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[621]
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★雑 記★NO.621【 近 況 】●
by:
鈴木崩残
2016/08/10(Wed)07:37:55
近 況
●昨日8/9は、母親の命日でしたが、もう18年も経過したので、
あちらからは、特に挨拶もなしです。
たぶんですが、母親が見ていたら「そんなところに、まだいるのですか?」
とか言うような気がした。
ところで、入院ついでの禁煙から満5ヶ月が過ぎた。
いろいろと調べたデータから見ると、禁煙者の掲示板では、
5ヶ月目からは、禁煙鬱の報告が極端に減り始める傾向があったので、
おそらくは、5ヶ月目が小さな出口のひとつだろうと予測していました。
するとやはり、5ヶ月目にあたる先月の7月中は、
特段の有酸素運動をしていなくても、やや楽になりました。
4ヶ月目が一番キツくて、5ヶ月目から少しだけ変わってきたように実感した。
ただし、これは、
7月の中ごろからはじめた(禁煙から136日目からはじめて今日で19日目の)
「パイプ煙草の口腔内喫煙」によって、ニコチンを補充しているので
そのおかげで安定してきたとも推測できますので、何とも言えません。
(または、そういうのに関係なく5ヶ月ぐらいでひとつの区切りがあるのかもしれない)
●禁煙の世界では「一本お化け」と呼ばれるものがあり、
何ヶ月も、あるいは何年も、時には10年も禁煙をしていた人が、
何かのきっかけで、たった一本の煙草を吸ったら、元の喫煙者の戻ったというものです。
久しぶりの最初の一本は、あきらかに「ひどく不味い」ので
それで余計に吸わないことがそのまま継続する人もいますが、
一方では、最初の一本は不味くても、二本目はそうでもなく感じ、
そうこうするうちに、その日のうちに自分でコンビニで一箱買ってしまった、
という話を、禁煙系のブログでも、よく目にしました。
ただし、たった一本で、元の木阿弥に戻るのは「肺喫煙」の場合です。
一本でも、肺喫煙をしてしまったら、
「肺喫煙に特有の禁断症状のサイクル」がすぐに再発すると思います。
しかし、数ヶ月、完全に禁煙したあとで、
パイプ煙草を燻らせる「口腔喫煙」をした場合には、
吸いたくなる禁断症状は、少なくとも数日は起きません。
私は、パイプをはじめて、もうすぐ3週間になりますが、
朝、起きた直後にパイプを吹かしたいとは全く思いませんし、
食後に吹かしたいとも全く思いません。
紙巻煙草を肺喫煙をしていた以前であれば、吸いたくなったシチューエーションでも、
パイプは全く吹かしたくなりません。
では、いつ吹かしたくなるのかといいますと、「特にない」です。
夜になると吹かしたくなるということもありませんし、
暇な時間に燻らせたい、とも全く思いません。
●私がパイプを吹かすのは、すでに書いてあるように、
普通の人たちがそうしているような、「香りを楽しむため」ではなくて、
ニコチンの微量補充のためであるので、
私のニコチン脳が「ボケっとしすぎているかな」、と思った時です。
ただし肺喫煙をしていた時のような、
まるで喉が乾くかのような、あの気持ち悪い禁断症状はまったくありません。
なんなら、そのまま吹かさずに数日ということも問題ありませんが、
ただし、ニコチン切れでボケっとし始めるかもしれません。
(これはパイプの口腔喫煙をしている人でもそうかもしれない、と思います)
●ところで、紙巻煙草の肺喫煙を長年していた人が、
そこから、パイプの口腔内喫煙と紙巻の併用へと移行して、
そこから、上手く、紙巻煙草を止める、ということに成功する人はいるようです。
たとえば、この人、けっこうニコチンの多い煙草のヘビースモーカーだったようですが、
このように、パイプ喫煙に落ち着いたようです。
↓
http://gayacoffee.exblog.jp/18387840/
ただし、そのパイプ自体をも、本格的に止めようとすると、
ニコチンスイッチの不足による脳内物質(ドーパミンとセロトニン)の干上がりによって、
おそらくは一ヶ月後ぐらいから、あの忌々しい禁煙鬱もやってくるでしょう。
ただし、紙巻煙草を一日に20本吸うのに比べたら、パイプ煙草にした時点で、
その「口腔内喫煙によるニコチン摂取量」を、
紙巻煙草の「肺喫煙」による摂取量に換算すると、
一日に一本か、二本にまで「減煙」している計算になります。
ニコチン量として計算した場合に、ここまでの減煙ができていれば、
たぶん、ニコチン断ちの約3週間後から始まる禁煙鬱も、
すこし軽くなるのではないか?と「期待」ができます。(私はまだやっていなのでわかりません)
そもそも「紙巻煙草(の肺喫煙)を減煙する」というのは、非常に難しいことで、
多くの人がそれで失敗してきました。
