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●さぶいときは、さぶい。
by:
●〓方山〓●
2000/11/25(Sat)01:40
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>もう少し言うなら、実は存在には本質的に、
>逃げ回る性質があると言っても良い。
●これは宇宙や存在を理解する上で、最も重要なことのひとつである。
我々や生物はすべて、何かから逃げている。
では、我々は何から逃げているのか?
我々は苦から逃げようとする。
では、苦から逃げるのはなぜか?
それは空腹という基本的な苦をはじめとして、
もともと生物は「餓えて苦しむ」ように設計されているからだ。
では、苦から逃げるとしたら、その「反対側」とはどこだろう?
それは一般には「楽」・・・いや厳密には、「苦の不在」と呼ばれる。
ところが、「苦の不在」という極に行き付くかと思うと、
その手前でまるでゴムにひっぱられるように
人や生き物は、逆にまた苦に引き戻される。
では、そのまま苦の極に行くかというと、
苦の極の手前でも、またゴムにひっぱられて、
苦の不在の「方向」へと行ってしまう。
すなわち我々の本性、我々がどう設計されたかといえば、
二つの極の間をうろうろと往復するように作られたということだ。
では、なぜ我々は、極にまでは、いけないままで、
その中間を揺れているのか?
それは、その二つの間をゆれることで、
まるで発電のようなエネルギーが生まれるからだ。
そのエネルギーというものは、むろん人間のためにあるわけではなく、
宇宙の燃料として加工され精製される。
では、その極の往復から何が生まれるのか?
それは、「動き」である。
しかし、その動きには善も悪もない。
極論すれば、この世には善も悪もない。
どっちにせよ、人が苦楽のふたつの狭間を往復している限りは、
絶対的に「何をしても正しい」のである。
少なくとも人間や生物を家畜として利用する宇宙にとっては。
あくせくと往復して発電している生物や人間が
自分をどう感じたり、世界に不平を言うかということなどは、
それを利用する側には全く関心もないことである。
ちょうど、我々が実験のための微生物の人権など考えないのと同じである。
もしもそこに、仮にだが、宇宙にとっての「悪」があるとするならば、
それは、その「極に往きついてしまう」ことである。
苦の極というものにせよ、苦の不在の極というものにせよ、
それは、その中間を揺れるゴムを断ち切ってしまうほどに
極まで振れたときに到達する。
すなわち、機械人間としての限界を超えた巨大な苦を体験するか、
さもなくば巨大な苦の不在を体験するか、
そうなれば、それは宇宙にとっての悪、またはエラー、故障として
認識される。
なぜならば、極に行ってしまってゴムが切れたら、
その生物、または人間は、揺れるということがなくなるからだ。
彼は、苦と苦の不在の間を往復する生き物と宇宙という世界から自由になる。
●話はやや変り、生死について。
人というのは、単純極まりないもので、
苦しくなると、死にたいと言い出し、
楽しくなると、生きたいと言い出す。
人は、常に、極端に単純化すれば、二つの意志しかない。
それは、ひとつは、生きたい、もうひとつは死にたい。
いろいろな個人的あるいは個別の願望というものは、
実は、この生への欲望という発信機か
または、死への渇望という発信機にスイッチをいれるための
起爆剤、または小さなボタンにすぎない。
ちょっと見ると、
人の中には、それぞれに、いろんな個別の希望や意志があるように見えるだろうが、
実は、どんな欲望も、意志も、最終的には、
「死にたいボタン」か「生きたいボタン」を押すための口実にすぎない。
そしてこの二つのボタン、ふたつの発信機は、
常に入れ替わっている、すなわち交流のものだ。
人の本当の苦の本質とは、
「生きたい」と「死にたい」の二つの間で生まれている。
これには例外はない。
どんなポジティブな人間であろうが、
ネガティブな人間であろうが、
苦しむことの本質にあるのは、
「生」と「死」のその全く相反する二つの願望の間を揺れている
ということにある。
実は、どんな自殺願望者でも、
完全に死だけを望んでいる人間もいなければ、
また、どんなに生きている人間でも、
完全に生だけを望んでいる者もいない。
言いかえれば、生きたいと思っても、
完璧なまでの生の充実は味わえず、
かといって、死にたいと思っても、
完璧な死も我々には与えられない。
これは前述した、苦と苦の不在の極に、酷似または対応している。
どのみち、我々の苦というものは、
常に相反する二つの間を揺れることから生ずるからだ。
だとしたら、それを超える方法とは、
苦と苦の不在のどちらにせよ、生死のどちらにせよ、
その極にまで行くことで、そこを揺れては往復する原因である
ゴムを断ち切ることである。
●では、どうやったら、我々は呪縛のゴムを断ちきれるか?
