように簡単なものにしたよ。
だから家に帰ると毎日のように夢中で自転車を乗り回してた。
嫌われてるって分かると凄いよね、、、
ドンドン自信がなくなっていくんだよ。
ある日、学校の授業が終わって町で先生を見かけた時、
僕はバカだから「先生〜!」って手を振っちゃったことがあるよ。
嫌われてるって分かっているのに。
だから大人になった時、僕は自分が嫌いな人間をいっぱい作ったよ。
相手の自信をなくすために(私が嫌っていることを相手にわかるように)。
母親と先生を見習って。
おばさんの先生はやさしいからいいと思ったけど、
本当は意地悪なだけだね。
男の先生の方が優しかったよ。
お母ちゃんも先生も泥棒みたいだ。
僕から自信をいっぱい奪っていった。
信頼しなさい???
イヤだね!
誰も信用できない!
***
中学2年の時、1日の授業が始まる前、私は毎日のように友達と大声で騒いでいた。
担任の教師から毎日注意されていた。
ある日、担任がキレてしまい、
私は廊下で正座させられ、こっぴどく説教された。
そして1時間ほど立たされた。
担任の怒りは酷く、私は散々にののしられた。
あまりにも酷い言われようなので私も反発し、担任に対して不満をさらした。
それ以来、私は騒ぐことを制御してしまった。
私の楽しい、うれしいという感情は大人たちにはうるさかったのだ。
この感情を制御し始めた時期と私が異性から攻撃を受け始めた時期が同時期だった。
この日以来、私は楽しいという感情を出せなくなっていった。
■「僕は迷惑な子供」:
子供の頃、喘息がひどく、眠れないことがよくあった。
横になると咳がひどくなる。
背中をさすってもらうと楽になる。
苦しくて眠れない夜は母親が夜中まで背中をさすってくれた。
そんな日々のことを愚痴混じりで話すことがあった。
「お前の介抱で一晩中起きていた」
眠れないなんてかわいそうだなぁ、
喘息になると迷惑なんだなぁ、と僕は思った。
学校へ行くのに毎朝叩き起こされるのがイヤだったから、眠れないのは大変だろうな。
僕は迷惑な子供だ。
僕の喘息でお母ちゃんは眠れないんだ。
***
小5になると模型作りにのめり込むようになった。
部屋に籠り、一人で作業することが好きになった。
母親のイライラから自分を守ることができた。
父親がそうだった。
カメラ、日本画、日曜大工など趣味が多く、部屋に籠る。
父親は不満をあからさまに表現できるタイプではなく、イヤな場面になると
嘆きながら自室に逃げていく。
その姿をよく目にした。
この籠る人格は知らないうちに私に感染していた。
小学生の後半から私はこの籠城型の人格を父親から、
攻撃を仕掛ける野戦型の人格を母親から感染した。
双方が招いたものはタチの悪いコミュニケーション障害だった。
嫌いな人間は容赦なく嫌い、隙あらば攻撃を仕掛け、
ある時は良好な関係でも面倒臭くなると扉を閉めるようになっていく。
■「何で僕だけ?」:
小学生の頃、帰り道で雑誌を置いている薬屋さんでよく立ち読みをして帰った。
きれいな女性のヌード写真が目当てだった。
どういう訳か、お店から母親に苦情が入り、説教された。
「今度やったら、承知しないよ!」
ある日、僕は風邪をひいて学校を休んだ。
暇だったので廊下に置いてある父親の棚のカメラ専門雑誌を眺めていた。
するとそこに今まで見たことも無い、小学生にとっては息が止まるくらいの、
凄い写真をいっぱい見つけてしまった。
目の前にはその雑誌が100冊くらいあっただろうか。
僕は興奮して3日くらいかけて見まくった。
「なんだよ!父ちゃんはこんなのいっぱい持ってるのに
何で僕が帰り道で見ると怒るんだ?」
知らなかったよ! 家にこんな写真があるなんて!
何で僕だけ見ちゃいけないんだ?! ちきしょう! でもラッキーだ!
見つからないようにしなきゃ…。
父親がこの手の本を持っているのは正直言ってショックだった。
こういうものに興味ないと思っていたから。
***
小学生の時、僕は妹をよくいじめていた。
思い起こすと妹が母から怒られることはほとんどなかった。
だから余計にいじめたくなる。
ある日、学校で運動会か何かの行事があり、妹が誰かに意地悪されたらしい。
「お兄ちゃんに後ろからぶたれた」と母親に訴えた。
でも、僕はやっていなかった。
犯人は僕じゃなかった。
母と妹は僕が犯人だと確信している。
いつもいじめているから疑われてもおかしくない…。
でも、やっていないんだよ!