稀にですがニコチンの新陳代謝が遅い人がいて、一日に3本まで減らした、
などの話もありますが、そういうのは例外です。
たいていは、本数を減らしたために、逆に「我慢をしたあとの一服が、
より美味しく感じてしまう」ために、かえって煙草を止めにくくなると言われています。
なので、紙巻煙草の肺喫煙の本数を減らすのは無駄なあがきなので、
むしろ、パイプ煙草の口腔喫煙によって、紙巻煙草の肺喫煙を徐々に止めるのが、
段階的な禁煙法として(完全な禁煙をする「前段階」として)いいのではないか、
と私個人は思いました。
摂取するニコチン量も、紙巻煙草の喫煙の約10分の1ですから、
普通の禁煙法のようには苦しむことはない「かも」しれません。
●馬鹿みたいな話なのですが、私は20歳から喫煙をしてきて、
一度も煙草を、美味しいと感じたことがないということを、先日思い出していました。
よく禁煙ブログには煙草が美味しい瞬間はどういう時か、といった話がありますが、
美大でも、社会に出てからの勤め先でも、自宅でも、旅行先でも、思い出してみると、
「あの時の煙草は、美味かった!」という思い出が私にはない、ということが分かりました。
一回ぐらいはあってもいいようなものですが、思い出そうとしても、それがないのです。
私のすべての喫煙は、吸えなくて我慢していたのを吸って、
禁断症状から開放されて「ほっとしただけ」であって、
何かの情景や行動とセットになって美味かった、という記憶にはなっていません。
仕事を始める前、あるいは終わったあとの一服も、ほっとするだけ、
または気合を入れる為だけのもので、「美味い」とは程遠い感覚でした。
はっきり言って、単なる「脳内物質放出のスイッチとしての燃料」です。
そこまで味気のない喫煙であったのに、それを約40年近くも続けてきたわけです。
東北の震災後に、無汚染、無添加のアメスピのぺリックに変えた、
初めのころの少しの間だけですが、煙草を美味いと感じることもありました。
無添加のせいですね。しかし、やはり所詮は「紙巻」煙草ですし、
何よりも、肺喫煙するかぎりは、煙草本来の旨味を味わえていませんでした。
●では、パイプ煙草に変えてからは(まだ19日ですが)味気あるものになったのか?
といわれれば、今のところ、ノーです。
最近になって、ようやく、パイプをあまり熱くせずに、
最後まで、低温燃焼をさせられるようになってきて、
煙草の葉の甘みを引き出せることも、だんだんと出来る事も増えました。
しかし紙巻煙草よりも、手順や、手入れや、燻らせ方が、やや面倒なわりに、
口腔喫煙でのニコチンの吸収率は5%と低いので、効率はとても悪いです。
しかし、30分とか1時間おきに吸わないと落ち着かなくなる、という、
私が大嫌いだった(肺喫煙に特有の)禁断症状とはオサラバできました。
パイプだと一日に一回か二回で足りたり、全く燻らせない日もあります。
■ところで、私見ですが、パイプによる「口腔喫煙」では、
肺に煙を決していれませんし、煙が漂うのは喉の入り口ぐらいまでなので、
スポーツをしている人でも、肺活量には影響しないと思います。
ジョギング、武道、その他の激しい運動でも、
肺喫煙さえしなければ、おそらくは、肺活量は落ちません。
私は肺喫煙をやめたあと、禁煙から136日目からパイプにして、
現在、今日で19日目ですが、気管あたりから痰が出ることは全くなくなりました。
パイプに変えてからも肺の汚染は止まっていて、むしろ少しずつ肺は回復すらしています。
アインシュタインは、パイプ煙草を肺喫煙していたという話がありますが、
ネットにあった一部の動画を見るかぎりは、口腔内喫煙のようでした。
死の実感が大きくなるケース
■人間というものは、これは本当に自分が死ぬかもしれない、
と実感することは一生の間でも、なかなかありません。
(その人の職種とか、その個人のその時の健康状態によりますが)
奇妙なことに、痛みや苦しみの大きな病気ほど、
その痛みと苦しみに意識の大半がかかわることになるので、
死の実感からは逆に遠ざかります。
私が、入院前は正常だったものが、退院後から、
重度の高血圧になったことは以前にも書きましたが、
高血圧がひどくなるときには、頭それ自体に異変を感じ、
感覚を感知している頭そのものが異変に巻き込まれるので、
死の実感は薄くなるか、ほとんどなくなります。
脳内出血の類は、いっぺんに出血するか、少しずつかにもよるでしょうが、
まず脳がやられるので、死の危険はどこかで感じるものの、
その後、すぐに気持ちが悪くなったり、頭がグラグラして、
死の実感が変に薄まるのだろうとか勝手に思っています。
つまり「死に方」としては、どちらかというと「楽な部類」に入ります。
死に方というより、死が迫ってくる実感の強さが低くなるという意味です。
●それに対して、たとえば「心臓」が何かの発作の症状を起こした場合には、
頭は、はっきりしていて、心臓あたりに異変を感じるので、