有効だと思える方法が一つある。
それはもしも何か苦しい事があったら、
このようにすればいい。
「苦しんで結構、
いや、もう一歩すすんで、もっと苦しませてもらおう」と。
●苦の極から逃げる、これが故に中途半端に引き戻されるのであるから、
苦の極限に対して、逃げずに、
自分を滅ぼすように、自分を発狂させるように、
自分に永久の拷問を容認されるように、
そのようにして、苦に対して、もっと苦しめてくれというのである。
ただし、これは肉体的苦痛ではなく、
精神的苦痛に限ってのことである。
肉体的苦痛をいくら容認しても、本質的には何も起きないだろう。
●余談だが、
「巨人の星」という有名なアニメの中で、
主人公が「大リーグボール1号」のヒントをつかむのが、
禅寺でのこんなやりとりである。
・・・「そこの若いの。よく打たれるのう」
住職は主人公にこう言った。
主人公の星は、禅寺で座禅をしていたのだ。
しかし、打たれまいするほどに、姿勢が崩れて僧侶に警策で肩を打たれてしまう。
すると住職は言う
「打たれまい、打たれまいとするから余計に打たれる。
そうではなく、打たれて結構、
いや、もう一歩進んで打ってもらおう」という気持ちで座ってみなさい。
すると主人公の星は、その開き直りによって、
座禅が自然に整い、肩を打たれなくなった。
のちに、これがきっかけで、
主人公は、大リーグボールを編み出した。
皆さんもよく御存知のように、
大リーグボールとは、相手の構えたバットにボールを当てて、
内野ゴロやフライにして、アウトを取るというものである。
打たれまいとして、変化球や速球を投げるのではなく、
まるで打ってくださいと言わんばかりに、
自分のボールを強制的に相手のバットに当てる。
この禅的な逆発想が、アニメとはいえ、あの名作の魔球を生んだのである。
●あまりにもボールが遅すぎて不安定なために、
バットの風圧でボールがバットを避けてしまう魔球「大リーグボール3号」も、
どこかまた、発想が禅的だといえるだろう。
それが生まれたのが、竹林での真夜中の特訓であるというのも、
どこか、禅的である。
●ということで、
苦しいことを逃げるのは、凡夫の発想である。
苦しさから逃げるために人は死ぬ。
苦しさから逃げるために人は生きる。
どちらも、苦しさから逃げることにおいては、同じなのである。
だとしたら、ひとつの抜け道は、
苦しさから逃げずに、もっと苦しみを!、と叫ぶしかない。
ダイジはどこかで言っていた。
人はなぜ、苦しみの原因や理由ばかりを追及して解決しようするのか?
どうして、「苦そのもの」を見きわめようとしないのか?と。
つまり、苦しみから逃げるかぎりは、
我々は、楽しみを求めようが、生を求めようが、
あるいは、自殺を求めようが、永久に苦しみ続けるということである。
「苦しんでけっこう。いや、もう一歩進んで、
さー、もっと苦しめてください」
ここにひとつの重大なヒントがあるのかもしれない。
●「生きるに生きられず、死ぬにも死ねない」という苦しみにあえぐ者は
この世界にたくさんいる。
そのような時には思い出すといいだろう。
なぜ自分は死のうとするのか?
なぜ自分は生きようとするのか?
どちらにしても、
それは、「苦しみから逃げたい」からだろう。
しかし苦から逃げるかぎりは、我々は設計された通りの機械として、
苦楽を往復する「家畜」となる。
ならば、苦でもいいから、
限界を超えた苦しみ、自己がぶっ壊れて、狂うほどの苦痛に対して、
逃げるどころか、「もっと」と言うしかない。
その結果として永久に壊れて狂うかもしれないが、
もうひとつの可能性として、そこには、
「無欲にて一切足る」すなわち、
生も死も望まず、苦も楽も望まない、
生死という幻想に、もう2度と惑わされない
「何か」があるのかもしれない。
●なぜならば、
苦から逃げない者は、
もう何も警戒も、
恐怖も、
緊張もしないからである。
そうなれば、それこそ、
「苦の不在」の実現そのものとなるからだ。
すなちわ、
本当の苦の本質とは、
「苦から逃げようとする緊張そのもの」なのである。
●
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