この日の母親の顔は特に恐ろしかった。
怒りに満ちた容赦のない目。
どんなに僕じゃないと言っても信じない。
ざまぁみろ、と言わんばかりの妹の顔。
「本当のことを言いな!」としつこく攻め立てる。
「やってない!!!!」
結局、信じてもらえず、僕は久しぶりに布団の中で泣きじゃくった。
やってないことを信じてもらえない怖さを知った。
悔しくてしばらく泣き続けた。
この時の泣きはそれまで味わったことの無い泣きだった。
やったことを怒られるのと、やっても無いことをお前がやったと
責められるのとでは重圧が全く違った。
何で僕だけ信じてもらえないんだ?
僕じゃないことを妹は知っていたはずだ。
だからあんな顔をしていたんだ。
僕は泣き疲れて眠ってしまった。
■「オオカミ少年人格」:
小学生の頃、僕は怒られるのがイヤで悪さをしてバレてしまうとよく嘘をついた。
なんとかその場を切り抜けようと誤魔化そうとした。
友達がちょっとした珍しい小物を持っていると欲しくなって、
コッソリ自分のカバンに隠した。
担任に見つかってみんなの前で問い詰められた。
「誰かが僕のカバンに入れた!」
バレバレの嘘。
校庭のちょっと変わったシーソーで友達と遊んでた時、僕はわざと手を放しちゃった。
そういう遊び方が流行ってたから。
でも友達は衝撃でおデコをぶつけてでかいコブができた。
僕は焦って先生に◯◯ちゃんが怪我しちゃった、僕の手がすべっちゃって…
怒られるのがイヤで嘘を言った。
◯◯ちゃんは2年くらいしたら病気で死んじゃった。
そんな柔だからあんなに強く頭ぶつけたら大怪我するよね。
なのに、僕は謝らなかったよね、、、
◯◯ちゃん、あの時は先生の前で嘘ついてゴメンね、、、痛かったよね。
お母ちゃんや先生に怒られるのがイヤでイヤでよく嘘をついた。
だから本当にやってなくても、もう信じてもらえないんだ。
嘘もダメで怒られたくもないとなったら、、、
***
ある日、宿題もせずに塾へ行くと先生がキレた。
「家に帰ってやって来い!」
殴ってくれればいいのに…。
こんな時間に帰れるもんか!
僕は落ち込みながら家と塾の道の途中で自転車を止め、荷台の上にノートを開いた。
なんとか問題を解こうとするけど、できない、時間がない、、どうしよう、、、
塾が終わる時間にこっそり家に帰ったのか、、、、覚えてない。
不安を忘れたい毎日だ。
***
小学生後半から中学生前半の時に二つほどお気に入りのTVドラマがあった。
不安な日々を忘れさせてくれるほど面白かった。
時折、母親も一緒に見ることがあった。
アルバイトをしては気楽に生きて行くような人物設定。
毎日が楽しそうに見えた。
その生き様を見ながら母親はよく言った。
「しょうがないね〜、もう」「だらしない」
こういう生き方が母親は嫌いらしい。
なら、こういう生き方を真似しよう。
服装も真似した。 ギターも弾き始めた。
ギターで思い出した。
ギターを弾くのは意外にも楽しかった。
まだ11才くらいなので流行りのフォークソングを歌っていた。
ギターはすぐに上手くなった。
コードを弾くくらいのギターは日増しに上達した。
この後、誤算が生じた。
母親にしょうがないね〜と言わせるつもりが一つの事に夢中になりだした。
中学生にもなると周りではロックが流行り始めた。
私も気持ちが流されエレキギターを買ってもらうが上手くならない。
以前は楽しかったギターも楽しんでた気持ちより、早く上手くならなきゃと焦り出す。
一人で楽しんでいたはずのギターが、
周囲から上手いと言われなければいけないに変わってしまった。
音楽自体は好きだったが楽しさは半減してしまった。
母親も音がうるさいと言い始めた。
ロックギターは弾くだけなら上手い連中がいっぱいいた。
私も上手いと言われたけど、自分では上手いと思えない。
周りより上手いと思わせるにはジャンルを変えたほうがいいと思った。
高校生になると私はジャズを聴き始めた。
馴染めない音の配列、メロディー。
毎日、無理してレコードを聴きまくった。
そのうち、耳が慣れてきて聞けるようになってきた。
こんな音楽好きじゃないなぁが、
やがて好きになっていき、のめり込むほど好きになった。
これが好きなんだと自分に言い聞かせ、優越感をも感じていた。
大金を稼げなくても演奏で生活できればと思うようになった。
1日に何時間も練習したのであるレベルまでは上達した。
