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★雑記/NO.649 【 『助けたり、助けられたり、危害を加えられたり』 】
by:
鈴木崩残
2016/12/07(Wed)07:17:38
もしも地球が監獄だとしたら
「地球は太陽系での刑務所」と言ったのが、
アダムスキーだったか誰だったかは、忘れてしまいましたが、
もしも地球が牢獄だとしたら、面白いことが起きる、
または、もう既に起きていると思います。
もしもそうであれば、類は友を呼ぶ、という法則が
通用しないか、相当に、緩和されていることになります。
その結果、通常は接触しない種類やレベル差のある者が
ごったまぜに地球にいることになります。
仮に宇宙かほかの「界」で何かの犯罪をしたのが現在ここにいる人間だったとしても、
その犯罪の種類の違いによって、またはその他の理由で、
全く違う種類の人が複数ここに集ることになります。
実際の地球の刑務所でもそうでしょうから。
また仮に「ここは別に牢獄などという所ではない」と仮定しても、
どう見ても、通常ならば、決して接触しないかもしれない人々が、
互いに接触している。
(ここに固有の物質的な「枠(殻)」の、せいだと思いますが)
たとえば、最も分かりやすいたとえでは、
「普通は」、聖人とか、あるいは平たく言う意味での善良な人が、
邪悪だったり、よこしまな考えの者の犯罪の被害に遭う、
などということは絶対に無いわけで。
また逆に「普通は」レベルの高い状態の者が、極端に低い状態の者に、
援助の手を差し伸べることもないわけで。
この場合の、「普通は、そういうことはない」、というのは、
古典的な意味の「霊界」であったらばと「仮定」してみた場合である。
すると、そこでの支配的な法則では、隔てられた各階層には、
(ほとんど)「同類の者同士だけ」しか集っていないであろう。
「ほとんど」というのは、各界層の「境目」には、両方にまたがる性質を持つか、
またはその両方のどちらとも異なる性質の存在が配置されているだろうと、
推測されるからである。
そういう意味では、地球のような世界の場合には、
個々の性質とレベルによって、きっちりと、
厳密な住み分けがされている、
昔からよく言われるような霊的な世界とは、かなり異なっていて、
もしも、「いわゆる」霊的な世界に自分がいたならば、
絶対に遭遇しなかったタイプの他人にも、
地球でならば、接点を持てる状態になる、ということになります。
その結果として、私達は、
「なんで、自分はこんな奴に合わなけりゃならないんだ」とか
「なんで、あんな善良な人が、あんなひどい犯人の被害に遭ったんだろう」、
という、とても理不尽に見える現象に、遭遇することになる。
逆に、なんで、自分みたいな性格の悪い人間が、
こんな良い奴に出会えたんだろう、
という首をひねりたくなるようなことも起きるわけである。
それらは俗に言う「縁」とかでは説明のつかない「偶発的な遭遇」であることも多く、
「類は友を呼ぶ」という、いわゆる霊的な法則を、
いくぶんか(またはかなり)無視できる地球だからこそ、可能となったのだろう。
私もそういう経験があった。
たとえば、ある生で、私の性格は、傲慢、強情、頑固という3Gで、
その上、子供っぽくて、怒りっぽい性質だった。
それはどうしようもないほど「人間」としては未熟だったために、
怒りに支配されると、他者を見下したり、いじわるをしたり、
時には呪うことすらもあった。
もしも霊的な法則だけが支配する世界の中であれば、
こういう性質は、同じそうした性質の者の集団として存在するのみとなる。
ところが、私がある時代の、ある生で、
失意のどん底と、自己嫌悪と、出口のない絶望の真っ只中にいたときに、
通常の霊的世界の中であれば、到底、接触することが不可能な、
その当時の私とは「反対の性質」を持った存在と出会ったことがある。
それは、いわゆる、忍耐や勤勉さを持ち、
そして慈悲という性質を備えた者だったが、
ただし、それは高次に完成された形でのそれではなく、
まだ本人も、試行錯誤を繰り返していた段階のものではあった。
しかし、その者は、通常であれば、
見捨てられて、永久にそこに放置されても当然であったような私に、
「手」を差し伸べてくれた。
その時に、私はひとつのことを知った。
自業自得であれ、そうではない事情によってであれ、
ある精神状態から抜けられないで苦しんでいる存在に対して、
最低限出来る、最大限の救助法は、
「その者の手を握ること」であった、と。
抱き寄せてハグする必要はないし、特別な愛情を注ぐ必要もない。
ただ、その者が助けを求めて伸ばした、その手に触れて、
その者が、「そこに存在しても良いのだ」、ということを示すこと。
その者がどんなに、自分のことを存在する価値がないと思っていたり、
または客観的に見ても、あまり意味のない状態で存在していたとしても、
その手に触れて「存在していても良いですよ」ということを示すことは、
助けを求めたその相手に、ひとまずの安心感をもたらすものだった。
その者が助けを求めて差し出した手であれば、
ただ、その手を握るだけでも、
その者は、少なくとも、そこで崩壊だけはしないで済む。
このこともまた、地球のような世界でこそ、より可能となることであり、
普通は、隔てられたレベルの世界にいる者の手が、
お互いに触れることはないのだから。
他の普通の人たちであれば、この程度の救助者に出会うことが当たり前でも、
少なくとも、当時の私の精神程度ときたら、
霊的世界や夢の世界では、この手の存在に接触することは不可能だった。
普通の霊的な世界であれば、
自己否定のどん底と、自業自得による自己嫌悪を這いずり回っている、
当時の私のような者は、終わることのない苦しみの中に放置されるか、
または時には厳しく処分されることも多いものだ。
かつて私は、そのような形で、地球で、