この場合には、死ぬかもしれないという実感が物凄く「身近」まで迫ってきます。
「さあ覚悟は、できているか、どうする? 拒否するか、それとも死ぬか?」
といった決断を迫られる感覚が明確なのが、
脳への影響が低い部位にある臓器に異常が起きた場合です。
昨日か一昨日だったか忘れましたが、
少しですが、「不整脈に似た状態」を胸に感じたのですが、
「お、とうとう、来るか?」というリアルな感覚が桁違いに強かったです。
高熱にうなされたり、痛みに悶絶するのとは異なって
自分に起きている異変の状況を「認識している頭」がはっきりしているためです。
多くの宗教教団や小サークルが
間違ってしまった事
●最近、思ったのですが、いわゆる「悟り系」の悟り人に対して、
人類は(それが秘教的サークルではないと)、多くの場合に、
その意識を持つ人たちの扱いを完全に間違えていたと私は思っています。
(この場合は、広義な意味での「霊的指導者」「神秘主義的教師」、
という意味ではなくて、「悟り系」に限定されます)
多くの場合には、人々は、悟り人に「質問」をしてしまいます。
そこから噂になったり、本になったり、うんたらかんたらが始まってしまいます。
しかし、悟りの意識を維持している人に対しては、
本当にその者の周囲にいたほうがいいのは、
悟りのことには全く関心もない人たちで、かつ創作的な人たちです。
つまり自我を強く活用している人たちが、インスパイアされるために、
ただ、その悟りの意識を持つ人のそばで、一日にせいぜい1時間程度過ごすだけにする。
あたかも、それは、ストーブに当たるようなもの。
●ただし、一切の質問は禁止であり、一切の日常会話もほとんど禁止。
ようは、そのサークルの中心に位置している意識者の純度を保つには、
その悟り人の「思考を動かすような質問」を一切してはならない。
たとえ、その者の「直感的な出まかせ」を誘発するようなものであっても、
それでも、中心に位置するその人の思考や記憶を、いささかでも動かすようなことを、
出来るだけ避けること。
つまりは、中心者には、純度の高い存在性という「置物」に徹底してもらい、
そのかわりに、その純度の意識者の周囲には、
>質問を絶対にしない者、
>創作的な者、
>悟りに全く関心のない者
これらを必ず配置する。
ただしこの場合には、その中心に位置する人の身体的な世話や
生活の基盤を、別の人間が保障しなければならないので、
下手をすると宗教のようになってしまいかねません。
(この「覚者の囲い込み」のような手法は、昔では、よくあった形式だと思います)
これが本来の、悟り人と、それ以外の芸術家のネットワークの形成のさせ方でした。
(本来といっても「限定的な背景の中での意味で」ですが)
●ところが、歴史を見るかぎり、そして近代でも、
この原則を守ったサークルはほとんどありません。
かならず、周辺にいる人間が、余計な質問をして、
余計なことを、その悟り人の人たちに答えさせてしまったのです。
中心は「在るだけ」の者、それ以外には無関心になっている者が占め、
周囲は、思考し、工夫し、動くだけの者が占める、
この構造で良かった・・・否、この構造でこそ、正しく機能したのに、
多くの小集団や教団は、悟りの意識に関心がある者が集まってしまい、
神秘体験のような経験を欲する(いわゆ求道者と称する雑音体)や、
そうした事に関する、余計な質問を、
次から次へと悟り人に対してする人たちを集めてしまったわけです。
それでは、悟りの意識の本来の性質が、上手く機能するはずがない。
そもそも、無による駆逐、または闇による殲滅という洗礼を受けた、
純度の高い意識の本質というのは、
全く何も分からなくなっているままで、存在しているだけ、
しかも、その存在意識すら対象化もされていない、
というところにこそ、その珍しい特性があるので、
その意識を、決して動かしてはいけないのです。
むろん、その意識にとどまりつつ語ることも出来るとは言っても、
それをやる(やらせてしまう)と、必ずその「質」が変質します。
少しでも語ったらば(語らせてしまったらば)、
その段階で意識性の純度は10分の1以下になる。
ただしこれは逆に、悟り人の方が、肉体を維持する必要性を感じた場合、
あるいはそれまでに分離していた何かと何かを融合しようとした場合、
この場合には、意図的に調整を図るということは起きます。
この投稿の最後に掲載した「動画の人物たち3人」は、
おそらくこの「調整」をしたタイプです。
もともとは、悟り人の意識を「光源」として、それを浴びて、
創作の為の刺激を受けるのはいいが、
思考による知的な質問や、変な期待をその者に向けてはならない、
というのが、(古い時代の方法かもしれないが)本来の方法だったと私個人は思っています。
ただし、近代になって出てきた、
クリシュナムルティー、Osho、雨宮第二、などになると、