親や周囲に、どーだ、これだけ弾けるんだぞ、と見せびからす為に。
でもそれ以上は上達しなかった。
どんなにのめり込んでいても周囲に認められるためにやっているもの、
本当に好きでないものなどはそれ以上伸びることはなかった。
私はこの見栄の為に20代の5年間ほどを潰してしまった。
周囲への優越感と親を黙らせるために自分の好みを捨てた。
自分のやりたい事を探さなかった。
その後、音楽を諦め、逃げるように別のことを始めた。
◎ 攻撃性を身につけた人格
私は子供の頃、シャイな性格で人前に出るのが恥ずかしかった。
欲しい物を得ようと泣き続け、我が儘だと言われ平手で尻や背中を叩かれた。
母親の理想通りの行動ができないと癇癪を起こされた。
それらが母親から攻撃された最初の記憶のようだ。
いつの間にか悔しさと共にこの母親が私に感染していた事に気付いた。
社会に出てから不満の種を他者の中に見つけることが多くなった。
そこにはあるパターンが横たわっている。
■「私が攻撃目標にしてしまう者達」
1: 表面的には仕事をやっているように見せかけ
人目がないとサボりまくる抜け目のないタイプ。
裏表があり過ぎ、気が許せない。
勘ぐりも多く、文句を言われると大抵ふてくされる。
一人が苦手なため仲間を集う。
彼らの使用武器:敵視
2: 自分がバカにされていると思い込み、仕事能力はかなり劣っているため
周りからも居なくていいと思われるタイプ。
面倒な仕事は他の人間がやってくれるのを待っている。
このタイプと仕事を組むと7:3くらいの割合でこちらに負担がかかる。
これに強いプライドが加わるとかなりキツイ。
彼らの使用武器:依存
3: 人間的に好かれないため、
自分より上に立つ者にはゴマをすって生き抜くタイプ。
上位の命令には一から十まで従うが下位と思われる者たちには横柄。
上位にはゴマをすり、従順だが人望がないので信用はされない。
彼らの使用武器:常識
4: 体が弱いからとか持病があるから無理ができないと訴えるくせに自己管理も出来ず、
仕事が出来ないと他人のせいにするタイプ。
他人に対抗できないので物に怒りをぶつける。
壁を叩いたり、物を投げたりする。
彼らの使用武器:欠勤
5: 仕事が全く出来ないが、プライドだけは人一倍あるタイプ。
窮地に立たされると泣き出す。
彼らの使用武器:号泣
これらのタイプが今まで、いや、今も私の攻撃性の蓋を開けてしまう。
1から5までタイプを相手にした時の私の心理状態:
○「1」のタイプは立ち回りが上手いので攻撃しにくい。
争いになって力で抑えてもこちらに不満が残るだけでイライラする。
このタイプの最大の武器は「ふてくされる」ことだ。
私が一番苦手なタイプである。
ちょっとした力にも暴力だとわめきだす。
かといって非暴力タイプではない。
ふてくされる態度をされると私は父親の影が見えてしまい、
それ以上何も言えなくなってしまう。
私としては殴りたいのに殴れないという煮え切らない状態に持ち込まれる。
○「2」のタイプはこちらが大人しくしていると調子に乗ってくるので、しばらく様子を見る。
こちらが低姿勢で注意をしても聞く耳を持たず、逆ギレしてくる。
この逆ギレに対しては私はかなりの攻撃力を出してしまう。
そこでやっと相手は自分の非を認める。
私も同情的になり相談を受けたり世話をしたりしまうが
私は「もう、いい加減にしろ!」となってしまう。
このタイプに頼りになると思われると遠慮なく依存してくるので辟易してしまう。
そして私は扉を閉ざす。
しかし、私の内心では、こういう人がいるから職場での、
自分の立ち位置を維持できている、と思うところがある。
要するに私にとっては必要悪なのだ。
○「3」のタイプは上から利用され、下から敬遠されどちらからも苦情が多い。
このタイプを殴って周りから賞賛される自分がいる。
この場合は私に味方が多い。
というのも苦情を口にする連中が自分たちでは言えないので、私をそそのかすパターンだ。
彼らに利用される訳だが、私も喜んで乗ってしまう。
私はこのタイプを潰す口実を常に探しているのだ。
○「4」のタイプはしばらく様子見をするが、物に八つ当たりされると私はイライラする。
物への八つ当たりが母親のヒステリー声と重なってしまう。
図に乗りすぎてると思った時は恫喝する。
するとしばらく職場を休むのでホッとできる。