当時の私にとっては分不相応の、他者の慈愛によって助けられたことがあった。
にも関わらず、今回の生では、そうした助力のありがたさを忘却し、
他者に対しての、想いやりと優しさが、あまりにも欠けすぎていたと思う。
そのことは、他人のトラウマ問題に関してのみならず、
私生活の対人関係でも、顕著になることが多々あった。
だから、私は過去の生だけではなく、今回の生でも、未だに、
傲慢で、強情で、何よりも子供っぽく、そして怒りっぽいところがある。
そうした未熟さの結果、他人を見下す醜いAC人格や、意地の悪さをも持ち、
恨み言を言うこともある。
怒ることそれ自体は全く悪くはないし、
感情を制圧する必要は全く無いと私は思う。
しかし、自分の怒りを静めるという自己満足を目的として、
他人を見下したり、恨んだりしても、
問題が何も解決しないことが圧倒的に多い。
しかし、身勝手で子供っぽい怒りから意地悪な態度へと転じてしまう
救いがたい悪癖は、今回の生の私の中にもあった。
だから、毒親問題全体については指摘までは出来ても、
個々の人たちの抱えたトラウマの問題には、
私は関わる資格すらもなかったのです。
過去に、ただ、自分の手が相手の手に握られてる、という、
そういう形で助けられ、また他の方法でも、何度も助けられたのに、
自分は、そこからちっとも学んでいない駄目人間だなと、つくづく思った。
何かを悔いたり、後悔して、「助け」を求めている他者に対して、
それが、たとえどんな相手であっても、相手や何かに対して、
「いなくなってしまえ」とか、
「駄目な奴だ」とか「自業自得だ」などとは、決して言ってはならず、
自分が何も、相手の助けになることが出来ない場合には、
そっと、手を取って、
「死んだり、いなくなる必要はありませんよ、
どうか、そこにいてください。
いるだけで良いのですから、何もする必要はありません」、
と言うのが最も慈愛に近いものだった。
何よりも、私を救助しようとしたその存在が言った、
「何もする必要はありません」という言葉は、私の意識の深くまで響いた。
何もする必要はありませんよ、というのは甘やかしにも聞こえるかもしれない。
しかし、自ら、失意と絶望のどん底で、
力尽きようとして、呻いている人間に対しては、
この「何もする必要はありません」という言葉は、深部にまで響く。
傷口が開いて失血している者、あるいは手当てをしたばかりの人に、
「動かないように」というのは当然のことだった。
ところがいわゆる霊界なるところの「神霊」とかはこういうのだった。
「そこから出たければ、**しなさい。悔いなさい、祈りなさい」と。
いわゆる古典的な霊界の様相は、厳しいだけで優しさがない。
愛を神の属性として当然のこととするわりには、
その次元世界の法則を絶対として、厳守させようとする。
そのことに対しては、あちら側にも、
いろいろな理由や、説明や、言い分はあるだろうが、
私には、「**をするまでは、そのまま、幽閉されていなさい」、
「**しなさい、さもなくば***となる」という、
キリスト教系でよく登場する、威圧的な態度の文言よりも、
何かの行動を起こす必要性の示唆は、後回しにして、
ひとまずは、「何もしなくていいから、存在していていいのですよ」
と言ってくれた、人間的な存在の方が、ずっと安心できた。
(「命の電話的」ともいうべき配慮である)
とにかく、そういうものが、この人間の世界では必要だった。
ここは法則が絶対の霊界ではないのだから。
しかし私には、他者に対して、
人間として必要なそういう「心」すら欠けていたことが多くあった。
そんなわけで、
死後の世界では、普通は自分が遭遇できないタイプの(上下のレべルの世界の)相手と、
ここでならば遭遇できることがある、ということは、
面白いこと(ありがたいこと)なのだと思います。
ただし、むろん逆もあって、
なんで自分は、あんな酷い人間の悪意に絡まれるのだろう、
という事も私達の人生に多々あって、
これは地球上で、民族間で、まだお互いに理解のなかった時代でも起きてしまい、
そのために、物質的ではない霊的な世界であれば、決して接触することもなかった、
レベルや性質がかなり違う民族が、地球では、接触してしまい、
一方が相手を虐殺したり、支配したりする惨劇が起きたのだろうと思う。
もしも、そのことを、
「同じ監獄に入れられたから、しかたないのではないか」
という人がいても、私には、この地球上の人たちが等しく同類である
とは思えません。
明らかに違うレベル、違う種類の人たちが、ここには混在しているように感じます。
たぶん、個々が、他人の思念に影響されずに、自由に思考を出来るようにするために、
精神感応力が極度に制限されるというルールのせいで気づかないだけで、
すぐ隣にいる人が、霊的な世界の中であったらば、見ることすら不可能なほど、
いろいろな意味で違っている、ということがここでは起きているようだ。
仮に、何らかの理由で、同じ地球という監獄に収容されたのだとしても、
それぞれの人たちは、いろいろな世界から来たのだろうから、
この世界の実際の監獄でもそうであるように、
普通ならば、自分が見ることも、付き合うこともないような、
多種の職種の人や、多種の前科持ちや、多種の性格の人たちがいて、
面白い人も、危ない人も、寛大な人も、冷酷な人も、
成熟した人も、未熟な人も、混在している、
ここは、そういう星なのだろうと思います。
それゆえに、理解できないような矛盾に苦しめられ、
受け入れがたい苦痛を感じることも、本当に多々あるわけですが、
それゆえに、遭遇できた(本来無縁の)他者もいるのかもしれません。
しかし、私にはそんな事を、達観して語れる余裕など、今は全くなく、
とにかく、ここ最近、
自分のあまりの未熟さを、痛切に感じることが多いです。
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