過去の瞑想体系の作り直しのような作業をしています。
ところで、
悟り人に質問を向けてはならないし、
「現存する瞬間とのタイムラグ」をわざと生み出して、
思考を使わないと答えられないような質問を悟り人に対してしてはならない、
ということを、私は「はじめての無明庵」のCDの中で語ったような覚えがあります。
たぶん「何が問題なのか?」ではなくて「はじめての無明庵」のトークの
中だったような気がします。
↓
http://www.mumyouan.com/k/takenoma.html
■かなりの部分がアンプラグになっている現在の私の場合には、
それをやれと言われれば(というよりやる「必要」をもしも万一にも感じれば)、
その中心の位置の部品の意識を保持することは出来ますが、
(ああいうのは、今さら、したくありませんが)
本当のことを言えば、ほとんどの関係者が、その中心者のことを知らない、
その存在すらも知らないという、そういう「仕掛け」が必要なのです。
冗談みたいな「喩え」としてこれを説明をすると、
アーティストが集まる場所に、
創作のインスピレーションの源泉と称する塔か、
太い木のような物体か、モノリスか、
あるいは何かの「オブジェ」があるとします。
(ただし、それは表向きは、
「創作のアイディアをインスパイアをするもの」とだけ知られているべきです)
しかし、一部の者以外、誰も知らないが、
実はそのオブジェの内部には、悟り人が入って座っている。
(むろん、いけにえとしてではなく、生きたまま無事にです。
というか、別にオブジェの中に入れなくても、単に何かの建物の中を、
その人が、意味もなく、うろうろしていたり、座っているだけでもいいのですが、
ポイントは、利用者の側は、その人がそういう人だとは知らないことです。)
「関係者すらも、ほとんどそれを知らない」という構造の中でこそ、
悟りの意識を担う人間という回路は生かされるのです。
「はい、この人、悟っています、または、悟っていると自称しています、
あるいは、悟っていると周囲の人たちがいっています」
と、こんな形で好奇心と先入観を持った人たちが集まる所では、
悟り人の「一番効率の良い使い方」が出来るわけがないのです。
その者がその意識にあるという、その事を、
その者の周囲のごく一部の人間以外には、一切知られてはならないのだから。
そして、自我のない意識の、その周囲をとりかこむのは、
当然にして、強烈に自我を発達させてきた人たちのみである。
強烈なほどに自我を発達させた人たちが取り囲んでこそ、
その「場」は、バランスの取れたフィールドになるからです。
■しかし現実には、近代になって登場した下記のような事例の人たちは、
やはり、周囲に質問者を集めた形を選んだようです。
そして、だいたい、3者とも、方向性は似ている。
精神と物質という区別が色濃くて分裂病的だった過去の宗教体系、
あるいは人の思い込みを、作り変えようとしていた。
こうして、精神世界では、よく知られた、大御所たちを並べてみると、
なかなか、面白い時代、過渡期の時代だったことが分かります。
今も過渡期の真っ最中ですが。
雨宮氏のトーク録音以外は、短めの動画をチョイスしました。
昔と違って、今は、こういう動画も、
Youtubeから引っ張ってこられるので、便利ですね。
★クリシュナムルティー
(私は高校生の時に読みましたが、言葉としては理解できても、
ぶっちゃけ、当時は、ちんぷんかんぷんでした)
https://www.youtube.com/watch?v=RhUfc__4yIk
★Osho
元祖「今ここ教」である。
このように「話」としては、誰もが分かった気になるのですが、
あっという間に、混乱した思考の中に転落するのが常です。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=wCKva76JpGE
https://www.youtube.com/watch?v=06I8s5LZ0PE
★雨宮第二(長めですが、なかなかいい講話です)
前半
https://www.youtube.com/watch?v=i-MtDISZLO4
後半
https://www.youtube.com/watch?v=znhj9AY1a_s
「所感」
こうしてみると、悟り人というのは、
結局のところ、その悟り人の言葉を聞いたり読んだ人たちが、
それを心地よく感じたとしても、
心地悪く感じたとしても、
理解できたり、理解に苦しんだとしても、
その人たちの記憶の中に「傷をつけておく」、
というのがそのもっとも大きな効果であり、恩恵でもある、
と私個人は思いました。
うまいこと、ツボにハマった、
「良い傷のつけられ方」をしたらラッキーなのでしょう。
__________
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