○「5」のタイプは2と共通点が多くなり、扱いは同様で攻撃後は無視するパターンが多い。
この中でも2と5のタイプに私は攻撃力が強く出てしまう。
つい先日も注意をするのに背中を軽く叩いただけで暴力だイジメだと騒がれてしまった。
がたいのいい男の背中を叩いたくらいで暴力扱いする今の社会に、
うんざりする気持ちが生じる。
しかし、この時、
幼稚園、小学生時代に勉強が出来ない、言われた通りにしないと言われ、
背中を叩かれていた自分と叩いていた母親の姿が脳裏に蘇った。
私が叩いた奴は上記の5に該当する奴だが、
その時の私の姿は私の母親だった。
母親への抵抗として生まれた人格とそのまま感染し発症した人格は
これらの人々に対して異常なほど敵意を示す。
私は彼らの中に幼少期の自分を見ている。
・ 何度言っても分からない者。
・ 望みを得られるまで泣きわめく者。
・ 内気で人前で表現できない者。
・ 勉強が理解出来ない者。
↓ ↓ ↓
これらは母親の理想通りになれなかった自分だ。
これらの人たちへの攻撃でダメだった自分への復讐とした。
私の自信を奪った者たち、教師、母親を憎むと同時に母親の意に添えなかった、
「私自身」を憎んでいる。
母親に抵抗も出来ず、
理想通りになって見返すことも出来なかった自分への攻撃だ。
そして彼らへの攻撃によって、
母親に認めてもらえるという土に埋もれた目標があったのだ。
悔しいが、今でも母親に認めてもらいたいということだ。
「僕はお母ちゃんをもっと喜ばせたかったよ。
でも僕には出来なかったね。
あの頃は怒られてばかりでほんとに息苦しかったよ。
イヤなことでいっぱいだった。
それでも楽しいことは覚えてるよ。
だから言っておくよ。
僕のあの頃は輝いていた。」
これが5回目の報告と判定依頼になります。
復元回数は前回から***回です。
よろしくお願いします。
***************************
以上でした。
自我率は、やった分だけ上がっていましたが、
世代間連鎖しているAC人格の発生原因については、
これからが、詰めの作業となります。
■ただし一点、重要なことを補足しておきます。
>>・ 何度言っても分からない者。
>>・ 望みを得られるまで泣きわめく者。
>>・ 内気で人前で表現できない者。
>>・ 勉強が理解出来ない者。
>> ↓ ↓ ↓
>>これらは母親の理想通りになれなかった自分だ。
>>これらの人たちへの攻撃でダメだった自分への復讐とした。
ここは少し違います。
この人の母親は、子供であるこの人に、次のような人間になって欲しくないから
小言を言った、、、「のではなく」て、
まさに下記のような子供であり続けて欲しかったと解するべきです。
↓
>>・ 何度言っても分からない者。
>>・ 望みを得られるまで泣きわめく者。
>>・ 内気で人前で表現できない者。
>>・ 勉強が理解出来ない者。
子供がずっとこの状態であり続ければ、この人の母親は
自分のうっぷんの掃き溜めに子供を利用できるからです。
すなわち、前述のこの人の母親にとってのダメな4つの人格は、
毒母にとって「必要な攻撃対象」であったということです。
そこで必要になるのは、なぜこの母親は、こうした
自分の攻撃対象に依存しているかです。
多くの場合にこれこそが「代理復習」と呼ばれるものです。
親がその親に対して口に出さずに恨んでいたこと、
親に攻撃したかったが我慢したこと、
あるいは甘えたかったこと、
それを自分の親ではなく、自分の子供に向けるという行為です。
ですから、この人は、その親がやってはいけないと口では言い、
本音では、「そら、またやったな、馬鹿な子供。よしよしそれでこそ
私はストレス解消できる」と思っているほどに
この母親が腐り果てている現実に直面しないとなりません。
そしてその原因は、
その母親とその親との関係に必ず発見できるはずです。
その関係が反映されたもののほんの一面が、その母親とその夫との関係です。
___________________________
●Abyさんの日記も併せて、ごらんください。
↓
「私の人生を取り戻すために」
http://mmjhb11.exblog.jp/21973087/
______________________________
★
.
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